{"後梁":"｜後梁《こうりょう》","後唐":"｜後唐《こうとう》","後晋":"｜後晋《こうしん》","後漢":"｜後漢《ごかん》","後周":"｜後周《こうしゅう》","契丹（遼）":"｜契丹《きったん》（遼）","北漢":"｜北漢《ほくかん》","南唐":"｜南唐《なんとう》","武平軍":"｜武平《ぶへい》軍","荊南":"｜荊南《けいなん》","南漢":"｜南漢《なんかん》","前蜀":"｜前蜀《ぜんしょく》","後蜀":"｜後蜀《こうしょく》","潭州（長沙）":"｜潭州《たんしゅう》（｜長沙《ちょうさ》）","潭州":"｜潭州《たんしゅう》","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","楚の州。唐末に馬殷が取っており、907年に馬殷は後梁から楚王に封じられた":"楚の州。唐末に馬殷が取っており、907年に馬殷は｜後梁《こうりょう》から｜楚王《そおう》に封じられた","馬希崇が降り、南唐の辺鎬が潭州に入る":"馬｜希崇《きすう》が降り、｜南唐《なんとう》の辺｜鎬《こう》が｜潭州《たんしゅう》に入る","広順元年十月甲辰":"｜広順《こうじゅん》元年十月｜甲辰《こうしん》","南唐は辺鎬を武安節度使とした":"｜南唐《なんとう》は辺｜鎬《こう》を｜武安《ぶあん》｜節度使《せつどし》とした","劉言・王逵が辺鎬を潭州から追い、南唐の守将が湖南の諸州から逃げる":"劉言・王逵が辺｜鎬《こう》を｜潭州《たんしゅう》から追い、｜南唐《なんとう》の守将が｜湖南《こなん》の諸州から逃げる","広順二年十月":"｜広順《こうじゅん》二年十月","王逵が潭州に入る。劉言は治所を朗州へ移し、潭州は王逵（武安節度使）が持った。劉言は郴州・連州を除く馬氏の嶺北の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ。張文表の乱（962年冬十月以後、衡州から潭州に入って留後を称し、963年正月ごろ楊師璠が潭州を取り返して文表を捕らえた）は年をまたいだが数か月で終わった武平軍内の叛乱なので、武平軍の城のままとする":"王逵が｜潭州《たんしゅう》に入る。劉言は治所を朗州へ移し、｜潭州《たんしゅう》は王逵（｜武安《ぶあん》｜節度使《せつどし》）が持った。劉言は｜郴州《ちんしゅう》・連州を除く｜馬氏《ばし》の｜嶺北《れいほく》の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ。張文表の乱（962年冬十月以後、｜衡州《こうしゅう》から｜潭州《たんしゅう》に入って留後を称し、963年正月ごろ楊師璠が｜潭州《たんしゅう》を取り返して文表を捕らえた）は年をまたいだが数か月で終わった｜武平《ぶへい》軍内の｜叛乱《はんらん》なので、｜武平《ぶへい》軍の城のままとする","張文表が潭州を奪う":"張文表が｜潭州《たんしゅう》を奪う","周行逢の死後、衡州刺史張文表が叛いて潭州に入り、留後廖簡を殺して権留後を称した。宋軍に敗れるのは963年。宋・遼・金・西夏の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け":"周行逢の死後、｜衡州《こうしゅう》｜刺史《しし》張文表が叛いて｜潭州《たんしゅう》に入り、留後廖簡を殺して権留後を称した。｜宋《そう》軍に敗れるのは963年。宋・遼・金・｜西夏《せいか》の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け","宋軍が朗州に入り、湖南が平定される":"｜宋《そう》軍が朗州に入り、｜湖南《こなん》が平定される","乾徳元年三月":"｜乾徳《けんとく》元年三月","衡州":"｜衡州《こうしゅう》","楚が南唐に降り、辺鎬が潭州に入る":"楚が｜南唐《なんとう》に降り、辺｜鎬《こう》が｜潭州《たんしゅう》に入る","広順元年十月":"｜広順《こうじゅん》元年十月","楚の滅亡で湖南の州は南唐の守将の手に入った（翌年「唐将守湖南諸州者」が逃げ去った記事がある）":"楚の滅亡で｜湖南《こなん》の州は｜南唐《なんとう》の守将の手に入った（翌年「唐将守｜湖南《こなん》諸州者」が逃げ去った記事がある）","劉言は郴州・連州を除く馬氏の嶺北の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ。張文表の乱（962年冬十月以後、衡州から潭州に入って留後を称し、963年正月ごろ楊師璠が潭州を取り返して文表を捕らえた）は年をまたいだが数か月で終わった武平軍内の叛乱なので、武平軍の城のままとする":"劉言は｜郴州《ちんしゅう》・連州を除く｜馬氏《ばし》の｜嶺北《れいほく》の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ。張文表の乱（962年冬十月以後、｜衡州《こうしゅう》から｜潭州《たんしゅう》に入って留後を称し、963年正月ごろ楊師璠が｜潭州《たんしゅう》を取り返して文表を捕らえた）は年をまたいだが数か月で終わった｜武平《ぶへい》軍内の｜叛乱《はんらん》なので、｜武平《ぶへい》軍の城のままとする","衡州刺史張文表が叛く":"｜衡州《こうしゅう》｜刺史《しし》張文表が叛く","衡州刺史張文表が周保権に叛いた（潭州と同じ）。宋・遼・金・西夏の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け":"｜衡州《こうしゅう》｜刺史《しし》張文表が周保権に叛いた（｜潭州《たんしゅう》と同じ）。宋・遼・金・｜西夏《せいか》の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け","劉言は郴州・連州を除く馬氏の嶺北の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ":"劉言は｜郴州《ちんしゅう》・連州を除く｜馬氏《ばし》の｜嶺北《れいほく》の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ","楚が南唐に降り、南唐は廖偃を道州刺史とする":"楚が｜南唐《なんとう》に降り、｜南唐《なんとう》は廖偃を道州｜刺史《しし》とする","広順元年":"｜広順《こうじゅん》元年","郴州":"｜郴州《ちんしゅう》","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","楚の郴州。唐末に馬殷の将李瓊が陳彦謙を斬って取った":"楚の｜郴州《ちんしゅう》。唐末に馬殷の将李瓊が陳彦謙を斬って取った","南漢の潘崇徹が義章で南唐の援軍を破り郴州を取る":"｜南漢《なんかん》の潘崇徹が義章で｜南唐《なんとう》の援軍を破り｜郴州《ちんしゅう》を取る","広順元年十二月":"｜広順《こうじゅん》元年十二月","潘美らが郴州を攻め取り、刺史陸光図を殺す":"潘美らが｜郴州《ちんしゅう》を攻め取り、｜刺史《しし》陸｜光図《こうと》を殺す","乾徳二年九月":"｜乾徳《けんとく》二年九月","辰州の宋鄴が衆を率いて楚に降り、そのまま辰州刺史とされる":"辰州の宋鄴が衆を率いて楚に降り、そのまま辰州｜刺史《しし》とされる","乾化二年二月":"｜乾化《けんか》二年二月","辰州刺史劉言が朗州に迎えられ、武平留後となる":"辰州｜刺史《しし》劉言が朗州に迎えられ、｜武平《ぶへい》留後となる","朗州の劉言の一党は南唐に降らず、南唐の旌節も得られなかった（翌年に南唐が朗州を図る）。辰州は劉言の側に残ったとみる":"朗州の劉言の一党は｜南唐《なんとう》に降らず、｜南唐《なんとう》の旌節も得られなかった（翌年に｜南唐《なんとう》が朗州を図る）。辰州は劉言の側に残ったとみる","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","楚の桂州（静江軍）。唐末に馬殷の将李瓊が劉士政を捕らえて取った":"楚の桂州（｜静江《せいこう》軍）。唐末に馬殷の将李瓊が劉士政を捕らえて取った","南漢の呉懐恩が桂州に迫り、馬希隠・許可瓊が全州へ逃げて桂州が潰える":"｜南漢《なんかん》の呉｜懐恩《かいおん》が桂州に迫り、馬希隠・許可瓊が全州へ逃げて桂州が潰える","広順元年十一月丙寅":"｜広順《こうじゅん》元年十一月｜丙寅《へいいん》","南漢の桂州刺史李承進が逃げ、宋の潘美が桂州を取る":"｜南漢《なんかん》の桂州｜刺史《しし》李承進が逃げ、宋の潘美が桂州を取る","開宝三年（十月末〜十一月）":"｜開宝《かいほう》三年（十月末〜十一月）","清海軍（劉隠）の州とみる。翌年、楚の呂師周が劉隠と戦って取った":"清海軍（｜劉隠《りゅういん》）の州とみる。翌年、楚の呂師周が｜劉隠《りゅういん》と戦って取った","楚の呂師周が嶺南を攻め、劉隠から昭・賀など6州を取る":"楚の呂師周が｜嶺南《れいなん》を攻め、｜劉隠《りゅういん》から昭・賀など6州を取る","開平二年":"｜開平《かいへい》二年","呂師周は昭州刺史とされ、910年には「昭州刺史呂師周」として見える":"呂師周は昭州｜刺史《しし》とされ、910年には「昭州｜刺史《しし》呂師周」として見える","賀州を落とした南漢軍が続いて昭州を陥れる":"｜賀州《がしゅう》を落とした｜南漢《なんかん》軍が続いて昭州を陥れる","乾祐元年十二月":"｜乾祐《けんゆう》元年十二月","南漢の昭州刺史田行稠が城を捨てて逃げ、宋が昭州を取る":"｜南漢《なんかん》の昭州｜刺史《しし》田行稠が城を捨てて逃げ、宋が昭州を取る","賀州":"｜賀州《がしゅう》","賀州市":"｜賀州《がしゅう》市","南漢の呉懐恩が賀州を抜き、救援の楚兵を落とし穴で破る":"｜南漢《なんかん》の呉｜懐恩《かいおん》が｜賀州《がしゅう》を抜き、救援の楚兵を落とし穴で破る","乾祐元年十二月辛巳":"｜乾祐《けんゆう》元年十二月辛巳","宋の潘美が賀州を囲み、援軍の伍彦柔を斬って賀州を取る":"宋の潘美が｜賀州《がしゅう》を囲み、援軍の伍彦柔を斬って｜賀州《がしゅう》を取る","開宝三年十月":"｜開宝《かいほう》三年十月","桂州を落とした南漢の呉懐恩が連・昭・柳・象などの州を定める":"桂州を落とした｜南漢《なんかん》の呉｜懐恩《かいおん》が連・昭・柳・象などの州を定める","広順元年十一月":"｜広順《こうじゅん》元年十一月","宋軍が連州を取り、南漢の招討使盧収が清遠へ退く":"｜宋《そう》軍が連州を取り、｜南漢《なんかん》の招討使盧収が清遠へ退く","開宝三年十一月〜十二月":"｜開宝《かいほう》三年十一月〜十二月","桂州を落とした南漢の呉懐恩が柳・象などの州を定める":"桂州を落とした｜南漢《なんかん》の呉｜懐恩《かいおん》が柳・象などの州を定める","南漢の劉鋹が降り、南漢が滅ぶ":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が降り、｜南漢《なんかん》が滅ぶ","開宝四年二月":"｜開宝《かいほう》四年二月","970年の宋の進攻で柳州を個別に取った記事は見つからないので、南漢の降伏による":"970年の宋の進攻で柳州を個別に取った記事は見つからないので、｜南漢《なんかん》の降伏による","970年の宋の進攻で象州を個別に取った記事は見つからないので、南漢の降伏による":"970年の宋の進攻で象州を個別に取った記事は見つからないので、｜南漢《なんかん》の降伏による","京兆府（長安）":"京兆府（｜長安《ちょうあん》）","西安市":"｜西安《せいあん》市","後梁の佑国軍（大安府）。909年六月、劉知俊の叛で岐兵が一時城に入ったが、同月のうちに楊師厚が取り返した":"｜後梁《こうりょう》の佑国軍（｜大安《たいあん》府）。909年六月、｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》の叛で岐兵が一時城に入ったが、同月のうちに｜楊《よう》｜師厚《しこう》が取り返した","後梁の滅亡で後唐の城となる（晋から後唐への交替と同年。朱友謙は後唐に帰した）":"｜後梁《こうりょう》の滅亡で｜後唐《こうとう》の城となる（晋から｜後唐《こうとう》への交替と同年。朱｜友謙《ゆうけん》は｜後唐《こうとう》に帰した）","後唐から後晋への交替（天福元年閏十一月）":"｜後唐《こうとう》から｜後晋《こうしん》への交替（｜天福《てんぷく》元年閏十一月）","開運三年十二月、契丹が大梁に入り後晋が滅ぶ。後晋の城として契丹の扱い":"｜開運《かいうん》三年十二月、｜契丹《きったん》が｜大梁《だいりょう》に入り｜後晋《こうしん》が滅ぶ。｜後晋《こうしん》の城として｜契丹《きったん》の扱い","後漢の城となる。晋昌節度使趙匡賛は947年十月に後蜀へ降ることを申し出たが、948年二月に城を出て入朝した（1年に満たない離反なので後漢のまま）":"｜後漢《ごかん》の城となる。晋昌｜節度使《せつどし》趙匡賛は947年十月に｜後蜀《こうしょく》へ降ることを申し出たが、948年二月に城を出て入朝した（1年に満たない離反なので｜後漢《ごかん》のまま）","趙思綰":"｜趙《ちょう》｜思綰《しわん》","趙匡賛の牙兵の軍校趙思綰が長安を奪って拠り、李守貞から晋昌節度使に任じられる（翌年七月まで籠城）":"趙匡賛の牙兵の軍校｜趙《ちょう》｜思綰《しわん》が｜長安《ちょうあん》を奪って拠り、｜李《り》｜守貞《しゅてい》から晋昌｜節度使《せつどし》に任じられる（翌年七月まで｜籠城《ろうじょう》）","乾祐元年三月":"｜乾祐《けんゆう》元年三月","趙思綰が甲を解いて出城し詔を受け、郭従義が入城して斬る":"｜趙《ちょう》｜思綰《しわん》が甲を解いて出城し詔を受け、郭従義が入城して斬る","乾祐二年七月":"｜乾祐《けんゆう》二年七月","後漢から後周への交替（広順元年正月）":"｜後漢《ごかん》から｜後周《こうしゅう》への交替（｜広順《こうじゅん》元年正月）","後周から宋への交替（建隆元年正月）":"｜後周《こうしゅう》から宋への交替（｜建隆《けんりゅう》元年正月）","鳳翔府（岐）":"｜鳳翔《ほうしょう》府（岐）","鳳翔府":"｜鳳翔《ほうしょう》府","宝鶏市鳳翔区":"宝鶏市｜鳳翔《ほうしょう》区","岐王李茂貞の本拠。後梁の正朔を奉ぜず天祐の年号を用い、岐王府を開いた。916年に前蜀に囲まれたが落ちていない":"岐王｜李《り》｜茂貞《もてい》の本拠。｜後梁《こうりょう》の｜正朔《せいさく》を奉ぜず｜天祐《てんゆう》の年号を用い、岐王府を開いた。916年に｜前蜀《ぜんしょく》に囲まれたが落ちていない","岐王李茂貞が子の李継曮を入貢させて後唐に上表称臣し、秦王に進められる。茂貞の死後、後唐が李継曮を鳳翔節度使に任じる":"岐王｜李《り》｜茂貞《もてい》が子の李継曮を入貢させて｜後唐《こうとう》に｜上表《じょうひょう》｜称臣《しょうしん》し、｜秦王《しんおう》に進められる。茂貞の死後、｜後唐《こうとう》が李継曮を｜鳳翔《ほうしょう》｜節度使《せつどし》に任じる","同光二年":"｜同光《どうこう》二年","後漢の城となる。契丹が任じた鳳翔節度使侯益は947年末に後蜀へ降ることを申し出たが、948年正月には後漢へ入朝を願い、後蜀軍は引き返した（1年に満たない離反なので後漢のまま）。934年の潞王李従珂の挙兵は同年のうちに帝位に即いたので変化なし":"｜後漢《ごかん》の城となる。｜契丹《きったん》が任じた｜鳳翔《ほうしょう》｜節度使《せつどし》侯益は947年末に｜後蜀《こうしょく》へ降ることを申し出たが、948年正月には｜後漢《ごかん》へ入朝を願い、｜後蜀《こうしょく》軍は引き返した（1年に満たない離反なので｜後漢《ごかん》のまま）。934年の｜潞王《ろおう》｜李従珂《りじゅうか》の挙兵は同年のうちに帝位に即いたので変化なし","王景崇（後蜀に称臣）":"王｜景崇《けいすう》（｜後蜀《こうしょく》に｜称臣《しょうしん》）","鳳翔巡検使王景崇が邠州への移鎮に従わず叛き、後蜀に降って岐陽節度使に任じられる（翌年十二月まで籠城）":"｜鳳翔《ほうしょう》巡検使王｜景崇《けいすう》が邠州への｜移鎮《いちん》に従わず叛き、｜後蜀《こうしょく》に降って岐陽｜節度使《せつどし》に任じられる（翌年十二月まで｜籠城《ろうじょう》）","乾祐元年":"｜乾祐《けんゆう》元年","趙暉が鳳翔を急攻し、王景崇の将が東門を焼いて降り、王景崇は自焚":"趙暉が｜鳳翔《ほうしょう》を急攻し、王｜景崇《けいすう》の将が東門を焼いて降り、王｜景崇《けいすう》は｜自焚《じふん》","乾祐二年冬":"｜乾祐《けんゆう》二年冬","華州":"｜華州《かしゅう》","渭南市華州区":"｜渭南《いなん》市｜華州《かしゅう》区","後梁の華州。909年六月に劉知俊が同州で叛いて華州を襲ったが同月のうちに楊師厚が取り返し、920年には晋軍が外城を壊したが落ちていない":"｜後梁《こうりょう》の｜華州《かしゅう》。909年六月に｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》が｜同州《どうしゅう》で叛いて｜華州《かしゅう》を襲ったが同月のうちに｜楊《よう》｜師厚《しこう》が取り返し、920年には｜晋軍《しんぐん》が外城を壊したが落ちていない","契丹の太宗が北へ帰り、劉知遠が大梁に入る（天福十二年六月）。後漢の城となる":"｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰り、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入る（｜天福《てんぷく》十二年六月）。｜後漢《ごかん》の城となる","同州":"｜同州《どうしゅう》","後梁の同州（匡国軍、908年に忠武軍と改称）。909年六月に節度使劉知俊が同州ごと岐に付いたが、同月のうちに官軍が潼関・華州を取り、劉知俊は一族を挙げて岐へ奔った（年内に後梁へ戻る）":"｜後梁《こうりょう》の｜同州《どうしゅう》（匡国軍、908年に｜忠武軍《ちゅうぶぐん》と改称）。909年六月に｜節度使《せつどし》｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》が｜同州《どうしゅう》ごと岐に付いたが、同月のうちに官軍が｜潼関《どうかん》・｜華州《かしゅう》を取り、｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》は一族を挙げて岐へ奔った（年内に｜後梁《こうりょう》へ戻る）","河中節度使朱友謙が同州を襲い取り、子の令徳を留後に立てる。後梁が劉鄩らに同州を囲ませたが、晋の李存審らが救って破り、晋王が墨制で令徳を忠武節度使とした":"｜河中《かちゅう》｜節度使《せつどし》朱｜友謙《ゆうけん》が｜同州《どうしゅう》を襲い取り、子の令徳を留後に立てる。｜後梁《こうりょう》が劉鄩らに｜同州《どうしゅう》を囲ませたが、晋の李存審らが救って破り、｜晋王《しんおう》が墨制で令徳を忠武｜節度使《せつどし》とした","貞明六年":"｜貞明《ていめい》六年","華原県は京兆の県で後梁の領内。908年ごろから温韜が嵯峨山に集まって略奪していた":"華原県は京兆の県で｜後梁《こうりょう》の領内。908年ごろから温韜が嵯峨山に集まって略奪していた","岐王が華原の賊帥温韜を仮子とし、華原を耀州として義勝軍節度使に任じる":"岐王が華原の｜賊帥《ぞくすい》温韜を仮子とし、華原を耀州として義勝軍｜節度使《せつどし》に任じる","乾化元年":"｜乾化《けんか》元年","岐の義勝節度使李彦韜（温韜）が耀・鼎二州を挙げて後梁に降り、耀州を崇州と改める":"岐の義勝｜節度使《せつどし》李彦韜（温韜）が耀・鼎二州を挙げて｜後梁《こうりょう》に降り、耀州を崇州と改める","貞明元年十二月":"｜貞明《ていめい》元年十二月","後梁の滅亡で後唐の城となり、耀州を順義軍とする。920年に河中軍が崇州を攻めたが落ちていない":"｜後梁《こうりょう》の滅亡で｜後唐《こうとう》の城となり、耀州を順義軍とする。920年に｜河中《かちゅう》軍が崇州を攻めたが落ちていない","静難節度使楊崇本（李茂貞の養子、李継徽）の邠寧。岐に付いて後梁と戦った。909年末に後梁の康懐貞が寧州を取ったが、劉知俊が兵を返すとすぐ召し還されて退いた":"静難｜節度使《せつどし》楊崇本（｜李《り》｜茂貞《もてい》の養子、李継徽）の邠寧。岐に付いて｜後梁《こうりょう》と戦った。909年末に｜後梁《こうりょう》の康懐貞が｜寧州《ねいしゅう》を取ったが、｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》が兵を返すとすぐ召し還されて退いた","李継徽の仮子李保衡が李彦魯を殺し、邠・寧二州を挙げて後梁に付く。後梁は霍彦威を静難節度使とし、岐の劉知俊の包囲を防ぎきった":"李継徽の仮子李保衡が李彦魯を殺し、邠・寧二州を挙げて｜後梁《こうりょう》に付く。｜後梁《こうりょう》は霍彦威を静難｜節度使《せつどし》とし、岐の｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》の包囲を防ぎきった","貞明元年":"｜貞明《ていめい》元年","寧州":"｜寧州《ねいしゅう》","涇州":"｜涇州《けいしゅう》","彰義軍（涇原）。岐の勢力下（915年に涇州の劉知俊が前蜀へ奔ったのちも岐の城）":"彰義軍（｜涇原《けいげん》）。岐の勢力下（915年に｜涇州《けいしゅう》の｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》が｜前蜀《ぜんしょく》へ奔ったのちも岐の城）","岐王李茂貞が後唐に上表称臣し、岐の領域（彰義節度使は茂貞の子李継曮）が後唐に帰する":"岐王｜李《り》｜茂貞《もてい》が｜後唐《こうとう》に｜上表《じょうひょう》｜称臣《しょうしん》し、岐の領域（彰義｜節度使《せつどし》は茂貞の子李継曮）が｜後唐《こうとう》に帰する","彰義軍（涇原）。岐の勢力下。臨涇の原州は涇州が兼ねて治める地で、涇州と同じ帰属とした":"彰義軍（｜涇原《けいげん》）。岐の勢力下。臨涇の原州は｜涇州《けいしゅう》が兼ねて治める地で、｜涇州《けいしゅう》と同じ帰属とした","彰義軍（涇原）。岐の勢力下。平涼の渭州は涇州の管内":"彰義軍（｜涇原《けいげん》）。岐の勢力下。平涼の渭州は｜涇州《けいしゅう》の管内","岐の保勝軍。916年十月に保勝節度使李継岌（桑弘志）が隴州を捨てて前蜀へ奔り前蜀軍が攻めたが、大雪で引き返した。919年・920年にも前蜀が攻めて落とせなかった":"岐の保勝軍。916年十月に保勝｜節度使《せつどし》李｜継岌《けいきゅう》（桑弘志）が隴州を捨てて｜前蜀《ぜんしょく》へ奔り｜前蜀《ぜんしょく》軍が攻めたが、大雪で引き返した。919年・920年にも｜前蜀《ぜんしょく》が攻めて落とせなかった","岐王李茂貞が後唐に上表称臣し、岐の領域が後唐に帰する":"岐王｜李《り》｜茂貞《もてい》が｜後唐《こうとう》に｜上表《じょうひょう》｜称臣《しょうしん》し、岐の領域が｜後唐《こうとう》に帰する","後漢の城となる。947年末〜948年に後蜀軍が隴州から鳳翔を攻めたが、隴州は後漢の兵として王景崇の追撃に加わっており、後蜀の城になっていない":"｜後漢《ごかん》の城となる。947年末〜948年に｜後蜀《こうしょく》軍が隴州から｜鳳翔《ほうしょう》を攻めたが、隴州は｜後漢《ごかん》の兵として王｜景崇《けいすう》の追撃に加わっており、｜後蜀《こうしょく》の城になっていない","後梁の佑国軍の管内。909年に刺史李稠が士民を駆って西へ逃げたが、将吏が李玫を立てて州を保った（後梁のまま）":"｜後梁《こうりょう》の佑国軍の管内。909年に｜刺史《しし》李稠が士民を駆って西へ逃げたが、｜将吏《しょうり》が李玫を立てて州を保った（｜後梁《こうりょう》のまま）","秦州":"｜秦州《しんしゅう》","岐王の甥の秦州節度使李継崇が守る":"岐王の甥の｜秦州《しんしゅう》｜節度使《せつどし》李継崇が守る","前蜀の王宗綰らが秦州に迫り、秦州節度使李継崇が牌印を奉じて降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の王宗綰らが｜秦州《しんしゅう》に迫り、｜秦州《しんしゅう》｜節度使《せつどし》李継崇が牌印を奉じて降る","前蜀の滅亡（同光三年十一月）で後唐の城となる":"｜前蜀《ぜんしょく》の滅亡（｜同光《どうこう》三年十一月）で｜後唐《こうとう》の城となる","雄武節度使何重建が契丹の使者を斬り、秦・成・階三州を挙げて後蜀に降る":"雄武｜節度使《せつどし》何重建が｜契丹《きったん》の使者を斬り、秦・成・階｜三州《さんしゅう》を挙げて｜後蜀《こうしょく》に降る","天福十二年正月":"｜天福《てんぷく》十二年正月","後周の王景が後蜀軍を破り、後蜀の雄武節度使韓継勲が秦州を捨てて成都へ逃げ、観察判官趙玭が城を挙げて降る":"｜後周《こうしゅう》の王景が｜後蜀《こうしょく》軍を破り、｜後蜀《こうしょく》の雄武｜節度使《せつどし》韓継勲が｜秦州《しんしゅう》を捨てて｜成都《せいと》へ逃げ、観察判官趙玭が城を挙げて降る","顕徳二年":"｜顕徳《けんとく》二年","鎮州（真定）":"｜鎮州《ちんしゅう》（真定）","鎮州":"｜鎮州《ちんしゅう》","成徳軍（後梁は武順軍と改称）節度使の趙王王鎔の本拠。後梁から官を受け貢納して名目上は従ったが自立していた。910年に後梁が深州・冀州を奪おうとしたのを機に晋と結び、唐の天祐の年号に戻した（911年からは晋の同盟者）":"｜成徳《せいとく》軍（｜後梁《こうりょう》は武順軍と改称）｜節度使《せつどし》の｜趙王《ちょうおう》王鎔の本拠。｜後梁《こうりょう》から官を受け貢納して名目上は従ったが自立していた。910年に｜後梁《こうりょう》が深州・｜冀州《きしゅう》を奪おうとしたのを機に晋と結び、唐の｜天祐《てんゆう》の年号に戻した（911年からは晋の同盟者）","成徳軍（張文礼・張処瑾）":"｜成徳《せいとく》軍（張文礼・張処瑾）","養子の張文礼（王徳明）が王鎔を殺し王氏を滅ぼして留後となる。晋は一旦これを認めたが、八月から晋が鎮州を攻め、子の張処瑾が年を越えて守る":"養子の張文礼（王｜徳明《とくめい》）が王鎔を殺し｜王氏《おうし》を滅ぼして留後となる。晋は一旦これを認めたが、八月から晋が｜鎮州《ちんしゅう》を攻め、子の張処瑾が年を越えて守る","龍徳元年二月":"｜龍徳《りゅうとく》元年二月","晋軍が鎮州を落とし、張処瑾を捕らえる。符習を成徳節度使とする":"｜晋軍《しんぐん》が｜鎮州《ちんしゅう》を落とし、張処瑾を捕らえる。符習を｜成徳《せいとく》｜節度使《せつどし》とする","龍徳二年九月":"｜龍徳《りゅうとく》二年九月","晋王李存勗が魏州で帝位に即き後唐を建てる。晋の城はそのまま後唐へ":"晋王李存勗が｜魏州《ぎしゅう》で帝位に即き｜後唐《こうとう》を建てる。晋の城はそのまま｜後唐《こうとう》へ","後唐が滅び後晋へ":"｜後唐《こうとう》が滅び｜後晋《こうしん》へ","開運三年十二月に後晋が滅び、契丹の城となる":"｜開運《かいうん》三年十二月に｜後晋《こうしん》が滅び、｜契丹《きったん》の城となる","恒州の漢兵が契丹の麻荅を逐い、後漢に帰す。恒州を鎮州に戻す":"恒州の漢兵が｜契丹《きったん》の麻荅を逐い、｜後漢《ごかん》に帰す。恒州を｜鎮州《ちんしゅう》に戻す","後漢から後周へ":"｜後漢《ごかん》から｜後周《こうしゅう》へ","後周から宋へ":"｜後周《こうしゅう》から宋へ","義武軍節度使王処直（定州・易州・祁州）。後梁から官を受けたが自立していた。910年に王鎔とともに晋を盟主に推し、以後は晋と結ぶ":"義武軍｜節度使《せつどし》王処直（定州・易州・祁州）。｜後梁《こうりょう》から官を受けたが自立していた。910年に王鎔とともに晋を盟主に推し、以後は晋と結ぶ","養子の王都が王処直を幽閉して留後となり、晋王がこれを認めて義武節度使とする。王都は以後も刺史以下を自ら任じ、租税を上納しなかった":"養子の王都が王処直を幽閉して留後となり、｜晋王《しんおう》がこれを認めて義武｜節度使《せつどし》とする。王都は以後も｜刺史《しし》以下を自ら任じ、租税を上納しなかった","晋から後唐へ。王都の自立は続く":"晋から｜後唐《こうとう》へ。王都の自立は続く","契丹の耶律忠・麻荅が定州を焼き人々を駆って北へ去り、狼山の孫方簡（方諫）が定州に戻って後漢に帰す":"｜契丹《きったん》の｜耶律《やりつ》忠・麻荅が定州を焼き人々を駆って北へ去り、狼山の孫方簡（方諫）が定州に戻って｜後漢《ごかん》に帰す","947年の歳末はまだ契丹の耶律忠が定州を守っていた":"947年の歳末はまだ｜契丹《きったん》の｜耶律《やりつ》忠が定州を守っていた","成徳軍（鎮・冀・深・趙の4州）の属州で、趙王王鎔の下にあった。後梁には名目上従っていた":"｜成徳《せいとく》軍（鎮・冀・深・趙の4州）の属州で、｜趙王《ちょうおう》王鎔の下にあった。｜後梁《こうりょう》には名目上従っていた","晋軍が趙州を抜き、張文礼の刺史王鋌が降る。晋王は王鋌を刺史に留める":"｜晋軍《しんぐん》が趙州を抜き、張文礼の｜刺史《しし》王鋌が降る。｜晋王《しんおう》は王鋌を｜刺史《しし》に留める","龍徳元年八月":"｜龍徳《りゅうとく》元年八月","契丹が北へ帰り、後漢の城となる":"｜契丹《きったん》が北へ帰り、｜後漢《ごかん》の城となる","後梁の杜廷隠らが魏博の兵で深州・冀州に入り、門を閉じて趙の戍兵を殺し城に拠る":"｜後梁《こうりょう》の杜廷隠らが｜魏博《ぎはく》の兵で深州・｜冀州《きしゅう》に入り、門を閉じて趙の戍兵を殺し城に拠る","柏郷で後梁軍が敗れ、杜廷隠らは深州・冀州を棄てて去る（丁壮を駆り去り老弱を殺したので城は荒れた）":"｜柏郷《はくきょう》で｜後梁《こうりょう》軍が敗れ、杜廷隠らは深州・｜冀州《きしゅう》を棄てて去る（丁壮を駆り去り老弱を殺したので城は荒れた）","乾化元年正月":"｜乾化《けんか》元年正月","張文礼が王鎔を殺して成徳軍を継ぐ。深州刺史張友順は張文礼を留後に推した軍校":"張文礼が王鎔を殺して｜成徳《せいとく》軍を継ぐ。深州｜刺史《しし》張友順は張文礼を留後に推した軍校","鎮州が落ち、晋が趙仁貞を深州刺史とする":"｜鎮州《ちんしゅう》が落ち、晋が趙仁貞を深州｜刺史《しし》とする","冀州":"｜冀州《きしゅう》","衡水市冀州区":"衡水市｜冀州《きしゅう》区","後梁の杜廷隠らが深州・冀州に入り趙の戍兵を殺して城に拠る":"｜後梁《こうりょう》の杜廷隠らが深州・｜冀州《きしゅう》に入り趙の戍兵を殺して城に拠る","柏郷の敗戦で杜廷隠らが深州・冀州を棄てて去る":"｜柏郷《はくきょう》の敗戦で杜廷隠らが深州・｜冀州《きしゅう》を棄てて去る","張文礼が王鎔を殺して成徳軍を継ぐ":"張文礼が王鎔を殺して｜成徳《せいとく》軍を継ぐ","鎮州が落ち、晋が李再豊を冀州刺史とする":"｜鎮州《ちんしゅう》が落ち、晋が李再豊を｜冀州《きしゅう》｜刺史《しし》とする","冀州の人が契丹の刺史何行通を殺し、張廷翰に州事を執らせる":"｜冀州《きしゅう》の人が｜契丹《きったん》の｜刺史《しし》何行通を殺し、張廷翰に州事を執らせる","邢州":"｜邢州《けいしゅう》","後梁の保義軍（邢・洺・磁州）。906年にも後梁の牛存節が邢州を守って晋の李嗣昭を退け、908年には王檀を保義軍節度使とした":"｜後梁《こうりょう》の保義軍（邢・洺・磁州）。906年にも｜後梁《こうりょう》の牛存節が｜邢州《けいしゅう》を守って晋の李嗣昭を退け、908年には王檀を保義軍｜節度使《せつどし》とした","晋王が邢州を攻め、相州が落ちたと聞いた保義節度使閻宝が城ごと降る。李存審を安国節度使として邢州に鎮させる":"｜晋王《しんおう》が｜邢州《けいしゅう》を攻め、｜相州《そうしゅう》が落ちたと聞いた保義｜節度使《せつどし》閻宝が城ごと降る。李存審を安国｜節度使《せつどし》として｜邢州《けいしゅう》に鎮させる","貞明二年":"｜貞明《ていめい》二年","契丹の麻荅が遁れたと聞き、劉鐸が邢州を挙げて後漢に降る":"｜契丹《きったん》の麻荅が遁れたと聞き、劉鐸が｜邢州《けいしゅう》を挙げて｜後漢《ごかん》に降る","邯鄲市永年区":"｜邯鄲《かんたん》市永年区","後梁の保義軍の属州。908年に後梁が洺州の州事を任じている":"｜後梁《こうりょう》の保義軍の属州。908年に｜後梁《こうりょう》が洺州の州事を任じている","晋が洺州を抜き、袁建豊を刺史とする":"晋が洺州を抜き、袁建豊を｜刺史《しし》とする","貞明二年四月":"｜貞明《ていめい》二年四月","洺州防禦使薛懐譲が契丹の使者を殺して後漢に降り、契丹の攻撃を守り抜く":"洺州防禦使薛懐譲が｜契丹《きったん》の使者を殺して｜後漢《ごかん》に降り、｜契丹《きったん》の攻撃を守り抜く","魏州（鄴都）":"｜魏州《ぎしゅう》（｜鄴都《ぎょうと》）","魏州":"｜魏州《ぎしゅう》","魏博（後梁は天雄軍と改称。魏・貝・博・相・澶・衛の6州）節度使の鄴王羅紹威は後梁に従う。910年に子の羅周翰、912年に楊師厚が継ぎ、915年まで後梁の州":"｜魏博《ぎはく》（｜後梁《こうりょう》は天雄軍と改称。魏・貝・博・相・澶・衛の6州）｜節度使《せつどし》の鄴王羅紹威は｜後梁《こうりょう》に従う。910年に子の羅周翰、912年に｜楊《よう》｜師厚《しこう》が継ぎ、915年まで｜後梁《こうりょう》の州","後梁が魏博を二つに分けたのに怒った魏兵が乱を起こし、節度使賀徳倫を脅して晋に付く。晋王が魏州に入り天雄軍を兼ねる":"｜後梁《こうりょう》が｜魏博《ぎはく》を二つに分けたのに怒った魏兵が乱を起こし、｜節度使《せつどし》賀徳倫を脅して晋に付く。｜晋王《しんおう》が｜魏州《ぎしゅう》に入り天雄軍を兼ねる","貞明元年六月":"｜貞明《ていめい》元年六月","范延光":"范｜延光《えんこう》","天雄節度使范延光が魏州で背く。後晋の楊光遠が囲んだが一年余り落ちなかった":"天雄｜節度使《せつどし》范｜延光《えんこう》が｜魏州《ぎしゅう》で背く。｜後晋《こうしん》の｜楊《よう》｜光遠《こうえん》が囲んだが一年余り落ちなかった","天福二年六月":"｜天福《てんぷく》二年六月","范延光が降り、広晋（魏州）が後晋に戻る":"范｜延光《えんこう》が降り、広晋（｜魏州《ぎしゅう》）が｜後晋《こうしん》に戻る","天福三年九月":"｜天福《てんぷく》三年九月","天雄節度使杜重威は後漢に表を奉じたが、移鎮を拒んで閏七月に背き、十一月に開門して降る":"天雄｜節度使《せつどし》｜杜重威《とちょうい》は｜後漢《ごかん》に表を奉じたが、｜移鎮《いちん》を拒んで閏七月に背き、十一月に開門して降る","杜重威の叛乱はこの年のうちに終わった（948年までは続いていない）":"｜杜重威《とちょうい》の｜叛乱《はんらん》はこの年のうちに終わった（948年までは続いていない）","貝州":"｜貝州《ばいしゅう》","清河県":"｜清河《せいが》県","915年に魏博が晋に付いた後も後梁の刺史張源徳が貝州に拠り、晋が一年余り囲んだ。916年に城兵が張源徳を殺して降り、晋が毛璋を刺史とする":"915年に｜魏博《ぎはく》が晋に付いた後も｜後梁《こうりょう》の｜刺史《しし》張源徳が｜貝州《ばいしゅう》に拠り、晋が一年余り囲んだ。916年に城兵が張源徳を殺して降り、晋が毛璋を｜刺史《しし》とする","聊城市":"｜聊城《りょうじょう》市","魏博が晋に付き、晋王が博州に兵を出して屯する。晋が博州刺史を任じる":"｜魏博《ぎはく》が晋に付き、｜晋王《しんおう》が博州に兵を出して屯する。晋が博州｜刺史《しし》を任じる","相州":"｜相州《そうしゅう》","魏博（後梁は天雄軍と改称。魏・貝・博・相・澶・衛の6州）節度使の鄴王羅紹威は後梁に従う。910年に子の羅周翰、912年に楊師厚が継ぎ、915年まで後梁の州。915年に後梁が相州に昭徳軍を置き澶・衛州を属させた":"｜魏博《ぎはく》（｜後梁《こうりょう》は天雄軍と改称。魏・貝・博・相・澶・衛の6州）｜節度使《せつどし》の鄴王羅紹威は｜後梁《こうりょう》に従う。910年に子の羅周翰、912年に｜楊《よう》｜師厚《しこう》が継ぎ、915年まで｜後梁《こうりょう》の州。915年に｜後梁《こうりょう》が｜相州《そうしゅう》に昭徳軍を置き澶・｜衛州《えいしゅう》を属させた","晋王が邢州を攻めると、後梁の昭徳節度使張筠が相州を棄てて走る。晋は相州を天雄軍に戻す":"｜晋王《しんおう》が｜邢州《けいしゅう》を攻めると、｜後梁《こうりょう》の昭徳｜節度使《せつどし》張筠が｜相州《そうしゅう》を棄てて走る。晋は｜相州《そうしゅう》を天雄軍に戻す","相州は947年四月に契丹が攻め落としたが、彰徳節度使高唐英が後漢に降ろうとし、戍将の王継弘が高唐英を殺して留後となり、後漢がこれを認める":"｜相州《そうしゅう》は947年四月に｜契丹《きったん》が攻め落としたが、彰徳｜節度使《せつどし》高唐英が｜後漢《ごかん》に降ろうとし、戍将の王継弘が高唐英を殺して留後となり、｜後漢《ごかん》がこれを認める","澶州":"｜澶州《せんしゅう》","濮陽市":"｜濮陽《ぼくよう》市","元城の戦いの後、晋が澶・衛・磁・洺州を収め、916年には河北で後梁に残るのは黎陽だけとなる":"元城の戦いの後、晋が澶・衛・磁・洺州を収め、916年には｜河北《かほく》で｜後梁《こうりょう》に残るのは｜黎陽《れいよう》だけとなる","915年七月に晋が澶州を夜襲して取ったが、八月に後梁の王檀らが抜き返し、後梁が楊延直を刺史とした。915年の歳末は後梁":"915年七月に晋が｜澶州《せんしゅう》を夜襲して取ったが、八月に｜後梁《こうりょう》の王檀らが抜き返し、｜後梁《こうりょう》が楊延直を｜刺史《しし》とした。915年の歳末は｜後梁《こうりょう》","後漢の鎮寧節度使慕容彦超が澶州にいる":"｜後漢《ごかん》の鎮寧｜節度使《せつどし》｜慕容《ぼよう》｜彦超《げんちょう》が｜澶州《せんしゅう》にいる","滄州":"｜滄州《そうしゅう》","義昌軍（劉守文）":"義昌軍（｜劉《りゅう》｜守文《しゅぶん》）","燕の劉仁恭の長子、義昌節度使劉守文。907年に弟の劉守光が父を幽閉すると守光を討ち、燕とは別に立った。同年に後梁に降り質子を送って名目上従った":"燕の｜劉仁恭《りゅうじんきょう》の長子、義昌｜節度使《せつどし》｜劉《りゅう》｜守文《しゅぶん》。907年に弟の｜劉守光《りゅうしゅこう》が父を幽閉すると｜守光《しゅこう》を討ち、燕とは別に立った。同年に｜後梁《こうりょう》に降り質子を送って名目上従った","909年に劉守光が劉守文を捕らえて滄州を囲み、910年正月に守文の子劉延祚が力尽きて降る。守光は子の劉継威に張万進・周知裕を付けて滄州を鎮させる":"909年に｜劉守光《りゅうしゅこう》が｜劉《りゅう》｜守文《しゅぶん》を捕らえて｜滄州《そうしゅう》を囲み、910年正月に守文の子劉延祚が力尽きて降る。｜守光《しゅこう》は子の劉継威に張万進・周知裕を付けて｜滄州《そうしゅう》を鎮させる","開平四年正月":"｜開平《かいへい》四年正月","張万進が劉継威を殺して留後を称し、後梁と晋の両方に降る。後梁は義昌を順化軍と改め張万進を節度使とする":"張万進が劉継威を殺して留後を称し、｜後梁《こうりょう》と晋の両方に降る。｜後梁《こうりょう》は義昌を順化軍と改め張万進を｜節度使《せつどし》とする","晋が滄州に迫り、後梁の順化節度使戴思遠が城を棄てて東都へ走る。滄州の将毛璋が城を挙げて晋に降る":"晋が｜滄州《そうしゅう》に迫り、｜後梁《こうりょう》の順化｜節度使《せつどし》戴思遠が城を棄てて東都へ走る。｜滄州《そうしゅう》の将毛璋が城を挙げて晋に降る","滄州の義昌軍の属州（滄・景・徳州）。劉守文の下にあった":"｜滄州《そうしゅう》の義昌軍の属州（滄・景・徳州）。｜劉《りゅう》｜守文《しゅぶん》の下にあった","劉守光が滄州を取り、義昌軍が燕に入る":"｜劉守光《りゅうしゅこう》が｜滄州《そうしゅう》を取り、義昌軍が燕に入る","滄州の張万進が後梁と晋に降り、後梁の順化軍となる":"｜滄州《そうしゅう》の張万進が｜後梁《こうりょう》と晋に降り、｜後梁《こうりょう》の順化軍となる","晋王が騎兵500で徳州を襲い、後梁の刺史が城を越えて逃げる。馬通を刺史とする":"｜晋王《しんおう》が騎兵500で徳州を襲い、｜後梁《こうりょう》の｜刺史《しし》が城を越えて逃げる。馬通を｜刺史《しし》とする","903年に朱全忠が平盧の王師範を降して登・莱・淄・棣州を取って以来の後梁の州。917年にも後梁が棣州刺史を任じている":"903年に｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が平盧の王師範を降して登・莱・淄・棣州を取って以来の｜後梁《こうりょう》の州。917年にも｜後梁《こうりょう》が棣州｜刺史《しし》を任じている","後梁が滅び、後梁の藩鎮はみな後唐に入朝・待罪する":"｜後梁《こうりょう》が滅び、｜後梁《こうりょう》の｜藩鎮《はんちん》はみな｜後唐《こうとう》に入朝・待罪する","太原府（晋陽）":"太原府（｜晋陽《しんよう》）","太原市":"｜太原《たいげん》市","晋（李克用・李存勗）の本拠の太原府（晋陽）":"晋（｜李克用《りこくよう》・｜李存勗《りそんきょく》）の本拠の太原府（｜晋陽《しんよう》）","四月に李存勗が即位し晋が後唐となる":"四月に｜李存勗《りそんきょく》が即位し晋が｜後唐《こうとう》となる","閏十一月に石敬瑭の後晋が後唐に代わる（石敬瑭の本拠の河東）":"閏十一月に｜石敬瑭《せきけいとう》の｜後晋《こうしん》が｜後唐《こうとう》に代わる（｜石敬瑭《せきけいとう》の本拠の｜河東《かとう》）","河東節度使の劉知遠は契丹に降らず（947年二月に太原で即位）":"｜河東《かとう》｜節度使《せつどし》の｜劉知遠《りゅうちえん》は｜契丹《きったん》に降らず（947年二月に｜太原《たいげん》で即位）","劉崇が晋陽で即位":"｜劉崇《りゅうすう》が｜晋陽《しんよう》で即位","正月に劉崇が晋陽で即位し北漢を立てる":"正月に｜劉崇《りゅうすう》が｜晋陽《しんよう》で即位し｜北漢《ほくかん》を立てる","北漢の降伏":"｜北漢《ほくかん》の降伏","太平興国四年五月":"｜太平興国《たいへいこうこく》四年五月","五月に劉継元が宋の太宗に降り北漢が滅ぶ":"五月に｜劉継元《りゅうけいげん》が宋の｜太宗《たいそう》に降り｜北漢《ほくかん》が滅ぶ","劉知遠の河東の州":"｜劉知遠《りゅうちえん》の｜河東《かとう》の州","北漢の十二州の一つ":"｜北漢《ほくかん》の十二州の一つ","北漢の降伏で宋へ。劉継元の置いた節度使が汾州で降る":"｜北漢《ほくかん》の降伏で宋へ。｜劉継元《りゅうけいげん》の置いた｜節度使《せつどし》が汾州で降る","北漢の降伏で宋へ":"｜北漢《ほくかん》の降伏で宋へ","代州":"｜代州《だいしゅう》","晋の北辺の代州":"晋の北辺の｜代州《だいしゅう》","代州刺史王暉が契丹に降る":"｜代州《だいしゅう》｜刺史《しし》王暉が｜契丹《きったん》に降る","後晋の滅亡のとき、契丹が兵を送って代州を襲い、刺史王暉が城ごと契丹に降った":"｜後晋《こうしん》の滅亡のとき、｜契丹《きったん》が兵を送って｜代州《だいしゅう》を襲い、｜刺史《しし》王暉が城ごと｜契丹《きったん》に降った","史弘肇が代州を取る":"史｜弘肇《こうちょう》が｜代州《だいしゅう》を取る","劉知遠の将の史弘肇が代州を抜き王暉を斬る":"｜劉知遠《りゅうちえん》の将の史｜弘肇《こうちょう》が｜代州《だいしゅう》を抜き王暉を斬る","開宝二年五月":"｜開宝《かいほう》二年五月","宋の太祖の太原攻めのとき、偏師に囲まれた嵐州の趙文度が降る":"宋の｜太祖《たいそ》の｜太原《たいげん》攻めのとき、偏師に囲まれた嵐州の趙文度が降る","北漢が嵐州を取り返している（取り返した年は不明）":"｜北漢《ほくかん》が嵐州を取り返している（取り返した年は不明）","開宝九年（確かめられた最も早い記事）":"｜開宝《かいほう》九年（確かめられた最も早い記事）","969年に趙文度が降ったのち、北漢が嵐州を取り返した。取り返した年は原文に無く、北漢の「嵐・憲・石三州巡検使」が捕らえられた976年を確かめられた最も早い年とした":"969年に趙文度が降ったのち、｜北漢《ほくかん》が嵐州を取り返した。取り返した年は原文に無く、｜北漢《ほくかん》の「嵐・憲・石｜三州《さんしゅう》巡検使」が捕らえられた976年を確かめられた最も早い年とした","太平興国四年四月":"｜太平興国《たいへいこうこく》四年四月","宋の知府州折御卿が岢嵐軍を破ったのち嵐州を下した":"宋の知｜府州《ふしゅう》折御卿が岢嵐軍を破ったのち嵐州を下した","呂梁市離石区":"｜呂梁《りょりょう》市｜離石《りせき》区","北漢の降伏で宋へ。宋が知州を置く":"｜北漢《ほくかん》の降伏で宋へ。宋が知州を置く","晋の遼州（河東と潞州の間）":"晋の遼州（｜河東《かとう》と｜潞州《ろしゅう》の間）","劉知遠の河東の州として扱う（後に北漢の十二州に入る）":"｜劉知遠《りゅうちえん》の｜河東《かとう》の州として扱う（後に｜北漢《ほくかん》の十二州に入る）","李筠が遼州を抜き、北漢の刺史張丕を捕らえる":"｜李《り》｜筠《いん》が遼州を抜き、｜北漢《ほくかん》の｜刺史《しし》張丕を捕らえる","顕徳六年六月乙亥朔":"｜顕徳《けんとく》六年六月乙亥朔","後周の昭義節度使李筠が遼州を抜いた。後周の兵が年内に退いた記事は無い":"｜後周《こうしゅう》の｜昭義《しょうぎ》｜節度使《せつどし》｜李《り》｜筠《いん》が遼州を抜いた。｜後周《こうしゅう》の兵が年内に退いた記事は無い","後周から宋への交替":"｜後周《こうしゅう》から宋への交替","建隆元年正月":"｜建隆《けんりゅう》元年正月","北漢の遼州刺史傅廷彦が見える（取り返した年は不明）":"｜北漢《ほくかん》の遼州｜刺史《しし》傅廷彦が見える（取り返した年は不明）","建隆二年十二月":"｜建隆《けんりゅう》二年十二月","北漢が遼州を取り返した年の記事は無い。北漢の遼州刺史が見える961年を確かめられた最も早い年とした":"｜北漢《ほくかん》が遼州を取り返した年の記事は無い。｜北漢《ほくかん》の遼州｜刺史《しし》が見える961年を確かめられた最も早い年とした","乾徳二年正月〜二月":"｜乾徳《けんとく》二年正月〜二月","宋の昭義節度使李継勲が遼州を攻め、刺史杜延韜が城ごと降る":"宋の｜昭義《しょうぎ》｜節度使《せつどし》｜李《り》｜継勲《けいくん》が遼州を攻め、｜刺史《しし》杜延韜が城ごと降る","潞州（上党）":"｜潞州《ろしゅう》（｜上党《じょうとう》）","潞州":"｜潞州《ろしゅう》","906年に昭義の丁会が晋に降った潞州。907年に後梁の康懐貞が囲み夾寨を築いたが、李嗣昭が守り抜き908年五月の夾寨の戦いで包囲が解けた":"906年に｜昭義《しょうぎ》の丁会が晋に降った｜潞州《ろしゅう》。907年に｜後梁《こうりょう》の康懐貞が囲み夾寨を築いたが、李嗣昭が守り抜き908年五月の夾寨の戦いで包囲が解けた","李継韜の後梁への降伏と後梁の滅亡":"李継韜の｜後梁《こうりょう》への降伏と｜後梁《こうりょう》の滅亡","三月に李継韜が潞州（安義軍）ごと後梁に降ったが、十月に後梁が滅ぶと詔に応じて入朝し、潞州は後唐の城に戻った":"三月に李継韜が｜潞州《ろしゅう》（安義軍）ごと｜後梁《こうりょう》に降ったが、十月に｜後梁《こうりょう》が滅ぶと詔に応じて入朝し、｜潞州《ろしゅう》は｜後唐《こうとう》の城に戻った","後晋が後唐に代わる":"｜後晋《こうしん》が｜後唐《こうとう》に代わる","後晋の滅亡で契丹へ（昭義節度使張従恩は契丹に入朝しようとした）":"｜後晋《こうしん》の滅亡で｜契丹《きったん》へ（｜昭義《しょうぎ》｜節度使《せつどし》張従恩は｜契丹《きったん》に入朝しようとした）"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61年・962年に楊重勲＝重訓が北漢の攻撃を退け、967年に麟州に建寧軍が置かれる）":"宋が｜後周《こうしゅう》に代わる（961年・962年に楊重勲＝重訓が｜北漢《ほくかん》の攻撃を退け、967年に｜麟州《りんしゅう》に｜建寧《けんねい》軍が置かれる）","汴州（開封・大梁）":"｜汴州《べんしゅう》（開封・｜大梁《だいりょう》）","汴州":"｜汴州《べんしゅう》","後梁の東都。907年四月に朱全忠がここで帝位に即く。927年の朱守殷の叛乱（汴州）は年内に平定されたので帰属は変えない":"｜後梁《こうりょう》の東都。907年四月に｜朱全忠《しゅぜんちゅう》がここで帝位に即く。927年の朱守殷の｜叛乱《はんらん》（｜汴州《べんしゅう》）は年内に平定されたので帰属は変えない","後梁が滅び後唐の城となる":"｜後梁《こうりょう》が滅び｜後唐《こうとう》の城となる","同光元年十月":"｜同光《どうこう》元年十月","923年十月、李嗣源が大梁に入り後梁が滅ぶ。後梁の城はみな後唐へ":"923年十月、｜李嗣源《りしげん》が｜大梁《だいりょう》に入り｜後梁《こうりょう》が滅ぶ。｜後梁《こうりょう》の城はみな｜後唐《こうとう》へ","後唐が滅び後晋の城となる":"｜後唐《こうとう》が滅び｜後晋《こうしん》の城となる","天福元年閏十一月":"｜天福《てんぷく》元年閏十一月","後唐の滅亡で後晋へ":"｜後唐《こうとう》の滅亡で｜後晋《こうしん》へ","後晋が滅び契丹の城となる":"｜後晋《こうしん》が滅び｜契丹《きったん》の城となる","開運三年十二月":"｜開運《かいうん》三年十二月","946年十二月、契丹の先鋒張彦沢が大梁に入り、少帝が降表を出す。後晋の城は契丹へ":"946年十二月、｜契丹《きったん》の｜先鋒《せんぽう》張｜彦沢《げんたく》が｜大梁《だいりょう》に入り、｜少帝《しょうてい》が降表を出す。｜後晋《こうしん》の城は｜契丹《きったん》へ","契丹が北へ去り後漢の城となる":"｜契丹《きったん》が北へ去り｜後漢《ごかん》の城となる","天福十二年六月":"｜天福《てんぷく》十二年六月","947年六月、劉知遠が大梁に入り、後晋の藩鎮が相次いで降る。契丹の城は後漢へ":"947年六月、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入り、｜後晋《こうしん》の｜藩鎮《はんちん》が相次いで降る。｜契丹《きったん》の城は｜後漢《ごかん》へ","郭威が即位し後周の城となる":"｜郭威《かくい》が即位し｜後周《こうしゅう》の城となる","広順元年正月":"｜広順《こうじゅん》元年正月","後漢から後周への交替。郭威が大梁に入ったのは950年十一月だが、後漢の国は951年正月の即位まで続く":"｜後漢《ごかん》から｜後周《こうしゅう》への交替。｜郭威《かくい》が｜大梁《だいりょう》に入ったのは950年十一月だが、｜後漢《ごかん》の国は951年正月の即位まで続く","趙匡胤が即位し宋の城となる":"｜趙匡胤《ちょうきょういん》が即位し宋の城となる","後周から宋への交替。979年まで宋の城":"｜後周《こうしゅう》から宋への交替。979年まで宋の城","河南府（洛陽）":"｜河南《かなん》府（｜洛陽《らくよう》）","河南府":"｜河南《かなん》府","洛陽市":"｜洛陽《らくよう》市","後梁の西都。河南尹張全義が河陽節度使を兼ねる":"｜後梁《こうりょう》の西都。河南尹張全義が｜河陽《かよう》｜節度使《せつどし》を兼ねる","後梁の西都留守・河南尹張宗奭（張全義）が後唐に来朝":"｜後梁《こうりょう》の西都留守・河南尹張宗奭（張全義）が｜後唐《こうとう》に来朝","936年閏十一月、石敬瑭が洛陽に入り後唐が滅ぶ":"936年閏十一月、｜石敬瑭《せきけいとう》が｜洛陽《らくよう》に入り｜後唐《こうとう》が滅ぶ","劉知遠は晋陽から洛陽・汴州へ兵を血塗らずに入る":"｜劉知遠《りゅうちえん》は｜晋陽《しんよう》から｜洛陽《らくよう》・｜汴州《べんしゅう》へ兵を血塗らずに入る","後梁の内地の州":"｜後梁《こうりょう》の内地の州","後梁の滅亡で後唐へ":"｜後梁《こうりょう》の滅亡で｜後唐《こうとう》へ","契丹の北帰で後漢へ":"｜契丹《きったん》の北帰で｜後漢《ごかん》へ","滑州":"｜滑州《かつしゅう》","後梁の内地の州。河上の戦い（916〜923）で晋が持ったのは黄河北岸の徳勝・楊劉などで、滑州は終始後梁の補給と出撃の基地だった":"｜後梁《こうりょう》の内地の州。河上の戦い（916〜923）で晋が持ったのは｜黄河《こうが》北岸の徳勝・｜楊劉《ようりゅう》などで、｜滑州《かつしゅう》は終始｜後梁《こうりょう》の補給と出撃の基地だった","滑州にいた段凝の大軍が後唐に降り、段凝は滑州留後のまま賜名される":"｜滑州《かつしゅう》にいた段凝の大軍が｜後唐《こうとう》に降り、段凝は｜滑州《かつしゅう》留後のまま賜名される","張彦沢が白馬津を渡って滑州に至り、大梁へ向かう":"張｜彦沢《げんたく》が白馬津を渡って｜滑州《かつしゅう》に至り、｜大梁《だいりょう》へ向かう","孟州（河陽）":"孟州（｜河陽《かよう》）","後梁の河陽節度使（河南尹張全義が兼ねる）。後梁の時代、晋が河陽を年をまたいで持った記事は見つからない（後梁は晋への備えに河陽へ兵を屯させている）":"｜後梁《こうりょう》の｜河陽《かよう》｜節度使《せつどし》（河南尹張全義が兼ねる）。｜後梁《こうりょう》の時代、晋が｜河陽《かよう》を年をまたいで持った記事は見つからない（｜後梁《こうりょう》は晋への備えに｜河陽《かよう》へ兵を屯させている）","石敬瑭が河陽に至り、河陽節度使萇従簡が迎え降る":"｜石敬瑭《せきけいとう》が｜河陽《かよう》に至り、｜河陽《かよう》｜節度使《せつどし》萇従簡が迎え降る","武行徳が契丹に背いて河陽を取り、劉知遠が河陽節度使に任じる":"武行徳が｜契丹《きったん》に背いて｜河陽《かよう》を取り、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜河陽《かよう》｜節度使《せつどし》に任じる","懐州":"｜懐州《かいしゅう》","後梁の内地の州。後梁の時代、晋が懐州を年をまたいで持った記事は見つからない（912年八月に懐州の戍兵の龍驤軍が潰乱したのは後梁の内乱）":"｜後梁《こうりょう》の内地の州。｜後梁《こうりょう》の時代、晋が｜懐州《かいしゅう》を年をまたいで持った記事は見つからない（912年八月に｜懐州《かいしゅう》の戍兵の龍驤軍が潰乱したのは｜後梁《こうりょう》の内乱）","契丹の崔廷勲らは河陽の囲みを解いて懐州へ退き、さらに北へ去る":"｜契丹《きったん》の崔廷勲らは｜河陽《かよう》の囲みを解いて｜懐州《かいしゅう》へ退き、さらに北へ去る","陝州":"｜陝州《せんしゅう》","後梁の陝州。晋州の救援に兵を出す":"｜後梁《こうりょう》の｜陝州《せんしゅう》。｜晋州《しんしゅう》の救援に兵を出す","陝州留後霍彦威が後唐に入朝":"｜陝州《せんしゅう》留後霍彦威が｜後唐《こうとう》に入朝","陝州の趙暉が劉知遠に付き、劉知遠は陝州に入る":"｜陝州《せんしゅう》の趙暉が｜劉知遠《りゅうちえん》に付き、｜劉知遠《りゅうちえん》は｜陝州《せんしゅう》に入る","許昌市":"｜許昌《きょしょう》市","許州の温昭図（温韜）が後梁の趙岩を斬って後唐に献じる":"許州の温昭図（温韜）が｜後梁《こうりょう》の趙岩を斬って｜後唐《こうとう》に献じる","陳州":"｜陳州《ちんしゅう》","蔡州":"｜蔡州《さいしゅう》","後梁の内地の州。911年に蔡州で右廂指揮使劉行琮が乱を起こし淮南へ奔ろうとしたが、王存儼が誅して後梁の城のまま。呉・南唐・荊南・楚が蔡州を取った記事は見つからない":"｜後梁《こうりょう》の内地の州。911年に｜蔡州《さいしゅう》で右廂指揮使劉行琮が乱を起こし｜淮南《わいなん》へ奔ろうとしたが、王存儼が誅して｜後梁《こうりょう》の城のまま。呉・｜南唐《なんとう》・｜荊南《けいなん》・楚が｜蔡州《さいしゅう》を取った記事は見つからない","汝州":"｜汝州《じょしゅう》","汝州市":"｜汝州《じょしゅう》市","鄧州":"｜鄧州《とうしゅう》","鄧州市":"｜鄧州《とうしゅう》市","後梁の内地の州。941年十一月、襄州の安従進が叛いて鄧州を攻めたが、威勝節度使安審暉が牙城を守り落ちなかった。呉・南唐・荊南・楚が鄧州を取った記事は見つからない":"｜後梁《こうりょう》の内地の州。941年十一月、襄州の｜安従進《あんじゅうしん》が叛いて｜鄧州《とうしゅう》を攻めたが、威勝｜節度使《せつどし》安審暉が牙城を守り落ちなかった。呉・｜南唐《なんとう》・｜荊南《けいなん》・楚が｜鄧州《とうしゅう》を取った記事は見つからない","後梁の内地の州。941年の安従進の叛乱では唐州刺史武延翰が朝廷に通報しており、唐州は後晋の城のまま。呉・南唐・荊南・楚が唐州を取った記事は見つからない":"｜後梁《こうりょう》の内地の州。941年の｜安従進《あんじゅうしん》の｜叛乱《はんらん》では唐州｜刺史《しし》武｜延翰《えんかん》が朝廷に通報しており、唐州は｜後晋《こうしん》の城のまま。呉・｜南唐《なんとう》・｜荊南《けいなん》・楚が唐州を取った記事は見つからない","潁州":"｜潁州《えいしゅう》","後梁の潁州。907年に淮南（呉）の米志誠が外郭を破ったが、刺史張実が子城を守り、後梁の救援で呉軍は退いた。916年に呉の徐知訓らが潁州を囲んだが、917年正月に後梁の袁象先が救援に至ると呉軍は退いた（包囲のみ）。949年十二月に南唐兵が淮を渡って正陽を攻めたが潁州の将白福進が破った。いずれも帰属は変えない":"｜後梁《こうりょう》の｜潁州《えいしゅう》。907年に｜淮南《わいなん》（呉）の米志誠が外郭を破ったが、｜刺史《しし》張実が｜子城《しじょう》を守り、｜後梁《こうりょう》の救援で呉軍は退いた。916年に呉の徐｜知訓《ちくん》らが｜潁州《えいしゅう》を囲んだが、917年正月に｜後梁《こうりょう》の｜袁《えん》｜象先《しょうせん》が救援に至ると呉軍は退いた（包囲のみ）。949年十二月に｜南唐《なんとう》兵が淮を渡って正陽を攻めたが｜潁州《えいしゅう》の将白福進が破った。いずれも帰属は変えない","揚州（江都）":"｜揚州《ようしゅう》（｜江都《こうと》）","揚州":"｜揚州《ようしゅう》","揚州市":"｜揚州《ようしゅう》市","淮南節度使・弘農王楊渥の本拠（広陵）。呉の都":"｜淮南《わいなん》｜節度使《せつどし》・｜弘農《こうのう》王｜楊渥《ようあく》の本拠（｜広陵《こうりょう》）。呉の都","937年十月、呉から南唐への交替（李昪の即位）":"937年十月、呉から｜南唐《なんとう》への交替（｜李昪《りべん》の即位）","南唐が揚州の官府・民家を焼いて民を江南へ移し、後周軍が入る":"｜南唐《なんとう》が｜揚州《ようしゅう》の官府・民家を焼いて民を｜江南《こうなん》へ移し、｜後周《こうしゅう》軍が入る","顕徳四年十二月":"｜顕徳《けんとく》四年十二月","960年正月、後周から宋への交替。同年九月に淮南節度使李重進が揚州で叛いたが、十一月に宋が攻め落としたので年内に収まった":"960年正月、｜後周《こうしゅう》から宋への交替。同年九月に｜淮南《わいなん》｜節度使《せつどし》李重進が｜揚州《ようしゅう》で叛いたが、十一月に宋が攻め落としたので年内に収まった","楚州":"｜楚州《そしゅう》","唐末に楊行密が取った楚州。後梁との境の城（淮水の南）。907年前後に持ち主が変わった記事は無い":"唐末に｜楊行密《ようこうみつ》が取った｜楚州《そしゅう》。｜後梁《こうりょう》との境の城（｜淮水《わいすい》の南）。907年前後に持ち主が変わった記事は無い","後周の世宗が楚州を攻め落とす（防禦使張彦卿は戦死）":"｜後周《こうしゅう》の｜世宗《せいそう》が｜楚州《そしゅう》を攻め落とす（防禦使張彦卿は戦死）","顕徳五年正月丁未":"｜顕徳《けんとく》五年正月丁未","957年十二月から包囲され、四十日余りで落ちた。957年の歳末はまだ南唐":"957年十二月から包囲され、四十日余りで落ちた。957年の歳末はまだ｜南唐《なんとう》","960年正月、後周から宋への交替":"960年正月、｜後周《こうしゅう》から宋への交替","泗州":"｜泗州《ししゅう》","唐末に刺史張諫が楊行密に付いた泗州。918年には呉が静淮軍を置いている。後梁との境の城":"唐末に｜刺史《しし》張諫が｜楊行密《ようこうみつ》に付いた｜泗州《ししゅう》。918年には呉が静淮軍を置いている。｜後梁《こうりょう》との境の城","南唐の泗州守将范再遇が城ごと後周に降る":"｜南唐《なんとう》の｜泗州《ししゅう》守将范再遇が城ごと｜後周《こうしゅう》に降る","顕徳四年十二月乙卯":"｜顕徳《けんとく》四年十二月乙卯","濠州":"｜濠州《ごうしゅう》","鳳陽県":"｜鳳陽《ほうよう》県","劉金・劉仁規・劉崇俊の三代が呉の濠州を治めた。後梁との境の城。943年に南唐が定遠軍を置く":"劉金・劉仁規・｜劉崇《りゅうすう》俊の三代が呉の｜濠州《ごうしゅう》を治めた。｜後梁《こうりょう》との境の城。943年に｜南唐《なんとう》が定遠軍を置く","南唐の濠州団練使郭廷謂が城ごと後周に降る":"｜南唐《なんとう》の｜濠州《ごうしゅう》団練使郭廷謂が城ごと｜後周《こうしゅう》に降る","顕徳四年十二月庚申":"｜顕徳《けんとく》四年十二月庚申","十一月から世宗が自ら攻め、郭廷謂は金陵に命を請うてから降った":"十一月から｜世宗《せいそう》が自ら攻め、郭廷謂は｜金陵《きんりょう》に命を請うてから降った","寿州":"｜寿州《じゅしゅう》","905年に朱全忠が攻めたが落ちず、908年にも後梁の寇彦卿が攻めて勝てなかった呉の城。後梁との境の大鎮":"905年に｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が攻めたが落ちず、908年にも｜後梁《こうりょう》の寇彦卿が攻めて勝てなかった呉の城。｜後梁《こうりょう》との境の大鎮","清淮軍節度使劉仁贍の寿州が後周に降る":"清淮軍｜節度使《せつどし》劉仁贍の｜寿州《じゅしゅう》が｜後周《こうしゅう》に降る","顕徳四年三月":"｜顕徳《けんとく》四年三月","955年十一月から後周に囲まれ、956年は年を通して包囲されたまま南唐が守った。降伏の後、治所を下蔡へ移す":"955年十一月から｜後周《こうしゅう》に囲まれ、956年は年を通して包囲されたまま｜南唐《なんとう》が守った。降伏の後、治所を下蔡へ移す","呉の廬州（楊行密の出身地）。907年に廬州観察使劉威が楚攻めに出ている":"呉の廬州（｜楊行密《ようこうみつ》の出身地）。907年に廬州観察使劉威が｜楚《そ》攻めに出ている","南唐が廬・舒・蘄・黄の4州を献じ、長江を境とする（江北の割譲）":"｜南唐《なんとう》が廬・舒・蘄・黄の4州を献じ、｜長江《ちょうこう》を境とする（｜江北《こうほく》の割譲）","顕徳五年三月":"｜顕徳《けんとく》五年三月","後周の攻撃では最後まで落ちず、割譲で後周の城になった。後周は保信軍を置く":"｜後周《こうしゅう》の攻撃では最後まで落ちず、割譲で｜後周《こうしゅう》の城になった。｜後周《こうしゅう》は保信軍を置く","905年に朱全忠が攻めたが刺史柴再用が守った呉の城。916年にも呉の光州として記事がある。後梁との境の城":"905年に｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が攻めたが｜刺史《しし》柴再用が守った呉の城。916年にも呉の光州として記事がある。｜後梁《こうりょう》との境の城","割譲の時点で光州はすでに後周の手にあった":"割譲の時点で光州はすでに｜後周《こうしゅう》の手にあった","顕徳五年三月まで":"｜顕徳《けんとく》五年三月まで","後周が取り直した年月は原文で確かめられない（957年の可能性もある）":"｜後周《こうしゅう》が取り直した年月は原文で確かめられない（957年の可能性もある）","黄州":"｜黄州《こうしゅう》","897年に朱友恭が一時取ったが、905年に呉が鄂州の杜洪を滅ぼした後は呉の黄州。907年の楚攻めのころ馬鄴が黄州刺史で、914年に楚の王環が夜襲して刺史を捕らえたが掠奪して引き返した（持ち主は変わらない）":"897年に朱｜友恭《ゆうきょう》が一時取ったが、905年に呉が｜鄂州《がくしゅう》の｜杜《と》洪を滅ぼした後は呉の｜黄州《こうしゅう》。907年の｜楚《そ》攻めのころ馬鄴が｜黄州《こうしゅう》｜刺史《しし》で、914年に楚の王環が夜襲して｜刺史《しし》を捕らえたが掠奪して引き返した（持ち主は変わらない）","956年に後周の斉蔵珍が攻めたが落ちなかった。後周の司超の「黄州刺史」は名だけの遥領":"956年に｜後周《こうしゅう》の斉蔵珍が攻めたが落ちなかった。｜後周《こうしゅう》の司超の「｜黄州《こうしゅう》｜刺史《しし》」は名だけの遥領","896年に刺史馮敬章が楊行密に降った蘄州。907年前後に持ち主が変わった記事は無い":"896年に｜刺史《しし》馮敬章が｜楊行密《ようこうみつ》に降った蘄州。907年前後に持ち主が変わった記事は無い","呉の舒州（904年に舒州団練使劉存、919年に舒州刺史彭彦章）":"呉の舒州（904年に舒州団練使劉存、919年に舒州｜刺史《しし》彭彦章）","二月に後周の司超・王審琦が舒州を攻めて刺史施仁望を捕らえたが、三月の時点で舒州はまだ落ちておらず、割譲で後周の城になった":"二月に｜後周《こうしゅう》の司超・王審琦が舒州を攻めて｜刺史《しし》施仁望を捕らえたが、三月の時点で舒州はまだ落ちておらず、割譲で｜後周《こうしゅう》の城になった","滁州":"｜滁州《じょしゅう》","滁州市":"｜滁州《じょしゅう》市","唐末に楊行密の将李神福が取った滁州。908年に呉の滁州刺史が後梁の寇彦卿を防いでいる":"唐末に｜楊行密《ようこうみつ》の将李神福が取った｜滁州《じょしゅう》。908年に呉の｜滁州《じょしゅう》｜刺史《しし》が｜後梁《こうりょう》の寇彦卿を防いでいる","割譲の時点で滁州はすでに後周の手にあった":"割譲の時点で｜滁州《じょしゅう》はすでに｜後周《こうしゅう》の手にあった","後周が取り直した年月は原文で確かめられない":"｜後周《こうしゅう》が取り直した年月は原文で確かめられない","唐末に楊行密の将李神福が取った和州。934年にも呉が臨川王濛を和州に幽閉している":"唐末に｜楊行密《ようこうみつ》の将李神福が取った和州。934年にも呉が臨川王濛を和州に幽閉している","割譲の時点で和州はすでに後周の手にあった":"割譲の時点で和州はすでに｜後周《こうしゅう》の手にあった","揚州海陵県（呉の都江都の東）。州になる前で、呉の内地":"｜揚州《ようしゅう》｜海陵《かいりょう》県（呉の都｜江都《こうと》の東）。州になる前で、呉の内地","937年十月、呉から南唐への交替。同じ年に海陵県を泰州に昇格":"937年十月、呉から｜南唐《なんとう》への交替。同じ年に｜海陵《かいりょう》県を泰州に昇格","後周が備えの無い泰州を襲って取る":"｜後周《こうしゅう》が備えの無い泰州を襲って取る","顕徳四年十二月丁丑":"｜顕徳《けんとく》四年十二月丁丑","東の静海軍（のちの通州、今の南通市）は958年正月に後周が取って通州とした。静海は956年に南唐の静海制置使が呉越へ逃げている":"東の静海軍（のちの｜通州《つうしゅう》、今の南通市）は958年正月に｜後周《こうしゅう》が取って｜通州《つうしゅう》とした。静海は956年に｜南唐《なんとう》の静海制置使が呉越へ逃げている","昇州（金陵・江寧）":"昇州（｜金陵《きんりょう》・｜江寧《こうねい》）","南京市":"｜南京《なんきん》市","呉の昇州。906年に昇州刺史の秦裴が江西攻めの将に立てられている（907年に直接触れる記事は見つからない）":"呉の昇州。906年に昇州｜刺史《しし》の秦裴が｜江西《こうせい》攻めの将に立てられている（907年に直接触れる記事は見つからない）","呉から南唐へ":"呉から｜南唐《なんとう》へ","天福二年十月":"｜天福《てんぷく》二年十月","南唐の都（江寧府）":"｜南唐《なんとう》の都（｜江寧府《こうねいふ》）","曹彬の宋軍が金陵を落とし、李煜が表を奉じて降る（南唐の滅亡）":"曹｜彬《ひん》の｜宋《そう》軍が｜金陵《きんりょう》を落とし、｜李煜《りいく》が表を奉じて降る（｜南唐《なんとう》の滅亡）","開宝八年十一月乙未":"｜開宝《かいほう》八年十一月｜乙未《いつび》","潤州":"｜潤州《じゅんしゅう》","呉の潤州（浙西観察使の治所）。907年に直接触れる記事は見つからず、908年に徐温が浙西観察使として潤州に出鎮した記事で裏づける":"呉の｜潤州《じゅんしゅう》（浙西観察使の治所）。907年に直接触れる記事は見つからず、908年に｜徐温《じょおん》が浙西観察使として｜潤州《じゅんしゅう》に出鎮した記事で裏づける","呉の城がそのまま南唐へ（937年十月に李昪が即位）":"呉の城がそのまま｜南唐《なんとう》へ（937年十月に｜李昪《りべん》が即位）","丁徳裕と呉越の兵に囲まれ、潤州留後の劉澄が城を開いて降る":"丁徳裕と呉越の兵に囲まれ、｜潤州《じゅんしゅう》留後の劉澄が城を開いて降る","開宝八年九月戊寅":"｜開宝《かいほう》八年九月戊寅","呉の常州。908年に呉越が常州の東洲を取ったが呉がすぐ取り返し、910年には呉の常州刺史李簡が見える。呉越は908・919年に常州を攻め、956年には呉越の呉程が外郭を破ったが、いずれも年内に退いて城は動かない":"呉の常州。908年に呉越が常州の東洲を取ったが呉がすぐ取り返し、910年には呉の常州｜刺史《しし》李簡が見える。呉越は908・919年に常州を攻め、956年には呉越の呉程が外郭を破ったが、いずれも年内に退いて城は動かない","宋の命で出た呉越王俶の兵に囲まれ、大将金成礼が刺史禹万成を捕えて城ごと降る。五月に宋の行営兵馬都監丁徳裕が権知常州":"宋の命で出た｜呉越王《ごえつおう》俶の兵に囲まれ、大将金成礼が｜刺史《しし》禹万成を捕えて城ごと降る。五月に宋の｜行営《こうえい》兵馬都監丁徳裕が権知常州","開宝八年四月丁巳":"｜開宝《かいほう》八年四月丁巳","攻めたのは呉越の兵だが、宋の招撫制置使としての出兵で、降った後は宋の監軍が知州を務めたので宋の城とする":"攻めたのは呉越の兵だが、宋の｜招撫《しょうぶ》制置使としての出兵で、降った後は宋の｜監軍《かんぐん》が知州を務めたので宋の城とする","呉の宣州（寧国軍）。906年正月に王茂章が両浙へ奔って呉が取り戻し、907年には宣州の兵が楊渥の親兵として見える。912年に観察使李遇が徐温に背いたが同年五月に降って殺され、城は動かない":"呉の宣州（寧国軍）。906年正月に王茂章が両浙へ奔って呉が取り戻し、907年には宣州の兵が｜楊渥《ようあく》の親兵として見える。912年に観察使李遇が｜徐温《じょおん》に背いたが同年五月に降って殺され、城は動かない","金陵が落ちて李煜が降り、南唐の州が宋に帰する":"｜金陵《きんりょう》が落ちて｜李煜《りいく》が降り、｜南唐《なんとう》の州が宋に帰する","開宝八年十一月":"｜開宝《かいほう》八年十一月","南唐の滅亡とともに宋へ。盧絳が潤州から宣州へ移り、金陵の陥落を聞いて福建へ向かった":"｜南唐《なんとう》の滅亡とともに宋へ。盧絳が｜潤州《じゅんしゅう》から宣州へ移り、｜金陵《きんりょう》の陥落を聞いて｜福建《ふっけん》へ向かった","曹彬の宋軍が江を下り、守将の戈彦が城を棄てて逃げ、宋軍が池州に入る":"曹｜彬《ひん》の｜宋《そう》軍が江を下り、守将の戈彦が城を棄てて逃げ、｜宋《そう》軍が池州に入る","開宝七年閏十月己酉":"｜開宝《かいほう》七年閏十月己酉","呉の歙州（刺史・観察使の陶雅）。906年に睦州から歙州へ引き返した記事と、909年に歙州刺史陶雅が饒州・信州を襲った記事で前後を挟む":"呉の歙州（｜刺史《しし》・観察使の陶雅）。906年に睦州から歙州へ引き返した記事と、909年に歙州｜刺史《しし》陶雅が｜饒州《じょうしゅう》・信州を襲った記事で前後を挟む","南唐の滅亡とともに宋へ":"｜南唐《なんとう》の滅亡とともに宋へ","江州":"｜江州《こうしゅう》","九江市":"｜九江《きゅうこう》市","906年に鍾伝の養子の江州刺史鍾延規が呉に降り、以後呉の江州":"906年に鍾伝の養子の｜江州《こうしゅう》｜刺史《しし》鍾延規が呉に降り、以後呉の｜江州《こうしゅう》","胡則（南唐の残兵）":"胡則（｜南唐《なんとう》の残兵）","李煜の降伏の書が届くと、江州の軍校胡則が宋徳明らと刺史謝彦賓を殺し、城に拠って宋に降らない":"｜李煜《りいく》の降伏の書が届くと、｜江州《こうしゅう》の軍校胡則が宋｜徳明《とくめい》らと｜刺史《しし》謝彦賓を殺し、城に拠って宋に降らない","開宝八年十一月以後":"｜開宝《かいほう》八年十一月以後","曹翰が冬から夏まで攻めて江州を落とし、胡則を斬って城を屠る":"曹翰が冬から夏まで攻めて｜江州《こうしゅう》を落とし、胡則を斬って城を屠る","太平興国元年（開宝九年）四月丁巳":"｜太平興国《たいへいこうこく》元年（｜開宝《かいほう》九年）四月丁巳","洪州（南昌）":"｜洪州《こうしゅう》（｜南昌《なんしょう》）","洪州":"｜洪州《こうしゅう》","南昌市":"｜南昌《なんしょう》市","906年九月に秦裴が洪州を抜き鍾匡時を捕えて以後、呉の洪州（鎮南軍）。907年に楚と吉州の彭玕が洪州を攻めたが落ちなかった":"906年九月に秦裴が｜洪州《こうしゅう》を抜き鍾匡時を捕えて以後、呉の｜洪州《こうしゅう》（鎮南軍）。907年に楚と吉州の彭玕が｜洪州《こうしゅう》を攻めたが落ちなかった","饒州":"｜饒州《じょうしゅう》","鄱陽県":"｜鄱陽《はよう》県","906年七月、秦裴が洪州を囲んだとき饒州刺史の唐宝が呉に降った":"906年七月、秦裴が｜洪州《こうしゅう》を囲んだとき｜饒州《じょうしゅう》｜刺史《しし》の唐宝が呉に降った","信州刺史の危仔倡は撫州の危全諷の弟筋で、呉に従わない。907年に呉が信州を攻め、仔倡は呉越に救いを求めた":"信州｜刺史《しし》の危仔倡は撫州の危全諷の弟筋で、呉に従わない。907年に呉が信州を攻め、仔倡は呉越に救いを求めた","開平三年七月":"｜開平《かいへい》三年七月","撫州刺史の危全諷は鍾伝の時代から自立に近く、鍾伝の死後は呉に従わず、吉州の彭玕・信州の危仔倡・虔州の盧光稠と結んでいた（907年に直接触れる記事は見つからない）":"撫州｜刺史《しし》の危全諷は鍾伝の時代から自立に近く、鍾伝の死後は呉に従わず、吉州の彭玕・信州の危仔倡・｜虔州《けんしゅう》の盧光稠と結んでいた（907年に直接触れる記事は見つからない）","危全諷が鎮南節度使を称して洪州を攻め、象牙潭で周本に敗れて捕えられる。江西の地はことごとく呉に入る":"危全諷が鎮南｜節度使《せつどし》を称して｜洪州《こうしゅう》を攻め、象牙潭で周本に敗れて捕えられる。｜江西《こうせい》の地はことごとく呉に入る","開平三年七月庚辰":"｜開平《かいへい》三年七月庚辰","南唐の滅亡とともに宋へ。976年正月に昭武軍（撫州）節度留後を名乗る盧絳が州県を焼き掠めたが、盧絳は宣州から歙州へ動いており、撫州の城に拠った記事ではない":"｜南唐《なんとう》の滅亡とともに宋へ。976年正月に｜昭武《しょうぶ》軍（撫州）節度留後を名乗る盧絳が州県を焼き掠めたが、盧絳は宣州から歙州へ動いており、撫州の城に拠った記事ではない","袁州":"｜袁州《えんしゅう》","彭彦章（袁州）":"彭彦章（｜袁州《えんしゅう》）","袁州刺史の彭彦章は吉州の彭玕の兄の子で、楚と結び呉に従わない（907年に直接触れる記事は見つからない。909年の条で袁州刺史として見える）":"｜袁州《えんしゅう》｜刺史《しし》の彭彦章は吉州の彭玕の兄の子で、楚と結び呉に従わない（907年に直接触れる記事は見つからない。909年の条で｜袁州《えんしゅう》｜刺史《しし》として見える）","象牙潭の勝ちに乗って周本が袁州を取り、刺史彭彦章を捕える":"象牙潭の勝ちに乗って周本が｜袁州《えんしゅう》を取り、｜刺史《しし》彭彦章を捕える","呉の城がそのまま南唐へ（937年十月に李昪が即位）。914年に呉の袁州刺史劉崇景が楚に付いたが、同じ年に呉の柴再用に敗れて袁州を棄てたので城は動かない":"呉の城がそのまま｜南唐《なんとう》へ（937年十月に｜李昪《りべん》が即位）。914年に呉の｜袁州《えんしゅう》｜刺史《しし》｜劉崇《りゅうすう》景が楚に付いたが、同じ年に呉の柴再用に敗れて｜袁州《えんしゅう》を棄てたので城は動かない","吉州刺史の彭玕は906年に楚に降ることを請い、907年には楚の兵と組んで呉の洪州を攻めた。楚の城とは言えないので独立勢力として描く":"吉州｜刺史《しし》の彭玕は906年に楚に降ることを請い、907年には楚の兵と組んで呉の｜洪州《こうしゅう》を攻めた。楚の城とは言えないので独立勢力として描く","虔州":"｜虔州《けんしゅう》","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","虔州（盧光稠・譚全播）":"｜虔州《けんしゅう》（盧光稠・譚全播）","盧光稠が虔州に拠り、梁から百勝軍の号を受けた。909年に呉にも付いたが名ばかりで、梁にも通じていた。910年に盧光稠が死に、子の盧延昌・黎球・李彦図を経て、912年から譚全播が州を治めた":"盧光稠が｜虔州《けんしゅう》に拠り、梁から百勝軍の号を受けた。909年に呉にも付いたが名ばかりで、梁にも通じていた。910年に盧光稠が死に、子の盧｜延昌《えんしょう》・黎球・李彦図を経て、912年から譚全播が州を治めた","呉の劉信が虔州を攻め、再攻で虔州の兵が潰え、譚全播を雩都で捕える":"呉の劉信が｜虔州《けんしゅう》を攻め、再攻で｜虔州《けんしゅう》の兵が潰え、譚全播を雩都で捕える","貞明四年":"｜貞明《ていめい》四年","江陵府（荊州）":"｜江陵《こうりょう》府（｜荊州《けいしゅう》）","江陵府":"｜江陵《こうりょう》府","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","後梁が高季昌（のちの高季興）を荊南節度使とした":"｜後梁《こうりょう》が高季昌（のちの高季興）を｜荊南《けいなん》｜節度使《せつどし》とした","開平元年":"｜開平《かいへい》元年","依頼主の地図の方針に従い907年から荊南とする。この年の荊南は江陵の一城だけで、高季昌は後梁の任じた節度使として後梁に従っていた（後梁の太祖の死後は朝貢を絶ち、のち後唐・呉への称臣と離反を繰り返す）。907年に武貞軍の雷彦恭と楚の兵が江陵を攻めたが退けた":"依頼主の地図の方針に従い907年から｜荊南《けいなん》とする。この年の｜荊南《けいなん》は｜江陵《こうりょう》の一城だけで、高季昌は｜後梁《こうりょう》の任じた｜節度使《せつどし》として｜後梁《こうりょう》に従っていた（｜後梁《こうりょう》の｜太祖《たいそ》の死後は朝貢を絶ち、のち｜後唐《こうとう》・呉への｜称臣《しょうしん》と離反を繰り返す）。907年に武貞軍の雷彦恭と楚の兵が｜江陵《こうりょう》を攻めたが退けた","宋の李処耘・慕容延釗が江陵に入り、高継沖が三州を献じて降った":"宋の李処耘・｜慕容《ぼよう》延釗が｜江陵《こうりょう》に入り、高継沖が｜三州《さんしゅう》を献じて降った","乾徳元年二月":"｜乾徳《けんとく》元年二月","927年の後唐の劉訓の攻撃、928年の楚軍の進逼はいずれも撤退で終わり、江陵は963年まで荊南の本拠のまま":"927年の｜後唐《こうとう》の劉訓の攻撃、928年の｜楚《そ》軍の進逼はいずれも撤退で終わり、｜江陵《こうりょう》は963年まで｜荊南《けいなん》の本拠のまま","十国春秋の地理表は峡州を「梁の時は蜀に属し、後唐の時に高氏の所有となる」とする。新五代史前蜀世家は906年に蜀が帰州を取って三峡を併せたとし、南平世家は後梁の太祖の死後に高季昌が帰・峡を攻めて蜀将の王宗寿に敗れたとする。907年の峡州の守将の名は原文に見えない":"｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の地理表は峡州を「梁の時は蜀に属し、｜後唐《こうとう》の時に｜高氏《こうし》の所有となる」とする。｜新五代史《しんごだいし》前蜀世家は906年に蜀が帰州を取って｜三峡《さんきょう》を併せたとし、南平｜世家《せいか》は｜後梁《こうりょう》の｜太祖《たいそ》の死後に高季昌が帰・峡を攻めて蜀将の王宗寿に敗れたとする。907年の峡州の守将の名は原文に見えない","925年十一月に前蜀が滅び、前蜀の城は後唐へ移った（新五代史は、高季興は兵を出さず唐が他の将で帰・峡を含む五州を取ったとする）":"925年十一月に｜前蜀《ぜんしょく》が滅び、｜前蜀《ぜんしょく》の城は｜後唐《こうとう》へ移った（｜新五代史《しんごだいし》は、高季興は兵を出さず唐が他の将で帰・峡を含む五州を取ったとする）","高季興が夔・忠・万・帰・峡の五州を属郡に求め、後唐が許した":"高季興が夔・忠・万・帰・峡の五州を属郡に求め、｜後唐《こうとう》が許した","天成元年":"｜天成《てんせい》元年","通鑑はこの時与えた州を夔・忠・万の三州とだけ記すが、新五代史・十国春秋は帰・峡を含む五州とし、927年に西方鄴が夔・忠・万を取り返したあと高季興は荊・帰・峡の三州で呉に称臣している。以後963年まで荊南の州":"通鑑はこの時与えた州を夔・忠・万の｜三州《さんしゅう》とだけ記すが、｜新五代史《しんごだいし》・｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》は帰・峡を含む五州とし、927年に西方鄴が夔・忠・万を取り返したあと高季興は荊・帰・峡の｜三州《さんしゅう》で呉に｜称臣《しょうしん》している。以後963年まで｜荊南《けいなん》の州","高継沖が江陵・帰・峡の三州を献じて宋に降った":"高継沖が｜江陵《こうりょう》・帰・峡の｜三州《さんしゅう》を献じて宋に降った","908年正月に前蜀の兵が帰州に入って捕らえた刺史の張瑭を、十国春秋は「梁の刺史」とする。荊南の高季昌はこの年江陵の一城しか持っていなかったので、後梁の任じた刺史が直接守っていた州として扱う。906年に前蜀の王宗阮が帰州を攻めているが、新五代史前蜀世家の「906年に帰州を取る」と通鑑の908年の記事は食い違う":"908年正月に｜前蜀《ぜんしょく》の兵が帰州に入って捕らえた｜刺史《しし》の張瑭を、｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》は「梁の｜刺史《しし》」とする。｜荊南《けいなん》の高季昌はこの年｜江陵《こうりょう》の一城しか持っていなかったので、｜後梁《こうりょう》の任じた｜刺史《しし》が直接守っていた州として扱う。906年に｜前蜀《ぜんしょく》の王宗阮が帰州を攻めているが、｜新五代史《しんごだいし》前蜀世家の「906年に帰州を取る」と通鑑の908年の記事は食い違う","前蜀の兵が帰州に入り、刺史の張瑭を捕らえた":"｜前蜀《ぜんしょく》の兵が帰州に入り、｜刺史《しし》の張瑭を捕らえた","開平二年正月甲子":"｜開平《かいへい》二年正月｜甲子《こうし》","925年十一月に前蜀が滅び、前蜀の城は後唐へ移った（新五代史は唐が他の将で帰・峡を含む五州を取ったとする）":"925年十一月に｜前蜀《ぜんしょく》が滅び、｜前蜀《ぜんしょく》の城は｜後唐《こうとう》へ移った（｜新五代史《しんごだいし》は唐が他の将で帰・峡を含む五州を取ったとする）","通鑑はこの時与えた州を夔・忠・万の三州とだけ記す。帰州が荊南に入った年は新五代史・十国春秋による":"通鑑はこの時与えた州を夔・忠・万の｜三州《さんしゅう》とだけ記す。帰州が｜荊南《けいなん》に入った年は｜新五代史《しんごだいし》・｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》による","後唐の寧江節度使西方鄴が三月に帰州を抜き（間もなく荊南が取り返す）、のち忠州刺史の王雅が帰州を取った":"｜後唐《こうとう》の寧江｜節度使《せつどし》西方鄴が三月に帰州を抜き（間もなく｜荊南《けいなん》が取り返す）、のち忠州｜刺史《しし》の王雅が帰州を取った","天成三年":"｜天成《てんせい》三年","928年に高季興は後唐に背いて呉に称臣していた":"928年に高季興は｜後唐《こうとう》に背いて呉に｜称臣《しょうしん》していた","高従誨が後唐に帰順し、荊南節度使に任じられた":"高従誨が｜後唐《こうとう》に帰順し、｜荊南《けいなん》｜節度使《せつどし》に任じられた","天成四年":"｜天成《てんせい》四年","帰州が荊南に戻った記事は原文に見つからない。929年に荊南が後唐に帰順した時点で戻ったとみる。948年に後漢は高保融を荊南節度・荊帰峡観察使とし、新五代史は後周の末に荊・帰・峡の三州を南平としている":"帰州が｜荊南《けいなん》に戻った記事は原文に見つからない。929年に｜荊南《けいなん》が｜後唐《こうとう》に帰順した時点で戻ったとみる。948年に｜後漢《ごかん》は高保融を｜荊南《けいなん》節度・荊帰峡観察使とし、｜新五代史《しんごだいし》は｜後周《こうしゅう》の末に荊・帰・峡の｜三州《さんしゅう》を南平としている","襄州（襄陽）":"襄州（｜襄陽《じょうよう》）","襄陽市":"｜襄陽《じょうよう》市","後梁の山南東道節度使（楊師厚）の治所。909年に牙兵の王求らが留後の王班を殺し李洪を立てて前蜀に付いたが、同年九月に後梁の陳暉が城を抜いた。941年十一月に後晋の節度使安従進が叛き、942年八月に高行周が城を抜いた（いずれも1年に満たないので帰属は変えない）。912年・947年に荊南が襄州を攻めたが退けられた":"｜後梁《こうりょう》の山南東道｜節度使《せつどし》（｜楊《よう》｜師厚《しこう》）の治所。909年に牙兵の王求らが留後の王班を殺し李洪を立てて｜前蜀《ぜんしょく》に付いたが、同年九月に｜後梁《こうりょう》の陳暉が城を抜いた。941年十一月に｜後晋《こうしん》の｜節度使《せつどし》｜安従進《あんじゅうしん》が叛き、942年八月に高｜行周《こうしゅう》が城を抜いた（いずれも1年に満たないので帰属は変えない）。912年・947年に｜荊南《けいなん》が襄州を攻めたが退けられた","923年十月に後梁が滅び、後梁の州は後唐へ移った":"923年十月に｜後梁《こうりょう》が滅び、｜後梁《こうりょう》の州は｜後唐《こうとう》へ移った","936年閏十一月に後晋が後唐に代わった":"936年閏十一月に｜後晋《こうしん》が｜後唐《こうとう》に代わった","946年十二月に契丹軍が大梁に入り後晋が滅んだ。依頼主の方針に従い後晋の城を年末には契丹とする（この地方に契丹の軍が入ったわけではない）":"946年十二月に｜契丹《きったん》軍が｜大梁《だいりょう》に入り｜後晋《こうしん》が滅んだ。依頼主の方針に従い｜後晋《こうしん》の城を年末には｜契丹《きったん》とする（この地方に｜契丹《きったん》の軍が入ったわけではない）","947年六月に劉知遠が大梁に入り、契丹が持っていた中原の城は後漢へ移った":"947年六月に｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入り、｜契丹《きったん》が持っていた｜中原《ちゅうげん》の城は｜後漢《ごかん》へ移った","951年正月に郭威が即位して後周を建てた":"951年正月に｜郭威《かくい》が即位して｜後周《こうしゅう》を建てた","960年正月に宋が後周に代わった":"960年正月に宋が｜後周《こうしゅう》に代わった","均州":"｜均州《きんしゅう》","後梁の州。909年に均州刺史の張敬方が前蜀に付いた房州を取り返している。941年に襄州の安従進が均州刺史蔡行遇を迎えようとして阻まれ、均州は後晋のまま":"｜後梁《こうりょう》の州。909年に｜均州《きんしゅう》｜刺史《しし》の張敬方が｜前蜀《ぜんしょく》に付いた｜房州《ぼうしゅう》を取り返している。941年に襄州の｜安従進《あんじゅうしん》が｜均州《きんしゅう》｜刺史《しし》蔡行遇を迎えようとして阻まれ、｜均州《きんしゅう》は｜後晋《こうしん》のまま","房州":"｜房州《ぼうしゅう》","後梁の州。909年七月に房州刺史の楊虔が前蜀に付いたが、同年八月に均州刺史の張敬方が取り返した（年内なので帰属は変えない）":"｜後梁《こうりょう》の州。909年七月に｜房州《ぼうしゅう》｜刺史《しし》の楊虔が｜前蜀《ぜんしょく》に付いたが、同年八月に｜均州《きんしゅう》｜刺史《しし》の張敬方が取り返した（年内なので帰属は変えない）","郢州":"｜郢州《えいしゅう》","後梁の州。947年に荊南の高従誨が郢州を攻めたが刺史の尹実に大敗した。941年に荊南が郢州を属郡に求めたが後晋は許さなかった":"｜後梁《こうりょう》の州。947年に｜荊南《けいなん》の高従誨が｜郢州《えいしゅう》を攻めたが｜刺史《しし》の尹実に大敗した。941年に｜荊南《けいなん》が｜郢州《えいしゅう》を属郡に求めたが｜後晋《こうしん》は許さなかった","安陸市":"｜安陸《あんりく》市","後梁の州（後唐から安遠軍）。919〜920年に呉の張崇が攻めたが落ちず、934年に奴の王希全らが節度使符彦超を殺して呉に付こうとしたが即日討たれ、937年に王暉が節度使周瓌を殺したが同年部将に殺され、940年に節度使李金全が南唐に付いて南唐軍が入城したが数日で後晋の馬全節が取り返した（いずれも年内なので帰属は変えない）":"｜後梁《こうりょう》の州（｜後唐《こうとう》から安遠軍）。919〜920年に呉の張崇が攻めたが落ちず、934年に奴の王希全らが｜節度使《せつどし》符｜彦超《げんちょう》を殺して呉に付こうとしたが即日討たれ、937年に王暉が｜節度使《せつどし》周瓌を殺したが同年部将に殺され、940年に｜節度使《せつどし》李金全が｜南唐《なんとう》に付いて｜南唐《なんとう》軍が入城したが数日で｜後晋《こうしん》の馬全節が取り返した（いずれも年内なので帰属は変えない）","後梁の州（山南東道の巡属）。この時代に随州の帰属が変わった記事は見当たらない":"｜後梁《こうりょう》の州（山南東道の巡属）。この時代に随州の帰属が変わった記事は見当たらない","後梁の州。919年に呉の武昌節度使李簡が水軍で復州に入り知州の鮑唐を捕らえたが、呉が城を持ち続けた記事はない（十国春秋は鮑唐を「梁の復州知州」とする）":"｜後梁《こうりょう》の州。919年に呉の｜武昌《ぶしょう》｜節度使《せつどし》李簡が水軍で復州に入り知州の鮑唐を捕らえたが、呉が城を持ち続けた記事はない（｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》は鮑唐を「梁の復州知州」とする）","鄂州":"｜鄂州《がくしゅう》","武漢市武昌区":"武漢市｜武昌《ぶしょう》区","905年に淮南の劉存が杜洪の鄂州を抜き鄂岳観察使となって以来、呉の州。908年に楚が攻めたが淮南の知州秦裴に退けられた":"905年に｜淮南《わいなん》の劉存が｜杜《と》洪の｜鄂州《がくしゅう》を抜き鄂岳観察使となって以来、呉の州。908年に楚が攻めたが｜淮南《わいなん》の知州秦裴に退けられた","937年十月に李昪が即位し、呉の城は南唐へ移った":"937年十月に｜李昪《りべん》が即位し、呉の城は｜南唐《なんとう》へ移った","金陵が落ちて南唐の国主李煜が降った":"｜金陵《きんりょう》が落ちて｜南唐《なんとう》の国主｜李煜《りいく》が降った","956年に後周の命で湖南の王逵が鄂州を攻め、958年に南唐は江北を後周に割いたが、江南の鄂州は975年まで南唐のまま。974〜975年に宋の漢陽軍が鄂州の水軍を破っている。李煜の降伏のあと江南の諸城は相次いで帰順した":"956年に｜後周《こうしゅう》の命で｜湖南《こなん》の王逵が｜鄂州《がくしゅう》を攻め、958年に｜南唐《なんとう》は｜江北《こうほく》を｜後周《こうしゅう》に割いたが、｜江南《こうなん》の｜鄂州《がくしゅう》は975年まで｜南唐《なんとう》のまま。974〜975年に宋の｜漢陽《かんよう》軍が｜鄂州《がくしゅう》の水軍を破っている。｜李煜《りいく》の降伏のあと｜江南《こうなん》の諸城は相次いで帰順した","岳州":"｜岳州《がくしゅう》","楚の秦彦暉が呉の劉存・陳知新を破り、岳州を抜いた":"楚の秦彦暉が呉の劉存・陳知新を破り、｜岳州《がくしゅう》を抜いた","開平元年六月":"｜開平《かいへい》元年六月","906年三月に淮南（呉）の陳知新が楚の岳州を取っていたが、907年に楚が取り返した。同年十月には楚の岳州刺史許徳勲が呉の援軍を破っている":"906年三月に｜淮南《わいなん》（呉）の陳知新が楚の｜岳州《がくしゅう》を取っていたが、907年に楚が取り返した。同年十月には楚の｜岳州《がくしゅう》｜刺史《しし》許徳勲が呉の援軍を破っている","楚の滅亡に乗じ、南唐の武昌節度使劉仁贍が岳州を取った":"楚の滅亡に乗じ、｜南唐《なんとう》の｜武昌《ぶしょう》｜節度使《せつどし》劉仁贍が｜岳州《がくしゅう》を取った","広順元年十月癸丑":"｜広順《こうじゅん》元年十月｜癸丑《きちゅう》","950年に馬希萼が岳州を攻めたが刺史の王贇が守り、のち馬希萼が楚王となったので950年までは楚の州":"950年に馬｜希萼《きがく》が｜岳州《がくしゅう》を攻めたが｜刺史《しし》の王贇が守り、のち馬｜希萼《きがく》が｜楚王《そおう》となったので950年までは楚の州","劉言の将の王逵らが潭州を取り、蒲公益が岳州を攻めて南唐の刺史宋徳権が逃げた":"劉言の将の王逵らが｜潭州《たんしゅう》を取り、蒲公益が｜岳州《がくしゅう》を攻めて｜南唐《なんとう》の｜刺史《しし》宋徳権が逃げた","954年に王逵は潘叔嗣を岳州団練使とした。956年に潘叔嗣が王逵を殺したが、武平軍（周行逢）の州のまま":"954年に王逵は潘叔嗣を｜岳州《がくしゅう》団練使とした。956年に潘叔嗣が王逵を殺したが、｜武平《ぶへい》軍（周行逢）の州のまま","宋の慕容延釗の別軍が三江口で湖南の軍を破り、岳州を取った":"宋の｜慕容《ぼよう》延釗の別軍が三江口で｜湖南《こなん》の軍を破り、｜岳州《がくしゅう》を取った","雷満の子の雷彦恭が武貞節度使として朗州に拠り、楚とともに江陵を攻めたり荊南を荒らしたりしたうえ淮南（呉）に付いたので、907年九月に後梁が官爵を削り、高季昌と楚に討たせた":"雷満の子の雷彦恭が武貞節度使として朗州に拠り、楚とともに｜江陵《こうりょう》を攻めたり｜荊南《けいなん》を荒らしたりしたうえ｜淮南《わいなん》（呉）に付いたので、907年九月に｜後梁《こうりょう》が官爵を削り、高季昌と楚に討たせた","楚の秦彦暉が朗州を破り、雷彦恭は広陵へ逃げた":"楚の秦彦暉が朗州を破り、雷彦恭は｜広陵《こうりょう》へ逃げた","朗州の王逵・周行逢らが馬希萼に背いて朗州へ帰り、辰州刺史の劉言を迎えて権武平留後とした":"朗州の王逵・周行逢らが馬｜希萼《きがく》に背いて朗州へ帰り、辰州｜刺史《しし》の劉言を迎えて権｜武平《ぶへい》留後とした","949〜950年に朗州（武平軍）の馬希萼が兄弟の楚王馬希広と争って南唐に称藩し、950年末に潭州を取って楚王となったが、これは楚の内紛なので950年までは楚とする。951年に朗州の軍が離反し、十月に楚が南唐に降ると、劉言は南唐に節を求めつつ後周にも称藩して自立した（依頼主の表は武平軍を952年からとするが、朗州は951年中に自立している）。952年に潭州を取り、953年に王逵が劉言を捕らえ、956年に潘叔嗣が王逵を殺し、以後は周行逢・周保権。朗州は954年以後武平軍の使府":"949〜950年に朗州（｜武平《ぶへい》軍）の馬｜希萼《きがく》が兄弟の｜楚王《そおう》馬希広と争って｜南唐《なんとう》に｜称藩《しょうはん》し、950年末に｜潭州《たんしゅう》を取って｜楚王《そおう》となったが、これは楚の内紛なので950年までは楚とする。951年に朗州の軍が離反し、十月に楚が｜南唐《なんとう》に降ると、劉言は｜南唐《なんとう》に節を求めつつ｜後周《こうしゅう》にも｜称藩《しょうはん》して自立した（依頼主の表は｜武平《ぶへい》軍を952年からとするが、朗州は951年中に自立している）。952年に｜潭州《たんしゅう》を取り、953年に王逵が劉言を捕らえ、956年に潘叔嗣が王逵を殺し、以後は周行逢・周保権。朗州は954年以後｜武平《ぶへい》軍の使府","宋の李処耘・慕容延釗が朗州に入り、湖南の旧地をすべて収めた":"宋の李処耘・｜慕容《ぼよう》延釗が朗州に入り、｜湖南《こなん》の旧地をすべて収めた","乾徳元年三月壬戌":"｜乾徳《けんとく》元年三月壬戌","唐末に澧陽の人の向瓌が刺史を殺して澧州に拠り、朗州の雷彦恭と互いに結んでいた":"唐末に澧陽の人の向瓌が｜刺史《しし》を殺して澧州に拠り、朗州の雷彦恭と互いに結んでいた","楚が朗州を破ると、雷彦恭と結んでいた澧州刺史の向瓌も楚に降った":"楚が朗州を破ると、雷彦恭と結んでいた澧州｜刺史《しし》の向瓌も楚に降った","951年に朗州の軍が楚から離れて劉言を武平留後に立てた。澧州は唐の武貞（武平）軍の巡属で朗州の北隣にあり、南唐が澧州を取った記事もないので朗州とともに武平軍とする。963年に武平軍の張従富が澧州の南で宋軍と戦って潰えた":"951年に朗州の軍が楚から離れて劉言を｜武平《ぶへい》留後に立てた。澧州は唐の武貞（｜武平《ぶへい》）軍の巡属で朗州の北隣にあり、｜南唐《なんとう》が澧州を取った記事もないので朗州とともに｜武平《ぶへい》軍とする。963年に｜武平《ぶへい》軍の張従富が澧州の南で｜宋《そう》軍と戦って潰えた","湖南の張従富らの軍が澧州の南で宋軍に潰え、宋が朗州に入って湖南の旧地を収めた":"｜湖南《こなん》の張従富らの軍が澧州の南で｜宋《そう》軍に潰え、宋が朗州に入って｜湖南《こなん》の旧地を収めた","広州（興王府）":"｜広州《こうしゅう》（興王府）","広州":"｜広州《こうしゅう》","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","清海軍節度使劉隠の本拠。後梁は劉隠に兼侍中を加え大彭王とした（名目上の封爵で、広州は劉氏の城）。917年に劉岩（劉龑）が番禺で即位し国号を大越（翌年に漢）とし、広州を興王府とした（国号の変化のみ）":"清海軍｜節度使《せつどし》｜劉隠《りゅういん》の本拠。｜後梁《こうりょう》は｜劉隠《りゅういん》に兼｜侍中《じちゅう》を加え大彭王とした（名目上の｜封爵《ほうしゃく》で、｜広州《こうしゅう》は｜劉氏《りゅうし》の城）。917年に劉岩（｜劉龑《りゅうえん》）が｜番禺《ばんぐう》で即位し国号を｜大越《だいえつ》（翌年に漢）とし、｜広州《こうしゅう》を興王府とした（国号の変化のみ）","南漢の劉鋹が宋に降り、潘美が広州に入る（南漢の州はみな宋へ）":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が宋に降り、潘美が｜広州《こうしゅう》に入る（｜南漢《なんかん》の州はみな宋へ）","虔州の盧氏（盧光稠・盧延昌）":"｜虔州《けんしゅう》の盧氏（盧光稠・盧｜延昌《えんしょう》）","虔州刺史盧光稠が嶺南を攻めて韶州を取り、子の盧延昌に守らせていた（902年）。劉隠は韶州を囲んだが譚全播に敗れた。910年に盧光稠が死に、延昌は呉と後梁の双方の官を受け、廖爽を韶州刺史とした":"｜虔州《けんしゅう》｜刺史《しし》盧光稠が｜嶺南《れいなん》を攻めて韶州を取り、子の盧｜延昌《えんしょう》に守らせていた（902年）。｜劉隠《りゅういん》は韶州を囲んだが譚全播に敗れた。910年に盧光稠が死に、｜延昌《えんしょう》は呉と｜後梁《こうりょう》の双方の官を受け、廖爽を韶州｜刺史《しし》とした","譚全播の病を聞いた劉岩が韶州を攻め破り、刺史廖爽は楚へ奔る":"譚全播の病を聞いた劉岩が韶州を攻め破り、｜刺史《しし》廖爽は楚へ奔る","乾化元年十二月":"｜乾化《けんか》元年十二月","宋の潘美が蓮華峰の下で南漢の李承渥を破り韶州を取る":"宋の潘美が蓮華峰の下で｜南漢《なんかん》の李承渥を破り韶州を取る","開宝三年十二月":"｜開宝《かいほう》三年十二月","循州（帰善）":"｜循州《じゅんしゅう》（帰善）","循州":"｜循州《じゅんしゅう》","広州の東に接し劉隠の勢力下とみる。907年の帰属を直接書いた記事は見つけられなかった（942年に南漢の刺史劉伝がいたことは確か）":"｜広州《こうしゅう》の東に接し｜劉隠《りゅういん》の勢力下とみる。907年の帰属を直接書いた記事は見つけられなかった（942年に｜南漢《なんかん》の｜刺史《しし》劉伝がいたことは確か）","張遇賢":"張｜遇賢《ぐうけん》","中天八国王を称した張遇賢が循州を陥れ、南漢の刺史劉伝を殺す":"｜中天八国王《ちゅうてんはちこくおう》を称した張｜遇賢《ぐうけん》が｜循州《じゅんしゅう》を陥れ、｜南漢《なんかん》の｜刺史《しし》劉伝を殺す","天福七年十月丙子":"｜天福《てんぷく》七年十月｜丙子《へいし》","南漢の指揮使万景忻が循州で張遇賢を破り、遇賢は嶺を越えて虔州（南唐）へ向かう":"｜南漢《なんかん》の指揮使｜万景《ばんけい》忻が｜循州《じゅんしゅう》で張｜遇賢《ぐうけん》を破り、遇賢は嶺を越えて｜虔州《けんしゅう》（｜南唐《なんとう》）へ向かう","潮州":"｜潮州《ちょうしゅう》","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","盧光稠の弟盧光睦が潮州を攻めたが、劉氏が撃ち退けた（902年ごろ）。以後は劉氏の州とみる":"盧光稠の弟盧光睦が｜潮州《ちょうしゅう》を攻めたが、｜劉氏《りゅうし》が撃ち退けた（902年ごろ）。以後は｜劉氏《りゅうし》の州とみる","肇慶市":"｜肇慶《ちょうけい》市","896年ごろ劉隠が封州の兵で端州に入り、譚玘を斬った。以後劉氏の州":"896年ごろ｜劉隠《りゅういん》が封州の兵で端州に入り、譚玘を斬った。以後｜劉氏《りゅうし》の州","劉謙・劉隠父子が刺史を務めた劉氏の起こりの地。928年に楚の水軍が封州を囲んだが、南漢の蘇章が賀江で破り囲みを解いた（帰属は変わらない）":"｜劉謙《りゅうけん》・｜劉隠《りゅういん》父子が｜刺史《しし》を務めた｜劉氏《りゅうし》の起こりの地。928年に楚の水軍が封州を囲んだが、｜南漢《なんかん》の蘇章が賀江で破り囲みを解いた（帰属は変わらない）","十国春秋の地理表は梧州を楚の州に数え「乾祐三年入」とする（楚は900年に桂管を取った）":"｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の地理表は梧州を楚の州に数え「｜乾祐《けんゆう》三年入」とする（楚は900年に桂管を取った）","楚の内乱に乗じて南漢の呉懐恩が桂州を取り、宜・連・梧などの州を平定。南漢がはじめて嶺南をすべて持つ":"楚の内乱に乗じて｜南漢《なんかん》の呉｜懐恩《かいおん》が桂州を取り、宜・連・梧などの州を平定。｜南漢《なんかん》がはじめて｜嶺南《れいなん》をすべて持つ","嶺南西道（葉広略）":"｜嶺南《れいなん》西道（葉広略）","906年に唐が嶺南西道留後葉広略を節度使とした。劉隠の時代には邕州は葉広略が拠っていた":"906年に唐が｜嶺南《れいなん》西道留後葉広略を｜節度使《せつどし》とした。｜劉隠《りゅういん》の時代には邕州は葉広略が拠っていた","後梁の末帝が即位し、劉岩を清海・建武（邕州）節度使とする。この時までに邕州は劉氏の手にあったとみる（通鑑も915年に劉岩を清海・建武節度使と書く）":"｜後梁《こうりょう》の｜末帝《まつてい》が即位し、劉岩を清海・｜建武《けんぶ》（邕州）｜節度使《せつどし》とする。この時までに邕州は｜劉氏《りゅうし》の手にあったとみる（通鑑も915年に劉岩を清海・｜建武《けんぶ》｜節度使《せつどし》と書く）","乾化三年二月":"｜乾化《けんか》三年二月","寧遠軍（龐巨昭）":"｜寧遠《ねいえん》軍（龐巨昭）","唐の官のまま容管に拠った寧遠節度使龐巨昭。劉氏に従わず、劉岩の攻撃を退けた":"唐の官のまま容管に拠った｜寧遠《ねいえん》｜節度使《せつどし》龐巨昭。｜劉氏《りゅうし》に従わず、劉岩の攻撃を退けた","開平四年":"｜開平《かいへい》四年","劉岩が容州を攻め、姚彦章は容州の士民と府庫を移して長沙へ奔る。劉岩が容管と高州を取る":"劉岩が容州を攻め、姚彦章は容州の士民と府庫を移して｜長沙《ちょうさ》へ奔る。劉岩が容管と高州を取る","劉昌魯が楚に帰順を請い、楚の姚彦章が高州に至って昌魯らの一族と士卒を長沙へ送る":"劉昌魯が楚に帰順を請い、楚の姚彦章が高州に至って昌魯らの一族と士卒を｜長沙《ちょうさ》へ送る","新五代史が劉隠の時代に劉氏に従わなかった勢力として挙げる中に雷州は無い。十国春秋の南漢地理表は海康・遂溪・徐聞の3県を載せる（ただし州名を「常州」と書き、雷州の名は見えない）":"｜新五代史《しんごだいし》が｜劉隠《りゅういん》の時代に｜劉氏《りゅうし》に従わなかった勢力として挙げる中に雷州は無い。｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の｜南漢《なんかん》地理表は海康・遂溪・徐聞の3県を載せる（ただし州名を「常州」と書き、雷州の名は見えない）","南漢の劉鋹が宋に降り、潘美が広州に入る（南漢の州はみな宋へ）。翌972年に宋が雷州の徐聞・遂溪の2県を廃した":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が宋に降り、潘美が｜広州《こうしゅう》に入る（｜南漢《なんかん》の州はみな宋へ）。翌972年に宋が雷州の徐聞・遂溪の2県を廃した","十国春秋の南漢地理表に廉州（合浦・封山・蔡龍・大廉）が載る。963年ごろ南漢の劉鋹が合浦県に媚川都を置いて真珠を採らせた":"｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の｜南漢《なんかん》地理表に廉州（合浦・封山・蔡龍・大廉）が載る。963年ごろ｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が合浦県に媚川都を置いて真珠を採らせた","南漢の劉鋹が宋に降り、潘美が広州に入る（南漢の州はみな宋へ）。翌972年に宋が廉州の3県を廃した":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が宋に降り、潘美が｜広州《こうしゅう》に入る（｜南漢《なんかん》の州はみな宋へ）。翌972年に宋が廉州の3県を廃した","瓊州":"｜瓊州《けいしゅう》","十国春秋の南漢地理表に瓊州が載り、南漢が曽口・顔羅の2県を省いたとある。963年ごろ南漢が瓊州の米に税を掛けた記事がある。宋は南漢を平定した971年に瓊州に知州を置き、儋・崖・振・万安の4州を属させた":"｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の｜南漢《なんかん》地理表に｜瓊州《けいしゅう》が載り、｜南漢《なんかん》が曽口・顔羅の2県を省いたとある。963年ごろ｜南漢《なんかん》が｜瓊州《けいしゅう》の米に税を掛けた記事がある。宋は｜南漢《なんかん》を平定した971年に｜瓊州《けいしゅう》に知州を置き、儋・崖・振・万安の4州を属させた","南漢の劉鋹が宋に降る。宋は儋・崖・振・万安の4州を瓊州に属させ、広州に官を選ばせて知州とした":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が宋に降る。宋は儋・崖・振・万安の4州を｜瓊州《けいしゅう》に属させ、｜広州《こうしゅう》に官を選ばせて知州とした","開宝四年":"｜開宝《かいほう》四年","交州（大羅）":"｜交州《こうしゅう》（大羅）","交州":"｜交州《こうしゅう》","静海軍節度使の曲氏が交州に拠った。907年に曲承裕（曲裕）が死に、後梁は子の曲顥を節度使とした。908年に後梁は劉隠にも静海節度使を兼ねさせたが名目だけで、911年に後梁は曲承美（曲美）を節度使とした。曲氏は後梁に名目上従った":"静海軍｜節度使《せつどし》の曲氏が｜交州《こうしゅう》に拠った。907年に曲承裕（曲裕）が死に、｜後梁《こうりょう》は子の曲顥を｜節度使《せつどし》とした。908年に｜後梁《こうりょう》は｜劉隠《りゅういん》にも静海｜節度使《せつどし》を兼ねさせたが名目だけで、911年に｜後梁《こうりょう》は曲承美（曲美）を｜節度使《せつどし》とした。曲氏は｜後梁《こうりょう》に名目上従った","南漢の梁克貞・李守鄜が交州を抜き、静海節度使曲承美を捕らえ、李進に交州を守らせる":"｜南漢《なんかん》の梁克貞・李守鄜が｜交州《こうしゅう》を抜き、静海｜節度使《せつどし》曲承美を捕らえ、李進に｜交州《こうしゅう》を守らせる","長興元年（南漢の大有三年九月）":"｜長興《ちょうこう》元年（｜南漢《なんかん》の｜大有《たいゆう》三年九月）","愛州の将楊廷芸が交州を囲んで陥れ、李進は逃げ帰る。救援の南漢の程宝も敗死する":"愛州の将楊廷芸が｜交州《こうしゅう》を囲んで陥れ、李進は逃げ帰る。救援の｜南漢《なんかん》の程宝も敗死する","長興二年（南漢の大有四年十二月）":"｜長興《ちょうこう》二年（｜南漢《なんかん》の｜大有《たいゆう》四年十二月）","宋史の交阯伝は楊廷芸が南漢の任命（広南の署）を受けて交州節度使となったとする（南漢に名目上従った）":"｜宋史《そうし》の｜交阯《こうし》伝は楊廷芸が｜南漢《なんかん》の任命（広南の署）を受けて｜交州《こうしゅう》｜節度使《せつどし》となったとする（｜南漢《なんかん》に名目上従った）","交州の将矯公羨（通鑑は皎公羡と書く）が安南節度使楊廷芸を殺して代わる":"｜交州《こうしゅう》の将矯公羨（通鑑は皎公羡と書く）が安南｜節度使《せつどし》楊廷芸を殺して代わる","天福二年":"｜天福《てんぷく》二年","呉権（呉氏）":"呉権（｜呉氏《ごし》）","楊廷芸の旧将呉権が愛州から兵を挙げて矯公羨を殺し交州に拠る。救援に来た南漢の交王劉弘操を白藤江で破る":"楊廷芸の旧将呉権が愛州から兵を挙げて矯公羨を殺し｜交州《こうしゅう》に拠る。救援に来た｜南漢《なんかん》の交王｜劉弘《りゅうこう》操を白藤江で破る","天福三年":"｜天福《てんぷく》三年","呉権の死後、子の呉昌岌、その弟の呉昌文が立った。954年に呉昌文が南漢に命を請い、南漢は昌文を静海節度使とした（名目上の臣従）":"呉権の死後、子の呉昌岌、その弟の呉昌文が立った。954年に呉昌文が｜南漢《なんかん》に命を請い、｜南漢《なんかん》は昌文を静海｜節度使《せつどし》とした（名目上の臣従）","南漢の大宝八年":"｜南漢《なんかん》の｜大宝《たいほう》八年","丁部領は大勝王（長編は万勝王）を称し、子の丁璉を静海節度使として南漢に告げ、南漢はこれを授けた（名目上の臣従）。南漢が滅ぶと丁璉は宋に朝貢し、973年に宋は丁璉を静海節度使とした（名目上の臣従）":"丁部領は大勝王（｜長編《ちょうへん》は万勝王）を称し、子の丁璉を静海｜節度使《せつどし》として｜南漢《なんかん》に告げ、｜南漢《なんかん》はこれを授けた（名目上の臣従）。｜南漢《なんかん》が滅ぶと丁璉は宋に朝貢し、973年に宋は丁璉を静海｜節度使《せつどし》とした（名目上の臣従）","静海軍（安南）の州で、交州の曲氏の支配下とみる":"静海軍（安南）の州で、｜交州《こうしゅう》の曲氏の支配下とみる","南漢が曲承美を捕らえ、曲氏の静海軍が終わる":"｜南漢《なんかん》が曲承美を捕らえ、曲氏の静海軍が終わる","930年に南漢が交州を抜いて静海節度使曲承美を捕らえ広州へ連れ去ったので、930年の歳末に曲氏の勢力はもう無い。翌年の記事で愛州は「愛州の将楊廷芸」が仮子三千人を養って拠っていた城として現れる。南漢は交州に李進を置いただけで、愛州に南漢の守将がいた記事は無い（新五代史・十国春秋は931年の挙兵を「叛」と書くので、楊廷芸が930年に名目上南漢に従っていた可能性はある）。いずれにせよ930年の歳末を曲氏のままにするのは誤りで、931年の行（楊廷芸）を930年へ繰り上げる":"930年に｜南漢《なんかん》が｜交州《こうしゅう》を抜いて静海｜節度使《せつどし》曲承美を捕らえ｜広州《こうしゅう》へ連れ去ったので、930年の歳末に曲氏の勢力はもう無い。翌年の記事で愛州は「愛州の将楊廷芸」が仮子三千人を養って拠っていた城として現れる。｜南漢《なんかん》は｜交州《こうしゅう》に李進を置いただけで、愛州に｜南漢《なんかん》の守将がいた記事は無い（｜新五代史《しんごだいし》・｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》は931年の挙兵を「叛」と書くので、楊廷芸が930年に名目上｜南漢《なんかん》に従っていた可能性はある）。いずれにせよ930年の歳末を曲氏のままにするのは誤りで、931年の行（楊廷芸）を930年へ繰り上げる","楊廷芸の旧将呉権が愛州から兵を挙げ、交州の矯公羨を討つ":"楊廷芸の旧将呉権が愛州から兵を挙げ、｜交州《こうしゅう》の矯公羨を討つ","宋州":"｜宋州《そうしゅう》","後梁の宋州（朱全忠の郷里に近い内地。のち宣武軍、後唐で帰徳軍）":"｜後梁《こうりょう》の｜宋州《そうしゅう》（｜朱全忠《しゅぜんちゅう》の郷里に近い内地。のち｜宣武《せんぶ》軍、｜後唐《こうとう》で｜帰徳《きとく》軍）","後梁の滅亡で後唐へ。宋州節度使袁象先が真っ先に入朝した":"｜後梁《こうりょう》の滅亡で｜後唐《こうとう》へ。｜宋州《そうしゅう》｜節度使《せつどし》｜袁《えん》｜象先《しょうせん》が真っ先に入朝した","後唐から後晋への交替":"｜後唐《こうとう》から｜後晋《こうしん》への交替","開運三年十二月に契丹軍が大梁に入り後晋が滅ぶ。歳末は契丹":"｜開運《かいうん》三年十二月に｜契丹《きったん》軍が｜大梁《だいりょう》に入り｜後晋《こうしん》が滅ぶ。歳末は｜契丹《きったん》","947年春、東方の群盗が宋・亳・密の三州を陥れたが、歳末までに後漢の城（帰徳節度使）となった。契丹の太宗が北へ帰り、劉知遠が大梁に入る。歳末は後漢":"947年春、東方の群盗が宋・亳・密の｜三州《さんしゅう》を陥れたが、歳末までに｜後漢《ごかん》の城（｜帰徳《きとく》｜節度使《せつどし》）となった。｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰り、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入る。歳末は｜後漢《ごかん》","亳州":"｜亳州《はくしゅう》","亳州市":"｜亳州《はくしゅう》市","後梁の亳州（内地）":"｜後梁《こうりょう》の｜亳州《はくしゅう》（内地）","後梁の滅亡（同光元年十月）で後唐へ":"｜後梁《こうりょう》の滅亡（｜同光《どうこう》元年十月）で｜後唐《こうとう》へ","947年春、東方の群盗が宋・亳・密の三州を陥れた。歳末は後漢として扱う。契丹の太宗が北へ帰り、劉知遠が大梁に入る。歳末は後漢":"947年春、東方の群盗が宋・亳・密の｜三州《さんしゅう》を陥れた。歳末は｜後漢《ごかん》として扱う。｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰り、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入る。歳末は｜後漢《ごかん》","徐州":"｜徐州《じょしゅう》","徐州市":"｜徐州《じょしゅう》市","後梁の徐州（武寧軍）。朱全忠が890年代に時溥から取った城で、907年は内地":"｜後梁《こうりょう》の｜徐州《じょしゅう》（武寧軍）。｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が890年代に時溥から取った城で、907年は内地","947年、賊帥李仁恕が徐州を急襲したが、武寧節度使符彦卿が説いて解かせた。契丹の太宗が北へ帰り、劉知遠が大梁に入る。歳末は後漢":"947年、｜賊帥《ぞくすい》李仁恕が｜徐州《じょしゅう》を急襲したが、武寧｜節度使《せつどし》符彦卿が説いて解かせた。｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰り、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入る。歳末は｜後漢《ごかん》","後漢から後周への交替。劉贇の部下鞏廷美らが徐州で門を開かず抵抗したが、同じ951年に王彦超が攻め落とした":"｜後漢《ごかん》から｜後周《こうしゅう》への交替。｜劉《りゅう》｜贇《いん》の部下鞏｜廷美《ていび》らが｜徐州《じょしゅう》で門を開かず抵抗したが、同じ951年に王｜彦超《げんちょう》が攻め落とした","宿州":"｜宿州《しゅくしゅう》","宿州市":"｜宿州《しゅくしゅう》市","後梁の宿州（呉との境に近い）":"｜後梁《こうりょう》の｜宿州《しゅくしゅう》（呉との境に近い）","契丹の太宗が北へ帰り、劉知遠が大梁に入る。歳末は後漢":"｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰り、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入る。歳末は｜後漢《ごかん》","曹州":"｜曹州《そうしゅう》","後梁の曹州。廃された唐の哀帝（済陰王）がここに移された":"｜後梁《こうりょう》の｜曹州《そうしゅう》。廃された唐の｜哀帝《あいてい》（｜済陰王《さいいんおう》）がここに移された","李存勗の軍が大梁へ向かう途中で曹州に至り、後梁の守将が降った":"｜李存勗《りそんきょく》の軍が｜大梁《だいりょう》へ向かう途中で｜曹州《そうしゅう》に至り、｜後梁《こうりょう》の守将が降った","鄆州":"｜鄆州《うんしゅう》","後梁の鄆州（天平軍）。朱全忠が897年に朱瑄から取った城で、907年は内地":"｜後梁《こうりょう》の｜鄆州《うんしゅう》（｜天平《てんぺい》軍）。｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が897年に朱瑄から取った城で、907年は内地","李嗣源が徳勝から鄆州を夜襲して取り、天平節度使となる（後梁の滅亡より半年早い）":"｜李嗣源《りしげん》が徳勝から｜鄆州《うんしゅう》を夜襲して取り、｜天平《てんぺい》｜節度使《せつどし》となる（｜後梁《こうりょう》の滅亡より半年早い）","同光元年閏四月癸卯":"｜同光《どうこう》元年閏四月癸卯","兗州":"｜兗州《えんしゅう》","済寧市兗州区":"済寧市｜兗州《えんしゅう》区","後梁の兗州（泰寧軍）。朱全忠が897年に朱瑾から取った城で、907年は内地":"｜後梁《こうりょう》の｜兗州《えんしゅう》（泰寧軍）。｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が897年に朱｜瑾《きん》から取った城で、907年は内地","泰寧節度使張万進が叛き、晋に使者を送って付いた。晋の救援は来ず、後梁の劉鄩に1年余り囲まれる":"泰寧｜節度使《せつどし》張万進が叛き、晋に使者を送って付いた。晋の救援は来ず、｜後梁《こうりょう》の劉鄩に1年余り囲まれる","劉鄩が兗州を落とし張万進を族滅":"劉鄩が｜兗州《えんしゅう》を落とし張万進を族滅","貞明五年冬":"｜貞明《ていめい》五年冬","後梁の濮州（内地）":"｜後梁《こうりょう》の濮州（内地）","青州":"｜青州《せいしゅう》","青州市":"｜青州《せいしゅう》市","後梁の青州（平盧軍）。王師範は903年に朱全忠に降り、905年に一族で西へ移された。907年の平盧節度使は韓建":"｜後梁《こうりょう》の｜青州《せいしゅう》（平盧軍）。王師範は903年に｜朱全忠《しゅぜんちゅう》に降り、905年に一族で西へ移された。907年の平盧｜節度使《せつどし》は韓建","契丹は947年に楊承信を平盧節度使とした。契丹の太宗が北へ帰り、劉知遠が大梁に入る。歳末は後漢":"｜契丹《きったん》は947年に楊承信を平盧｜節度使《せつどし》とした。｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰り、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入る。歳末は｜後漢《ごかん》","後梁の淄州（平盧軍の属州。王師範の降伏で903年から朱全忠の城）":"｜後梁《こうりょう》の淄州（平盧軍の属州。王師範の降伏で903年から｜朱全忠《しゅぜんちゅう》の城）","斉州（済南）":"斉州（｜済南《さいなん》）","済南市":"｜済南《さいなん》市","後梁の斉州（内地）":"｜後梁《こうりょう》の斉州（内地）","後梁の登州（平盧軍の属州。903年の王師範の降伏後、朱全忠が守将を置いた）":"｜後梁《こうりょう》の登州（平盧軍の属州。903年の王師範の降伏後、｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が守将を置いた）","後梁の莱州（平盧軍の属州。903年の王師範の降伏後、朱全忠が守将を置いた）":"｜後梁《こうりょう》の莱州（平盧軍の属州。903年の王師範の降伏後、｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が守将を置いた）","後梁の密州。903年に淮南が一時取ったが同年に放棄し、朱全忠が王檀を刺史とした":"｜後梁《こうりょう》の密州。903年に｜淮南《わいなん》が一時取ったが同年に放棄し、｜朱全忠《しゅぜんちゅう》が王檀を｜刺史《しし》とした","947年、晋の密州刺史皇甫暉は契丹を避けて兵を率い南唐へ奔った（城ごと降ったのではない）。同年春、東方の群盗が密州を陥れた。歳末は後漢として扱う。契丹の太宗が北へ帰り、劉知遠が大梁に入る。歳末は後漢":"947年、晋の密州｜刺史《しし》｜皇甫《こうほ》｜暉《き》は｜契丹《きったん》を避けて兵を率い｜南唐《なんとう》へ奔った（城ごと降ったのではない）。同年春、東方の群盗が密州を陥れた。歳末は｜後漢《ごかん》として扱う。｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰り、｜劉知遠《りゅうちえん》が｜大梁《だいりょう》に入る。歳末は｜後漢《ごかん》","後梁の沂州（平盧軍の属州。899年に淮南の兵が攻めたが取れなかった）":"｜後梁《こうりょう》の沂州（平盧軍の属州。899年に｜淮南《わいなん》の兵が攻めたが取れなかった）","呉の海州。899年に朱全忠の海州戍将陳漢賓が楊行密に降り、台濛が刺史となった。919年にも呉の海州に王綰がいる":"呉の海州。899年に｜朱全忠《しゅぜんちゅう》の海州戍将｜陳《ちん》｜漢《かん》賓が｜楊行密《ようこうみつ》に降り、台濛が｜刺史《しし》となった。919年にも呉の海州に王綰がいる","呉から南唐への交替（937年十月に李昪が即位）":"呉から｜南唐《なんとう》への交替（937年十月に｜李昪《りべん》が即位）","後周の右龍武将軍王漢璋が海州を落とす":"｜後周《こうしゅう》の右龍武将軍王漢璋が海州を落とす","顕徳五年正月丁亥":"｜顕徳《けんとく》五年正月丁亥","成都府":"｜成都《せいと》府","成都市":"｜成都《せいと》市","前蜀の州。王建が907年九月に成都で帝位に即き、国号を大蜀とした":"｜前蜀《ぜんしょく》の州。｜王建《おうけん》が907年九月に｜成都《せいと》で帝位に即き、国号を大蜀とした","前蜀の王衍が成都で後唐に降り、前蜀の州は後唐に帰す":"｜前蜀《ぜんしょく》の｜王衍《おうえん》が｜成都《せいと》で｜後唐《こうとう》に降り、｜前蜀《ぜんしょく》の州は｜後唐《こうとう》に帰す","同光三年十一月":"｜同光《どうこう》三年十一月","西川節度使孟知祥が董璋とともに後唐に背く":"｜西川《せいせん》｜節度使《せつどし》｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》とともに｜後唐《こうとう》に背く","長興元年":"｜長興《ちょうこう》元年","孟知祥の本拠。934年に孟知祥が成都で帝位に即く":"｜孟知祥《もうちしょう》の本拠。934年に｜孟知祥《もうちしょう》が｜成都《せいと》で帝位に即く","後蜀の孟昶が宋に降り、後蜀の州は宋に帰す":"｜後蜀《こうしょく》の｜孟昶《もうちょう》が宋に降り、｜後蜀《こうしょく》の州は宋に帰す","乾徳三年正月":"｜乾徳《けんとく》三年正月","965年から966年にかけて全師雄らの乱が成都の周辺に及んだが、成都は宋が保った":"965年から966年にかけて全師雄らの乱が｜成都《せいと》の周辺に及んだが、｜成都《せいと》は宋が保った","董璋":"｜董《とう》｜璋《しょう》","東川節度使董璋が後唐に背く":"｜東川《とうせん》｜節度使《せつどし》｜董《とう》｜璋《しょう》が｜後唐《こうとう》に背く","長興元年九月":"｜長興《ちょうこう》元年九月","東川節度使董璋の本拠。孟知祥と結んで後唐に背いた":"｜東川《とうせん》｜節度使《せつどし》｜董《とう》｜璋《しょう》の本拠。｜孟知祥《もうちしょう》と結んで｜後唐《こうとう》に背いた","孟知祥が董璋を破り、梓州が降って東川が孟知祥に帰す":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》を破り、梓州が降って｜東川《とうせん》が｜孟知祥《もうちしょう》に帰す","長興三年五月":"｜長興《ちょうこう》三年五月","董璋は梓州に逃げ帰って部下に殺され、梓州は孟知祥に降った":"｜董《とう》｜璋《しょう》は梓州に逃げ帰って部下に殺され、梓州は｜孟知祥《もうちしょう》に降った","東川の支郡。董璋は930年四月に後唐の綿州刺史武虔裕を府に拘え、九月に後唐に背いた":"｜東川《とうせん》の支郡。｜董《とう》｜璋《しょう》は930年四月に｜後唐《こうとう》の綿州｜刺史《しし》武虔裕を府に拘え、九月に｜後唐《こうとう》に背いた","東川の本拠梓州が降り、東川の州はみな孟知祥に帰した（綿州個別の記事は見当たらない）":"｜東川《とうせん》の本拠梓州が降り、｜東川《とうせん》の州はみな｜孟知祥《もうちしょう》に帰した（綿州個別の記事は見当たらない）","董璋の東川兵が果州などを陥れる":"｜董《とう》｜璋《しょう》の｜東川《とうせん》兵が果州などを陥れる","長興元年十月":"｜長興《ちょうこう》元年十月","董璋の滅亡後、孟知祥は閬州を保寧軍とし、果州をその属州とした":"｜董《とう》｜璋《しょう》の滅亡後、｜孟知祥《もうちしょう》は閬州を｜保寧《ほねい》軍とし、果州をその属州とした","遂寧市":"｜遂寧《すいねい》市","前蜀の武信軍節度使王宗寿が遂州などを挙げて後唐に降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の武信軍｜節度使《せつどし》王宗寿が遂州などを挙げて｜後唐《こうとう》に降る","孟知祥の将李仁罕が遂州を陥れ、後唐の武信軍節度使夏魯奇が自殺":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜李《り》｜仁罕《じんかん》が遂州を陥れ、｜後唐《こうとう》の武信軍｜節度使《せつどし》夏魯奇が自殺","長興二年正月":"｜長興《ちょうこう》二年正月","930年十月から李仁罕が囲み、夏魯奇が年を越えて守った。930年の歳末はまだ後唐の城":"930年十月から｜李《り》｜仁罕《じんかん》が囲み、夏魯奇が年を越えて守った。930年の歳末はまだ｜後唐《こうとう》の城","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","前蜀の武信軍節度使王宗寿が渝州などを挙げて後唐に降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の武信軍｜節度使《せつどし》王宗寿が渝州などを挙げて｜後唐《こうとう》に降る","孟知祥の将張武が渝州に至り、後唐の刺史張環が降る":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜張武《ちょうぶ》が渝州に至り、｜後唐《こうとう》の｜刺史《しし》張環が降る","長興元年十一月":"｜長興《ちょうこう》元年十一月","重慶市合川区":"｜重慶《じゅうけい》市合川区","前蜀の武信軍節度使王宗寿が合州などを挙げて後唐に降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の武信軍｜節度使《せつどし》王宗寿が合州などを挙げて｜後唐《こうとう》に降る","董璋の東川兵が合州などを陥れる":"｜董《とう》｜璋《しょう》の｜東川《とうせん》兵が合州などを陥れる","東川が合州を武信軍（孟知祥の将李仁罕が取った遂州）に帰す":"｜東川《とうせん》が合州を武信軍（｜孟知祥《もうちしょう》の将｜李《り》｜仁罕《じんかん》が取った遂州）に帰す","長興二年":"｜長興《ちょうこう》二年","前蜀の峡路招討使張武が夔・忠・万の三州を挙げて後唐の魏王継岌に降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の峡路招討使｜張武《ちょうぶ》が夔・忠・万の｜三州《さんしゅう》を挙げて｜後唐《こうとう》の｜魏王《ぎおう》｜継岌《けいきゅう》に降る","孟知祥の将李仁罕が夔州を陥れ、後唐の寧江軍節度使安崇阮が逃げる":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜李《り》｜仁罕《じんかん》が夔州を陥れ、｜後唐《こうとう》の寧江軍｜節度使《せつどし》安崇阮が逃げる","長興二年三月":"｜長興《ちょうこう》二年三月","宋の劉光義が峡路を上り、夔州城を落とす。後蜀の寧江軍節度使高彦儔が自焚":"宋の劉光義が峡路を上り、夔州城を落とす。｜後蜀《こうしょく》の寧江軍｜節度使《せつどし》高彦儔が｜自焚《じふん》","乾徳二年十二月":"｜乾徳《けんとく》二年十二月","重慶市万州区":"｜重慶《じゅうけい》市万州区","前蜀の峡路招討使張武が夔・忠・万の三州を挙げて後唐に降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の峡路招討使｜張武《ちょうぶ》が夔・忠・万の｜三州《さんしゅう》を挙げて｜後唐《こうとう》に降る","孟知祥の将李仁罕が万州を陥れる":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜李《り》｜仁罕《じんかん》が万州を陥れる","宋の劉光義が夔州を発すると万州の刺史が迎え降る":"宋の劉光義が夔州を発すると万州の｜刺史《しし》が迎え降る","後唐の武泰軍節度使楊漢賓が黔南を棄てて忠州へ逃げ、孟知祥が武泰留後を置く":"｜後唐《こうとう》の｜武泰《ぶたい》軍｜節度使《せつどし》楊漢賓が黔南を棄てて忠州へ逃げ、｜孟知祥《もうちしょう》が｜武泰《ぶたい》留後を置く","重慶市涪陵区":"｜重慶《じゅうけい》市涪陵区","孟知祥の先鋒朱偓が涪州を取る":"｜孟知祥《もうちしょう》の｜先鋒《せんぽう》朱偓が涪州を取る","西川の支郡。孟知祥が後唐に背いた930年から孟知祥の側とした":"｜西川《せいせん》の支郡。｜孟知祥《もうちしょう》が｜後唐《こうとう》に背いた930年から｜孟知祥《もうちしょう》の側とした","965年に宋の虎捷指揮使呂翰が嘉州で叛いて知州を殺したが、曹翰らが囲んで呂翰は城を棄てて雅州へ走った":"965年に宋の虎捷指揮使呂翰が嘉州で叛いて知州を殺したが、曹翰らが囲んで呂翰は城を棄てて｜雅州《がしゅう》へ走った","雅州":"｜雅州《がしゅう》","西川の支郡。孟知祥が後唐に背いた930年から孟知祥の側とした。後蜀は934年に雅州に永平軍を置いた":"｜西川《せいせん》の支郡。｜孟知祥《もうちしょう》が｜後唐《こうとう》に背いた930年から｜孟知祥《もうちしょう》の側とした。｜後蜀《こうしょく》は934年に｜雅州《がしゅう》に｜永平《えいへい》軍を置いた","呂翰が雅州に拠る":"呂翰が｜雅州《がしゅう》に拠る","後蜀の降伏で宋に入ったのち、嘉州で叛いた呂翰が曹彬らに敗れて雅州に走って拠り、年を越した。宋・遼・金・西夏の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け":"｜後蜀《こうしょく》の降伏で宋に入ったのち、嘉州で叛いた呂翰が曹｜彬《ひん》らに敗れて｜雅州《がしゅう》に走って拠り、年を越した。宋・遼・金・｜西夏《せいか》の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け","宋が雅州を取る":"宋が｜雅州《がしゅう》を取る","王全斌が呂翰を破って雅州を取った":"王全斌が呂翰を破って｜雅州《がしゅう》を取った","前蜀の武信軍節度使王宗寿が瀘州などを挙げて後唐に降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の武信軍｜節度使《せつどし》王宗寿が瀘州などを挙げて｜後唐《こうとう》に降る","孟知祥の将張武が渝州を降し、続いて瀘州を取る":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜張武《ちょうぶ》が渝州を降し、続いて瀘州を取る","岐（李茂貞）の階州。秦・鳳・階・成の4州は岐の地で、のち前蜀に取られた":"岐（｜李《り》｜茂貞《もてい》）の階州。秦・鳳・階・成の4州は岐の地で、のち｜前蜀《ぜんしょく》に取られた","前蜀が岐の階州を取る":"｜前蜀《ぜんしょく》が岐の階州を取る","貞明元年十一月":"｜貞明《ていめい》元年十一月","前蜀の興州刺史王宗鐸が階州を取り、刺史李彦安が降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の｜興州《こうしゅう》｜刺史《しし》王宗鐸が階州を取り、｜刺史《しし》李彦安が降る","階州が後唐に降る":"階州が｜後唐《こうとう》に降る","同光三年十月":"｜同光《どうこう》三年十月","前蜀の滅亡にあたり、階州刺史王承岳が後唐に降る":"｜前蜀《ぜんしょく》の滅亡にあたり、階州｜刺史《しし》王承岳が｜後唐《こうとう》に降る","階州が後蜀に降る":"階州が｜後蜀《こうしょく》に降る","清泰元年":"｜清泰《せいたい》元年","後唐の階州刺史趙澄が後蜀に降る（同年末に後唐が任じた階州刺史は名目だけで、城は後蜀にあった）":"｜後唐《こうとう》の階州｜刺史《しし》趙澄が｜後蜀《こうしょく》に降る（同年末に｜後唐《こうとう》が任じた階州｜刺史《しし》は名目だけで、城は｜後蜀《こうしょく》にあった）","後蜀が階州を失う（年は史料に無い。遅くとも943年の暮れまで）":"｜後蜀《こうしょく》が階州を失う（年は史料に無い。遅くとも943年の暮れまで）","天福八年以前（開運元年二月に後晋の城として現れる）":"｜天福《てんぷく》八年以前（｜開運《かいうん》元年二月に｜後晋《こうしん》の城として現れる）","944年二月の記事は、後蜀が後晋の階州を攻めたというもので、その時点で階州はすでに後晋の城だった。後蜀が階州を失った年は史料に無い（十国春秋は「史失載」）が、944年正月から二月の間に後晋が取り返した記事も無いので、943年の歳末にはすでに後晋の城だったと見るのが記事に合う。944年からにすると943年の歳末を後蜀としたことになり、記事と食い違う。新五代史の職方考は後唐が蜀の旧地のうち秦・鳳・階・成を保ったと書くので、実際の戻りはさらに早い（936年まで）可能性があり、確かめられない年として残す":"944年二月の記事は、｜後蜀《こうしょく》が｜後晋《こうしん》の階州を攻めたというもので、その時点で階州はすでに｜後晋《こうしん》の城だった。｜後蜀《こうしょく》が階州を失った年は史料に無い（｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》は「史失載」）が、944年正月から二月の間に｜後晋《こうしん》が取り返した記事も無いので、943年の歳末にはすでに｜後晋《こうしん》の城だったと見るのが記事に合う。944年からにすると943年の歳末を｜後蜀《こうしょく》としたことになり、記事と食い違う。｜新五代史《しんごだいし》の職方考は｜後唐《こうとう》が蜀の旧地のうち秦・鳳・階・成を保ったと書くので、実際の戻りはさらに早い（936年まで）可能性があり、確かめられない年として残す","後晋の滅亡で契丹の城（形式上）":"｜後晋《こうしん》の滅亡で｜契丹《きったん》の城（形式上）","何重建が階州をもって後蜀に降る":"何重建が階州をもって｜後蜀《こうしょく》に降る","後晋の雄武節度使何重建が契丹の使者を斬り、秦・成・階の3州をもって後蜀に降る":"｜後晋《こうしん》の雄武｜節度使《せつどし》何重建が｜契丹《きったん》の使者を斬り、秦・成・階の3州をもって｜後蜀《こうしょく》に降る","階州が後周に降る":"階州が｜後周《こうしゅう》に降る","顕徳二年閏九月":"｜顕徳《けんとく》二年閏九月","後周が秦州を取ると、成・階の2州も後周に降る":"｜後周《こうしゅう》が｜秦州《しんしゅう》を取ると、成・階の2州も｜後周《こうしゅう》に降る","岐（李茂貞）の成州。911年にも岐の成州刺史李彦琛が見える":"岐（｜李《り》｜茂貞《もてい》）の成州。911年にも岐の成州｜刺史《しし》李彦琛が見える","前蜀が岐の成州を取る":"｜前蜀《ぜんしょく》が岐の成州を取る","前蜀の王宗綰が成州を取り、岐の刺史李彦徳を捕える":"｜前蜀《ぜんしょく》の王宗綰が成州を取り、岐の｜刺史《しし》李彦徳を捕える","成州が後唐の手に入る":"成州が｜後唐《こうとう》の手に入る","後唐の伐蜀で前蜀の成州刺史王承朴が城を捨てて逃げる":"｜後唐《こうとう》の伐蜀で｜前蜀《ぜんしょく》の成州｜刺史《しし》王承朴が城を捨てて逃げる","後蜀が成州を取る":"｜後蜀《こうしょく》が成州を取る","後蜀が成州を失う（年は史料に無い。遅くとも943年の暮れまで）":"｜後蜀《こうしょく》が成州を失う（年は史料に無い。遅くとも943年の暮れまで）","944年二月に階・成の義軍の指揮使が背いて後蜀に降り「階・成を取る」道案内を申し出ており、その時点で成州はすでに後晋の城だった。後蜀が成州を失った年は史料に無い（十国春秋は「史失載」）。944年からにすると943年の歳末を後蜀としたことになり記事と食い違うので、943年からとする。実際の戻りはさらに早い可能性がある（新五代史の職方考は後唐が秦・鳳・階・成を保ったと書く）":"944年二月に階・成の義軍の指揮使が背いて｜後蜀《こうしょく》に降り「階・成を取る」道案内を申し出ており、その時点で成州はすでに｜後晋《こうしん》の城だった。｜後蜀《こうしょく》が成州を失った年は史料に無い（｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》は「史失載」）。944年からにすると943年の歳末を｜後蜀《こうしょく》としたことになり記事と食い違うので、943年からとする。実際の戻りはさらに早い可能性がある（｜新五代史《しんごだいし》の職方考は｜後唐《こうとう》が秦・鳳・階・成を保ったと書く）","何重建が成州をもって後蜀に降る":"何重建が成州をもって｜後蜀《こうしょく》に降る","後晋の雄武節度使何重建が秦・成・階の3州をもって後蜀に降る":"｜後晋《こうしん》の雄武｜節度使《せつどし》何重建が秦・成・階の3州をもって｜後蜀《こうしょく》に降る","成州が後周に降る":"成州が｜後周《こうしゅう》に降る","岐（李茂貞）の鳳州。秦・鳳・階・成の4州は岐の地で、のち前蜀に取られた":"岐（｜李《り》｜茂貞《もてい》）の鳳州。秦・鳳・階・成の4州は岐の地で、のち｜前蜀《ぜんしょく》に取られた","前蜀が岐の鳳州を取る":"｜前蜀《ぜんしょく》が岐の鳳州を取る","前蜀の王宗綰・王宗瑶が鳳州を取り、年末に武興軍を鳳州に置く":"｜前蜀《ぜんしょく》の王宗綰・王宗瑶が鳳州を取り、年末に｜武興《ぶこう》軍を鳳州に置く","鳳州が後唐に降る":"鳳州が｜後唐《こうとう》に降る","後唐の伐蜀で、前蜀の武興節度使王承捷が鳳州などをもって迎え降る":"｜後唐《こうとう》の伐蜀で、｜前蜀《ぜんしょく》の｜武興《ぶこう》｜節度使《せつどし》王承捷が鳳州などをもって迎え降る","後唐から後晋へ":"｜後唐《こうとう》から｜後晋《こうしん》へ","鳳州が後蜀に降る":"鳳州が｜後蜀《こうしょく》に降る","天福十二年四月":"｜天福《てんぷく》十二年四月","後蜀の孫漢韶が鳳州を攻め、後晋の鳳州防御使石奉頵が州をもって後蜀に降る":"｜後蜀《こうしょく》の孫｜漢韶《かんしょう》が鳳州を攻め、｜後晋《こうしん》の鳳州防御使石奉頵が州をもって｜後蜀《こうしょく》に降る","後周が鳳州を取る":"｜後周《こうしゅう》が鳳州を取る","顕徳二年十一月":"｜顕徳《けんとく》二年十一月","後周の王景らが鳳州を囲んで取り、後蜀の威武節度使王環を捕える":"｜後周《こうしゅう》の王景らが鳳州を囲んで取り、｜後蜀《こうしょく》の威武｜節度使《せつどし》王環を捕える","興州":"｜興州《こうしゅう》","902年に王建が興州を抜いて以来、前蜀の城":"902年に｜王建《おうけん》が｜興州《こうしゅう》を抜いて以来、｜前蜀《ぜんしょく》の城","後唐が興州を取る":"｜後唐《こうとう》が｜興州《こうしゅう》を取る","後唐の伐蜀で前蜀の興州刺史王承鑑が城を捨てて逃げ、後唐軍が興州を取る":"｜後唐《こうとう》の伐蜀で｜前蜀《ぜんしょく》の｜興州《こうしゅう》｜刺史《しし》王承鑑が城を捨てて逃げ、｜後唐《こうとう》軍が｜興州《こうしゅう》を取る","興州が後蜀の手に入る":"｜興州《こうしゅう》が｜後蜀《こうしょく》の手に入る","潞王の挙兵のさなか、後唐の興州刺史劉遂清が戍兵を集めて引き上げ、散関以南の城鎮は後蜀のものとなる。年末には後蜀の兵が興州に屯した":"｜潞王《ろおう》の挙兵のさなか、｜後唐《こうとう》の｜興州《こうしゅう》｜刺史《しし》｜劉遂《りゅうすい》清が戍兵を集めて引き上げ、散関以南の城鎮は｜後蜀《こうしょく》のものとなる。年末には｜後蜀《こうしょく》の兵が｜興州《こうしゅう》に屯した","宋が興州を取る":"宋が｜興州《こうしゅう》を取る","宋の王全斌が万仞・燕子などの寨を抜いて興州を取る":"宋の王全斌が万仞・燕子などの寨を抜いて｜興州《こうしゅう》を取る","興元府（漢中）":"｜興元《こうげん》府（｜漢中《かんちゅう》）","興元府":"｜興元《こうげん》府","漢中市":"｜漢中《かんちゅう》市","902年に王建が岐から山南西道（興元）を取って以来、前蜀の城":"902年に｜王建《おうけん》が岐から｜山南西道《さんなんせいどう》（｜興元《こうげん》）を取って以来、｜前蜀《ぜんしょく》の城","興元が後唐に降る":"｜興元《こうげん》が｜後唐《こうとう》に降る","後唐の伐蜀で、前蜀の山南節度使王宗威が梁（興元）など5州をもって降る":"｜後唐《こうとう》の伐蜀で、｜前蜀《ぜんしょく》の山南｜節度使《せつどし》王宗威が梁（｜興元《こうげん》）など5州をもって降る","興元が後蜀に降る":"｜興元《こうげん》が｜後蜀《こうしょく》に降る","鳳翔攻めに敗れた後唐の山南西道節度使張虔釗が、武定節度使孫漢韶とともに両鎮の地をもって後蜀に降り、後蜀の張業が興元・洋州に入る":"｜鳳翔《ほうしょう》攻めに敗れた｜後唐《こうとう》の｜山南西道《さんなんせいどう》｜節度使《せつどし》張｜虔釗《けんしょう》が、｜武定《ぶてい》｜節度使《せつどし》孫｜漢韶《かんしょう》とともに両鎮の地をもって｜後蜀《こうしょく》に降り、｜後蜀《こうしょく》の張業が｜興元《こうげん》・洋州に入る","後蜀が興元を捨て、宋が入る":"｜後蜀《こうしょく》が｜興元《こうげん》を捨て、宋が入る","宋軍が興州を破ると、後蜀の招討使韓保正は山南（興元）を捨てて西県に退き、追われて捕えられた":"｜宋《そう》軍が｜興州《こうしゅう》を破ると、｜後蜀《こうしょく》の招討使韓保正は山南（｜興元《こうげん》）を捨てて西県に退き、追われて捕えられた","902年に武定節度使李思敬が洋州をもって王建に降って以来、前蜀の城。後梁が馮行襲に武定節度使の名を与えたのは名目だけ":"902年に｜武定《ぶてい》｜節度使《せつどし》李思敬が洋州をもって｜王建《おうけん》に降って以来、｜前蜀《ぜんしょく》の城。｜後梁《こうりょう》が馮行襲に｜武定《ぶてい》｜節度使《せつどし》の名を与えたのは名目だけ","洋州が後唐に降る":"洋州が｜後唐《こうとう》に降る","後唐の伐蜀で、前蜀の武定節度使王承肇が洋・蓬・壁の3州をもって降る":"｜後唐《こうとう》の伐蜀で、｜前蜀《ぜんしょく》の｜武定《ぶてい》｜節度使《せつどし》王承肇が洋・蓬・壁の3州をもって降る","洋州が後蜀に降る":"洋州が｜後蜀《こうしょく》に降る","後唐の武定節度使孫漢韶が張虔釗とともに両鎮の地をもって後蜀に降り、後蜀の張業が洋州に入る":"｜後唐《こうとう》の｜武定《ぶてい》｜節度使《せつどし》孫｜漢韶《かんしょう》が張｜虔釗《けんしょう》とともに両鎮の地をもって｜後蜀《こうしょく》に降り、｜後蜀《こうしょく》の張業が洋州に入る","後蜀の降伏":"｜後蜀《こうしょく》の降伏","後蜀の孟昶が宋に降る（前年に後蜀の洋州節度使李進は副招討使として出陣し、宋軍に捕えられていた）":"｜後蜀《こうしょく》の｜孟昶《もうちょう》が宋に降る（前年に｜後蜀《こうしょく》の洋州｜節度使《せつどし》李進は副招討使として出陣し、｜宋《そう》軍に捕えられていた）","905年に馮行襲（朱全忠方）が金州を取り返したが、荒れ果てたとして治所を均州へ移し、翌年には戎昭軍も廃された。その後、前蜀が金州を再び取り、全師朗（王宗朗）を刺史とした":"905年に馮行襲（｜朱全忠《しゅぜんちゅう》方）が金州を取り返したが、荒れ果てたとして治所を｜均州《きんしゅう》へ移し、翌年には戎昭軍も廃された。その後、｜前蜀《ぜんしょく》が金州を再び取り、全師朗（王宗朗）を｜刺史《しし》とした","前蜀の滅亡で後唐へ":"｜前蜀《ぜんしょく》の滅亡で｜後唐《こうとう》へ","契丹の北帰後、後漢へ":"｜契丹《きったん》の北帰後、｜後漢《ごかん》へ","902年に王建の兵が利州に至り、岐の昭武節度使が逃げて以来、前蜀の城":"902年に｜王建《おうけん》の兵が利州に至り、岐の｜昭武《しょうぶ》｜節度使《せつどし》が逃げて以来、｜前蜀《ぜんしょく》の城","利州が後唐の手に入る":"利州が｜後唐《こうとう》の手に入る","後唐の伐蜀で、前蜀の昭武節度使林思諤が利州を捨てて閬州に逃げ、降を請う":"｜後唐《こうとう》の伐蜀で、｜前蜀《ぜんしょく》の｜昭武《しょうぶ》｜節度使《せつどし》林思諤が利州を捨てて閬州に逃げ、降を請う","孟知祥（後蜀）が利州を取る":"｜孟知祥《もうちしょう》（｜後蜀《こうしょく》）が利州を取る","長興二年二月":"｜長興《ちょうこう》二年二月","石敬瑭の伐蜀軍が退くと、両川の兵がこれを追い、後唐の昭武節度使李彦琦が城を捨てて逃げ、両川の兵が利州に入る。孟知祥は趙廷隠を昭武留後とした":"｜石敬瑭《せきけいとう》の伐｜蜀軍《しょくぐん》が退くと、｜両川《りょうせん》の兵がこれを追い、｜後唐《こうとう》の｜昭武《しょうぶ》｜節度使《せつどし》李彦琦が城を捨てて逃げ、｜両川《りょうせん》の兵が利州に入る。｜孟知祥《もうちしょう》は趙廷隠を｜昭武《しょうぶ》留後とした","乾徳二年十二月晦":"｜乾徳《けんとく》二年十二月晦","宋軍が大漫天寨を破り、後蜀の王昭遠らは桔柏津を渡って剣門に退き、宋の王全斌らが利州に入る":"｜宋《そう》軍が大漫天寨を破り、｜後蜀《こうしょく》の王昭遠らは桔柏津を渡って剣門に退き、宋の王全斌らが利州に入る","唐末から王建の城（902年には王建の剣州刺史王宗偉が見える）":"唐末から｜王建《おうけん》の城（902年には｜王建《おうけん》の剣州｜刺史《しし》王宗偉が見える）","剣州が後唐に降る":"剣州が｜後唐《こうとう》に降る","後唐の伐蜀で、前蜀の東川の宋光葆が梓・綿・剣・竜・普の5州をもって降る":"｜後唐《こうとう》の伐蜀で、｜前蜀《ぜんしょく》の｜東川《とうせん》の宋光葆が梓・綿・剣・竜・普の5州をもって降る","董璋が後唐に背く":"｜董《とう》｜璋《しょう》が｜後唐《こうとう》に背く","東川節度使董璋が後唐に背き、剣門に寨を築いて守る。剣州は東川の支郡。同年末、後唐軍が剣門を奪って剣州城を破ったが、後続が無く焼き払って剣門へ退き、西川（孟知祥）の趙廷隠が剣州で後唐軍を防いだ":"｜東川《とうせん》｜節度使《せつどし》｜董《とう》｜璋《しょう》が｜後唐《こうとう》に背き、剣門に寨を築いて守る。剣州は｜東川《とうせん》の支郡。同年末、｜後唐《こうとう》軍が剣門を奪って剣州城を破ったが、後続が無く焼き払って剣門へ退き、｜西川《せいせん》（｜孟知祥《もうちしょう》）の趙廷隠が剣州で｜後唐《こうとう》軍を防いだ","孟知祥が東川を併せる":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜東川《とうせん》を併せる","孟知祥が董璋を破り、東川を併せる":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》を破り、｜東川《とうせん》を併せる","宋が剣門を破り、後蜀が降る":"宋が剣門を破り、｜後蜀《こうしょく》が降る","宋軍が剣門を破り、後蜀の孟昶が降る":"｜宋《そう》軍が剣門を破り、｜後蜀《こうしょく》の｜孟昶《もうちょう》が降る","前蜀の城。王建が即位すると閬州防御使唐道襲を内枢密使とした":"｜前蜀《ぜんしょく》の城。｜王建《おうけん》が即位すると閬州防御使唐道襲を内｜枢密使《すうみつし》とした","前蜀の滅亡":"｜前蜀《ぜんしょく》の滅亡","同光三年":"｜同光《どうこう》三年","前蜀の滅亡で後唐へ（利州の林思諤が閬州に逃れて降を請い、残る城鎮も相次いで降る）":"｜前蜀《ぜんしょく》の滅亡で｜後唐《こうとう》へ（利州の林思諤が閬州に逃れて降を請い、残る城鎮も相次いで降る）","董璋が閬州を落とす":"｜董《とう》｜璋《しょう》が閬州を落とす","後唐が閬・果2州を割いて保寧軍を置いたことに東川の董璋が反発して背き、閬州を攻め落として節度使李仁矩を殺す":"｜後唐《こうとう》が閬・果2州を割いて｜保寧《ほねい》軍を置いたことに｜東川《とうせん》の｜董《とう》｜璋《しょう》が反発して背き、閬州を攻め落として｜節度使《せつどし》李仁矩を殺す","孟知祥が閬州を取る":"｜孟知祥《もうちしょう》が閬州を取る","長興三年":"｜長興《ちょうこう》三年","孟知祥が董璋を破って東川を併せ、閬州を再び保寧軍として趙廷隠に鎮めさせる":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》を破って｜東川《とうせん》を併せ、閬州を再び｜保寧《ほねい》軍として趙廷隠に鎮めさせる","後蜀の孟昶が宋に降る":"｜後蜀《こうしょく》の｜孟昶《もうちょう》が宋に降る","唐末に王建が閬州を取り、巴・蓬・壁の3州を取って以来の城":"唐末に｜王建《おうけん》が閬州を取り、巴・蓬・壁の3州を取って以来の城","董璋の東川兵が巴州などを落とす":"｜董《とう》｜璋《しょう》の｜東川《とうせん》兵が巴州などを落とす","年と持ち主はそのままでよいが、日付の原表記が違う。「癸丑，東川兵陥征・合・巴・蓬・果五州」の条は冬十月癸巳の条と十一月戊辰の条の間にあり、十月の癸丑（二十一日）にあたる。同じ条を引く果州・合州は十月と書いている":"年と持ち主はそのままでよいが、日付の原表記が違う。「｜癸丑《きちゅう》，｜東川《とうせん》兵陥征・合・巴・蓬・果五州」の条は冬十月癸巳の条と十一月｜戊辰《ぼしん》の条の間にあり、十月の｜癸丑《きちゅう》（二十一日）にあたる。同じ条を引く果州・合州は十月と書いている","孟知祥が董璋を破って東川を併せる":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》を破って｜東川《とうせん》を併せる","通州（達州）":"｜通州《つうしゅう》（達州）","通州":"｜通州《つうしゅう》","唐末に通州刺史が王建に降って以来の城。前蜀では興元（山南）の巡属":"唐末に｜通州《つうしゅう》｜刺史《しし》が｜王建《おうけん》に降って以来の城。｜前蜀《ぜんしょく》では｜興元《こうげん》（山南）の巡属","通州が後唐に降る":"｜通州《つうしゅう》が｜後唐《こうとう》に降る","後唐の伐蜀で、前蜀の山南節度使王宗威が梁・開・通・渠・麟の5州をもって降る":"｜後唐《こうとう》の伐蜀で、｜前蜀《ぜんしょく》の山南｜節度使《せつどし》王宗威が梁・開・通・渠・麟の5州をもって降る","山南西道・武定軍が後蜀に降る":"｜山南西道《さんなんせいどう》・｜武定《ぶてい》軍が｜後蜀《こうしょく》に降る","後唐の山南西道節度使張虔釗・武定節度使孫漢韶が両鎮の地をもって後蜀に降る（通州は山南の巡属）":"｜後唐《こうとう》の｜山南西道《さんなんせいどう》｜節度使《せつどし》張｜虔釗《けんしょう》・｜武定《ぶてい》｜節度使《せつどし》孫｜漢韶《かんしょう》が両鎮の地をもって｜後蜀《こうしょく》に降る（｜通州《つうしゅう》は山南の巡属）","乾徳三年":"｜乾徳《けんとく》三年","後蜀の孟昶が宋に降る。同年、宋は通州を達州と改めた":"｜後蜀《こうしょく》の｜孟昶《もうちょう》が宋に降る。同年、宋は｜通州《つうしゅう》を達州と改めた","杭州（西府）":"｜杭州《こうしゅう》（西府）","杭州":"｜杭州《こうしゅう》","杭州市":"｜杭州《こうしゅう》市","銭鏐の本拠（鎮海軍）。907年に後梁から呉越王に封じられる":"銭鏐の本拠（鎮海軍）。907年に｜後梁《こうりょう》から｜呉越王《ごえつおう》に封じられる","銭俶が両浙の十三州一軍を宋に献じる（納土）":"銭俶が両浙の十｜三州《さんしゅう》一軍を宋に献じる（納土）","太平興国三年五月":"｜太平興国《たいへいこうこく》三年五月","蘇州":"｜蘇州《そしゅう》","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","898年に顧全武が淮南から蘇州を取り返して以来、呉越の城。908〜909年に呉（淮南）の周本らが包囲したが落ちなかった。後に中呉軍節度使の治所":"898年に顧全武が｜淮南《わいなん》から｜蘇州《そしゅう》を取り返して以来、呉越の城。908〜909年に呉（｜淮南《わいなん》）の周本らが包囲したが落ちなかった。後に中呉軍｜節度使《せつどし》の治所","湖州":"｜湖州《こしゅう》","湖州市":"｜湖州《こしゅう》市","897年に銭鏐が高彦を湖州制置使に任じて以来、高彦・高澧父子が銭鏐の下で湖州を治めた":"897年に銭鏐が高彦を｜湖州《こしゅう》制置使に任じて以来、高彦・高澧父子が銭鏐の下で｜湖州《こしゅう》を治めた","湖州刺史の高澧が州ごと淮南（呉）に附いて叛く":"｜湖州《こしゅう》｜刺史《しし》の高澧が州ごと｜淮南《わいなん》（呉）に附いて叛く","開平三年十月":"｜開平《かいへい》三年十月","呉の援軍は910年に来たが湖州の将が城門を閉じて入れなかった。歳末の湖州は呉に附いた高澧が持っていた":"呉の援軍は910年に来たが｜湖州《こしゅう》の将が城門を閉じて入れなかった。歳末の｜湖州《こしゅう》は呉に附いた高澧が持っていた","高澧が呉へ逃げ、銭鏐が湖州に入り銭鏢を刺史とする":"高澧が呉へ逃げ、銭鏐が｜湖州《こしゅう》に入り銭鏢を｜刺史《しし》とする","開平四年三月":"｜開平《かいへい》四年三月","秀州（嘉興）":"｜秀州《しゅうしゅう》（嘉興）","秀州":"｜秀州《しゅうしゅう》","この時はまだ秀州は無く、嘉興県として呉越の杭州・蘇州の管内。924年に銭鏐が嘉興に開元府を置き、932年に廃した。940年三月に秀州が置かれる（持ち主は変わらない）":"この時はまだ｜秀州《しゅうしゅう》は無く、嘉興県として呉越の｜杭州《こうしゅう》・｜蘇州《そしゅう》の管内。924年に銭鏐が嘉興に｜開元《かいげん》府を置き、932年に廃した。940年三月に｜秀州《しゅうしゅう》が置かれる（持ち主は変わらない）","越州（東府）":"越州（｜東府《とうふ》）","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","896年に董昌を滅ぼして以来の銭鏐の東府（鎮東軍）":"896年に董昌を滅ぼして以来の銭鏐の｜東府《とうふ》（鎮東軍）","明州":"｜明州《めいしゅう》","907年の明州刺史は黄晟。董昌討伐で銭鏐に兵を送り、以後銭鏐に恭順した。909年に黄晟が死に、銭鏐が明州に巡って子を明州制置使とした（十国春秋の地理志は「遂に其の地を有す」と書く）":"907年の｜明州《めいしゅう》｜刺史《しし》は黄晟。董昌討伐で銭鏐に兵を送り、以後銭鏐に恭順した。909年に黄晟が死に、銭鏐が｜明州《めいしゅう》に巡って子を｜明州《めいしゅう》制置使とした（｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の地理志は「遂に其の地を有す」と書く）","台州":"｜台州《たいしゅう》","898年に銭鏐が越州の指揮使駱団を台州制置使とした。908年には梁が呉越の求めで台州の唐興県を天台県と改めた":"898年に銭鏐が越州の指揮使駱団を｜台州《たいしゅう》制置使とした。908年には梁が呉越の求めで｜台州《たいしゅう》の唐興県を｜天台《てんだい》県と改めた","天祐四年（開平元年）四月":"｜天祐《てんゆう》四年（｜開平《かいへい》元年）四月","905年に淮南の陶雅・陳璋が婺州を抜いたが、906年二月、陶雅が歙州へ帰ったのに乗じて呉越の方永珍らが婺州を取り返した":"905年に｜淮南《わいなん》の陶雅・陳璋が婺州を抜いたが、906年二月、陶雅が歙州へ帰ったのに乗じて呉越の方永珍らが婺州を取り返した","衢州刺史の陳璋は904年に銭鏐に叛いて淮南に降った。906年、呉越が衢州を囲み、淮南の周本が陳璋を連れて退いたので、呉越が衢州を取り方永珍を衢州制置使とした":"衢州｜刺史《しし》の陳璋は904年に銭鏐に叛いて｜淮南《わいなん》に降った。906年、呉越が衢州を囲み、｜淮南《わいなん》の周本が陳璋を連れて退いたので、呉越が衢州を取り方永珍を衢州制置使とした","建徳市梅城鎮":"｜建徳《けんとく》市梅城鎮","903年に睦州刺史陳詢が銭鏐に叛き、905年に淮南の陶雅が入ったが、906年正月に陶雅が退き呉越が睦州を取り返した":"903年に睦州｜刺史《しし》陳詢が銭鏐に叛き、905年に｜淮南《わいなん》の陶雅が入ったが、906年正月に陶雅が退き呉越が睦州を取り返した","天祐四年（開平元年）五月":"｜天祐《てんゆう》四年（｜開平《かいへい》元年）五月","福州（長楽府）":"｜福州《ふくしゅう》（｜長楽《ちょうらく》府）","福州":"｜福州《ふくしゅう》","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","王審知の威武軍の本拠。閩の都":"｜王審知《おうしんち》の威武軍の本拠。閩の都","林仁翰が連重遇を殺し、朱文進を斬って殷の呉成義を城に迎える":"林仁翰が｜連重遇《れんちょうぐう》を殺し、朱｜文進《ぶんしん》を斬って殷の呉成義を城に迎える","開運元年閏十二月":"｜開運《かいうん》元年閏十二月","944年三月に朱文進・連重遇が閩主王曦を殺して福州を持ち、晋に称臣した（王氏の閩ではない）が、年末に殷の王延政の側に帰した":"944年三月に朱｜文進《ぶんしん》・｜連重遇《れんちょうぐう》が閩主王曦を殺して｜福州《ふくしゅう》を持ち、晋に｜称臣《しょうしん》した（｜王氏《おうし》の閩ではない）が、年末に殷の｜王延政《おうえんせい》の側に帰した","李仁達が王継昌・呉成義を殺して福州を奪う":"李仁達が王継昌・呉成義を殺して｜福州《ふくしゅう》を奪う","開運二年":"｜開運《かいうん》二年","945年の初めに王延政は国号を閩に戻したが、福州は李仁達に奪われた。李仁達は僧卓岩明を立て、のち自ら威武留後を称して南唐の保大の年号を使い、南唐に称藩した（名目上の服属。南唐から名を弘義と賜わる）。946年に南唐が福州を攻め、呉越の援軍が城に入る":"945年の初めに｜王延政《おうえんせい》は国号を閩に戻したが、｜福州《ふくしゅう》は李仁達に奪われた。李仁達は僧卓岩明を立て、のち自ら｜威武留後《いぶりゅうご》を称して｜南唐《なんとう》の｜保大《ほだい》の年号を使い、｜南唐《なんとう》に｜称藩《しょうはん》した（名目上の服属。｜南唐《なんとう》から名を弘義と賜わる）。946年に｜南唐《なんとう》が｜福州《ふくしゅう》を攻め、呉越の援軍が城に入る","南唐軍が潰走し、呉越の余安が福州に入り、李達（李仁達）が兵を呉越に授ける":"｜南唐《なんとう》軍が潰走し、呉越の余安が｜福州《ふくしゅう》に入り、李達（李仁達）が兵を呉越に授ける","天福十二年三月":"｜天福《てんぷく》十二年三月","呉越は鮑修譲を福州に駐屯させ、同じ年に南唐へ降ろうとした李孺贇（李仁達）を殺した。950年に南唐の査文徽が福州を襲ったが、呉越の呉程に敗れて捕らえられた":"呉越は鮑修譲を｜福州《ふくしゅう》に駐屯させ、同じ年に｜南唐《なんとう》へ降ろうとした李孺贇（李仁達）を殺した。950年に｜南唐《なんとう》の査文徽が｜福州《ふくしゅう》を襲ったが、呉越の呉程に敗れて捕らえられた","建州":"｜建州《けんしゅう》","王潮・王審知の福建五州の一つ。940〜942年は建州の王延政（富沙王）が兄の閩主王曦と争ったが、まだ閩の内紛。934年に呉の蒋延徽が建州を囲んだが退いた":"｜王潮《おうちょう》・｜王審知《おうしんち》の｜福建《ふっけん》五州の一つ。940〜942年は｜建州《けんしゅう》の｜王延政《おうえんせい》（富沙王）が兄の閩主王曦と争ったが、まだ閩の内紛。934年に呉の蒋延徽が｜建州《けんしゅう》を囲んだが退いた","王延政が建州で帝を称し、国号を大殷とする":"｜王延政《おうえんせい》が｜建州《けんしゅう》で帝を称し、国号を｜大殷《だいいん》とする","天福八年春":"｜天福《てんぷく》八年春","南唐が建州を落とし、王延政が降る（殷＝閩の滅亡）":"｜南唐《なんとう》が｜建州《けんしゅう》を落とし、｜王延政《おうえんせい》が降る（殷＝閩の滅亡）","開運二年八月":"｜開運《かいうん》二年八月","945年の初めに王延政は国号を閩に戻していた。南唐は建州に永安軍を置いた。新五代史の南唐世家はこの事を保大四年（946）に繋けるが、通鑑に従う":"945年の初めに｜王延政《おうえんせい》は国号を閩に戻していた。｜南唐《なんとう》は｜建州《けんしゅう》に｜永安《えいあん》軍を置いた。｜新五代史《しんごだいし》の南唐世家はこの事を｜保大《ほだい》四年（946）に繋けるが、通鑑に従う","南唐の李煜が降り、南唐の州はみな宋に帰す":"｜南唐《なんとう》の｜李煜《りいく》が降り、｜南唐《なんとう》の州はみな宋に帰す","泉州":"｜泉州《せんしゅう》","泉州市":"｜泉州《せんしゅう》市","王潮が885年ごろ取った閩の最初の州。王審知の甥王延彬が長く刺史だった":"｜王潮《おうちょう》が885年ごろ取った閩の最初の州。｜王審知《おうしんち》の甥王延彬が長く｜刺史《しし》だった","留従効らが朱文進の置いた黄紹頗を斬り、王継勲を迎えて殷に帰す":"留従効らが朱｜文進《ぶんしん》の置いた黄紹頗を斬り、王継勲を迎えて殷に帰す","開運元年十一月":"｜開運《かいうん》元年十一月","王継勲が泉州ごと南唐に降る":"王継勲が｜泉州《せんしゅう》ごと｜南唐《なんとう》に降る","開運二年九月":"｜開運《かいうん》二年九月","946年に留従効が王継勲を退けて州の軍府を握り、南唐から泉州刺史に任じられた":"946年に留従効が王継勲を退けて州の軍府を握り、｜南唐《なんとう》から｜泉州《せんしゅう》｜刺史《しし》に任じられた","留従効が南唐の戍兵を泉州から送り帰し、南唐は制せず":"留従効が｜南唐《なんとう》の戍兵を｜泉州《せんしゅう》から送り帰し、｜南唐《なんとう》は制せず","天福十二年（南唐の福州の敗戦の後）":"｜天福《てんぷく》十二年（｜南唐《なんとう》の｜福州《ふくしゅう》の敗戦の後）","南唐の福州攻めが潰えた947年、留従効は泉州に兵を返して南唐の戍将を送り帰し、南唐はこれを制することができなかった。以後の泉州は留従効の自立した城で、949年の清源軍の設置はそれを追認した名目にすぎない。新五代史の閩世家も「景の守兵を逐い、泉・漳二州に拠る」と書く。949年の行はこの行に置き換える（持ち主が同じなので不要になる）":"｜南唐《なんとう》の福州攻めが潰えた947年、留従効は｜泉州《せんしゅう》に兵を返して｜南唐《なんとう》の戍将を送り帰し、｜南唐《なんとう》はこれを制することができなかった。以後の｜泉州《せんしゅう》は留従効の自立した城で、949年の清源軍の設置はそれを追認した名目にすぎない。｜新五代史《しんごだいし》の｜閩《びん》｜世家《せいか》も「景の守兵を逐い、泉・漳二州に拠る」と書く。949年の行はこの行に置き換える（持ち主が同じなので不要になる）","太平興国三年四月":"｜太平興国《たいへいこうこく》三年四月","王潮・王審知の福建五州の一つ":"｜王潮《おうちょう》・｜王審知《おうしんち》の｜福建《ふっけん》五州の一つ","漳州の将程謨が朱文進の置いた刺史程文緯を殺し、王継成を立てて殷に帰す":"漳州の将程謨が朱｜文進《ぶんしん》の置いた｜刺史《しし》程文緯を殺し、王継成を立てて殷に帰す","王継成が漳州ごと南唐に降る":"王継成が漳州ごと｜南唐《なんとう》に降る","946年に林賛尭が乱を起こしたが留従効が逐い、南唐は董思安を刺史として漳州を南州と改めた":"946年に林賛尭が乱を起こしたが留従効が逐い、｜南唐《なんとう》は董思安を｜刺史《しし》として漳州を南州と改めた","留従効が南唐の守兵を逐い、泉・漳二州に拠る":"留従効が｜南唐《なんとう》の守兵を逐い、泉・漳二州に拠る","天福十二年":"｜天福《てんぷく》十二年","947年に南唐の福州攻めが潰えたあと、留従効は泉州の南唐の戍兵を送り帰し、新五代史は泉・漳の二州に拠ったと書く。泉州と同じく947年から清源軍（949年の節度使の任命は追認）":"947年に｜南唐《なんとう》の福州攻めが潰えたあと、留従効は｜泉州《せんしゅう》の｜南唐《なんとう》の戍兵を送り帰し、｜新五代史《しんごだいし》は泉・漳の二州に拠ったと書く。｜泉州《せんしゅう》と同じく947年から清源軍（949年の｜節度使《せつどし》の任命は追認）","汀州":"｜汀州《ていしゅう》","王潮の時に汀州刺史鍾全慕が帰順して閩の州となる。941年に閩主王曦が汀州刺史王延喜を捕らえ、942年に王延政が汀州を攻めたが落とせなかった（943年も閩主王曦の側）":"｜王潮《おうちょう》の時に｜汀州《ていしゅう》｜刺史《しし》鍾全慕が帰順して閩の州となる。941年に閩主王曦が｜汀州《ていしゅう》｜刺史《しし》王延喜を捕らえ、942年に｜王延政《おうえんせい》が｜汀州《ていしゅう》を攻めたが落とせなかった（943年も閩主王曦の側）","朱文進の置いた汀州刺史許文稹が殷に降る":"朱｜文進《ぶんしん》の置いた｜汀州《ていしゅう》｜刺史《しし》許文稹が殷に降る","許文稹が汀州ごと南唐に降る":"許文稹が｜汀州《ていしゅう》ごと｜南唐《なんとう》に降る","鄜州":"｜鄜州《ふしゅう》","岐王李茂貞が任じた保大軍節度使李彦博の鄜州。後梁の劉鄩は天祐二年より前に邠・岐の侵攻で鄜州を棄てて同州へ退いていた":"岐王｜李《り》｜茂貞《もてい》が任じた｜保大《ほだい》軍｜節度使《せつどし》李彦博の｜鄜州《ふしゅう》。｜後梁《こうりょう》の劉鄩は｜天祐《てんゆう》二年より前に邠・岐の侵攻で｜鄜州《ふしゅう》を棄てて｜同州《どうしゅう》へ退いていた","劉知俊が延州を取り、岐の保大節度使李彦博が鳳翔へ逃げ、鄜州の都将厳弘倚が城ごと後梁に降る":"｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》が｜延州《えんしゅう》を取り、岐の｜保大《ほだい》｜節度使《せつどし》李彦博が｜鳳翔《ほうしょう》へ逃げ、｜鄜州《ふしゅう》の都将厳弘倚が城ごと｜後梁《こうりょう》に降る","開平三年四月":"｜開平《かいへい》三年四月","後梁の滅亡で後唐へ。鄜延の高万興は後梁が任じた官のまま後唐に引き継がれた":"｜後梁《こうりょう》の滅亡で｜後唐《こうとう》へ。鄜延の高万興は｜後梁《こうりょう》が任じた官のまま｜後唐《こうとう》に引き継がれた","後晋の滅亡で契丹の城とする（共通の取り決め）。鄜州で契丹の守将を確かめた記事は見つけていない":"｜後晋《こうしん》の滅亡で｜契丹《きったん》の城とする（共通の取り決め）。｜鄜州《ふしゅう》で｜契丹《きったん》の守将を確かめた記事は見つけていない","延州":"｜延州《えんしゅう》","延安市":"｜延安《えんあん》市","唐末から河西（延州一帯）は李茂貞に属し、岐の将胡敬璋が延州を守った（908年に「岐王所署延州节度使」として後梁を攻めている）":"唐末から｜河西《かせい》（｜延州《えんしゅう》一帯）は｜李《り》｜茂貞《もてい》に属し、岐の将胡敬璋が｜延州《えんしゅう》を守った（908年に「岐王所署｜延州《えんしゅう》节度使」として｜後梁《こうりょう》を攻めている）","劉知俊が延州を攻め落とし、李延実が降る。高万興が保塞節度使となる":"｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》が｜延州《えんしゅう》を攻め落とし、李延実が降る。高万興が保塞｜節度使《せつどし》となる","後梁の滅亡で後唐へ。後唐は延州を彰武軍と改めた":"｜後梁《こうりょう》の滅亡で｜後唐《こうとう》へ。｜後唐《こうとう》は｜延州《えんしゅう》を彰武軍と改めた","後唐から後晋へ。この年、延州の土豪劉景岩が節度使楊漢章を殺させて留後となったが、後唐はそのまま留後に任じており王朝の城のまま":"｜後唐《こうとう》から｜後晋《こうしん》へ。この年、｜延州《えんしゅう》の土豪｜劉《りゅう》景岩が｜節度使《せつどし》楊漢章を殺させて留後となったが、｜後唐《こうとう》はそのまま留後に任じており王朝の城のまま","後晋の滅亡で契丹の城とする（共通の取り決め）":"｜後晋《こうしん》の滅亡で｜契丹《きったん》の城とする（共通の取り決め）","延州の将士が節度使周密を攻め、高允権が留後に推され、劉知遠に表を奉じて降る":"｜延州《えんしゅう》の将士が｜節度使《せつどし》周密を攻め、高允権が留後に推され、｜劉知遠《りゅうちえん》に表を奉じて降る","夏州（統万城）":"｜夏州《かしゅう》（｜統万城《とうまんじょう》）","夏州":"｜夏州《かしゅう》","党項の李氏（拓跋氏）が世襲する定難軍。李思諫は後梁に臣属し、兵を交えなかった。910年に岐・邠・涇と晋の周徳威が夏州を囲んだが、後梁の救援で解いた（帰属は変わらない）。933年に後唐は李彝超を延州へ移そうとし、安従進に夏州を攻めさせたが落とせず兵を退き、李彝超を改めて定難軍節度使に任じた。960年の宋の建国後も李彝興（彝殷）・李光叡・李継筠が定難軍節度使を継ぎ、979年の歳末も定難軍":"党項の｜李氏《りし》（拓跋氏）が世襲する定難軍。李思諫は｜後梁《こうりょう》に臣属し、兵を交えなかった。910年に岐・邠・涇と晋の周｜徳威《とくい》が｜夏州《かしゅう》を囲んだが、｜後梁《こうりょう》の救援で解いた（帰属は変わらない）。933年に｜後唐《こうとう》は李彝超を｜延州《えんしゅう》へ移そうとし、｜安従進《あんじゅうしん》に｜夏州《かしゅう》を攻めさせたが落とせず兵を退き、李彝超を改めて｜定難軍《ていなんぐん》｜節度使《せつどし》に任じた。960年の宋の建国後も李彝興（彝殷）・李光叡・李継筠が｜定難軍《ていなんぐん》｜節度使《せつどし》を継ぎ、979年の歳末も定難軍","唐末から定難軍（夏州の党項李氏）の管下の州。933年、後唐が李彝超を移そうとした詔は「夏、银、绥、宥」の将士吏民に宛てている。943年に綏州刺史李彝敏が夏州の謀叛に加わろうとして発覚し、州を棄てて延州へ逃げたが、州は定難軍の手に残った。宋の代も李氏の一族が綏州刺史で、979年にも定難留後李継筠の配下に綏州刺史李光憲がいる":"唐末から定難軍（｜夏州《かしゅう》の党項｜李氏《りし》）の管下の州。933年、｜後唐《こうとう》が李彝超を移そうとした詔は「夏、银、绥、宥」の将士｜吏民《りみん》に宛てている。943年に綏州｜刺史《しし》李彝敏が｜夏州《かしゅう》の｜謀叛《むほん》に加わろうとして発覚し、州を棄てて｜延州《えんしゅう》へ逃げたが、州は定難軍の手に残った。宋の代も｜李氏《りし》の一族が綏州｜刺史《しし》で、979年にも定難留後李継筠の配下に綏州｜刺史《しし》李光憲がいる","霊州":"｜霊州《れいしゅう》","霊武市":"｜霊武《れいぶ》市","唐末から霊州の牙校韓遜が自立して朔方を握り、朝廷はそれを追認して節度使に任じた。韓遜は後梁に臣属し、岐の侵攻を退けた。韓氏の世襲で、朝廷が節度使を代えられたのは929年から。909年末に岐王李茂貞が劉知俊に霊州を攻めさせたが、後梁の援軍が邠寧を攻めて救い、帰属は変わっていない":"唐末から｜霊州《れいしゅう》の牙校韓遜が自立して｜朔方《さくほう》を握り、朝廷はそれを追認して｜節度使《せつどし》に任じた。韓遜は｜後梁《こうりょう》に臣属し、岐の侵攻を退けた。韓氏の世襲で、朝廷が｜節度使《せつどし》を代えられたのは929年から。909年末に岐王｜李《り》｜茂貞《もてい》が｜劉《りゅう》｜知俊《ちしゅん》に｜霊州《れいしゅう》を攻めさせたが、｜後梁《こうりょう》の援軍が邠寧を攻めて救い、帰属は変わっていない","後梁の滅亡で後唐へ。荘宗は韓洙に河西節度を兼ねさせた":"｜後梁《こうりょう》の滅亡で｜後唐《こうとう》へ。｜荘宗《そうそう》は韓洙に｜河西《かせい》節度を兼ねさせた","康福が朔方節度使として霊州に入り、韓氏の世襲が終わる":"康福が｜朔方《さくほう》｜節度使《せつどし》として｜霊州《れいしゅう》に入り、韓氏の世襲が終わる","天成四年十月":"｜天成《てんせい》四年十月","韓洙の死後、弟の韓澄が留後となったが、李匡賓の乱で朔方が乱れ、韓澄が朝廷に帥を求めた。後唐は康福を朔方・河西節度使に任じ、康福が霊州に入って「朔方始めて代を受く」となった。台帳の907年の注記も「朝廷が節度使を代えられたのは929年から」と書いているのに、名目上の従属の印が936年の交替の行まで続いている。929年から名目上の印を外した後唐の行を入れる":"韓洙の死後、弟の韓澄が留後となったが、李匡賓の乱で｜朔方《さくほう》が乱れ、韓澄が朝廷に帥を求めた。｜後唐《こうとう》は康福を｜朔方《さくほう》・｜河西《かせい》｜節度使《せつどし》に任じ、康福が｜霊州《れいしゅう》に入って「｜朔方《さくほう》始めて代を受く」となった。台帳の907年の注記も「朝廷が｜節度使《せつどし》を代えられたのは929年から」と書いているのに、名目上の従属の印が936年の交替の行まで続いている。929年から名目上の印を外した｜後唐《こうとう》の行を入れる","後晋の滅亡で契丹の城とする（共通の取り決め）。霊州で契丹の支配を確かめた記事は見つけていない":"｜後晋《こうしん》の滅亡で｜契丹《きったん》の城とする（共通の取り決め）。｜霊州《れいしゅう》で｜契丹《きったん》の支配を確かめた記事は見つけていない","涼州":"｜涼州《りょうしゅう》","武威市":"｜武威《ぶい》市","涼州の留後（唐の鄆州の戍兵の子孫の漢人と土豪）":"｜涼州《りょうしゅう》の留後（唐の｜鄆州《うんしゅう》の戍兵の子孫の漢人と土豪）","後梁は霊武節度使に河西節度を兼ねさせたが名だけで、涼州は自ら守将を立てた。中原へは使いを送って節度使の任命を求めた（933年に留後孫超、934年に留後李文謙、後漢の隠帝の時に留後折逋嘉施）。954年に申師厚が逃げ帰った後「凉州遂绝于中国」。964年に涼州の蕃部の首領数十人が宋に帥を求めた":"｜後梁《こうりょう》は｜霊武《れいぶ》｜節度使《せつどし》に｜河西《かせい》節度を兼ねさせたが名だけで、｜涼州《りょうしゅう》は自ら守将を立てた。｜中原《ちゅうげん》へは使いを送って｜節度使《せつどし》の任命を求めた（933年に留後孫超、934年に留後李文謙、｜後漢《ごかん》の｜隠帝《いんてい》の時に留後折逋嘉施）。954年に申師厚が逃げ帰った後「凉州遂绝于｜中国《ちゅうごく》」。964年に｜涼州《りょうしゅう》の蕃部の首領数十人が宋に帥を求めた","甘州":"｜甘州《かんしゅう》","甘州回鶻":"｜甘州《かんしゅう》｜回鶻《かいこつ》","甘州は回鶻の牙帳。後梁の乾化元年（911）に都督周易言らを、後唐の荘宗の時に王仁美が使いを送り、荘宗は仁美を英義可汗に冊した。後周・宋にも入貢した（959年に玉を献じ、965年に于闐・瓜沙州とともに宋へ使い）":"｜甘州《かんしゅう》は｜回鶻《かいこつ》の牙帳。｜後梁《こうりょう》の｜乾化《けんか》元年（911）に都督周易言らを、｜後唐《こうとう》の｜荘宗《そうそう》の時に王仁美が使いを送り、｜荘宗《そうそう》は仁美を英義｜可汗《かがん》に冊した。｜後周《こうしゅう》・宋にも入貢した（959年に玉を献じ、965年に于闐・瓜｜沙州《さしゅう》とともに宋へ使い）","沙州":"｜沙州《さしゅう》","帰義軍（張氏）":"帰義軍（｜張氏《ちょうし》）","後梁の開平年間、沙州の節度使張奉が「金山白衣天子」と自称した。曹氏は後晋（940年に曹義金が死に子の元徳が立つ、942年に曹元忠・曹元深が使い）・後周（曹元忠を帰義軍節度使に任じる）・宋（961年に曹元忠が使い）にも使いを送ったが、中原の実効支配の外":"｜後梁《こうりょう》の｜開平《かいへい》年間、｜沙州《さしゅう》の｜節度使《せつどし》張奉が「｜金山《きんざん》白衣天子」と自称した。｜曹氏《そうし》は｜後晋《こうしん》（940年に曹義金が死に子の｜元徳《げんとく》が立つ、942年に曹元忠・曹元深が使い）・｜後周《こうしゅう》（曹元忠を帰義軍｜節度使《せつどし》に任じる）・宋（961年に曹元忠が使い）にも使いを送ったが、｜中原《ちゅうげん》の実効支配の外","帰義軍（曹氏）":"帰義軍（｜曹氏《そうし》）","権知帰義留後の曹義金が間道から入貢し、後唐が帰義軍節度使に任じる":"権知帰義留後の曹義金が間道から入貢し、｜後唐《こうとう》が帰義軍｜節度使《せつどし》に任じる","幽州（燕）":"｜幽州《ゆうしゅう》（燕）","幽州":"｜幽州《ゆうしゅう》","劉仁恭の幽州。907年四月、後梁の李思安の攻撃を退けた劉守光が父を大安山に囚えて節度使を称した。後梁から盧龍節度使の任命を受けるが、実際には自立。911年に劉守光が幽州で帝位に即き「大燕」と号した":"｜劉仁恭《りゅうじんきょう》の｜幽州《ゆうしゅう》。907年四月、｜後梁《こうりょう》の｜李《り》｜思安《しあん》の攻撃を退けた｜劉守光《りゅうしゅこう》が父を｜大安山《だいあんざん》に囚えて｜節度使《せつどし》を称した。｜後梁《こうりょう》から｜盧龍《ろりゅう》｜節度使《せつどし》の任命を受けるが、実際には自立。911年に｜劉守光《りゅうしゅこう》が｜幽州《ゆうしゅう》で帝位に即き「｜大燕《だいえん》」と号した","晋が幽州を落とし、燕が滅ぶ":"晋が｜幽州《ゆうしゅう》を落とし、燕が滅ぶ","乾化三年十一月":"｜乾化《けんか》三年十一月","913年十一月、晋王李存勗が幽州城を攻め落として入城し、劉仁恭を捕らえる。劉守光も逃亡中に捕らえられ、燕は滅ぶ。周徳威が盧龍節度使となる":"913年十一月、晋王李存勗が｜幽州《ゆうしゅう》城を攻め落として入城し、｜劉仁恭《りゅうじんきょう》を捕らえる。｜劉守光《りゅうしゅこう》も逃亡中に捕らえられ、燕は滅ぶ。周｜徳威《とくい》が｜盧龍《ろりゅう》｜節度使《せつどし》となる","923年四月に晋王李存勗が帝位に即き後唐となる":"923年四月に晋王李存勗が帝位に即き｜後唐《こうとう》となる","燕雲十六州の割譲。盧龍節度使趙徳鈞が契丹に降る":"燕雲十六州の割譲。｜盧龍《ろりゅう》｜節度使《せつどし》趙徳鈞が｜契丹《きったん》に降る","936年、石敬瑭が契丹に盧龍一道と雁門以北の諸州の割譲を約し、十一月に燕雲十六州の割譲を定めた。後唐の盧龍節度使趙徳鈞は団柏で契丹に降り、述律太后の問いに「幽州は太后のもの」と答えている。翌937年に契丹は幽州を南京とし、938年十一月に後晋が十六州の図籍を献じた":"936年、｜石敬瑭《せきけいとう》が｜契丹《きったん》に盧龍一道と｜雁門《がんもん》以北の諸州の割譲を約し、十一月に燕雲十六州の割譲を定めた。｜後唐《こうとう》の｜盧龍《ろりゅう》｜節度使《せつどし》趙徳鈞は団柏で｜契丹《きったん》に降り、｜述律《じゅつりつ》｜太后《たいこう》の問いに「｜幽州《ゆうしゅう》は太后のもの」と答えている。翌937年に｜契丹《きったん》は｜幽州《ゆうしゅう》を｜南京《なんきん》とし、938年十一月に｜後晋《こうしん》が十六州の｜図籍《とせき》を献じた","天津市薊州区":"｜天津《てんしん》市薊州区","劉仁恭・劉守光の盧龍の巡属":"｜劉仁恭《りゅうじんきょう》・｜劉守光《りゅうしゅこう》の｜盧龍《ろりゅう》の巡属","913年、晋の周徳威が燕の安遠軍を抜き、薊州の将成行言らが晋に降った":"913年、晋の周｜徳威《とくい》が燕の安遠軍を抜き、薊州の将成行言らが晋に降った","天福元年":"｜天福《てんぷく》元年","盧龍の巡属。936年の割譲の約束に含まれ、盧龍節度使趙徳鈞が契丹に降った。938年十一月に後晋が図籍を献じた":"｜盧龍《ろりゅう》の巡属。936年の割譲の約束に含まれ、｜盧龍《ろりゅう》｜節度使《せつどし》趙徳鈞が｜契丹《きったん》に降った。938年十一月に｜後晋《こうしん》が｜図籍《とせき》を献じた","乾化三年正月":"｜乾化《けんか》三年正月","913年正月に晋の周徳威が燕の順州を抜く。同年九月に劉守光が夜に出て順州を取り返したが、十月までに盧龍の巡属はみな晋に入った":"913年正月に晋の周｜徳威《とくい》が燕の順州を抜く。同年九月に｜劉守光《りゅうしゅこう》が夜に出て順州を取り返したが、十月までに｜盧龍《ろりゅう》の巡属はみな晋に入った","檀州刺史が晋に降る":"檀州｜刺史《しし》が晋に降る","913年、晋の李存暉が燕の檀州を攻め、刺史陳確が城ごと降った":"913年、晋の李存暉が燕の檀州を攻め、｜刺史《しし》陳確が城ごと降った","923年四月に晋王李存勗が帝位に即き後唐となる。927年に後唐が劉訓を檀州刺史に貶しており、後唐の州":"923年四月に晋王李存勗が帝位に即き｜後唐《こうとう》となる。927年に｜後唐《こうとう》が劉訓を檀州｜刺史《しし》に貶しており、｜後唐《こうとう》の州","涿州刺史が晋に降る":"涿州｜刺史《しし》が晋に降る","乾化二年正月":"｜乾化《けんか》二年正月","912年正月、晋・趙・義武の兵が涿州を囲み、刺史劉知温が降った":"912年正月、晋・趙・義武の兵が涿州を囲み、｜刺史《しし》劉知温が降った","易県":"｜易県《えきけん》","定州の義武軍節度使王処直の巡属（易定）。907年は後梁から侍中を加えられ、910年からは晋と結んだが、自立していた":"定州の義武軍｜節度使《せつどし》王処直の巡属（易定）。907年は｜後梁《こうりょう》から｜侍中《じちゅう》を加えられ、910年からは晋と結んだが、自立していた","龍徳元年":"｜龍徳《りゅうとく》元年","921年、王処直の養子王都が父を幽閉して留後を称し、晋王が王都を処直に代えた。王都は易定を十余年治め、刺史以下を自分で任じ租賦を自軍に充てたので、晋・後唐への服属は名目上":"921年、王処直の養子王都が父を幽閉して留後を称し、｜晋王《しんおう》が王都を処直に代えた。王都は易定を十余年治め、｜刺史《しし》以下を自分で任じ租賦を自軍に充てたので、晋・｜後唐《こうとう》への服属は名目上","923年四月に晋王李存勗が帝位に即き後唐となる。王都の易定は名目上の服属のまま":"923年四月に晋王李存勗が帝位に即き｜後唐《こうとう》となる。王都の易定は名目上の服属のまま","936年閏十一月に石敬瑭が洛陽に入り後晋となる。易州は十六州に入っていない":"936年閏十一月に｜石敬瑭《せきけいとう》が｜洛陽《らくよう》に入り｜後晋《こうしん》となる。易州は十六州に入っていない","易州が契丹に降る":"易州が｜契丹《きったん》に降る","契丹が何度も攻めたが刺史郭璘が守り抜いた。946年十二月に杜威（杜重威）が契丹に降ると、契丹は耿崇美を易州に遣わして兵を降らせ、郭璘は殺された":"｜契丹《きったん》が何度も攻めたが｜刺史《しし》郭璘が守り抜いた。946年十二月に｜杜《と》威（｜杜重威《とちょうい》）が｜契丹《きったん》に降ると、｜契丹《きったん》は耿崇美を易州に遣わして兵を降らせ、郭璘は殺された","孫方簡が定州に戻り、易州も後漢に帰す":"孫方簡が定州に戻り、易州も｜後漢《ごかん》に帰す","947年に契丹の太宗が北へ帰ったのちも定州には契丹の耶律忠がいた。耶律忠が定州を焼いて北へ去ると、孫方簡が狼山から戻って定州に拠り、弟の孫行友を易州刺史として後漢に奏した。通鑑は「晋末に契丹に陥った州県はみな漢に戻った」と書く":"947年に｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰ったのちも定州には｜契丹《きったん》の｜耶律《やりつ》忠がいた。｜耶律《やりつ》忠が定州を焼いて北へ去ると、孫方簡が狼山から戻って定州に拠り、弟の孫行友を易州｜刺史《しし》として｜後漢《ごかん》に奏した。通鑑は「晋末に｜契丹《きったん》に陥った州県はみな漢に戻った」と書く","951年正月に後漢から後周へ。同年、易州刺史孫行友が義武留後に移った":"951年正月に｜後漢《ごかん》から｜後周《こうしゅう》へ。同年、易州｜刺史《しし》孫行友が義武留後に移った","契丹が易州城を修める":"｜契丹《きったん》が易州城を修める","応暦三年二月":"｜応暦《おうれき》三年二月","953年二月に契丹の太保敵烈が易州城を修め、鎮州の兵の挑戦を退けている。遼史地理志は易州を会同九年（946）に得て応暦九年（959）に周の世宗に取られたと書く":"953年二月に｜契丹《きったん》の太保｜敵烈《てきれつ》が易州城を修め、｜鎮州《ちんしゅう》の兵の挑戦を退けている。｜遼史《りょうし》地理志は易州を｜会同《かいどう》九年（946）に得て｜応暦《おうれき》九年（959）に周の｜世宗《せいそう》に取られたと書く","顕徳六年五月":"｜顕徳《けんとく》六年五月","959年五月、後周の世宗の北征で義武節度使孫行友が易州を抜き、契丹の刺史李在欽を捕らえた":"959年五月、｜後周《こうしゅう》の｜世宗《せいそう》の北征で義武｜節度使《せつどし》孫行友が易州を抜き、｜契丹《きったん》の｜刺史《しし》李在欽を捕らえた","960年正月に後周から宋へ。965・966年に契丹が易州に侵したが撃退されている":"960年正月に｜後周《こうしゅう》から宋へ。965・966年に｜契丹《きったん》が易州に侵したが撃退されている","河間市":"｜河間《かかん》市","瀛州刺史が晋に降る":"瀛州｜刺史《しし》が晋に降る","乾化二年":"｜乾化《けんか》二年","912年、李嗣源が瀛州を攻め、刺史趙敬が降った":"912年、｜李嗣源《りしげん》が瀛州を攻め、｜刺史《しし》趙敬が降った","936年閏十一月に後唐が滅び、後晋に移った（調査結果に後晋への交替の行が抜けていた）。契丹に図籍を献じて引き渡したのは938年":"936年閏十一月に｜後唐《こうとう》が滅び、｜後晋《こうしん》に移った（調査結果に｜後晋《こうしん》への交替の行が抜けていた）。｜契丹《きったん》に｜図籍《とせき》を献じて引き渡したのは938年","燕雲十六州の図籍の献上":"燕雲十六州の｜図籍《とせき》の献上","会同元年十一月":"｜会同《かいどう》元年十一月","936年の割譲の約束に含まれ、938年十一月に後晋が十六州の図籍を契丹に献じた。944年には趙延照が瀛・莫に屯し、946年には契丹の瀛州刺史劉延祚がいる":"936年の割譲の約束に含まれ、938年十一月に｜後晋《こうしん》が十六州の｜図籍《とせき》を｜契丹《きったん》に献じた。944年には趙延照が瀛・莫に屯し、946年には｜契丹《きったん》の瀛州｜刺史《しし》劉延祚がいる","瀛州が後周に降る":"瀛州が｜後周《こうしゅう》に降る","959年五月、後周の世宗の北征で契丹の瀛州刺史高彦暉が城ごと降り、関南がみな平らいだ":"959年五月、｜後周《こうしゅう》の｜世宗《せいそう》の北征で｜契丹《きったん》の瀛州｜刺史《しし》高彦暉が城ごと降り、｜関南《かんなん》がみな平らいだ","960年正月に後周から宋へ":"960年正月に｜後周《こうしゅう》から宋へ","莫州":"｜莫州《ばくしゅう》","莫州刺史が晋に降る":"｜莫州《ばくしゅう》｜刺史《しし》が晋に降る","912年、周徳威が瓦橋関を攻め、関の将吏と莫州刺史李厳が降った":"912年、周｜徳威《とくい》が｜瓦橋関《がきょうかん》を攻め、関の｜将吏《しょうり》と｜莫州《ばくしゅう》｜刺史《しし》｜李《り》厳が降った","936年の割譲の約束に含まれ、938年十一月に後晋が十六州の図籍を契丹に献じた":"936年の割譲の約束に含まれ、938年十一月に｜後晋《こうしん》が十六州の｜図籍《とせき》を｜契丹《きったん》に献じた","莫州が後周に降る":"｜莫州《ばくしゅう》が｜後周《こうしゅう》に降る","959年五月、後周の世宗の北征で契丹の莫州刺史劉楚信が城ごと降った":"959年五月、｜後周《こうしゅう》の｜世宗《せいそう》の北征で｜契丹《きったん》の｜莫州《ばくしゅう》｜刺史《しし》劉楚信が城ごと降った","盧龍県":"｜盧龍《ろりゅう》県","劉仁恭・劉守光の盧龍の巡属。907年に平州刺史劉守奇（守光の兄弟）が契丹へ奔ったが、州は燕のまま。911年・912年に契丹が平州を破ったが引き揚げ、913年まで燕の刺史がいた":"｜劉仁恭《りゅうじんきょう》・｜劉守光《りゅうしゅこう》の｜盧龍《ろりゅう》の巡属。907年に平州｜刺史《しし》｜劉《りゅう》｜守奇《しゅき》（｜守光《しゅこう》の兄弟）が｜契丹《きったん》へ奔ったが、州は燕のまま。911年・912年に｜契丹《きったん》が平州を破ったが引き揚げ、913年まで燕の｜刺史《しし》がいた","乾化三年四月":"｜乾化《けんか》三年四月","913年、晋の劉光濬が燕の平州を抜き、刺史張在吉を捕らえた":"913年、晋の劉光濬が燕の平州を抜き、｜刺史《しし》張在吉を捕らえた","契丹が平州を落とす":"｜契丹《きったん》が平州を落とす","天賛二年正月":"｜天賛《てんさん》二年正月","923年正月、契丹の大元帥堯骨（のちの太宗）が平州を落とし、刺史趙思温を捕らえた。二月に平州を盧龍軍とし節度使を置いた。通鑑は924年に契丹が盧文進らに営・平などの州を拠らせたと書く":"923年正月、｜契丹《きったん》の大元帥｜堯骨《ぎょうこつ》（のちの｜太宗《たいそう》）が平州を落とし、｜刺史《しし》｜趙《ちょう》思温を捕らえた。二月に平州を｜盧龍《ろりゅう》軍とし｜節度使《せつどし》を置いた。通鑑は924年に｜契丹《きったん》が盧文進らに営・平などの州を拠らせたと書く","営州":"｜営州《えいしゅう》","営州刺史が晋に降る":"｜営州《えいしゅう》｜刺史《しし》が晋に降る","乾化三年五月":"｜乾化《けんか》三年五月","913年五月、晋の劉光濬が営州に迫り、刺史楊靖が城ごと降った":"913年五月、晋の劉光濬が｜営州《えいしゅう》に迫り、｜刺史《しし》楊靖が城ごと降った","契丹が営州に拠る":"｜契丹《きったん》が｜営州《えいしゅう》に拠る","契丹が渤海の遼東を攻めるにあたり、将の禿餒と盧文進に営・平などの州を拠らせて燕の地を乱した":"｜契丹《きったん》が｜渤海《ぼっかい》の｜遼東《りょうとう》を攻めるにあたり、将の禿餒と盧文進に営・平などの州を拠らせて燕の地を乱した","新州":"｜新州《しんしゅう》","劉仁恭・劉守光の山後（山北）の州":"｜劉仁恭《りゅうじんきょう》・｜劉守光《りゅうしゅこう》の山後（山北）の州","乾化三年":"｜乾化《けんか》三年","913年、晋の李嗣源が山後八軍を下し、晋王の弟李存矩を新州刺史としてこれを統べさせた":"913年、晋の｜李嗣源《りしげん》が山後八軍を下し、｜晋王《しんおう》の弟李存矩を｜新州《しんしゅう》｜刺史《しし》としてこれを統べさせた","契丹が新州を取る":"｜契丹《きったん》が｜新州《しんしゅう》を取る","貞明三年三月":"｜貞明《ていめい》三年三月","917年二月、李存矩が部下に殺され、盧文進が契丹へ奔った。三月、盧文進が契丹兵を引いて新州を攻め、刺史安金全は城を棄てて逃げ、盧文進の部将劉殷が刺史となった。周徳威が攻めたが落とせなかった":"917年二月、李存矩が部下に殺され、盧文進が｜契丹《きったん》へ奔った。三月、盧文進が｜契丹《きったん》兵を引いて｜新州《しんしゅう》を攻め、｜刺史《しし》安金全は城を棄てて逃げ、盧文進の部将劉殷が｜刺史《しし》となった。周｜徳威《とくい》が攻めたが落とせなかった","晋が新州を取り返す":"晋が｜新州《しんしゅう》を取り返す","918年八月の晋の大動員に新・武などの州の諸部落が兵を出しており、新州は晋の手に戻っている。921年には王郁が晋の新州防禦使（団練使）だった":"918年八月の晋の大動員に新・武などの州の諸部落が兵を出しており、｜新州《しんしゅう》は晋の手に戻っている。921年には王郁が晋の｜新州《しんしゅう》防禦使（団練使）だった","同光元年":"｜同光《どうこう》元年","923年四月に晋は後唐となるが、新州はこの年のうちに契丹に陥ったとみられる。924年正月に媯州山後十三寨の民が新州を取り返したと幽州が奏し、通鑑も「契丹が去り新州を再び得た」と書く":"923年四月に晋は｜後唐《こうとう》となるが、｜新州《しんしゅう》はこの年のうちに｜契丹《きったん》に陥ったとみられる。924年正月に媯州山後十三寨の民が｜新州《しんしゅう》を取り返したと｜幽州《ゆうしゅう》が奏し、通鑑も「｜契丹《きったん》が去り｜新州《しんしゅう》を再び得た」と書く","後唐が新州を取り返す":"｜後唐《こうとう》が｜新州《しんしゅう》を取り返す","924年正月に新州を取り返し、同年に新州に威塞軍を置いた":"924年正月に｜新州《しんしゅう》を取り返し、同年に｜新州《しんしゅう》に威塞軍を置いた","936年閏十一月に石敬瑭が洛陽に入り後晋となる":"936年閏十一月に｜石敬瑭《せきけいとう》が｜洛陽《らくよう》に入り｜後晋《こうしん》となる","新州が契丹の手に入る":"｜新州《しんしゅう》が｜契丹《きったん》の手に入る","936年の割譲の約束に含まれる。937年、契丹の太宗が北へ帰る途中に新州を過ぎ、威塞節度使翟璋に犒軍銭十万緡を出させた。938年に遼は新州を奉聖州と改めた":"936年の割譲の約束に含まれる。937年、｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰る途中に｜新州《しんしゅう》を過ぎ、威塞｜節度使《せつどし》翟璋に犒軍銭十万緡を出させた。938年に遼は｜新州《しんしゅう》を奉聖州と改めた","劉仁恭・劉守光の山後の州。奚王去諸が契丹を嫌って媯州に移り劉仁恭父子に依った（西奚）":"｜劉仁恭《りゅうじんきょう》・｜劉守光《りゅうしゅこう》の山後の州。奚王去諸が｜契丹《きったん》を嫌って媯州に移り｜劉仁恭《りゅうじんきょう》父子に依った（西奚）","913年、晋の李嗣源が山後八軍を下した":"913年、晋の｜李嗣源《りしげん》が山後八軍を下した","923年四月に晋王李存勗が帝位に即き後唐となる。924年に新州を威塞軍とし、媯・儒・武を属郡とした":"923年四月に晋王李存勗が帝位に即き｜後唐《こうとう》となる。924年に｜新州《しんしゅう》を威塞軍とし、媯・儒・武を属郡とした","媯州が契丹の手に入る":"媯州が｜契丹《きったん》の手に入る","936年の割譲の約束に含まれる。937年に契丹が威塞軍（新州）の節度使を従わせており、その属郡の媯州も契丹の手に入ったとみた。938年に遼は媯州を可汗州と改めた":"936年の割譲の約束に含まれる。937年に｜契丹《きったん》が威塞軍（｜新州《しんしゅう》）の｜節度使《せつどし》を従わせており、その属郡の媯州も｜契丹《きったん》の手に入ったとみた。938年に遼は媯州を｜可汗《かがん》州と改めた","劉仁恭・劉守光の山後の州":"｜劉仁恭《りゅうじんきょう》・｜劉守光《りゅうしゅこう》の山後の州","武州刺史が晋に降る":"武州｜刺史《しし》が晋に降る","913年、劉守光が騎将高行珪を武州刺史として外援にしたが、晋の李嗣源が武州を攻めると高行珪は城ごと降った":"913年、｜劉守光《りゅうしゅこう》が｜騎将《きしょう》高行珪を武州｜刺史《しし》として外援にしたが、晋の｜李嗣源《りしげん》が武州を攻めると高行珪は城ごと降った","武州が契丹の手に入る":"武州が｜契丹《きったん》の手に入る","936年の割譲の約束に含まれる。937年に契丹が威塞軍（新州）の節度使を従わせており、その属郡の武州も契丹の手に入ったとみた。938年に遼は武州を帰化州と改めた":"936年の割譲の約束に含まれる。937年に｜契丹《きったん》が威塞軍（｜新州《しんしゅう》）の｜節度使《せつどし》を従わせており、その属郡の武州も｜契丹《きったん》の手に入ったとみた。938年に遼は武州を帰化州と改めた","大同市":"｜大同《だいどう》市","晋（李克用）の大同軍の雲州。907年に阿保機が30万の兵で雲州に寇し、晋王と東城で会って兄弟の約を結んだ":"晋（｜李克用《りこくよう》）の｜大同《だいどう》軍の雲州。907年に｜阿保機《あぼき》が30万の兵で雲州に寇し、｜晋王《しんおう》と東城で会って兄弟の約を結んだ","936年閏十一月に石敬瑭が洛陽に入り後晋となる。936年に応州節度使尹暉が雲州節度使沙彦珣を逐って河東（石敬瑭）に応じさせようとしたが、彦珣が城を取り戻している":"936年閏十一月に｜石敬瑭《せきけいとう》が｜洛陽《らくよう》に入り｜後晋《こうしん》となる。936年に｜応州《おうしゅう》｜節度使《せつどし》尹暉が雲州｜節度使《せつどし》沙彦珣を逐って｜河東《かとう》（｜石敬瑭《せきけいとう》）に応じさせようとしたが、彦珣が城を取り戻している","呉巒が召し還され雲州が契丹に渡る":"呉巒が召し還され雲州が｜契丹《きったん》に渡る","契丹の太宗が北へ帰る途中で大同節度使沙彦珣を留めると、節度判官呉巒が州事を領して城を閉ざし、契丹は半年攻めても落とせなかった。後晋の高祖が契丹に頼んで囲みを解かせ、呉巒を召し還したので、雲州は契丹に渡った":"｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰る途中で｜大同《だいどう》｜節度使《せつどし》沙彦珣を留めると、節度判官呉巒が州事を領して城を閉ざし、｜契丹《きったん》は半年攻めても落とせなかった。｜後晋《こうしん》の｜高祖《こうそ》が｜契丹《きったん》に頼んで囲みを解かせ、呉巒を召し還したので、雲州は｜契丹《きったん》に渡った","応州":"｜応州《おうしゅう》","晋（李克用）の大同軍の巡属。908年に李克寧が大同節度使を求めて蔚・朔・応州を巡属とした":"晋（｜李克用《りこくよう》）の｜大同《だいどう》軍の巡属。908年に李克寧が｜大同《だいどう》｜節度使《せつどし》を求めて蔚・朔・｜応州《おうしゅう》を巡属とした","923年四月に晋王李存勗が帝位に即き後唐となる。応州は後唐の彰国軍":"923年四月に晋王李存勗が帝位に即き｜後唐《こうとう》となる。｜応州《おうしゅう》は｜後唐《こうとう》の彰国軍","契丹の太宗が応州に入る":"｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が｜応州《おうしゅう》に入る","天顕十一年十二月":"｜天顕《てんけん》十一年十二月","936年の割譲の約束に含まれる。十二月、契丹の太宗が応州に入り、後唐の大同・彰国・振武の3節度使が出迎えたのを留めて帰さなかった。937年に応州の馬軍都指揮使郭崇威は契丹に仕えるのを恥じて南へ帰った":"936年の割譲の約束に含まれる。十二月、｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が｜応州《おうしゅう》に入り、｜後唐《こうとう》の｜大同《だいどう》・彰国・振武の3｜節度使《せつどし》が出迎えたのを留めて帰さなかった。937年に｜応州《おうしゅう》の馬軍｜都指揮《としき》使郭崇威は｜契丹《きったん》に仕えるのを恥じて南へ帰った","晋（李克用）の州。908年に李克寧が大同節度使を求めて蔚・朔・応州を巡属とした":"晋（｜李克用《りこくよう》）の州。908年に李克寧が｜大同《だいどう》｜節度使《せつどし》を求めて蔚・朔・｜応州《おうしゅう》を巡属とした","936年の割譲の約束に含まれる。十二月に契丹の太宗が応州で後唐の振武節度使らを留めて帰さなかった":"936年の割譲の約束に含まれる。十二月に｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が｜応州《おうしゅう》で｜後唐《こうとう》の振武｜節度使《せつどし》らを留めて帰さなかった","契丹が蔚州を陥れる":"｜契丹《きったん》が蔚州を陥れる","916年、阿保機が30万の兵で麟・勝から晋の蔚州を攻めて陥れ、振武節度使李嗣本を捕らえた。遼史は十一月に蔚州を囲んで破ったと書く":"916年、｜阿保機《あぼき》が30万の兵で麟・勝から晋の蔚州を攻めて陥れ、振武｜節度使《せつどし》李嗣本を捕らえた。｜遼史《りょうし》は十一月に蔚州を囲んで破ったと書く","923年四月に晋王李存勗が帝位に即き後唐となる。927年に「蔚・代の辺境の粟は一斗十銭に過ぎず」とあり後唐の州":"923年四月に晋王李存勗が帝位に即き｜後唐《こうとう》となる。927年に「蔚・代の辺境の粟は一斗十銭に過ぎず」とあり｜後唐《こうとう》の州","契丹の本拠の地。遼史地理志は「臨潢は契丹の故壌」と書く。918年二月に皇都を築き、938年十一月に皇都を上京とし府を臨潢とした":"｜契丹《きったん》の本拠の地。｜遼史《りょうし》地理志は「臨潢は｜契丹《きったん》の故壌」と書く。918年二月に皇都を築き、938年十一月に皇都を上京とし府を臨潢とした","遼陽（東京）":"｜遼陽《りょうよう》（｜東京《とうけい》）","遼陽":"｜遼陽《りょうよう》","遼陽市":"｜遼陽《りょうよう》市","渤海":"｜渤海《ぼっかい》","遼史は東京（遼陽）を「もと渤海」と書く":"｜遼史《りょうし》は｜東京《とうけい》（｜遼陽《りょうよう》）を「もと｜渤海《ぼっかい》」と書く","契丹が遼陽の故城を修めて東平郡とする":"｜契丹《きったん》が｜遼陽《りょうよう》の故城を修めて東平郡とする","神冊四年二月":"｜神冊《じんさく》四年二月","918年十二月に阿保機が遼陽の故城に行き、919年二月に遼陽の故城を修めて漢人と渤海の戸を入れ、東平郡として防禦使を置いた。926年に渤海が滅んだのち、929年に東丹国の民を移して南京とした":"918年十二月に｜阿保機《あぼき》が｜遼陽《りょうよう》の故城に行き、919年二月に｜遼陽《りょうよう》の故城を修めて漢人と｜渤海《ぼっかい》の戸を入れ、東平郡として防禦使を置いた。926年に｜渤海《ぼっかい》が滅んだのち、929年に東丹国の民を移して｜南京《なんきん》とした","成徳軍":"｜成徳《せいとく》軍","王景崇":"王｜景崇《けいすう》","寧遠軍":"｜寧遠《ねいえん》軍","嶺南西道":"｜嶺南《れいなん》西道","涼州の留後":"｜涼州《りょうしゅう》の留後","虔州の盧氏":"｜虔州《けんしゅう》の盧氏"}