{"元":"｜元《げん》","北元":"｜北元《ほくげん》","紅巾（劉福通）":"紅巾（｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》）","宋":"｜宋《そう》","天完":"｜天完《てんかん》","漢":"｜漢《かん》","明玉珍":"｜明玉珍《めいぎょくちん》","張士誠":"張｜士誠《しせい》","方国珍":"｜方国珍《ほうこくちん》","朱元璋":"｜朱元璋《しゅげんしょう》","明":"｜明《みん》","汴梁":"｜汴梁《べんりょう》","河南江北行省の治所。紅巾は潁州・汝寧で起ったが汴梁は元が守った":"｜河南《かなん》｜江北《こうほく》行省の治所。紅巾は｜潁州《えいしゅう》・汝寧で起ったが｜汴梁《べんりょう》は元が守った","劉福通が汴梁を攻め、守将竹貞が城を棄てて逃げる。韓林児を安豊から迎えて都とする":"｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》が｜汴梁《べんりょう》を攻め、守将竹貞が城を棄てて逃げる。｜韓林児《かんりんじ》を｜安豊《あんぽう》から迎えて都とする","至正十八年五月":"｜至正《しせい》十八年五月","察罕帖木児":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》","察罕帖木児が汴梁を落とし、劉福通は韓林児を奉じて安豊へ退く":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜汴梁《べんりょう》を落とし、｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》は｜韓林児《かんりんじ》を奉じて｜安豊《あんぽう》へ退く","至正十九年八月":"｜至正《しせい》十九年八月","拡廓帖木児":"｜拡廓帖木児《かくかくてむる》","察罕帖木児が益都で刺殺され、子の拡廓帖木児が軍を継ぐ":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が益都で刺殺され、子の｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が軍を継ぐ","至正二十二年六月":"｜至正《しせい》二十二年六月","朝廷が拡廓帖木児の兵権を奪い、河南の軍を李克彝に統べさせる":"朝廷が｜拡廓帖木児《かくかくてむる》の兵権を奪い、｜河南《かなん》の軍を李克彝に統べさせる","至正二十七年十月":"｜至正《しせい》二十七年十月","徐達が汴梁に入り、守将李克彝は逃げ、左君弼・竹貞が降る":"徐達が｜汴梁《べんりょう》に入り、守将李克彝は逃げ、左君弼・竹貞が降る","洪武元年三月":"｜洪武《こうぶ》元年三月","河南府":"｜河南《かなん》府","洛陽市":"｜洛陽《らくよう》市","元の河南府路。紅巾は洛陽を落とせなかった":"元の｜河南《かなん》府路。紅巾は｜洛陽《らくよう》を落とせなかった","1358年七月、察罕帖木児が洛陽に駐屯し、周全の攻撃を退けた":"1358年七月、｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜洛陽《らくよう》に駐屯し、周全の攻撃を退けた","察罕帖木児の死で拡廓帖木児が軍を継ぐ":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》の死で｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が軍を継ぐ","徐達・常遇春が洛水の北で脱因帖木児を破り、梁王阿魯温が河南府ごと降る":"徐達・常｜遇春《ぐうしゅん》が｜洛水《らくすい》の北で脱因帖木児を破り、｜梁王《りょうおう》阿魯温が｜河南《かなん》府ごと降る","洪武元年四月":"｜洪武《こうぶ》元年四月","陝州":"｜陝州《せんしゅう》","元の陝州。紅巾はまだ来ていない":"元の｜陝州《せんしゅう》。紅巾はまだ来ていない","察罕帖木児が関陝に兵を分けて鎮める":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が関陝に兵を分けて鎮める","明軍が陝州を取り、潼関へ進む":"｜明軍《みんぐん》が｜陝州《せんしゅう》を取り、｜潼関《どうかん》へ進む","帰徳":"｜帰徳《きとく》","元の帰徳府。紅巾はまだ来ていない":"元の｜帰徳《きとく》府。紅巾はまだ来ていない","帰徳府知府林茂・万戸時公権が城ごと紅巾（宋の盛文郁）に降る":"｜帰徳《きとく》府知府林茂・万戸時公権が城ごと紅巾（宋の盛文郁）に降る","至正十七年":"｜至正《しせい》十七年","汴梁を囲む察罕帖木児が遊騎を出して帰・亳・陳・蔡を略し、汴梁を落として河南を平定する":"｜汴梁《べんりょう》を囲む｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が遊騎を出して帰・亳・陳・蔡を略し、｜汴梁《べんりょう》を落として｜河南《かなん》を平定する","至正十九年五月〜八月":"｜至正《しせい》十九年五月〜八月","明軍が汴梁に続いて帰徳を取る":"｜明軍《みんぐん》が｜汴梁《べんりょう》に続いて｜帰徳《きとく》を取る","洪武元年":"｜洪武《こうぶ》元年","亳州":"｜亳州《はくしゅう》","亳州市":"｜亳州《はくしゅう》市","劉福通の紅巾が亳州の近くで元軍と戦ったが、城が落ちた記事は無い":"｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》の紅巾が｜亳州《はくしゅう》の近くで元軍と戦ったが、城が落ちた記事は無い","汝寧を元に取り返された劉福通が亳州へ退いて拠る":"汝寧を元に取り返された｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》が｜亳州《はくしゅう》へ退いて拠る","至正十二年十月":"｜至正《しせい》十二年十月","劉福通が韓林児を迎えて亳州で皇帝に立て、国号を宋とする":"｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》が｜韓林児《かんりんじ》を迎えて｜亳州《はくしゅう》で皇帝に立て、国号を宋とする","至正十五年二月":"｜至正《しせい》十五年二月","答失八都魯が亳州を囲んで落とし、劉福通は韓林児を連れて安豊へ逃げる":"答失八都魯が｜亳州《はくしゅう》を囲んで落とし、｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》は｜韓林児《かんりんじ》を連れて｜安豊《あんぽう》へ逃げる","至正十六年十二月":"｜至正《しせい》十六年十二月","察罕帖木児が遊騎で帰・亳・陳・蔡を略し、汴梁を落として河南を平定する":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が遊騎で帰・亳・陳・蔡を略し、｜汴梁《べんりょう》を落として｜河南《かなん》を平定する","明が河南を平定し、亳州は明の州になる":"明が｜河南《かなん》を平定し、｜亳州《はくしゅう》は明の州になる","潁州":"｜潁州《えいしゅう》","劉福通が紅巾を号して潁州を陥れる":"｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》が紅巾を号して｜潁州《えいしゅう》を陥れる","至正十一年五月":"｜至正《しせい》十一年五月","徐州を取り返した脱脱の軍が潁・亳を平らげる":"｜徐州《じょしゅう》を取り返した脱脱の軍が潁・亳を平らげる","至正十二年九月以後":"｜至正《しせい》十二年九月以後","潁州が再び紅巾に陥る":"｜潁州《えいしゅう》が再び紅巾に陥る","至正十四年三月":"｜至正《しせい》十四年三月","察罕帖木児が汴梁を落とし河南を平定する":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜汴梁《べんりょう》を落とし｜河南《かなん》を平定する","安豊を落とした徐達の軍が元の竹貞を潁まで追い、潁州が朱元璋に帰する":"｜安豊《あんぽう》を落とした徐達の軍が元の竹貞を潁まで追い、｜潁州《えいしゅう》が｜朱元璋《しゅげんしょう》に帰する","至正二十六年四月":"｜至正《しせい》二十六年四月","劉福通が汝寧府と息州・光州を陥れる":"｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》が汝寧府と｜息州《そくしゅう》・光州を陥れる","至正十一年九月":"｜至正《しせい》十一年九月","太不花らが汝寧を攻め、劉福通は亳州へ退く。察罕帖木児・李思斉が汝寧府の官に任じられる":"太不花らが汝寧を攻め、｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》は｜亳州《はくしゅう》へ退く。｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》・李思斉が汝寧府の官に任じられる","察罕帖木児が遊騎で帰・亳・陳・蔡（蔡＝汝寧）を略し、汴梁を落として河南を平定する":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が遊騎で帰・亳・陳・蔡（蔡＝汝寧）を略し、｜汴梁《べんりょう》を落として｜河南《かなん》を平定する","明が河南を平定し、汝寧府はそのまま明の府になる":"明が｜河南《かなん》を平定し、汝寧府はそのまま明の府になる","洪武初":"｜洪武《こうぶ》初","南陽":"｜南陽《なんよう》","南陽市":"｜南陽《なんよう》市","布王三が鄧州・南陽を陥れて劉福通に呼応し、北鎖紅軍と号する":"布王三が｜鄧州《とうしゅう》・｜南陽《なんよう》を陥れて｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》に呼応し、北鎖紅軍と号する","至正十一年十二月":"｜至正《しせい》十一年十二月","河南左丞相太不花が南陽などを取り返す":"｜河南《かなん》左｜丞相《じょうしょう》太不花が｜南陽《なんよう》などを取り返す","至正十二年三月":"｜至正《しせい》十二年三月","紅巾が汴梁の南から鄧・許・嵩・洛を陥れ、元は毛胡芦義兵を募って南陽を攻める":"紅巾が｜汴梁《べんりょう》の南から鄧・許・嵩・洛を陥れ、元は毛胡芦義兵を募って｜南陽《なんよう》を攻める","至正十五年":"｜至正《しせい》十五年","太不花が南陽・嵩・汝の諸州に駐屯し、背いた民がみな降る":"太不花が｜南陽《なんよう》・嵩・汝の諸州に駐屯し、背いた民がみな降る","至正十六年":"｜至正《しせい》十六年","鄧愈が唐州を落とし、南陽を取る":"｜鄧《とう》｜愈《ゆ》が唐州を落とし、｜南陽《なんよう》を取る","信陽":"｜信陽《しんよう》","信陽市":"｜信陽《しんよう》市","1351年に劉福通が近くの羅山・真陽・確山と汝寧・光・息を陥れたが、信陽州の城が落ちた記事は無い":"1351年に｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》が近くの羅山・真陽・確山と汝寧・光・息を陥れたが、｜信陽《しんよう》州の城が落ちた記事は無い","明が河南を平定し、十月に信陽州を置く":"明が｜河南《かなん》を平定し、十月に｜信陽《しんよう》州を置く","徐州":"｜徐州《じょしゅう》","徐州市":"｜徐州《じょしゅう》市","蕭県の李二（芝麻李）・彭大・趙均用が徐州を陥れる":"蕭県の李二（芝麻李）・彭大・趙均用が｜徐州《じょしゅう》を陥れる","至正十一年八月":"｜至正《しせい》十一年八月","脱脱が徐州を取り返して城を屠り、芝麻李は逃げる":"脱脱が｜徐州《じょしゅう》を取り返して城を屠り、芝麻李は逃げる","至正十二年九月":"｜至正《しせい》十二年九月","張士誠が濠州に続いて泗・徐・邳などの州を破る":"張｜士誠《しせい》が｜濠州《ごうしゅう》に続いて泗・徐・邳などの州を破る","至正二十年正月":"｜至正《しせい》二十年正月","徐州の守将陸聚が徐・宿の二州を挙げて徐達に降る":"｜徐州《じょしゅう》の守将陸聚が徐・宿の二州を挙げて徐達に降る","宿州":"｜宿州《しゅくしゅう》","宿州市":"｜宿州《しゅくしゅう》市","徐州を取った芝麻李の軍が宿・虹・豊・沛などの州県を陥れる":"｜徐州《じょしゅう》を取った芝麻李の軍が宿・虹・豊・沛などの州県を陥れる","至正十一年":"｜至正《しせい》十一年","脱脱が徐州を平らげ、芝麻李の残党は濠州へ逃げる":"脱脱が｜徐州《じょしゅう》を平らげ、芝麻李の残党は｜濠州《ごうしゅう》へ逃げる","この年、宿州は張士誠の領域に入っている":"この年、｜宿州《しゅくしゅう》は張｜士誠《しせい》の領域に入っている","至正二十五年":"｜至正《しせい》二十五年","1367年二月に陸聚が宿州を攻め、僉院刑瑞（明史は邢端）を捕えた":"1367年二月に陸聚が｜宿州《しゅくしゅう》を攻め、僉院刑瑞（｜明史《みんし》は邢端）を捕えた","濠州（臨濠）":"｜濠州《ごうしゅう》（臨濠）","濠州":"｜濠州《ごうしゅう》","鳳陽県":"｜鳳陽《ほうよう》県","元の濠州。紅巾が来るのは翌年":"元の｜濠州《ごうしゅう》。紅巾が来るのは翌年","郭子興・孫徳崖ら":"郭｜子興《しこう》・孫徳崖ら","郭子興・孫徳崖らが濠州で起兵して城に拠る。秋には徐州を逃れた彭大・趙均用が加わる":"郭｜子興《しこう》・孫徳崖らが｜濠州《ごうしゅう》で起兵して城に拠る。秋には｜徐州《じょしゅう》を逃れた彭大・趙均用が加わる","至正十二年二月":"｜至正《しせい》十二年二月","郭子興が濠州を離れて朱元璋のいる滁州へ移り、濠州には孫徳崖らが残る":"郭｜子興《しこう》が｜濠州《ごうしゅう》を離れて｜朱元璋《しゅげんしょう》のいる｜滁州《じょしゅう》へ移り、｜濠州《ごうしゅう》には孫徳崖らが残る","至正十三年七月":"｜至正《しせい》十三年七月","張士誠が濠州を破り、部将李済に守らせる":"張｜士誠《しせい》が｜濠州《ごうしゅう》を破り、部将李済に守らせる","韓政に攻められ、張士誠の守将李済が濠州ごと降る":"韓政に攻められ、張｜士誠《しせい》の守将李済が｜濠州《ごうしゅう》ごと降る","1367年に臨濠府、1369年九月に中都とされた":"1367年に臨濠府、1369年九月に｜中都《ちゅうと》とされた","安豊（寿州）":"｜安豊《あんぽう》（｜寿州《じゅしゅう》）","安豊":"｜安豊《あんぽう》","董摶霄が淝水を渡って紅巾を破り、安豊を取り返す":"董摶霄が｜淝水《ひすい》を渡って紅巾を破り、｜安豊《あんぽう》を取り返す","安豊・正陽の紅巾が廬州を囲み、十月に元が軍を合わせて安豊を討つ":"｜安豊《あんぽう》・正陽の紅巾が廬州を囲み、十月に元が軍を合わせて｜安豊《あんぽう》を討つ","至正十四年":"｜至正《しせい》十四年","この年の暮れ、亳州を囲まれた韓林児が安豊へ移る":"この年の暮れ、｜亳州《はくしゅう》を囲まれた｜韓林児《かんりんじ》が｜安豊《あんぽう》へ移る","張士誠の将呂珍が安豊を破って劉福通を殺し、朱元璋が救援して呂珍を走らせ韓林児を滁州へ移す。朱元璋の軍が廬州へ向かった隙に元の竹貞・忻都が安豊に入る":"張｜士誠《しせい》の将呂珍が｜安豊《あんぽう》を破って｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》を殺し、｜朱元璋《しゅげんしょう》が救援して呂珍を走らせ｜韓林児《かんりんじ》を｜滁州《じょしゅう》へ移す。｜朱元璋《しゅげんしょう》の軍が廬州へ向かった隙に元の竹貞・忻都が｜安豊《あんぽう》に入る","至正二十三年二月〜三月":"｜至正《しせい》｜二十三《にじゅうさん》年二月〜三月","徐達が城壁を掘り崩して安豊を落とし、元将忻都を捕え、竹貞・左君弼は汴梁へ逃げる":"徐達が城壁を掘り崩して｜安豊《あんぽう》を落とし、元将忻都を捕え、竹貞・左君弼は｜汴梁《べんりょう》へ逃げる","廬州で盗賊が起ったが、宣譲王と淮西廉訪使陳思謙が討って平らげる":"廬州で盗賊が起ったが、宣譲王と｜淮西《わいせい》廉訪使陳思謙が討って平らげる","徐達・常遇春が廬州を落とし、左君弼は安豊へ逃げる":"徐達・常｜遇春《ぐうしゅん》が廬州を落とし、左君弼は｜安豊《あんぽう》へ逃げる","至正二十四年七月":"｜至正《しせい》二十四年七月","泗州から来た趙均用が淮安を陥れ、鎮南王を捕える。翌年には彭大の子彭早住と淮安に拠って王を称した":"｜泗州《ししゅう》から来た趙均用が淮安を陥れ、鎮南王を捕える。翌年には彭大の子彭早住と淮安に拠って王を称した","至正十六年十月":"｜至正《しせい》十六年十月","張士誠が兵を出して淮安を攻め、察罕帖木児に通じた左丞史椿を捕えて殺す":"張｜士誠《しせい》が兵を出して淮安を攻め、｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》に通じた左丞史椿を捕えて殺す","至正二十二年八月":"｜至正《しせい》二十二年八月","徐達が淮安で張士誠の将徐義の水軍を破り、右丞梅思祖が城ごと降る":"徐達が淮安で張｜士誠《しせい》の将徐義の水軍を破り、右丞梅思祖が城ごと降る","武昌":"｜武昌《ぶしょう》","武漢市武昌区":"武漢市｜武昌《ぶしょう》区","湖広行省の治所で威順王が鎮していた。天完の兵はまだ来ていない":"｜湖広《ここう》行省の治所で威順王が鎮していた。｜天完《てんかん》の兵はまだ来ていない","徐寿輝の将鄒普勝が武昌を陥れ、威順王と行省平章が城を棄てて逃げる。四月に元の鉄傑らが一時奪回したが、まもなく再び陥落した":"｜徐寿輝《じょじゅき》の将｜鄒《すう》｜普勝《ふしょう》が｜武昌《ぶしょう》を陥れ、威順王と行省平章が城を棄てて逃げる。四月に元の鉄傑らが一時奪回したが、まもなく再び陥落した","至正十二年正月":"｜至正《しせい》十二年正月","湖広行省参政阿魯輝が武昌と漢陽を回復する":"｜湖広《ここう》行省参政阿魯輝が｜武昌《ぶしょう》と｜漢陽《かんよう》を回復する","天完の倪文俊が武昌・漢陽を再び陥れる":"｜天完《てんかん》の｜倪《げい》｜文俊《ぶんしゅん》が｜武昌《ぶしょう》・｜漢陽《かんよう》を再び陥れる","至正十五年七月":"｜至正《しせい》十五年七月","六か月の包囲ののち陳理が降り、武昌が朱元璋に帰す":"六か月の包囲ののち｜陳理《ちんり》が降り、｜武昌《ぶしょう》が｜朱元璋《しゅげんしょう》に帰す","至正二十四年二月":"｜至正《しせい》二十四年二月","黄州":"｜黄州《こうしゅう》","挙兵した徐寿輝が蘄水県と黄州路を陥れる":"挙兵した｜徐寿輝《じょじゅき》が｜蘄水《きすい》県と｜黄州路《こうしゅうろ》を陥れる","引用が無かった行に根拠を付けた。1353年に布延帖木児が蘄州を抜き、蘭渓口（黄州）の賊巣を滅ぼして江路が通じた。1355年には卜顔帖木児が蘄・黄を守っている":"引用が無かった行に根拠を付けた。1353年に布延帖木児が蘄州を抜き、蘭渓口（｜黄州《こうしゅう》）の賊巣を滅ぼして江路が通じた。1355年には卜顔帖木児が蘄・黄を守っている","徐寿輝の殺害に失敗した倪文俊が漢陽から黄州へ逃れ、そこで陳友諒に殺される。黄州は天完の勢力下にあった":"｜徐寿輝《じょじゅき》の殺害に失敗した｜倪《げい》｜文俊《ぶんしゅん》が｜漢陽《かんよう》から｜黄州《こうしゅう》へ逃れ、そこで｜陳友諒《ちんゆうりょう》に殺される。｜黄州《こうしゅう》は｜天完《てんかん》の勢力下にあった","至正十七年九月":"｜至正《しせい》十七年九月","朱元璋が江州を落とすと、東流・蘄・黄・広済などが相次いで降る":"｜朱元璋《しゅげんしょう》が｜江州《こうしゅう》を落とすと、東流・蘄・黄・広済などが相次いで降る","至正二十一年八月":"｜至正《しせい》二十一年八月","蘄州（蘄水）":"蘄州（｜蘄水《きすい》）","徐寿輝が蘄水を陥れて都とし、帝を称して国号を天完とする":"｜徐寿輝《じょじゅき》が｜蘄水《きすい》を陥れて都とし、帝を称して国号を｜天完《てんかん》とする","元の卜顔帖木児らが蘄水を攻めて天完の都を落とし、徐寿輝は黄梅山中へ逃れる":"元の卜顔帖木児らが｜蘄水《きすい》を攻めて｜天完《てんかん》の都を落とし、｜徐寿輝《じょじゅき》は黄梅山中へ逃れる","至正十三年":"｜至正《しせい》十三年","天完が蘄水を取り戻した記事は見つからない。隣の黄州が1357年に天完の勢力下にあったことからの推定で、引用は付けられない":"｜天完《てんかん》が｜蘄水《きすい》を取り戻した記事は見つからない。隣の｜黄州《こうしゅう》が1357年に｜天完《てんかん》の勢力下にあったことからの推定で、引用は付けられない","朱元璋が江州を落とし、蘄・黄などが相次いで降る":"｜朱元璋《しゅげんしょう》が｜江州《こうしゅう》を落とし、蘄・黄などが相次いで降る","沔陽":"｜沔陽《べんよう》","天完の兵はまだ来ていない":"｜天完《てんかん》の兵はまだ来ていない","徐寿輝の兵が沔陽府を陥れる":"｜徐寿輝《じょじゅき》の兵が｜沔陽《べんよう》府を陥れる","元が回復した記事は見つからないが、1355年正月の倪文俊の攻略が「復陷」と書かれるので、それまでに元が取り戻していた。1353年の元の反攻（武昌・漢陽・安陸の回復）の年に置いた":"元が回復した記事は見つからないが、1355年正月の｜倪《げい》｜文俊《ぶんしゅん》の攻略が「復陷」と書かれるので、それまでに元が取り戻していた。1353年の元の反攻（｜武昌《ぶしょう》・｜漢陽《かんよう》・｜安陸《あんりく》の回復）の年に置いた","天完の倪文俊が沔陽を再び陥れ、討伐に来た威順王の子らを漢川で焼き討ちにする":"｜天完《てんかん》の｜倪《げい》｜文俊《ぶんしゅん》が｜沔陽《べんよう》を再び陥れ、討伐に来た威順王の子らを｜漢川《かんせん》で焼き討ちにする","至正十五年正月":"｜至正《しせい》十五年正月","武昌の陳理が降り、漢・沔・荊・岳の郡県が相次いで降る":"｜武昌《ぶしょう》の｜陳理《ちんり》が降り、漢・沔・荊・岳の｜郡県《ぐんけん》が相次いで降る","徳安（安陸）":"徳安（｜安陸《あんりく》）","安陸市":"｜安陸《あんりく》市","明史地理志: 徳安府は洪武元年十月に湖広行省に属した":"｜明史《みんし》｜地理志《ちりし》: 徳安府は｜洪武《こうぶ》元年十月に｜湖広《ここう》行省に属した","襄陽":"｜襄陽《じょうよう》","襄陽市":"｜襄陽《じょうよう》市","1352年正月に竹山の賊孟海馬が陥れたが、同年のうちに元の答失八都魯が奪回したので、1352年の歳末も元。1355年三月にも天完の兵が陥れ、五月に元が回復している":"1352年正月に竹山の賊孟海馬が陥れたが、同年のうちに元の答失八都魯が奪回したので、1352年の歳末も元。1355年三月にも｜天完《てんかん》の兵が陥れ、五月に元が回復している","陳友諒が兵を遣わして襄陽路を陥れる":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》が兵を遣わして｜襄陽《じょうよう》路を陥れる","至正十九年三月":"｜至正《しせい》十九年三月","1364年に漢が滅んだとき、襄陽は降った郡県に含まれない。翌年に常遇春が来ると守将が城を棄てて逃げ、配下の僉院が谷城で降っている。元の側（拡廓帖木児の勢力）が保持していたと見るが、元が漢から取った記事は見つからず引用は付けられない":"1364年に漢が滅んだとき、｜襄陽《じょうよう》は降った｜郡県《ぐんけん》に含まれない。翌年に常｜遇春《ぐうしゅん》が来ると守将が城を棄てて逃げ、配下の僉院が｜谷城《こくじょう》で降っている。元の側（｜拡廓帖木児《かくかくてむる》の勢力）が保持していたと見るが、元が漢から取った記事は見つからず引用は付けられない","常遇春が安陸を落とし、続いて襄陽に至ると守将が城を棄てて逃げる":"常｜遇春《ぐうしゅん》が｜安陸《あんりく》を落とし、続いて｜襄陽《じょうよう》に至ると守将が城を棄てて逃げる","至正二十五年五月":"｜至正《しせい》二十五年五月","均州":"｜均州《きんしゅう》","天完・紅巾の兵はまだ来ていない":"｜天完《てんかん》・紅巾の兵はまだ来ていない","1352年に竹山・房州の賊（孟海馬）が襄陽・房州・帰州を陥れ、翌1353年に元が「均、房等州」を回復している。陥落そのものの記事は無いが、回復の記事から1352年の暮れは元の手を離れていた":"1352年に竹山・｜房州《ぼうしゅう》の賊（孟海馬）が｜襄陽《じょうよう》・｜房州《ぼうしゅう》・帰州を陥れ、翌1353年に元が「均、房等州」を回復している。陥落そのものの記事は無いが、回復の記事から1352年の暮れは元の手を離れていた","1353年に陝西行省平章孛羅らが均州・房州を回復":"1353年に｜陝西《せんせい》行省平章孛羅らが｜均州《きんしゅう》・｜房州《ぼうしゅう》を回復","鄧愈が襄漢の兵で南陽以北を攻め、均・房・金・商の地がことごとく定まる（本紀では同年三月に鄧愈が南陽を落とす）":"｜鄧《とう》｜愈《ゆ》が襄漢の兵で｜南陽《なんよう》以北を攻め、均・房・金・商の地がことごとく定まる（｜本紀《ほんぎ》では同年三月に｜鄧《とう》｜愈《ゆ》が｜南陽《なんよう》を落とす）","中興（江陵）":"｜中興《ちゅうこう》（｜江陵《こうりょう》）","中興":"｜中興《ちゅうこう》","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","1352年正月に天完の兵が陥れたが、同年のうちに元が回復し、九月に俞君正がまた陥れたのもその月のうちに義兵が回復したので、1352年の歳末も元":"1352年正月に｜天完《てんかん》の兵が陥れたが、同年のうちに元が回復し、九月に俞君正がまた陥れたのもその月のうちに義兵が回復したので、1352年の歳末も元","天完の倪文俊が沔陽から中興路を破り、元帥朵児只班が死ぬ":"｜天完《てんかん》の｜倪《げい》｜文俊《ぶんしゅん》が｜沔陽《べんよう》から｜中興《ちゅうこう》路を破り、元帥朵児只班が死ぬ","至正十五年五月":"｜至正《しせい》十五年五月","徐達が江陵に至り、漢の平章姜珏が降る。江陵路を荊州府と改める":"徐達が｜江陵《こうりょう》に至り、漢の平章姜珏が降る。｜江陵《こうりょう》路を｜荊州《けいしゅう》府と改める","至正二十四年九月":"｜至正《しせい》二十四年九月","岳州":"｜岳州《がくしゅう》","天完の倪文俊が岳州路を陥れ、威順王の子歹帖木児を殺す":"｜天完《てんかん》の｜倪《げい》｜文俊《ぶんしゅん》が｜岳州《がくしゅう》路を陥れ、威順王の子歹帖木児を殺す","岳州の漢の丞相張必先が武昌救援に出て擒えられ、陳理が降ると漢・沔・荊・岳が相次いで降る":"｜岳州《がくしゅう》の漢の｜丞相《じょうしょう》張｜必先《ひっせん》が｜武昌《ぶしょう》救援に出て擒えられ、｜陳理《ちんり》が降ると漢・沔・荊・岳が相次いで降る","天完の倪文俊が常徳路を陥れ、総兵官が逃げる":"｜天完《てんかん》の｜倪《げい》｜文俊《ぶんしゅん》が常徳路を陥れ、｜総兵《そうへい》官が逃げる","至正十六年三月":"｜至正《しせい》十六年三月","武昌が平らぎ湖南の諸郡が相次いで帰附する。この年に常徳路を府とする":"｜武昌《ぶしょう》が平らぎ｜湖南《こなん》の諸郡が相次いで帰附する。この年に常徳路を府とする","至正二十四年":"｜至正《しせい》二十四年","天臨（潭州）":"天臨（｜潭州《たんしゅう》）","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","湖南・湖北・江東・江西の四道の廉訪司の治所がすべて陥ちたとして、元が司を便宜の地へ移す。湖南道廉訪司の治所である天臨も天完の手に落ちていた":"｜湖南《こなん》・｜湖北《こほく》・｜江東《こうとう》・｜江西《こうせい》の四道の廉訪司の治所がすべて陥ちたとして、元が司を便宜の地へ移す。｜湖南《こなん》道廉訪司の治所である天臨も｜天完《てんかん》の手に落ちていた","至正十九年九月":"｜至正《しせい》十九年九月","陳友諒の兄陳友才とともに潭州を守っていた王忠信が武昌救援で敗れて降り、そのまま潭州を守る。友才も降る。九月には本紀に「潭…皆降」とある":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》の兄陳友才とともに｜潭州《たんしゅう》を守っていた王忠信が｜武昌《ぶしょう》救援で敗れて降り、そのまま｜潭州《たんしゅう》を守る。友才も降る。九月には｜本紀《ほんぎ》に「潭…皆降」とある","衡州":"｜衡州《こうしゅう》","1352年に天完の許甲が攻めたが洞官に敗れ、1356年に倪文俊が陥れたものの同年十二月に元の也先帖木児と左江義兵万戸鄧祖勝が回復したので、歳末はいずれも元":"1352年に｜天完《てんかん》の許甲が攻めたが洞官に敗れ、1356年に｜倪《げい》｜文俊《ぶんしゅん》が陥れたものの同年十二月に元の也先帖木児と左江義兵万戸鄧祖勝が回復したので、歳末はいずれも元","徐達の遣わした傅友徳が衡州を攻め、守将の左丞鄧祖勝が城を棄てて永州へ退く":"徐達の遣わした｜傅友徳《ふゆうとく》が｜衡州《こうしゅう》を攻め、守将の左丞鄧祖勝が城を棄てて永州へ退く","至正二十四年十二月":"｜至正《しせい》二十四年十二月","天完・漢が取った記事は無い。1364年に衡州を棄てた元の左丞鄧祖勝がここに退いて守った":"｜天完《てんかん》・漢が取った記事は無い。1364年に｜衡州《こうしゅう》を棄てた元の左丞鄧祖勝がここに退いて守った","衡州を棄てた元の左丞鄧祖勝が永州に退いて守る":"｜衡州《こうしゅう》を棄てた元の左丞鄧祖勝が永州に退いて守る","楊璟が長い包囲の末に永州を落とし、鄧祖勝は毒を仰いで死ぬ":"｜楊《よう》璟が長い包囲の末に永州を落とし、鄧祖勝は毒を仰いで死ぬ","宝慶":"｜宝慶《ほうけい》","1352年に湘郷の賊が陥れたが、同じ月のうちに元の湖南元帥副使が回復したので歳末は元":"1352年に湘郷の賊が陥れたが、同じ月のうちに元の｜湖南《こなん》元帥｜副使《ふくし》が回復したので歳末は元","正月に徐達の遣わした胡海洋が宝慶路を取り守将唐龍が逃げたが、六月に元の湖広行省左丞周文貴（もと陳友諒の左丞）が奪回する":"正月に徐達の遣わした胡海洋が｜宝慶《ほうけい》路を取り守将唐龍が逃げたが、六月に元の｜湖広《ここう》行省左丞周文貴（もと｜陳友諒《ちんゆうりょう》の左丞）が奪回する","楊璟が宝慶を落とす":"｜楊《よう》璟が｜宝慶《ほうけい》を落とす","洪武元年二月":"｜洪武《こうぶ》元年二月","郴州":"｜郴州《ちんしゅう》","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","天完・漢が取った記事は無い":"｜天完《てんかん》・漢が取った記事は無い","楊璟らの広西攻略の軍が全州・郴州などを取る":"｜楊《よう》璟らの｜広西《こうせい》攻略の軍が全州・｜郴州《ちんしゅう》などを取る","洪武元年六月":"｜洪武《こうぶ》元年六月","1349年に猺の呉天保が陥れたことがあるが、1352年・1356年・1359年には元の達魯花赤和尚が守って賊を撃退している":"1349年に猺の呉｜天保《てんぽう》が陥れたことがあるが、1352年・1356年・1359年には元の達魯花赤和尚が守って賊を撃退している","陳友諒の将羅忠顕が辰州を陥れる（この月の陥落は天完の名のもとで、同年閏五月に陳友諒が帝を称して漢となる）":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》の将羅忠顕が辰州を陥れる（この月の陥落は｜天完《てんかん》の名のもとで、同年閏五月に｜陳友諒《ちんゆうりょう》が帝を称して漢となる）","至正二十年五月":"｜至正《しせい》二十年五月","徐達の遣わした張彬が辰州を攻め、漢の左丞周文貴が城を棄てて湖南へ逃げる":"徐達の遣わした張彬が辰州を攻め、漢の左丞周文貴が城を棄てて｜湖南《こなん》へ逃げる","〜1350年に猺の呉天保がたびたび攻めたが、州の兵が撃退している":"〜1350年に猺の呉｜天保《てんぽう》がたびたび攻めたが、州の兵が撃退している","至正二十七年正月":"｜至正《しせい》二十七年正月","応天（集慶）":"｜応天《おうてん》（集慶）","応天":"｜応天《おうてん》","南京市":"｜南京《なんきん》市","江南行台の治所。紅巾はまだ来ていない。1355年九月に郭天叙・張天祐が攻めたが落ちなかった":"｜江南《こうなん》｜行台《こうだい》の治所。紅巾はまだ来ていない。1355年九月に郭｜天叙《てんじょ》・張｜天祐《てんゆう》が攻めたが落ちなかった","朱元璋が集慶を取り応天府と改める":"｜朱元璋《しゅげんしょう》が集慶を取り｜応天府《おうてんふ》と改める","鎮江":"｜鎮江《ちんこう》","鎮江市":"｜鎮江《ちんこう》市","元の鎮江路。紅巾はまだ来ていない":"元の｜鎮江《ちんこう》路。紅巾はまだ来ていない","徐達が鎮江を取り、平章定定が戦死":"徐達が｜鎮江《ちんこう》を取り、平章定定が戦死","同年に張士誠の水軍が攻めたが徐達が退けた":"同年に張｜士誠《しせい》の水軍が攻めたが徐達が退けた","常州":"｜常州《じょうしゅう》","常州市":"｜常州《じょうしゅう》市","元の常州路。紅巾はまだ来ていない":"元の｜常州《じょうしゅう》路。紅巾はまだ来ていない","土豪黄貴甫の内応で張士徳が常州を取る":"土豪黄貴甫の内応で張士徳が｜常州《じょうしゅう》を取る","同年秋から朱元璋の徐達が包囲した":"同年秋から｜朱元璋《しゅげんしょう》の徐達が包囲した","徐達が常州を取り、張士誠の将呂珍が逃れる":"徐達が｜常州《じょうしゅう》を取り、張｜士誠《しせい》の将呂珍が逃れる","至正十七年三月":"｜至正《しせい》十七年三月","以後たびたび張士誠が攻めたが湯和が守り通した":"以後たびたび張｜士誠《しせい》が攻めたが湯和が守り通した","江陰の群盗の内紛で朱英が張士誠に援兵を求め、張士徳が渡江して常熟を取る。江陰はこの年から張士誠の地とした":"江陰の群盗の内紛で朱英が張｜士誠《しせい》に援兵を求め、張士徳が渡江して常熟を取る。江陰はこの年から張｜士誠《しせい》の地とした","趙継祖・呉良が秦望山の張士誠軍を破って江陰を取る":"趙継祖・呉良が秦望山の張｜士誠《しせい》軍を破って江陰を取る","至正十七年六月":"｜至正《しせい》十七年六月","以後呉良が守り、1359年・1366年などの張士誠の攻撃を退けた":"以後呉良が守り、1359年・1366年などの張｜士誠《しせい》の攻撃を退けた","平江（蘇州）":"｜平江《へいこう》（｜蘇州《そしゅう》）","平江":"｜平江《へいこう》","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","元の平江路。紅巾はまだ来ていない":"元の｜平江《へいこう》路。紅巾はまだ来ていない","張士徳が平江を取り、張士誠が高郵から移って都とする":"張士徳が｜平江《へいこう》を取り、張｜士誠《しせい》が高郵から移って都とする","至正十六年三月（明史張士誠伝は二月）":"｜至正《しせい》十六年三月（｜明史《みんし》張｜士誠《しせい》伝は二月）","1357年に元に降って太尉を受けたが、兵と税は自分で握り続けた。1363年に呉王を称した":"1357年に元に降って｜太尉《たいい》を受けたが、兵と税は自分で握り続けた。1363年に｜呉王《ごおう》を称した","徐達が平江を落とし、張士誠を捕らえる":"徐達が｜平江《へいこう》を落とし、張｜士誠《しせい》を捕らえる","至正二十七年九月":"｜至正《しせい》二十七年九月","松江":"｜松江《しょうこう》","上海市松江区":"上海市｜松江《しょうこう》区","元の松江府。紅巾はまだ来ていない":"元の｜松江《しょうこう》府。紅巾はまだ来ていない","張士誠の将史文炳が松江を取り、そのまま鎮守する":"張｜士誠《しせい》の将史｜文炳《ぶんぺい》が｜松江《しょうこう》を取り、そのまま鎮守する","松江府の守臣王立忠らが徐達の軍に降る":"｜松江《しょうこう》府の守臣王立忠らが徐達の軍に降る","同年四月に上海の銭鶴皋が松江府城に拠って乱を起こしたが、葛俊が平らげた":"同年四月に上海の銭鶴皋が｜松江《しょうこう》府城に拠って乱を起こしたが、葛俊が平らげた","湖州":"｜湖州《こしゅう》","湖州市":"｜湖州《こしゅう》市","元の湖州路。紅巾はまだ来ていない":"元の｜湖州《こしゅう》路。紅巾はまだ来ていない","張士誠の将趙打虎が湖州を取る":"張｜士誠《しせい》の将趙打虎が｜湖州《こしゅう》を取る","1359年に朱元璋の邵栄が攻めたが落ちなかった":"1359年に｜朱元璋《しゅげんしょう》の邵栄が攻めたが落ちなかった","張天騏（続資治通鑑は張天麟）・李伯升が湖州城を挙げて徐達に降る":"張天騏（続｜資治通鑑《しじつがん》は張天麟）・李伯升が｜湖州《こしゅう》城を挙げて徐達に降る","至正二十六年十一月":"｜至正《しせい》二十六年十一月","1356年六月から苗軍の楊完者が嘉興に兵を置いて張士誠を防いだ（1358年に殺される）":"1356年六月から苗軍の楊完者が嘉興に兵を置いて張｜士誠《しせい》を防いだ（1358年に殺される）","江浙丞相達識帖睦邇が張士誠と組んで楊完者を攻め殺し、浙西は張士誠の手に入る":"江浙｜丞相《じょうしょう》達識帖睦邇が張｜士誠《しせい》と組んで楊完者を攻め殺し、浙西は張｜士誠《しせい》の手に入る","至正十八年":"｜至正《しせい》十八年","この時の張士誠は元に降って太尉を受けていたので、名目上は元の領内。のち張士誠は達識帖睦邇を嘉興に幽閉した":"この時の張｜士誠《しせい》は元に降って｜太尉《たいい》を受けていたので、名目上は元の領内。のち張｜士誠《しせい》は達識帖睦邇を嘉興に幽閉した","張士誠の将宋興が嘉興城を挙げて降る":"張｜士誠《しせい》の将宋興が嘉興城を挙げて降る","揚州":"｜揚州《ようしゅう》","揚州市":"｜揚州《ようしゅう》市","淮南江北行省の治所。1354年に張士誠が攻めた":"｜淮南《わいなん》｜江北《こうほく》行省の治所。1354年に張｜士誠《しせい》が攻めた","元に招かれて揚州に駐していた青軍の張明鑑が、鎮南王を追い出して城に拠る":"元に招かれて｜揚州《ようしゅう》に駐していた青軍の張明鑑が、鎮南王を追い出して城に拠る","張明鑑は1355年に淮西で青軍を起こし、元の鎮南王に招かれて濠泗義兵元帥とされたが、翌年食に窮して叛いた":"張明鑑は1355年に｜淮西《わいせい》で青軍を起こし、元の鎮南王に招かれて濠泗義兵元帥とされたが、翌年食に窮して叛いた","繆大亨が揚州を取り、張明鑑が降る":"繆｜大亨《たいこう》が｜揚州《ようしゅう》を取り、張明鑑が降る","至正十七年十月":"｜至正《しせい》十七年十月","張士誠が高郵を取って都とし、誠王を称す":"張｜士誠《しせい》が高郵を取って都とし、誠王を称す","至正十三年五月":"｜至正《しせい》十三年五月","至正二十六年三月":"｜至正《しせい》二十六年三月","白駒場の塩丁張士誠が起ち、泰州を取る":"白駒場の塩丁張｜士誠《しせい》が起ち、泰州を取る","徐達・常遇春が泰州を取る":"徐達・常｜遇春《ぐうしゅん》が泰州を取る","至正二十五年閏十月":"｜至正《しせい》二十五年閏十月","通州":"｜通州《つうしゅう》","元の通州。紅巾はまだ来ていない":"元の｜通州《つうしゅう》。紅巾はまだ来ていない","張士徳が高郵の兵を率いて通州から長江を渡り常熟を取る。通州はこの時までに張士誠の地":"張士徳が高郵の兵を率いて｜通州《つうしゅう》から｜長江《ちょうこう》を渡り常熟を取る。｜通州《つうしゅう》はこの時までに張｜士誠《しせい》の地","平江陥落の直後、徐達の兵が通州を取り、守将が降る":"｜平江《へいこう》陥落の直後、徐達の兵が｜通州《つうしゅう》を取り、守将が降る","1365年に元史は通州を張士誠の拠る郡に数えている":"1365年に｜元史《げんし》は｜通州《つうしゅう》を張｜士誠《しせい》の拠る郡に数えている","太平":"｜太平《たいへい》","元の太平路。紅巾はまだ来ていない":"元の｜太平路《たいへいろ》。紅巾はまだ来ていない","朱元璋が和州から長江を渡って采石を取り、太平を落とす":"｜朱元璋《しゅげんしょう》が｜和州《わしゅう》から｜長江《ちょうこう》を渡って｜采石《さいせき》を取り、｜太平《たいへい》を落とす","至正十五年六月":"｜至正《しせい》十五年六月","1360年閏五月に陳友諒が太平を陥れたが、龍湾の敗戦で同年のうちに放棄し、常遇春が取り返した（年末は朱元璋）":"1360年閏五月に｜陳友諒《ちんゆうりょう》が｜太平《たいへい》を陥れたが、｜龍湾《りゅうわん》の敗戦で同年のうちに放棄し、常｜遇春《ぐうしゅん》が取り返した（年末は｜朱元璋《しゅげんしょう》）","和州":"｜和州《わしゅう》","元の和州。紅巾はまだ来ていない":"元の｜和州《わしゅう》。紅巾はまだ来ていない","郭子興の命で張天祐らが和州を取り、朱元璋がその兵を総べる。三月に郭子興が死に、九月に郭天叙・張天祐が戦死して郭子興の部将はすべて朱元璋に帰した":"郭｜子興《しこう》の命で張｜天祐《てんゆう》らが｜和州《わしゅう》を取り、｜朱元璋《しゅげんしょう》がその兵を総べる。三月に郭｜子興《しこう》が死に、九月に郭｜天叙《てんじょ》・張｜天祐《てんゆう》が戦死して郭｜子興《しこう》の部将はすべて｜朱元璋《しゅげんしょう》に帰した","取った正月から郭子興の死までの約二か月は郭子興の城。年末の状態で朱元璋とした":"取った正月から郭｜子興《しこう》の死までの約二か月は郭｜子興《しこう》の城。年末の状態で｜朱元璋《しゅげんしょう》とした","滁州":"｜滁州《じょしゅう》","滁州市":"｜滁州《じょしゅう》市","元の滁州。紅巾はまだ来ていない":"元の｜滁州《じょしゅう》。紅巾はまだ来ていない","郭子興":"郭｜子興《しこう》","郭子興の部将朱元璋が滁州を取り、のち郭子興が濠州から移る":"郭｜子興《しこう》の部将｜朱元璋《しゅげんしょう》が｜滁州《じょしゅう》を取り、のち郭｜子興《しこう》が｜濠州《ごうしゅう》から移る","1354年に元の脱脱の兵が攻めたが、朱元璋が退けた":"1354年に元の脱脱の兵が攻めたが、｜朱元璋《しゅげんしょう》が退けた","郭子興が三月に死に、九月に郭天叙・張天祐が戦死して、郭子興の部将はすべて朱元璋に帰した":"郭｜子興《しこう》が三月に死に、九月に郭｜天叙《てんじょ》・張｜天祐《てんゆう》が戦死して、郭｜子興《しこう》の部将はすべて｜朱元璋《しゅげんしょう》に帰した","1363年に安豊が落ちたのち、朱元璋は韓林児を迎えて滁州に置いた（1366年十二月に韓林児が死ぬまで）":"1363年に｜安豊《あんぽう》が落ちたのち、｜朱元璋《しゅげんしょう》は｜韓林児《かんりんじ》を迎えて｜滁州《じょしゅう》に置いた（1366年十二月に｜韓林児《かんりんじ》が死ぬまで）","朱元璋が自ら寧国を攻めて取り、元の守将別不華が降る":"｜朱元璋《しゅげんしょう》が自ら寧国を攻めて取り、元の守将別不華が降る","至正十七年四月":"｜至正《しせい》十七年四月","広徳":"｜広徳《こうとく》","広徳市":"｜広徳《こうとく》市","元の広徳路。紅巾はまだ来ていない":"元の｜広徳《こうとく》路。紅巾はまだ来ていない","鄧愈が広徳を取る":"｜鄧《とう》｜愈《ゆ》が｜広徳《こうとく》を取る","至正十六年六月":"｜至正《しせい》十六年六月","天完の趙普勝が池州に拠り、ここから安慶を攻める":"｜天完《てんかん》の｜趙普勝《ちょうふしょう》が池州に拠り、ここから｜安慶《あんけい》を攻める","常遇春・廖永安が池州を取る":"常｜遇春《ぐうしゅん》・廖｜永安《えいあん》が池州を取る","天完の趙普勝が池州を陥れ、守将趙忠を捕らえる":"｜天完《てんかん》の｜趙普勝《ちょうふしょう》が池州を陥れ、守将趙忠を捕らえる","至正十八年四月":"｜至正《しせい》十八年四月","至正十九年四月":"｜至正《しせい》十九年四月","1360年五月に陳友諒が攻めたが徐達・常遇春が退けた。1362年に池州の元帥羅友賢が州内の神山寨に拠って叛いたが、翌年常遇春が平らげた（城は朱元璋のまま）":"1360年五月に｜陳友諒《ちんゆうりょう》が攻めたが徐達・常｜遇春《ぐうしゅん》が退けた。1362年に池州の元帥羅友賢が州内の神山寨に拠って叛いたが、翌年常｜遇春《ぐうしゅん》が平らげた（城は｜朱元璋《しゅげんしょう》のまま）","安慶":"｜安慶《あんけい》","安慶市":"｜安慶《あんけい》市","1352年以後、余闕が守り、天完の攻撃をたびたび退けた":"1352年以後、余闕が守り、｜天完《てんかん》の攻撃をたびたび退けた","天完の趙普勝・陳友諒が安慶を陥れ、余闕が死ぬ":"｜天完《てんかん》の｜趙普勝《ちょうふしょう》・｜陳友諒《ちんゆうりょう》が｜安慶《あんけい》を陥れ、余闕が死ぬ","至正十八年正月":"｜至正《しせい》十八年正月","閏五月に陳友諒が徐寿輝を殺して漢を建てた（安慶も漢の城になった）が、陳友諒は安慶の兵を挙げて東下し、龍湾で敗れたあと朱元璋の将が手薄の安慶を取る":"閏五月に｜陳友諒《ちんゆうりょう》が｜徐寿輝《じょじゅき》を殺して漢を建てた（｜安慶《あんけい》も漢の城になった）が、｜陳友諒《ちんゆうりょう》は｜安慶《あんけい》の兵を挙げて東下し、｜龍湾《りゅうわん》で敗れたあと｜朱元璋《しゅげんしょう》の将が手薄の｜安慶《あんけい》を取る","至正二十年閏五月":"｜至正《しせい》二十年閏五月","1361年七月に漢の張定辺が安慶を陥れたが、翌月朱元璋が自ら取り返した（年末は朱元璋）":"1361年七月に漢の張｜定辺《ていへん》が｜安慶《あんけい》を陥れたが、翌月｜朱元璋《しゅげんしょう》が自ら取り返した（年末は｜朱元璋《しゅげんしょう》）","至正十七年七月":"｜至正《しせい》十七年七月","洪都（龍興）":"洪都（｜龍興《りゅうこう》）","南昌市":"｜南昌《なんしょう》市","江西行省の治所。紅巾はまだ来ていない":"｜江西《こうせい》行省の治所。紅巾はまだ来ていない","陳友諒（天完の将）が龍興路を落とし、行省の道童・火你赤は城を捨てて逃げる":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》（｜天完《てんかん》の将）が｜龍興《りゅうこう》路を落とし、行省の道童・火你赤は城を捨てて逃げる","1352年にも天完の兵が南昌を攻めたが落ちなかった":"1352年にも｜天完《てんかん》の兵が｜南昌《なんしょう》を攻めたが落ちなかった","漢の江西行省丞相胡廷瑞が龍興ごと朱元璋に降り、洪都府と改める":"漢の｜江西《こうせい》行省｜丞相《じょうしょう》胡廷瑞が｜龍興《りゅうこう》ごと｜朱元璋《しゅげんしょう》に降り、洪都府と改める","至正二十二年正月":"｜至正《しせい》二十二年正月","同年三月に降将の祝宗・康泰が叛いて洪都を陥れたが、四月に徐達が取り戻した。1363年四月から陳友諒が大軍で囲んだが落ちず、鄱陽湖の戦いで囲みが解けた":"同年三月に降将の祝宗・康泰が叛いて洪都を陥れたが、四月に徐達が取り戻した。1363年四月から｜陳友諒《ちんゆうりょう》が大軍で囲んだが落ちず、｜鄱陽湖《はようこ》の戦いで囲みが解けた","江州（九江）":"｜江州《こうしゅう》（｜九江《きゅうこう》）","江州":"｜江州《こうしゅう》","九江市":"｜九江《きゅうこう》市","長江を挟んで蘄州・黄州の徐寿輝軍と向かい合う前線。総管李黼が守りを固める":"｜長江《ちょうこう》を挟んで蘄州・｜黄州《こうしゅう》の｜徐寿輝《じょじゅき》軍と向かい合う前線。｜総管《そうかん》李黼が守りを固める","徐寿輝の兵が江州を落とし、総管李黼が死ぬ":"｜徐寿輝《じょじゅき》の兵が｜江州《こうしゅう》を落とし、｜総管《そうかん》李黼が死ぬ","卜顔鉄木児（続資治通鑑では布延特穆爾）・脱火赤が江州を取り返す":"卜顔鉄木児（続｜資治通鑑《しじつがん》では布延特穆爾）・脱火赤が｜江州《こうしゅう》を取り返す","天完が江州を取り戻した時期（原文に陥落の記事が無い）":"｜天完《てんかん》が｜江州《こうしゅう》を取り戻した時期（原文に陥落の記事が無い）","1357年十月に陳友諒が「上流から」小孤山を突いており、そのころには江州が天完の手にあったと見る。1359年には陳友諒が江州を都とし、徐寿輝を迎えている":"1357年十月に｜陳友諒《ちんゆうりょう》が「上流から」小孤山を突いており、そのころには｜江州《こうしゅう》が｜天完《てんかん》の手にあったと見る。1359年には｜陳友諒《ちんゆうりょう》が｜江州《こうしゅう》を都とし、｜徐寿輝《じょじゅき》を迎えている","朱元璋が湖口から江州を攻めて入城し、陳友諒は武昌へ逃げる":"｜朱元璋《しゅげんしょう》が湖口から｜江州《こうしゅう》を攻めて入城し、｜陳友諒《ちんゆうりょう》は｜武昌《ぶしょう》へ逃げる","饒州":"｜饒州《じょうしゅう》","鄱陽県":"｜鄱陽《はよう》県","徐寿輝の将項普略が饒州路を落とす":"｜徐寿輝《じょじゅき》の将項普略が｜饒州《じょうしゅう》路を落とす","至正十二年":"｜至正《しせい》十二年","江西行省左丞相亦憐真班らが饒州を取り返す":"｜江西《こうせい》行省左｜丞相《じょうしょう》亦憐真班らが｜饒州《じょうしゅう》を取り返す","「賊」が饒州路を陥れる":"「賊」が｜饒州《じょうしゅう》路を陥れる","原文は「賊」とだけ書く。1357年には「饒州の祝寇」が天完の趙普勝・陳友諒とともに安慶を攻めており、天完の側の城と見る":"原文は「賊」とだけ書く。1357年には「｜饒州《じょうしゅう》の祝寇」が｜天完《てんかん》の｜趙普勝《ちょうふしょう》・｜陳友諒《ちんゆうりょう》とともに｜安慶《あんけい》を攻めており、｜天完《てんかん》の側の城と見る","朱元璋の江州攻略に続いて饒州が降る":"｜朱元璋《しゅげんしょう》の｜江州《こうしゅう》攻略に続いて｜饒州《じょうしゅう》が降る","都昌の江爵が漢の張定辺・蒋必勝を引き入れて饒州を陥れる":"都昌の江爵が漢の張｜定辺《ていへん》・蒋必勝を引き入れて｜饒州《じょうしゅう》を陥れる","至正二十三年二月":"｜至正《しせい》｜二十三《にじゅうさん》年二月","漢が滅び、江西の諸郡が朱元璋に降る":"漢が滅び、｜江西《こうせい》の諸郡が｜朱元璋《しゅげんしょう》に降る","1365年には朱元璋の将宋炳が饒州を守り、同年に信州の盗蕭明の囲みを退けている":"1365年には｜朱元璋《しゅげんしょう》の将宋炳が｜饒州《じょうしゅう》を守り、同年に信州の盗｜蕭《しょう》明の囲みを退けている","前年から囲んでいた陳友諒の将王奉国が信州を落とし、伯顔不花的斤が死ぬ":"前年から囲んでいた｜陳友諒《ちんゆうりょう》の将王奉国が信州を落とし、｜伯顔《ばやん》不花的斤が死ぬ","至正十九年":"｜至正《しせい》十九年","胡大海が信州を取る（陳友諒の東下を牽制するため）":"胡大海が信州を取る（｜陳友諒《ちんゆうりょう》の東下を牽制するため）","至正二十年":"｜至正《しせい》二十年","1361年に陳友諒の将李明道が攻めたが胡大海が救って退けた":"1361年に｜陳友諒《ちんゆうりょう》の将李｜明道《めいどう》が攻めたが胡大海が救って退けた","紅巾はまだ来ていない。1352年に天完の兵に囲まれたが守り抜いた":"紅巾はまだ来ていない。1352年に｜天完《てんかん》の兵に囲まれたが守り抜いた","陳友諒の兵が撫州路を落とす":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》の兵が撫州路を落とす","鄧愈が夜襲で撫州に入り、漢の右丞鄧克明が降る":"｜鄧《とう》｜愈《ゆ》が夜襲で撫州に入り、漢の右丞鄧克明が降る","至正二十一年十一月":"｜至正《しせい》二十一年十一月","紅巾はまだ来ていない。1352年に臨川の鄧忠が陥れたが、同年に建昌の民戴良が取り返した":"紅巾はまだ来ていない。1352年に｜臨川《りんせん》の鄧忠が陥れたが、同年に建昌の民戴良が取り返した","陳友諒の兵が建昌路を落とす":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》の兵が建昌路を落とす","至正十八年八月":"｜至正《しせい》十八年八月","漢の建昌守将王溥らが朱元璋に降る":"漢の建昌守将｜王溥《おうふ》らが｜朱元璋《しゅげんしょう》に降る","至正二十一年九月":"｜至正《しせい》二十一年九月","江西の妖人鄧南二が瑞州を攻めたが、総管禹蘇福が捕らえて斬った":"｜江西《こうせい》の｜妖人《ようじん》鄧南二が瑞州を攻めたが、｜総管《そうかん》禹蘇福が捕らえて斬った","徐寿輝の将陶九・彭瑩玉が瑞州を陥れる":"｜徐寿輝《じょじゅき》の将陶九・｜彭《ほう》｜瑩玉《えいぎょく》が瑞州を陥れる","江西右丞火你赤が富州・臨江を平らげて瑞州を取り返す":"｜江西《こうせい》右丞火你赤が富州・臨江を平らげて瑞州を取り返す","陳友諒が部将王奉国を遣わして瑞州路を落とす":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》が部将王奉国を遣わして瑞州路を落とす","龍興の降伏に続いて瑞州も朱元璋に下る":"｜龍興《りゅうこう》の降伏に続いて瑞州も｜朱元璋《しゅげんしょう》に下る","至正二十二年":"｜至正《しせい》二十二年","袁州":"｜袁州《えんしゅう》","徐寿輝の将欧普祥が袁州を破り、別将に守らせる":"｜徐寿輝《じょじゅき》の将欧普祥が｜袁州《えんしゅう》を破り、別将に守らせる","陳友諒が徐寿輝を殺すと欧普祥はその徴兵に従わず、袁州ごと朱元璋に降る":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》が｜徐寿輝《じょじゅき》を殺すと欧普祥はその徴兵に従わず、｜袁州《えんしゅう》ごと｜朱元璋《しゅげんしょう》に降る","至正二十年九月":"｜至正《しせい》二十年九月","欧普祥はそのまま袁州を守った。陳友諒の弟友仁が攻めたが撃退した。天完から漢を経ずに朱元璋へ移った城":"欧普祥はそのまま｜袁州《えんしゅう》を守った。｜陳友諒《ちんゆうりょう》の弟｜友仁《ゆうじん》が攻めたが撃退した。｜天完《てんかん》から漢を経ずに｜朱元璋《しゅげんしょう》へ移った城","紅巾はまだ来ていない。1352年に天完の陳普文が陥れたが、同年に郷民羅明遠が取り返した":"紅巾はまだ来ていない。1352年に｜天完《てんかん》の陳普文が陥れたが、同年に郷民羅明遠が取り返した","陳友諒（熊天瑞が先鋒）が吉安路を落とす":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》（熊｜天瑞《てんずい》が｜先鋒《せんぽう》）が吉安路を落とす","吉安を守る土軍元帥孫本立・曽万中らが龍興に来て朱元璋に降る":"吉安を守る土軍元帥孫本立・曽万中らが｜龍興《りゅうこう》に来て｜朱元璋《しゅげんしょう》に降る","同年八月に漢の熊天瑞が吉安を破り饒鼎臣に守らせたが、十二月に朱文正の兵が取り返した":"同年八月に漢の熊｜天瑞《てんずい》が吉安を破り饒鼎臣に守らせたが、十二月に朱｜文正《ぶんせい》の兵が取り返した","至正二十三年":"｜至正《しせい》｜二十三《にじゅうさん》年","常遇春が迫ると饒鼎臣は夜に城を捨てて逃げ、吉安が戻る":"常｜遇春《ぐうしゅん》が迫ると饒鼎臣は夜に城を捨てて逃げ、吉安が戻る","至正二十四年八月":"｜至正《しせい》二十四年八月","贛州":"｜贛州《かんしゅう》","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","陳友諒が贛州路を落とし、江西行省参政全普庵撒里と総管哈海赤が死ぬ":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》が｜贛州《かんしゅう》路を落とし、｜江西《こうせい》行省参政全普庵撒里と｜総管《そうかん》哈海赤が死ぬ","のち熊天瑞が参知政事として贛州を守り、吉安・南安・南雄・韶州を兼ねて統べた":"のち熊｜天瑞《てんずい》が｜参知政事《さんちせいじ》として｜贛州《かんしゅう》を守り、吉安・｜南安《なんあん》・南雄・韶州を兼ねて統べた","熊天瑞":"熊｜天瑞《てんずい》","漢が滅んだ後も熊天瑞が贛州に拠り、常遇春の攻撃に固く守る":"漢が滅んだ後も熊｜天瑞《てんずい》が｜贛州《かんしゅう》に拠り、常｜遇春《ぐうしゅん》の攻撃に固く守る","熊天瑞は漢の時代からすでに陳友諒の制御が効かなかった。元史は降伏の条でも「伪漢守将」と呼ぶ":"熊｜天瑞《てんずい》は漢の時代からすでに｜陳友諒《ちんゆうりょう》の制御が効かなかった。｜元史《げんし》は降伏の条でも「伪漢守将」と呼ぶ","5か月の包囲の末に熊天瑞が降り、常遇春・鄧愈が贛州を取る":"5か月の包囲の末に熊｜天瑞《てんずい》が降り、常｜遇春《ぐうしゅん》・｜鄧《とう》｜愈《ゆ》が｜贛州《かんしゅう》を取る","至正二十五年正月":"｜至正《しせい》二十五年正月","南安":"｜南安《なんあん》","陳友諒の将が贛州に続いて南安を下す":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》の将が｜贛州《かんしゅう》に続いて｜南安《なんあん》を下す","至正十八年九月":"｜至正《しせい》十八年九月","のち熊天瑞が贛州から南安を兼ねて統べた":"のち熊｜天瑞《てんずい》が｜贛州《かんしゅう》から｜南安《なんあん》を兼ねて統べた","漢の滅亡後、贛州の熊天瑞の支配下に残る":"漢の滅亡後、｜贛州《かんしゅう》の熊｜天瑞《てんずい》の支配下に残る","熊天瑞の降伏後、常遇春が南安に進み、嶺南の韶州・南雄を招く":"熊｜天瑞《てんずい》の降伏後、常｜遇春《ぐうしゅん》が｜南安《なんあん》に進み、｜嶺南《れいなん》の韶州・南雄を招く","広州":"｜広州《こうしゅう》","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","広東道宣慰司の下で元の官が治める。紅巾はまだ嶺南に及んでいない":"広東道宣慰司の下で元の官が治める。紅巾はまだ｜嶺南《れいなん》に及んでいない","廉訪使の任を解かれた八撒剌不花が後任の廉訪使らを殺し、兵を擁して広州に拠る（元は討伐の檄を出す）":"廉訪使の任を解かれた八撒剌不花が後任の廉訪使らを殺し、兵を擁して｜広州《こうしゅう》に拠る（元は討伐の檄を出す）","至正二十一年二月":"｜至正《しせい》二十一年二月","南海三山の土豪邵宗愚が元の平章の檄に応じると称して広州を陥れ、八撒剌不花を殺す。元は宗愚に行省参知政事を授けた":"南海三山の土豪邵宗愚が元の平章の檄に応じると称して｜広州《こうしゅう》を陥れ、八撒剌不花を殺す。元は宗愚に行省｜参知政事《さんちせいじ》を授けた","至正二十二年十月":"｜至正《しせい》二十二年十月","恵州の何真が兵を率いて広州に入り、邵宗愚を追う。何真は広東分省参政を授かる":"恵州の何真が兵を率いて｜広州《こうしゅう》に入り、邵宗愚を追う。何真は広東分省参政を授かる","1364年から広州を囲んでいた邵宗愚が、何真が恵州の救援に出た隙に広州を陥れる":"1364年から｜広州《こうしゅう》を囲んでいた邵宗愚が、何真が恵州の救援に出た隙に｜広州《こうしゅう》を陥れる","至正二十五年七月":"｜至正《しせい》二十五年七月","何真が広州を攻め、邵宗愚は城を棄てて三山へ走る":"何真が｜広州《こうしゅう》を攻め、邵宗愚は城を棄てて三山へ走る","至正二十七年四月":"｜至正《しせい》二十七年四月","廖永忠の水軍が広州に至り、元の行省左丞何真が降る。邵宗愚は捕らえられ斬られた":"｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》の水軍が｜広州《こうしゅう》に至り、元の行省左丞何真が降る。邵宗愚は捕らえられ斬られた","贛州に拠る漢の熊天瑞が韶州を陥れ、党の袁仁仲に守らせる（南雄で軍船を造り広州を狙った）":"｜贛州《かんしゅう》に拠る漢の熊｜天瑞《てんずい》が韶州を陥れ、党の袁仁仲に守らせる（南雄で軍船を造り｜広州《こうしゅう》を狙った）","陳理が朱元璋に降って漢が滅んだ後も、熊天瑞が贛州とともに韶州を保つ。年末には常遇春が贛州を囲んでいた":"｜陳理《ちんり》が｜朱元璋《しゅげんしょう》に降って漢が滅んだ後も、熊｜天瑞《てんずい》が｜贛州《かんしゅう》とともに韶州を保つ。年末には常｜遇春《ぐうしゅん》が｜贛州《かんしゅう》を囲んでいた","熊天瑞が贛州で降り、常遇春の招諭で韶州の守将張秉彝が兵糧を籍して降る。秉彝にそのまま韶州を守らせた":"熊｜天瑞《てんずい》が｜贛州《かんしゅう》で降り、常｜遇春《ぐうしゅん》の招諭で韶州の守将張秉彝が兵糧を籍して降る。秉彝にそのまま韶州を守らせた","恵州に拠った王（黄）仲剛と叛将黄常を東莞の何真が追い、恵州を守る。元は何真に恵陽路同知・広東都元帥を授けた":"恵州に拠った王（黄）仲剛と叛将黄常を東莞の何真が追い、恵州を守る。元は何真に恵陽路同知・広東｜都元帥《とげんすい》を授けた","何真が郡県の戸口を籍して明に降る":"何真が｜郡県《ぐんけん》の戸口を籍して明に降る","潮州":"｜潮州《ちょうしゅう》","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","福州から海路を来た廖永忠が潮州を取る":"｜福州《ふくしゅう》から海路を来た｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》が｜潮州《ちょうしゅう》を取る","肇慶":"｜肇慶《ちょうけい》","肇慶市":"｜肇慶《ちょうけい》市","何真の降伏後、明の指揮陸仲亨が連州・肇慶の諸路を下し、広東が定まる":"何真の降伏後、明の指揮陸仲亨が連州・｜肇慶《ちょうけい》の｜諸路《しょろ》を下し、広東が定まる","海北海南道宣慰司の下で元の官が治める。紅巾はまだ嶺南に及んでいない":"海北｜海南《かいなん》道宣慰司の下で元の官が治める。紅巾はまだ｜嶺南《れいなん》に及んでいない","廖永忠の招諭を受け、海南・海北の諸道が明に降る":"｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》の招諭を受け、｜海南《かいなん》・海北の諸道が明に降る","瓊州":"｜瓊州《けいしゅう》","海口市":"｜海口《かいこう》市","静江":"｜静江《せいこう》","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","元の湖広行省の広西の路で元の官が治める。猺の蜂起はあるが紅巾は及んでいない":"元の｜湖広《ここう》行省の｜広西《こうせい》の路で元の官が治める。猺の蜂起はあるが紅巾は及んでいない","広西行省が立ち、廉訪使の也児吉尼が平章政事として広西を独力で保つ（元の官のまま）":"｜広西《こうせい》行省が立ち、廉訪使の也児吉尼が｜平章政事《へいしょうせいじ》として｜広西《こうせい》を独力で保つ（元の官のまま）","至正二十三年三月":"｜至正《しせい》｜二十三《にじゅうさん》年三月","楊璟と朱亮祖が濠の水を落として静江を攻め落とし、平章也児吉尼を捕らえる":"｜楊《よう》璟と朱亮祖が濠の水を落として｜静江《せいこう》を攻め落とし、平章也児吉尼を捕らえる","梧州を降した廖永忠が潯州・柳州を下す":"梧州を降した｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》が｜潯州《じんしゅう》・柳州を下す","広東から西江を上った廖永忠が梧州に至り、元の達魯花赤拝住が降る":"広東から西江を上った｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》が梧州に至り、元の達魯花赤｜拝住《はいじゅう》が降る","洪武元年五月":"｜洪武《こうぶ》元年五月","潯州":"｜潯州《じんしゅう》","廖永忠が梧州を下すと潯州なども降る":"｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》が梧州を下すと｜潯州《じんしゅう》なども降る","邕州（南寧）":"｜邕州《ようしゅう》（｜南寧《なんねい》）","邕州":"｜邕州《ようしゅう》","南寧市":"｜南寧《なんねい》市","元の湖広行省の広西の路で元の官が治める。猺の蜂起はあるが紅巾は及んでいない。この時代の名は南寧路":"元の｜湖広《ここう》行省の｜広西《こうせい》の路で元の官が治める。猺の蜂起はあるが紅巾は及んでいない。この時代の名は｜南寧《なんねい》路","廖永忠が南寧を攻め取り、象州を降して広西が定まる":"｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》が｜南寧《なんねい》を攻め取り、象州を降して｜広西《こうせい》が定まる","洪武元年七月ごろ":"｜洪武《こうぶ》元年七月ごろ","大寧":"｜大寧《たいねい》","遼陽行省の大寧路。紅巾はまだ来ていない":"｜遼陽《りょうよう》行省の｜大寧《たいねい》路。紅巾はまだ来ていない","元から北元へ。1360年正月に関先生らの紅巾が大寧路を落としたがそのまま上都へ去り、1362年には元の守将王聚が城を守っている。1363年正月にも「大寧陥つ」とあるが、誰がどれだけ保ったかは原文に無い":"元から｜北元《ほくげん》へ。1360年正月に関先生らの紅巾が｜大寧《たいねい》路を落としたがそのまま｜上都《じょうと》へ去り、1362年には元の守将王聚が城を守っている。1363年正月にも「｜大寧《たいねい》陥つ」とあるが、誰がどれだけ保ったかは原文に無い","都督馬雲が大寧を討ち、十一月に大寧平らぐ（翌年に大寧府を置く）":"都督馬雲が｜大寧《たいねい》を討ち、十一月に｜大寧《たいねい》平らぐ（翌年に｜大寧《たいねい》府を置く）","洪武十二年六月〜十一月":"｜洪武《こうぶ》十二年六月〜十一月","中書省直轄の全寧路。紅巾は来ていない":"｜中書省《ちゅうしょしょう》直轄の全寧路。紅巾は来ていない","元から北元へ。1369年六月に常遇春が全寧で元の也速を破ったが、そのまま上都へ進み留まっていない":"元から｜北元《ほくげん》へ。1369年六月に常｜遇春《ぐうしゅん》が全寧で元の也速を破ったが、そのまま｜上都《じょうと》へ進み留まっていない","遼陽":"｜遼陽《りょうよう》","遼陽市":"｜遼陽《りょうよう》市","遼陽行省の治所。紅巾はまだ来ていない":"｜遼陽《りょうよう》行省の治所。紅巾はまだ来ていない","関先生・破頭潘らの紅巾（宋の劉福通の将）が上都から転じて遼陽行省を陥れ、七月に元が送った大軍も退けて居座る":"関先生・破頭潘らの紅巾（宋の｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》の将）が｜上都《じょうと》から転じて｜遼陽《りょうよう》行省を陥れ、七月に元が送った大軍も退けて居座る","至正十九年正月":"｜至正《しせい》十九年正月","関先生らは遼陽から高麗へ入って討たれ、四月に遼陽行省同知高家奴が破頭潘を捕えて誅す":"関先生らは｜遼陽《りょうよう》から高麗へ入って討たれ、四月に｜遼陽《りょうよう》行省同知高家奴が破頭潘を捕えて誅す","納哈出が遼陽省丞相となる（大都陥落後、遼東の元の残存勢力の頭）":"納哈出が｜遼陽《りょうよう》省｜丞相《じょうしょう》となる（｜大都《だいと》陥落後、｜遼東《りょうとう》の元の残存勢力の頭）","至正二十八年":"｜至正《しせい》二十八年","元から北元へ":"元から｜北元《ほくげん》へ","1371年に明に降ったのは蓋州の劉益で、その後も「平章高家奴守辽阳山寨」と遼陽は北元側。高家奴は後に呉禎の下で降った":"1371年に明に降ったのは蓋州の劉益で、その後も「平章高家奴守辽阳山寨」と｜遼陽《りょうよう》は｜北元《ほくげん》側。高家奴は後に呉禎の下で降った","明史地理志: 洪武六年六月に遼陽府・県と定遼中衛を置いた。高家奴が降った年は原文で特定できず、1372年の可能性もある":"｜明史《みんし》｜地理志《ちりし》: ｜洪武《こうぶ》六年六月に｜遼陽《りょうよう》府・県と定遼中衛を置いた。高家奴が降った年は原文で特定できず、1372年の可能性もある","瀋陽":"｜瀋陽《しんよう》","瀋陽市":"｜瀋陽《しんよう》市","遼陽行省の瀋陽路。紅巾はまだ来ていない":"｜遼陽《りょうよう》行省の｜瀋陽《しんよう》路。紅巾はまだ来ていない","劉益の降伏後、明の遼東衛の報告に「知院哈剌章が瀋陽古城に屯す」とあり、金山の納哈出らと連携して明に抗する":"劉益の降伏後、明の｜遼東《りょうとう》衛の報告に「知院哈剌章が｜瀋陽《しんよう》古城に屯す」とあり、｜金山《きんざん》の納哈出らと連携して明に抗する","洪武四年":"｜洪武《こうぶ》四年","納哈出が金山で明に降り、遼東の北元勢力が尽きる":"納哈出が｜金山《きんざん》で明に降り、｜遼東《りょうとう》の｜北元《ほくげん》勢力が尽きる","洪武二十年六月":"｜洪武《こうぶ》二十年六月","開元":"｜開元《かいげん》","遼陽行省の開元路。紅巾は来ていない":"｜遼陽《りょうよう》行省の｜開元《かいげん》路。紅巾は来ていない","明の遼東衛の報告に「開元は右丞也先不花」とあり、納哈出らと連携する":"明の｜遼東《りょうとう》衛の報告に「｜開元《かいげん》は右丞也先不花」とあり、納哈出らと連携する","納哈出が金山で降り、十二月に開元故城の西に三万衛を置く":"納哈出が｜金山《きんざん》で降り、十二月に｜開元《かいげん》故城の西に三万衛を置く","洪武二十年六月・十二月":"｜洪武《こうぶ》二十年六月・十二月","遼陽行省の広寧府路。紅巾はまだ来ていない":"｜遼陽《りょうよう》行省の広寧府路。紅巾はまだ来ていない","元から北元へ。1359年に紅巾が遼陽を落とした後に広寧を囲み、総管郭嘉が戦死したが、紅巾が広寧に留まった記事は無い":"元から｜北元《ほくげん》へ。1359年に紅巾が｜遼陽《りょうよう》を落とした後に広寧を囲み、｜総管《そうかん》郭嘉が戦死したが、紅巾が広寧に留まった記事は無い","納哈出が金山で降り、八月に近くの義州に衛を置く":"納哈出が｜金山《きんざん》で降り、八月に近くの義州に衛を置く","洪武二十年":"｜洪武《こうぶ》二十年","遼陽路の蓋州。紅巾はまだ来ていない":"｜遼陽《りょうよう》路の蓋州。紅巾はまだ来ていない","蓋州に屯していた元の遼陽行省参政（平章）劉益が明に降り、明は張良佐らを蓋州衛指揮僉事とする。1375年に納哈出が蓋州を避けて金州を攻めたが退けた":"蓋州に屯していた元の｜遼陽《りょうよう》行省参政（平章）劉益が明に降り、明は張良佐らを蓋州衛指揮僉事とする。1375年に納哈出が蓋州を避けて金州を攻めたが退けた","洪武四年二月":"｜洪武《こうぶ》四年二月","遼陽行省の金州。紅巾はまだ来ていない":"｜遼陽《りょうよう》行省の金州。紅巾はまだ来ていない","金山":"｜金山《きんざん》","開元路の北西の草原。城は無い":"｜開元《かいげん》路の北西の草原。城は無い","元が亡ぶと納哈出が金山に兵を集め、遼陽省丞相となる":"元が亡ぶと納哈出が｜金山《きんざん》に兵を集め、｜遼陽《りょうよう》省｜丞相《じょうしょう》となる","至正二十八年（洪武元年）":"｜至正《しせい》二十八年（｜洪武《こうぶ》元年）","馮勝が金山を越え、納哈出が降る。将士の妻子十余万を含む二十余万人を関内へ移す":"｜馮《ふう》勝が｜金山《きんざん》を越え、納哈出が降る。将士の妻子十余万を含む二十余万人を関内へ移す","冀寧（太原）":"｜冀寧《きねい》（｜太原《たいげん》）","冀寧":"｜冀寧《きねい》","太原市":"｜太原《たいげん》市","河東山西道の冀寧路。紅巾はまだ来ていない":"｜河東《かとう》｜山西《さんせい》道の｜冀寧《きねい》路。紅巾はまだ来ていない","紅巾に一時落とされた冀寧を察罕帖木児の将が回復し、察罕が自ら冀寧路総管を任ずる。翌年正月には兵二万で守らせ、1360年には孛羅帖木児の入城を拒む":"紅巾に一時落とされた｜冀寧《きねい》を｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》の将が回復し、｜察罕《チャガン》が自ら｜冀寧《きねい》路｜総管《そうかん》を任ずる。翌年正月には兵二万で守らせ、1360年には｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》の入城を拒む","察罕帖木児が田豊に殺され、養子の拡廓帖木児がその軍を継ぐ。1363年に孛羅の石嶺関からの攻撃を破り、冀寧を本拠とする":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が田豊に殺され、養子の｜拡廓帖木児《かくかくてむる》がその軍を継ぐ。1363年に孛羅の石嶺関からの攻撃を破り、｜冀寧《きねい》を本拠とする","徐達が太原を攻め落とし、拡廓帖木児は甘粛へ逃れる":"徐達が｜太原《たいげん》を攻め落とし、｜拡廓帖木児《かくかくてむる》は｜甘粛《かんしゅく》へ逃れる","洪武元年十二月":"｜洪武《こうぶ》元年十二月","大同":"｜大同《だいどう》","大同市":"｜大同《だいどう》市","大同路。紅巾はまだ来ていない":"｜大同《だいどう》路。紅巾はまだ来ていない","孛羅帖木児":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》","孛羅帖木児が詔で大同に移鎮し、京師の守りとなる。1360年に石嶺関以北を任され、以後大同を本拠とする":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が詔で｜大同《だいどう》に｜移鎮《いちん》し、京師の守りとなる。1360年に石嶺関以北を任され、以後｜大同《だいどう》を本拠とする","拡廓帖木児の将関保が大同を囲んで入城する（七月に孛羅は大都で殺される）":"｜拡廓帖木児《かくかくてむる》の将関保が｜大同《だいどう》を囲んで入城する（七月に孛羅は｜大都《だいと》で殺される）","至正二十五年四月":"｜至正《しせい》二十五年四月","1367年秋に拡廓帖木児が兵権を解かれ、山西の諸軍は沙藍答里が統べて中書左丞相として大同に分省した":"1367年秋に｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が兵権を解かれ、｜山西《さんせい》の諸軍は沙藍答里が統べて中書左｜丞相《じょうしょう》として｜大同《だいどう》に分省した","常遇春が大同を取る。八月の元の反攻も李文忠が退ける":"常｜遇春《ぐうしゅん》が｜大同《だいどう》を取る。八月の元の反攻も李文忠が退ける","洪武二年正月":"｜洪武《こうぶ》二年正月","晋寧（平陽）":"晋寧（｜平陽《へいよう》）","河東山西道の晋寧路。紅巾はまだ来ていない":"｜河東《かとう》｜山西《さんせい》道の晋寧路。紅巾はまだ来ていない","紅巾の王士誠に落とされた晋寧路を察罕帖木児の将が取り返す。察罕は沢州・上党・并州に兵を分けて太行を塞ぎ、河東を平定する":"紅巾の王士誠に落とされた晋寧路を｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》の将が取り返す。｜察罕《チャガン》は沢州・｜上党《じょうとう》・｜并州《へいしゅう》に兵を分けて｜太行《たいこう》を塞ぎ、｜河東《かとう》を平定する","察罕帖木児が殺され、拡廓帖木児がその軍を継ぐ":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が殺され、｜拡廓帖木児《かくかくてむる》がその軍を継ぐ","至正二十七年十一月":"｜至正《しせい》二十七年十一月","二月に拡廓が沢州から退いて晋寧を取り返し、閏七月に関保・貊高を平陽で捕えて殺したのち冀寧へ移る。冬に明の馮勝が平陽・絳州を克ち、平陽府と改める":"二月に拡廓が沢州から退いて晋寧を取り返し、閏七月に関保・貊高を｜平陽《へいよう》で捕えて殺したのち｜冀寧《きねい》へ移る。冬に明の｜馮《ふう》勝が｜平陽《へいよう》・絳州を克ち、｜平陽《へいよう》府と改める","潞州":"｜潞州《ろしゅう》","晋寧路の潞州。紅巾はまだ来ていない":"晋寧路の｜潞州《ろしゅう》。紅巾はまだ来ていない","1357年に紅巾に一時落とされた潞州を、察罕帖木児が虎林赤・関保に守らせる":"1357年に紅巾に一時落とされた｜潞州《ろしゅう》を、｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が虎林赤・関保に守らせる","至正十八年六月":"｜至正《しせい》十八年六月","拡廓に背いた関保が潞州に退いて屯する":"拡廓に背いた関保が｜潞州《ろしゅう》に退いて屯する","至正二十七年":"｜至正《しせい》二十七年","馮勝・湯和が懐慶を下し、沢・潞が相次いで降る":"｜馮《ふう》勝・湯和が｜懐慶《かいけい》を下し、沢・潞が相次いで降る","洪武元年十月":"｜洪武《こうぶ》元年十月","察罕帖木児が沢州に兵を屯して碗子城を塞ぎ、太行を越える紅巾を防ぐ":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が沢州に兵を屯して碗｜子城《しじょう》を塞ぎ、｜太行《たいこう》を越える紅巾を防ぐ","察罕帖木児が殺され、拡廓帖木児がその軍を継ぐ。1367年に兵権を奪われた拡廓は沢州に退いて屯する":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が殺され、｜拡廓帖木児《かくかくてむる》がその軍を継ぐ。1367年に兵権を奪われた拡廓は沢州に退いて屯する","二月に拡廓が沢州から晋寧へ退き関保が沢・潞を押さえたのち、十月に明の馮勝・湯和が沢・潞を下す":"二月に拡廓が沢州から晋寧へ退き関保が沢・潞を押さえたのち、十月に明の｜馮《ふう》勝・湯和が沢・潞を下す","河中":"｜河中《かちゅう》","永済市":"｜永済《えいせい》市","河中府。紅巾はまだ来ていない":"｜河中《かちゅう》府。紅巾はまだ来ていない","察罕帖木児が聞喜に屯して絳州の紅巾を破り、河東をことごとく平定する":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜聞喜《ぶんき》に屯して絳州の紅巾を破り、｜河東《かとう》をことごとく平定する","察罕帖木児が殺され、拡廓帖木児がその軍を継ぐ。1366年に拡廓は朱珍・盧旺を河中に屯させて李思斉・張良弼と争う":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が殺され、｜拡廓帖木児《かくかくてむる》がその軍を継ぐ。1366年に拡廓は朱珍・盧旺を｜河中《かちゅう》に屯させて李思斉・張良弼と争う","湯和伝・馮勝伝: 洪武元年に山西を取り河中を抜き、翌二年に黄河を渡った":"湯和伝・｜馮《ふう》勝伝: ｜洪武《こうぶ》元年に｜山西《さんせい》を取り｜河中《かちゅう》を抜き、翌二年に｜黄河《こうが》を渡った","汾州":"｜汾州《ふんしゅう》","冀寧路の汾州。紅巾はまだ来ていない":"｜冀寧《きねい》路の｜汾州《ふんしゅう》。紅巾はまだ来ていない","朝廷が察罕帖木児に関陝・晋冀の守りを任せる。1360年に孛羅帖木児が汾州を侵したのを察罕が拒む":"朝廷が｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》に関陝・晋冀の守りを任せる。1360年に｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が｜汾州《ふんしゅう》を侵したのを｜察罕《チャガン》が拒む","徐達が太原を克ったのち兵を分けて未だ下らない州県を徇え、山西がことごとく平らぐ":"徐達が｜太原《たいげん》を克ったのち兵を分けて未だ下らない州県を徇え、｜山西《さんせい》がことごとく平らぐ","大同路の東勝州。紅巾は来ていない":"｜大同《だいどう》路の東勝州。紅巾は来ていない","湯和伝は洪武三年の戦役の中で「徇东胜」を挙げ、金朝興伝も東勝州を取って元平章劉麟らを捕えた功で洪武三年に論功されている":"湯和伝は｜洪武《こうぶ》三年の戦役の中で「徇东胜」を挙げ、金朝興伝も東勝州を取って｜元平《げんぺい》章｜劉《りゅう》｜麟《りん》らを捕えた功で｜洪武《こうぶ》三年に論功されている","大都":"｜大都《だいと》","元の都。1358年に毛貴が漷州・柳林まで迫ったが撃退された":"元の都。1358年に毛貴が漷州・｜柳林《りゅうりん》まで迫ったが撃退された","孛羅帖木児が居庸関から大都に入り、中書右丞相となって朝廷を握る":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が｜居庸関《きょようかん》から｜大都《だいと》に入り、｜中書右《ちゅうしょう》｜丞相《じょうしょう》となって朝廷を握る","至正二十四年七月〜八月":"｜至正《しせい》二十四年七月〜八月","孛羅帖木児が誅され、皇太子が大都に戻る":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が誅され、皇太子が｜大都《だいと》に戻る","順帝が健徳門から北へ逃れ、徐達が大都に入る":"｜順帝《じゅんてい》が健徳門から北へ逃れ、徐達が｜大都《だいと》に入る","至正二十八年（洪武元年）八月庚午":"｜至正《しせい》二十八年（｜洪武《こうぶ》元年）八月庚午","保定":"｜保定《ほてい》","保定市":"｜保定《ほてい》市","宋の田豊が保定路を落とす":"宋の田豊が｜保定《ほてい》路を落とす","至正二十年三月戊子朔":"｜至正《しせい》二十年三月戊子朔","元が保定を取り戻したとみられる（孛羅帖木児に保定以東での屯田を命じる）":"元が｜保定《ほてい》を取り戻したとみられる（｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》に｜保定《ほてい》以東での｜屯田《とんでん》を命じる）","至正二十一年":"｜至正《しせい》二十一年","孛羅帖木児に寝返った匡福が保定路に拠る":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》に寝返った匡福が｜保定《ほてい》路に拠る","至正二十三年六月戊戌朔":"｜至正《しせい》｜二十三《にじゅうさん》年六月戊戌朔","孛羅帖木児が誅され、匡福を迎えた方脱脱も誅される":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が誅され、匡福を迎えた方脱脱も誅される","常遇春が保定を下す":"常｜遇春《ぐうしゅん》が｜保定《ほてい》を下す","洪武元年九月乙丑":"｜洪武《こうぶ》元年九月乙丑","孛羅帖木児が拡廓帖木児の守る地を南に侵し真定路に拠る":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が｜拡廓帖木児《かくかくてむる》の守る地を南に侵し真定路に拠る","至正二十二年十月甲戌":"｜至正《しせい》二十二年十月｜甲戌《こうじゅつ》","孛羅帖木児が誅される":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が誅される","拡廓帖木児に背いた貊高と朝廷の也速が真定を攻めたが落とせない（真定は拡廓帖木児の側）":"｜拡廓帖木児《かくかくてむる》に背いた貊高と朝廷の也速が真定を攻めたが落とせない（真定は｜拡廓帖木児《かくかくてむる》の側）","常遇春が保定に続いて真定を下す":"常｜遇春《ぐうしゅん》が｜保定《ほてい》に続いて真定を下す","河間":"｜河間《かかん》","河間市":"｜河間《かかん》市","紅巾はまだ来ていない。1358年に毛貴が河間から直沽へ向かったが、河間を落とした記事は無い。1367年には也速の軍が河間にいた":"紅巾はまだ来ていない。1358年に毛貴が｜河間《かかん》から直沽へ向かったが、｜河間《かかん》を落とした記事は無い。1367年には也速の軍が｜河間《かかん》にいた","大都の陥落後、常遇春らが河間を下す":"｜大都《だいと》の陥落後、常｜遇春《ぐうしゅん》らが｜河間《かかん》を下す","至正十八年十一月丁未":"｜至正《しせい》十八年十一月丁未","察罕帖木児が邯鄲・磁州から山東へ進み、田豊が降る（順徳はこのころ元に戻ったとみられる）":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜邯鄲《かんたん》・磁州から｜山東《さんとう》へ進み、田豊が降る（順徳はこのころ元に戻ったとみられる）","紅巾はまだ来ていない。1357年八月に劉福通の軍が大名路を落としたが、九月に太不花が取り戻したので帰属は変えていない":"紅巾はまだ来ていない。1357年八月に｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》の軍が大名路を落としたが、九月に太不花が取り戻したので帰属は変えていない","拡廓帖木児が河南に戻り、懐慶、ついで彰徳に居て各地の軍を動かす":"｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が｜河南《かなん》に戻り、｜懐慶《かいけい》、ついで彰徳に居て各地の軍を動かす","至正二十六年二月":"｜至正《しせい》二十六年二月","拡廓帖木児に背いた貊高が彰徳を騙し取り、守将范国英を殺す":"｜拡廓帖木児《かくかくてむる》に背いた貊高が彰徳を騙し取り、守将范国英を殺す","至正二十七年八月":"｜至正《しせい》二十七年八月","徐達の軍が彰徳を取る（貊高はその直前に拡廓帖木児に敗れ殺された）":"徐達の軍が彰徳を取る（貊高はその直前に｜拡廓帖木児《かくかくてむる》に敗れ殺された）","洪武元年閏七月癸卯":"｜洪武《こうぶ》元年閏七月癸卯","紅巾はまだ来ていない。1357年八月に劉福通の軍が衛輝路を落とし孛羅帖木児が反撃した。1358年に再び衛輝を攻めた紅巾を孛羅帖木児が撃退しており、元が保っていた":"紅巾はまだ来ていない。1357年八月に｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》の軍が衛輝路を落とし｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が反撃した。1358年に再び衛輝を攻めた紅巾を｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が撃退しており、元が保っていた","察罕帖木児が山東へ出兵し、懐慶・衛輝の軍を白馬から出す":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜山東《さんとう》へ出兵し、｜懐慶《かいけい》・衛輝の軍を白馬から出す","至正二十一年七月":"｜至正《しせい》二十一年七月","察罕帖木児が殺され、子の拡廓帖木児がその軍を継ぐ":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が殺され、子の｜拡廓帖木児《かくかくてむる》がその軍を継ぐ","衛輝で貊高の兵が拡廓帖木児に背き、貊高が衛輝の守将余仁輔を殺して衛輝・彰徳に拠る":"衛輝で貊高の兵が｜拡廓帖木児《かくかくてむる》に背き、貊高が衛輝の守将余仁輔を殺して衛輝・彰徳に拠る","洪武元年閏七月辛丑":"｜洪武《こうぶ》元年閏七月辛丑","懐慶":"｜懐慶《かいけい》","紅巾はまだ来ていない。1355年十一月に紅巾が懐慶を落としたが、察罕帖木児らに破られた。1358年七月に守将周全が背いて劉福通に付いたが、民を連れて黄河を渡り汴梁へ去った":"紅巾はまだ来ていない。1355年十一月に紅巾が｜懐慶《かいけい》を落としたが、｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》らに破られた。1358年七月に守将周全が背いて｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》に付いたが、民を連れて｜黄河《こうが》を渡り｜汴梁《べんりょう》へ去った","察罕帖木児が山東へ出兵し、懐慶・衛輝の軍を白馬から出す。自らも孟津を渡り覃懐を経て東へ進む":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜山東《さんとう》へ出兵し、｜懐慶《かいけい》・衛輝の軍を白馬から出す。自らも孟津を渡り覃懐を経て東へ進む","馮勝・湯和が懐慶を下す":"｜馮《ふう》勝・湯和が｜懐慶《かいけい》を下す","洪武元年十月庚午":"｜洪武《こうぶ》元年十月庚午","永平":"｜永平《えいへい》","盧龍県":"｜盧龍《ろりゅう》県","永平路が陥る（程思忠・雷帖木児不花らの賊が城に拠る）":"｜永平《えいへい》路が陥る（程思忠・雷帖木児不花らの賊が城に拠る）","至正二十年八月乙未":"｜至正《しせい》二十年八月｜乙未《いつび》","同僉枢密院事迭里帖木児が永平・灤州などを回復する":"同僉｜枢密院《すうみついん》事迭里帖木児が｜永平《えいへい》・｜灤州《らんしゅう》などを回復する","至正二十一年二月甲申":"｜至正《しせい》二十一年二月甲申","大都の陥落後、明の汪興祖らが永平を下す":"｜大都《だいと》の陥落後、明の汪興祖らが｜永平《えいへい》を下す","宣徳":"｜宣徳《せんとく》","上都路に属する順寧府。紅巾はまだ来ていない。1358年に関先生らが大同・興和の塞外を掠めたが、順寧府を落とした記事は無い":"｜上都《じょうと》路に属する順寧府。紅巾はまだ来ていない。1358年に関先生らが｜大同《だいどう》・｜興和《こうわ》の塞外を掠めたが、順寧府を落とした記事は無い","明が大同・雲州などを取り、順寧府の地も明に入ったとみられる":"明が｜大同《だいどう》・雲州などを取り、順寧府の地も明に入ったとみられる","洪武二年":"｜洪武《こうぶ》二年","興和":"｜興和《こうわ》","上都路の西の興和路。1358年に関先生らが興和の塞外を掠めたが、留まっていない":"｜上都《じょうと》路の西の｜興和《こうわ》路。1358年に関先生らが｜興和《こうわ》の塞外を掠めたが、留まっていない","李文忠が野狐嶺を出て興和に至り、守将を降す":"李文忠が｜野狐嶺《やこれい》を出て｜興和《こうわ》に至り、守将を降す","洪武三年二月":"｜洪武《こうぶ》三年二月","北元が興和を取り返したとみられる（1374年に明が改めて興和を抜くので、その前に北元の手に戻っている）":"｜北元《ほくげん》が｜興和《こうわ》を取り返したとみられる（1374年に明が改めて｜興和《こうわ》を抜くので、その前に｜北元《ほくげん》の手に戻っている）","洪武五年ごろ（推定）":"｜洪武《こうぶ》五年ごろ（推定）","藍玉が白酒泉で元兵を破り、興和を抜く（元の国公帖里密赤らを捕らえる）":"｜藍玉《らんぎょく》が白酒泉で元兵を破り、｜興和《こうわ》を抜く（元の｜国公《こっこう》帖里密赤らを捕らえる）","洪武七年四月己亥":"｜洪武《こうぶ》七年四月己亥","上都（開平）":"｜上都《じょうと》（｜開平《かいへい》）","上都":"｜上都《じょうと》","元の夏の都。1358年十二月に関先生・破頭潘らが上都を落として宮殿を焼いたが、7日留まって遼陽へ去ったので帰属は変えていない。1368年八月に大都を捨てた順帝がここへ逃れた":"元の夏の都。1358年十二月に関先生・破頭潘らが｜上都《じょうと》を落として宮殿を焼いたが、7日留まって｜遼陽《りょうよう》へ去ったので帰属は変えていない。1368年八月に｜大都《だいと》を捨てた｜順帝《じゅんてい》がここへ逃れた","李文忠が駱駝山で元軍を破って開平に進み、平章上都罕らを降す":"李文忠が駱駝山で元軍を破って｜開平《かいへい》に進み、平章｜上都《じょうと》罕らを降す","洪武三年五月":"｜洪武《こうぶ》三年五月","応昌":"｜応昌《おうしょう》","弘吉剌部の応昌路。紅巾は来ていない。1369年六月、上都を追われた順帝がここに移った":"弘吉剌部の｜応昌《おうしょう》路。紅巾は来ていない。1369年六月、｜上都《じょうと》を追われた｜順帝《じゅんてい》がここに移った","李文忠が応昌を落とす。順帝は四月に死んでおり、嗣君（昭宗）は北へ逃れ、孫の買的里八剌が捕らえられる":"李文忠が｜応昌《おうしょう》を落とす。｜順帝《じゅんてい》は四月に死んでおり、｜嗣君《しくん》（｜昭宗《しょうそう》）は北へ逃れ、孫の｜買的里八剌《マイダリバラ》が捕らえられる","洪武三年五月甲辰":"｜洪武《こうぶ》三年五月｜甲辰《こうしん》","北元の丞相驢児・蛮子哈剌章らが応昌・和林に兵を集め、塞下に出没する":"｜北元《ほくげん》の｜丞相《じょうしょう》驢児・蛮子哈剌章らが｜応昌《おうしょう》・｜和林《おりん》に兵を集め、塞下に出没する","洪武十一年ごろ":"｜洪武《こうぶ》十一年ごろ","奉元（長安）":"奉元（｜長安《ちょうあん》）","西安市":"｜西安《せいあん》市","陝西行省・陝西行台の治所。紅巾はまだ来ていない":"｜陝西《せんせい》行省・｜陝西《せんせい》｜行台《こうだい》の治所。紅巾はまだ来ていない","孛羅帖木児が遣わした朱展が省治を奪ったが、拡廓帖木児の将貊高と李思斉に攻められて降り、拡廓に従う":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が遣わした朱展が省治を奪ったが、｜拡廓帖木児《かくかくてむる》の将貊高と李思斉に攻められて降り、拡廓に従う","拡廓帖木児と関中の諸将の内戦で、李思斉が長安に拠って拡廓方の商暠と戦う。のち部将鄭応祥に陝西を守らせて鳳翔へ帰る":"｜拡廓帖木児《かくかくてむる》と｜関中《かんちゅう》の諸将の内戦で、李思斉が｜長安《ちょうあん》に拠って拡廓方の商暠と戦う。のち部将鄭応祥に｜陝西《せんせい》を守らせて｜鳳翔《ほうしょう》へ帰る","徐達が奉元に至り、張思道（張良弼）が逃げる。明が西安府と改める":"徐達が奉元に至り、張思道（張良弼）が逃げる。明が｜西安《せいあん》府と改める","洪武二年三月庚子":"｜洪武《こうぶ》二年三月｜庚子《こうし》","鳳翔":"｜鳳翔《ほうしょう》","宝鶏市鳳翔区":"宝鶏市｜鳳翔《ほうしょう》区","陝西行省の府。紅巾はまだ来ていない":"｜陝西《せんせい》行省の府。紅巾はまだ来ていない","詔して察罕帖木児を陝西に、李思斉を鳳翔に駐屯させる。以後鳳翔は李思斉の本拠":"詔して｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》を｜陝西《せんせい》に、李思斉を｜鳳翔《ほうしょう》に駐屯させる。以後｜鳳翔《ほうしょう》は李思斉の本拠","常遇春が鳳翔に至り、李思斉は臨洮へ逃げる":"常｜遇春《ぐうしゅん》が｜鳳翔《ほうしょう》に至り、李思斉は臨洮へ逃げる","洪武二年三月丙午":"｜洪武《こうぶ》二年三月｜丙午《へいご》","商州":"｜商州《しょうしゅう》","明が奉元路を取り、商州もその管下に入る":"明が奉元路を取り、｜商州《しょうしゅう》もその管下に入る","明が商州を取った条は原文に見えない":"明が｜商州《しょうしゅう》を取った条は原文に見えない","興元":"｜興元《こうげん》","漢中市":"｜漢中《かんちゅう》市","陝西行省の路。1352年正月に興元・金州一帯の賊の討伐が命じられたが、城が陥ちた記事は無い":"｜陝西《せんせい》行省の路。1352年正月に｜興元《こうげん》・金州一帯の賊の討伐が命じられたが、城が陥ちた記事は無い","夏の明玉珍が万勝に興元を攻めさせ、これを下す":"夏の｜明玉珍《めいぎょくちん》が万勝に｜興元《こうげん》を攻めさせ、これを下す","徐達の別軍（張龍）が連雲桟から興元を攻め、守将劉思忠が降る。夏の呉友仁が何度も攻めたが落ちなかった":"徐達の別軍（張龍）が連雲桟から｜興元《こうげん》を攻め、守将劉思忠が降る。夏の｜呉友仁《ごゆうじん》が何度も攻めたが落ちなかった","延安":"｜延安《えんあん》","延安市":"｜延安《えんあん》市","陝西行省の路。紅巾はまだ来ていない":"｜陝西《せんせい》行省の路。紅巾はまだ来ていない","孛羅帖木児が兵を引いたあと、脱列伯らを遣わして延安に拠らせ、陝西を窺う":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が兵を引いたあと、脱列伯らを遣わして｜延安《えんあん》に拠らせ、｜陝西《せんせい》を窺う","1362年にも拡廓帖木児が「孛羅帖木児・張良弼が延安に拠る」と訴えている":"1362年にも｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が「｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》・張良弼が｜延安《えんあん》に拠る」と訴えている","孛羅帖木児の死（1365年）のあと、脱列伯は関中の四軍の一つとして拡廓帖木児の調発を拒む":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》の死（1365年）のあと、脱列伯は｜関中《かんちゅう》の四軍の一つとして｜拡廓帖木児《かくかくてむる》の調発を拒む","至正二十六年":"｜至正《しせい》二十六年","徐達が平涼・延安を下す":"徐達が平涼・｜延安《えんあん》を下す","洪武二年五月丁酉":"｜洪武《こうぶ》二年五月丁酉","延安路の州。紅巾はまだ来ていない":"｜延安《えんあん》路の州。紅巾はまだ来ていない","明が延安を下し、綏徳もその管下に入る":"明が｜延安《えんあん》を下し、綏徳もその管下に入る","明が綏徳を取った条は原文に見えない。延安と同じ年にした":"明が綏徳を取った条は原文に見えない。｜延安《えんあん》と同じ年にした","洪武二年八月癸未":"｜洪武《こうぶ》二年八月癸未","宋（劉福通）の白不信・大刀敖・李喜喜が関中に入り、秦・隴を陥れる。平涼も紅巾の手に落ちた（翌年二月に察罕帖木児が回復）":"宋（｜劉《りゅう》｜福通《ふくつう》）の白不信・大刀敖・李喜喜が｜関中《かんちゅう》に入り、秦・隴を陥れる。平涼も紅巾の手に落ちた（翌年二月に｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が回復）","察罕帖木児が兵を遣わして涇州・平涼を回復し、鞏昌を保つ":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が兵を遣わして｜涇州《けいしゅう》・平涼を回復し、鞏昌を保つ","至正十八年二月丁亥":"｜至正《しせい》十八年二月丁亥","徐達が平涼・延安を下す。七月に拡廓帖木児の将が原州・涇州を破ったが馮勝が撃退した":"徐達が平涼・｜延安《えんあん》を下す。七月に｜拡廓帖木児《かくかくてむる》の将が原州・｜涇州《けいしゅう》を破ったが｜馮《ふう》勝が撃退した","隴西県":"｜隴西《ろうせい》県","鞏昌等処総帥府（汪氏）の治所。紅巾はまだ来ていない":"鞏昌等処総帥府（｜汪氏《おうし》）の治所。紅巾はまだ来ていない","南山・興元から出た紅巾が秦・隴を陥れて鞏昌に拠る。李喜喜は翌年四月まで鞏昌に籠もった":"南山・｜興元《こうげん》から出た紅巾が秦・隴を陥れて鞏昌に拠る。李喜喜は翌年四月まで鞏昌に籠もった","至正十七年十月ごろ":"｜至正《しせい》十七年十月ごろ","察罕帖木児・李思斉・張良弼・総帥汪長生奴らが鞏昌の李喜喜を討ち、李喜喜は蜀へ逃げる":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》・李思斉・張良弼・総帥汪｜長生《ちょうせい》奴らが鞏昌の李喜喜を討ち、李喜喜は蜀へ逃げる","詔で李思斉が鳳翔より西を総領することになる（鞏昌総帥の汪氏の城）":"詔で李思斉が｜鳳翔《ほうしょう》より西を総領することになる（鞏昌総帥の｜汪氏《おうし》の城）","洪武二年四月乙亥":"｜洪武《こうぶ》二年四月乙亥","鞏昌総帥府の管下。1358年には平章政事定住が臨洮に駐屯した":"鞏昌総帥府の管下。1358年には｜平章政事《へいしょうせいじ》定住が臨洮に駐屯した","詔で李思斉が鳳翔より西を総領することになる":"詔で李思斉が｜鳳翔《ほうしょう》より西を総領することになる","鳳翔から臨洮へ逃げた李思斉が、馮勝が臨洮に迫ると戦わずに降る":"｜鳳翔《ほうしょう》から臨洮へ逃げた李思斉が、｜馮《ふう》勝が臨洮に迫ると戦わずに降る","洪武二年四月丁丑":"｜洪武《こうぶ》二年四月丁丑","吐蕃等処宣慰司都元帥府の管下。紅巾はまだ来ていない":"｜吐蕃《とばん》等処宣慰司｜都元帥《とげんすい》府の管下。紅巾はまだ来ていない","鄧愈が臨洮から兵を分けて河州を落とし、吐蕃宣慰使何鎖南普らが印を納めて降る":"｜鄧《とう》｜愈《ゆ》が臨洮から兵を分けて河州を落とし、｜吐蕃《とばん》宣慰使何鎖南普らが印を納めて降る","洪武三年五月辛亥":"｜洪武《こうぶ》三年五月｜辛亥《しんがい》","蘭州":"｜蘭州《らんしゅう》","蘭州市":"｜蘭州《らんしゅう》市","徐達が臨洮を取ったあと兵を分けて蘭州を落とす。十二月に拡廓帖木児が攻めて指揮于光が戦死したが、城は落ちなかった":"徐達が臨洮を取ったあと兵を分けて｜蘭州《らんしゅう》を落とす。十二月に｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が攻めて指揮于光が戦死したが、城は落ちなかった","洪武二年四月ごろ":"｜洪武《こうぶ》二年四月ごろ","寧夏（中興）":"｜寧夏《ねいか》（｜中興《ちゅうこう》）","寧夏":"｜寧夏《ねいか》","甘粛行省の路。紅巾はまだ来ていない":"｜甘粛《かんしゅく》行省の路。紅巾はまだ来ていない","太原を追われて甘粛へ走った拡廓帖木児が寧夏にいて、逃げてきた張思道（張良弼）を捕える":"｜太原《たいげん》を追われて｜甘粛《かんしゅく》へ走った｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が｜寧夏《ねいか》にいて、逃げてきた張思道（張良弼）を捕える","拡廓帖木児は1368年十二月に太原を徐達に落とされて甘粛へ走っていた":"｜拡廓帖木児《かくかくてむる》は1368年十二月に｜太原《たいげん》を徐達に落とされて｜甘粛《かんしゅく》へ走っていた","定西で拡廓帖木児を破ったあと、湯和が寧夏を平定する。明は寧夏府を置く":"定西で｜拡廓帖木児《かくかくてむる》を破ったあと、湯和が｜寧夏《ねいか》を平定する。明は｜寧夏《ねいか》府を置く","洪武三年":"｜洪武《こうぶ》三年","西涼（永昌）":"｜西涼《せいりょう》（｜永昌《えいしょう》）","西涼":"｜西涼《せいりょう》","武威市":"｜武威《ぶい》市","甘粛行省の永昌路の州。1353年に永昌で愚魯罷らが乱を起こしたが元が討ち平げた":"｜甘粛《かんしゅく》行省の｜永昌《えいしょう》路の州。1353年に｜永昌《えいしょう》で愚魯罷らが乱を起こしたが元が討ち平げた","明が涼州土衛を置く（1376年十月に涼州衛）":"明が｜涼州《りょうしゅう》土衛を置く（1376年十月に｜涼州《りょうしゅう》衛）","洪武七年十月":"｜洪武《こうぶ》七年十月","甘州":"｜甘州《かんしゅう》","甘粛行省の治所。紅巾はまだ来ていない":"｜甘粛《かんしゅく》行省の治所。紅巾はまだ来ていない","1372年に元将上都驢が馮勝に降り十一月に甘粛衛を置いたが、馮勝は軍を引き上げ、甘州左衛は1390年まで置かれない。実際に保ったかは疑わしいので名目上の帰属として描く":"1372年に元将｜上都《じょうと》驢が｜馮《ふう》勝に降り十一月に｜甘粛《かんしゅく》衛を置いたが、｜馮《ふう》勝は軍を引き上げ、｜甘州《かんしゅう》左衛は1390年まで置かれない。実際に保ったかは疑わしいので名目上の帰属として描く","粛州":"｜粛州《しゅくしゅう》","沙州":"｜沙州《さしゅう》","敦煌市":"｜敦煌《とんこう》市","甘粛行省の路。1352年に宋の皇族の子孫趙完普がここへ移された":"｜甘粛《かんしゅく》行省の路。1352年に宋の皇族の子孫趙完普がここへ移された","済南":"｜済南《さいなん》","済南市":"｜済南《さいなん》市","元の済南路。紅巾はまだ来ていない。1357年に毛貴の兵が南山から攻めたが、董搏霄が守り抜いた":"元の｜済南《さいなん》路。紅巾はまだ来ていない。1357年に毛貴の兵が南山から攻めたが、董搏霄が守り抜いた","毛貴が済南路を陥れ、守将の愛迪が戦死する":"毛貴が｜済南《さいなん》路を陥れ、守将の愛迪が戦死する","至正十八年二月癸酉":"｜至正《しせい》十八年二月｜癸酉《きゆう》","察罕帖木児が済南を下す":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜済南《さいなん》を下す","至正二十一年十月":"｜至正《しせい》二十一年十月","察罕帖木児が田豊・王士誠に刺殺され、子の拡廓帖木児が総兵官としてその軍と山東の城を継ぐ":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が田豊・王士誠に刺殺され、子の｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が｜総兵《そうへい》官としてその軍と｜山東《さんとう》の城を継ぐ","徐達が済南に至り、平章の達多爾済らが城ごと降る":"徐達が｜済南《さいなん》に至り、平章の達多爾済らが城ごと降る","至正二十七年十二月":"｜至正《しせい》二十七年十二月","日は続資治通鑑が庚戌、明史太祖本紀が己酉で1日ずれる":"日は続｜資治通鑑《しじつがん》が庚戌、｜明史《みんし》｜太祖本紀《たいそほんぎ》が己酉で1日ずれる","青州市":"｜青州《せいしゅう》市","毛貴が益都路を陥れ、益王買奴が逃れる":"毛貴が益都路を陥れ、｜益王《えきおう》買奴が逃れる","至正十七年三月甲午":"｜至正《しせい》十七年三月甲午","1359年に趙均用が毛貴を殺し、同じ年に毛貴の党の続継祖が遼陽から益都に入って趙均用を殺した。宋の内部の争いで、益都は紅巾の手に残った。1361年に田豊・王士誠が察罕帖木児に降ったあとも益都は降らず、察罕帖木児に包囲された":"1359年に趙均用が毛貴を殺し、同じ年に毛貴の党の続継祖が｜遼陽《りょうよう》から益都に入って趙均用を殺した。宋の内部の争いで、益都は紅巾の手に残った。1361年に田豊・王士誠が｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》に降ったあとも益都は降らず、｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》に包囲された","察罕帖木児を刺殺して益都に入った田豊・王士誠を、拡廓帖木児が地道から攻め落として誅する":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》を刺殺して益都に入った田豊・王士誠を、｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が地道から攻め落として誅する","至正二十二年十一月乙巳":"｜至正《しせい》二十二年十一月乙巳","翌1363年、拡廓帖木児は河南へ帰り、鎖住に益都を守らせた":"翌1363年、｜拡廓帖木児《かくかくてむる》は｜河南《かなん》へ帰り、鎖住に益都を守らせた","至正二十七年十一月辛丑":"｜至正《しせい》二十七年十一月辛丑","田豊が東平路を陥れる。以後、田豊は東平に拠り宋の丞相を称する":"田豊が東平路を陥れる。以後、田豊は東平に拠り宋の｜丞相《じょうしょう》を称する","至正十八年正月丙寅":"｜至正《しせい》十八年正月｜丙寅《へいいん》","察罕帖木児が東平を突き、田豊・王士誠が降る":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が東平を突き、田豊・王士誠が降る","至正二十七年十二月丁未":"｜至正《しせい》二十七年十二月丁未","聊城市":"｜聊城《りょうじょう》市","元の東昌路。紅巾はまだ来ていない。1357年には太尉紐的該が諸軍を率いてここを守り、田豊を撃退した":"元の東昌路。紅巾はまだ来ていない。1357年には｜太尉《たいい》紐的該が諸軍を率いてここを守り、田豊を撃退した","至正十八年二月戊子":"｜至正《しせい》十八年二月戊子","察罕帖木児が東昌を平らげ、東昌の楊誠が降る":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が東昌を平らげ、東昌の楊誠が降る","拡廓帖木児が朝廷と争って官を削られ、その弟の脱因帖木児は山東から兵を引いて西へ去る。山東の諸軍は右丞相也速が統べる":"｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が朝廷と争って官を削られ、その弟の脱因帖木児は｜山東《さんとう》から兵を引いて西へ去る。｜山東《さんとう》の諸軍は右｜丞相《じょうしょう》也速が統べる","1367年の歳末、山東で元の手に残った城のひとつ。守将は申栄・王輔元":"1367年の歳末、｜山東《さんとう》で元の手に残った城のひとつ。守将は申栄・王輔元","常遇春が東昌を攻め落とし、守将の申栄・王輔元が死ぬ。これで山東が平定される":"常｜遇春《ぐうしゅん》が東昌を攻め落とし、守将の申栄・王輔元が死ぬ。これで｜山東《さんとう》が平定される","洪武元年二月癸丑":"｜洪武《こうぶ》元年二月｜癸丑《きちゅう》","至正十八年二月壬午":"｜至正《しせい》十八年二月壬午","田豊・王士誠が察罕帖木児に降り、東平・済寧が元に復する":"田豊・王士誠が｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》に降り、東平・済寧が元に復する","1366年には拡廓帖木児が弟の脱因帖木児らを済寧・鄒県に駐屯させていた":"1366年には｜拡廓帖木児《かくかくてむる》が弟の脱因帖木児らを済寧・鄒県に駐屯させていた","曹州":"｜曹州《そうしゅう》","元の曹州。紅巾はまだ来ていない":"元の｜曹州《そうしゅう》。紅巾はまだ来ていない","帰徳府の林茂・時公権が背いて紅巾に降り、帰徳と曹州が陥ちる":"｜帰徳《きとく》府の林茂・時公権が背いて紅巾に降り、｜帰徳《きとく》と｜曹州《そうしゅう》が陥ちる","孛羅帖木児が諸軍を率いて曹州を取り返す":"｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が諸軍を率いて｜曹州《そうしゅう》を取り返す","至正十八年十月":"｜至正《しせい》十八年十月","明が曹州を治める（洪武元年に済陰県を州に併せる）":"明が｜曹州《そうしゅう》を治める（｜洪武《こうぶ》元年に｜済陰《さいいん》県を州に併せる）","至正十七年（七月以前）":"｜至正《しせい》十七年（七月以前）","察罕帖木児が山東を平定し、済南が下って東の海辺までの郡邑が款を送る":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が｜山東《さんとう》を平定し、｜済南《さいなん》が下って東の海辺までの郡邑が款を送る","徐達が益都を発して長山に至り、般陽路総管の李至らが降る":"徐達が益都を発して長山に至り、般陽路｜総管《そうかん》の李至らが降る","莱州":"｜莱州《らいしゅう》","莱州市":"｜莱州《らいしゅう》市","元の莱州。紅巾はまだ来ていない":"元の｜莱州《らいしゅう》。紅巾はまだ来ていない","毛貴が莱州を陥れ、山東宣慰副使の釈嘉納が死ぬ":"毛貴が｜莱州《らいしゅう》を陥れ、｜山東《さんとう》宣慰｜副使《ふくし》の釈嘉納が死ぬ","至正十七年三月庚辰":"｜至正《しせい》十七年三月庚辰","翌1358年、毛貴は莱州に三百六十の屯田を立てた":"翌1358年、毛貴は｜莱州《らいしゅう》に三百六十の｜屯田《とんでん》を立てた","察罕帖木児が益都の兵を破り、東の海辺までの郡邑が款を送る":"｜察罕帖木児《ちゃがんてむる》が益都の兵を破り、東の海辺までの郡邑が款を送る","莱州の守将安然が呉（朱元璋）に降る":"｜莱州《らいしゅう》の守将安然が呉（｜朱元璋《しゅげんしょう》）に降る","日は続資治通鑑が己巳、元史が己酉":"日は続｜資治通鑑《しじつがん》が｜己巳《きし》、｜元史《げんし》が己酉","この年三月、登州に山東元帥分府が置かれる":"この年三月、登州に｜山東《さんとう》元帥分府が置かれる","毛貴が膠州・莱州・益都を陥れ、山東の郡邑がことごとく陥ちる":"毛貴が膠州・｜莱州《らいしゅう》・益都を陥れ、｜山東《さんとう》の郡邑がことごとく陥ちる","徐達が益都から登州・莱州の州県を取りに進み、登州の守将董車が降る":"徐達が益都から登州・｜莱州《らいしゅう》の州県を取りに進み、登州の守将董車が降る","至正二十七年十二月己巳":"｜至正《しせい》二十七年十二月｜己巳《きし》","元の沂州。紅巾はまだ来ていない。1356年に河南廉訪司が移され、分枢密院が置かれた。のち元の義兵都元帥王宣・王信父子が拠った":"元の沂州。紅巾はまだ来ていない。1356年に｜河南《かなん》廉訪司が移され、分｜枢密院《すうみついん》が置かれた。のち元の義兵｜都元帥《とげんすい》王宣・｜王信《おうしん》父子が拠った","降るふりをして守りを固めた王宣を徐達が攻め、王宣は西門を開いて降り、のち殺される。子の王信は山西へ逃れる":"降るふりをして守りを固めた王宣を徐達が攻め、王宣は西門を開いて降り、のち殺される。子の｜王信《おうしん》は｜山西《さんせい》へ逃れる","至正二十七年十一月壬午":"｜至正《しせい》二十七年十一月壬午","重慶":"｜重慶《じゅうけい》","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","四川南道宣慰司の重慶路。紅巾はまだ来ていない":"｜四川《しせん》南道宣慰司の｜重慶《じゅうけい》路。紅巾はまだ来ていない","天完の将明玉珍が峡江を遡って重慶を襲い、元の右丞完者都を走らせて拠る":"｜天完《てんかん》の将｜明玉珍《めいぎょくちん》が峡江を遡って｜重慶《じゅうけい》を襲い、元の右丞完者都を走らせて拠る","至正十七年十二月":"｜至正《しせい》十七年十二月","陳友諒が徐寿輝を殺して漢を建てると、明玉珍は従わず瞿塘を塞いで自立し隴蜀王を称する（天完から漢へは移らない）":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》が｜徐寿輝《じょじゅき》を殺して漢を建てると、｜明玉珍《めいぎょくちん》は従わず｜瞿塘《くとう》を塞いで自立し｜隴《ろう》｜蜀王《しょくおう》を称する（｜天完《てんかん》から漢へは移らない）","明玉珍が重慶で皇帝を称し国号を夏とする":"｜明玉珍《めいぎょくちん》が｜重慶《じゅうけい》で皇帝を称し国号を夏とする","至正二十二年三月":"｜至正《しせい》二十二年三月","湯和・廖永忠の水軍が重慶に至り、明昇が降る。夏が滅ぶ":"湯和・｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》の水軍が｜重慶《じゅうけい》に至り、｜明昇《めいしょう》が降る。夏が滅ぶ","洪武四年六月癸卯":"｜洪武《こうぶ》四年六月癸卯","成都":"｜成都《せいと》","成都市":"｜成都《せいと》市","四川行省の治所。紅巾はまだ来ていない":"｜四川《しせん》行省の治所。紅巾はまだ来ていない","明玉珍の将万勝（明二）が嘉定を囲む間に軽兵で成都を襲って陥れる":"｜明玉珍《めいぎょくちん》の将万勝（明二）が｜嘉定《かてい》を囲む間に軽兵で｜成都《せいと》を襲って陥れる","至正十八〜十九年":"｜至正《しせい》十八〜十九年","傅友德が成都を下し、戴寿・向大亨が降る":"傅友德が｜成都《せいと》を下し、戴寿・向｜大亨《たいこう》が降る","洪武四年七月辛酉":"｜洪武《こうぶ》四年七月辛酉","嘉定":"｜嘉定《かてい》","元の嘉定府路。紅巾はまだ来ていない":"元の｜嘉定《かてい》府路。紅巾はまだ来ていない","明玉珍の兵が嘉定を陥れ、完者都・朗革歹・趙資を捕らえる（半年の攻囲の末）":"｜明玉珍《めいぎょくちん》の兵が｜嘉定《かてい》を陥れ、完者都・朗革歹・趙資を捕らえる（半年の攻囲の末）","至正十九年二月":"｜至正《しせい》十九年二月","成都の降伏後、明が川蜀の郡県を平定する":"｜成都《せいと》の降伏後、明が川蜀の｜郡県《ぐんけん》を平定する","四川南道宣慰司の夔州路。紅巾はまだ来ていない":"｜四川《しせん》南道宣慰司の夔州路。紅巾はまだ来ていない","明玉珍が天完の将として夔を経て峡江を遡り重慶を取る":"｜明玉珍《めいぎょくちん》が｜天完《てんかん》の将として夔を経て峡江を遡り｜重慶《じゅうけい》を取る","明玉珍が陳友諒に従わず、兵で瞿塘（夔関）を塞いで漢との通交を絶ち、隴蜀王として自立する":"｜明玉珍《めいぎょくちん》が｜陳友諒《ちんゆうりょう》に従わず、兵で｜瞿塘《くとう》（夔関）を塞いで漢との通交を絶ち、｜隴《ろう》｜蜀王《しょくおう》として自立する","廖永忠が瞿塘関の鉄索と飛橋を焼き破って夔州に入る":"｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》が｜瞿塘《くとう》関の鉄索と飛橋を焼き破って夔州に入る","洪武四年六月辛卯":"｜洪武《こうぶ》四年六月｜辛卯《しんぼう》","保寧（閬中）":"｜保寧《ほねい》（閬中）","保寧":"｜保寧《ほねい》","広元路の保寧。紅巾はまだ来ていない":"広元路の｜保寧《ほねい》。紅巾はまだ来ていない","明玉珍が兵を分けて龍州・青川を寇し、興元・鞏昌を犯す（川北を押さえている）。1365年には吳友仁が保寧に鎮した":"｜明玉珍《めいぎょくちん》が兵を分けて龍州・青川を寇し、｜興元《こうげん》・鞏昌を犯す（｜川北《せんぽく》を押さえている）。1365年には吳｜友仁《ゆうじん》が｜保寧《ほねい》に鎮した","明軍が保寧を落とし、吳友仁を捕らえる":"｜明軍《みんぐん》が｜保寧《ほねい》を落とし、吳｜友仁《ゆうじん》を捕らえる","嘉定・成都の陥落の後、蜀の郡県が相次いで明玉珍に付く":"｜嘉定《かてい》・｜成都《せいと》の陥落の後、蜀の｜郡県《ぐんけん》が相次いで｜明玉珍《めいぎょくちん》に付く","至正十九年ごろ":"｜至正《しせい》十九年ごろ","明が川蜀の郡県を平定する":"明が川蜀の｜郡県《ぐんけん》を平定する","明玉珍が兵を分けて龍州・青川を寇し、興元を犯す。1365年には万勝が興元を下しており、広元はその背後にあたる":"｜明玉珍《めいぎょくちん》が兵を分けて龍州・青川を寇し、｜興元《こうげん》を犯す。1365年には万勝が｜興元《こうげん》を下しており、広元はその背後にあたる","重慶路の瀘州。紅巾はまだ来ていない":"｜重慶《じゅうけい》路の瀘州。紅巾はまだ来ていない","明玉珍の軍が瀘州を通り、劉楨を参謀に迎える。蜀の郡県が相次いで付く":"｜明玉珍《めいぎょくちん》の軍が瀘州を通り、｜劉《りゅう》｜楨《てい》を参謀に迎える。蜀の｜郡県《ぐんけん》が相次いで付く","雅州":"｜雅州《がしゅう》","吐蕃宣慰司に属する雅州。紅巾はまだ来ていない":"｜吐蕃《とばん》宣慰司に属する｜雅州《がしゅう》。紅巾はまだ来ていない","嘉定・成都の陥落の後、蜀の郡県が相次いで明玉珍に付く（夏は雅州の栄経を厳道県に併せている）":"｜嘉定《かてい》・｜成都《せいと》の陥落の後、蜀の｜郡県《ぐんけん》が相次いで｜明玉珍《めいぎょくちん》に付く（夏は｜雅州《がしゅう》の栄経を厳道県に併せている）","明が川蜀の郡県を平定し、雅州を布政司の直隷とする":"明が川蜀の｜郡県《ぐんけん》を平定し、｜雅州《がしゅう》を布政司の｜直隷《ちょくれい》とする","播州":"｜播州《はしゅう》","播州楊氏":"｜播州《はしゅう》｜楊氏《ようし》","楊氏が世襲する播州宣慰司で、元に名目上服属する":"｜楊氏《ようし》が世襲する｜播州《はしゅう》宣慰司で、元に名目上服属する","新元史の明玉珍伝: 至正二十三年、播州の楊元晶は拒んだ末に夏の大軍が境に臨んで降った":"｜新元史《しんげんし》の｜明玉珍《めいぎょくちん》伝: ｜至正《しせい》｜二十三《にじゅうさん》年、｜播州《はしゅう》の楊元晶は拒んだ末に夏の大軍が境に臨んで降った","播州宣慰使楊鏗らが元の印を納めて明に帰順し、旧職のまま宣慰司とされる":"｜播州《はしゅう》宣慰使楊鏗らが元の印を納めて明に帰順し、旧職のまま宣慰司とされる","洪武五年":"｜洪武《こうぶ》五年","順元（貴州）":"順元（｜貴州《きしゅう》）","貴陽市":"｜貴陽《きよう》市","順元の土官（靄翠・宋氏）":"順元の土官（靄翠・｜宋氏《そうし》）","貴州宣慰靄翠と宋蒙古歹が明に帰順し、旧官のまま世襲を許される":"｜貴州《きしゅう》宣慰靄翠と宋｜蒙古《もうこ》歹が明に帰順し、旧官のまま世襲を許される","雲南征討の後、貴州宣慰司の城に明の貴州都指揮使司が置かれる（土官の宣慰司は残る）":"｜雲南《うんなん》征討の後、｜貴州《きしゅう》宣慰司の城に明の｜貴州《きしゅう》｜都指揮《としき》使司が置かれる（土官の宣慰司は残る）","洪武十五年正月":"｜洪武《こうぶ》十五年正月","中慶（昆明）":"中慶（｜昆明《こんめい》）","昆明市":"｜昆明《こんめい》市","梁王":"｜梁王《りょうおう》","梁王把匝剌瓦爾密が鎮する雲南行省の治所":"｜梁王《りょうおう》把匝剌瓦爾密が鎮する｜雲南《うんなん》行省の治所","恵宗の死で北元に移る。梁王は雲南で元に臣節を守り続ける":"｜恵宗《けいそう》の死で｜北元《ほくげん》に移る。｜梁王《りょうおう》は｜雲南《うんなん》で元に臣節を守り続ける","梁王が前年十二月壬申に普寧で自殺し、中慶・澄江・武定諸路が明に降る":"｜梁王《りょうおう》が前年十二月壬申に普寧で自殺し、中慶・澄江・｜武定《ぶてい》｜諸路《しょろ》が明に降る","洪武十五年正月壬午":"｜洪武《こうぶ》十五年正月壬午","梁王の雲南の東の入口":"｜梁王《りょうおう》の｜雲南《うんなん》の東の入口","洪武十四年十二月戊辰":"｜洪武《こうぶ》十四年十二月｜戊辰《ぼしん》","臨安":"｜臨安《りんあん》","梁王の下の臨安路。元の右丞・元帥が守る":"｜梁王《りょうおう》の下の｜臨安《りんあん》路。元の右丞・元帥が守る","金朝興の別軍が臨安を取り、元の右丞兀卜台・元帥完者都・土官楊政が降る。路を府とする":"金朝興の別軍が｜臨安《りんあん》を取り、元の右丞兀卜台・元帥完者都・土官楊政が降る。路を府とする","梁王の下の威楚路。夏の侵攻の時、梁王はここへ逃れた":"｜梁王《りょうおう》の下の威楚路。夏の侵攻の時、｜梁王《りょうおう》はここへ逃れた","洪武十五年正月辛巳":"｜洪武《こうぶ》十五年正月辛巳","大理段氏":"大理｜段氏《だんし》","段氏が世襲して治め、元（梁王）に名目上服属する":"｜段氏《だんし》が世襲して治め、元（｜梁王《りょうおう》）に名目上服属する","藍玉・沐英が下関を破って大理を落とし、段世を捕らえる":"｜藍玉《らんぎょく》・沐英が下関を破って大理を落とし、段世を捕らえる","洪武十五年閏二月癸卯":"｜洪武《こうぶ》十五年閏二月癸卯","大理を落とした明軍が兵を分けて鶴慶・麗江・金歯を下す":"大理を落とした｜明軍《みんぐん》が兵を分けて鶴慶・麗江・金歯を下す","洪武十五年閏二月":"｜洪武《こうぶ》十五年閏二月","永昌":"｜永昌《えいしょう》","大理路の永昌府で、元の雲南右丞観音保が守っていた":"大理路の｜永昌《えいしょう》府で、元の｜雲南《うんなん》右丞観音保が守っていた","明軍が金歯を下し、元の右丞観音保を金歯指揮使とする":"｜明軍《みんぐん》が金歯を下し、元の右丞観音保を金歯｜指揮使《しきし》とする","杭州":"｜杭州《こうしゅう》","杭州市":"｜杭州《こうしゅう》市","江浙行省の治所。1352年七月に天完の項普略が昱嶺関から入って杭州を陥れたが、同じ年のうちに董摶霄が取り返したので年末は元。1356年七月にも張士誠の弟張士徳が一時陥れたが、楊完者らがその年のうちに取り返した":"江浙行省の治所。1352年七月に｜天完《てんかん》の項普略が昱嶺関から入って｜杭州《こうしゅう》を陥れたが、同じ年のうちに董摶霄が取り返したので年末は元。1356年七月にも張｜士誠《しせい》の弟張士徳が一時陥れたが、楊完者らがその年のうちに取り返した","江浙丞相達識帖睦邇が張士誠と結んで楊完者を滅ぼし、以後杭州は張士誠の制するところとなる（張士誠は元に名目上降っていた）":"江浙｜丞相《じょうしょう》達識帖睦邇が張｜士誠《しせい》と結んで楊完者を滅ぼし、以後｜杭州《こうしゅう》は張｜士誠《しせい》の制するところとなる（張｜士誠《しせい》は元に名目上降っていた）","張士誠の守将潘原明が李文忠に降る":"張｜士誠《しせい》の守将潘原明が李文忠に降る","紹興":"｜紹興《しょうこう》","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","方国珍の乱に近い元の路。1356年に江南行台が移る":"｜方国珍《ほうこくちん》の乱に近い元の路。1356年に｜江南《こうなん》｜行台《こうだい》が移る","邁里古思が殺されたあと、張士誠が呂珍を送って紹興を守らせる":"邁里古思が殺されたあと、張｜士誠《しせい》が呂珍を送って｜紹興《しょうこう》を守らせる","張士誠の同僉李思忠らが紹興路をもって朱元璋に降る":"張｜士誠《しせい》の同僉李思忠らが｜紹興《しょうこう》路をもって｜朱元璋《しゅげんしょう》に降る","紹興路の州":"｜紹興《しょうこう》路の州","張士誠の兵が紹興とともに諸暨に拠る":"張｜士誠《しせい》の兵が｜紹興《しょうこう》とともに諸暨に拠る","守将謝再興が諸全をもって叛き、張士誠に付く":"守将謝再興が諸全をもって叛き、張｜士誠《しせい》に付く","至正二十三年四月":"｜至正《しせい》｜二十三《にじゅうさん》年四月","杭州・紹興の降伏とともに朱元璋に帰し、十二月に諸暨県に改められる":"｜杭州《こうしゅう》・｜紹興《しょうこう》の降伏とともに｜朱元璋《しゅげんしょう》に帰し、十二月に諸暨県に改められる","至正二十六年十一月〜十二月":"｜至正《しせい》二十六年十一月〜十二月","慶元":"｜慶元《けいげん》","方国珍は海上で背いていたが、慶元の城は元の孛羅帖木児が軍を率いて入っていた":"｜方国珍《ほうこくちん》は海上で背いていたが、｜慶元《けいげん》の城は元の｜孛羅帖木児《ボロト・テムル》が軍を率いて入っていた","方国珍が再び元に降って海道漕運万戸を受け、慶元・温州・台州を握る":"｜方国珍《ほうこくちん》が再び元に降って海道漕運万戸を受け、｜慶元《けいげん》・温州・｜台州《たいしゅう》を握る","方国珍は1356年に元の海道漕運万戸を受け、以後も元の官（江浙行省左丞相など）を重ねて受け、1359年には朱元璋にも三路の献上を申し出たが、実際は自分で治め続けた":"｜方国珍《ほうこくちん》は1356年に元の海道漕運万戸を受け、以後も元の官（江浙行省左｜丞相《じょうしょう》など）を重ねて受け、1359年には｜朱元璋《しゅげんしょう》にも三路の献上を申し出たが、実際は自分で治め続けた","湯和が慶元を取り、方国珍は海へ逃れる（十二月に降る）":"湯和が｜慶元《けいげん》を取り、｜方国珍《ほうこくちん》は海へ逃れる（十二月に降る）","台州":"｜台州《たいしゅう》","方国珍は海上にいた。1352年八月に方国珍が台州城を攻めたが元の将に撃退された":"｜方国珍《ほうこくちん》は海上にいた。1352年八月に｜方国珍《ほうこくちん》が｜台州《たいしゅう》城を攻めたが元の将に撃退された","方国珍が徽州路治中の命を受けずに台州を陥れ、黄岩の元帥・達魯花赤らを捕える":"｜方国珍《ほうこくちん》が徽州路治中の命を受けずに｜台州《たいしゅう》を陥れ、黄岩の元帥・達魯花赤らを捕える","朱亮祖が台州を取り、方国瑛は黄岩へ逃れる":"朱亮祖が｜台州《たいしゅう》を取り、方国瑛は黄岩へ逃れる","方国珍は1350年十二月に温州を攻めたが、元が守った":"｜方国珍《ほうこくちん》は1350年十二月に温州を攻めたが、元が守った","方国珍が元の官を受け、慶元・温州・台州を握る":"｜方国珍《ほうこくちん》が元の官を受け、｜慶元《けいげん》・温州・｜台州《たいしゅう》を握る","方国珍は1356年に元の海道漕運万戸を受け、以後も元の官（江浙行省左丞相など）を重ねて受け、1359年には朱元璋にも三路の献上を申し出たが、実際は自分で治め続けた。1364年に朱元璋の胡深が平陽・瑞安を取って温州に迫ったが、方明善が歳貢を約して退かせた":"｜方国珍《ほうこくちん》は1356年に元の海道漕運万戸を受け、以後も元の官（江浙行省左｜丞相《じょうしょう》など）を重ねて受け、1359年には｜朱元璋《しゅげんしょう》にも三路の献上を申し出たが、実際は自分で治め続けた。1364年に｜朱元璋《しゅげんしょう》の胡深が｜平陽《へいよう》・｜瑞安《ずいあん》を取って温州に迫ったが、方明善が歳貢を約して退かせた","元の石抹厚孫が守る（1356年の明史太祖本紀の記事に名が見える）":"元の石抹厚孫が守る（1356年の｜明史《みんし》｜太祖本紀《たいそほんぎ》の記事に名が見える）","朱元璋が自ら攻めて婺州を降し、寧越府とする":"｜朱元璋《しゅげんしょう》が自ら攻めて婺州を降し、寧越府とする","至正十八年十二月":"｜至正《しせい》十八年十二月","元の宋伯顔不花が守る。1359年三月に陳友諒の兵が信州から衢州を略したが城は取っていない":"元の宋｜伯顔《ばやん》不花が守る。1359年三月に｜陳友諒《ちんゆうりょう》の兵が信州から衢州を略したが城は取っていない","常遇春が衢州を取り、宋伯顔不花を捕える":"常｜遇春《ぐうしゅん》が衢州を取り、宋｜伯顔《ばやん》不花を捕える","至正十九年十一月":"｜至正《しせい》十九年十一月","建徳（厳州）":"｜建徳《けんとく》（厳州）","建徳":"｜建徳《けんとく》","建徳市":"｜建徳《けんとく》市","鄧愈・李文忠・胡大海が建徳を取り、厳州府と改める":"｜鄧《とう》｜愈《ゆ》・李文忠・胡大海が｜建徳《けんとく》を取り、厳州府と改める","至正十八年三月":"｜至正《しせい》十八年三月","福州":"｜福州《ふくしゅう》","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","福建宣慰司（1356年から福建行省）の治所。1362年五月に泉州の亦思巴奚の賽甫丁が福州路に入ったが、平章燕只不花に敗れて泉州へ戻った":"｜福建《ふっけん》宣慰司（1356年から｜福建《ふっけん》行省）の治所。1362年五月に｜泉州《せんしゅう》の亦思巴奚の賽甫丁が｜福州《ふくしゅう》路に入ったが、平章燕只不花に敗れて｜泉州《せんしゅう》へ戻った","陳友定が福建行省平章となり、福建八郡を握る（元に属したまま）":"陳友定が｜福建《ふっけん》行省平章となり、｜福建《ふっけん》八郡を握る（元に属したまま）","至正二十六年八月":"｜至正《しせい》二十六年八月","湯和・廖永忠が海路から福州を取る":"湯和・｜廖《りょう》｜永忠《えいちゅう》が海路から｜福州《ふくしゅう》を取る","1362年ごろ泉州の亦思巴奚の阿迷里丁が興化を襲って三旦八を捕えたが、掠めて引き返した。その後も土地の豪族と亦思巴奚が争って乱れた":"1362年ごろ｜泉州《せんしゅう》の亦思巴奚の阿迷里丁が興化を襲って三旦八を捕えたが、掠めて引き返した。その後も土地の豪族と亦思巴奚が争って乱れた","陳友定の子陳宗海が亦思巴奚の兵を破り、興化・泉州が陳友定の下に入る":"陳友定の子陳宗海が亦思巴奚の兵を破り、興化・｜泉州《せんしゅう》が陳友定の下に入る","泉州":"｜泉州《せんしゅう》","泉州市":"｜泉州《せんしゅう》市","義兵万戸の賽甫丁・阿迷里丁（西域人の兵）が泉州に拠って叛く":"義兵万戸の賽甫丁・阿迷里丁（西域人の兵）が｜泉州《せんしゅう》に拠って叛く","陳友定が泉州を攻め、州人が阿巫那・賽甫丁を捕えて降る":"陳友定が｜泉州《せんしゅう》を攻め、州人が阿巫那・賽甫丁を捕えて降る","陳友定が捕えられ、泉州が明に降る":"陳友定が捕えられ、｜泉州《せんしゅう》が明に降る","漳州":"｜漳州《しょうしゅう》","漳州市":"｜漳州《しょうしゅう》市","陳友定が羅良を攻め滅ぼして漳州を取る":"陳友定が羅良を攻め滅ぼして｜漳州《しょうしゅう》を取る","漳州が明に降り、達魯花赤迭里弥実は自刃する":"｜漳州《しょうしゅう》が明に降り、達魯花赤迭里弥実は自刃する","汀州":"｜汀州《ていしゅう》","陳友諒（天完の将）の兵が汀州路を陥れる":"｜陳友諒《ちんゆうりょう》（｜天完《てんかん》の将）の兵が｜汀州《ていしゅう》路を陥れる","至正十八年十一月":"｜至正《しせい》十八年十一月","福建行省参政陳友定が汀州路を取り返す":"｜福建《ふっけん》行省参政陳友定が｜汀州《ていしゅう》路を取り返す","至正二十二年五月":"｜至正《しせい》二十二年五月","汀州路総管陳谷珍が城をもって明に降る":"｜汀州《ていしゅう》路｜総管《そうかん》陳谷珍が城をもって明に降る","延平":"｜延平《えんぺい》","〜1361年に陳友諒の将鄧克明らが攻め入り、新元史は延平が一時陥ちたと書くが、その年のうちに取り返している":"〜1361年に｜陳友諒《ちんゆうりょう》の将鄧克明らが攻め入り、｜新元史《しんげんし》は｜延平《えんぺい》が一時陥ちたと書くが、その年のうちに取り返している","延平に分省が置かれて陳友定が平章となり、福建八郡を握る":"｜延平《えんぺい》に分省が置かれて陳友定が平章となり、｜福建《ふっけん》八郡を握る","湯和が延平を取り、陳友定を捕える":"湯和が｜延平《えんぺい》を取り、陳友定を捕える","洪武元年正月":"｜洪武《こうぶ》元年正月","建寧":"｜建寧《けんねい》","〜1361年に陳友諒の将鄧克明らに何度も囲まれたが落ちなかった。1365年には朱元璋の胡深がここで敗れて捕えられた":"〜1361年に｜陳友諒《ちんゆうりょう》の将鄧克明らに何度も囲まれたが落ちなかった。1365年には｜朱元璋《しゅげんしょう》の胡深がここで敗れて捕えられた","陳友定が福建八郡を握る":"陳友定が｜福建《ふっけん》八郡を握る","胡廷瑞が建寧を取る":"胡廷瑞が｜建寧《けんねい》を取る","1352年に江西の賊涂佑らが邵武路を陥れたが、同じ年に取り返された。1358年以後、陳友諒の将鄧克明らが攻め入った":"1352年に｜江西《こうせい》の賊涂佑らが邵武路を陥れたが、同じ年に取り返された。1358年以後、｜陳友諒《ちんゆうりょう》の将鄧克明らが攻め入った","鄱陽湖の戦い":"｜鄱陽湖《はようこ》の戦い","至正二十三年七月":"｜至正《しせい》｜二十三《にじゅうさん》年七月","朱元璋 対 漢（陳友諒）":"｜朱元璋《しゅげんしょう》 対 漢（｜陳友諒《ちんゆうりょう》）","朱元璋が火攻めで陳友諒の大船団を破った。翌月、逃れようとした陳友諒は流れ矢に当たって死んだ":"｜朱元璋《しゅげんしょう》が火攻めで｜陳友諒《ちんゆうりょう》の大船団を破った。翌月、逃れようとした｜陳友諒《ちんゆうりょう》は流れ矢に当たって死んだ","康郎山（鄱陽湖）":"｜康郎山《こうろうざん》（｜鄱陽湖《はようこ》）","江西省余干県の康山":"｜江西《こうせい》省余干県の康山","両軍は鄱陽湖の康郎山で出会った。康郎山は余干の北西、鄱陽湖の南の岸にある（明史 地理志）":"両軍は｜鄱陽湖《はようこ》の｜康郎山《こうろうざん》で出会った。｜康郎山《こうろうざん》は余干の北西、｜鄱陽湖《はようこ》の南の岸にある（｜明史《みんし》 ｜地理志《ちりし》）"}