{"明":"｜明《みん》","南明":"｜南明《なんみん》","清":"｜清《しん》","大順":"｜大順《たいじゅん》","大西":"｜大西《たいせい》","鄭氏":"｜鄭氏《ていし》","呉周":"｜呉《ご》｜周《しゅう》","福州":"｜福州《ふくしゅう》","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","福建の省治":"｜福建《ふっけん》の省治","弘光":"｜弘光《こうこう》","北京陥落の後も明の官が残り、南京の弘光帝を奉じた":"北京陥落の後も明の官が残り、｜南京《なんきん》の｜弘光帝《こうこうてい》を奉じた","隆武":"｜隆武《りゅうぶ》","弘光の滅亡ののち、福建の巡撫・鄭芝龍らが唐王を福州で監国に奉じ、同月即位（隆武）":"｜弘光《こうこう》の滅亡ののち、｜福建《ふっけん》の巡撫・｜鄭《てい》｜芝龍《しりゅう》らが｜唐王《とうおう》を｜福州《ふくしゅう》で｜監国《かんこく》に奉じ、同月即位（｜隆武《りゅうぶ》）","順治二年闰六月":"｜順治《じゅんち》二年闰六月","隆武の朝廷の所在地（福京・天興府）":"｜隆武《りゅうぶ》の朝廷の所在地（福京・｜天興《てんこう》府）","清軍が仙霞関を越えて福州（天興府）を取る":"清軍が｜仙霞関《せんかかん》を越えて｜福州《ふくしゅう》（｜天興《てんこう》府）を取る","順治三年八月":"｜順治《じゅんち》三年八月","靖南王耿精忠が福州で清に叛き、福州も耿精忠の支配下に入る":"靖南王耿精忠が｜福州《ふくしゅう》で清に叛き、｜福州《ふくしゅう》も耿精忠の支配下に入る","康熙十三年三月":"｜康熙《こうき》十三年三月","耿精忠が康親王杰書に降り、清軍が福州に入る":"耿精忠が康親王杰書に降り、清軍が｜福州《ふくしゅう》に入る","康熙十五年十月":"｜康熙《こうき》十五年十月","福寧州（州城）":"福｜寧州《ねいしゅう》（州城）","魯監国":"｜魯《ろ》｜監国《かんこく》","隆武の総兵涂登華が隆武帝の死後も福寧を守っていたが、魯監国の大学士劉中藻に攻められて鄭彩に降る":"｜隆武《りゅうぶ》の｜総兵《そうへい》涂登華が｜隆武帝《りゅうぶてい》の死後も福寧を守っていたが、｜魯《ろ》｜監国《かんこく》の｜大学士《だいがくし》劉中藻に攻められて鄭彩に降る","順治四年十月":"｜順治《じゅんち》四年十月","清軍が福建に兵を入れ、魯監国が取った府州県をほぼすべて取り返す（福寧州も失われ、残ったのは寧徳・福安の2県だけ）":"清軍が｜福建《ふっけん》に兵を入れ、｜魯《ろ》｜監国《かんこく》が取った｜府州《ふしゅう》県をほぼすべて取り返す（福｜寧州《ねいしゅう》も失われ、残ったのは寧徳・福安の2県だけ）","順治五年三月":"｜順治《じゅんち》五年三月","靖南王耿精忠が福州で清に叛き、福寧も耿精忠の配下に入る":"靖南王耿精忠が｜福州《ふくしゅう》で清に叛き、福寧も耿精忠の配下に入る","建寧":"｜建寧《けんねい》","清軍が建寧を取る":"清軍が｜建寧《けんねい》を取る","明の宗室鄖西王常潮が建寧を取り返す（魯監国の勢力）":"明の｜宗室《そうしつ》鄖西王常潮が｜建寧《けんねい》を取り返す（｜魯《ろ》｜監国《かんこく》の勢力）","順治四年四月":"｜順治《じゅんち》四年四月","清軍が建寧を攻め落とし、鄖西王常潮・王祁が死ぬ":"清軍が｜建寧《けんねい》を攻め落とし、鄖西王常潮・王祁が死ぬ","順治五年四月":"｜順治《じゅんち》五年四月","靖南王耿精忠が福州で清に叛き、建寧も耿精忠の配下に入る":"靖南王耿精忠が｜福州《ふくしゅう》で清に叛き、｜建寧《けんねい》も耿精忠の配下に入る","康親王杰書の軍が仙霞関を越え、浦城に続いて建寧を下す":"康親王杰書の軍が｜仙霞関《せんかかん》を越え、浦城に続いて｜建寧《けんねい》を下す","康熙十五年九月":"｜康熙《こうき》十五年九月","福建を攻めた清軍（李成棟ら）が邵武を定める":"｜福建《ふっけん》を攻めた清軍（｜李《り》｜成棟《せいとう》ら）が邵武を定める","順治三年":"｜順治《じゅんち》三年","清軍が魯監国の取った府州県をほぼすべて取り返す（邵武も清に戻り、重兵が置かれた）":"清軍が｜魯《ろ》｜監国《かんこく》の取った｜府州《ふしゅう》県をほぼすべて取り返す（邵武も清に戻り、｜重兵《じゅうへい》が置かれた）","靖南王耿精忠が福州で清に叛き、邵武も耿精忠の配下に入る":"靖南王耿精忠が｜福州《ふくしゅう》で清に叛き、邵武も耿精忠の配下に入る","延平":"｜延平《えんぺい》","隆武帝が延平から出奔し、清軍が延平を取る":"｜隆武帝《りゅうぶてい》が｜延平《えんぺい》から｜出奔《しゅっぽん》し、清軍が｜延平《えんぺい》を取る","靖南王耿精忠が福州で清に叛き、延平も耿精忠の配下に入る":"靖南王耿精忠が｜福州《ふくしゅう》で清に叛き、｜延平《えんぺい》も耿精忠の配下に入る","康親王杰書が延平に進み、耿精忠の将耿継美が城ごと降る":"康親王杰書が｜延平《えんぺい》に進み、耿精忠の将耿継美が城ごと降る","汀州":"｜汀州《ていしゅう》","清軍が汀州に入り、隆武帝が死ぬ":"清軍が｜汀州《ていしゅう》に入り、｜隆武帝《りゅうぶてい》が死ぬ","靖南王耿精忠が福州で清に叛き、汀州も耿精忠の配下に入る":"靖南王耿精忠が｜福州《ふくしゅう》で清に叛き、｜汀州《ていしゅう》も耿精忠の配下に入る","耿精忠が清に降る。その後、鄭経が汀州を取ったが、清軍が邵武に続いて汀州と属県を下す":"耿精忠が清に降る。その後、鄭経が｜汀州《ていしゅう》を取ったが、清軍が邵武に続いて｜汀州《ていしゅう》と属県を下す","康熙十五年":"｜康熙《こうき》十五年","順治三年十月":"｜順治《じゅんち》三年十月","靖南王耿精忠が福州で清に叛き、興化も耿精忠の支配下に入る":"靖南王耿精忠が｜福州《ふくしゅう》で清に叛き、興化も耿精忠の支配下に入る","清軍（喇哈達・賚塔）が鄭経の軍を破り興化を取り返す":"清軍（喇哈達・｜賚塔《らいとう》）が鄭経の軍を破り興化を取り返す","康熙十六年正月":"｜康熙《こうき》十六年正月","泉州":"｜泉州《せんしゅう》","泉州市":"｜泉州《せんしゅう》市","清軍が泉州に至る（鄭芝豹は安平へ退く）。十一月に鄭芝龍が降る":"清軍が｜泉州《せんしゅう》に至る（鄭芝豹は｜安平《あんぺい》へ退く）。十一月に｜鄭《てい》｜芝龍《しりゅう》が降る","順治三年九月":"｜順治《じゅんち》三年九月","耿精忠の挙兵で泉州も耿精忠の守将の手に入ったが、同じ年のうちに泉州の兵が内乱を起こし、耿精忠の守将が逃げて鄭経の軍を迎え入れる":"耿精忠の挙兵で｜泉州《せんしゅう》も耿精忠の守将の手に入ったが、同じ年のうちに｜泉州《せんしゅう》の兵が内乱を起こし、耿精忠の守将が逃げて鄭経の軍を迎え入れる","康熙十三年":"｜康熙《こうき》十三年","清軍が興化に続いて泉州を取り返す":"清軍が興化に続いて｜泉州《せんしゅう》を取り返す","康熙十六年二月":"｜康熙《こうき》十六年二月","鄭氏一族（隆武の重臣鄭芝龍の一門）の拠点":"｜鄭氏《ていし》一族（｜隆武《りゅうぶ》の重臣｜鄭《てい》｜芝龍《しりゅう》の一門）の拠点","鄭芝龍が清に降った後、鄭彩が魯監国を中左所（廈門）に迎える":"｜鄭《てい》｜芝龍《しりゅう》が清に降った後、鄭彩が｜魯《ろ》｜監国《かんこく》を中左所（廈門）に迎える","順治三年十一月":"｜順治《じゅんち》三年十一月","鄭彩が魯監国を見捨てて離れる":"鄭彩が｜魯《ろ》｜監国《かんこく》を見捨てて離れる","1649年七月に鄭彩が魯監国のもとを去り、1650年に鄭成功に取られるまで廈門・金門は鄭彩・鄭聯が自分で拠った（公開前の点検で直した）":"1649年七月に鄭彩が｜魯《ろ》｜監国《かんこく》のもとを去り、1650年に鄭成功に取られるまで廈門・金門は鄭彩・鄭聯が自分で拠った（公開前の点検で直した）","順治七年八月":"｜順治《じゅんち》七年八月","康熙二年十月に清軍は両島を取ったが、城を壊して財貨・婦女を収めて北へ引き揚げ、李率泰は島の民を内地へ移した（遷界）。1674年に鄭経が渡ってくるまで誰の城とも言えない（公開前の点検で直した）":"｜康熙《こうき》二年十月に清軍は両島を取ったが、城を壊して財貨・婦女を収めて北へ引き揚げ、李率泰は島の民を内地へ移した（遷界）。1674年に鄭経が渡ってくるまで誰の城とも言えない（公開前の点検で直した）","耿精忠の叛乱に応じて鄭経が台湾から渡り、思明（廈門）に入る":"耿精忠の｜叛乱《はんらん》に応じて鄭経が｜台湾《たいわん》から渡り、｜思明《しめい》（廈門）に入る","清軍が廈門・金門を取り、鄭経は台湾へ退く":"清軍が廈門・金門を取り、鄭経は｜台湾《たいわん》へ退く","康熙十九年":"｜康熙《こうき》十九年","漳州":"｜漳州《しょうしゅう》","漳州市":"｜漳州《しょうしゅう》市","清軍が漳州を取る":"清軍が｜漳州《しょうしゅう》を取る","清の漳州の城門の楼総劉国軒の内応で鄭成功が漳州を取り、十県がすべて下る":"清の｜漳州《しょうしゅう》の城門の楼総劉国軒の内応で鄭成功が｜漳州《しょうしゅう》を取り、十県がすべて下る","順治十一年十二月":"｜順治《じゅんち》十一年十二月","清の済度の大軍が来ると、鄭成功は漳州などの城壁を壊して兵を島へ引き揚げる。漳州には清軍が戻る":"清の済度の大軍が来ると、鄭成功は｜漳州《しょうしゅう》などの城壁を壊して兵を島へ引き揚げる。｜漳州《しょうしゅう》には清軍が戻る","順治十二年":"｜順治《じゅんち》十二年","鄭経の軍が漳州を囲み、清の海澄公黄芳度の部将呉淑が城を開いて降り、黄芳度は死ぬ":"鄭経の軍が｜漳州《しょうしゅう》を囲み、清の海澄公黄芳度の部将呉淑が城を開いて降り、黄芳度は死ぬ","康熙十四年十月":"｜康熙《こうき》十四年十月","清軍が興化・泉州を取り返し、鄭経の兵は漳州を棄てて去る":"清軍が興化・｜泉州《せんしゅう》を取り返し、鄭経の兵は｜漳州《しょうしゅう》を棄てて去る","澎湖":"｜澎湖《ほうこ》","澎湖県":"｜澎湖《ほうこ》県","オランダ（紅夷）が澎湖を占拠して城を築き、互市を求める":"オランダ（紅夷）が｜澎湖《ほうこ》を占拠して城を築き、互市を求める","福建巡撫南居益が兵を出してオランダを澎湖から追い、城を築いて守らせる":"｜福建《ふっけん》巡撫南居益が兵を出してオランダを｜澎湖《ほうこ》から追い、城を築いて守らせる","隆武の朝廷が滅びる。この後の澎湖に官を置いた勢力は原文で確かめられない":"｜隆武《りゅうぶ》の朝廷が滅びる。この後の｜澎湖《ほうこ》に官を置いた勢力は原文で確かめられない","鄭成功が魯王を澎湖に移す（鄭氏が澎湖を押さえていた）":"鄭成功が｜魯王《ろおう》を｜澎湖《ほうこ》に移す（｜鄭氏《ていし》が｜澎湖《ほうこ》を押さえていた）","順治十六年（己亥）秋":"｜順治《じゅんち》十六年（己亥）秋","施琅が澎湖で劉国軒の鄭氏の水軍を破って澎湖を取る":"施琅が｜澎湖《ほうこ》で劉国軒の｜鄭氏《ていし》の水軍を破って｜澎湖《ほうこ》を取る","康熙二十二年闰六月":"｜康熙《こうき》二十二年闰六月","明の府県は無い（台湾の先住民の地）":"明の府県は無い（｜台湾《たいわん》の先住民の地）","澎湖から追われたオランダが台湾（大員）に拠る":"｜澎湖《ほうこ》から追われたオランダが｜台湾《たいわん》（大員）に拠る","鄭成功が鹿耳門から入って赤嵌城を取り、王城を七か月囲んでオランダを降し、台湾を東都と号して赤嵌を承天府とする":"鄭成功が鹿耳門から入って赤嵌城を取り、王城を七か月囲んでオランダを降し、｜台湾《たいわん》を東都と号して赤嵌を承天府とする","永历十五年（順治十八年）":"永历十五年（｜順治《じゅんち》十八年）","康熙二十二年八月":"｜康熙《こうき》二十二年八月","鄭成功がオランダを降して台湾を取り、東都と号する":"鄭成功がオランダを降して｜台湾《たいわん》を取り、東都と号する","鄭克塽が清に降り、台湾が清に帰する":"鄭克塽が清に降り、｜台湾《たいわん》が清に帰する","武昌":"｜武昌《ぶしょう》","湖広の省治・楚王府。1643年五月に張献忠が陥して天授府と改めたが、八月に左良玉が取り返したので、その年の歳末は明":"｜湖広《ここう》の省治・｜楚王府《そおうふ》。1643年五月に｜張献忠《ちょうけんちゅう》が陥して｜天授府《てんじゅふ》と改めたが、八月に左｜良玉《りょうぎょく》が取り返したので、その年の歳末は明","左良玉の大軍と巡撫何騰蛟が守る":"左｜良玉《りょうぎょく》の大軍と巡撫何｜騰蛟《とうこう》が守る","左良玉が兵を挙げて東下し、空になった武昌に李自成が入るが、追ってきた清の阿済格の軍に追われる":"左｜良玉《りょうぎょく》が兵を挙げて東下し、空になった｜武昌《ぶしょう》に｜李自成《りじせい》が入るが、追ってきた清の｜阿済格《あじげ》の軍に追われる","順治二年":"｜順治《じゅんち》二年","以後は清の湖広の拠点。〜1679年の呉三桂の乱でも清が保った":"以後は清の｜湖広《ここう》の拠点。〜1679年の｜呉三桂《ごさんけい》の乱でも清が保った","黄州":"｜黄州《こうしゅう》","1643年春に張献忠が陥して知府を置いたが、同じ年のうちに白雲寨の易道三らが取り返したので、その年の歳末は明":"1643年春に｜張献忠《ちょうけんちゅう》が陥して知府を置いたが、同じ年のうちに白雲寨の易道三らが取り返したので、その年の歳末は明","左良玉の勢力圏":"左｜良玉《りょうぎょく》の勢力圏","左良玉の東下と李自成の敗走ののち、清の阿済格の軍が湖広の州県を下す":"左｜良玉《りょうぎょく》の東下と｜李自成《りじせい》の敗走ののち、清の｜阿済格《あじげ》の軍が｜湖広《ここう》の州県を下す","安陸市":"｜安陸《あんりく》市","李自成が襄陽に拠り、兵を分けて徳安を下す":"｜李自成《りじせい》が｜襄陽《じょうよう》に拠り、兵を分けて徳安を下す","1643年春に李自成が襄陽で新順王を称し、湖北の府州に守将を置いた":"1643年春に｜李自成《りじせい》が｜襄陽《じょうよう》で新順王を称し、｜湖北《こほく》の｜府州《ふしゅう》に守将を置いた","巡撫何騰蛟が部将の恵登相・毛憲文を遣わして徳安を取り返す":"巡撫何｜騰蛟《とうこう》が部将の恵登相・毛憲文を遣わして徳安を取り返す","李自成を追う清の阿済格の軍が徳安を経て武昌へ進む":"｜李自成《りじせい》を追う清の｜阿済格《あじげ》の軍が徳安を経て｜武昌《ぶしょう》へ進む","襄陽":"｜襄陽《じょうよう》","襄陽市":"｜襄陽《じょうよう》市","1641年に張献忠が陥して襄王を殺したが、城を守らずに去った":"1641年に｜張献忠《ちょうけんちゅう》が陥して｜襄王《じょうおう》を殺したが、城を守らずに去った","李自成が襄陽を陥してここに拠り、翌年襄京と改めて新順王を称する":"｜李自成《りじせい》が｜襄陽《じょうよう》を陥してここに拠り、翌年襄京と改めて新順王を称する","西安を捨てた李自成が襄陽に入るが、清の阿済格・尚可喜の軍に追われ、清が襄陽を取る":"｜西安《せいあん》を捨てた｜李自成《りじせい》が｜襄陽《じょうよう》に入るが、清の｜阿済格《あじげ》・尚可喜の軍に追われ、清が｜襄陽《じょうよう》を取る","1647年に降将の王光泰が襄陽で叛いて永暦の年号を用いたが、同じ年のうちに清の喀喀木に追われて四川へ走ったので、歳末の持ち主は変えない。1674年に襄陽総兵の楊来嘉が穀城で呉三桂に応じたが、襄陽の城は清が守った":"1647年に降将の王光泰が｜襄陽《じょうよう》で叛いて｜永暦《えいれき》の年号を用いたが、同じ年のうちに清の喀喀木に追われて｜四川《しせん》へ走ったので、歳末の持ち主は変えない。1674年に｜襄陽《じょうよう》｜総兵《そうへい》の楊来嘉が穀城で｜呉三桂《ごさんけい》に応じたが、｜襄陽《じょうよう》の城は清が守った","鄖陽撫治の駐在地。1643年に李自成が攻めたが、撫治徐起元と王光恩が守り抜いた":"鄖陽撫治の駐在地。1643年に｜李自成《りじせい》が攻めたが、撫治徐起元と王光恩が守り抜いた","1647年に王光恩の弟王光泰が叛いて鄖陽に入ったが、年内に清が取り返した。〜1679年は提督佟国瑶が守り、呉三桂方の洪福らの攻撃をしのいだ":"1647年に王光恩の弟王光泰が叛いて鄖陽に入ったが、年内に清が取り返した。〜1679年は提督佟国瑶が守り、｜呉三桂《ごさんけい》方の洪福らの攻撃をしのいだ","永暦":"｜永暦《えいれき》","李自成の旧将の郝揺旗・劉体純らが明（永暦）に帰し、房県・竹山の山地に拠る（夔東の諸軍）":"｜李自成《りじせい》の旧将の郝揺旗・劉体純らが明（｜永暦《えいれき》）に帰し、房県・竹山の山地に拠る（夔東の諸軍）","順治十年":"｜順治《じゅんち》十年","永暦帝が昆明で殺され、夔東の諸軍は奉じる朝廷を失う":"｜永暦帝《えいれきてい》が｜昆明《こんめい》で殺され、夔東の諸軍は奉じる朝廷を失う","康熙元年":"｜康熙《こうき》元年","清が川・湖・陝の三省から夔東を会剿し、郝揺旗が房県一帯から逃れる":"清が川・湖・陝の｜三省《さんせい》から夔東を会剿し、郝揺旗が房県一帯から逃れる","康熙二年":"｜康熙《こうき》二年","襄陽総兵楊来嘉・鄖陽副将洪福が呉三桂に応じて叛き、房県・保康・竹山に拠る":"｜襄陽《じょうよう》｜総兵《そうへい》楊来嘉・鄖陽副将洪福が｜呉三桂《ごさんけい》に応じて叛き、房県・保康・竹山に拠る","清の湖広の官兵が楊来嘉・洪福を破って房県を取り返す":"清の｜湖広《ここう》の官兵が楊来嘉・洪福を破って房県を取り返す","康熙十七年三月":"｜康熙《こうき》十七年三月","李自成が承天を陥し、揚武州と改める":"｜李自成《りじせい》が承天を陥し、揚武州と改める","李自成が山海関で敗れた隙に、左良玉が承天を取り返す":"｜李自成《りじせい》が｜山海関《さんかいかん》で敗れた隙に、左｜良玉《りょうぎょく》が承天を取り返す","李自成の軍が承天に迫り、追ってきた清の阿済格の軍が承天を取る":"｜李自成《りじせい》の軍が承天に迫り、追ってきた清の｜阿済格《あじげ》の軍が承天を取る","荊州":"｜荊州《けいしゅう》","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","李自成が自ら荊州を攻め落とし、任継光（任光栄）に守らせる":"｜李自成《りじせい》が自ら｜荊州《けいしゅう》を攻め落とし、任継光（任光栄）に守らせる","李自成を追う清の尚可喜の軍が荊州を取る":"｜李自成《りじせい》を追う清の尚可喜の軍が｜荊州《けいしゅう》を取る","1645年冬から李過ら大順の残党（何騰蛟の招撫を受けた）が荊州を囲んだが、1646年二月に勒克徳渾の軍が解いた。〜1679年は大将軍勒爾錦が駐して呉三桂に渡さなかった":"1645年冬から李過ら｜大順《たいじゅん》の残党（何｜騰蛟《とうこう》の｜招撫《しょうぶ》を受けた）が｜荊州《けいしゅう》を囲んだが、1646年二月に勒克徳渾の軍が解いた。〜1679年は｜大将軍《だいしょうぐん》勒爾錦が駐して｜呉三桂《ごさんけい》に渡さなかった","李自成の軍が彝陵を下し、藺養成・牛万才に守らせる":"｜李自成《りじせい》の軍が彝陵を下し、藺養成・牛万才に守らせる","李自成の死ののち、その残部が隆武朝の総督何騰蛟の招撫を受けて湖北の府県に分拠する":"｜李自成《りじせい》の死ののち、その残部が｜隆武《りゅうぶ》朝の総督何｜騰蛟《とうこう》の｜招撫《しょうぶ》を受けて｜湖北《こほく》の府県に分拠する","順治二年十一月":"｜順治《じゅんち》二年十一月","清の勒克徳渾の軍が夷陵に進み李自成の弟らを降し、ついで鄭四維らが夷陵を取る":"清の勒克徳渾の軍が夷陵に進み｜李自成《りじせい》の弟らを降し、ついで鄭四維らが夷陵を取る","明（永暦）の兵が夷陵を取り返す":"明（｜永暦《えいれき》）の兵が夷陵を取り返す","順治九年八月":"｜順治《じゅんち》九年八月","順治十三年":"｜順治《じゅんち》十三年","〜1679年は総兵徐治都が守り、呉三桂方の水軍の攻撃をしのいだ":"〜1679年は｜総兵《そうへい》徐治都が守り、｜呉三桂《ごさんけい》方の水軍の攻撃をしのいだ","岳州":"｜岳州《がくしゅう》","1643年八月に張献忠が陥し、十一月に一度明が取り返し、また張献忠が陥したが、十一月二十四日に左良玉の部将馬士秀が取り返したので、その年の歳末は明":"1643年八月に｜張献忠《ちょうけんちゅう》が陥し、十一月に一度明が取り返し、また｜張献忠《ちょうけんちゅう》が陥したが、十一月二十四日に左｜良玉《りょうぎょく》の部将馬士秀が取り返したので、その年の歳末は明","弘光朝が王允成を署総兵として岳州に鎮守させる":"｜弘光《こうこう》朝が王｜允《いん》成を署｜総兵《そうへい》として｜岳州《がくしゅう》に鎮守させる","弘光朝の滅亡ののち、湖広総督何騰蛟が福州の隆武帝を奉じる":"｜弘光《こうこう》朝の滅亡ののち、｜湖広総督《ここうそうとく》何｜騰蛟《とうこう》が｜福州《ふくしゅう》の｜隆武帝《りゅうぶてい》を奉じる","何騰蛟の湖南十三鎮の北の前線":"何｜騰蛟《とうこう》の｜湖南《こなん》十｜三鎮《さんちん》の北の前線","清の勒克徳渾の軍が臨湘で勝ち、岳州を取って明将黒運昌を降す":"清の勒克徳渾の軍が臨湘で勝ち、｜岳州《がくしゅう》を取って明将黒運昌を降す","順治三年正月":"｜順治《じゅんち》三年正月","1646年九月に何騰蛟が岳州を攻めたが退けられた":"1646年九月に何｜騰蛟《とうこう》が｜岳州《がくしゅう》を攻めたが退けられた","呉三桂の将呉応麒が岳州を陥す":"｜呉三桂《ごさんけい》の将呉｜応麒《おうき》が｜岳州《がくしゅう》を陥す","清の貝勒察尼が水軍で岳州を囲み、呉応麒が逃れて清が取り返す":"清の貝勒察尼が水軍で｜岳州《がくしゅう》を囲み、呉｜応麒《おうき》が逃れて清が取り返す","康熙十八年正月":"｜康熙《こうき》十八年正月","張献忠が常徳を陥す":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が常徳を陥す","張献忠が四川へ去り、左良玉の軍が湖南を取り返す":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が｜四川《しせん》へ去り、左｜良玉《りょうぎょく》の軍が｜湖南《こなん》を取り返す","堵胤錫が湖北巡撫を摂して常徳に駐する":"堵胤錫が｜湖北《こほく》巡撫を摂して常徳に駐する","隆武帝の死ののち、何騰蛟が永暦帝の即位を聞いてこれに従う":"｜隆武帝《りゅうぶてい》の死ののち、何｜騰蛟《とうこう》が｜永暦帝《えいれきてい》の即位を聞いてこれに従う","順治四年五月":"｜順治《じゅんち》四年五月","1648年十月に馬進忠が常徳を取り返したが、堵胤錫が常徳を忠貞営の李赤心に譲らせようとしたので、馬進忠は城を焼いて去り、李赤心も空城を捨てた。小腆紀年はこのとき湖南の州県がまた清に帰したとするので、1648年の歳末も清とした":"1648年十月に馬進忠が常徳を取り返したが、堵胤錫が常徳を忠貞営の李赤心に譲らせようとしたので、馬進忠は城を焼いて去り、李赤心も空城を捨てた。｜小腆紀年《しょうてんきねん》はこのとき｜湖南《こなん》の州県がまた清に帰したとするので、1648年の歳末も清とした","呉三桂の将楊宝廕が常徳を陥し、呉三桂自ら常徳に来る":"｜呉三桂《ごさんけい》の将楊宝廕が常徳を陥し、｜呉三桂《ごさんけい》自ら常徳に来る","呉三桂の死ののち、勒爾錦が荊州から江を渡って常徳を取り返す":"｜呉三桂《ごさんけい》の死ののち、勒爾錦が｜荊州《けいしゅう》から江を渡って常徳を取り返す","康熙十八年":"｜康熙《こうき》十八年","長沙":"｜長沙《ちょうさ》","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","吉王府。1643年八月に張献忠が陥したが、十二月に左良玉が取り返したので、その年の歳末は明":"｜吉王《きつおう》府。1643年八月に｜張献忠《ちょうけんちゅう》が陥したが、十二月に左｜良玉《りょうぎょく》が取り返したので、その年の歳末は明","何騰蛟が左良玉の乱を逃れて長沙に拠り、大順の残部を招撫して十三鎮を置く":"何｜騰蛟《とうこう》が左｜良玉《りょうぎょく》の乱を逃れて｜長沙《ちょうさ》に拠り、｜大順《たいじゅん》の残部を｜招撫《しょうぶ》して十｜三鎮《さんちん》を置く","孔有徳の率いる清軍が長沙を取り、何騰蛟は衡州へ逃れる":"孔有徳の率いる清軍が｜長沙《ちょうさ》を取り、何｜騰蛟《とうこう》は｜衡州《こうしゅう》へ逃れる","順治四年二月":"｜順治《じゅんち》四年二月","1648年に堵胤錫が長沙を囲んだが落とせなかった。1652年に李定国が湖南へ攻め込んだときも、年末には清の手にあった":"1648年に堵胤錫が｜長沙《ちょうさ》を囲んだが落とせなかった。1652年に｜李《り》｜定国《ていこく》が｜湖南《こなん》へ攻め込んだときも、年末には清の手にあった","偏沅巡撫盧震が長沙を捨てて逃げ、副将黄正卿が城を呉三桂に降す":"偏沅巡撫盧震が｜長沙《ちょうさ》を捨てて逃げ、副将黄正卿が城を｜呉三桂《ごさんけい》に降す","岳州が落ちると長沙の呉軍も城を捨て、安親王岳楽が長沙に入る":"｜岳州《がくしゅう》が落ちると｜長沙《ちょうさ》の｜呉《ご》軍も城を捨て、安親王岳楽が｜長沙《ちょうさ》に入る","1643年に張献忠は辰龍関に阻まれて辰州へ入れなかった":"1643年に｜張献忠《ちょうけんちゅう》は辰龍関に阻まれて辰州へ入れなかった","順治五年":"｜順治《じゅんち》五年","孫可望が遣わした白文選が象の陣で辰州を攻め落とし、清の総兵徐勇が戦死する":"孫｜可望《かぼう》が遣わした白文選が象の陣で辰州を攻め落とし、清の｜総兵《そうへい》徐勇が戦死する","順治九年十一月":"｜順治《じゅんち》九年十一月","清の阿爾津・卓羅が澧州・常徳から進んで辰州を取り、孫可望の軍が舟を焼いて退く":"清の阿爾津・卓羅が澧州・常徳から進んで辰州を取り、孫｜可望《かぼう》の軍が舟を焼いて退く","順治十三年十月":"｜順治《じゅんち》十三年十月","呉三桂が挙兵し、沅州を降してから辰州を陥す":"｜呉三桂《ごさんけい》が挙兵し、沅州を降してから辰州を陥す","康熙十二年十二月":"｜康熙《こうき》十二年十二月","康熙十九年三月":"｜康熙《こうき》十九年三月","順治四年八月":"｜順治《じゅんち》四年八月","順治五年闰四月":"｜順治《じゅんち》五年闰四月","鄭親王済爾哈朗の軍が湖南を平らげ、沅州・靖州を分けて取る":"鄭親王｜済爾哈朗《じるがらん》の軍が｜湖南《こなん》を平らげ、沅州・靖州を分けて取る","順治六年四月":"｜順治《じゅんち》六年四月","孫可望の遣わした李定国が沅州を取り返す":"孫｜可望《かぼう》の遣わした｜李《り》｜定国《ていこく》が沅州を取り返す","順治九年三月":"｜順治《じゅんち》九年三月","経略洪承疇と羅託が常徳で会し、辰州から沅州へ進んで貴州へ入る":"｜経略《けいりゃく》洪｜承疇《しょうちゅう》と羅託が常徳で会し、辰州から沅州へ進んで｜貴州《きしゅう》へ入る","順治十五年":"｜順治《じゅんち》十五年","呉三桂が挙兵し、沅州の総兵崔世禄が城を挙げて降る":"｜呉三桂《ごさんけい》が挙兵し、沅州の｜総兵《そうへい》崔世禄が城を挙げて降る","康熙十九年二月":"｜康熙《こうき》十九年二月","宝慶":"｜宝慶《ほうけい》","張献忠が宝慶を陥す":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が｜宝慶《ほうけい》を陥す","孔有徳の率いる清軍が祁陽から宝慶を破る":"孔有徳の率いる清軍が祁陽から｜宝慶《ほうけい》を破る","順治四年":"｜順治《じゅんち》四年","明の監軍御史余鯤起・職方主事李甲春が宝慶を取り返す":"明の｜監軍《かんぐん》御史余鯤起・職方主事李甲春が｜宝慶《ほうけい》を取り返す","順治五年十月":"｜順治《じゅんち》五年十月","清が武岡・靖州を取り返し、宝慶も清に戻る":"清が｜武岡《ぶこう》・靖州を取り返し、｜宝慶《ほうけい》も清に戻る","1650年二月に清が武岡を取り返して馬進忠は靖州へ退き、孔有德の軍は靖州も下した。宝慶を名指しした記事は無く、周りの城の動きから推した（公開前の点検で足した）":"1650年二月に清が｜武岡《ぶこう》を取り返して馬進忠は靖州へ退き、孔有德の軍は靖州も下した。｜宝慶《ほうけい》を名指しした記事は無く、周りの城の動きから推した（公開前の点検で足した）","李定国が宝慶を取り返し、清の続順公沈永忠が湘潭へ退く":"｜李《り》｜定国《ていこく》が｜宝慶《ほうけい》を取り返し、清の続順公沈永忠が湘潭へ退く","順治九年七月":"｜順治《じゅんち》九年七月","清の貝勒屯斉が宝慶へ進んで孫可望を破り、武岡と宝慶の間が境になる":"清の貝勒屯斉が｜宝慶《ほうけい》へ進んで孫｜可望《かぼう》を破り、｜武岡《ぶこう》と｜宝慶《ほうけい》の間が境になる","呉三桂の軍が湖南を席巻する":"｜呉三桂《ごさんけい》の軍が｜湖南《こなん》を席巻する","簡親王喇布の軍が衡州に続いて宝慶を取り返す":"簡親王喇布の軍が｜衡州《こうしゅう》に続いて｜宝慶《ほうけい》を取り返す","康熙十八年二月":"｜康熙《こうき》十八年二月","衡州":"｜衡州《こうしゅう》","張献忠が衡州を陥し、降将の尹先民に守らせる":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が｜衡州《こうしゅう》を陥し、降将の尹先民に守らせる","衡永道厳起恒が衡州・永州の軍糧を督する":"衡永道厳起恒が｜衡州《こうしゅう》・永州の｜軍糧《ぐんりょう》を督する","孔有徳の率いる清軍が衡州を取り、明の総兵黄朝宣を殺す":"孔有徳の率いる清軍が｜衡州《こうしゅう》を取り、明の｜総兵《そうへい》黄朝宣を殺す","何騰蛟が永州を落とし、続いて衡州を取り返す":"何｜騰蛟《とうこう》が永州を落とし、続いて｜衡州《こうしゅう》を取り返す","順治五年九月":"｜順治《じゅんち》五年九月","何騰蛟の死ののち、堵胤錫が衡州の草橋で清軍に敗れて退く":"何｜騰蛟《とうこう》の死ののち、堵胤錫が｜衡州《こうしゅう》の草橋で清軍に敗れて退く","1652年十一月十三日に李定国が衡州を取り返したが、二十三日に清の敬謹親王尼堪の軍が衡州を取り返した（尼堪はその後の追撃で戦死）ので、その年の歳末も清":"1652年十一月十三日に｜李《り》｜定国《ていこく》が｜衡州《こうしゅう》を取り返したが、｜二十三《にじゅうさん》日に清の敬謹親王｜尼堪《にかん》の軍が｜衡州《こうしゅう》を取り返した（｜尼堪《にかん》はその後の追撃で戦死）ので、その年の歳末も清","呉三桂の将張国柱が衡州を陥す":"｜呉三桂《ごさんけい》の将張国柱が｜衡州《こうしゅう》を陥す","1678年三月に呉三桂が衡州で皇帝を称し（昭武）、八月に衡州で死んだ":"1678年三月に｜呉三桂《ごさんけい》が｜衡州《こうしゅう》で皇帝を称し（｜昭武《しょうぶ》）、八月に｜衡州《こうしゅう》で死んだ","簡親王喇布の前鋒希仏が衡州を取り返し、呉国貴・夏国相が逃れる":"簡親王喇布の｜前鋒《ぜんぽう》希仏が｜衡州《こうしゅう》を取り返し、呉国貴・夏｜国相《こくしょう》が逃れる","1643年九月に張献忠が陥したが、征蛮将軍楊国威が同じ年のうちに取り返したので、その年の歳末は明":"1643年九月に｜張献忠《ちょうけんちゅう》が陥したが、征蛮将軍楊国威が同じ年のうちに取り返したので、その年の歳末は明","何騰蛟が三か月囲んで永州を落とし、清の湖南巡撫李紹祖が降る":"何｜騰蛟《とうこう》が三か月囲んで永州を落とし、清の｜湖南《こなん》巡撫李紹祖が降る","何騰蛟の死ののち清が永州を取り、明の焦璉・趙印選が囲んだが清の守将李東斗が守り抜く":"何｜騰蛟《とうこう》の死ののち清が永州を取り、明の焦｜璉《れん》・趙印選が囲んだが清の守将李東斗が守り抜く","順治六年":"｜順治《じゅんち》六年","桂林を落とした李定国の軍が永州を取り返す":"｜桂林《けいりん》を落とした｜李《り》｜定国《ていこく》の軍が永州を取り返す","清の貝勒屯斉が永州で李定国を破り、李定国は龍虎関へ退く":"清の貝勒屯斉が永州で｜李《り》｜定国《ていこく》を破り、｜李《り》｜定国《ていこく》は龍虎関へ退く","順治十年二月":"｜順治《じゅんち》十年二月","郴州":"｜郴州《ちんしゅう》","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","清軍が湖南を下し、郴州に清の降将田起鳳が駐する":"清軍が｜湖南《こなん》を下し、｜郴州《ちんしゅう》に清の降将田起鳳が駐する","明に帰した李成棟の招きで田起鳳が帰順し、堵胤錫が衡州・郴州を取り返す":"明に帰した｜李《り》｜成棟《せいとう》の招きで田起鳳が帰順し、堵胤錫が｜衡州《こうしゅう》・｜郴州《ちんしゅう》を取り返す","清軍が郴州に入り、明の巡撫黄順祖・総兵林国瑞が戦死する":"清軍が｜郴州《ちんしゅう》に入り、明の巡撫黄順祖・｜総兵《そうへい》林｜国瑞《こくずい》が戦死する","順治七年四月":"｜順治《じゅんち》七年四月","李定国の湖南進攻で永州・郴州一帯が明に降る":"｜李《り》｜定国《ていこく》の｜湖南《こなん》進攻で永州・｜郴州《ちんしゅう》一帯が明に降る","清が郴州を取り返し、明の巡撫朱俊臣が死ぬ":"清が｜郴州《ちんしゅう》を取り返し、明の巡撫朱俊臣が死ぬ","順治十年十二月":"｜順治《じゅんち》十年十二月","清の征南将軍穆占が郴州を取り、自ら守る":"清の征南将軍穆占が｜郴州《ちんしゅう》を取り、自ら守る","康熙十七年":"｜康熙《こうき》十七年","靖州苗族侗族自治県":"｜靖州苗《せいしゅうびょう》族侗族自治県","孔有徳の部将線国安が永暦帝を追って靖州に入り、明の総兵蕭曠らを捕らえる":"孔有徳の部将線国安が｜永暦帝《えいれきてい》を追って靖州に入り、明の｜総兵《そうへい》蕭曠らを捕らえる","孔有徳が武岡を落とし、馬進忠を逐って靖州を下す":"孔有徳が｜武岡《ぶこう》を落とし、馬進忠を逐って靖州を下す","順治七年":"｜順治《じゅんち》七年","1649年七月に済爾哈朗の軍が靖州を下したが、十月に馬進忠が取り返していた":"1649年七月に｜済爾哈朗《じるがらん》の軍が靖州を下したが、十月に馬進忠が取り返していた","李定国が靖州を破り、清の総兵楊国勲を殺す":"｜李《り》｜定国《ていこく》が靖州を破り、清の｜総兵《そうへい》楊国勲を殺す","順治九年五月":"｜順治《じゅんち》九年五月","洪承疇・羅託の進軍に際し、偏沅巡撫袁廓宇が靖州を徇える":"洪｜承疇《しょうちゅう》・羅託の進軍に際し、偏沅巡撫袁廓宇が靖州を徇える","清の穆占・董衛国が呉応麒を破って沅州・靖州を取り返す":"清の穆占・董衛国が呉｜応麒《おうき》を破って沅州・靖州を取り返す","康熙十九年四月":"｜康熙《こうき》十九年四月","広州":"｜広州《こうしゅう》","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","北京陥落後、南京の弘光朝の下に残った明の城":"北京陥落後、｜南京《なんきん》の｜弘光《こうこう》朝の下に残った明の城","弘光朝の滅亡後、両広総督丁魁楚・広西巡抚瞿式耜らが福州の隆武帝を奉じ、隆武の詔を拒んだ靖江王亨嘉を討って福州へ送った":"｜弘光《こうこう》朝の滅亡後、｜両広総督《りょうこうそうとく》丁｜魁楚《かいそ》・｜広西《こうせい》巡抚｜瞿《く》｜式耜《しきし》らが｜福州《ふくしゅう》の｜隆武帝《りゅうぶてい》を奉じ、｜隆武《りゅうぶ》の詔を拒んだ靖｜江王《こうおう》亨嘉を討って｜福州《ふくしゅう》へ送った","順治二年八月":"｜順治《じゅんち》二年八月","十一月に蘇観生が唐王聿𨮁を広州で立てて紹武と改元したが、十二月十五日に清に降った李成栋が広州を陥し、紹武帝は死んだ。歳末は清":"十一月に｜蘇観生《そかんせい》が｜唐王《とうおう》｜聿𨮁《いつよく》を｜広州《こうしゅう》で立てて｜紹武《しょうぶ》と｜改元《かいげん》したが、十二月十五日に清に降った李成栋が｜広州《こうしゅう》を陥し、｜紹武帝《しょうぶてい》は死んだ。歳末は清","順治三年十二月":"｜順治《じゅんち》三年十二月","広東提督李成栋が清に叛いて永暦帝に帰し、広東全省が明に帰した":"広東提督李成栋が清に叛いて｜永暦帝《えいれきてい》に帰し、広東全省が明に帰した","尚可喜・耿継茂が十か月の包囲の末に広州を陥し、両広総督杜永和は瓊州へ逃れた":"尚可喜・耿継茂が十か月の包囲の末に｜広州《こうしゅう》を陥し、｜両広総督《りょうこうそうとく》杜｜永和《えいわ》は｜瓊州《けいしゅう》へ逃れた","順治七年十一月":"｜順治《じゅんち》七年十一月","呉三桂側の兵が広州に迫り、尚之信が父尚可喜を押さえて呉三桂に降った":"｜呉三桂《ごさんけい》側の兵が｜広州《こうしゅう》に迫り、尚之信が父尚可喜を押さえて｜呉三桂《ごさんけい》に降った","康熙十五年四月":"｜康熙《こうき》十五年四月","康熙十六年五月":"｜康熙《こうき》十六年五月","肇慶":"｜肇慶《ちょうけい》","肇慶市":"｜肇慶《ちょうけい》市","両広総督の駐在地":"｜両広総督《りょうこうそうとく》の駐在地","隆武帝の死後、両広総督丁魁楚・広西巡抚瞿式耜が肇慶で桂王（永暦帝）を監国に立て、十一月に即位":"｜隆武帝《りゅうぶてい》の死後、｜両広総督《りょうこうそうとく》丁｜魁楚《かいそ》・｜広西《こうせい》巡抚｜瞿《く》｜式耜《しきし》が｜肇慶《ちょうけい》で桂王（｜永暦帝《えいれきてい》）を｜監国《かんこく》に立て、十一月に即位","永暦帝が監国・即位した地":"｜永暦帝《えいれきてい》が｜監国《かんこく》・即位した地","李成栋が肇慶を取り、両広総督朱治𢠸は城を棄てて逃げた":"李成栋が｜肇慶《ちょうけい》を取り、｜両広総督《りょうこうそうとく》朱治𢠸は城を棄てて逃げた","順治四年正月":"｜順治《じゅんち》四年正月","李成栋の反正により明に戻り、八月に永暦帝が肇慶に還った":"李成栋の｜反正《はんせい》により明に戻り、八月に｜永暦帝《えいれきてい》が｜肇慶《ちょうけい》に還った","順治五年八月":"｜順治《じゅんち》五年八月","広州陥落の後、明将宋裕昆が肇慶から清に降り、翌年春に尚可喜が肇慶を収めた":"｜広州《こうしゅう》陥落の後、明将宋裕昆が｜肇慶《ちょうけい》から清に降り、翌年春に尚可喜が｜肇慶《ちょうけい》を収めた","順治八年春":"｜順治《じゅんち》八年春","尚之信が呉三桂に降ると、呉三桂は董重民を両広総督として肇慶に置いた":"尚之信が｜呉三桂《ごさんけい》に降ると、｜呉三桂《ごさんけい》は董重民を｜両広総督《りょうこうそうとく》として｜肇慶《ちょうけい》に置いた","康熙十六年":"｜康熙《こうき》十六年","李成栋が肇慶・梧州を取ったのに続き、南雄・韶州の二府も清の手に入ったと報じられた":"李成栋が｜肇慶《ちょうけい》・梧州を取ったのに続き、南雄・韶州の｜二府《にふ》も清の手に入ったと報じられた","順治七年正月":"｜順治《じゅんち》七年正月","尚之信が呉三桂に降り、広東の官の多くがこれに従った":"尚之信が｜呉三桂《ごさんけい》に降り、広東の官の多くがこれに従った","莽依図が南安から南雄に進み、韶州に入った":"莽依図が｜南安《なんあん》から南雄に進み、韶州に入った","李成栋の進攻で南雄・韶州の二府も清の手に入ったと報じられた":"李成栋の進攻で南雄・韶州の｜二府《にふ》も清の手に入ったと報じられた","莽依図が南安から南雄に進み、守将らは出て降った":"莽依図が｜南安《なんあん》から南雄に進み、守将らは出て降った","福建から進んだ清軍（李成栋）が恵州・潮州を下し、長官は皆降った":"｜福建《ふっけん》から進んだ清軍（李成栋）が恵州・｜潮州《ちょうしゅう》を下し、長官は皆降った","恵州総兵黄応杰らが趙王らを捕らえて清に降った":"恵州｜総兵《そうへい》黄応杰らが｜趙王《ちょうおう》らを捕らえて清に降った","順治七年二月":"｜順治《じゅんち》七年二月","尚之信が呉三桂に降ると、恵州を守っていた尚之孝は兵を引かされ、呉三桂の指図で恵州は鄭経に割かれて劉国軒が入った":"尚之信が｜呉三桂《ごさんけい》に降ると、恵州を守っていた尚之孝は兵を引かされ、｜呉三桂《ごさんけい》の指図で恵州は鄭経に割かれて劉国軒が入った","劉国軒が恵州から東莞を犯して尚之信に大敗し、鄭氏の将陳璉が恵州で降った":"劉国軒が恵州から東莞を犯して尚之信に大敗し、｜鄭氏《ていし》の将陳璉が恵州で降った","康熙十六年七月":"｜康熙《こうき》十六年七月","潮州":"｜潮州《ちょうしゅう》","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","広東東端・福建との境":"広東東端・｜福建《ふっけん》との境","福建から進んだ清軍が恵州・潮州を下し、長官は皆降った":"｜福建《ふっけん》から進んだ清軍が恵州・｜潮州《ちょうしゅう》を下し、長官は皆降った","潮州守将郝尚久が清に降った":"｜潮州《ちょうしゅう》守将郝尚久が清に降った","順治六年十二月":"｜順治《じゅんち》六年十二月","潮州総兵劉進忠が城を挙げて叛き、鄭経に降って鄭氏の兵を城に入れた":"｜潮州《ちょうしゅう》｜総兵《そうへい》｜劉《りゅう》｜進忠《しんちゅう》が城を挙げて叛き、鄭経に降って｜鄭氏《ていし》の兵を城に入れた","康熙十三年四月":"｜康熙《こうき》十三年四月","福建を定めた清軍が潮州の劉進忠を討ち、進忠は降った":"｜福建《ふっけん》を定めた清軍が｜潮州《ちょうしゅう》の｜劉《りゅう》｜進忠《しんちゅう》を討ち、進忠は降った","肇慶を取った李成栋が別将を遣わし高州・雷州・廉州を取った":"｜肇慶《ちょうけい》を取った李成栋が別将を遣わし高州・雷州・廉州を取った","順治八年三月":"｜順治《じゅんち》八年三月","李定国が高州を取り、清の降将張月が寝返って明に帰した":"｜李《り》｜定国《ていこく》が高州を取り、清の降将張月が寝返って明に帰した","順治十一年二月":"｜順治《じゅんち》十一年二月","新会で敗れた李定国が高州から南寧へ退き、高州・雷州・廉州は清に定まった":"新会で敗れた｜李《り》｜定国《ていこく》が高州から｜南寧《なんねい》へ退き、高州・雷州・廉州は清に定まった","順治十二年二月":"｜順治《じゅんち》十二年二月","高州の総兵祖沢清が叛いて呉三桂に付き、馬雄・呉三桂の将を高州に引き入れた":"高州の｜総兵《そうへい》祖沢清が叛いて｜呉三桂《ごさんけい》に付き、馬雄・｜呉三桂《ごさんけい》の将を高州に引き入れた","康熙十四年十一月":"｜康熙《こうき》十四年十一月","康熙十六年六月":"｜康熙《こうき》十六年六月","尚可喜・耿継茂が南下して廉州に入り、雷州・瓊州へ向かうと杜永和らが降り、高・雷・廉・瓊の四府が定まった":"尚可喜・耿継茂が南下して廉州に入り、雷州・｜瓊州《けいしゅう》へ向かうと杜｜永和《えいわ》らが降り、高・雷・廉・瓊の四府が定まった","順治九年":"｜順治《じゅんち》九年","祖沢清が馬雄・呉三桂の将を引き入れ、雷州・廉州の二郡を陥した":"祖沢清が馬雄・｜呉三桂《ごさんけい》の将を引き入れ、雷州・廉州の二郡を陥した","康熙十四年":"｜康熙《こうき》十四年","順治九年正月":"｜順治《じゅんち》九年正月","李定国が廉州にあって永暦帝の勅を受けた（広東西部へ進出）":"｜李《り》｜定国《ていこく》が廉州にあって｜永暦帝《えいれきてい》の勅を受けた（広東西部へ進出）","順治十一年":"｜順治《じゅんち》十一年","李定国が新会・興業・横州で敗れて退き、高・雷・廉三府は清に定まった":"｜李《り》｜定国《ていこく》が新会・興業・横州で敗れて退き、高・雷・廉三府は清に定まった","馬雄が呉三桂の兵を引いて高州を犯し、続いて廉州を陥した":"馬雄が｜呉三桂《ごさんけい》の兵を引いて高州を犯し、続いて廉州を陥した","瓊州":"｜瓊州《けいしゅう》","海口市":"｜海口《かいこう》市","海南島":"｜海南《かいなん》島","清軍が海を渡って瓊州を取った":"清軍が海を渡って｜瓊州《けいしゅう》を取った","広州から逃れていた両広総督杜永和が瓊州を挙げて清に降った":"｜広州《こうしゅう》から逃れていた｜両広総督《りょうこうそうとく》杜｜永和《えいわ》が｜瓊州《けいしゅう》を挙げて清に降った","順治九年二月":"｜順治《じゅんち》九年二月","尚之信が呉三桂に降り、広東の総督・巡抚・提督が従った":"尚之信が｜呉三桂《ごさんけい》に降り、広東の総督・巡抚・提督が従った","桂林":"｜桂林《けいりん》","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","広西の省治":"｜広西《こうせい》の省治","靖江王亨嘉が隆武の詔を拒んで桂林で監国を称したが、瞿式耜・陳邦傅らに捕らえられて福州へ送られた":"靖｜江王《こうおう》亨嘉が｜隆武《りゅうぶ》の詔を拒んで｜桂林《けいりん》で｜監国《かんこく》を称したが、｜瞿《く》｜式耜《しきし》・陳邦傅らに捕らえられて｜福州《ふくしゅう》へ送られた","1647年三月・五月、1648年三月の清の攻撃を瞿式耜・焦琏・何騰蛟らが退けた":"1647年三月・五月、1648年三月の清の攻撃を｜瞿《く》｜式耜《しきし》・焦琏・何｜騰蛟《とうこう》らが退けた","孔有徳が厳関を破って桂林に入り、留守瞿式耜・総督張同敞を捕らえた":"孔有徳が厳関を破って｜桂林《けいりん》に入り、留守｜瞿《く》｜式耜《しきし》・総督張同敞を捕らえた","李定国が全州・厳関を破って桂林を取り、孔有徳は自殺した":"｜李《り》｜定国《ていこく》が全州・厳関を破って｜桂林《けいりん》を取り、孔有徳は自殺した","李定国が湖南で清軍と対峙する間に、線国安・馬雄・全節が平楽に続いて桂林を取り返した":"｜李《り》｜定国《ていこく》が｜湖南《こなん》で清軍と｜対峙《たいじ》する間に、線国安・馬雄・全節が平楽に続いて｜桂林《けいりん》を取り返した","順治十年正月":"｜順治《じゅんち》十年正月","孫延齢":"孫｜延齢《えんれい》","広西将軍孫延齢が桂林で挙兵して呉三桂に応じ、都統王永年らを殺し巡抚馬雄鎮を幽閉した":"｜広西《こうせい》将軍孫｜延齢《えんれい》が｜桂林《けいりん》で挙兵して｜呉三桂《ごさんけい》に応じ、｜都統《ととう》王永年らを殺し巡抚馬雄鎮を幽閉した","康熙十三年二月":"｜康熙《こうき》十三年二月","孫延齢が清への帰順を図ったため、呉三桂は従孫呉世琮に桂林を襲わせて延齢を殺し、将李廷棟に桂林を守らせた":"孫｜延齢《えんれい》が清への帰順を図ったため、｜呉三桂《ごさんけい》は従孫呉世琮に｜桂林《けいりん》を襲わせて｜延齢《えんれい》を殺し、将李廷棟に｜桂林《けいりん》を守らせた","康熙十六年十月":"｜康熙《こうき》十六年十月","傅弘烈・莽依図が梧州で呉世琮を破り、藤県・平楽を下して桂林を取り返した":"傅弘烈・莽依図が梧州で呉世琮を破り、藤県・平楽を下して｜桂林《けいりん》を取り返した","桂林と梧州の間・桂江沿い":"｜桂林《けいりん》と梧州の間・桂江沿い","順治八年九月":"｜順治《じゅんち》八年九月","孫延齢が呉三桂に応じて叛き、平楽府を陥す":"孫｜延齢《えんれい》が｜呉三桂《ごさんけい》に応じて叛き、平｜楽府《がふ》を陥す","康熙十三年に広西将軍孫延齢が叛き、将を遣って平楽府を陥した（公開前の点検で足した）":"｜康熙《こうき》十三年に｜広西《こうせい》将軍孫｜延齢《えんれい》が叛き、将を遣って平｜楽府《がふ》を陥した（公開前の点検で足した）","呉世琮が孫延齢を殺した後、平楽を陥した":"呉世琮が孫｜延齢《えんれい》を殺した後、平楽を陥した","西江の両広の境・興陵（永暦帝の父の陵）の地":"西江の両広の境・興陵（｜永暦帝《えいれきてい》の父の陵）の地","李成栋・佟養甲が梧州を取り、広西巡抚曹燁が降った":"李成栋・佟養甲が梧州を取り、｜広西《こうせい》巡抚曹燁が降った","李成栋の反正を受けて梧州にいた清の巡抚耿献忠が明に帰順し、瞿式耜は巡抚魯可藻に梧州を収めさせた":"李成栋の｜反正《はんせい》を受けて梧州にいた清の巡抚耿｜献忠《けんちゅう》が明に帰順し、｜瞿《く》｜式耜《しきし》は巡抚魯可藻に梧州を収めさせた","順治八年闰二月":"｜順治《じゅんち》八年闰二月","潯州":"｜潯州《じんしゅう》","1647年に守将李明忠が清に降ったが、同年陳邦傅が潯州を押さえ、以後は陳邦傅の拠点":"1647年に守将李明忠が清に降ったが、同年陳邦傅が｜潯州《じんしゅう》を押さえ、以後は陳邦傅の拠点","陳邦傅が焦琏を殺し、潯州の文武を率いて清に降った":"陳邦傅が焦琏を殺し、｜潯州《じんしゅう》の文武を率いて清に降った","孫延齢が叛くと潯州は陥され、清の知府は殺された":"孫｜延齢《えんれい》が叛くと｜潯州《じんしゅう》は陥され、清の知府は殺された","傅弘烈が昭平で呉世琮を破り、潯州を取り返した":"傅弘烈が昭平で呉世琮を破り、｜潯州《じんしゅう》を取り返した","莽依図が平楽から梧州へ退いたため、傅弘烈が取り返した郡県は呉三桂の軍の手に落ちた":"莽依図が平楽から梧州へ退いたため、傅弘烈が取り返した｜郡県《ぐんけん》は｜呉三桂《ごさんけい》の軍の手に落ちた","梧州で敗れた呉世琮が退き、清が潯州を取った":"梧州で敗れた呉世琮が退き、清が｜潯州《じんしゅう》を取った","広西中部":"｜広西《こうせい》中部","李定国が桂林を破ると、柳州の副将鄭元勲らが清に叛いて李定国に降った":"｜李《り》｜定国《ていこく》が｜桂林《けいりん》を破ると、柳州の副将鄭｜元勲《げんくん》らが清に叛いて｜李《り》｜定国《ていこく》に降った","李定国が柳州から去った後、清が柳州を取り返し、明の巡抚朱俊臣が死んだ":"｜李《り》｜定国《ていこく》が柳州から去った後、清が柳州を取り返し、明の巡抚朱俊臣が死んだ","柳州に駐した広西提督馬雄が総兵江義とともに柳州で叛き、呉三桂に応じた":"柳州に駐した｜広西《こうせい》提督馬雄が｜総兵《そうへい》江義とともに柳州で叛き、｜呉三桂《ごさんけい》に応じた","広西北西部・貴州との境":"｜広西《こうせい》北西部・｜貴州《きしゅう》との境","順治八年":"｜順治《じゅんち》八年","柳州の馬雄の叛乱に入る":"柳州の馬雄の｜叛乱《はんらん》に入る","康熙十九年に清の軍が柳州を囲んで馬承廕を降し、進んで慶遠を取り返した（公開前の点検で足した）":"｜康熙《こうき》十九年に清の軍が柳州を囲んで馬承廕を降し、進んで慶遠を取り返した（公開前の点検で足した）","南寧":"｜南寧《なんねい》","南寧市":"｜南寧《なんねい》市","広西南部・左右江の合流点":"｜広西《こうせい》南部・左右江の合流点","〜1648年・〜1651年には永暦帝の宮が置かれた":"〜1648年・〜1651年には｜永暦帝《えいれきてい》の宮が置かれた","永暦帝が南寧から逃れた後、清軍が南寧を取った":"｜永暦帝《えいれきてい》が｜南寧《なんねい》から逃れた後、清軍が｜南寧《なんねい》を取った","順治八年十二月":"｜順治《じゅんち》八年十二月","李定国の桂林攻略の後、梧州・南寧・平楽・潯州・横州が皆明に戻った":"｜李《り》｜定国《ていこく》の｜桂林《けいりん》攻略の後、梧州・｜南寧《なんねい》・平楽・｜潯州《じんしゅう》・横州が皆明に戻った","南寧に退いていた李定国が安龍へ去り、耿継茂が南寧を攻めて取った":"｜南寧《なんねい》に退いていた｜李《り》｜定国《ていこく》が｜安龍《あんりゅう》へ去り、耿継茂が｜南寧《なんねい》を攻めて取った","明が南寧を取り返した":"明が｜南寧《なんねい》を取り返した","順治十四年十二月":"｜順治《じゅんち》十四年十二月","広西の南寧・太平・思恩の諸府が平定された":"｜広西《こうせい》の｜南寧《なんねい》・｜太平《たいへい》・思恩の諸府が平定された","順治十六年五月":"｜順治《じゅんち》十六年五月","呉三桂の諸将が南寧に拠る":"｜呉三桂《ごさんけい》の諸将が｜南寧《なんねい》に拠る","1677年に傅弘烈が梧州を取り返したころ、呉三桂の諸将が平楽・南寧・横州に分かれて拠っていた。それより前に清を離れた年は分からない（公開前の点検で足した）":"1677年に傅弘烈が梧州を取り返したころ、｜呉三桂《ごさんけい》の諸将が平楽・｜南寧《なんねい》・横州に分かれて拠っていた。それより前に清を離れた年は分からない（公開前の点検で足した）","呉三桂の将の馬承廕が南寧ごと降る":"｜呉三桂《ごさんけい》の将の馬承廕が｜南寧《なんねい》ごと降る","1679年に額楚が南寧で呉世琮を破り、馬承廕が南寧を以て降った（公開前の点検で足した）":"1679年に額楚が｜南寧《なんねい》で呉世琮を破り、馬承廕が｜南寧《なんねい》を以て降った（公開前の点検で足した）","太平府":"｜太平《たいへい》府","広西南西端・安南との境":"｜広西《こうせい》南西端・安南との境","国号を大清に改め崇德と改元（王朝の引き継ぎ）":"国号を｜大清《だいしん》に改め崇德と｜改元《かいげん》（王朝の引き継ぎ）","明の開原（遼東の北の拠点）":"明の開原（｜遼東《りょうとう》の北の拠点）","後金が開原を攻め落とし総兵馬林が戦死":"後金が開原を攻め落とし｜総兵《そうへい》馬林が戦死","瀋陽（盛京）":"｜瀋陽《しんよう》（｜盛京《せいけい》）","瀋陽":"｜瀋陽《しんよう》","瀋陽市":"｜瀋陽《しんよう》市","明の瀋陽中衛":"明の｜瀋陽《しんよう》中衛","後金が瀋陽を攻め落とし総兵賀世賢らが戦死。1625年に遷都":"後金が｜瀋陽《しんよう》を攻め落とし｜総兵《そうへい》賀世賢らが戦死。1625年に遷都","遼陽":"｜遼陽《りょうよう》","遼陽市":"｜遼陽《りょうよう》市","遼東経略・都司の治所":"｜遼東《りょうとう》｜経略《けいりゃく》・都司の治所","後金が遼陽を攻め落とし経略袁応泰が自殺。四月に後金がここへ遷都":"後金が｜遼陽《りょうよう》を攻め落とし｜経略《けいりゃく》袁応泰が自殺。四月に後金がここへ遷都","遼陽陥落ののち海州が後金に降る":"｜遼陽《りょうよう》陥落ののち海州が後金に降る","明の寛奠堡（参将が守る）。1620年正月にも明の城として朝鮮国王の奏に見える":"明の寛奠堡（参将が守る）。1620年正月にも明の城として｜朝鮮《ちょうせん》国王の奏に見える","遼陽陥落ののち遼河以東（河東）の城堡が後金に降る":"｜遼陽《りょうよう》陥落ののち遼河以東（｜河東《かとう》）の城堡が後金に降る","鎮江堡":"｜鎮江《ちんこう》堡","丹東市":"丹｜東市《とうし》","明の鎮江城（遊撃が守る）":"明の｜鎮江《ちんこう》城（遊撃が守る）","遼陽陥落後に後金に降る。七月に城民が守将を殺して毛文龍に付いたが、同年のうちに阿敏が夜襲で奪い返し毛文龍は退く（年内の一時奪回なので持ち主は変えない）":"｜遼陽《りょうよう》陥落後に後金に降る。七月に城民が守将を殺して毛｜文龍《ぶんりゅう》に付いたが、同年のうちに｜阿敏《あびん》が夜襲で奪い返し毛｜文龍《ぶんりゅう》は退く（年内の一時奪回なので持ち主は変えない）","遼陽陥落ののち遼南が後金に降り、劉興祚が蓋・復・金三州を領する。同年、後金は金州の民を復州へ移す":"｜遼陽《りょうよう》陥落ののち遼南が後金に降り、｜劉興《りゅうこう》祚が蓋・復・金｜三州《さんしゅう》を領する。同年、後金は金州の民を復州へ移す","遼東巡撫の駐地":"｜遼東《りょうとう》巡撫の駐地","後金が広寧を落とし巡撫王化貞は関内へ逃げる。後金は二月に遼陽へ戻って広寧を捨て、明も戻らなかった":"後金が広寧を落とし巡撫王化貞は関内へ逃げる。後金は二月に｜遼陽《りょうよう》へ戻って広寧を捨て、明も戻らなかった","後金が広寧での屯田を採り、多鐸の軍が広寧を拠点に錦州方面へ出る":"後金が広寧での｜屯田《とんでん》を採り、｜多鐸《どど》の軍が広寧を拠点に｜錦州《きんしゅう》方面へ出る","錦州":"｜錦州《きんしゅう》","錦州市":"｜錦州《きんしゅう》市","広寧陥落で明は関外を捨てて山海関へ退き、後金も引き揚げる。錦州には誰も城を守る者がいない状態":"広寧陥落で明は関外を捨てて｜山海関《さんかいかん》へ退き、後金も引き揚げる。｜錦州《きんしゅう》には誰も城を守る者がいない状態","孫承宗と袁崇煥が将を分けて錦州・松山・杏山・右屯・大小凌河を占め城を修める":"｜孫承宗《そんしょうそう》と｜袁《えん》｜崇煥《すうかん》が将を分けて｜錦州《きんしゅう》・｜松山《しょうざん》・杏山・右屯・大小凌河を占め城を修める","ヌルハチが寧遠へ出兵し、錦州の守将はみな先に逃げた":"ヌルハチが｜寧遠《ねいえん》へ出兵し、｜錦州《きんしゅう》の守将はみな先に逃げた","1625年十月に高第が錦州などの守具を撤して屯兵を関内へ移し、1626年正月に後金の軍が来ると守将が逃げた。後金も城を守らず引き揚げたので、1626年の暮れは誰の城とも言えない（公開前の点検で足した）":"1625年十月に高第が｜錦州《きんしゅう》などの守具を撤して屯兵を関内へ移し、1626年正月に後金の軍が来ると守将が逃げた。後金も城を守らず引き揚げたので、1626年の暮れは誰の城とも言えない（公開前の点検で足した）","袁崇煥が錦州を修築し、趙率教が移って守る（寧錦の戦い）":"｜袁《えん》｜崇煥《すうかん》が｜錦州《きんしゅう》を修築し、趙率教が移って守る（寧錦の戦い）","天啓七年三月に錦州・大凌河・中左所の三城を修築し、五月に後金の軍が囲んだが趙率教らが城を守り通した（公開前の点検で足した）":"｜天啓《てんけい》七年三月に｜錦州《きんしゅう》・大凌河・中左所の三城を修築し、五月に後金の軍が囲んだが趙率教らが城を守り通した（公開前の点検で足した）","長い包囲の末、祖大寿が錦州をもって清に降る":"長い包囲の末、｜祖大寿《そたいじゅ》が｜錦州《きんしゅう》をもって清に降る","寧遠":"｜寧遠《ねいえん》","明の寧遠衛":"明の｜寧遠《ねいえん》衛","広寧陥落で明は寧遠などを自ら焼いて関内へ退き、寧遠以西の城堡は哈喇慎（カラチン）諸部に占められる":"広寧陥落で明は｜寧遠《ねいえん》などを自ら焼いて関内へ退き、｜寧遠《ねいえん》以西の城堡は哈喇慎（カラチン）諸部に占められる","孫承宗が寧遠を守ると決め、満桂と袁崇煥を入れて城を築く":"｜孫承宗《そんしょうそう》が｜寧遠《ねいえん》を守ると決め、満桂と｜袁《えん》｜崇煥《すうかん》を入れて城を築く","三月に明が寧遠を捨てて呉三桂を入衛させ、その後清が寧遠を得る":"三月に明が｜寧遠《ねいえん》を捨てて｜呉三桂《ごさんけい》を入衛させ、その後清が｜寧遠《ねいえん》を得る","順治元年":"｜順治《じゅんち》元年","山海関":"｜山海関《さんかいかん》","秦皇島市山海関区":"秦皇島市｜山海関《さんかいかん》区","呉三桂が大順の守兵を殺して山海関を保ち、清に降って関を開く。清軍が一片石で李自成を破る":"｜呉三桂《ごさんけい》が｜大順《たいじゅん》の守兵を殺して｜山海関《さんかいかん》を保ち、清に降って関を開く。清軍が一片石で｜李自成《りじせい》を破る","順治元年四月":"｜順治《じゅんち》元年四月","アルタン・ハーンの築いた土默特の城。主は明から順義王に封じられた卜失兔（明の官は置かれない）":"アルタン・ハーンの築いた土默特の城。主は明から｜順義王《じゅんぎおう》に封じられた卜失兔（明の官は置かれない）","ホンタイジの親征を聞いた林丹汗が帰化城の民と家畜を連れて西へ逃げ、後金軍が帰化城に至って周辺の部民を連れ去る":"ホンタイジの｜親征《しんせい》を聞いた林丹汗が帰化城の民と家畜を連れて西へ逃げ、後金軍が帰化城に至って周辺の部民を連れ去る","南京（応天）":"｜南京《なんきん》（｜応天《おうてん》）","南京":"｜南京《なんきん》","南京市":"｜南京《なんきん》市","明の留都（南京）":"明の留都（｜南京《なんきん》）","北京の陥落後、南京で福王が監国・即位し、この城の明の官は弘光の朝廷に属した":"北京の陥落後、｜南京《なんきん》で｜福王《ふくおう》が｜監国《かんこく》・即位し、この城の明の官は｜弘光《こうこう》の朝廷に属した","弘光の朝廷の都":"｜弘光《こうこう》の朝廷の都","豫親王多鐸が南京に入り、明の勲戚・文武が降る":"豫親王｜多鐸《どど》が｜南京《なんきん》に入り、明の勲戚・文武が降る","順治二年五月":"｜順治《じゅんち》二年五月","鎮江":"｜鎮江《ちんこう》","鎮江市":"｜鎮江《ちんこう》市","鎮江府":"｜鎮江《ちんこう》府","清軍が長江を渡り、明の援軍が潰えて鎮江を取る":"清軍が｜長江《ちょうこう》を渡り、明の援軍が潰えて｜鎮江《ちんこう》を取る","1659年六月に鄭成功が鎮江を取ったが、七月の江寧の敗戦の後に瓜洲・鎮江を棄てて海へ退き、年内に清に戻った":"1659年六月に鄭成功が｜鎮江《ちんこう》を取ったが、七月の｜江寧《こうねい》の敗戦の後に瓜洲・｜鎮江《ちんこう》を棄てて海へ退き、年内に清に戻った","揚州":"｜揚州《ようしゅう》","揚州市":"｜揚州《ようしゅう》市","揚州府":"｜揚州《ようしゅう》府","督師史可法が駐した":"｜督師《とくし》史｜可法《かほう》が駐した","清軍が揚州を陥し、督師史可法らが死ぬ":"清軍が｜揚州《ようしゅう》を陥し、｜督師《とくし》史｜可法《かほう》らが死ぬ","順治二年四月":"｜順治《じゅんち》二年四月","四鎮の一つ劉沢清が駐した":"四鎮の一つ｜劉《りゅう》｜沢清《たくせい》が駐した","清の都統準塔が淮安に向かい、劉沢清が迎え降る":"清の｜都統《ととう》準塔が淮安に向かい、｜劉《りゅう》｜沢清《たくせい》が迎え降る","徐州":"｜徐州《じょしゅう》","徐州市":"｜徐州《じょしゅう》市","1644年歳末には四鎮の一つ高傑が徐州に至っていた":"1644年歳末には四鎮の一つ高傑が｜徐州《じょしゅう》に至っていた","清軍が帰徳から南下し、総兵李成棟が逃れて徐州に入る":"清軍が｜帰徳《きとく》から南下し、｜総兵《そうへい》｜李《り》｜成棟《せいとう》が逃れて｜徐州《じょしゅう》に入る","泗州（盱眙）":"｜泗州《ししゅう》（盱眙）","泗州":"｜泗州《ししゅう》","清軍が泗州を取り淮河を渡る。守将李遇春は城を挙げて降り、盱眙も降った":"清軍が｜泗州《ししゅう》を取り淮河を渡る。守将李遇春は城を挙げて降り、盱眙も降った","鳳陽":"｜鳳陽《ほうよう》","鳳陽県":"｜鳳陽《ほうよう》県","中都・鳳陽府。1635年正月に流寇が陥して皇陵を焼いたが、去ったので持ち主は変えない":"｜中都《ちゅうと》・｜鳳陽《ほうよう》府。1635年正月に流寇が陥して皇陵を焼いたが、去ったので持ち主は変えない","四鎮の配置で劉良佐の管下":"四鎮の配置で｜劉《りゅう》｜良佐《りょうさ》の管下","劉良佐らが南へ退いて清に降り、清が鳳陽巡抚を置く":"｜劉《りゅう》｜良佐《りょうさ》らが南へ退いて清に降り、清が｜鳳陽《ほうよう》巡抚を置く","潁州":"｜潁州《えいしゅう》","清軍が潁州・太和を取る":"清軍が｜潁州《えいしゅう》・｜太和《たいわ》を取る","順治二年三月":"｜順治《じゅんち》二年三月","廬州府。1642年に張献忠が陥したが去ったので持ち主は変えない":"廬州府。1642年に｜張献忠《ちょうけんちゅう》が陥したが去ったので持ち主は変えない","四鎮の一つ黄得功が廬州に駐する配置":"四鎮の一つ黄｜得功《とくこう》が廬州に駐する配置","清の総兵呉勝兆が廬州・和州を陥す":"清の｜総兵《そうへい》呉勝兆が廬州・｜和州《わしゅう》を陥す","安慶":"｜安慶《あんけい》","安慶市":"｜安慶《あんけい》市","安慶府":"｜安慶《あんけい》府","弘光の滅亡後に清軍が安慶に入る（四月に左夢庚が一時陥したが、清君側を名乗る明の軍で、のち九江で清に降った）":"｜弘光《こうこう》の滅亡後に清軍が｜安慶《あんけい》に入る（四月に左夢庚が一時陥したが、清君側を名乗る明の軍で、のち｜九江《きゅうこう》で清に降った）","順治二年夏":"｜順治《じゅんち》二年夏","1659年に鄭成功・張煌言の長江進攻で一時その手に帰したが、同年七〜八月の江寧の敗戦で清に戻り、歳末の持ち主は変わらない":"1659年に鄭成功・張煌言の｜長江《ちょうこう》進攻で一時その手に帰したが、同年七〜八月の｜江寧《こうねい》の敗戦で清に戻り、歳末の持ち主は変わらない","太平":"｜太平《たいへい》","南京の降伏後、清の貝勒尼堪らが太平を徇え福王を追う。福王が来た時、劉孔昭は門を閉じて入れなかった":"｜南京《なんきん》の降伏後、清の貝勒｜尼堪《にかん》らが｜太平《たいへい》を徇え｜福王《ふくおう》を追う。｜福王《ふくおう》が来た時、劉孔昭は門を閉じて入れなかった","南京の降伏後に清に帰し、閏六月の明の邱祖徳らの奪回は成らなかった":"｜南京《なんきん》の降伏後に清に帰し、閏六月の明の邱祖徳らの奪回は成らなかった","金声らが隆武帝の敕を受けて徽州で起兵したが、清軍が績渓を破り徽州を陥す":"金声らが｜隆武帝《りゅうぶてい》の敕を受けて徽州で起兵したが、清軍が績渓を破り徽州を陥す","順治二年九月":"｜順治《じゅんち》二年九月","1659年七月に張煌言が受降に向かったが江寧の敗戦で潰えた。1674年に耿精忠の兵が徽州を陥したが、同年九月に清の江寧将軍額楚らが取り返し、どちらも歳末の持ち主は変わらない":"1659年七月に張煌言が受降に向かったが｜江寧《こうねい》の敗戦で潰えた。1674年に耿精忠の兵が徽州を陥したが、同年九月に清の｜江寧《こうねい》将軍額楚らが取り返し、どちらも歳末の持ち主は変わらない","常州":"｜常州《じょうしゅう》","常州市":"｜常州《じょうしゅう》市","常州府":"｜常州《じょうしゅう》府","清軍が常州を下す。常州は順民の旗を立てて清軍を迎えた":"清軍が｜常州《じょうしゅう》を下す。｜常州《じょうしゅう》は順民の旗を立てて清軍を迎えた","順治二年六月":"｜順治《じゅんち》二年六月","江陰県（常州府）":"江陰県（｜常州《じょうしゅう》府）","南京の降伏後いったん清に帰したが、閏六月に典史閻応元らが起兵して守り、八月に清軍が陥す":"｜南京《なんきん》の降伏後いったん清に帰したが、閏六月に典史閻応元らが起兵して守り、八月に清軍が陥す","蘇州":"｜蘇州《そしゅう》","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","蘇州府":"｜蘇州《そしゅう》府","清軍が蘇州を取る":"清軍が｜蘇州《そしゅう》を取る","松江":"｜松江《しょうこう》","上海市松江区":"上海市｜松江《しょうこう》区","松江府":"｜松江《しょうこう》府","閏六月に沈猶龍・陳子龍らが松江で起兵して守ったが、八月に降将李成棟が清軍を率いて陥す":"閏六月に沈猶龍・陳子龍らが｜松江《しょうこう》で起兵して守ったが、八月に降将｜李《り》｜成棟《せいとう》が清軍を率いて陥す","1647年四月に松江の清の提督呉勝兆が明に帰ろうと謀ったが、事が漏れて誅され、持ち主は変わらない":"1647年四月に｜松江《しょうこう》の清の提督呉勝兆が明に帰ろうと謀ったが、事が漏れて誅され、持ち主は変わらない","西安":"｜西安《せいあん》","西安市":"｜西安《せいあん》市","陝西の省治":"｜陝西《せんせい》の省治","李自成が西安を陥し、長安と改めて西京とする":"｜李自成《りじせい》が｜西安《せいあん》を陥し、｜長安《ちょうあん》と改めて西京とする","多鐸の軍が西安に至り、李自成は商州へ逃れる":"｜多鐸《どど》の軍が｜西安《せいあん》に至り、｜李自成《りじせい》は｜商州《しょうしゅう》へ逃れる","順治二年正月":"｜順治《じゅんち》二年正月","潼関":"｜潼関《どうかん》","潼関県":"｜潼関《どうかん》県","関中の東の関門":"｜関中《かんちゅう》の東の関門","李自成が潼関を破り、督師孫伝庭が戦死":"｜李自成《りじせい》が｜潼関《どうかん》を破り、｜督師《とくし》孫伝庭が戦死","清軍が潼関を囲んで大順軍を破り、守将馬世堯が降る":"清軍が｜潼関《どうかん》を囲んで｜大順《たいじゅん》軍を破り、守将馬世堯が降る","同州":"｜同州《どうしゅう》","西安府の属州":"｜西安《せいあん》府の属州","李自成が関中を取り、陝西全域が大順に帰す（同州を名指しした記事は見つからない）":"｜李自成《りじせい》が｜関中《かんちゅう》を取り、｜陝西《せんせい》全域が｜大順《たいじゅん》に帰す（｜同州《どうしゅう》を名指しした記事は見つからない）","清が陝西を平定する（同州を名指しした記事は見つからない）":"清が｜陝西《せんせい》を平定する（｜同州《どうしゅう》を名指しした記事は見つからない）","商州":"｜商州《しょうしゅう》","西安府の属州・武関道":"｜西安《せいあん》府の属州・｜武関《ぶかん》道","潼関を破った李自成が商州を屠り、関中を取る":"｜潼関《どうかん》を破った｜李自成《りじせい》が｜商州《しょうしゅう》を屠り、｜関中《かんちゅう》を取る","李自成が西安から商州を経て湖広へ去り、清が陝西を平定する":"｜李自成《りじせい》が｜西安《せいあん》から｜商州《しょうしゅう》を経て｜湖広《ここう》へ去り、清が｜陝西《せんせい》を平定する","鳳翔":"｜鳳翔《ほうしょう》","鳳翔県":"｜鳳翔《ほうしょう》県","関中西部の府城":"｜関中《かんちゅう》西部の府城","降らなかった鳳翔を李自成が屠る":"降らなかった｜鳳翔《ほうしょう》を｜李自成《りじせい》が屠る","清が一度鳳翔を下したが、漢中王を奉じた明の副総兵孫守法が副将賀珍を遣って鳳翔を取り戻し、十二月には西安を囲む":"清が一度｜鳳翔《ほうしょう》を下したが、｜漢中王《かんちゅうおう》を奉じた明の副｜総兵《そうへい》孫守法が副将賀珍を遣って｜鳳翔《ほうしょう》を取り戻し、十二月には｜西安《せ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囲で城中が飢え、部将楊震威が姜瓖を斬って清に降った":"長い包囲で城中が飢え、部将｜楊震《ようしん》威が姜瓖を斬って清に降った","順治六年八月":"｜順治《じゅんち》六年八月","代州":"｜代州《だいしゅう》","1635年の後金の侵入（寧武関を壊し代州・忻州に入った）では持ち主は変わっていない":"1635年の後金の侵入（寧｜武関《ぶかん》を壊し｜代州《だいしゅう》・｜忻州《きんしゅう》に入った）では持ち主は変わっていない","崇禎17年2月に李自成が代州を陥した（大順）。同年、清軍が大同・代州を定め、巡撫馬国柱が代州で着任した":"｜崇禎《すうてい》17年2月に｜李自成《りじせい》が｜代州《だいしゅう》を陥した（｜大順《たいじゅん》）。同年、清軍が｜大同《だいどう》・｜代州《だいしゅう》を定め、巡撫馬国柱が｜代州《だいしゅう》で着任した","順治元年七月":"｜順治《じゅんち》元年七月","寧武関":"寧｜武関《ぶかん》","崇禎17年2月に周遇吉が守る寧武関が李自成に陥された（大順）。同年中に清が山西を平定した":"｜崇禎《すうてい》17年2月に周遇吉が守る寧｜武関《ぶかん》が｜李自成《りじせい》に陥された（｜大順《たいじゅん》）。同年中に清が｜山西《さんせい》を平定した","順治元年十一月":"｜順治《じゅんち》元年十一月","汾州":"｜汾州《ふんしゅう》","汾州府":"｜汾州《ふんしゅう》府","崇禎17年2月に李自成が汾州を陥した（大順）。同年、清軍が汾州・平陽・潞安・沢州を順に定めた":"｜崇禎《すうてい》17年2月に｜李自成《りじせい》が｜汾州《ふんしゅう》を陥した（｜大順《たいじゅん》）。同年、清軍が｜汾州《ふんしゅう》・｜平陽《へいよう》・潞安・沢州を順に定めた","1649年4月に姜瓖の党が汾州を陥したが、同年9月に満達海・博洛が奪い返したので、歳末の持ち主は清のまま":"1649年4月に姜瓖の党が｜汾州《ふんしゅう》を陥したが、同年9月に満｜達海《たつかい》・博洛が奪い返したので、歳末の持ち主は清のまま","平陽":"｜平陽《へいよう》","平陽府":"｜平陽《へいよう》府","李自成の軍が黄河を渡って平陽を陥し、山西の州県が相次いで降った":"｜李自成《りじせい》の軍が｜黄河《こうが》を渡って｜平陽《へいよう》を陥し、｜山西《さんせい》の州県が相次いで降った","清の石廷柱・巴哈納らが平陽で大順の軍を破り、山西が平定された":"清の石廷柱・巴哈納らが｜平陽《へいよう》で｜大順《たいじゅん》の軍を破り、｜山西《さんせい》が平定された","1649年に姜瓖に応じた勢力に陥されたが、同年9月に満達海・博洛が奪い返したので、歳末の持ち主は清のまま":"1649年に姜瓖に応じた勢力に陥されたが、同年9月に満｜達海《たつかい》・博洛が奪い返したので、歳末の持ち主は清のまま","崇禎17年2月に潞安が大順に陥された。同年、清軍が汾州・平陽・潞安・沢州を順に定めた":"｜崇禎《すうてい》17年2月に潞安が｜大順《たいじゅん》に陥された。同年、清軍が｜汾州《ふんしゅう》・｜平陽《へいよう》・潞安・沢州を順に定めた","沢州。1632年に流賊に陥されたが、流寇として去ったので持ち主は変えない":"沢州。1632年に｜流賊《りゅうぞく》に陥されたが、流寇として去ったので持ち主は変えない","崇禎17年春に山西全域が大順の手に落ちた。同年、清軍が汾州・平陽・潞安・沢州を順に定めた":"｜崇禎《すうてい》17年春に｜山西《さんせい》全域が｜大順《たいじゅん》の手に落ちた。同年、清軍が｜汾州《ふんしゅう》・｜平陽《へいよう》・潞安・沢州を順に定めた","蒲州":"｜蒲州《ほしゅう》","永済市":"｜永済《えいせい》市","蒲州（平陽府に属す）。黄河の渡し場（蒲津）":"｜蒲州《ほしゅう》（｜平陽《へいよう》府に属す）。｜黄河《こうが》の渡し場（蒲津）","崇禎17年2月に李自成が黄河を渡って蒲州を陥した（大順）。同年十二月には清軍が蒲州から黄河を渡って陝西を攻めており、蒲州は清の手にあった":"｜崇禎《すうてい》17年2月に｜李自成《りじせい》が｜黄河《こうが》を渡って｜蒲州《ほしゅう》を陥した（｜大順《たいじゅん》）。同年十二月には清軍が｜蒲州《ほしゅう》から｜黄河《こうが》を渡って｜陝西《せんせい》を攻めており、｜蒲州《ほしゅう》は清の手にあった","順治元年十二月":"｜順治《じゅんち》元年十二月","1649年8月に姜瓖の党（虞允・白漳ら）が蒲州を陥したが、孟喬芳が同年中に奪い返したので、歳末の持ち主は清のまま":"1649年8月に姜瓖の党（虞允・白漳ら）が｜蒲州《ほしゅう》を陥したが、孟喬芳が同年中に奪い返したので、歳末の持ち主は清のまま","河南の省治。周王府があった。・1642年の李自成の包囲を守り抜いた":"｜河南《かなん》の省治。｜周王《しゅうおう》府があった。・1642年の｜李自成《りじせい》の包囲を守り抜いた","黄河の決壊で城が水没し、周王・巡撫らは舟で城を出た。李自成の軍も城に残らず西へ去り、城は無人になった":"｜黄河《こうが》の決壊で城が水没し、｜周王《しゅうおう》・巡撫らは舟で城を出た。｜李自成《りじせい》の軍も城に残らず西へ去り、城は無人になった","崇禎17年正月には大順の偽巡撫梁啓隆が開封にいたが、5月に陳潜夫・劉洪起が杞県の偽官を捕えると逃げ去った。弘光朝廷は許定国を開封などの鎮守に任じた":"｜崇禎《すうてい》17年正月には｜大順《たいじゅん》の偽巡撫梁啓隆が開封にいたが、5月に陳潜夫・劉洪起が杞県の偽官を捕えると逃げ去った。｜弘光《こうこう》朝廷は許｜定国《ていこく》を開封などの鎮守に任じた","清の多鐸の軍が虎牢関から河南に入り、通過する所が迎え降って河南が平定された":"清の｜多鐸《どど》の軍が｜虎牢《ころう》関から｜河南《かなん》に入り、通過する所が迎え降って｜河南《かなん》が平定された","河南府（洛陽）":"｜河南《かなん》府（｜洛陽《らくよう》）","河南府":"｜河南《かなん》府","洛陽市":"｜洛陽《らくよう》市","河南府。福王府があった":"｜河南《かなん》府。｜福王《ふくおう》府があった","1641年正月に李自成が洛陽を陥して福王を殺したが、そのときは王府の金を飢民に配ってすぐ開封へ移った（流寇としての略奪で、持ち主は変えない）。崇禎16年冬には黄河以南の五府がすべて大順に握られていた":"1641年正月に｜李自成《りじせい》が｜洛陽《らくよう》を陥して｜福王《ふくおう》を殺したが、そのときは王府の金を｜飢民《きみん》に配ってすぐ開封へ移った（流寇としての略奪で、持ち主は変えない）。｜崇禎《すうてい》16年冬には｜黄河《こうが》以南の五府がすべて｜大順《たいじゅん》に握られていた","大順は北京を失った後も黄河以南を守っていたが、十二月に清の多鐸の軍が孟津に至り、清軍が河南府に入って明の総兵李際遇が降った":"｜大順《たいじゅん》は北京を失った後も｜黄河《こうが》以南を守っていたが、十二月に清の｜多鐸《どど》の軍が孟津に至り、清軍が｜河南《かなん》府に入って明の｜総兵《そうへい》李際遇が降った","懐慶":"｜懐慶《かいけい》","懐慶府。鄭王府があった":"｜懐慶《かいけい》府。｜鄭王《ていおう》府があった","崇禎17年2月に大順の別将が懐慶を陥した。同年、清の葉臣の軍が直隷から懐慶までの府県を下し、河北道が懐慶に駐して大順の反撃を退けた":"｜崇禎《すうてい》17年2月に｜大順《たいじゅん》の別将が｜懐慶《かいけい》を陥した。同年、清の葉臣の軍が｜直隷《ちょくれい》から｜懐慶《かいけい》までの府県を下し、｜河北《かほく》道が｜懐慶《かいけい》に駐して｜大順《たいじゅん》の反撃を退けた","1674年に河北総兵蔡禄が呉三桂に応じようとしたが、挙兵の前に懐慶で捕えられて誅されたので、持ち主は変わらない":"1674年に｜河北《かほく》｜総兵《そうへい》蔡禄が｜呉三桂《ごさんけい》に応じようとしたが、挙兵の前に｜懐慶《かいけい》で捕えられて誅されたので、持ち主は変わらない","衛輝府。潞王府があった":"衛輝府。｜潞王《ろおう》府があった","崇禎17年の大順の河南進出のあと、同年中に清の葉臣の軍が懐慶までの近傍の府県を下し、祖可法が衛輝総兵となった。十二月には彰徳・衛輝の清軍が孟津から東へ渡っている":"｜崇禎《すうてい》17年の｜大順《たいじゅん》の｜河南《かなん》進出のあと、同年中に清の葉臣の軍が｜懐慶《かいけい》までの近傍の府県を下し、祖可法が衛輝｜総兵《そうへい》となった。十二月には彰徳・衛輝の清軍が孟津から東へ渡っている","彰徳府。趙王府があった":"｜彰徳府《しょうとくふ》。｜趙王《ちょうおう》府があった","崇禎17年2月に大順の軍が彰徳に至り趙王が降った。同年中に清に帰し、十二月には彰徳・衛輝の清軍が孟津から東へ渡っている。翌年正月には清が安陽などの税を免じている":"｜崇禎《すうてい》17年2月に｜大順《たいじゅん》の軍が彰徳に至り｜趙王《ちょうおう》が降った。同年中に清に帰し、十二月には彰徳・衛輝の清軍が孟津から東へ渡っている。翌年正月には清が安陽などの税を免じている","1674年、清史稿の呉三桂伝は「蔡禄反彰徳」と書くが、蔡禄伝では挙兵前に捕えられて誅されており、持ち主は変わらない":"1674年、｜清史稿《しんしこう》の｜呉三桂《ごさんけい》伝は「蔡禄反彰徳」と書くが、蔡禄伝では挙兵前に捕えられて誅されており、持ち主は変わらない","帰徳":"｜帰徳《きとく》","帰徳府":"｜帰徳《きとく》府","1642年3月に李自成が帰徳を陥したが、残破して去った（流寇。持ち主は変えない）。崇禎16年冬には黄河以南の五府がすべて大順に握られ、帰徳にも大順の官がいた":"1642年3月に｜李自成《りじせい》が｜帰徳《きとく》を陥したが、残破して去った（流寇。持ち主は変えない）。｜崇禎《すうてい》16年冬には｜黄河《こうが》以南の五府がすべて｜大順《たいじゅん》に握られ、｜帰徳《きとく》にも｜大順《たいじゅん》の官がいた","福王（弘光）の時、丁啓睿が帰徳の大順の偽官を捕えて斬った。十二月、弘光朝廷は高傑を帰徳に進ませて清に備えた":"｜福王《ふくおう》（｜弘光《こうこう》）の時、丁啓睿が｜帰徳《きとく》の｜大順《たいじゅん》の偽官を捕えて斬った。十二月、｜弘光《こうこう》朝廷は高傑を｜帰徳《きとく》に進ませて清に備えた","正月に許定国が睢州で高傑を誘殺して清に降り、続いて清軍が南下して帰徳を取り、巡按凌駉が死んだ":"正月に許｜定国《ていこく》が睢州で高傑を誘殺して清に降り、続いて清軍が南下して｜帰徳《きとく》を取り、巡按凌駉が死んだ","陳州":"｜陳州《ちんしゅう》","陳州（開封府に属す）":"｜陳州《ちんしゅう》（｜開封府《かいほうふ》に属す）","1642年3月に李自成が陳州を屠ったが、去っていった（流寇。持ち主は変えない）。崇禎16年冬には黄河以南の五府（陳州の属する開封府を含む）が大順に握られていた":"1642年3月に｜李自成《りじせい》が｜陳州《ちんしゅう》を屠ったが、去っていった（流寇。持ち主は変えない）。｜崇禎《すうてい》16年冬には｜黄河《こうが》以南の五府（｜陳州《ちんしゅう》の属する｜開封府《かいほうふ》を含む）が｜大順《たいじゅん》に握られていた","北京陥落後、劉洪起・陳潜夫が開封・南陽の大順の偽官を捕えて南京へ送り、劉洪起は南は楚・潁から北は黄河までを従えた":"北京陥落後、劉洪起・陳潜夫が開封・｜南陽《なんよう》の｜大順《たいじゅん》の偽官を捕えて｜南京《なんきん》へ送り、劉洪起は南は楚・潁から北は｜黄河《こうが》までを従えた","清の多鐸の軍が河南を通過し、通過する所が迎え降って河南が平定された":"清の｜多鐸《どど》の軍が｜河南《かなん》を通過し、通過する所が迎え降って｜河南《かなん》が平定された","汝州":"｜汝州《じょしゅう》","汝州市":"｜汝州《じょしゅう》市","汝州（直隷州）":"｜汝州《じょしゅう》（｜直隷《ちょくれい》州）","1643年9月に孫伝庭が汝州に至ると大順の偽都尉李養純が降り、1644年春には明の副総兵沈万登が汝州にいた。5月に劉洪起が汝州を破って沈万登を殺し、6月に大順の袁宗第が5日だけ城に拠って陝西へ去った。劉洪起は弘光朝廷に偽官を送って総兵に任じられた":"1643年9月に孫伝庭が｜汝州《じょしゅう》に至ると｜大順《たいじゅん》の偽｜都尉《とい》李養純が降り、1644年春には明の副｜総兵《そうへい》沈万登が｜汝州《じょしゅう》にいた。5月に劉洪起が｜汝州《じょしゅう》を破って沈万登を殺し、6月に｜大順《たいじゅん》の袁宗第が5日だけ城に拠って｜陝西《せんせい》へ去った。劉洪起は｜弘光《こうこう》朝廷に偽官を送って｜総兵《そうへい》に任じられた","南陽":"｜南陽《なんよう》","南陽市":"｜南陽《なんよう》市","南陽府。唐王府があった":"｜南陽《なんよう》府。｜唐王《とうおう》府があった","1641年11月に李自成が南陽を陥して唐王を殺し、1642年にも再び屠ったが、いずれも去っていった（流寇。持ち主は変えない）。崇禎16年冬には黄河以南の五府がすべて大順に握られていた":"1641年11月に｜李自成《りじせい》が｜南陽《なんよう》を陥して｜唐王《とうおう》を殺し、1642年にも再び屠ったが、いずれも去っていった（流寇。持ち主は変えない）。｜崇禎《すうてい》16年冬には｜黄河《こうが》以南の五府がすべて｜大順《たいじゅん》に握られていた","劉洪起が南陽の大順の偽官を捕え、十月には土寨の首領蕭応訓が南陽を回復して、巡按陳潜夫から告身を受けた":"劉洪起が｜南陽《なんよう》の｜大順《たいじゅん》の偽官を捕え、十月には土寨の首領蕭応訓が｜南陽《なんよう》を回復して、巡按陳潜夫から告身を受けた","清の韓岱らの軍が南陽を経て帰徳で合流し、通過する所が迎え降って河南が平定された":"清の韓岱らの軍が｜南陽《なんよう》を経て｜帰徳《きとく》で合流し、通過する所が迎え降って｜河南《かなん》が平定された","1642年閏11月に李自成が汝寧を陥して崇王を連れ去り、襄陽へ向かった。崇禎16年冬には黄河以南の五府がすべて大順に握られていた":"1642年閏11月に｜李自成《りじせい》が汝寧を陥して崇王を連れ去り、｜襄陽《じょうよう》へ向かった。｜崇禎《すうてい》16年冬には｜黄河《こうが》以南の五府がすべて｜大順《たいじゅん》に握られていた","劉洪起が大順の偽官を捕えて南京へ送り、総兵に任じられて汝寧の御史公署を帥府とした":"劉洪起が｜大順《たいじゅん》の偽官を捕えて｜南京《なんきん》へ送り、｜総兵《そうへい》に任じられて汝寧の御史公署を帥府とした","順治二年七月":"｜順治《じゅんち》二年七月","信陽":"｜信陽《しんよう》","信陽市":"｜信陽《しんよう》市","信陽州（汝寧府に属す）":"｜信陽《しんよう》州（汝寧府に属す）","1642年に李自成が確山・信陽を通って襄陽へ向かった。崇禎16年冬には汝寧府を含む黄河以南の五府がすべて大順に握られていた":"1642年に｜李自成《りじせい》が確山・｜信陽《しんよう》を通って｜襄陽《じょうよう》へ向かった。｜崇禎《すうてい》16年冬には汝寧府を含む｜黄河《こうが》以南の五府がすべて｜大順《たいじゅん》に握られていた","北京陥落後、劉洪起が汝寧を帥府とし、南は楚・潁から北は黄河までを従えた":"北京陥落後、劉洪起が汝寧を帥府とし、南は楚・潁から北は｜黄河《こうが》までを従えた","成都":"｜成都《せいと》","成都市":"｜成都《せいと》市","四川の省治。蜀王府の所在":"｜四川《しせん》の省治。｜蜀王《しょくおう》府の所在","張献忠が成都を陥し、蜀王・巡撫龍文光らが死ぬ。十一月に献忠が成都で帝を称し、国号を大西とし成都を西京とする":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が｜成都《せいと》を陥し、｜蜀王《しょくおう》・巡撫龍文光らが死ぬ。十一月に｜献忠《けんちゅう》が｜成都《せいと》で帝を称し、国号を｜大西《たいせい》とし｜成都《せいと》を西京とする","順治元年八月":"｜順治《じゅんち》元年八月","張献忠が成都の宮殿を焼き城を毀して川北へ去る。その後の成都は廃墟で、守る官の記事がない":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が｜成都《せいと》の宮殿を焼き城を毀して｜川北《せんぽく》へ去る。その後の｜成都《せいと》は廃墟で、守る官の記事がない","順治三年七月":"｜順治《じゅんち》三年七月","清の呉三桂・李国翰が成都を取るが、劉文秀の反攻で呉三桂が取った郡邑は次々に失われ、呉三桂は保寧へ退く。1654年には孫可望らが成都を破っていたと李国英伝にある":"清の｜呉三桂《ごさんけい》・李国翰が｜成都《せいと》を取るが、｜劉文《りゅうぶん》秀の反攻で｜呉三桂《ごさんけい》が取った郡邑は次々に失われ、｜呉三桂《ごさんけい》は｜保寧《ほねい》へ退く。1654年には孫｜可望《かぼう》らが｜成都《せいと》を破っていたと李国英伝にある","清軍が成都を取り、明の総兵趙友鄢らが降る":"清軍が｜成都《せいと》を取り、明の｜総兵《そうへい》趙友鄢らが降る","順治十六年六月":"｜順治《じゅんち》十六年六月","呉三桂の挙兵に呼応して四川の総兵呉之茂・提督鄭蛟麟らが叛き、巡撫羅森も降る。四川全体が周の側に移る":"｜呉三桂《ごさんけい》の挙兵に呼応して｜四川《しせん》の｜総兵《そうへい》呉之茂・提督鄭蛟麟らが叛き、巡撫羅森も降る。｜四川《しせん》全体が周の側に移る","康熙十三年正月":"｜康熙《こうき》十三年正月","趙良棟が龍安・綿竹を経て成都に入り、偽巡撫張文らが迎え降る":"｜趙《ちょう》｜良棟《りょうとう》が龍安・｜綿竹《めんちく》を経て｜成都《せいと》に入り、偽巡撫張文らが迎え降る","康熙十九年正月":"｜康熙《こうき》十九年正月","保寧":"｜保寧《ほねい》","川北の府城":"｜川北《せんぽく》の府城","保寧ははじめ李自成（大順）に降って官が置かれたが、張献忠がそれを逐って党を置いて保寧を拠る":"｜保寧《ほねい》ははじめ｜李自成《りじせい》（｜大順《たいじゅん》）に降って官が置かれたが、｜張献忠《ちょうけんちゅう》がそれを逐って党を置いて｜保寧《ほねい》を拠る","大西の保寧守将劉進忠が漢中で清に帰順して道案内となり、粛親王豪格の軍が保寧府の南部県に至って張献忠を斬る":"｜大西《たいせい》の｜保寧《ほねい》守将｜劉《りゅう》｜進忠《しんちゅう》が｜漢中《かんちゅう》で清に帰順して道案内となり、｜粛親王《しゅくしんのう》｜豪格《ごうかく》の軍が｜保寧《ほねい》府の南部県に至って｜張献忠《ちょうけんちゅう》を斬る","王進宝が保寧を取り戻し、呉三桂の将王屏藩が縊死し呉之茂が捕らわれる":"王進宝が｜保寧《ほねい》を取り戻し、｜呉三桂《ごさんけい》の将王屏藩が｜縊死《いし》し呉之茂が捕らわれる","張献忠の将張化龍が龍安を陥す":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》の将張化龍が龍安を陥す","松潘副将朱化龍・同知詹天顔が龍安・茂州を取り戻す。弘光が滅んだ後、四川の明の諸将は隆武の封を受けている":"｜松潘《しょうはん》副将朱化龍・同知詹天顔が龍安・茂州を取り戻す。｜弘光《こうこう》が滅んだ後、｜四川《しせん》の明の諸将は｜隆武《りゅうぶ》の封を受けている","隆武帝の死後、永暦（桂王）が肇慶で監国し、楚・滇・黔・蜀に詔を頒つ":"｜隆武帝《りゅうぶてい》の死後、｜永暦《えいれき》（桂王）が｜肇慶《ちょうけい》で｜監国《かんこく》し、楚・滇・黔・蜀に詔を頒つ","南明の定随侯趙栄貴が龍安で清軍と戦って敗死し、李国英が安県・彰明を取り石泉を徇える":"｜南明《なんみん》の定随侯趙栄貴が龍安で清軍と戦って敗死し、李国英が安県・彰明を取り石泉を徇える","順治六年正月":"｜順治《じゅんち》六年正月","趙良棟が龍安府を取り戻す":"｜趙《ちょう》｜良棟《りょうとう》が龍安府を取り戻す","順慶ははじめ李自成に降ったが、張献忠の将馬元利が下して守る":"順慶ははじめ｜李自成《りじせい》に降ったが、｜張献忠《ちょうけんちゅう》の将馬元利が下して守る","張献忠が順慶府の西充で清軍に斬られ、大西軍は南へ潰走する。清軍も追撃して南へ去り、順慶に官を置いた記事がない":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が順慶府の｜西充《せいじゅう》で清軍に斬られ、｜大西《たいせい》軍は南へ潰走する。清軍も追撃して南へ去り、順慶に官を置いた記事がない","清軍が順慶を攻め、四川巡撫李国英が順慶を拠った王命臣を破って城を取る":"清軍が順慶を攻め、｜四川《しせん》巡撫李国英が順慶を拠った王命臣を破って城を取る","張献忠が四川の府州県を手分けして陥し全蜀を拠ったとされる（達州を名指しした記事はない）":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が｜四川《しせん》の｜府州《ふしゅう》県を手分けして陥し全蜀を拠ったとされる（達州を名指しした記事はない）","大西の崩壊後、川東北は姚黄（揺黄）諸家などの土寇が入り乱れ、誰の城とも言えない":"｜大西《たいせい》の崩壊後、川東北は姚黄（揺黄）諸家などの土寇が入り乱れ、誰の城とも言えない","呉三桂が重慶に入ったとき、達州には南明側の楊秉允らが兵を連ねて守っていた":"｜呉三桂《ごさんけい》が｜重慶《じゅうけい》に入ったとき、達州には｜南明《なんみん》側の楊秉允らが兵を連ねて守っていた","順治十五年三月":"｜順治《じゅんち》十五年三月","永暦帝が殺された後、川東・鄂西の山地に残った諸軍は夔東の十三家として清に抗する":"｜永暦帝《えいれきてい》が殺された後、川東・鄂西の山地に残った諸軍は夔東の十三家として清に抗する","清が三省会剿で茅麓山の李来亨・郝揺旗を滅ぼし、夔東の抵抗が終わる":"清が｜三省《さんせい》会剿で茅麓山の李来亨・郝揺旗を滅ぼし、夔東の抵抗が終わる","康熙三年八月":"｜康熙《こうき》三年八月","清は1680年三月に達州を定めたが、同年九月の譚弘の再叛のあと失い、総兵高孟が二十年正月に達州を取り戻す":"清は1680年三月に達州を定めたが、同年九月の譚弘の｜再叛《さいはん》のあと失い、｜総兵《そうへい》高孟が二十年正月に達州を取り戻す","康熙二十年正月":"｜康熙《こうき》二十年正月","川東の府城。長江の三峡の入口":"川東の府城。｜長江《ちょうこう》の｜三峡《さんきょう》の入口","張献忠が夔州を陥して四川に入る":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が夔州を陥して｜四川《しせん》に入る","夔州・万県は明の譚弘・譚詣が拠り、総督樊一蘅の調発を奉じる。年末には永暦が蜀に詔を頒つ":"夔州・万県は明の譚弘・譚詣が拠り、総督樊一蘅の調発を奉じる。年末には｜永暦《えいれき》が蜀に詔を頒つ","南明の夔州巡撫鄧希明・総兵張元凱が清に降る":"｜南明《なんみん》の夔州巡撫鄧希明・｜総兵《そうへい》張元凱が清に降る","呉三桂の挙兵に呼応して四川が叛き、夔州一帯の総兵譚弘も周の側に付く":"｜呉三桂《ごさんけい》の挙兵に呼応して｜四川《しせん》が叛き、夔州一帯の｜総兵《そうへい》譚弘も周の側に付く","重慶":"｜重慶《じゅうけい》","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","奢崇明":"｜奢崇明《しゃすうめい》","永寧宣撫使奢崇明が叛き、巡撫徐可求を殺して重慶を拠る":"｜永寧《えいねい》宣撫使｜奢崇明《しゃすうめい》が叛き、巡撫徐可求を殺して｜重慶《じゅうけい》を拠る","秦良玉・杜文煥が仏図関で賊を破り、官軍が重慶を囲んで取り戻す":"秦良玉・杜文煥が｜仏図《ぶっと》関で賊を破り、官軍が｜重慶《じゅうけい》を囲んで取り戻す","張献忠が重慶を陥し、瑞王常浩・巡撫陳士奇らが死ぬ":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が｜重慶《じゅうけい》を陥し、瑞王常浩・巡撫陳士奇らが死ぬ","摂巡撫馬乾が曾英を遣わして大西の将劉廷挙を逐い、重慶を取り戻して守る。曾英は隆武から平寇伯に封じられている":"摂巡撫馬乾が曾英を遣わして｜大西《たいせい》の将劉廷挙を逐い、｜重慶《じゅうけい》を取り戻して守る。曾英は｜隆武《りゅうぶ》から平寇伯に封じられている","張献忠の死後、清軍が大西の残党を追って重慶に至り、明の巡撫馬乾が戦死する":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》の死後、清軍が｜大西《たいせい》の残党を追って｜重慶《じゅうけい》に至り、明の巡撫馬乾が戦死する","清軍が兵糧不足で引き揚げた後、南明の川北総督李乾徳が袁韜の兵で重慶に入る":"清軍が兵糧不足で引き揚げた後、｜南明《なんみん》の｜川北《せんぽく》総督｜李乾《りけん》徳が袁韜の兵で｜重慶《じゅうけい》に入る","順治四年九月":"｜順治《じゅんち》四年九月","孫可望":"孫｜可望《かぼう》","孫可望が劉文秀らを四川に入れ、劉文秀は別将盧名臣に重慶を取らせる":"孫｜可望《かぼう》が｜劉文《りゅうぶん》秀らを｜四川《しせん》に入れ、｜劉文《りゅうぶん》秀は別将盧名臣に｜重慶《じゅうけい》を取らせる","順治七年九月":"｜順治《じゅんち》七年九月","三月に清軍が仏図関を破って重慶を取るが、永暦帝を安龍に迎えた孫可望の命で入蜀した劉文秀が七月に重慶を取り返す":"三月に清軍が｜仏図《ぶっと》関を破って｜重慶《じゅうけい》を取るが、｜永暦帝《えいれきてい》を｜安龍《あんりゅう》に迎えた孫｜可望《かぼう》の命で入蜀した｜劉文《りゅうぶん》秀が七月に｜重慶《じゅうけい》を取り返す","呉三桂らの清軍が合州に至り、南明の重慶総兵杜子香が城を棄てて逃げる。呉三桂は総兵厳自明・程廷俊に重慶を守らせる":"｜呉三桂《ごさんけい》らの清軍が合州に至り、｜南明《なんみん》の｜重慶《じゅうけい》｜総兵《そうへい》杜子香が城を棄てて逃げる。｜呉三桂《ごさんけい》は｜総兵《そうへい》厳自明・程廷俊に｜重慶《じゅうけい》を守らせる","呉丹が重慶を取り戻す":"呉丹が｜重慶《じゅうけい》を取り戻す","奢崇明が重慶を拠った後、兵を分けて合江・納渓・瀘州を陥す":"｜奢崇明《しゃすうめい》が｜重慶《じゅうけい》を拠った後、兵を分けて合江・納渓・瀘州を陥す","重慶を取り戻した後、朱燮元の遣わした諸将が建武・長寧を取り、瀘州もまもなく回復する":"｜重慶《じゅうけい》を取り戻した後、朱燮元の遣わした諸将が｜建武《けんぶ》・長寧を取り、瀘州もまもなく回復する","張献忠が瀘州を陥す":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が瀘州を陥す","明の侯天錫・高明佐が瀘州を取り、督師王応熊と総督樊一蘅が瀘州で会して諸路の兵を発する。年末には永暦が蜀に詔を頒つ":"明の侯天錫・高明佐が瀘州を取り、｜督師《とくし》王｜応熊《おうゆう》と総督樊一蘅が瀘州で会して｜諸路《しょろ》の兵を発する。年末には｜永暦《えいれき》が蜀に詔を頒つ","順治三年三月":"｜順治《じゅんち》三年三月","清軍が叙州・馬湖・成都を取り、川南の南明の拠点が降る（瀘州を名指しした記事はない）":"清軍が叙州・馬湖・｜成都《せいと》を取り、川南の｜南明《なんみん》の拠点が降る（瀘州を名指しした記事はない）","重慶にいた呉三桂の偽総兵李芳述が重慶・瀘州・叙州所属の文武の吏を率いて降り、佛尼埒が瀘州を取る。九月に譚弘の再叛で瀘州を失うが、同じ月の戊寅に呉丹が取り戻す":"｜重慶《じゅうけい》にいた｜呉三桂《ごさんけい》の偽｜総兵《そうへい》李芳述が｜重慶《じゅうけい》・瀘州・叙州所属の文武の吏を率いて降り、佛尼埒が瀘州を取る。九月に譚弘の｜再叛《さいはん》で瀘州を失うが、同じ月の戊寅に呉丹が取り戻す","張献忠が叙州を陥し、在籍の前湖広布政使尹伸が死ぬ":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が叙州を陥し、在籍の前｜湖広《ここう》布政使尹伸が死ぬ","督師王応熊・総督樊一蘅が兵を遣わして叙州を取り戻す":"｜督師《とくし》王｜応熊《おうゆう》・総督樊一蘅が兵を遣わして叙州を取り戻す","永暦が監国して蜀に詔を頒つ。のち1648年の記事では、樊一蘅が実際に保ったのは叙州一府だけだったとされる":"｜永暦《えいれき》が｜監国《かんこく》して蜀に詔を頒つ。のち1648年の記事では、樊一蘅が実際に保ったのは叙州一府だけだったとされる","清軍が馬湖・叙州を取り、南明の提督陳希賢が降る":"清軍が馬湖・叙州を取り、｜南明《なんみん》の提督陳希賢が降る","清は1680年に叙州を一度収めたが、同年冬には呉世璠の将胡国柱が叙州に拠っていた。1681年に胡国柱が叙州を棄てて逃げ、佛尼埒が守る":"清は1680年に叙州を一度収めたが、同年冬には｜呉世璠《ごせいはん》の将｜胡《こ》｜国柱《こくちゅう》が叙州に拠っていた。1681年に｜胡《こ》｜国柱《こくちゅう》が叙州を棄てて逃げ、佛尼埒が守る","康熙二十年":"｜康熙《こうき》二十年","嘉定":"｜嘉定《かてい》","張献忠が嘉定を陥し、知州朱儀が死ぬ":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が｜嘉定《かてい》を陥し、｜知州《ちしゅう》朱儀が死ぬ","明の武進士楊展が犍為で大西の偽官を誅し、嘉定を襲って州人が門を開いて迎え入れる":"明の武進士楊展が犍為で｜大西《たいせい》の偽官を誅し、｜嘉定《かてい》を襲って州人が門を開いて迎え入れる","楊展が嘉定を拠り、永暦が蜀に詔を頒つ":"楊展が｜嘉定《かてい》を拠り、｜永暦《えいれき》が蜀に詔を頒つ","孫可望の将劉文秀が嘉定を取り、南明の総督李乾徳が死ぬ":"孫｜可望《かぼう》の将｜劉文《りゅうぶん》秀が｜嘉定《かてい》を取り、｜南明《なんみん》の総督｜李乾《りけん》徳が死ぬ","順治八年十月":"｜順治《じゅんち》八年十月","二月に呉三桂の清軍が嘉定を取るが、七月からの劉文秀の反攻で呉三桂が取った郡邑は次々に失われる。1654年に嘉定は明に守られていた":"二月に｜呉三桂《ごさんけい》の清軍が｜嘉定《かてい》を取るが、七月からの｜劉文《りゅうぶん》秀の反攻で｜呉三桂《ごさんけい》が取った郡邑は次々に失われる。1654年に｜嘉定《かてい》は明に守られていた","南明の延長伯朱養恩・総兵龍賛陽が嘉定州ごと清に降る":"｜南明《なんみん》の延｜長伯《ちょうはく》朱養恩・｜総兵《そうへい》龍賛陽が｜嘉定《かてい》州ごと清に降る","順治十六年闰三月":"｜順治《じゅんち》十六年闰三月","趙良棟が成都を、王進宝が保寧を取り、四川の郡県が次々に定まる（嘉定を名指しした記事はない）":"｜趙《ちょう》｜良棟《りょうとう》が｜成都《せいと》を、王進宝が｜保寧《ほねい》を取り、｜四川《しせん》の｜郡県《ぐんけん》が次々に定まる（｜嘉定《かてい》を名指しした記事はない）","雅州":"｜雅州《がしゅう》","張献忠の兵が雅州に至ったが、邛州の挙人劉道貞らが小関山で破った":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》の兵が｜雅州《がしゅう》に至ったが、邛州の挙人劉道貞らが小関山で破った","雅州知州王国臣が大西に降るが、土司馬京・馬亭らが大西の兵を雅州で破り、黎・雅二州を取り戻す。弘光の滅亡後、四川の明の諸将は隆武の封を受ける":"｜雅州《がしゅう》｜知州《ちしゅう》王国臣が｜大西《たいせい》に降るが、土｜司馬《しば》京・馬亭らが｜大西《たいせい》の兵を｜雅州《がしゅう》で破り、黎・雅二州を取り戻す。｜弘光《こうこう》の滅亡後、｜四川《しせん》の明の諸将は｜隆武《りゅうぶ》の封を受ける","永暦が監国して蜀に詔を頒つ。洪雅・雅州は曹勲らが拠る":"｜永暦《えいれき》が｜監国《かんこく》して蜀に詔を頒つ。洪雅・｜雅州《がしゅう》は曹勲らが拠る","孫可望の将劉文秀が雅州を陥す":"孫｜可望《かぼう》の将｜劉文《りゅうぶん》秀が｜雅州《がしゅう》を陥す","孫可望が永暦帝を安龍に迎える。この年、雅州を守った劉鎮国は呉三桂の清軍に追われて叙州へ走ったが、七月からの劉文秀の反攻で呉三桂が取った郡邑は次々に失われる":"孫｜可望《かぼう》が｜永暦帝《えいれきてい》を｜安龍《あんりゅう》に迎える。この年、｜雅州《がしゅう》を守った劉鎮国は｜呉三桂《ごさんけい》の清軍に追われて叙州へ走ったが、七月からの｜劉文《りゅうぶん》秀の反攻で｜呉三桂《ごさんけい》が取った郡邑は次々に失われる","南明の雅州伯高承恩が殺され、郝承裔が邛・眉などの州をもって清に降る":"｜南明《なんみん》の｜雅州《がしゅう》伯高｜承恩《しょうおん》が殺され、郝承裔が邛・眉などの州をもって清に降る","順治十六年十月":"｜順治《じゅんち》十六年十月","降将郝承裔が雅州で清に叛き、明に帰する":"降将郝承裔が｜雅州《がしゅう》で清に叛き、明に帰する","1659年に清に降った郝承裔が、1660年八月に雅州で叛いて明に帰した（公開前の点検で足した）":"1659年に清に降った郝承裔が、1660年八月に｜雅州《がしゅう》で叛いて明に帰した（公開前の点検で足した）","李国英が雅州を攻め、黎州へ逃げた郝承裔を1661年四月に捕らえた（公開前の点検で足した）":"李国英が｜雅州《がしゅう》を攻め、黎州へ逃げた郝承裔を1661年四月に捕らえた（公開前の点検で足した）","趙良棟が遊撃冶国用らを遣わして西の雅州を徇える":"｜趙《ちょう》｜良棟《りょうとう》が遊撃冶｜国用《こくよう》らを遣わして西の｜雅州《がしゅう》を徇える","四川行都司の衛城":"｜四川《しせん》行都司の衛城","張献忠の兵が建昌衛に入った記事はない":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》の兵が建昌衛に入った記事はない","弘光の滅亡後、四川の明の諸将は隆武の封を受けた":"｜弘光《こうこう》の滅亡後、｜四川《しせん》の明の諸将は｜隆武《りゅうぶ》の封を受けた","永暦が監国して蜀に詔を頒つ":"｜永暦《えいれき》が｜監国《かんこく》して蜀に詔を頒つ","孫可望の将劉文秀が金沙江を渡って建昌衛を攻め、在籍の前長沙知県高明が士民を集めて拒むが敗れて自焚する":"孫｜可望《かぼう》の将｜劉文《りゅうぶん》秀が金沙江を渡って建昌衛を攻め、在籍の前｜長沙《ちょうさ》知県高明が士民を集めて拒むが敗れて｜自焚《じふん》する","孫可望が永暦帝を安龍に迎え、その諸将の地は永暦の地となる":"孫｜可望《かぼう》が｜永暦帝《えいれきてい》を｜安龍《あんりゅう》に迎え、その諸将の地は｜永暦《えいれき》の地となる","白文選の部将王安らが建昌衛から雲南に至って清に降り、印を納める":"白文選の部将王安らが建昌衛から｜雲南《うんなん》に至って清に降り、印を納める","趙良棟の遣わした冶国用らが象嶺・建昌諸衛を取り戻す":"｜趙《ちょう》｜良棟《りょうとう》の遣わした冶｜国用《こくよう》らが象嶺・建昌諸衛を取り戻す","四川に属する府城（播州の旧地）":"｜四川《しせん》に属する府城（｜播州《はしゅう》の旧地）","奢崇明の党符国禎が遵義を襲って陥す":"｜奢崇明《しゃすうめい》の党符国禎が遵義を襲って陥す","遵義は二年三月にいったん回復したが、同年七月に永寧の賊が大壩を攻めて再び陥した。三年に四川軍が遵義を取り戻し、永寧へ進む":"遵義は二年三月にいったん回復したが、同年七月に｜永寧《えいねい》の賊が大壩を攻めて再び陥した。三年に｜四川《しせん》軍が遵義を取り戻し、｜永寧《えいねい》へ進む","張献忠が全蜀を拠ったとき、遵義一郡だけが陥ちなかった":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》が全蜀を拠ったとき、遵義一郡だけが陥ちなかった","督師王応熊が陥ちていない遵義に入って誓師する。弘光の滅亡後、四川の明の諸将は隆武の封を受ける":"｜督師《とくし》王｜応熊《おうゆう》が陥ちていない遵義に入って誓師する。｜弘光《こうこう》の滅亡後、｜四川《しせん》の明の諸将は｜隆武《りゅうぶ》の封を受ける","南明の忠国公王祥が烏江で劉文秀に敗れて死に、遵義が陥ちる":"｜南明《なんみん》の忠｜国公《こっこう》王祥が烏江で｜劉文《りゅうぶん》秀に敗れて死に、遵義が陥ちる","呉三桂らの清軍が三坡に至り、李定国の将劉正国が逃げて遵義を取る":"｜呉三桂《ごさんけい》らの清軍が三坡に至り、｜李《り》｜定国《ていこく》の将劉正国が逃げて遵義を取る","順治十五年四月":"｜順治《じゅんち》十五年四月","呉三桂の挙兵に呼応して四川が叛き、四川に属する遵義も周の側に移る":"｜呉三桂《ごさんけい》の挙兵に呼応して｜四川《しせん》が叛き、｜四川《しせん》に属する遵義も周の側に移る","三月に呉世璠の将馬宝が遵義を棄てて瀘州・叙州を犯し、五月に提督周卜世が遵義を取って偽官金仕俊らを降す":"三月に｜呉世璠《ごせいはん》の将馬宝が遵義を棄てて瀘州・叙州を犯し、五月に提督周卜世が遵義を取って偽官金仕俊らを降す","康熙二十年五月":"｜康熙《こうき》二十年五月","重慶市万州区":"｜重慶《じゅうけい》市万州区","川東の県城。長江沿いで夔州と重慶の間":"川東の県城。｜長江《ちょうこう》沿いで夔州と｜重慶《じゅうけい》の間","夔州を陥した張献忠が万県に至り、水が出たため三月とどまる":"夔州を陥した｜張献忠《ちょうけんちゅう》が万県に至り、水が出たため三月とどまる","嘉定を取った劉文秀が長江を下り、譚弘・譚詣・譚文がみな劉文秀に降る":"｜嘉定《かてい》を取った｜劉文《りゅうぶん》秀が｜長江《ちょうこう》を下り、譚弘・譚詣・譚文がみな｜劉文《りゅうぶん》秀に降る","孫可望が永暦帝を安龍に迎え、その諸将の地は永暦の地となる。1654年にも重慶・夔州は明に守られていた":"孫｜可望《かぼう》が｜永暦帝《えいれきてい》を｜安龍《あんりゅう》に迎え、その諸将の地は｜永暦《えいれき》の地となる。1654年にも｜重慶《じゅうけい》・夔州は明に守られていた","重慶を攻めた譚文を弟の譚詣が殺し、譚弘・譚詣が清に降る":"｜重慶《じゅうけい》を攻めた譚文を弟の譚詣が殺し、譚弘・譚詣が清に降る","順治十六年正月":"｜順治《じゅんち》十六年正月","呉三桂の挙兵に呼応して四川が叛き、総兵譚弘も周の側に付く":"｜呉三桂《ごさんけい》の挙兵に呼応して｜四川《しせん》が叛き、｜総兵《そうへい》譚弘も周の側に付く","重慶市忠県":"｜重慶《じゅうけい》市忠県","川東の州城。長江沿いで重慶と万県の間":"川東の州城。｜長江《ちょうこう》沿いで｜重慶《じゅうけい》と万県の間","張献忠の軍が忠州で明の曾英に敗れたが、軍を忠州に屯して涪州・重慶へ進み、四川の府州県を手分けして陥す":"｜張献忠《ちょうけんちゅう》の軍が忠州で明の曾英に敗れたが、軍を忠州に屯して涪州・｜重慶《じゅうけい》へ進み、｜四川《しせん》の｜府州《ふしゅう》県を手分けして陥す","曾英の部将李占春・于大海が忠州・涪州を守る。年末には永暦が蜀に詔を頒つ":"曾英の部将李占春・于大海が忠州・涪州を守る。年末には｜永暦《えいれき》が蜀に詔を頒つ","劉文秀の別将盧名臣が涪州に入り、忠州の于大海は支えきれずに楚へ下って清に降る。川東の諸将は散り、譚氏はみな劉文秀に降る":"｜劉文《りゅうぶん》秀の別将盧名臣が涪州に入り、忠州の于大海は支えきれずに楚へ下って清に降る。川東の諸将は散り、譚氏はみな｜劉文《りゅうぶん》秀に降る","桂王に仕えた忠州副総兵陳世凱が、重慶に駐した川陝総督李国英に降る":"桂王に仕えた忠州副｜総兵《そうへい》陳｜世凱《せいがい》が、｜重慶《じゅうけい》に駐した川陝総督李国英に降る","順治十六年":"｜順治《じゅんち》十六年","呉三桂の挙兵に呼応して四川の総兵呉之茂・提督鄭蛟麟らが叛き、四川全体が周の側に移る":"｜呉三桂《ごさんけい》の挙兵に呼応して｜四川《しせん》の｜総兵《そうへい》呉之茂・提督鄭蛟麟らが叛き、｜四川《しせん》全体が周の側に移る","貴陽":"｜貴陽《きよう》","貴陽市":"｜貴陽《きよう》市","貴州の省治。1622年に水西の安邦彦に十か月余り包囲されたが落ちなかった（その年の十二月に王三善が囲みを解いた）":"｜貴州《きしゅう》の省治。1622年に水西の｜安邦彦《あんほうげん》に十か月余り包囲されたが落ちなかった（その年の十二月に王三善が囲みを解いた）","北京陥落の後も明の官が残り、南京の弘光帝の下に入る":"北京陥落の後も明の官が残り、｜南京《なんきん》の｜弘光帝《こうこうてい》の下に入る","貴州の明の官は福州の隆武帝を奉じた":"｜貴州《きしゅう》の明の官は｜福州《ふくしゅう》の｜隆武帝《りゅうぶてい》を奉じた","貴州の明の官は永暦帝に従う。二月に孫可望の軍が貴陽を陥したが、雲南へ去って貴州を捨て、皮熊が入り直した":"｜貴州《きしゅう》の明の官は｜永暦帝《えいれきてい》に従う。二月に孫｜可望《かぼう》の軍が｜貴陽《きよう》を陥したが、｜雲南《うんなん》へ去って｜貴州《きしゅう》を捨て、皮熊が入り直した","孫可望が雲南から貴州を襲い、皮熊を捕らえて貴州を取った":"孫｜可望《かぼう》が｜雲南《うんなん》から｜貴州《きしゅう》を襲い、皮熊を捕らえて｜貴州《きしゅう》を取った","孫可望が永暦帝を安隆所（安龍府）に迎え、その版図は永暦の朝廷の下に入った":"孫｜可望《かぼう》が｜永暦帝《えいれきてい》を安隆所（｜安龍府《あんりゅうふ》）に迎え、その版図は｜永暦《えいれき》の朝廷の下に入った","清の貝子洛托らの軍が貴陽を取った":"清の貝子洛托らの軍が｜貴陽《きよう》を取った","呉三桂の挙兵に貴州の提督李本深・巡撫曹申吉が降った":"｜呉三桂《ごさんけい》の挙兵に｜貴州《きしゅう》の提督李本深・巡撫｜曹申吉《そうしんきつ》が降った","清の貝子彰泰が平越を取り、貴陽に入った":"清の貝子｜彰泰《しょうたい》が｜平越《へいえつ》を取り、｜貴陽《きよう》に入った","康熙十九年十一月":"｜康熙《こうき》十九年十一月","水西安氏（安邦彦）":"水｜西安《せいあん》氏（｜安邦彦《あんほうげん》）","水西の安邦彦が叛き、安順を陥した（土官が門を開いて迎え入れた）":"水西の｜安邦彦《あんほうげん》が叛き、安順を陥した（土官が門を開いて迎え入れた）","明の官軍が普定（安順）を守り、安邦彦の攻撃を退けた":"明の官軍が普定（安順）を守り、｜安邦彦《あんほうげん》の攻撃を退けた","清軍が貴陽から盤江へ進み、明は北盤江を雲南・貴州の境として退いた":"清軍が｜貴陽《きよう》から盤江へ進み、明は北盤江を｜雲南《うんなん》・｜貴州《きしゅう》の境として退いた","順治十五年十二月":"｜順治《じゅんち》十五年十二月","清軍が貴陽に入り、安順府が降った":"清軍が｜貴陽《きよう》に入り、安順府が降った","広西から入った清の卓布泰の軍が独山州を取り、都匀から盤江へ進んだ":"｜広西《こうせい》から入った清の卓布泰の軍が独山州を取り、都匀から盤江へ進んだ","順治十五年五月":"｜順治《じゅんち》十五年五月","清軍が貴陽に入り、都匀府が降った":"清軍が｜貴陽《きよう》に入り、都匀府が降った","鎮遠":"｜鎮遠《ちんえん》","鎮遠県":"｜鎮遠《ちんえん》県","湖南から入った清軍が沅州・靖州を取り直し、貴陽・平越・鎮遠などの府を取った":"｜湖南《こなん》から入った清軍が沅州・靖州を取り直し、｜貴陽《きよう》・｜平越《へいえつ》・｜鎮遠《ちんえん》などの府を取った","清の彰泰・穆占が鎮遠で呉世璠の軍を破り、翌月に貴陽へ入った":"清の｜彰泰《しょうたい》・穆占が｜鎮遠《ちんえん》で｜呉世璠《ごせいはん》の軍を破り、翌月に｜貴陽《きよう》へ入った","康熙十九年十月":"｜康熙《こうき》十九年十月","湖南から入った清軍が貴州の諸府を取った":"｜湖南《こなん》から入った清軍が｜貴州《きしゅう》の諸府を取った","康熙十九年六月":"｜康熙《こうき》十九年六月","烏撒安氏（安効良）":"烏撒｜安氏《あんし》（安効良）","烏撒の土知府安効良が安邦彦に付き、烏撒衛の城が陥ちた":"烏撒の土知府安効良が｜安邦彦《あんほうげん》に付き、烏撒衛の城が陥ちた","呉三桂が七星関を避けて烏撒の土司の地を回り、霑益へ出た":"｜呉三桂《ごさんけい》が七星関を避けて烏撒の土司の地を回り、霑益へ出た","清の穆占が黔西・大定を取り直した（烏撒の東隣）":"清の穆占が黔西・｜大定《たいてい》を取り直した（烏撒の東隣）","康熙二十年二月":"｜康熙《こうき》二十年二月","安隆（安龍）":"安隆（｜安龍《あんりゅう》）","安龍県":"｜安龍《あんりゅう》県","永暦帝が安隆所に入り、安龍府と改めて行在とした":"｜永暦帝《えいれきてい》が安隆所に入り、｜安龍府《あんりゅうふ》と改めて行在とした","1656年三月、李定国が永暦帝を安龍から雲南へ移した":"1656年三月、｜李《り》｜定国《ていこく》が｜永暦帝《えいれきてい》を｜安龍《あんりゅう》から｜雲南《うんなん》へ移した","広西から入った清の卓布泰の軍が安龍府を取った":"｜広西《こうせい》から入った清の卓布泰の軍が｜安龍府《あんりゅうふ》を取った","清の大将軍頼塔が黄草壩で周軍を破り、安籠を取り直した":"清の｜大将軍《だいしょうぐん》頼塔が黄草壩で周軍を破り、安籠を取り直した","昆明（雲南府）":"｜昆明《こんめい》（｜雲南《うんなん》府）","昆明":"｜昆明《こんめい》","昆明市":"｜昆明《こんめい》市","雲南の省治。黔国公沐氏が鎮守する":"｜雲南《うんなん》の省治。黔｜国公《こっこう》沐氏が鎮守する","阿迷の土司沙定洲が省城に入り、黔国公沐天波は楚雄へ逃げた":"阿迷の土司沙定洲が省城に入り、黔｜国公《こっこう》｜沐《もく》｜天波《てんぱ》は楚雄へ逃げた","大西の残党孫可望が雲南に入り、沙定洲を破って省城に入った":"｜大西《たいせい》の残党孫｜可望《かぼう》が｜雲南《うんなん》に入り、沙定洲を破って省城に入った","順治四年三月":"｜順治《じゅんち》四年三月","清軍が雲南の省城を取った（永暦帝はその前に西へ逃れた）":"清軍が｜雲南《うんなん》の省城を取った（｜永暦帝《えいれきてい》はその前に西へ逃れた）","1662年四月、呉三桂がビルマから連れ戻した永暦帝はこの城で殺された。〜1673年は呉三桂の藩":"1662年四月、｜呉三桂《ごさんけい》がビルマから連れ戻した｜永暦帝《えいれきてい》はこの城で殺された。〜1673年は｜呉三桂《ごさんけい》の藩","呉三桂が雲南で挙兵し、周王を称した":"｜呉三桂《ごさんけい》が｜雲南《うんなん》で挙兵し、｜周王《しゅうおう》を称した","康熙十二年十一月":"｜康熙《こうき》十二年十一月","清軍が雲南の省城に入り、呉世璠が自殺して雲南が平定された":"清軍が｜雲南《うんなん》の省城に入り、｜呉世璠《ごせいはん》が自殺して｜雲南《うんなん》が平定された","康熙二十年十月":"｜康熙《こうき》二十年十月","雲南の明の官は隆武帝を奉じた（楊畏知は隆武帝から雲南巡撫を授けられた）":"｜雲南《うんなん》の明の官は｜隆武帝《りゅうぶてい》を奉じた（楊畏知は｜隆武帝《りゅうぶてい》から｜雲南《うんなん》｜巡撫《じゅんぶ》を授けられた）","孫可望が曲靖を陥して屠った":"孫｜可望《かぼう》が曲靖を陥して屠った","清の大将軍頼塔が安籠を取り直し、曲靖に入った":"清の｜大将軍《だいしょうぐん》頼塔が安籠を取り直し、曲靖に入った","土知州普氏の州。1632年に土知州普名声が官軍と戦ったが、まもなく降った":"土｜知州《ちしゅう》普氏の州。1632年に土｜知州《ちしゅう》普名声が官軍と戦ったが、まもなく降った","李定国が沙定洲を追って普洱で捕らえ、沙定洲の勢力は滅んだ":"｜李《り》｜定国《ていこく》が沙定洲を追って普洱で捕らえ、沙定洲の勢力は滅んだ","清軍が雲南の省城を取り、雲南の各地が降った":"清軍が｜雲南《うんなん》の省城を取り、｜雲南《うんなん》の各地が降った","臨安":"｜臨安《りんあん》","沙定洲が石屏・寧州などを攻め、迤東の諸郡が陥ちた。臨安には沙定洲の部将李阿楚が駐した":"沙定洲が石屏・｜寧州《ねいしゅう》などを攻め、迤東の諸郡が陥ちた。｜臨安《りんあん》には沙定洲の部将李阿楚が駐した","李定国が地下に穴を掘って砲で城を崩し、臨安を陥して屠った":"｜李《り》｜定国《ていこく》が地下に穴を掘って砲で城を崩し、｜臨安《りんあん》を陥して屠った","清の貝子彰泰の招撫に臨安が降った":"清の貝子｜彰泰《しょうたい》の｜招撫《しょうぶ》に｜臨安《りんあん》が降った","康熙二十年四月":"｜康熙《こうき》二十年四月","楚雄を守った楊畏知は隆武帝から雲南巡撫を授けられた。沙定洲の包囲を受けたが落ちなかった":"楚雄を守った楊畏知は｜隆武帝《りゅうぶてい》から｜雲南《うんなん》｜巡撫《じゅんぶ》を授けられた。沙定洲の包囲を受けたが落ちなかった","楊畏知が禄豊で孫可望に敗れて盟約を結び、孫可望とともに楚雄に入った":"楊畏知が禄豊で孫｜可望《かぼう》に敗れて盟約を結び、孫｜可望《かぼう》とともに楚雄に入った","孫可望が雲南を取り、李定国が迤東の諸府を従えた":"孫｜可望《かぼう》が｜雲南《うんなん》を取り、｜李《り》｜定国《ていこく》が迤東の諸府を従えた","李定国に応じて兵を挙げた元江の土知府那嵩を呉三桂が攻め、清軍が元江を取った":"｜李《り》｜定国《ていこく》に応じて兵を挙げた元江の土知府那嵩を｜呉三桂《ごさんけい》が攻め、清軍が元江を取った","順治十六年十一月":"｜順治《じゅんち》十六年十一月","孫可望が楊畏知と盟約を結んで楚雄に入り、大理を定めた":"孫｜可望《かぼう》が楊畏知と盟約を結んで楚雄に入り、大理を定めた","清軍が大理の玉龍関で白文選を破り、永昌へ進んだ":"清軍が大理の玉龍関で白文選を破り、｜永昌《えいしょう》へ進んだ","順治十六年二月":"｜順治《じゅんち》十六年二月","清の貝子彰泰の招撫に大理が降った":"清の貝子｜彰泰《しょうたい》の｜招撫《しょうぶ》に大理が降った","孫可望が迤西の諸郡を定めた":"孫｜可望《かぼう》が迤西の諸郡を定めた","清軍が永昌まで進んだ後、麗江などの土司が降った":"清軍が｜永昌《えいしょう》まで進んだ後、麗江などの土司が降った","周の将李発美が鶴慶・麗江の二府をもって清に降った":"周の将李発美が鶴慶・麗江の｜二府《にふ》をもって清に降った","永昌":"｜永昌《えいしょう》","沙定洲の乱で黔国公沐天波が永昌へ逃れ、明の官が守った。雲南の明の官は隆武帝を奉じた":"沙定洲の乱で黔｜国公《こっこう》｜沐《もく》｜天波《てんぱ》が｜永昌《えいしょう》へ逃れ、明の官が守った。｜雲南《うんなん》の明の官は｜隆武帝《りゅうぶてい》を奉じた","孫可望が永昌に檄を送り、沐天波は降ったが、署金騰道王運開・署知府劉廷標は降らずに死んだ":"孫｜可望《かぼう》が｜永昌《えいしょう》に檄を送り、｜沐《もく》｜天波《てんぱ》は降ったが、署金騰道王運開・署知府劉廷標は降らずに死んだ","清軍が永昌を取った。永暦帝は騰越からビルマへ逃れた":"清軍が｜永昌《えいしょう》を取った。｜永暦帝《えいれきてい》は騰越からビルマへ逃れた","孫可望が永昌まで従え、迤西の諸郡を定めた":"孫｜可望《かぼう》が｜永昌《えいしょう》まで従え、迤西の諸郡を定めた","永暦帝が騰越からビルマへ逃れ、清軍が騰越を取った":"｜永暦帝《えいれきてい》が騰越からビルマへ逃れ、清軍が騰越を取った","杭州":"｜杭州《こうしゅう》","杭州市":"｜杭州《こうしゅう》市","崇禎十七年三月に北京が陥ちた後も明の官が残り、南京の弘光朝に属した":"｜崇禎《すうてい》十七年三月に北京が陥ちた後も明の官が残り、｜南京《なんきん》の｜弘光《こうこう》朝に属した","貝勒博洛の軍が杭州に至り、潞王常淓と巡撫張秉貞が降る":"貝勒博洛の軍が｜杭州《こうしゅう》に至り、｜潞王《ろおう》常淓と巡撫張秉貞が降る","杭州の降伏とともに嘉興が平定され、閏六月の薙髪令に起きた城内の挙兵も清が鎮圧した":"｜杭州《こうしゅう》の降伏とともに嘉興が平定され、閏六月の薙髪令に起きた城内の挙兵も清が鎮圧した","湖州":"｜湖州《こしゅう》","湖州市":"｜湖州《こしゅう》市","杭州の降伏とともに湖州が平定される":"｜杭州《こうしゅう》の降伏とともに｜湖州《こしゅう》が平定される","紹興":"｜紹興《しょうこう》","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","杭州が降った後、鄭遵謙らが紹興で兵を挙げ、魯王以海が紹興で監国となる":"｜杭州《こうしゅう》が降った後、鄭遵謙らが｜紹興《しょうこう》で兵を挙げ、｜魯王《ろおう》以海が｜紹興《しょうこう》で｜監国《かんこく》となる","銭塘江の防衛線が崩れ、清が紹興を取る":"銭塘江の防衛線が崩れ、清が｜紹興《しょうこう》を取る","順治三年六月":"｜順治《じゅんち》三年六月","いったん清に降った寧波で銭粛楽が兵を挙げ、台州の魯王を迎える":"いったん清に降った寧波で銭粛楽が兵を挙げ、｜台州《たいしゅう》の｜魯王《ろおう》を迎える","舟山市定海区":"舟山市｜定海《ていかい》区","定海県の内の海島で、明は参将を置いて守らせた":"｜定海《ていかい》県の内の海島で、明は参将を置いて守らせた","福州の隆武帝に表を奉じた黄斌卿が、隆武帝から舟山の鎮守を命じられる":"｜福州《ふくしゅう》の｜隆武帝《りゅうぶてい》に表を奉じた黄斌卿が、｜隆武帝《りゅうぶてい》から舟山の鎮守を命じられる","隆武朝が滅んだ後、黄斌卿は舟山を保ったまま、逃れて来た魯王を受け入れなかった":"｜隆武《りゅうぶ》朝が滅んだ後、黄斌卿は舟山を保ったまま、逃れて来た｜魯王《ろおう》を受け入れなかった","張名振らが黄斌卿を誅し、魯王が舟山に入る":"張名振らが黄斌卿を誅し、｜魯王《ろおう》が舟山に入る","順治六年十月":"｜順治《じゅんち》六年十月","清が三方から舟山を攻め、城が陥ちて魯王は海へ逃れる":"清が三方から舟山を攻め、城が陥ちて｜魯王《ろおう》は海へ逃れる","順治十二年十一月":"｜順治《じゅんち》十二年十一月","寧海大将軍伊爾徳の軍が舟山を奪い返す":"寧海｜大将軍《だいしょうぐん》伊爾徳の軍が舟山を奪い返す","順治十三年八月":"｜順治《じゅんち》十三年八月","台州":"｜台州《たいしゅう》","崇禎十七年三月に北京が陥ちた後も明の官が残り、南京の弘光朝に属した（魯王はこの年、弘光帝の命で台州に移った）":"｜崇禎《すうてい》十七年三月に北京が陥ちた後も明の官が残り、｜南京《なんきん》の｜弘光《こうこう》朝に属した（｜魯王《ろおう》はこの年、｜弘光帝《こうこうてい》の命で｜台州《たいしゅう》に移った）","台州にいた魯王が浙東の諸臣に迎えられて監国となる":"｜台州《たいしゅう》にいた｜魯王《ろおう》が浙東の諸臣に迎えられて｜監国《かんこく》となる","浙東の防衛線が崩れ、温州・台州が相次いで清に降る":"浙東の防衛線が崩れ、温州・｜台州《たいしゅう》が相次いで清に降る","魯監国の督師朱大典が金華を守る":"｜魯《ろ》｜監国《かんこく》の｜督師《とくし》朱大典が金華を守る","隆武朝の任じた知府伍経正が衢州を治める（魯監国からも命を受けた）":"｜隆武《りゅうぶ》朝の任じた知府伍経正が衢州を治める（｜魯《ろ》｜監国《かんこく》からも命を受けた）","隆武元年":"｜隆武《りゅうぶ》元年","蘇州から処州に逃れた楊文驄が隆武帝に表を奉じ、兵部右侍郎・提督軍務に任じられる":"｜蘇州《そしゅう》から処州に逃れた楊文驄が｜隆武帝《りゅうぶてい》に表を奉じ、｜兵部《へいぶ》右侍郎・提督軍務に任じられる","康熙十三年六月":"｜康熙《こうき》十三年六月","康熙十四年二月":"｜康熙《こうき》十四年二月","隆武帝が盧若騰を浙東巡撫として温州に駐させ、温州総兵賀君堯がいた":"｜隆武帝《りゅうぶてい》が盧若騰を浙東巡撫として温州に駐させ、温州｜総兵《そうへい》賀君堯がいた","温州総兵祖弘勲が温州で叛し、耿精忠に付く":"温州｜総兵《そうへい》祖弘勲が温州で叛し、耿精忠に付く","耿精忠が福州で降り、温州の耿精忠軍も降る":"耿精忠が｜福州《ふくしゅう》で降り、温州の耿精忠軍も降る","南昌":"｜南昌《なんしょう》","南昌市":"｜南昌《なんしょう》市","江西の省治":"｜江西《こうせい》の省治","清に降った金声桓が江西に入り、巡撫旷昭が逃れて南昌が清の手に入る":"清に降った金声桓が｜江西《こうせい》に入り、巡撫旷昭が逃れて｜南昌《なんしょう》が清の手に入る","金声桓・王得仁が南昌で清に叛して明に帰し、永暦朝から爵を受ける":"金声桓・王得仁が｜南昌《なんしょう》で清に叛して明に帰し、｜永暦《えいれき》朝から爵を受ける","順治五年正月":"｜順治《じゅんち》五年正月","清軍が南昌を落とし、金声桓・王得仁が死ぬ":"清軍が｜南昌《なんしょう》を落とし、金声桓・王得仁が死ぬ","九江":"｜九江《きゅうこう》","九江市":"｜九江《きゅうこう》市","左夢庚の軍が九江で清に降り、金声桓が九江・南康・南昌を取る":"左夢庚の軍が｜九江《きゅうこう》で清に降り、金声桓が｜九江《きゅうこう》・｜南康《なんこう》・｜南昌《なんしょう》を取る","饒州":"｜饒州《じょうしゅう》","鄱陽県":"｜鄱陽《はよう》県","江西の諸府が清に平定される":"｜江西《こうせい》の諸府が清に平定される","耿精忠の軍が江西に入り、饒州の参将程鳳が叛して応じ、饒州が陥ちる":"耿精忠の軍が｜江西《こうせい》に入り、｜饒州《じょうしゅう》の参将程鳳が叛して応じ、｜饒州《じょうしゅう》が陥ちる","清軍が饒州を奪い返す":"清軍が｜饒州《じょうしゅう》を奪い返す","康熙十四年闰五月":"｜康熙《こうき》十四年闰五月","隆武朝の黄道周が兵を率いて広信に至り、この地を拠点にする":"｜隆武《りゅうぶ》朝の黄道周が兵を率いて広信に至り、この地を拠点にする","清軍が広信を落とし、隆武朝の巡撫周定礽らが死ぬ":"清軍が広信を落とし、｜隆武《りゅうぶ》朝の巡撫周定礽らが死ぬ","清軍が撫州を落とし、隆武朝の摂知府高飛声が死ぬ":"清軍が撫州を落とし、｜隆武《りゅうぶ》朝の摂知府高飛声が死ぬ","金声桓の挙兵で江西が明に帰する":"金声桓の挙兵で｜江西《こうせい》が明に帰する","順治六年二月":"｜順治《じゅんち》六年二月","益王の挙兵が敗れた後、峒兵を招いた永寧王が建昌を取り返す":"｜益王《えきおう》の挙兵が敗れた後、峒兵を招いた｜永寧《えいねい》王が建昌を取り返す","金声桓の軍が撫州で永寧王を捕え、建昌を平定する":"金声桓の軍が撫州で｜永寧《えいねい》王を捕え、建昌を平定する","金声桓とともに九江に駐した清の将が南康・南昌・瑞州・袁州を定める":"金声桓とともに｜九江《きゅうこう》に駐した清の将が｜南康《なんこう》・｜南昌《なんしょう》・瑞州・｜袁州《えんしゅう》を定める","南昌の奪回とともに九江・南康・瑞州・臨江・袁州が平定される":"｜南昌《なんしょう》の奪回とともに｜九江《きゅうこう》・｜南康《なんこう》・瑞州・臨江・｜袁州《えんしゅう》が平定される","袁州":"｜袁州《えんしゅう》","清軍が峡江を破り、袁州を落とす":"清軍が峡江を破り、｜袁州《えんしゅう》を落とす","南昌の奪回とともに袁州が平定される":"｜南昌《なんしょう》の奪回とともに｜袁州《えんしゅう》が平定される","八月に清軍が吉安を取ったが、九月に楊廷麟・劉同升が奪い返し、隆武帝に贛州への移駐を請う":"八月に清軍が吉安を取ったが、九月に楊廷麟・劉同升が奪い返し、｜隆武帝《りゅうぶてい》に｜贛州《かんしゅう》への移駐を請う","清軍が吉安を落とし、万元吉は贛州へ退く":"清軍が吉安を落とし、万｜元吉《げんきつ》は｜贛州《かんしゅう》へ退く","呉三桂の将高大節（高得捷）・韓大任が吉安を陥す":"｜呉三桂《ごさんけい》の将高大節（高得捷）・韓大任が吉安を陥す","康熙十五年二月":"｜康熙《こうき》十五年二月","康熙十六年三月":"｜康熙《こうき》十六年三月","贛州":"｜贛州《かんしゅう》","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","楊廷麟・劉同升が贛州で兵を挙げ、隆武朝から官を授けられる":"楊廷麟・劉同升が｜贛州《かんしゅう》で兵を挙げ、｜隆武《りゅうぶ》朝から官を授けられる","清軍が贛州（隆武帝が忠誠府と名を賜った）を落とし、楊廷麟・万元吉・郭維経らが死ぬ":"清軍が｜贛州《かんしゅう》（｜隆武帝《りゅうぶてい》が忠誠府と名を賜った）を落とし、楊廷麟・万｜元吉《げんきつ》・郭維経らが死ぬ","南安":"｜南安《なんあん》","隆武帝が大学士蘇観生に南安で兵を募らせる":"｜隆武帝《りゅうぶてい》が｜大学士《だいがくし》｜蘇観生《そかんせい》に｜南安《なんあん》で兵を募らせる","順治二年十月":"｜順治《じゅんち》二年十月","贛州が陥ちて南安の蘇観生は広州へ退き、南安は清の手に移る":"｜贛州《かんしゅう》が陥ちて｜南安《なんあん》の｜蘇観生《そかんせい》は｜広州《こうしゅう》へ退き、｜南安《なんあん》は清の手に移る","尚之信に従って叛した提督厳自明が南康を攻めて敗れ、南安に拠る":"尚之信に従って叛した提督厳自明が｜南康《なんこう》を攻めて敗れ、｜南安《なんあん》に拠る","莽依図の軍が南安に至り、厳自明が城を献じて降る":"莽依図の軍が｜南安《なんあん》に至り、厳自明が城を献じて降る","康熙十六年四月":"｜康熙《こうき》十六年四月","北京（順天）":"北京（｜順天《じゅんてん》）","三月に李自成（大順）が京師を陥したが、四月に山海関で敗れて西走し、五月に多爾袞が北京に入った。歳末は清":"三月に｜李自成《りじせい》（｜大順《たいじゅん》）が京師を陥したが、四月に｜山海関《さんかいかん》で敗れて西走し、五月に｜多爾袞《ドルゴン》が北京に入った。歳末は清","順治元年五月":"｜順治《じゅんち》元年五月","天津市薊州区":"｜天津《てんしん》市薊州区","1644年に清が薊州に総兵官を置き、同年分の税を免じている":"1644年に清が薊州に｜総兵《そうへい》官を置き、同年分の税を免じている","遵化は順天巡撫の駐地":"遵化は｜順天《じゅんてん》巡撫の駐地","永平・灤州の後金軍が退き、遵化の守兵も城を棄てて帰った":"｜永平《えいへい》・｜灤州《らんしゅう》の後金軍が退き、遵化の守兵も城を棄てて帰った","四月の山海関の戦いの後、清軍の通過した州県と沿辺の将吏が降った。翌年には遵化の荒地を八旗に給している":"四月の｜山海関《さんかいかん》の戦いの後、清軍の通過した州県と沿辺の｜将吏《しょうり》が降った。翌年には遵化の荒地を八旗に給している","永平":"｜永平《えいへい》","盧龍県":"｜盧龍《ろりゅう》県","1630年正月に後金が永平を陥して巡撫を置いたが、同年五月に棄てて退いた（清史稿太宗本紀「阿敏、硕讬等弃永平四城归」）。年内の撤退なので持ち主を変えない":"1630年正月に後金が｜永平《えいへい》を陥して巡撫を置いたが、同年五月に棄てて退いた（｜清史稿《しんしこう》｜太宗本紀《たいそうほんぎ》「｜阿敏《あびん》、硕讬等弃｜永平《えいへい》四城归」）。年内の撤退なので持ち主を変えない","四月に李自成は白広恩を永平の救援に送ったが山海関で敗れ、清の手に移った。九月に順治帝が山海関を入って永平に泊まっている":"四月に｜李自成《りじせい》は白広恩を｜永平《えいへい》の救援に送ったが｜山海関《さんかいかん》で敗れ、清の手に移った。九月に｜順治帝《じゅんちてい》が｜山海関《さんかいかん》を入って｜永平《えいへい》に泊まっている","天津":"｜天津《てんしん》","天津市":"｜天津《てんしん》市","天津巡撫の駐地":"｜天津《てんしん》巡撫の駐地","三月に天津兵備道が巡撫を捕えて大順に降ったが、五月に清に降り、六月に清が天津総督を置いた":"三月に｜天津《てんしん》兵備道が巡撫を捕えて｜大順《たいじゅん》に降ったが、五月に清に降り、六月に清が｜天津《てんしん》総督を置いた","宣府":"｜宣府《せんぷ》","九辺の宣府鎮":"九辺の｜宣府《せんぷ》鎮","三月に監視太監杜勳・総兵王承胤が大順に降って宣府が陥ちた。清は1644年に宣府鎮の総兵官を置き、翌年宣府巡撫を任じた":"三月に監視｜太監《たいかん》杜勳・｜総兵《そうへい》王承胤が｜大順《たいじゅん》に降って｜宣府《せんぷ》が陥ちた。清は1644年に｜宣府《せんぷ》鎮の｜総兵《そうへい》官を置き、翌年｜宣府《せんぷ》巡撫を任じた","保定":"｜保定《ほてい》","保定市":"｜保定《ほてい》市","三月に李建泰が降って保定が大順の手に陥ちた。七月に清が王文奎を保定巡撫に任じた":"三月に李建泰が降って｜保定《ほてい》が｜大順《たいじゅん》の手に陥ちた。七月に清が王文奎を｜保定《ほてい》巡撫に任じた","河間":"｜河間《かかん》","河間市":"｜河間《かかん》市","清が河間などの本年分の税を免じている":"清が｜河間《かかん》などの本年分の税を免じている","明末には保定巡撫が真定を守っていた":"｜明末《みんまつ》には｜保定《ほてい》巡撫が真定を守っていた","三月に副将謝嘉福が巡撫徐標を殺して大順に降った。五月、清軍が李自成を真定まで追い、真定は清に降った":"三月に副将謝嘉福が巡撫徐標を殺して｜大順《たいじゅん》に降った。五月、清軍が｜李自成《りじせい》を真定まで追い、真定は清に降った","七月に清の保定巡撫王文奎が保定・大名・真定の所属州県を管轄し、同年のうちに清軍は南の彰徳・衛輝に達していた。翌年正月には真定・大名・順徳・広平の山の賊が平定された":"七月に清の｜保定《ほてい》巡撫王文奎が｜保定《ほてい》・大名・真定の所属州県を管轄し、同年のうちに清軍は南の彰徳・衛輝に達していた。翌年正月には真定・大名・順徳・広平の山の賊が平定された","邯鄲市永年区":"｜邯鄲《かんたん》市永年区","二月に大順が大名府を陥した。七月に清の保定巡撫王文奎が保定・大名・真定の所属州県を管轄し、同年のうちに清軍は南の彰徳・衛輝に達していた。翌年正月には真定・大名・順徳・広平の山の賊が平定された":"二月に｜大順《たいじゅん》が｜大名府《たいめいふ》を陥した。七月に清の｜保定《ほてい》巡撫王文奎が｜保定《ほてい》・大名・真定の所属州県を管轄し、同年のうちに清軍は南の彰徳・衛輝に達していた。翌年正月には真定・大名・順徳・広平の山の賊が平定された","済南":"｜済南《さいなん》","済南市":"｜済南《さいなん》市","山東の省治。1639年正月に清軍が陥したが引き揚げたので持ち主を変えない":"｜山東《さんとう》の省治。1639年正月に清軍が陥したが引き揚げたので持ち主を変えない","大順の官が置かれた後、六月に清が巴哈納・石廷柱を山東に送り、七月に方大猷を山東巡撫に任じた":"｜大順《たいじゅん》の官が置かれた後、六月に清が巴哈納・石廷柱を｜山東《さんとう》に送り、七月に方大猷を山東｜巡撫《じゅんぶ》に任じた","大順の防御使を地元の貢生らが殺した後、清軍が徳州を下し、前大学士謝升らが迎え降った":"｜大順《たいじゅん》の防御使を地元の貢生らが殺した後、清軍が徳州を下し、前｜大学士《だいがくし》謝升らが迎え降った","凌駉が大順の防御使を斬って臨清を回復したが、同年のうちに巴哈納・石廷柱が臨清を下した":"凌駉が｜大順《たいじゅん》の防御使を斬って臨清を回復したが、同年のうちに巴哈納・石廷柱が臨清を下した","聊城市":"｜聊城《りょうじょう》市","山東西部の府":"｜山東《さんとう》西部の府","前兵部侍郎張鳳翔が大順の官を誅して東昌を保ったが、清軍が迫ると棄てて南へ帰った":"前｜兵部侍郎《へいぶじろう》張｜鳳翔《ほうしょう》が｜大順《たいじゅん》の官を誅して東昌を保ったが、清軍が迫ると棄てて南へ帰った","兗州":"｜兗州《えんしゅう》","済寧市兗州区":"済寧市｜兗州《えんしゅう》区","魯王府の所在。1642年の清の侵入で陥され魯王が自縊したが、引き揚げたので持ち主を変えない":"｜魯王《ろおう》府の所在。1642年の清の侵入で陥され｜魯王《ろおう》が｜自縊《じい》したが、引き揚げたので持ち主を変えない","1644年に大順の将郭昇が兗州にいた。同年のうちに清は山東の州県を下し、南京では黄道周が「東のかた兗・済を収める」ことを進言している（兗州が南明の手に無かったことを示す）":"1644年に｜大順《たいじゅん》の将郭昇が｜兗州《えんしゅう》にいた。同年のうちに清は｜山東《さんとう》の州県を下し、｜南京《なんきん》では黄道周が「東のかた兗・済を収める」ことを進言している（｜兗州《えんしゅう》が｜南明《なんみん》の手に無かったことを示す）","地元の勢力が大順の官を殺した後、1644年のうちに清軍が済寧に入り、ここから南下した":"地元の勢力が｜大順《たいじゅん》の官を殺した後、1644年のうちに清軍が済寧に入り、ここから南下した","青州":"｜青州《せいしゅう》","青州市":"｜青州《せいしゅう》市","衡王が大順の官を駆逐した後、清の招撫侍郎王鰲永が入ったが、大順の残党の降将趙応元が城に入って王鰲永を殺した。十月に和託らが趙応元を誅して青州を定めた":"衡王が｜大順《たいじゅん》の官を駆逐した後、清の｜招撫《しょうぶ》侍郎王鰲永が入ったが、｜大順《たいじゅん》の残党の降将趙応元が城に入って王鰲永を殺した。十月に和託らが趙応元を誅して｜青州《せいしゅう》を定めた","順治元年十月":"｜順治《じゅんち》元年十月","呉橋で叛いた孔有德が登州を陥し、都元帥を称して官属を置いた":"呉橋で叛いた孔有德が登州を陥し、｜都元帥《とげんすい》を称して｜官属《かんぞく》を置いた","長囲に耐えられず孔有德は海へ逃れ、官軍が大城と水城を回復した":"長囲に耐えられず孔有德は海へ逃れ、官軍が大城と｜水城《すいじょう》を回復した","明の副総兵楊威が登州に拠ったが、清の登萊巡撫陳錦がこれを下した":"明の副｜総兵《そうへい》楊威が登州に拠ったが、清の登萊巡撫陳錦がこれを下した","1632年に孔有德が二月から八月まで包囲したが陥ちなかった（明史荘烈帝本紀「孔有德围莱州」「莱州围解」）。持ち主は変えない":"1632年に孔有德が二月から八月まで包囲したが陥ちなかった（｜明史《みんし》荘烈帝｜本紀《ほんぎ》「孔有德围｜莱州《らいしゅう》」「｜莱州《らいしゅう》围解」）。持ち主は変えない","山東南部の州。1642年の清の侵入で略されたが引き揚げた":"｜山東《さんとう》南部の州。1642年の清の侵入で略されたが引き揚げた","水西安氏":"水｜西安《せいあん》氏","烏撒安氏":"烏撒｜安氏《あんし》","後金（ヌルハチ） 対 明（楊鎬・杜松ほか）":"後金（ヌルハチ） 対 明（｜楊《よう》｜鎬《こう》・杜松ほか）","杜松の軍は渾河を渡り、撫順からサルフへ出た（清史稿 太祖紀）":"杜松の軍は｜渾河《こんが》を渡り、撫順からサルフへ出た（｜清史稿《しんしこう》 ｜太祖《たいそ》｜紀《き》）"}