{"東晋":"｜東晋《とうしん》","宋":"｜宋《そう》","斉":"｜斉《せい》","梁":"｜梁《りょう》","陳":"｜陳《ちん》","後梁":"｜後梁《こうりょう》","侯景":"｜侯景《こうけい》","北魏":"｜北魏《ほくぎ》","東魏":"｜東魏《とうぎ》","西魏":"｜西魏《せいぎ》","北斉":"｜北斉《ほくせい》","北周":"｜北周《ほくしゅう》","隋":"｜隋《ずい》","北涼":"｜北涼《ほくりょう》","西秦":"｜西秦《せいしん》","西涼":"｜西涼《せいりょう》","吐谷渾":"｜吐谷渾《とよくこん》","柔然":"｜柔然《じゅうぜん》","高句麗":"｜高句麗《こうくり》","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","東晋から宋へ":"｜東晋《とうしん》から宋へ","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","永定元年":"｜永定《えいてい》元年","梁から陳へ。郡は土豪の陳宝応が握ったまま陳に服属し、のち閩州刺史に任じられる":"梁から陳へ。郡は土豪の陳｜宝応《ほうおう》が握ったまま陳に服属し、のち閩州｜刺史《しし》に任じられる","陳宝応":"陳｜宝応《ほうおう》","陳宝応が、敗れた周迪を晋安に迎えて兵を貸し、陳に背く":"陳｜宝応《ほうおう》が、敗れた周迪を晋安に迎えて兵を貸し、陳に背く","天嘉四年":"｜天嘉《てんか》四年","陳宝応が建安・晋安に拠って抗戦、章昭達に敗れる":"陳｜宝応《ほうおう》が｜建安《けんあん》・晋安に拠って抗戦、章｜昭達《しょうたつ》に敗れる","天嘉五年十一月":"｜天嘉《てんか》五年十一月","南皮（渤海）":"南皮（｜渤海《ぼっかい》）","推定：葛栄が冀州の州城信都を十一月に陥す。渤海郡では太守高翼が賊勢に抗しきれず郡の民を率いて河・済の間へ移った":"推定：葛栄が｜冀州《きしゅう》の州城｜信都《しんと》を十一月に陥す。｜渤海《ぼっかい》郡では｜太守《たいしゅ》高翼が賊勢に抗しきれず郡の民を率いて河・済の間へ移った","孝昌末（孝昌三年）":"｜孝昌《こうしょう》末（｜孝昌《こうしょう》三年）","推定。南皮そのものの陥落記事は無い。根拠は(1)冀州の州城信都の陥落 通鑑『己丑，城陷』（527年）、(2)北斉書 高乾伝の父高翼の条『孝昌末，葛荣作乱于燕、趙，朝廷以翼山東豪右，即家拜渤海太守。至郡未几，贼徒愈盛，翼部率合境，徙居河、済之間。』（渤海郡の記事。『孝昌末』は525〜527年のいずれかで、年は特定できない）。翌528年三月には南皮の東の沧州（饒安）も葛栄に陥ちる（通鑑）":"推定。南皮そのものの陥落記事は無い。根拠は(1)｜冀州《きしゅう》の州城｜信都《しんと》の陥落 ｜通鑑《つがん》『己丑，城陷』（527年）、(2)｜北斉《ほくせい》書 高乾伝の父高翼の条『｜孝昌《こうしょう》末，葛荣作乱于燕、趙，朝廷以翼｜山東《さんとう》豪右，即家拜｜渤海《ぼっかい》｜太守《たいしゅ》。至郡未几，贼徒愈盛，翼部率合境，徙居河、済之間。』（｜渤海《ぼっかい》郡の記事。『｜孝昌《こうしょう》末』は525〜527年のいずれかで、年は特定できない）。翌528年三月には南皮の東の沧州（饒安）も葛栄に陥ちる（｜通鑑《つがん》）","推定：爾朱栄が滏口で葛栄を擒え、冀・定・沧・瀛・殷五州が平定":"推定：｜爾朱《じしゅ》栄が滏口で葛栄を擒え、冀・定・沧・瀛・殷五州が平定","建義元年九月":"｜建義《けんぎ》元年九月","推定（冀州単位の記事）。通鑑『以槛车送葛荣赴洛，冀、定、沧、瀛、殷五州皆平』、魏書『冀、定、沧、瀛、殷五州平。』。南皮（冀州渤海郡）もこのとき回復したとみる":"推定（｜冀州《きしゅう》単位の記事）。｜通鑑《つがん》『以槛车送葛荣赴洛，冀、定、沧、瀛、殷五州皆平』、｜魏書《ぎしょ》『冀、定、沧、瀛、殷五州平。』。南皮（｜冀州《きしゅう》｜渤海《ぼっかい》郡）もこのとき回復したとみる","高歓":"｜高歓《こうかん》","推定：高乾らが信都を奪い、高歓が入城して冀州に拠る":"推定：高乾らが｜信都《しんと》を奪い、｜高歓《こうかん》が入城して｜冀州《きしゅう》に拠る","普泰元年":"｜普泰《ふたい》元年","推定（冀州単位の記事）。北斉書72『神武自軍次信都，高乾、封隆之开门以待，遂据冀州。』、通鑑『進至信都，封隆之、高乾等开门纳之』。渤海は高乾一族の本郡で、隣の信都（xindu）の扱いに揃えた。南皮そのものの記事は無い":"推定（｜冀州《きしゅう》単位の記事）。｜北斉《ほくせい》書72『神武自軍次｜信都《しんと》，高乾、封隆之开门以待，遂据｜冀州《きしゅう》。』、｜通鑑《つがん》『進至｜信都《しんと》，封隆之、高乾等开门纳之』。｜渤海《ぼっかい》は高乾一族の本郡で、隣の｜信都《しんと》（xindu）の扱いに揃えた。南皮そのものの記事は無い","北魏の東西分裂（高歓側＝東魏）":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂（｜高歓《こうかん》側＝｜東魏《とうぎ》）","東魏から北斉へ":"｜東魏《とうぎ》から｜北斉《ほくせい》へ","北周が北斉を滅ぼす。北斉の州鎮は傅伏・高宝寧を除きすべて北周に入る":"｜北周《ほくしゅう》が｜北斉《ほくせい》を滅ぼす。｜北斉《ほくせい》の州鎮は傅伏・高｜宝寧《ほうねい》を除きすべて｜北周《ほくしゅう》に入る","北周から隋へ":"｜北周《ほくしゅう》から隋へ","396年から続く（魏王珪が常山を攻めて抜き、太守苟延を捕らえる）":"396年から続く（｜魏王《ぎおう》珪が常山を攻めて抜き、｜太守《たいしゅ》苟延を捕らえる）","枋頭":"｜枋頭《ほうとう》","398年から続く（慕容徳が鄴を捨てて滑台へ南徙し、北魏の衛王儀が鄴に入る）":"398年から続く（｜慕容徳《ぼようとく》が鄴を捨てて｜滑台《かつだい》へ南徙し、｜北魏《ほくぎ》の｜衛王《えいおう》儀が鄴に入る）","涿（范陽）":"涿（｜范陽《はんよう》）","397年から続く（魏の長孫肥らが燕主宝を范陽まで追い、新城戍を破って還る。燕主宝は薊を捨てて龍城へ去る）":"397年から続く（魏の｜長孫《ちょうそん》肥らが燕主宝を｜范陽《はんよう》まで追い、｜新城《しんじょう》戍を破って還る。燕主宝は薊を捨てて｜龍城《りゅうじょう》へ去る）","杜洛周":"｜杜洛周《とらくしゅう》","杜洛周が范陽を囲み、民が幽州刺史王延年・行台常景を執えて門を開く":"｜杜洛周《とらくしゅう》が｜范陽《はんよう》を囲み、民が｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》王延年・｜行台《こうだい》常景を執えて門を開く","孝昌二年十一月戊戌":"｜孝昌《こうしょう》二年十一月戊戌","魏書本紀は『攻陷幽州』とだけ書き、通鑑は場所を范陽とする。隣の薊（ji）は同じ記事で526年を杜洛周にしている":"｜魏書《ぎしょ》｜本紀《ほんぎ》は『攻陷｜幽州《ゆうしゅう》』とだけ書き、｜通鑑《つがん》は場所を｜范陽《はんよう》とする。隣の薊（ji）は同じ記事で526年を｜杜洛周《とらくしゅう》にしている","葛栄が杜洛周を殺して衆を併せるが、九月に葛栄が擒えられる。その後、韓楼が薊に拠ると、盧文偉が郷閭を率いて范陽を守り韓楼に抗し、行范陽郡事とされる":"葛栄が｜杜洛周《とらくしゅう》を殺して衆を併せるが、九月に葛栄が擒えられる。その後、｜韓楼《かんろう》が薊に拠ると、盧文偉が郷閭を率いて｜范陽《はんよう》を守り｜韓楼《かんろう》に抗し、行｜范陽《はんよう》郡事とされる","武泰元年〜建義元年":"｜武泰《ぶたい》元年〜｜建義《けんぎ》元年","528年の春〜秋は葛栄の手にあったが、年末には盧文偉が魏の行范陽郡事として韓楼に対抗している（盧文偉伝は『防守二年』）。韓楼の挙兵は通鑑で528年の葛栄処刑の後に置かれる。盧文偉の守備が528年の歳末にすでに始まっていたかは伝の書き方からの読みで、月は書かれていない。隣の薊（ji）は528年末を韓楼としており、范陽はそれと分かれる":"528年の春〜秋は葛栄の手にあったが、年末には盧文偉が魏の行｜范陽《はんよう》郡事として｜韓楼《かんろう》に対抗している（盧文偉伝は『防守二年』）。｜韓楼《かんろう》の挙兵は｜通鑑《つがん》で528年の葛栄処刑の後に置かれる。盧文偉の守備が528年の歳末にすでに始まっていたかは伝の書き方からの読みで、月は書かれていない。隣の薊（ji）は528年末を｜韓楼《かんろう》としており、｜范陽《はんよう》はそれと分かれる","范陽太守盧文偉は孝荘帝の死後に劉霊助と起義し、霊助の敗後は高歓が信都に至ると子を遣わして誠を通じる。爾朱兆側の盧曹が幽州（薊）に拠ったため、文偉は范陽の郡所を州治とした":"｜范陽《はんよう》｜太守《たいしゅ》盧文偉は｜孝荘帝《こうそうてい》の死後に劉霊助と｜起義《きぎ》し、霊助の敗後は｜高歓《こうかん》が｜信都《しんと》に至ると子を遣わして誠を通じる。｜爾朱《じしゅ》兆側の盧曹が｜幽州《ゆうしゅう》（薊）に拠ったため、文偉は｜范陽《はんよう》の郡所を｜州治《しゅうち》とした","530年に盧文偉は爾朱側の平州刺史侯淵を締め出して范陽を保っている（通鑑『范陽太守卢文伟诱平州刺史侯渊出猎，闭门拒之。』）。531年は高歓側。隣の薊（ji）には531年の行が無いが、盧文偉伝によれば531年の幽州（薊）は爾朱兆に降った盧曹が拠っており（北斉書）、薊のほうは爾朱側だった":"530年に盧文偉は爾朱側の平州｜刺史《しし》侯淵を締め出して｜范陽《はんよう》を保っている（｜通鑑《つがん》『｜范陽《はんよう》｜太守《たいしゅ》卢文伟诱平州｜刺史《しし》侯渊出猎，闭门拒之。』）。531年は｜高歓《こうかん》側。隣の薊（ji）には531年の行が無いが、盧文偉伝によれば531年の｜幽州《ゆうしゅう》（薊）は｜爾朱《じしゅ》兆に降った盧曹が拠っており（｜北斉《ほくせい》書）、薊のほうは爾朱側だった","襄国":"｜襄国《じょうこく》","396年から続く（魏王珪が常山を抜き、常山以東の守宰は逃げるか降り、中山・鄴・信都の三城だけが燕のために守る）":"396年から続く（｜魏王《ぎおう》珪が常山を抜き、常山以東の守宰は逃げるか降り、｜中山《ちゅうざん》・鄴・｜信都《しんと》の三城だけが燕のために守る）","推定：高歓が広阿で爾朱兆を破り、十一月には南へ進んで鄴を攻める":"推定：｜高歓《こうかん》が｜広阿《こうあ》で｜爾朱《じしゅ》兆を破り、十一月には南へ進んで鄴を攻める","普泰元年十月〜十一月":"｜普泰《ふたい》元年十月〜十一月","推定。襄国そのものの記事は無い。高歓は十月に広阿（殷州・襄国の北）で爾朱兆を破り、十一月に鄴（襄国の南）を攻めている（通鑑『庚辰，魏高欢引兵攻鄴，相州刺史劉诞婴城固守。』）。間にある襄国は年末には高歓の勢力下にあったとみる。鄴（ye）は532年から高歓":"推定。｜襄国《じょうこく》そのものの記事は無い。｜高歓《こうかん》は十月に｜広阿《こうあ》（殷州・｜襄国《じょうこく》の北）で｜爾朱《じしゅ》兆を破り、十一月に鄴（｜襄国《じょうこく》の南）を攻めている（｜通鑑《つがん》『庚辰，魏高欢引兵攻鄴，｜相州《そうしゅう》｜刺史《しし》劉诞婴城固守。』）。間にある｜襄国《じょうこく》は年末には｜高歓《こうかん》の勢力下にあったとみる。鄴（ye）は532年から｜高歓《こうかん》","北周が北斉を滅ぼす。北斉の州鎮は傅伏・高宝寧を除きすべて北周に入る。579年に北周は洺州襄国郡を趙国とする":"｜北周《ほくしゅう》が｜北斉《ほくせい》を滅ぼす。｜北斉《ほくせい》の州鎮は傅伏・高｜宝寧《ほうねい》を除きすべて｜北周《ほくしゅう》に入る。579年に｜北周《ほくしゅう》は洺州｜襄国《じょうこく》郡を趙国とする","407年から続く（慕容雲（高雲）が龍城で天王に即く（407年））":"407年から続く（｜慕容《ぼよう》雲（高雲）が｜龍城《りゅうじょう》で天王に即く（407年））","北燕の滅亡（燕王が龍城を捨てて高句麗へ移る）":"北燕の滅亡（｜燕王《えんおう》が｜龍城《りゅうじょう》を捨てて｜高句麗《こうくり》へ移る）","太延二年":"｜太延《たいえん》二年","推定：営州城民就徳興の叛乱。524年に城を奪われた就徳興は東へ走って燕王を称し、降ってはまた叛き、孝昌中に営州が陥ちる":"推定：｜営州《えいしゅう》城民就徳興の｜叛乱《はんらん》。524年に城を奪われた就徳興は東へ走って｜燕王《えんおう》を称し、降ってはまた叛き、｜孝昌《こうしょう》中に｜営州《えいしゅう》が陥ちる","孝昌中":"｜孝昌《こうしょう》中","推定（営州単位の記事）。通鑑（524年）『德興東走，自称燕王。』、魏書『南营州孝昌中营州陷，永熙二年置。』。棘城は龍城の東南にあり、就徳興が『東走』した先にあたるが、棘城の名は記事に出ない。隣の龍城（longcheng）の525年に揃えた":"推定（｜営州《えいしゅう》単位の記事）。｜通鑑《つがん》（524年）『德興東走，自称｜燕王《えんおう》。』、｜魏書《ぎしょ》『南营州｜孝昌《こうしょう》中营州陷，｜永熙《えいき》二年置。』。棘城は｜龍城《りゅうじょう》の東南にあり、就徳興が『東走』した先にあたるが、棘城の名は記事に出ない。隣の｜龍城《りゅうじょう》（longcheng）の525年に揃えた","推定：就徳興が魏に降り営州平定":"推定：就徳興が魏に降り｜営州《えいしゅう》平定","永安二年十一月己卯":"｜永安《えいあん》二年十一月己卯","推定（営州単位の記事）。通鑑『十一月，己卯，就德興请降于魏，营州平。』、魏書":"推定（｜営州《えいしゅう》単位の記事）。｜通鑑《つがん》『十一月，己卯，就德興请降于魏，营州平。』、｜魏書《ぎしょ》","不明（地形志『永安末陷』）":"不明（地形志『｜永安《えいあん》末陷』）","推定：地形志に営州は永安末に陥ち天平初に復すとある。陥した勢力は原文で特定できない":"推定：地形志に｜営州《えいしゅう》は｜永安《えいあん》末に陥ち｜天平《てんぺい》初に復すとある。陥した勢力は原文で特定できない","推定（営州単位の記事）。魏書『营州治和龙城。太延二年為鎮，真君五年改置。永安末陷，天增初復。』。隣の龍城（longcheng）は holder を none（不明）にしている。ここでは BRIEF の政権表に none が無いので other・faction 不明とした。地図側で龍城に揃えるなら none に読み替えてよい":"推定（｜営州《えいしゅう》単位の記事）。｜魏書《ぎしょ》『营｜州治《しゅうち》和龙城。｜太延《たいえん》二年為鎮，真君五年改置。｜永安《えいあん》末陷，天增初復。』。隣の｜龍城《りゅうじょう》（longcheng）は holder を none（不明）にしている。ここでは BRIEF の政権表に none が無いので other・faction 不明とした。地図側で｜龍城《りゅうじょう》に揃えるなら none に読み替えてよい","推定：営州回復（地形志『天增初復』の『天增』は天平の誤り）":"推定：｜営州《えいしゅう》回復（地形志『天增初復』の『天增』は｜天平《てんぺい》の誤り）","推定（営州単位の記事）。魏書。天平元年は534年":"推定（｜営州《えいしゅう》単位の記事）。｜魏書《ぎしょ》。｜天平《てんぺい》元年は534年","高宝寧":"高｜宝寧《ほうねい》","推定：北斉滅亡時、営州刺史高宝寧は北周に下らず和龍（黄龍）に拠り、高紹義を皇帝に推す":"推定：｜北斉《ほくせい》滅亡時、｜営州《えいしゅう》｜刺史《しし》高｜宝寧《ほうねい》は｜北周《ほくしゅう》に下らず｜和龍《わりゅう》（｜黄龍《こうりゅう》）に拠り、｜高紹義《こうしょうぎ》を皇帝に推す","推定（営州単位の記事）。通鑑『唯東雍州行台傅伏、营州刺史高宝寧不下』、通鑑『高宝寧自黄龙上表劝進于高绍義』、北斉書『還据黄龙，竟不臣周。』。棘城は龍城県の内なので和龍の持ち主に従わせた":"推定（｜営州《えいしゅう》単位の記事）。｜通鑑《つがん》『唯東｜雍州《ようしゅう》｜行台《こうだい》傅伏、营州｜刺史《しし》高｜宝寧《ほうねい》不下』、｜通鑑《つがん》『高｜宝寧《ほうねい》自黄龙｜上表《じょうひょう》劝進于高绍義』、｜北斉《ほくせい》書『還据黄龙，竟不臣周。』。棘城は｜龍城《りゅうじょう》県の内なので｜和龍《わりゅう》の持ち主に従わせた","推定：隋の幽州総管陰寿が高宝寧を討ち、宝寧は城を棄てて磧北へ奔り、和龍諸県が平定":"推定：隋の｜幽州《ゆうしゅう》｜総管《そうかん》陰寿が高｜宝寧《ほうねい》を討ち、宝寧は城を棄てて磧北へ奔り、｜和龍《わりゅう》諸県が平定","開皇三年":"｜開皇《かいこう》三年","推定。通鑑『宝寧弃城奔碛北，和龙諸県悉平。』、隋書『宝寧弃城奔于碛北，黄龙諸県悉平。』。『和龍諸県』に龍城県（棘城を含む）が入るとみる。高宝寧は北周ではないので581年の隋への交替の行は立てず、583年に隋とした":"推定。｜通鑑《つがん》『宝寧弃城奔碛北，和龙諸県悉平。』、｜隋書《ずいしょ》『宝寧弃城奔于碛北，黄龙諸県悉平。』。『｜和龍《わりゅう》諸県』に｜龍城《りゅうじょう》県（棘城を含む）が入るとみる。高｜宝寧《ほうねい》は｜北周《ほくしゅう》ではないので581年の隋への交替の行は立てず、583年に隋とした","408年から続く（北燕が尚書令馮万泥を幽・冀二州牧として肥如（令支の東南隣）に鎮させる）":"408年から続く（北燕が｜尚書令《しょうしょれい》馮万泥を幽・冀二州牧として肥如（令支の東南隣）に鎮させる）","肥如に鎮していた燕の長楽公馮崇が魏に降り、郡を挙げて降ることを請う（燕は封羽に遼西の崇を囲ませ、433年正月に魏が救援）":"肥如に鎮していた燕の｜長楽公《ちょうらくこう》馮崇が魏に降り、郡を挙げて降ることを請う（燕は封羽に｜遼西《りょうせい》の崇を囲ませ、433年正月に魏が救援）","元嘉九年十二月":"｜元嘉《げんか》九年十二月","推定：就徳興が魏の平州を陥し、刺史王買奴を殺す":"推定：就徳興が魏の平州を陥し、｜刺史《しし》王買奴を殺す","孝昌二年":"｜孝昌《こうしょう》二年","推定（平州単位の記事）。通鑑『就德興陷魏平州，杀刺史王买奴。』、魏書『就德興攻陷平州，杀刺史王买奴。』。令支城は平州の治所肥如の県内にある（地形志）が、令支の名は記事に出ない":"推定（平州単位の記事）。｜通鑑《つがん》『就德興陷魏平州，杀｜刺史《しし》王买奴。』、｜魏書《ぎしょ》『就德興攻陷平州，杀｜刺史《しし》王买奴。』。令支城は平州の治所肥如の県内にある（地形志）が、令支の名は記事に出ない","推定。通鑑『十一月，己卯，就德興请降于魏，营州平。』は営州の平定のみを言う。平州の回復記事は無い。同じ529年に侯淵が平州刺史とされるが『仍鎮范陽』で、平州に入った記事ではない（魏書）":"推定。｜通鑑《つがん》『十一月，己卯，就德興请降于魏，营州平。』は｜営州《えいしゅう》の平定のみを言う。平州の回復記事は無い。同じ529年に侯淵が平州｜刺史《しし》とされるが『仍鎮｜范陽《はんよう》』で、平州に入った記事ではない（｜魏書《ぎしょ》）","襄平（遼東）":"襄平（｜遼東《りょうとう》）","遼陽市":"｜遼陽《りょうよう》市","402年から続く（高句麗が宿軍（遼河の西）を攻め、燕の平州刺史慕容帰が城を捨てて逃げる）":"402年から続く（｜高句麗《こうくり》が宿軍（遼河の西）を攻め、燕の平州｜刺史《しし》｜慕容《ぼよう》帰が城を捨てて逃げる）","洛陽":"｜洛陽《らくよう》","洛陽市":"｜洛陽《らくよう》市","東晋から宋へ。419年に司馬康が金墉城を守り、423年正月に河南太守王涓之が棄城するまで宋（晋）の河南太守が洛陽にいた":"｜東晋《とうしん》から宋へ。419年に｜司馬《しば》康が｜金墉城《きんようじょう》を守り、423年正月に｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》王涓之が棄城するまで宋（晋）の｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》が｜洛陽《らくよう》にいた","北魏の于栗磾が金墉を攻め、宋の河南太守王涓之が城を棄てて走る。栗磾を豫州刺史として洛陽に鎮させる":"｜北魏《ほくぎ》の于栗磾が｜金墉《きんよう》を攻め、宋の｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》王涓之が城を棄てて走る。栗磾を｜豫州《よしゅう》｜刺史《しし》として｜洛陽《らくよう》に鎮させる","景平元年（423）正月癸卯":"｜景平《けいへい》元年（423）正月癸卯","北魏の東西分裂。孝武帝西遷後、洛陽は高歓（東魏）側":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂。｜孝武帝《こうぶてい》西遷後、｜洛陽《らくよう》は｜高歓《こうかん》（｜東魏《とうぎ》）側","沙苑の戦いの後、西魏の独孤信が洛陽に迫り、東魏の洛州刺史広陽王湛が棄城、信が金墉城に拠る":"｜沙苑《さえん》の戦いの後、｜西魏《せいぎ》の｜独孤信《どっこしん》が｜洛陽《らくよう》に迫り、｜東魏《とうぎ》の｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》｜広陽王《こうようおう》湛が棄城、信が｜金墉城《きんようじょう》に拠る","大統三年（537）十月以後":"｜大統《だいとう》三年（537）十月以後","邙山の戦いで西魏が敗れ、北豫州（虎牢）・洛州（洛陽）が東魏に復す":"｜邙山《ぼうざん》の戦いで｜西魏《せいぎ》が敗れ、北豫州（｜虎牢《ころう》）・洛州（｜洛陽《らくよう》）が｜東魏《とうぎ》に復す","武定元年（543）三〜五月":"｜武定《ぶてい》元年（543）三〜五月","北斉の洛州刺史独孤永業が北周に降る（北斉滅亡）":"｜北斉《ほくせい》の｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》独孤｜永業《えいぎょう》が｜北周《ほくしゅう》に降る（｜北斉《ほくせい》滅亡）","建徳六年（577）":"｜建徳《けんとく》六年（577）","虎牢":"｜虎牢《ころう》","滎陽市":"｜滎陽《けいよう》市","東晋から宋へ。419年から毛徳祖が滎陽太守・司州刺史として虎牢を守る":"｜東晋《とうしん》から宋へ。419年から毛｜徳祖《とくそ》が｜滎陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》・｜司州《ししゅう》｜刺史《しし》として｜虎牢《ころう》を守る","二百日の包囲の末に虎牢陥落、毛徳祖が捕らえられる":"二百日の包囲の末に｜虎牢《ころう》陥落、毛｜徳祖《とくそ》が捕らえられる","景平元年（423）閏四月己未":"｜景平《けいへい》元年（423）閏四月｜己未《きび》","北周が北斉を滅ぼし、その州郡をすべて得る（虎牢単独の降伏記事は未確認）":"｜北周《ほくしゅう》が｜北斉《ほくせい》を滅ぼし、その州郡をすべて得る（｜虎牢《ころう》単独の降伏記事は未確認）","滑台":"｜滑台《かつだい》","東晋から宋へ。宋の東郡太守王景度が滑台にいた（422年の条）":"｜東晋《とうしん》から宋へ。宋の｜東郡《とうぐん》｜太守《たいしゅ》王景度が｜滑台《かつだい》にいた（422年の条）","北魏の奚斤らが滑台を抜き、成皋侯苟児を兗州刺史として鎮させる":"｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤らが｜滑台《かつだい》を抜き、成皋侯苟児を｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》として鎮させる","永初三年（422）十一月庚戌":"｜永初《えいしょ》三年（422）十一月庚戌","到彦之の北伐で北魏の戍兵が滑台を棄て、朱修之が守る":"到｜彦之《げんし》の｜北伐《ほくばつ》で｜北魏《ほくぎ》の戍兵が｜滑台《かつだい》を棄て、朱｜修之《しゅうし》が守る","元嘉七年（430）七月戊戌":"｜元嘉《げんか》七年（430）七月戊戌","数か月の包囲の後、北魏の安頡らが滑台を抜き朱修之を捕らえる":"数か月の包囲の後、｜北魏《ほくぎ》の安｜頡《けつ》らが｜滑台《かつだい》を抜き朱｜修之《しゅうし》を捕らえる","元嘉八年（431）二月辛酉":"｜元嘉《げんか》八年（431）二月辛酉","北周が北斉を滅ぼす":"｜北周《ほくしゅう》が｜北斉《ほくせい》を滅ぼす","陳留（大梁）":"｜陳留《ちんりゅう》（｜大梁《だいりょう》）","陳留":"｜陳留《ちんりゅう》","東晋から宋へ。418年に劉義隆が「兗州之陳留」を監した。ただし宋書州郡志は永初の陳留郡に浚儀（大梁）を載せず、大梁の城そのものに宋の守宰がいたかは未確認":"｜東晋《とうしん》から宋へ。418年に｜劉《りゅう》｜義隆《ぎりゅう》が「｜兗州《えんしゅう》之｜陳留《ちんりゅう》」を監した。ただし｜宋書《そうじょ》州郡志は｜永初《えいしょ》の｜陳留《ちんりゅう》郡に浚儀（｜大梁《だいりょう》）を載せず、｜大梁《だいりょう》の城そのものに宋の守宰がいたかは未確認","北魏の滑稽が倉垣を襲い、宋の兵吏はみな城を越えて逃げ、陳留太守厳稜が奚斤に降る。北魏は王玉を陳留太守として倉垣を守らせる":"｜北魏《ほくぎ》の滑稽が倉垣を襲い、宋の兵吏はみな城を越えて逃げ、｜陳留《ちんりゅう》｜太守《たいしゅ》厳稜が｜奚《けい》斤に降る。｜北魏《ほくぎ》は王玉を｜陳留《ちんりゅう》｜太守《たいしゅ》として倉垣を守らせる","五胡十六国の地図と照らし合わせて直した（陳留太守の降伏は422年の条。423年は明元帝が陳留に至った年）":"｜五胡十六国《ごこじゅうろっこく》の地図と照らし合わせて直した（｜陳留《ちんりゅう》｜太守《たいしゅ》の降伏は422年の条。423年は｜明元帝《めいげんてい》が｜陳留《ちんりゅう》に至った年）","許昌":"｜許昌《きょしょう》","許昌市":"｜許昌《きょしょう》市","東晋から宋へ。423年まで宋の潁川太守李元徳が許昌にいた":"｜東晋《とうしん》から宋へ。423年まで宋の潁川｜太守《たいしゅ》李｜元徳《げんとく》が｜許昌《きょしょう》にいた","奚斤が許昌の李元徳を攻め、魏が潁川太守を置いて許昌を戍る。年内に李元徳が一時再入したが周幾が平らげた":"｜奚《けい》斤が｜許昌《きょしょう》の李｜元徳《げんとく》を攻め、魏が潁川｜太守《たいしゅ》を置いて｜許昌《きょしょう》を戍る。年内に李｜元徳《げんとく》が一時再入したが周幾が平らげた","景平元年（423）":"｜景平《けいへい》元年（423）","東魏の潁州長史賀若統が刺史を捕らえて西魏に降り、西魏の梁回が入城。11月に西魏の宇文貴が来援の東魏軍を破る":"｜東魏《とうぎ》の｜潁州《えいしゅう》長史賀若統が｜刺史《しし》を捕らえて｜西魏《せいぎ》に降り、｜西魏《せいぎ》の梁回が入城。11月に｜西魏《せいぎ》の｜宇文《うぶん》貴が来援の｜東魏《とうぎ》軍を破る","侯景が虎牢から河南諸州の回復に出て、西魏の梁迥らが棄城して西に帰る":"｜侯景《こうけい》が｜虎牢《ころう》から｜河南《かなん》諸州の回復に出て、｜西魏《せいぎ》の梁迥らが棄城して西に帰る","元象元年（538）前半":"｜元象《げんしょう》元年（538）前半","侯景が長社などを西魏に割き、西魏の王思政が潁川（長社）に入る":"｜侯景《こうけい》が長社などを｜西魏《せいぎ》に割き、｜西魏《せいぎ》の王｜思政《しせい》が潁川（長社）に入る","太清元年（547）":"｜太清《たいせい》元年（547）","一年余りの包囲と水攻めの末に長社陥落、王思政が捕らえられ、潁川を鄭州と改める":"一年余りの包囲と水攻めの末に長社陥落、王｜思政《しせい》が捕らえられ、潁川を鄭州と改める","太清三年（549）":"｜太清《たいせい》三年（549）","魯陽":"｜魯陽《ろよう》","東晋から宋へ。宋書州郡志の南陽太守の条で、永初の郡国に魯陽県がある":"｜東晋《とうしん》から宋へ。｜宋書《そうじょ》州郡志の｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》の条で、｜永初《えいしょ》の｜郡国《ぐんこく》に｜魯陽《ろよう》県がある","450年の北伐で宋軍が魯陽に「入」っており、この時点で北魏側。大明年間の徐志では宋の県籍から消える":"450年の｜北伐《ほくばつ》で｜宋《そう》軍が｜魯陽《ろよう》に「入」っており、この時点で｜北魏《ほくぎ》側。｜大明《たいめい》年間の徐志では宋の県籍から消える","元嘉二十七年（450）以前":"｜元嘉《げんか》二十七年（450）以前","北魏の東西分裂。東魏は魯陽に荊州を置いた（547年条の胡注）":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂。｜東魏《とうぎ》は｜魯陽《ろよう》に｜荊州《けいしゅう》を置いた（547年条の胡注）","侯景が魯陽を西魏に割き、王思政が郭賢を魯陽に鎮させる":"｜侯景《こうけい》が｜魯陽《ろよう》を｜西魏《せいぎ》に割き、王｜思政《しせい》が郭賢を｜魯陽《ろよう》に鎮させる","東晋から宋へ。423年に宋の劉粋が項城に軍している":"｜東晋《とうしん》から宋へ。423年に宋の劉粋が項城に軍している","宋が淮北四州と豫州の淮西の地を失い、北魏の西河公石が陳項に屯する":"宋が淮北｜四州《ししゅう》と豫州の｜淮西《わいせい》の地を失い、｜北魏《ほくぎ》の西河公石が陳項に屯する","泰始三年（467）正月〜二月":"｜泰始《たいし》三年（467）正月〜二月","潁川攻めに失敗した東魏の揚州刺史是云宝が本州（項城）に戻って西魏に降る":"潁川攻めに失敗した｜東魏《とうぎ》の｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》是云宝が本州（項城）に戻って｜西魏《せいぎ》に降る","天平四年（537）冬":"｜天平《てんぺい》四年（537）冬","東魏の堯雄が項城・南頓を一日で抜き、是云宝が遁走":"｜東魏《とうぎ》の堯雄が項城・南頓を一日で抜き、是云宝が遁走","元象元年（538）":"｜元象《げんしょう》元年（538）","侯景の帰順に応じて梁の羊思達が殷州刺史として項城に鎮す":"｜侯景《こうけい》の帰順に応じて梁の羊思達が殷州｜刺史《しし》として項城に鎮す","太清元年（547）七月":"｜太清《たいせい》元年（547）七月","羊思達が項城を棄てて走り、東魏が据える":"羊思達が項城を棄てて走り、｜東魏《とうぎ》が据える","太清二年（548）正月甲辰":"｜太清《たいせい》二年（548）正月｜甲辰《こうしん》","懸瓠（汝南）":"｜懸瓠《けんこ》（汝南）","懸瓠":"｜懸瓠《けんこ》","東晋から宋へ。内地。450年の条で宋の陳憲が懸瓠を守っている":"｜東晋《とうしん》から宋へ。内地。450年の条で宋の陳憲が｜懸瓠《けんこ》を守っている","宋の汝南太守（司州刺史）常珍奇が懸瓠ごと北魏に降り、北魏の西河公石が入る":"宋の汝南｜太守《たいしゅ》（｜司州《ししゅう》｜刺史《しし》）常珍奇が｜懸瓠《けんこ》ごと｜北魏《ほくぎ》に降り、｜北魏《ほくぎ》の西河公石が入る","泰始二年（466）九月":"｜泰始《たいし》二年（466）九月","西魏の韋孝寛が東魏の豫州（懸瓠）を抜く":"｜西魏《せいぎ》の｜韋孝寛《いこうかん》が｜東魏《とうぎ》の豫州（｜懸瓠《けんこ》）を抜く","大統三年（537）冬":"｜大統《だいとう》三年（537）冬","東魏の堯雄・侯景が懸瓠を討ち、西魏の趙継宗・韋孝寛を逐う":"｜東魏《とうぎ》の堯雄・｜侯景《こうけい》が｜懸瓠《けんこ》を討ち、｜西魏《せいぎ》の趙継宗・｜韋孝寛《いこうかん》を逐う","侯景の帰順に応じて梁の羊鴉仁が懸瓠に入り、豫州とする":"｜侯景《こうけい》の帰順に応じて梁の羊鴉仁が｜懸瓠《けんこ》に入り、豫州とする","太清元年（547）七月庚申":"｜太清《たいせい》元年（547）七月庚申","羊鴉仁が懸瓠を棄てて義陽に帰り、東魏が据える":"羊鴉仁が｜懸瓠《けんこ》を棄てて義陽に帰り、｜東魏《とうぎ》が据える","北周が北斉を滅ぼし、豫州などに総管府を置く":"｜北周《ほくしゅう》が｜北斉《ほくせい》を滅ぼし、豫州などに｜総管《そうかん》府を置く","信陽市":"｜信陽《しんよう》市","東晋から宋へ。内地。466年に宋が義陽に司州を置く":"｜東晋《とうしん》から宋へ。内地。466年に宋が義陽に司州を置く","北魏の元英が義陽（梁の司州）を抜き、郢州を置く":"｜北魏《ほくぎ》の元英が義陽（梁の司州）を抜き、｜郢州《えいしゅう》を置く","天監三年（504）八月":"｜天監《てんかん》三年（504）八月","北魏の郢州刺史元顕（願）達が義陽ごと梁に降り、北司州とする":"｜北魏《ほくぎ》の｜郢州《えいしゅう》｜刺史《しし》｜元顕《げんけん》（願）達が義陽ごと梁に降り、北司州とする","大通二年（528）四月辛丑":"｜大通《だいつう》二年（528）四月辛丑","東魏の潘楽が司州（義陽）を襲い、梁の刺史夏侯強が降る":"｜東魏《とうぎ》の潘楽が司州（義陽）を襲い、梁の｜刺史《しし》夏侯強が降る","宛（南陽）":"宛（｜南陽《なんよう》）","南陽市":"｜南陽《なんよう》市","東晋から宋へ。内地。宋の南陽太守が置かれる（426年に沈道興）":"｜東晋《とうしん》から宋へ。内地。宋の｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》が置かれる（426年に沈道興）","孝文帝の南征で宛の外城（497年）に続いて内城も陥り、南斉の南陽太守房伯玉が降る":"｜孝文帝《こうぶんてい》の南征で宛の外城（497年）に続いて内城も陥り、｜南斉《なんせい》の｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》房｜伯玉《はくぎょく》が降る","建武五年／太和二十二年（498）二月甲子":"｜建武《けんぶ》五年／｜太和《たいわ》二十二年（498）二月｜甲子《こうし》","北魏の東西分裂。荊州刺史賀抜勝（孝武帝方）の留守を侯景が攻め、東魏が荊州を取る":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂。｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》賀抜勝（｜孝武帝《こうぶてい》方）の留守を｜侯景《こうけい》が攻め、｜東魏《とうぎ》が｜荊州《けいしゅう》を取る","永熙三年（534）":"｜永熙《えいき》三年（534）","沙苑の戦いの後、西魏の荊州刺史郭鸞が東魏の東荊州を攻めており、この時点で荊州（穰城・南陽）は西魏側":"｜沙苑《さえん》の戦いの後、｜西魏《せいぎ》の｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》郭鸞が｜東魏《とうぎ》の東｜荊州《けいしゅう》を攻めており、この時点で｜荊州《けいしゅう》（穰城・｜南陽《なんよう》）は｜西魏《せいぎ》側","大統三年（537）":"｜大統《だいとう》三年（537）","東晋から宋へ。内地。宋の新野太守が置かれる":"｜東晋《とうしん》から宋へ。内地。宋の新野｜太守《たいしゅ》が置かれる","孝文帝の南征で新野が陥り、太守劉思忌が殺される":"｜孝文帝《こうぶんてい》の南征で新野が陥り、｜太守《たいしゅ》劉思忌が殺される","建武五年／太和二十二年（498）正月丁亥":"｜建武《けんぶ》五年／｜太和《たいわ》二十二年（498）正月丁亥","北魏の東西分裂。侯景が荊州を取り東魏領に":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂。｜侯景《こうけい》が｜荊州《けいしゅう》を取り｜東魏《とうぎ》領に","宛と同じ（西魏の荊州）":"宛と同じ（｜西魏《せいぎ》の｜荊州《けいしゅう》）","襄陽":"｜襄陽《じょうよう》","襄陽市":"｜襄陽《じょうよう》市","東晋から宋へ。内地（雍州）":"｜東晋《とうしん》から宋へ。内地（｜雍州《ようしゅう》）","岳陽王蕭詧（雍州刺史・西魏に附庸を請う）":"岳陽王｜蕭詧《しょうさつ》（｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》・｜西魏《せいぎ》に附庸を請う）","雍州刺史蕭詧が湘東王蕭繹と対立し、西魏に附庸を請い妃と世子を質に送る":"｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》｜蕭詧《しょうさつ》が｜湘東王《しょうとうおう》｜蕭繹《しょうえき》と対立し、｜西魏《せいぎ》に附庸を請い妃と世子を質に送る","梁王蕭詧（西魏の附庸）":"｜梁王《りょうおう》｜蕭詧《しょうさつ》（｜西魏《せいぎ》の附庸）","西魏が蕭詧を梁王に冊命し、襄陽に台と百官を置かせる。実効支配は蕭詧":"｜西魏《せいぎ》が｜蕭詧《しょうさつ》を｜梁王《りょうおう》に冊命し、｜襄陽《じょうよう》に台と百官を置かせる。実効支配は｜蕭詧《しょうさつ》","大宝元年（550）":"｜大宝《たいほう》元年（550）","江陵陥落後、西魏が蕭詧を梁主として江陵に移し、雍州（襄陽）は西魏が直接取る":"｜江陵《こうりょう》陥落後、｜西魏《せいぎ》が｜蕭詧《しょうさつ》を｜梁主《りょうしゅ》として｜江陵《こうりょう》に移し、｜雍州《ようしゅう》（｜襄陽《じょうよう》）は｜西魏《せいぎ》が直接取る","承聖三年（554）十二月":"｜承聖《しょうせい》三年（554）十二月","安陸":"｜安陸《あんりく》","安陸市":"｜安陸《あんりく》市","東晋から宋へ。内地":"｜東晋《とうしん》から宋へ。内地","西魏の楊忠が柳仲礼を漴頭で破り、安陸の馬岫が降る（漢東の地がすべて西魏に入る）":"｜西魏《せいぎ》の｜楊忠《ようちゅう》が柳仲礼を漴頭で破り、｜安陸《あんりく》の馬岫が降る（漢東の地がすべて｜西魏《せいぎ》に入る）","大宝元年（550）正月":"｜大宝《たいほう》元年（550）正月","随州市":"｜随州《ずいしゅう》市","西魏の楊忠が随郡を抜き太守桓和を捕らえる":"｜西魏《せいぎ》の｜楊忠《ようちゅう》が随郡を抜き｜太守《たいしゅ》桓和を捕らえる","東晋から宋へ。内地。426年に宋の劉粋が道済に竟陵内史を行わせる":"｜東晋《とうしん》から宋へ。内地。426年に宋の劉粋が｜道済《どうさい》に竟陵｜内史《ないし》を行わせる","柳仲礼の敗北後、梁の別将王叔孫が竟陵ごと西魏の楊忠に降る":"柳仲礼の敗北後、梁の別将王叔孫が竟陵ごと｜西魏《せいぎ》の｜楊忠《ようちゅう》に降る","東晋から宋へ。晋末から梁州刺史が魏興に治したという434年条の追叙":"｜東晋《とうしん》から宋へ。晋末から｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》が魏興に治したという434年条の追叙","西魏の王雄が上津・魏興を取り、梁の東梁州刺史李遷哲が降る":"｜西魏《せいぎ》の王雄が上津・魏興を取り、梁の東｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》李遷哲が降る","承聖元年（552）／周書は大統十七年（551）":"｜承聖《しょうせい》元年（552）／｜周書《しゅうしょ》は｜大統《だいとう》十七年（551）","東晋から宋へ。晋末から梁州の残る三郡の一つ":"｜東晋《とうしん》から宋へ。晋末から｜梁州《りょうしゅう》の残る三郡の一つ","梁の上庸・新城二郡守扶猛が西魏の王雄に降り、二郡を割いて羅州とする":"梁の上庸・｜新城《しんじょう》二｜郡守《ぐんしゅ》扶猛が｜西魏《せいぎ》の王雄に降り、二郡を割いて羅州とする","魏廃帝元年（552）":"魏｜廃帝《はいてい》元年（552）","宜陽":"｜宜陽《ぎよう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から｜北斉《ほくせい》へ（｜隋書《ずいしょ》｜地理志《ちりし》は『後斉曰西｜楚州《そしゅう》』）","陳が鍾離を得た条は見つからない。573年の北伐で周辺の馬頭城・済陰城（いずれも鍾離郡域）を克っており、578年には陳の周羅睺が鍾離太守に任じられているので、573年に陳領になったと推定":"陳が｜鍾離《しょうり》を得た条は見つからない。573年の｜北伐《ほくばつ》で周辺の馬頭城・｜済陰《さいいん》城（いずれも｜鍾離《しょうり》郡域）を克っており、578年には陳の周羅睺が｜鍾離《しょうり》｜太守《たいしゅ》に任じられているので、573年に陳領になったと推定","北周の淮南攻略で楊素が鍾離を下す":"｜北周《ほくしゅう》の｜淮南《わいなん》攻略で｜楊素《ようそ》が｜鍾離《しょうり》を下す","大象元年":"｜大象《たいしょう》元年","寿陽（寿春）":"｜寿陽《じゅよう》（｜寿春《じゅしゅん》）","寿陽":"｜寿陽《じゅよう》","宋の豫州治所":"宋の豫｜州治《しゅうち》所","斉の豫州刺史裴叔業が寿陽ごと北魏に降る（叔業は病死し、甥の裴植が魏兵を入れる）":"斉の｜豫州《よしゅう》｜刺史《しし》裴叔業が｜寿陽《じゅよう》ごと｜北魏《ほくぎ》に降る（叔業は病死し、甥の裴植が｜魏《ぎ》兵を入れる）","永元二年正月〜二月／景明元年":"｜永元《えいげん》二年正月〜二月／｜景明《けいめい》元年","北魏の揚州刺史李憲が寿陽ごと梁に降る":"｜北魏《ほくぎ》の｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》｜李憲《りけん》が｜寿陽《じゅよう》ごと梁に降る","普通七年十一月辛巳":"｜普通《ふつう》七年十一月辛巳","渦陽で敗れた侯景が正月に寿陽に入り（梁の南豫州牧）、八月に挙兵して王顕貴に寿陽を守らせる":"渦陽で敗れた｜侯景《こうけい》が正月に｜寿陽《じゅよう》に入り（梁の南豫州牧）、八月に挙兵して王顕貴に｜寿陽《じゅよう》を守らせる","太清二年":"｜太清《たいせい》二年","侯景の守将王顕貴が寿陽ごと東魏に降る":"｜侯景《こうけい》の守将王顕貴が｜寿陽《じゅよう》ごと｜東魏《とうぎ》に降る","陳の呉明徹が寿陽を抜き王琳を擒える":"陳の｜呉明徹《ごめいてつ》が｜寿陽《じゅよう》を抜き｜王琳《おうりん》を擒える","太建五年十月乙巳":"｜太建《たいけん》五年十月乙巳","北周の韋孝寛が寿陽を抜く":"｜北周《ほくしゅう》の｜韋孝寛《いこうかん》が｜寿陽《じゅよう》を抜く","大象元年十一月戊申":"｜大象《たいしょう》元年十一月戊申","斉の龍陽県侯王朗が渦陽から北魏に来降し、北魏の南兗州刺史孟表が渦陽に鎮する":"斉の龍陽｜県侯《けんこう》王朗が渦陽から｜北魏《ほくぎ》に来降し、｜北魏《ほくぎ》の南｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》孟表が渦陽に鎮する","-10-04 総点検（以前は466年から北魏と推定していた）":"-10-04 総点検（以前は466年から｜北魏《ほくぎ》と推定していた）","梁の陳慶之らが渦陽を攻め、城主王緯が降る。梁は渦陽に西徐州を置く":"梁の陳｜慶之《けいし》らが渦陽を攻め、城主王緯が降る。梁は渦陽に西｜徐州《じょしゅう》を置く","大通元年十月〜十一月":"｜大通《だいつう》元年十月〜十一月","前年から渦陽に拠った侯景（このとき梁に帰順）が東魏の慕容紹宗に大敗し、東魏が渦陽を陥れる":"前年から渦陽に拠った｜侯景《こうけい》（このとき梁に帰順）が｜東魏《とうぎ》の｜慕容《ぼよう》｜紹宗《しょうそう》に大敗し、｜東魏《とうぎ》が渦陽を陥れる","太清二年正月己亥":"｜太清《たいせい》二年正月己亥","東魏から北斉へ（東魏以来の譙州）":"｜東魏《とうぎ》から｜北斉《ほくせい》へ（｜東魏《とうぎ》以来の譙州）","北斉の譙州（山桑＝渦陽）城が陳に降る":"｜北斉《ほくせい》の譙州（山桑＝渦陽）城が陳に降る","北周が陳の譙州（渦陽）を取る":"｜北周《ほくしゅう》が陳の譙州（渦陽）を取る","太建十一年十二月":"｜太建《たいけん》十一年十二月","寿陽の降伏に続き、北魏の彭城王勰・王粛が合肥を攻めて斉の李叔献を擒える":"｜寿陽《じゅよう》の降伏に続き、｜北魏《ほくぎ》の｜彭城《ほうじょう》王勰・王粛が合肥を攻めて斉の李叔献を擒える","永元二年":"｜永元《えいげん》二年","梁の韋叡が肥水を堰き止めて合肥を落とし、豫州の治所を合肥に移す":"梁の韋叡が｜肥水《ひすい》を堰き止めて合肥を落とし、豫州の治所を合肥に移す","天監五年五月辛巳":"｜天監《てんかん》五年五月辛巳","梁の鄱陽王範が東魏の援を頼み、合州（合肥）を東魏の李伯穆に引き渡して東関へ出る":"梁の｜鄱陽王《はようおう》範が｜東魏《とうぎ》の援を頼み、合州（合肥）を｜東魏《とうぎ》の李伯穆に引き渡して東関へ出る","東魏から北斉へ（552年に侯景軍が合肥に至ったが斉人は城を閉ざして守る）":"｜東魏《とうぎ》から｜北斉《ほくせい》へ（552年に｜侯景《こうけい》軍が合肥に至ったが斉人は城を閉ざして守る）","太建五年五月〜六月":"｜太建《たいけん》五年五月〜六月","北周の淮南攻略で江北の地はすべて北周に入る（合肥の名指しは無い）":"｜北周《ほくしゅう》の｜淮南《わいなん》攻略で｜江北《こうほく》の地はすべて｜北周《ほくしゅう》に入る（合肥の名指しは無い）","歴陽":"｜歴陽《れきよう》","荘鉄の偽りの書に欺かれて侯景の守将田英・郭駱が寿陽へ逃げ、荘鉄も入城したが守らずに尋陽へ去る":"荘鉄の偽りの書に欺かれて｜侯景《こうけい》の守将田英・郭駱が｜寿陽《じゅよう》へ逃げ、荘鉄も入城したが守らずに｜尋陽《じんよう》へ去る","548年十月に荘鉄が降って侯景は田英・郭駱に歴陽を守らせたが、同じ年のうちに両方が城を棄てた（-10-04 総点検。以前は548年から侯景としていた）":"548年十月に荘鉄が降って｜侯景《こうけい》は田英・郭駱に｜歴陽《れきよう》を守らせたが、同じ年のうちに両方が城を棄てた（-10-04 総点検。以前は548年から｜侯景《こうけい》としていた）","侯景が台城を落とし、建康の対岸の歴陽も侯景方に入る":"｜侯景《こうけい》が｜台城《たいじょう》を落とし、｜建康《けんこう》の対岸の｜歴陽《れきよう》も｜侯景《こうけい》方に入る","推定。歴陽そのものの記事は無い。552年に王僧辯が東下したとき『歴陽戍迎降』とあり、侯景方の戍があった（-10-04 総点検）":"推定。｜歴陽《れきよう》そのものの記事は無い。552年に王｜僧辯《そうべん》が東下したとき『｜歴陽《れきよう》戍迎降』とあり、｜侯景《こうけい》方の戍があった（-10-04 総点検）","王僧辯の東下に際し侯景方の歴陽戍が梁に降ったが、同年北斉の合州刺史斛斯昭が歴陽を抜く":"王｜僧辯《そうべん》の東下に際し｜侯景《こうけい》方の｜歴陽《れきよう》戍が梁に降ったが、同年｜北斉《ほくせい》の合州｜刺史《しし》斛斯昭が｜歴陽《れきよう》を抜く","承聖元年":"｜承聖《しょうせい》元年","陳の黄法𣰰が歴陽を克つ":"陳の黄法𣰰が｜歴陽《れきよう》を克つ","太建五年五月丙子":"｜太建《たいけん》五年五月｜丙子《へいし》","北周の淮南攻略で歴陽郡の民は江南へ引き揚げ、江北はすべて北周に入る":"｜北周《ほくしゅう》の｜淮南《わいなん》攻略で｜歴陽《れきよう》郡の民は｜江南《こうなん》へ引き揚げ、｜江北《こうほく》はすべて｜北周《ほくしゅう》に入る","広陵":"｜広陵《こうりょう》","揚州市":"｜揚州《ようしゅう》市","宋の南兗州の治所（422）":"宋の南｜兗州《えんしゅう》の治所（422）","侯景の江北行台董紹先が広陵に至り、南兗州刺史南康王会理が城を明け渡す":"｜侯景《こうけい》の｜江北《こうほく》｜行台《こうだい》董紹先が｜広陵《こうりょう》に至り、南｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》｜南康王《なんこうおう》会理が城を明け渡す","侯景敗亡後、広陵の侯景方の郭元建らが北斉に降り、北斉の辛術が広陵に拠る。王僧辯は広陵の割譲を認める":"｜侯景《こうけい》敗亡後、｜広陵《こうりょう》の｜侯景《こうけい》方の｜郭元建《かくげんけん》らが｜北斉《ほくせい》に降り、｜北斉《ほくせい》の辛術が｜広陵《こうりょう》に拠る。王｜僧辯《そうべん》は｜広陵《こうりょう》の割譲を認める","陳が広陵を得た条は見つからない。574年正月の詔は前年の北伐で得た『江右淮北』の州として南兗州（広陵）を挙げ、576年には呉明徹が陳の南兗州刺史となる":"陳が｜広陵《こうりょう》を得た条は見つからない。574年正月の詔は前年の｜北伐《ほくばつ》で得た『江右淮北』の州として南｜兗州《えんしゅう》（｜広陵《こうりょう》）を挙げ、576年には｜呉明徹《ごめいてつ》が陳の南｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》となる","北周の梁士彦が広陵を抜く":"｜北周《ほくしゅう》の｜梁士彦《りょうしげん》が｜広陵《こうりょう》を抜く","東陽（青州）":"東陽（｜青州《せいしゅう》）","青州市":"｜青州《せいしゅう》市","宋の青州の治所（422年に刺史竺夔が鎮す）":"宋の｜青州《せいしゅう》の治所（422年に｜刺史《しし》竺夔が鎮す）","北魏の慕容白曜の軍が三年包囲の末に東陽を抜き、沈文秀を捕らえる":"｜北魏《ほくぎ》の｜慕容《ぼよう》白曜の軍が三年包囲の末に東陽を抜き、沈文秀を捕らえる","泰始五年正月乙丑":"｜泰始《たいし》五年正月乙丑","孝武帝の入関後、高歓側の侯淵が青州刺史東莱王貴平を降して斬る（東魏に入る）":"｜孝武帝《こうぶてい》の｜入関《にゅうかん》後、｜高歓《こうかん》側の侯淵が｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》東莱王貴平を降して斬る（｜東魏《とうぎ》に入る）","永熙三年十月戊辰":"｜永熙《えいき》三年十月｜戊辰《ぼしん》","北斉の後主が青州に逃れたところへ北周軍が至る。北斉の州鎮はほぼすべて北周に入る":"｜北斉《ほくせい》の｜後主《こうしゅ》が｜青州《せいしゅう》に逃れたところへ｜北周《ほくしゅう》軍が至る。｜北斉《ほくせい》の州鎮はほぼすべて｜北周《ほくしゅう》に入る","建徳六年正月":"｜建徳《けんとく》六年正月","莱州市":"｜莱州《らいしゅう》市","宋の青州の属郡（432年に朱修之が北燕から海路で東莱に着き建康へ戻る）":"宋の｜青州《せいしゅう》の属郡（432年に朱｜修之《しゅうし》が北燕から海路で東莱に着き｜建康《けんこう》へ戻る）","東陽陥落（469年正月）で青州全域が北魏に入ったと推定。北魏は皇興四年（470）に青州を分けて光州を掖城に置く":"東陽陥落（469年正月）で｜青州《せいしゅう》全域が｜北魏《ほくぎ》に入ったと推定。｜北魏《ほくぎ》は｜皇興《こうこう》四年（470）に｜青州《せいしゅう》を分けて光州を掖城に置く","北魏の東西分裂。山東は東魏側":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂。｜山東《さんとう》は｜東魏《とうぎ》側","北周の北斉併合":"｜北周《ほくしゅう》の｜北斉《ほくせい》併合","済南市":"｜済南《さいなん》市","宋の済南郡（歴城）。423年、北魏の青州侵入に際し済南太守垣苗は東陽の竺夔に合流（歴城を失った記事は無い）":"宋の｜済南《さいなん》郡（歴城）。423年、｜北魏《ほくぎ》の｜青州《せいしゅう》侵入に際し｜済南《さいなん》｜太守《たいしゅ》垣苗は東陽の竺夔に合流（歴城を失った記事は無い）","北魏の慕容白曜が一年余り包囲し、崔道固が面縛して降る":"｜北魏《ほくぎ》の｜慕容《ぼよう》白曜が一年余り包囲し、崔道固が｜面縛《めんばく》して降る","泰始四年二月癸巳":"｜泰始《たいし》四年二月癸巳","北魏の東西分裂。斉州は東魏側":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂。斉州は｜東魏《とうぎ》側","瑕丘（兗州）":"瑕丘（｜兗州《えんしゅう》）","兗州区":"｜兗州《えんしゅう》区","東晋から宋へ（宋の兗州が瑕丘に治すのは453年から）":"｜東晋《とうしん》から宋へ（宋の｜兗州《えんしゅう》が瑕丘に治すのは453年から）","宋の兗州刺史畢衆敬が北魏に降り、尉元の部将が瑕丘城に先んじて拠る":"宋の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》畢衆敬が｜北魏《ほくぎ》に降り、｜尉元《うつげん》の部将が瑕丘城に先んじて拠る","泰始二年十一月壬子":"｜泰始《たいし》二年十一月｜壬子《じんし》","樊子鵠（孝武帝方）":"樊子鵠（｜孝武帝《こうぶてい》方）","孝武帝の入関後、兗州刺史樊子鵠が瑕丘に拠って東魏を拒む":"｜孝武帝《こうぶてい》の｜入関《にゅうかん》後、｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》樊子鵠が瑕丘に拠って｜東魏《とうぎ》を拒む","永熙三年十一月":"｜永熙《えいき》三年十一月","東魏の婁昭が瑕丘を水攻めにし、大野抜が樊子鵠を斬って降る":"｜東魏《とうぎ》の婁昭が瑕丘を水攻めにし、大野抜が樊子鵠を斬って降る","天平二年":"｜天平《てんぺい》二年","碻磝":"｜碻磝《こうごう》","茌平区":"｜茌平《しへい》区","劉裕の北伐（416〜417）以来、宋が戍を置く":"｜劉裕《りゅうゆう》の｜北伐《ほくばつ》（416〜417）以来、宋が戍を置く","北魏の娥清・叔孫建らが黄河を南へ渡り碻磝に軍す":"｜北魏《ほくぎ》の｜娥《が》清・叔孫建らが｜黄河《こうが》を南へ渡り｜碻磝《こうごう》に軍す","永初三年十二月":"｜永初《えいしょ》三年十二月","宋の北伐で北魏の済州刺史王買徳が碻磝を棄てて走り、宋の王玄謨が戍る":"宋の｜北伐《ほくばつ》で｜北魏《ほくぎ》の済州｜刺史《しし》王買徳が｜碻磝《こうごう》を棄てて走り、宋の王｜玄謨《げんぼ》が戍る","元嘉二十七年":"｜元嘉《げんか》二十七年","江夏王義恭が王玄謨を歴城に召還し、追撃した北魏が碻磝を取る":"｜江夏王《こうかおう》｜義恭《ぎきょう》が王｜玄謨《げんぼ》を歴城に召還し、追撃した｜北魏《ほくぎ》が｜碻磝《こうごう》を取る","元嘉二十八年":"｜元嘉《げんか》二十八年","北魏の東西分裂。済州は東魏側":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂。済州は｜東魏《とうぎ》側","黄河北岸の北魏領。422年に叔孫建が平原から河を渡って青・兗へ向かい、461年には済陽王小新成が平原に鎮す":"｜黄河《こうが》北岸の｜北魏《ほくぎ》領。422年に叔孫建が平原から河を渡って青・兗へ向かい、461年には済陽王小新成が平原に鎮す","北魏の東西分裂":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂","睢陽":"｜睢陽《すいよう》","北魏が薛安都に『豫州之梁郡』の軍事を督させており、薛安都の降伏（466）とともに梁郡が北魏に入ったと推定。北魏の梁国鎮将が確かめられるのは太和初（477頃）":"｜北魏《ほくぎ》が｜薛《せつ》｜安都《あんと》に『豫州之梁郡』の軍事を督させており、｜薛《せつ》｜安都《あんと》の降伏（466）とともに梁郡が｜北魏《ほくぎ》に入ったと推定。｜北魏《ほくぎ》の｜梁国《りょうこく》｜鎮将《ちんしょう》が確かめられるのは｜太和《たいわ》初（477頃）","亳州市":"｜亳州《はくしゅう》市","宋の淮北・淮西喪失（466〜467）とともに北魏に入ったと推定。468年には北魏に降っていた常珍奇が譙で魏の兵三千余人を殺しており、北魏が譙に兵を置いていたことが分かる":"宋の淮北・｜淮西《わいせい》喪失（466〜467）とともに｜北魏《ほくぎ》に入ったと推定。468年には｜北魏《ほくぎ》に降っていた常珍奇が譙で魏の兵三千余人を殺しており、｜北魏《ほくぎ》が譙に兵を置いていたことが分かる","北魏南兗州（譙城）の城民が刺史を逼って州ごと梁に降り、梁の元樹が譙城に入る":"｜北魏《ほくぎ》南｜兗州《えんしゅう》（譙城）の城民が｜刺史《しし》を逼って州ごと梁に降り、梁の元樹が譙城に入る","中大通三年":"｜中大通《ちゅうだいつう》三年","北魏の樊子鵠が譙城を囲み、元樹を擒える":"｜北魏《ほくぎ》の樊子鵠が譙城を囲み、元樹を擒える","永熙元年":"｜永熙《えいき》元年","平城":"｜平城《へいじょう》","大同市":"｜大同《だいどう》市","北魏の都（494年洛陽遷都まで）。内地につき引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の都（494年｜洛陽《らくよう》遷都まで）。内地につき引用省略","鮮于阿胡（朔州の流民）。以後、魏は恒州を秀容に寄治":"鮮于阿胡（｜朔州《さくしゅう》の流民）。以後、魏は恒州を秀容に寄治","鮮于阿胡が恒州を寇し平城を陥す。行台元纂は冀州へ奔る":"鮮于阿胡が恒州を寇し｜平城《へいじょう》を陥す。｜行台《こうだい》元纂は｜冀州《きしゅう》へ奔る","孝昌二年七月戊申":"｜孝昌《こうしょう》二年七月戊申","526年に鮮于阿胡が平城を取った後、誰が保持したかを史書で確かめられない。東魏は恒州を秀容に寄治し、胡注は旧都を『故都為墟』と書く":"526年に鮮于阿胡が｜平城《へいじょう》を取った後、誰が保持したかを史書で確かめられない。｜東魏《とうぎ》は恒州を秀容に寄治し、胡注は旧都を『故都為墟』と書く","北斉軍が「恒州黄瓜堆」で柔然と戦う（平城一帯に北斉の州が見える初出。回復の年そのものではない）":"｜北斉《ほくせい》軍が「恒州黄瓜堆」で｜柔然《じゅうぜん》と戦う（｜平城《へいじょう》一帯に｜北斉《ほくせい》の州が見える初出。回復の年そのものではない）","天保五年四月":"｜天保《てんぽう》五年四月","北斉の滅亡。北斉の州鎮は傅伏・高宝寧を除きすべて北周に入る":"｜北斉《ほくせい》の滅亡。｜北斉《ほくせい》の州鎮は傅伏・高｜宝寧《ほうねい》を除きすべて｜北周《ほくしゅう》に入る","和林格爾県":"｜和林《おりん》格爾県","北魏の旧都・云中（金陵の地）。内地につき引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の旧都・云中（｜金陵《きんりょう》の地）。内地につき引用省略","魏の支配外（六鎮の乱で放棄。以後は柔然・突厥の遊牧域。州は并州界に寄治）":"魏の支配外（六鎮の乱で放棄。以後は｜柔然《じゅうぜん》・｜突厥《とっけつ》の遊牧域。州は｜并州《へいしゅう》界に寄治）","北境の州鎮がことごとく陥ち、唯一残った云中（云州）も刺史費穆が棄てて爾朱栄のもとへ奔る":"北境の州鎮がことごとく陥ち、唯一残った云中（云州）も｜刺史《しし》｜費穆《ひぼく》が棄てて｜爾朱《じしゅ》栄のもとへ奔る","孝昌元年":"｜孝昌《こうしょう》元年","懐朔鎮":"｜懐朔鎮《かいさくちん》","北魏が漢の五原郡の地に鎮を置く（のちの懐朔鎮）":"｜北魏《ほくぎ》が漢の五原郡の地に鎮を置く（のちの｜懐朔鎮《かいさくちん》）","破六韓抜陵（別帥衛可孤）":"｜破六韓抜陵《はろくかんばつりょう》（別帥衛可孤）","衛可孤が懐朔鎮を経年包囲の末に陥す":"衛可孤が｜懐朔鎮《かいさくちん》を経年包囲の末に陥す","正光五年":"｜正光《せいこう》五年","魏の支配外（抜陵は柔然と魏に敗れ、降戸二十万は冀・定・瀛へ移される。鎮の地は放棄）":"魏の支配外（｜抜陵《ばつりょう》は｜柔然《じゅうぜん》と魏に敗れ、降戸二十万は冀・定・瀛へ移される。鎮の地は放棄）","破六韓抜陵が柔然の頭兵可汗に大敗して南へ渡河。降戸を河北に移し、朔州は并州界に寄治":"｜破六韓抜陵《はろくかんばつりょう》が｜柔然《じゅうぜん》の頭兵｜可汗《かがん》に大敗して南へ渡河。降戸を｜河北《かほく》に移し、｜朔州《さくしゅう》は｜并州《へいしゅう》界に寄治","女水を武川と改める。献文帝の北伐の帰りに高允が武川鎮に至る（武川鎮の初出）":"｜女水《じょすい》を武川と改める。｜献文帝《けんぶんてい》の｜北伐《ほくばつ》の帰りに｜高允《こういん》が武川鎮に至る（武川鎮の初出）","魏の支配外（六鎮放棄後。柔然の阿那瓌がこの地を西へ進む）":"魏の支配外（六鎮放棄後。｜柔然《じゅうぜん》の阿那瓌がこの地を西へ進む）","柔然が武川から沃野へ抜陵を追撃。降戸は河北へ移され鎮は回復されず":"｜柔然《じゅうぜん》が武川から沃野へ｜抜陵《ばつりょう》を追撃。降戸は｜河北《かほく》へ移され鎮は回復されず","陸俟が懐荒鎮大将となる（懐荒鎮の初出。前の鎮将は郎孤）":"陸俟が懐荒鎮大将となる（懐荒鎮の初出。前の｜鎮将《ちんしょう》は郎孤）","鎮が初めて原文に見える年から地図に出す（前の鎮将がいたので、置かれたのはもう少し前）":"鎮が初めて原文に見える年から地図に出す（前の｜鎮将《ちんしょう》がいたので、置かれたのはもう少し前）","懐荒鎮民の叛乱（のち六鎮の乱・杜洛周の乱へ合流）":"懐荒鎮民の｜叛乱《はんらん》（のち六鎮の乱・｜杜洛周《とらくしゅう》の乱へ合流）","柔然入寇の際、糧の支給を拒んだ鎮将于景を鎮民が殺して叛く":"｜柔然《じゅうぜん》｜入寇《にゅうこう》の際、糧の支給を拒んだ｜鎮将《ちんしょう》于景を鎮民が殺して叛く","正光四年":"｜正光《せいこう》四年","525年以後は沃野・懐朔・武川と同じく、どの王朝の城とも言えない（懐荒鎮民の叛乱がその後もこの地を保持したという記事は無い）":"525年以後は沃野・懐朔・武川と同じく、どの王朝の城とも言えない（懐荒鎮民の｜叛乱《はんらん》がその後もこの地を保持したという記事は無い）","沃野鎮":"｜沃野鎮《よくやちん》","刁雍が屯穀を沃野鎮に運ぶことを上表する（沃野鎮の初出）":"刁雍が屯穀を｜沃野鎮《よくやちん》に運ぶことを｜上表《じょうひょう》する（｜沃野鎮《よくやちん》の初出）","鎮が初めて原文に見える年から地図に出す。胡注は夏を平らげた後に統万と同時に置いたとするが、本文で確かめられない":"鎮が初めて原文に見える年から地図に出す。胡注は夏を平らげた後に｜統万《とうまん》と同時に置いたとするが、本文で確かめられない","破六韓抜陵":"｜破六韓抜陵《はろくかんばつりょう》","沃野鎮民破六韓抜陵が鎮将を殺して挙兵、真王と改元":"｜沃野鎮《よくやちん》民｜破六韓抜陵《はろくかんばつりょう》が｜鎮将《ちんしょう》を殺して挙兵、真王と｜改元《かいげん》","正光四年（魏書は正光五年三月）":"｜正光《せいこう》四年（｜魏書《ぎしょ》は｜正光《せいこう》五年三月）","魏の支配外（抜陵敗走後も鎮は回復されず。柔然・のち突厥の遊牧域）":"魏の支配外（｜抜陵《ばつりょう》敗走後も鎮は回復されず。｜柔然《じゅうぜん》・のち｜突厥《とっけつ》の遊牧域）","柔然が武川から沃野へ抜陵を追撃し、抜陵は南へ渡河":"｜柔然《じゅうぜん》が武川から沃野へ｜抜陵《ばつりょう》を追撃し、｜抜陵《ばつりょう》は南へ渡河","北魏の云中（内地）。引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の云中（内地）。引用省略","北境の州鎮が皆没し、最後の云中も費穆が棄てて南奔":"北境の州鎮が皆没し、最後の云中も｜費穆《ひぼく》が棄てて南奔","雁門":"｜雁門《がんもん》","北魏の内地（恒州・肆州の間）。引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の内地（恒州・肆州の間）。引用省略","北魏の内地。引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の内地。引用省略","杜洛周（柔玄鎮民。528年に葛栄に併合、同年末から韓楼）":"｜杜洛周《とらくしゅう》（柔玄鎮民。528年に葛栄に併合、同年末から｜韓楼《かんろう》）","杜洛周が上谷で挙兵し郡県を攻め没し、燕州を包囲（燕州刺史は526年に城を棄てて定州へ）":"｜杜洛周《とらくしゅう》が｜上谷《じょうこく》で挙兵し｜郡県《ぐんけん》を攻め没し、燕州を包囲（燕州｜刺史《しし》は526年に城を棄てて定州へ）","孝昌元年八月":"｜孝昌《こうしょう》元年八月","魏の支配外（燕州・上谷郡は東魏で幽州界に寄治）":"魏の支配外（燕州・｜上谷《じょうこく》郡は｜東魏《とうぎ》で｜幽州《ゆうしゅう》界に寄治）","韓楼が滅び叛乱勢力は消えるが、地形志は燕州・上谷の諸県を『孝昌中陷、天平中置』の寄治とし、旧地の回復を記さない":"｜韓楼《かんろう》が滅び｜叛乱《はんらん》勢力は消えるが、地形志は燕州・｜上谷《じょうこく》の諸県を『｜孝昌《こうしょう》中陷、｜天平《てんぺい》中置』の寄治とし、旧地の回復を記さない","永安二年":"｜永安《えいあん》二年","北斉が居庸下口から西へ恒州まで九百余里の長城を築く（蔚県一帯はその内側と見た）":"｜北斉《ほくせい》が居庸下口から西へ恒州まで九百余里の長城を築く（蔚県一帯はその内側と見た）","天保六年六月":"｜天保《てんぽう》六年六月","北斉の滅亡で北周に入る。北周は漢代郡の霊丘に蔚州を置く":"｜北斉《ほくせい》の滅亡で｜北周《ほくしゅう》に入る。｜北周《ほくしゅう》は漢代郡の霊丘に蔚州を置く","蒲坂":"｜蒲坂《ほはん》","永済市":"｜永済《えいせい》市","419年、夏の叱奴侯提が蒲阪の東晋守将毛德祖を逐う。420年末も夏の保持":"419年、夏の叱奴侯提が蒲阪の｜東晋《とうしん》守将毛德祖を逐う。420年末も夏の保持","（宋）永初元年＝419年の攻略による":"（宋）｜永初《えいしょ》元年＝419年の攻略による","北魏の奚斤が来ると、夏の守将東平公乙斗が城を棄てて長安へ奔り、奚斤が蒲坂を取る":"｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤が来ると、夏の守将東平公乙斗が城を棄てて｜長安《ちょうあん》へ奔り、｜奚《けい》斤が｜蒲坂《ほはん》を取る","始光三年":"｜始光《しこう》三年","高歓が韓軌を蒲坂に拠らせ、孝武帝西遷後は河東に退いて蒲津西岸に城を築く（東西分裂で東魏側）":"｜高歓《こうかん》が韓軌を｜蒲坂《ほはん》に拠らせ、｜孝武帝《こうぶてい》西遷後は｜河東《かとう》に退いて蒲津西岸に城を築く（東西分裂で｜東魏《とうぎ》側）","永熙三年":"｜永熙《えいき》三年","東魏の秦州刺史薛崇礼が守る蒲坂で、族弟薛善が関を斬って西魏軍を入れる":"｜東魏《とうぎ》の｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》薛崇礼が守る｜蒲坂《ほはん》で、族弟薛善が関を斬って｜西魏《せいぎ》軍を入れる","大統三年（天平四年）":"｜大統《だいとう》三年（｜天平《てんぺい》四年）","西魏から北周へ":"｜西魏《せいぎ》から｜北周《ほくしゅう》へ","西魏の東道行台王思政が玉壁の険要に城を築き、恒農から移って鎮する":"｜西魏《せいぎ》の東道行台王｜思政《しせい》が玉壁の険要に城を築き、恒農から移って鎮する","西魏から北周へ（561年に勲州を置く）":"｜西魏《せいぎ》から｜北周《ほくしゅう》へ（561年に勲州を置く）","平陽（晋州）":"｜平陽《へいよう》（｜晋州《しんしゅう》）","平陽":"｜平陽《へいよう》","東晋の平陽太守薛弁が魏に降る":"｜東晋《とうしん》の｜平陽《へいよう》｜太守《たいしゅ》薛弁が魏に降る","北周武帝が晋州（平陽）を攻略。北斉後主の反攻・包囲を退けて保持":"｜北周《ほくしゅう》｜武帝《ぶてい》が｜晋州《しんしゅう》（｜平陽《へいよう》）を攻略。｜北斉《ほくせい》｜後主《こうしゅ》の反攻・包囲を退けて保持","（陳）太建八年十月":"（陳）｜太建《たいけん》八年十月","離石":"｜離石《りせき》","離石区":"｜離石《りせき》区","北魏の内地（稽胡＝山胡の居住地。448年に離石民を平城へ徙す）":"｜北魏《ほくぎ》の内地（｜稽胡《けいこ》＝山胡の居住地。448年に｜離石《りせき》民を｜平城《へいじょう》へ徙す）","晋陽":"｜晋陽《しんよう》","太原市":"｜太原《たいげん》市","北魏の并州（内地）。引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の｜并州《へいしゅう》（内地）。引用省略","爾朱兆":"｜爾朱《じしゅ》兆","爾朱栄が殺されると汾州刺史爾朱兆が晋陽に拠る":"｜爾朱《じしゅ》栄が殺されると｜汾州《ふんしゅう》｜刺史《しし》｜爾朱《じしゅ》兆が｜晋陽《しんよう》に拠る","永安三年":"｜永安《えいあん》三年","高歓に追われ爾朱兆が晋陽を掠奪して秀容へ逃れ、高歓が晋陽に大丞相府を置く":"｜高歓《こうかん》に追われ｜爾朱《じしゅ》兆が｜晋陽《しんよう》を｜掠奪《りゃくだつ》して秀容へ逃れ、｜高歓《こうかん》が｜晋陽《しんよう》に｜大丞相《だいじょうしょう》府を置く","太昌元年":"｜太昌《たいしょう》元年","北周武帝が晋陽を攻め、高延宗を擒えて并州を平定":"｜北周《ほくしゅう》｜武帝《ぶてい》が｜晋陽《しんよう》を攻め、｜高延宗《こうえんそう》を擒えて｜并州《へいしゅう》を平定","（陳）太建八年十二月":"（陳）｜太建《たいけん》八年十二月","上党":"｜上党《じょうとう》","鄴":"｜鄴《ぎょう》","北魏の相州（内地）。引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の｜相州《そうしゅう》（内地）。引用省略","高歓が爾朱側の相州刺史劉誕の守る鄴を地道で攻め落とす":"｜高歓《こうかん》が爾朱側の｜相州《そうしゅう》｜刺史《しし》｜劉《りゅう》誕の守る鄴を地道で攻め落とす","中興二年正月":"｜中興《ちゅうこう》二年正月","東魏の都":"｜東魏《とうぎ》の都","北周軍が鄴を破り、北斉の王公以下が降る":"｜北周《ほくしゅう》軍が鄴を破り、｜北斉《ほくせい》の｜王公《おうこう》以下が降る","承光元年正月":"｜承光《しょうこう》元年正月","中山（定州）":"｜中山《ちゅうざん》（定州）","中山":"｜中山《ちゅうざん》","北魏の定州（内地）。引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の定州（内地）。引用省略","信都（冀州）":"｜信都《しんと》（｜冀州《きしゅう》）","信都":"｜信都《しんと》","冀州区":"｜冀州《きしゅう》区","北魏の冀州（内地）。引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の｜冀州《きしゅう》（内地）。引用省略","葛栄が春から冬まで囲んだ信都が陥落、刺史元孚を執える":"葛栄が春から冬まで囲んだ｜信都《しんと》が陥落、｜刺史《しし》元孚を執える","孝昌三年十一月己丑":"｜孝昌《こうしょう》三年十一月己丑","爾朱栄が滏口で葛栄を擒え、冀・定・滄・瀛・殷五州が平定":"｜爾朱《じしゅ》栄が滏口で葛栄を擒え、冀・定・滄・瀛・殷五州が平定","永安元年九月":"｜永安《えいあん》元年九月","高歓（高乾らが信都を奪い、高歓が入城して挙兵）":"｜高歓《こうかん》（高乾らが｜信都《しんと》を奪い、｜高歓《こうかん》が入城して挙兵）","高乾らが爾朱氏の使者を殺して信都に拠り、高歓が入城して起兵、元朗を立てる":"高乾らが｜爾《じ》｜朱氏《しゅし》の使者を殺して｜信都《しんと》に拠り、｜高歓《こうかん》が入城して起兵、｜元朗《げんろう》を立てる","北斉の任城王高湝が信都で抗戦するが斉王宇文憲に敗れる":"｜北斉《ほくせい》の｜任城王《にんじょうおう》高｜湝《かい》が｜信都《しんと》で抗戦するが｜斉王《せいおう》｜宇文憲《うぶんけん》に敗れる","承光元年":"｜承光《しょうこう》元年","河間（瀛州）":"｜河間《かかん》（瀛州）","河間":"｜河間《かかん》","河間市":"｜河間《かかん》市","北魏の内地（瀛州は太和年間に設置）。引用省略":"｜北魏《ほくぎ》の内地（瀛州は｜太和《たいわ》年間に設置）。引用省略","薊（幽州）":"薊（｜幽州《ゆうしゅう》）","北魏の幽州（北燕との境は遼西）。432年に魏が幽州の民を発して和龍を攻める":"｜北魏《ほくぎ》の｜幽州《ゆうしゅう》（北燕との境は｜遼西《りょうせい》）。432年に魏が｜幽州《ゆうしゅう》の民を発して｜和龍《わりゅう》を攻める","杜洛周が幽州を陥し、刺史王延年・行台常景を執える":"｜杜洛周《とらくしゅう》が｜幽州《ゆうしゅう》を陥し、｜刺史《しし》王延年・｜行台《こうだい》常景を執える","葛栄→（年末）韓楼":"葛栄→（年末）｜韓楼《かんろう》","葛栄が杜洛周を殺して併合。葛栄の滅亡後、余党の韓楼が再び幽州に拠る":"葛栄が｜杜洛周《とらくしゅう》を殺して併合。葛栄の滅亡後、余党の｜韓楼《かんろう》が再び｜幽州《ゆうしゅう》に拠る","武泰元年〜永安元年":"｜武泰《ぶたい》元年〜｜永安《えいあん》元年","爾朱栄の部将侯淵が薊の韓楼を破り擒える":"｜爾朱《じしゅ》栄の部将侯淵が薊の｜韓楼《かんろう》を破り擒える","龍城（営州）":"｜龍城《りゅうじょう》（｜営州《えいしゅう》）","龍城":"｜龍城《りゅうじょう》","馮跋の北燕の都（409年に大燕天王を称す）。432年に魏主が和龍を囲むが落ちず":"｜馮《ふう》｜跋《ばつ》の北燕の都（409年に｜大燕《だいえん》天王を称す）。432年に｜魏主《ぎしゅ》が｜和龍《わりゅう》を囲むが落ちず","（北燕）太平十二年":"（北燕）｜太平《たいへい》十二年","北燕王馮弘が高句麗兵とともに龍城の民を率いて東へ去り、北燕が滅ぶ。翌年魏は南平王渾を和龍に鎮させる":"北｜燕王《えんおう》馮弘が｜高句麗《こうくり》兵とともに｜龍城《りゅうじょう》の民を率いて東へ去り、北燕が滅ぶ。翌年魏は｜南平王《なんぺいおう》渾を｜和龍《わりゅう》に鎮させる","太延二年五月":"｜太延《たいえん》二年五月","就徳興（燕王を称す）":"就徳興（｜燕王《えんおう》を称す）","524年十月の営州城民の叛乱ののち、地形志は『孝昌中に営州陷つ』とする。就徳興は526年に平州も陥す":"524年十月の｜営州《えいしゅう》城民の｜叛乱《はんらん》ののち、地形志は『｜孝昌《こうしょう》中に｜営州《えいしゅう》陷つ』とする。就徳興は526年に平州も陥す","孝昌年間（正確な年は不明）":"｜孝昌《こうしょう》年間（正確な年は不明）","就徳興が魏に降り営州平定":"就徳興が魏に降り｜営州《えいしゅう》平定","不明（地形志『永安末陷』のみ）":"不明（地形志『｜永安《えいあん》末陷』のみ）","地形志に営州は永安末に陥ち天平初に復すとある。陥した勢力は原文で特定できない":"地形志に｜営州《えいしゅう》は｜永安《えいあん》末に陥ち｜天平《てんぺい》初に復すとある。陥した勢力は原文で特定できない","永安末":"｜永安《えいあん》末","営州回復（地形志『天增初復』の『天增』は天平の誤り）":"｜営州《えいしゅう》回復（地形志『天增初復』の『天增』は｜天平《てんぺい》の誤り）","天平初":"｜天平《てんぺい》初","高宝寧（北斉の営州刺史。北周に降らず、高紹義を皇帝に推す）":"高｜宝寧《ほうねい》（｜北斉《ほくせい》の｜営州《えいしゅう》｜刺史《しし》。｜北周《ほくしゅう》に降らず、｜高紹義《こうしょうぎ》を皇帝に推す）","北斉滅亡時、営州刺史高宝寧は北周に下らず和龍（黄龍）に拠る":"｜北斉《ほくせい》滅亡時、｜営州《えいしゅう》｜刺史《しし》高｜宝寧《ほうねい》は｜北周《ほくしゅう》に下らず｜和龍《わりゅう》（｜黄龍《こうりゅう》）に拠る","隋の幽州総管陰寿が討ち、高宝寧は城を棄てて磧北へ奔り、和龍諸県が平定":"隋の｜幽州《ゆうしゅう》｜総管《そうかん》陰寿が討ち、高｜宝寧《ほうねい》は城を棄てて磧北へ奔り、｜和龍《わりゅう》諸県が平定","建康":"｜建康《けんこう》","南京市":"｜南京《なんきん》市","侯景が台城を陥とし建康を制圧（548年末の時点では台城が籠城中で梁が保持）":"｜侯景《こうけい》が｜台城《たいじょう》を陥とし｜建康《けんこう》を制圧（548年末の時点では｜台城《たいじょう》が｜籠城《ろうじょう》中で梁が保持）","太清三年三月":"｜太清《たいせい》三年三月","王僧辯・陳霸先が建康を奪回、侯景は東へ逃走":"王｜僧辯《そうべん》・｜陳霸先《ちんはせん》が｜建康《けんこう》を奪回、｜侯景《こうけい》は東へ逃走","承聖元年三月":"｜承聖《しょうせい》元年三月","韓擒虎が朱雀門から入り建康陥落":"｜韓擒虎《かんきんこ》が｜朱雀門《すざくもん》から入り｜建康《けんこう》陥落","開皇九年正月":"｜開皇《かいこう》九年正月","京口":"｜京口《けいこう》","鎮江市":"｜鎮江《ちんこう》市","侯景が蕭邕を南徐州刺史として京口に置く":"｜侯景《こうけい》が蕭邕を｜南徐州《なんじょしゅう》｜刺史《しし》として｜京口《けいこう》に置く","侯景の敗亡後、王僧辯が陳霸先を京口に鎮させる":"｜侯景《こうけい》の敗亡後、王｜僧辯《そうべん》が｜陳霸先《ちんはせん》を｜京口《けいこう》に鎮させる","承聖元年四月":"｜承聖《しょうせい》元年四月","賀若弼が京口を攻略":"｜賀若弼《がじゃくひつ》が｜京口《けいこう》を攻略","開皇九年正月庚午":"｜開皇《かいこう》九年正月庚午","呉":"｜呉《ご》","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","侯景軍（宋子仙）が呉郡を占拠（一時陸緝らが奪うが宋子仙が再占拠）、侯景は呉州を置く":"｜侯景《こうけい》軍（宋子仙）が｜呉郡《ごぐん》を占拠（一時陸緝らが奪うが宋子仙が再占拠）、｜侯景《こうけい》は呉州を置く","侯景が建康から呉へ逃れ松江で敗れて海上で殺され、三呉は梁に復する":"｜侯景《こうけい》が｜建康《けんこう》から呉へ逃れ｜松江《しょうこう》で敗れて海上で殺され、三呉は梁に復する","陳の吳州刺史蕭瓛が抗戦、宇文述が吳州を陥とす":"陳の吳州｜刺史《しし》｜蕭《しょう》｜瓛《かん》が抗戦、｜宇文述《うぶんじゅつ》が吳州を陥とす","開皇九年":"｜開皇《かいこう》九年","山陰（会稽）":"山陰（｜会稽《かいけい》）","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","晋安王子勛方（尋陽王子房を奉じる）":"｜晋安王《しんあんおう》｜子勛《しくん》方（｜尋陽《じんよう》王子房を奉じる）","会稽の将佐が尋陽王子房を奉じて子勛に応じる（宋の内戦。持ち主は変えない）":"｜会稽《かいけい》の将佐が｜尋陽《じんよう》王子房を奉じて｜子勛《しくん》に応じる（宋の内戦。持ち主は変えない）","泰始元年":"｜泰始《たいし》元年","呉喜の東征で会稽平定、子房を捕らえる":"呉喜の東征で｜会稽《かいけい》平定、子房を捕らえる","泰始二年":"｜泰始《たいし》二年","宋子仙が会稽を攻め東揚州刺史蕭大連が棄城、三呉が侯景の手に":"宋子仙が｜会稽《かいけい》を攻め東｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》蕭大連が棄城、三呉が｜侯景《こうけい》の手に","太清三年十二月庚寅":"｜太清《たいせい》三年十二月｜庚寅《こういん》","侯景の敗亡により梁に復する":"｜侯景《こうけい》の敗亡により梁に復する","陳の東揚州刺史蕭巖が会稽を以て降る":"陳の東｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》蕭巖が｜会稽《かいけい》を以て降る","宣城内史楊白華が侯景に降る（549年は楊白華が宛陵で侯景軍を斬って拒守）":"宣城内史楊白華が｜侯景《こうけい》に降る（549年は楊白華が宛陵で｜侯景《こうけい》軍を斬って拒守）","侯景の敗亡により梁に復する（推定）":"｜侯景《こうけい》の敗亡により梁に復する（推定）","建安":"｜建安《けんあん》","梁から陳へ。同年、蕭乾を建安太守として閩中の豪帥を招諭":"梁から陳へ。同年、蕭乾を｜建安《けんあん》｜太守《たいしゅ》として閩中の豪帥を招諭","晋安の陳宝応が留異・周迪を助けて陳に背き、章昭達が建安へ進討":"晋安の陳｜宝応《ほうおう》が留異・周迪を助けて陳に背き、章｜昭達《しょうたつ》が｜建安《けんあん》へ進討","陳宝応が建安・晋安に拠って抗戦、章昭達に敗れ捕らえられる":"陳｜宝応《ほうおう》が｜建安《けんあん》・晋安に拠って抗戦、章｜昭達《しょうたつ》に敗れ捕らえられる","陳の滅亡（建安個別の降伏記事は見当たらない）":"陳の滅亡（｜建安《けんあん》個別の降伏記事は見当たらない）","尋陽":"｜尋陽《じんよう》","九江市":"｜九江《きゅうこう》市","晋安王子勛（466年正月に尋陽で即位）":"｜晋安王《しんあんおう》｜子勛《しくん》（466年正月に｜尋陽《じんよう》で即位）","江州刺史晋安王子勛が尋陽で挙兵（宋の内戦。持ち主は変えない）":"｜江州《こうしゅう》｜刺史《しし》｜晋安王《しんあんおう》｜子勛《しくん》が｜尋陽《じんよう》で挙兵（宋の内戦。持ち主は変えない）","尋陽で子勛が捕らえられ斬られる":"｜尋陽《じんよう》で｜子勛《しくん》が捕らえられ斬られる","泰始二年八月":"｜泰始《たいし》二年八月","江州刺史尋陽王大心が江州を以て侯景の将任約に降る":"｜江州《こうしゅう》｜刺史《しし》｜尋陽《じんよう》王大心が｜江州《こうしゅう》を以て｜侯景《こうけい》の将任約に降る","湘東王蕭繹":"｜湘東王《しょうとうおう》｜蕭繹《しょうえき》","侯景の巴陵での敗北後、王僧辯の前軍に追われ侯景方の范希栄が尋陽城を棄てる":"｜侯景《こうけい》の｜巴陵《はりょう》での敗北後、王｜僧辯《そうべん》の前軍に追われ｜侯景《こうけい》方の范希栄が｜尋陽城《じんようじょう》を棄てる","侯景平定。湘東王（元帝）政権が梁の正統となる":"｜侯景《こうけい》平定。｜湘東王《しょうとうおう》（｜元帝《げんてい》）政権が梁の正統となる","王琳":"｜王琳《おうりん》","沌口で陳軍を破った王琳が樊猛に江州を襲い取らせる（陳の建国は同月）":"｜沌口《とんこう》で陳軍を破った｜王琳《おうりん》が｜樊《はん》猛に｜江州《こうしゅう》を襲い取らせる（陳の建国は同月）","永定元年十月":"｜永定《えいてい》元年十月","王琳が蕪湖で大敗して北斉へ走り、侯瑱が湓城に鎮する":"｜王琳《おうりん》が蕪湖で大敗して｜北斉《ほくせい》へ走り、｜侯瑱《こうてん》が湓城に鎮する","天嘉元年二月":"｜天嘉《てんか》元年二月","陳の滅亡を聞いて江州司馬黄偲が棄城":"陳の滅亡を聞いて｜江州《こうしゅう》｜司馬《しば》黄偲が棄城","豫章":"｜豫章《よしょう》","南昌市":"｜南昌《なんしょう》市","豫章内史に任じられた荘鉄が郡で叛き、観寧侯永を主に推して尋陽を襲う（梁の内紛）":"｜豫章《よしょう》｜内史《ないし》に任じられた荘鉄が郡で叛き、観寧侯永を主に推して｜尋陽《じんよう》を襲う（梁の内紛）","侯瑱が荘鉄を殺して豫章に拠るが、侯景の将于慶が豫章を攻略、侯瑱が降る":"｜侯瑱《こうてん》が荘鉄を殺して｜豫章《よしょう》に拠るが、｜侯景《こうけい》の将于慶が｜豫章《よしょう》を攻略、｜侯瑱《こうてん》が降る","侯瑱が于慶を拒み湘東王に帰順":"｜侯瑱《こうてん》が于慶を拒み｜湘東王《しょうとうおう》に帰順","侯景平定":"｜侯景《こうけい》平定","豫章などの諸郡太守が王世積に降る":"｜豫章《よしょう》などの諸郡｜太守《たいしゅ》が王世積に降る","南康":"｜南康《なんこう》","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","南康の土豪蔡路養が起兵して郡に拠る":"｜南康《なんこう》の土豪蔡路養が起兵して郡に拠る","湘東王蕭繹（陳霸先）":"｜湘東王《しょうとうおう》｜蕭繹《しょうえき》（｜陳霸先《ちんはせん》）","陳霸先が南野で蔡路養を破り南康に進む":"｜陳霸先《ちんはせん》が南野で蔡路養を破り｜南康《なんこう》に進む","梁から陳へ。同年3月、南康に出ていた蕭勃が部将に殺される":"梁から陳へ。同年3月、｜南康《なんこう》に出ていた蕭勃が部将に殺される","陳の豫章太守徐璒が南康に拠って隋の韋洸を拒むが斬られる":"陳の｜豫章《よしょう》｜太守《たいしゅ》徐璒が｜南康《なんこう》に拠って隋の韋洸を拒むが斬られる","武昌":"｜武昌《ぶしょう》","鄂州市":"｜鄂州《がくしゅう》市","侯景の将任約が西陽・武昌に拠る":"｜侯景《こうけい》の将任約が｜西陽《せいよう》・｜武昌《ぶしょう》に拠る","徐文盛らが武昌を回復":"徐文盛らが｜武昌《ぶしょう》を回復","陳の侯安都が武昌に至り王琳の将樊猛が棄城するが、沌口で陳軍が大敗し、王琳は郢城・江州を押さえる":"陳の侯｜安都《あんと》が｜武昌《ぶしょう》に至り｜王琳《おうりん》の将｜樊《はん》猛が棄城するが、｜沌口《とんこう》で陳軍が大敗し、｜王琳《おうりん》は｜郢城《えいじょう》・｜江州《こうしゅう》を押さえる","王琳の敗亡後、郢州の孫瑒が「中流の地」を挙げて陳に降る":"｜王琳《おうりん》の敗亡後、｜郢州《えいしゅう》の孫瑒が「中流の地」を挙げて陳に降る","天嘉元年":"｜天嘉《てんか》元年","上江の陳軍が秦王俊に降る":"上江の陳軍が｜秦王《しんおう》俊に降る","夏口（郢州）":"夏口（｜郢州《えいしゅう》）","晋安王子勛方":"｜晋安王《しんあんおう》｜子勛《しくん》方","郢府が子勛に応じて兵と軍糧を送る（宋の内戦）":"郢府が｜子勛《しくん》に応じて兵と｜軍糧《ぐんりょう》を送る（宋の内戦）","子勛方の郢州行事張沈が逃亡して捕殺され平定":"｜子勛《しくん》方の｜郢州《えいしゅう》行事張沈が逃亡して捕殺され平定","郢州に拠った邵陵王綸を王僧辯が逐い、湘東王の子方諸が郢州刺史":"｜郢州《えいしゅう》に拠った｜邵陵王《しょうりょうおう》綸を王｜僧辯《そうべん》が逐い、｜湘東王《しょうとうおう》の子方諸が｜郢州《えいしゅう》｜刺史《しし》","郢州を監した豊城侯泰が北斉へ奔り、王琳が部将潘純陀に郢州を監させる":"｜郢州《えいしゅう》を監した豊城侯泰が｜北斉《ほくせい》へ奔り、｜王琳《おうりん》が部将潘純陀に｜郢州《えいしゅう》を監させる","太平元年十一月":"｜太平《たいへい》元年十一月","王琳（558年から蕭荘を奉じる）":"｜王琳《おうりん》（558年から｜蕭荘《しょうそう》を奉じる）","陳の建国後も王琳が郢城を保持し、湘州の軍府を郢城に移す":"陳の建国後も｜王琳《おうりん》が｜郢城《えいじょう》を保持し、｜湘州《しょうしゅう》の軍府を｜郢城《えいじょう》に移す","北周軍の包囲を凌いだ王琳方の郢州刺史孫瑒が、王琳の敗亡を受けて中流の地を挙げ陳に降る":"｜北周《ほくしゅう》軍の包囲を凌いだ｜王琳《おうりん》方の｜郢州《えいしゅう》｜刺史《しし》孫瑒が、｜王琳《おうりん》の敗亡を受けて中流の地を挙げ陳に降る","江夏を守った周羅睺らが建康陥落後に秦王俊に降る":"江夏を守った周羅睺らが｜建康《けんこう》陥落後に｜秦王《しんおう》俊に降る","江陵":"｜江陵《こうりょう》","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","晋安王子勛方（臨海王子頊）":"｜晋安王《しんあんおう》｜子勛《しくん》方（｜臨海王《りんかいおう》子頊）","荊州行事孔道存が刺史臨海王子頊を奉じて子勛に応じる（宋の内戦）":"｜荊州《けいしゅう》行事孔道存が｜刺史《しし》｜臨海王《りんかいおう》子頊を奉じて｜子勛《しくん》に応じる（宋の内戦）","荊州治中宗景らが城に入り子頊を執えて降る":"｜荊州《けいしゅう》治｜中宗《ちゅうそう》景らが城に入り子頊を執えて降る","沈攸之（反蕭道成）":"沈｜攸之《ゆうし》（反｜蕭道成《しょうどうせい》）","荊州刺史沈攸之が江陵で挙兵し東下（宋の内戦）":"｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》沈｜攸之《ゆうし》が｜江陵《こうりょう》で挙兵し東下（宋の内戦）","雍州刺史張敬児が江陵を襲取、沈攸之は自縊":"｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》張敬児が｜江陵《こうりょう》を襲取、沈｜攸之《ゆうし》は｜自縊《じい》","南康王蕭宝融・蕭穎冑（反東昏侯）":"｜南康王《なんこうおう》｜蕭《しょう》｜宝融《ほうゆう》・｜蕭《しょう》｜穎冑《えいちゅう》（反｜東昏侯《とうこんこう》）","蕭穎冑が劉山陽を斬り、南康王宝融を奉じて東昏侯に対し挙兵（斉の内戦）":"｜蕭《しょう》｜穎冑《えいちゅう》が｜劉《りゅう》｜山陽《さんよう》を斬り、｜南康王《なんこうおう》｜宝融《ほうゆう》を奉じて｜東昏侯《とうこんこう》に対し挙兵（斉の内戦）","永元二年十一月":"｜永元《えいげん》二年十一月","南康王（和帝）が江陵で即位、同年12月に建康の東昏侯が倒れ斉は和帝政権に一本化":"｜南康王《なんこうおう》（｜和帝《わてい》）が｜江陵《こうりょう》で即位、同年12月に｜建康《けんこう》の｜東昏侯《とうこんこう》が倒れ斉は｜和帝《わてい》政権に｜一本《いっぽん》化","中興元年":"｜中興《ちゅうこう》元年","湘東王蕭繹（承制）":"｜湘東王《しょうとうおう》｜蕭繹《しょうえき》（｜承制《しょうせい》）","台城陥落後、荊州刺史湘東王繹が江陵で独自に号令（大宝の年号を用いず太清を称し続ける）":"｜台城《たいじょう》陥落後、｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》｜湘東王《しょうとうおう》繹が｜江陵《こうりょう》で独自に号令（｜大宝《たいほう》の年号を用いず｜太清《たいせい》を称し続ける）","湘東王が江陵で即位（元帝）し、江陵が梁の都となる":"｜湘東王《しょうとうおう》が｜江陵《こうりょう》で即位（｜元帝《げんてい》）し、｜江陵《こうりょう》が梁の都となる","西魏の于謹らが江陵を攻め、内応者が西門を開いて陥落、元帝は降って殺される":"｜西魏《せいぎ》の｜于謹《うきん》らが｜江陵《こうりょう》を攻め、内応者が西門を開いて陥落、｜元帝《げんてい》は降って殺される","承聖三年十一月甲寅":"｜承聖《しょうせい》三年十一月甲寅","西魏が立てた梁王蕭詧が江陵で即位（後梁）。西魏の江陵防主・総管が駐留する保護国":"｜西魏《せいぎ》が立てた｜梁王《りょうおう》｜蕭詧《しょうさつ》が｜江陵《こうりょう》で即位（｜後梁《こうりょう》）。｜西魏《せいぎ》の｜江陵《こうりょう》防主・｜総管《そうかん》が駐留する保護国","紹泰元年（後梁大定元年）正月":"｜紹泰《しょうたい》元年（｜後梁《こうりょう》｜大定《たいてい》元年）正月","隋が後梁主を長安に召して崔弘度に江陵を戍らせ、後梁を廃する（蕭巖らは民十万を駆って陳に奔る）":"隋が｜後梁《こうりょう》主を｜長安《ちょうあん》に召して｜崔《さい》｜弘度《こうど》に｜江陵《こうりょう》を戍らせ、｜後梁《こうりょう》を廃する（蕭巖らは民十万を駆って陳に奔る）","開皇七年":"｜開皇《かいこう》七年","江陵の陥落とともに西魏の手に入ったと推定（隋書地理志「西魏改曰拓州」）":"｜江陵《こうりょう》の陥落とともに｜西魏《せいぎ》の手に入ったと推定（｜隋書《ずいしょ》｜地理志《ちりし》「｜西魏《せいぎ》改曰拓州」）","承聖三年（推定）":"｜承聖《しょうせい》三年（推定）","巴東（白帝）":"巴東（｜白帝《はくてい》）","武陵王蕭紀（世子円照）":"｜武陵王《ぶりょうおう》｜蕭紀《しょうき》（世子｜円照《えんしょう》）","益州の武陵王紀の世子円照が東下し、湘東王から信州刺史を授かって白帝に屯す":"｜益州《えきしゅう》の｜武陵王紀《ぶりょうおうき》の世子｜円照《えんしょう》が東下し、｜湘東王《しょうとうおう》から信州｜刺史《しし》を授かって｜白帝《はくてい》に屯す","武陵王蕭紀（成都で称帝）":"｜武陵王《ぶりょうおう》｜蕭紀《しょうき》（｜成都《せいと》で｜称帝《しょうてい》）","蕭紀が成都で皇帝を称し、円照は巴東に鎮す":"｜蕭紀《しょうき》が｜成都《せいと》で皇帝を称し、｜円照《えんしょう》は巴東に鎮す","蕭紀が峡口で敗死。巴東の民が峡口城主を斬って王琳に降る":"｜蕭紀《しょうき》が峡口で敗死。巴東の民が峡口城主を斬って｜王琳《おうりん》に降る","承聖二年七月":"｜承聖《しょうせい》二年七月","西魏の李遷哲が巴州を降し、白帝を陥とした蛮酋向五子王を破って信州刺史として白帝に鎮す":"｜西魏《せいぎ》の李遷哲が巴州を降し、｜白帝《はくてい》を陥とした蛮酋向五子王を破って信州｜刺史《しし》として｜白帝《はくてい》に鎮す","承聖三年五月":"｜承聖《しょうせい》三年五月","巴陵":"｜巴陵《はりょう》","蕭穎冑の将楊公則が巴陵を取り長沙に進む（斉の内戦）":"｜蕭《しょう》｜穎冑《えいちゅう》の将楊公則が｜巴陵《はりょう》を取り｜長沙《ちょうさ》に進む（斉の内戦）","永元二年十二月":"｜永元《えいげん》二年十二月","和帝政権に一本化":"｜和帝《わてい》政権に｜一本《いっぽん》化","王琳が侯平を巴州に鎮させる（侯平は同年6月に叛いて江州へ去る）":"｜王琳《おうりん》が侯平を巴州に鎮させる（侯平は同年6月に叛いて｜江州《こうしゅう》へ去る）","太平元年":"｜太平《たいへい》元年","陳の建国後も王琳が保持。559年に王琳の巴陵太守任忠が見える":"陳の建国後も｜王琳《おうりん》が保持。559年に｜王琳《おうりん》の｜巴陵《はりょう》｜太守《たいしゅ》任忠が見える","王琳の敗亡（2月）後に巴・湘の地は北周の手に入ったが、北周の巴陵城主尉遅憲が陳に降る":"｜王琳《おうりん》の敗亡（2月）後に巴・湘の地は｜北周《ほくしゅう》の手に入ったが、｜北周《ほくしゅう》の｜巴陵《はりょう》城主尉遅憲が陳に降る","天嘉元年十二月己亥":"｜天嘉《てんか》元年十二月己亥","湘州から還った晋熙王叔文が巴州刺史畢宝らと秦王俊に降る":"｜湘州《しょうしゅう》から還った｜晋熙王《しんきおう》｜叔文《しゅくぶん》が巴州｜刺史《しし》畢宝らと｜秦王《しんおう》俊に降る","前天門太守樊毅が武陵を襲って武州刺史衡陽王護を殺すが、王琳が司馬潘忠を遣わして樊毅を捕らえる":"前天門｜太守《たいしゅ》樊毅が武陵を襲って武州｜刺史《しし》衡陽王護を殺すが、｜王琳《おうりん》が｜司馬《しば》潘忠を遣わして樊毅を捕らえる","太平元年七月":"｜太平《たいへい》元年七月","後梁の大将軍王操が、東下した王琳の留守を衝いて長沙・武陵・南平などの郡を取る":"｜後梁《こうりょう》の｜大将軍《だいしょうぐん》王操が、東下した｜王琳《おうりん》の留守を衝いて｜長沙《ちょうさ》・武陵・南平などの郡を取る","永定二年（後梁大定四年）":"｜永定《えいてい》二年（｜後梁《こうりょう》｜大定《たいてい》四年）","北周の賀若敦が武陵に急襲、陳の武州刺史呉明徹は巴陵へ退く":"｜北周《ほくしゅう》の賀若敦が武陵に急襲、陳の武州｜刺史《しし》｜呉明徹《ごめいてつ》は｜巴陵《はりょう》へ退く","天嘉元年八月":"｜天嘉《てんか》元年八月","天嘉二年":"｜天嘉《てんか》二年","岳陽王叔慎に呼応した武州刺史邬居業が劉仁恩に破られ捕らえられる":"岳陽王叔慎に呼応した武州｜刺史《しし》邬居業が劉仁恩に破られ捕らえられる","長沙":"｜長沙《ちょうさ》","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","湘州行事張宝積が降り、楊公則が長沙に入る（斉の内戦）":"｜湘州《しょうしゅう》行事張宝積が降り、楊公則が｜長沙《ちょうさ》に入る（斉の内戦）","和帝政権に一本化（東昏侯方の王僧粲の長沙攻撃は撃退）":"｜和帝《わてい》政権に｜一本《いっぽん》化（｜東昏侯《とうこんこう》方の王僧粲の｜長沙《ちょうさ》攻撃は撃退）","河東王蕭誉":"｜河東王《かとうおう》｜蕭《しょう》誉","湘州刺史河東王誉が湘東王繹の統制を拒み、繹の軍が長沙を包囲":"｜湘州《しょうしゅう》｜刺史《しし》｜河東王《かとうおう》誉が｜湘東王《しょうとうおう》繹の統制を拒み、繹の軍が｜長沙《ちょうさ》を包囲","王僧辯が長沙を攻略し河東王誉を斬る":"王｜僧辯《そうべん》が｜長沙《ちょうさ》を攻略し｜河東王《かとうおう》誉を斬る","陸納（王琳の部将）":"陸納（｜王琳《おうりん》の部将）","元帝が王琳を捕らえたため、王琳の長史陸納が湘州を襲い占拠":"｜元帝《げんてい》が｜王琳《おうりん》を捕らえたため、｜王琳《おうりん》の長史陸納が｜湘州《しょうしゅう》を襲い占拠","王琳が長沙城に入り、陸納が降って湘州平定":"｜王琳《おうりん》が｜長沙《ちょうさ》城に入り、陸納が降って｜湘州《しょうしゅう》平定","承聖二年六月":"｜承聖《しょうせい》二年六月","江陵陥落後、湘州刺史王琳が長沙に屯して盟主に推される":"｜江陵《こうりょう》陥落後、｜湘州《しょうしゅう》｜刺史《しし》｜王琳《おうりん》が｜長沙《ちょうさ》に屯して盟主に推される","紹泰元年":"｜紹泰《しょうたい》元年","後梁の王操が王琳の長沙・武陵・南平などを取る":"｜後梁《こうりょう》の王操が｜王琳《おうりん》の｜長沙《ちょうさ》・武陵・南平などを取る","巴・湘の地は北周の手に入り、北周は後梁の人に守らせる。陳の侯瑱が湘州に迫り北周の賀若敦・独孤盛が救援":"巴・湘の地は｜北周《ほくしゅう》の手に入り、｜北周《ほくしゅう》は｜後梁《こうりょう》の人に守らせる。陳の｜侯瑱《こうてん》が｜湘州《しょうしゅう》に迫り｜北周《ほくしゅう》の賀若敦・独孤盛が救援","北周の湘州城主殷亮が陳に降り湘州平定":"｜北周《ほくしゅう》の｜湘州《しょうしゅう》城主｜殷《いん》｜亮《りょう》が陳に降り｜湘州《しょうしゅう》平定","天嘉二年正月辛未":"｜天嘉《てんか》二年正月辛未","湘州刺史岳陽王叔慎が抵抗するが、隋の薛胄が城に入り叔慎を捕らえる":"｜湘州《しょうしゅう》｜刺史《しし》岳陽王叔慎が抵抗するが、隋の薛胄が城に入り叔慎を捕らえる","侯景の乱に乗じて零陵の人李洪雅が郡に拠り、元帝は彼を営州刺史とする（名目上梁に服属）":"｜侯景《こうけい》の乱に乗じて零陵の人李洪雅が郡に拠り、｜元帝《げんてい》は彼を｜営州《えいしゅう》｜刺史《しし》とする（名目上梁に服属）","太清三年頃":"｜太清《たいせい》三年頃","李洪雅は陸納に降って推戴されたが、6月に陸納が降り湘州平定":"李洪雅は陸納に降って推戴されたが、6月に陸納が降り｜湘州《しょうしゅう》平定","承聖二年":"｜承聖《しょうせい》二年","陳の建国後、湘州の王琳方とみなす（推定）":"陳の建国後、｜湘州《しょうしゅう》の｜王琳《おうりん》方とみなす（推定）","王琳の敗走（560年）の後、この年の暮れの持ち主を確かめられない":"｜王琳《おうりん》の敗走（560年）の後、この年の暮れの持ち主を確かめられない","湘州平定":"｜湘州《しょうしゅう》平定","天嘉二年正月":"｜天嘉《てんか》二年正月","陳の滅亡。平陳の初めに零陵に永州総管府が置かれる":"陳の滅亡。平陳の初めに零陵に永州｜総管《そうかん》府が置かれる","桂陽":"｜桂陽《けいよう》","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","陳が桂陽郡の汝城県を廬陽郡に改める":"陳が｜桂陽《けいよう》郡の汝城県を廬陽郡に改める","王琳の敗走（560年二月）のあと、同じ年の五月に陳が桂陽郡の県を改めて郡を立てている。郡治の郴県そのものの記事は無い（-10-04 総点検。以前は持ち主不明として空白にしていた）":"｜王琳《おうりん》の敗走（560年二月）のあと、同じ年の五月に陳が｜桂陽《けいよう》郡の県を改めて郡を立てている。郡治の郴県そのものの記事は無い（-10-04 総点検。以前は持ち主不明として空白にしていた）","陳の滅亡（桂陽個別の降伏記事は見当たらない）":"陳の滅亡（｜桂陽《けいよう》個別の降伏記事は見当たらない）","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","桂州刺史淳于量が王琳と往来しつつ間道から陳霸先に帰し、陳の受禅で平西大将軍を授かり、都督・刺史はもとのまま":"｜桂州《けいしゅう》｜刺史《しし》｜淳于《じゅんう》量が｜王琳《おうりん》と往来しつつ間道から｜陳霸先《ちんはせん》に帰し、陳の｜受禅《じゅぜん》で平西｜大将軍《だいしょうぐん》を授かり、都督・｜刺史《しし》はもとのまま","陳書淳于量伝による。以前は王琳方とし、559年（開府儀同三司を授かった年）から陳としていたが、559年は昇進の年で陳に帰した年ではない（-10-04 総点検）":"｜陳書《ちんじょ》｜淳于《じゅんう》量伝による。以前は｜王琳《おうりん》方とし、559年（開府儀同三司を授かった年）から陳としていたが、559年は昇進の年で陳に帰した年ではない（-10-04 総点検）","陳の桂州刺史錢季卿らが隋の周法尚に降る":"陳の｜桂州《けいしゅう》｜刺史《しし》錢季卿らが隋の周法尚に降る","始興":"｜始興《しこう》","広州刺史を解かれた曲江侯蕭勃が始興に移る":"｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》を解かれた曲江侯蕭勃が｜始興《しこう》に移る","承聖三年九月":"｜承聖《しょうせい》三年九月","蕭勃の挙兵（2月）と敗死の後、欧陽頠の子紇が始興を攻略、陳の建国（10月）":"蕭勃の挙兵（2月）と敗死の後、欧陽頠の子紇が｜始興《しこう》を攻略、陳の建国（10月）","韋洸が嶺南を平定":"韋洸が｜嶺南《れいなん》を平定","番禺（広州）":"｜番禺《ばんぐう》（｜広州《こうしゅう》）","番禺":"｜番禺《ばんぐう》","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","嶺南は広州刺史曲江侯蕭勃の割拠となる":"｜嶺南《れいなん》は｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》曲江侯蕭勃の割拠となる","元帝（王琳の将孫瑒）":"｜元帝《げんてい》（｜王琳《おうりん》の将孫瑒）","元帝が王琳を広州刺史とし、王琳の副将孫瑒が番禺に拠る（蕭勃は始興へ）":"｜元帝《げんてい》が｜王琳《おうりん》を｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》とし、｜王琳《おうりん》の副将孫瑒が｜番禺《ばんぐう》に拠る（蕭勃は｜始興《しこう》へ）","江陵陥落を聞いた孫瑒が広州を棄て、蕭勃が再び広州に拠る":"｜江陵《こうりょう》陥落を聞いた孫瑒が｜広州《こうしゅう》を棄て、蕭勃が再び｜広州《こうしゅう》に拠る","蕭勃が広州で挙兵して敗死、残党が蕭任を奉じて広州に拠るが、欧陽頠が広州を攻略して嶺南平定。10月に陳の建国":"蕭勃が｜広州《こうしゅう》で挙兵して敗死、残党が蕭任を奉じて｜広州《こうしゅう》に拠るが、欧陽頠が｜広州《こうしゅう》を攻略して｜嶺南《れいなん》平定。10月に陳の建国","広州刺史欧陽紇が召還を恐れて挙兵":"｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》欧陽紇が召還を恐れて挙兵","太建元年":"｜太建《たいけん》元年","章昭達が洭口で欧陽紇を破って生け捕り、建康で斬る":"章｜昭達《しょうたつ》が洭口で欧陽紇を破って生け捕り、｜建康《けんこう》で斬る","太建二年":"｜太建《たいけん》二年","冼夫人が孫の馮魂に韋洸を迎えさせ、韋洸が広州に至り嶺南諸州が定まる":"冼夫人が孫の馮魂に韋洸を迎えさせ、韋洸が｜広州《こうしゅう》に至り｜嶺南《れいなん》諸州が定まる","蕭勃の敗死後、欧陽頠が嶺南を平定し陳の領域に（梁から陳へ）":"蕭勃の敗死後、欧陽頠が｜嶺南《れいなん》を平定し陳の領域に（梁から陳へ）","周法尚が嶺南を安集、山洞に拠った陳の定州刺史呂子廓を斬る":"周法尚が｜嶺南《れいなん》を安集、山洞に拠った陳の｜定州《ていしゅう》｜刺史《しし》呂子廓を斬る","龍編（交州）":"龍編（｜交州《こうしゅう》）","東晋から宋へ。交州刺史杜慧度が林邑を破る":"｜東晋《とうしん》から宋へ。｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》杜慧度が林邑を破る","交州刺史劉牧の死後、州人李長仁が北来の部曲を殺して州に拠り刺史を自称。11月に使者を送って降り「行州事」に自貶、宋はこれを許す":"｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》劉牧の死後、州人李長仁が北来の｜部曲《ぶきょく》を殺して州に拠り｜刺史《しし》を自称。11月に使者を送って降り「行州事」に自貶、宋はこれを許す","泰始四年":"｜泰始《たいし》四年","李長仁の従弟叔献が宋の刺史沈煥を拒んでいたが、斉が叔献を刺史に追認":"李長仁の従弟叔献が宋の｜刺史《しし》沈煥を拒んでいたが、斉が叔献を｜刺史《しし》に追認","建元元年七月":"｜建元《けんげん》元年七月","斉が劉楷を交州刺史として討たせ、李叔献は間道から入朝":"斉が劉楷を｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》として討たせ、李叔献は間道から入朝","永明三年正月":"｜永明《えいめい》三年正月","交趾の李賁が数州の豪傑と挙兵、交州刺史武林侯蕭諮は広州へ逃げ帰る（544年正月に越帝を称す）":"｜交趾《こうし》の李賁が数州の豪傑と挙兵、｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》武林侯｜蕭諮《しょうし》は｜広州《こうしゅう》へ逃げ帰る（544年正月に越帝を称す）","大同七年":"｜大同《だいどう》七年","交州刺史楊瞟・司馬陳霸先が交州に至り、李賁を朱鳶・蘇歴江口で破る。李賁は嘉寧城へ、546年正月に嘉寧城も落ちる":"｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》楊瞟・｜司馬《しば》｜陳霸先《ちんはせん》が｜交州《こうしゅう》に至り、李賁を朱鳶・蘇歴江口で破る。李賁は｜嘉寧《かねい》城へ、546年正月に｜嘉寧《かねい》城も落ちる","大同十一年":"｜大同《だいどう》十一年","梁から陳へ。陳は欧陽頠の弟盛を交州刺史に任じている（陳書）":"梁から陳へ。陳は欧陽頠の弟盛を｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》に任じている（｜陳書《ちんじょ》）","陳の滅亡。隋書地理志は交趾郡下の諸郡を「平陳」で廃したと記す（交州の帰順記事そのものは見当たらない）":"陳の滅亡。｜隋書《ずいしょ》｜地理志《ちりし》は｜交趾《こうし》郡下の諸郡を「平陳」で廃したと記す（｜交州《こうしゅう》の帰順記事そのものは見当たらない）","長安":"｜長安《ちょうあん》","西安市":"｜西安《せいあん》市","418年に赫連勃勃が長安に入り、南台を置いて赫連璝に守らせていた（420年歳末も夏）":"418年に｜赫連勃勃《かくれんぼつぼつ》が｜長安《ちょうあん》に入り、南台を置いて｜赫連璝《かくれんかい》に守らせていた（420年歳末も夏）","夏の守将助興・乙斗が長安を捨てて安定へ走り、十二月に北魏の奚斤が長安に入る":"夏の守将助興・乙斗が｜長安《ちょうあん》を捨てて安定へ走り、十二月に｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤が｜長安《ちょうあん》に入る","始光三年十二月":"｜始光《しこう》三年十二月","奚斤が赫連定に捕らえられ、安定の丘堆が長安を捨てて逃げ、夏が長安を回復":"｜奚《けい》斤が｜赫連定《かくれんてい》に捕らえられ、安定の丘堆が｜長安《ちょうあん》を捨てて逃げ、夏が｜長安《ちょうあん》を回復","平涼陥落で夏の長安守将が逃げ、関中がすべて北魏に入る。王斤が長安を鎮す":"平涼陥落で夏の｜長安《ちょうあん》守将が逃げ、｜関中《かんちゅう》がすべて｜北魏《ほくぎ》に入る。王斤が｜長安《ちょうあん》を鎮す","蕭宝寅（斉帝を称す）":"｜蕭《しょう》｜宝寅《ほういん》（｜斉帝《せいてい》を称す）","西道行台蕭宝寅が長安で叛き斉帝を称する（十月）":"西道行台｜蕭《しょう》｜宝寅《ほういん》が｜長安《ちょうあん》で叛き｜斉帝《せいてい》を称する（十月）","孝昌三年十月":"｜孝昌《こうしょう》三年十月","正月、侯終徳が蕭宝寅を襲い、宝寅は長安を捨てて万俟醜奴に奔る。長安は北魏側に戻る":"正月、侯終徳が｜蕭《しょう》｜宝寅《ほういん》を襲い、宝寅は｜長安《ちょうあん》を捨てて｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》に奔る。｜長安《ちょうあん》は｜北魏《ほくぎ》側に戻る","武泰元年正月":"｜武泰《ぶたい》元年正月","北魏の東西分裂で西魏の領域（宇文泰の関西）":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂で｜西魏《せいぎ》の領域（｜宇文泰《うぶんたい》の関西）","上洛":"｜上洛《じょうらく》","商州区":"｜商州《しょうしゅう》区","東晋末から宋の上洛太守が置かれていた（439年に太守が郡を捨てて逃げるまで）":"｜東晋《とうしん》末から宋の｜上洛《じょうらく》｜太守《たいしゅ》が置かれていた（439年に｜太守《たいしゅ》が郡を捨てて逃げるまで）","北魏の雍州刺史葛那が上洛を取り、宋の太守が逃げる。北魏はこの年上洛に荊州を置く":"｜北魏《ほくぎ》の｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》葛那が｜上洛《じょうらく》を取り、宋の｜太守《たいしゅ》が逃げる。｜北魏《ほくぎ》はこの年上洛に｜荊州《けいしゅう》を置く","太延五年三月":"｜太延《たいえん》五年三月","統万":"｜統万《とうまん》","夏の都。419年に勃勃が統万に還る":"夏の都。419年に｜勃勃《ぼつぼつ》が｜統万《とうまん》に還る","北魏太武帝が統万を破り、常山王素らを留めて統万を鎮させる":"｜北魏《ほくぎ》｜太武帝《たいぶてい》が｜統万《とうまん》を破り、｜常山王《じょうざんおう》素らを留めて｜統万《とうまん》を鎮させる","始光四年六月":"｜始光《しこう》四年六月","東魏の高歓が夏州を夜襲して陥とし、張瓊・許和を留めて守らせる":"｜東魏《とうぎ》の｜高歓《こうかん》が｜夏州《かしゅう》を夜襲して陥とし、張瓊・許和を留めて守らせる","大統二年三月（周書）":"｜大統《だいとう》二年三月（｜周書《しゅうしょ》）","沙苑の戦いの後、許和が張瓊を殺して夏州ごと西魏に降る":"｜沙苑《さえん》の戦いの後、許和が張瓊を殺して｜夏州《かしゅう》ごと｜西魏《せいぎ》に降る","大統三年":"｜大統《だいとう》三年","薄骨律鎮（霊州）":"薄骨律鎮（｜霊州《れいしゅう》）","霊武市":"｜霊武《れいぶ》市","北魏が薄骨律鎮を置く":"｜北魏《ほくぎ》が薄骨律鎮を置く","鎮が置かれた年から地図に出す。胡注は赫連夏の果城に置いたとするが、夏の城としての記事は無い":"鎮が置かれた年から地図に出す。胡注は｜赫連《かくれん》夏の果城に置いたとするが、夏の城としての記事は無い","六鎮の乱の叛軍（破六韓抜陵系）":"六鎮の乱の叛軍（｜破六韓抜陵《はろくかんばつりょう》系）","正光末":"｜正光《せいこう》末","万俟醜奴の敗滅で、涇・豳以西霊州に至る賊党がみな北魏に降る":"｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》の敗滅で、涇・豳以西｜霊州《れいしゅう》に至る賊党がみな｜北魏《ほくぎ》に降る","霊州刺史曹泥は諸勢力のうちただ一人高歓に附き、東魏側に立つ（十二月に宇文泰が李虎らを遣わして攻める）":"｜霊州《れいしゅう》｜刺史《しし》曹泥は諸勢力のうちただ一人｜高歓《こうかん》に附き、｜東魏《とうぎ》側に立つ（十二月に｜宇文泰《うぶんたい》が｜李虎《りこ》らを遣わして攻める）","李虎らが費也頭の衆と霊州を四十日攻め、曹泥が降る":"｜李虎《りこ》らが費也頭の衆と｜霊州《れいしゅう》を四十日攻め、曹泥が降る","大統元年":"｜大統《だいとう》元年","高平":"｜高平《こうへい》","夏の領域。424年に夏の王子同士が高平で戦う":"夏の領域。424年に夏の王子同士が｜高平《こうへい》で戦う","平涼陥落と関中平定。436年には北魏が「高平諸軍」を動かしている":"平涼陥落と｜関中《かんちゅう》平定。436年には｜北魏《ほくぎ》が「｜高平《こうへい》諸軍」を動かしている","胡琛・万俟醜奴（高平の叛乱）":"胡琛・｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》（｜高平《こうへい》の｜叛乱《はんらん》）","高平鎮民が胡琛を高平王に推して叛き、莫折大提の部将卜胡が高平鎮を陥とす。のち高平人が卜胡を殺して胡琛を迎える":"｜高平《こうへい》鎮民が胡琛を｜高平《こうへい》王に推して叛き、莫折大提の部将卜胡が｜高平《こうへい》鎮を陥とす。のち｜高平《こうへい》人が卜胡を殺して胡琛を迎える","爾朱天光が万俟醜奴を破り、高平に迫ると城中が蕭宝寅を執えて降る":"｜爾朱《じしゅ》｜天光《てんこう》が｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》を破り、｜高平《こうへい》に迫ると城中が｜蕭《しょう》｜宝寅《ほういん》を執えて降る","永安三年四月":"｜永安《えいあん》三年四月","延州":"｜延州《えんしゅう》","延安市":"｜延安《えんあん》市","統万と長安のあいだの夏の領域。直接の引用なし":"｜統万《とうまん》と｜長安《ちょうあん》のあいだの夏の領域。直接の引用なし","夏の関中支配の崩壊（夏主赫連定は430年にも鄜城まで出ている）":"夏の｜関中《かんちゅう》支配の崩壊（｜夏主《かしゅ》｜赫連定《かくれんてい》は430年にも鄜城まで出ている）","夏の領域。426年に長安の夏将が安定へ退く":"夏の領域。426年に｜長安《ちょうあん》の夏将が安定へ退く","九月、安定の民が城を挙げて北魏に降る":"九月、安定の民が城を挙げて｜北魏《ほくぎ》に降る","始光四年九月":"｜始光《しこう》四年九月","奚斤の敗戦で安定の丘堆が輜重を捨てて逃げる。430年には夏の東平公乙斗が安定を守っている":"｜奚《けい》斤の敗戦で安定の丘堆が輜重を捨てて逃げる。430年には夏の東平公乙斗が安定を守っている","北魏が安定を取り、巴東公延普を留めて鎮させる":"｜北魏《ほくぎ》が安定を取り、巴東公延普を留めて鎮させる","万俟醜奴":"｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》","万俟醜奴の勢力下に入る（530年に天光が安定に至ると「賊の涇州刺史」侯幾長貴が降る）":"｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》の勢力下に入る（530年に天光が安定に至ると「賊の｜涇州《けいしゅう》｜刺史《しし》」侯幾長貴が降る）","爾朱天光が安定に至り、賊の涇州刺史侯幾長貴が城を挙げて降る":"｜爾朱《じしゅ》｜天光《てんこう》が安定に至り、賊の｜涇州《けいしゅう》｜刺史《しし》侯幾長貴が城を挙げて降る","上邽（秦州）":"｜上邽《じょうけい》（｜秦州《しんしゅう》）","上邽":"｜上邽《じょうけい》","後秦の旧将姚艾が上邽で西秦に藩を称したまま（417年から）":"｜後秦《こうしん》の旧将姚艾が｜上邽《じょうけい》で｜西秦《せいしん》に藩を称したまま（417年から）","417年に姚艾が西秦に藩を称し、418年にも西秦に帰している。西秦の手を離れた記事は421年の西秦の上邽攻めまで無い。五胡十六国の地図と照らし合わせて直した":"417年に姚艾が｜西秦《せいしん》に藩を称し、418年にも｜西秦《せいしん》に帰している。｜西秦《せいしん》の手を離れた記事は421年の｜西秦《せいしん》の｜上邽《じょうけい》攻めまで無い。｜五胡十六国《ごこじゅうろっこく》の地図と照らし合わせて直した","西秦が上邽を攻めて霖雨で還る（上邽はすでに西秦の手を離れている）":"｜西秦《せいしん》が｜上邽《じょうけい》を攻めて霖雨で還る（｜上邽《じょうけい》はすでに｜西秦《せいしん》の手を離れている）","推定。421年に西秦が上邽を攻めているので、それまでに西秦の手を離れていた。427年には夏主昌が上邽に逃げ込んでいる。夏が取った年の記事は無い":"推定。421年に｜西秦《せいしん》が｜上邽《じょうけい》を攻めているので、それまでに｜西秦《せいしん》の手を離れていた。427年には｜夏主《かしゅ》昌が｜上邽《じょうけい》に逃げ込んでいる。夏が取った年の記事は無い","赫連定が西へ移ると、仇池の楊難当が上邽に拠り、子を秦州刺史として守らせる":"｜赫連定《かくれんてい》が西へ移ると、仇池の｜楊難当《ようなんとう》が｜上邽《じょうけい》に拠り、子を｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》として守らせる","楽平王丕らが略陽に至り、楊難当が上邽の守兵を仇池に引き揚げる":"楽｜平王《へいおう》丕らが略陽に至り、｜楊難当《ようなんとう》が｜上邽《じょうけい》の守兵を仇池に引き揚げる","太延二年九月":"｜太延《たいえん》二年九月","秦州城民が刺史李彦を殺し莫折大提を推す。大提の子念生が天子を称する":"｜秦州《しんしゅう》城民が｜刺史《しし》李彦を殺し莫折大提を推す。大提の子念生が天子を称する","正光五年六月":"｜正光《せいこう》五年六月","九月、秦州城民杜粲が莫折念生を殺し、ついで秦州民駱超が杜粲を殺して北魏に降る":"九月、｜秦州《しんしゅう》城民杜粲が莫折念生を殺し、ついで｜秦州《しんしゅう》民駱超が杜粲を殺して｜北魏《ほくぎ》に降る","孝昌三年":"｜孝昌《こうしょう》三年","襄武（隴西郡）":"襄武（｜隴西《ろうせい》郡）","隴西県":"｜隴西《ろうせい》県","西秦の領域（427年に西秦が武始の諸羌を招慰）":"｜西秦《せいしん》の領域（427年に｜西秦《せいしん》が武始の｜諸羌《しょきょう》を｜招慰《しょうい》）","北魏の太武帝が平涼を囲んだとき、夏の隴西の守将が北魏に降る":"｜北魏《ほくぎ》の｜太武帝《たいぶてい》が平涼を囲んだとき、夏の｜隴西《ろうせい》の守将が｜北魏《ほくぎ》に降る","地図の点は隴西郡の治所の襄武。430年に西秦の故地（枹罕・金城の一帯）が吐谷渾に入ったが、襄武は夏の守将が北魏に降っている。五胡十六国の地図と照らし合わせて直した":"地図の点は｜隴西《ろうせい》郡の治所の襄武。430年に｜西秦《せいしん》の故地（｜枹罕《ふかん》・金城の一帯）が｜吐谷渾《とよくこん》に入ったが、襄武は夏の守将が｜北魏《ほくぎ》に降っている。｜五胡十六国《ごこじゅうろっこく》の地図と照らし合わせて直した","枹罕":"｜枹罕《ふかん》","西秦の都。426年、夏の攻撃に際し左丞相曇達を留めて守らせる":"｜西秦《せいしん》の都。426年、夏の攻撃に際し左｜丞相《じょうしょう》曇達を留めて守らせる","西秦の暮末が城邑を焼いて東へ去り、南安に留まる。その故地はみな吐谷渾に入る":"｜西秦《せいしん》の｜暮末《ぼまつ》が｜城邑《じょうゆう》を焼いて東へ去り、｜南安《なんあん》に留まる。その故地はみな｜吐谷渾《とよくこん》に入る","吐谷渾の什帰が城を捨てて夜に遁れ、八月に北魏の封敕文が枹罕に入り乙烏頭を留めて守らせる":"｜吐谷渾《とよくこん》の什帰が城を捨てて夜に遁れ、八月に｜北魏《ほくぎ》の封敕文が｜枹罕《ふかん》に入り乙烏頭を留めて守らせる","太平真君六年八月":"｜太平真君《たいへいしんくん》六年八月","蘭州市":"｜蘭州《らんしゅう》市","西秦の領域（426年に夏が西秦の苑川を攻める）":"｜西秦《せいしん》の領域（426年に夏が｜西秦《せいしん》の苑川を攻める）","西秦の故地がみな吐谷渾に入り、432年に北魏も吐谷渾の「金城・枹罕・隴西の地」を認める":"｜西秦《せいしん》の故地がみな｜吐谷渾《とよくこん》に入り、432年に｜北魏《ほくぎ》も｜吐谷渾《とよくこん》の「金城・｜枹罕《ふかん》・｜隴西《ろうせい》の地」を認める","北魏が枹罕を取る（以後、金城は北魏の河州の属郡）":"｜北魏《ほくぎ》が｜枹罕《ふかん》を取る（以後、金城は｜北魏《ほくぎ》の河州の属郡）","姑臧":"｜姑臧《こぞう》","武威市":"｜武威《ぶい》市","北涼の都":"｜北涼《ほくりょう》の都","北魏太武帝が姑臧を囲み、九月に沮渠牧犍が面縛して降る":"｜北魏《ほくぎ》｜太武帝《たいぶてい》が｜姑臧《こぞう》を囲み、九月に｜沮渠《そきょ》｜牧犍《ぼくけん》が｜面縛《めんばく》して降る","太延五年九月":"｜太延《たいえん》五年九月","趙天安（莫折念生に応ず）":"趙｜天安《てんあん》（莫折念生に応ず）","莫折念生が兵を遣わして涼州を攻め、城民趙天安が刺史を執えて呼応":"莫折念生が兵を遣わして｜涼州《りょうしゅう》を攻め、城民趙｜天安《てんあん》が｜刺史《しし》を執えて呼応","十月、吐谷渾が趙天安を撃ち、天安が降って涼州は北魏に復す":"十月、｜吐谷渾《とよくこん》が趙｜天安《てんあん》を撃ち、｜天安《てんあん》が降って｜涼州《りょうしゅう》は｜北魏《ほくぎ》に復す","孝昌元年十月":"｜孝昌《こうしょう》元年十月","北涼の領域（西涼の李歆が張掖を襲おうとする）":"｜北涼《ほくりょう》の領域（｜西涼《せいりょう》の李歆が張掖を襲おうとする）","禿髪保周（北魏に叛く）":"禿髪保周（｜北魏《ほくぎ》に叛く）","姑臧陥落後、北涼の張掖太守沮渠宜得は酒泉へ走り、北魏は張掖に将を置いた。十月癸亥、北魏が張掖王とした禿髪保周が鮮卑諸部を率いて張掖に拠り北魏に叛く":"｜姑臧《こぞう》陥落後、｜北涼《ほくりょう》の張掖｜太守《たいしゅ》沮渠宜得は酒泉へ走り、｜北魏《ほくぎ》は張掖に将を置いた。十月癸亥、｜北魏《ほくぎ》が張掖王とした禿髪保周が｜鮮卑《せんぴ》諸部を率いて張掖に拠り｜北魏《ほくぎ》に叛く","五胡十六国の地図と照らし合わせて直した（「据张掖」の条が抜けていた）。保周が張掖の城そのものを押さえたかは確定できない":"｜五胡十六国《ごこじゅうろっこく》の地図と照らし合わせて直した（「据张掖」の条が抜けていた）。保周が張掖の城そのものを押さえたかは確定できない","四月に沮渠無諱が北魏の張掖を寇し、保周は删丹に屯する。七月に永昌王健が保周を番禾で破り、保周は追い詰められて自殺":"四月に沮渠無諱が｜北魏《ほくぎ》の張掖を寇し、保周は删丹に屯する。七月に｜永昌《えいしょう》王健が保周を番禾で破り、保周は追い詰められて自殺","四月の時点で張掖は北魏の城（「魏张掖」）":"四月の時点で張掖は｜北魏《ほくぎ》の城（「魏张掖」）","西涼の李歆が蓼泉で戦死し、沮渠蒙遜が酒泉に入る":"｜西涼《せいりょう》の李歆が蓼泉で戦死し、｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》が酒泉に入る","永初元年":"｜永初《えいしょ》元年","奚眷が酒泉を攻め、沮渠無諱らは晋昌へ逃げる。北魏は元絜に酒泉を守らせる":"奚眷が酒泉を攻め、沮渠無諱らは晋昌へ逃げる。｜北魏《ほくぎ》は元絜に酒泉を守らせる","太延五年":"｜太延《たいえん》五年","沮渠無諱（北涼の残党・八月に北魏に名目上服属）":"沮渠無諱（｜北涼《ほくりょう》の残党・八月に｜北魏《ほくぎ》に名目上服属）","沮渠無諱が北魏の元絜を執え、三月に酒泉を抜く。八月に北魏に降を請うが酒泉を保ち続ける":"沮渠無諱が｜北魏《ほくぎ》の元絜を執え、三月に酒泉を抜く。八月に｜北魏《ほくぎ》に降を請うが酒泉を保ち続ける","敦煌と揃えて北涼（残党）とした":"｜敦煌《とんこう》と揃えて｜北涼《ほくりょう》（残党）とした","太平真君二年":"｜太平真君《たいへいしんくん》二年","敦煌":"｜敦煌《とんこう》","敦煌市":"｜敦煌《とんこう》市","李歆の敗死後、冬に敦煌太守李恂が敦煌に戻って北涼の索元緒を逐い、涼州刺史を称する（西涼の残党）":"李歆の敗死後、冬に｜敦煌《とんこう》｜太守《たいしゅ》李恂が｜敦煌《とんこう》に戻って｜北涼《ほくりょう》の索元緒を逐い、｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》を称する（｜西涼《せいりょう》の残党）","五胡十六国の地図と揃えて、西涼の残党（李恂）とした":"｜五胡十六国《ごこじゅうろっこく》の地図と揃えて、｜西涼《せいりょう》の残党（李恂）とした","沮渠蒙遜が水を灌いで敦煌を攻め、李恂の将宋承らが城を挙げて降り、恂は自殺":"｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》が水を灌いで｜敦煌《とんこう》を攻め、李恂の将宋承らが城を挙げて降り、恂は自殺","永初二年":"｜永初《えいしょ》二年","沮渠無諱・宜得・唐児（姑臧陥落後の残党）":"沮渠無諱・宜得・唐児（｜姑臧《こぞう》陥落後の残党）","姑臧陥落後も北涼の敦煌太守沮渠唐児が敦煌を保ち、酒泉・張掖を逃れた無諱・宜得が合流する":"｜姑臧《こぞう》陥落後も｜北涼《ほくりょう》の｜敦煌《とんこう》｜太守《たいしゅ》沮渠唐児が｜敦煌《とんこう》を保ち、酒泉・張掖を逃れた無諱・宜得が合流する","北涼の君主は降ったが、残党は北涼の太守のまま敦煌を保った。五胡十六国の地図と揃えて北涼（残党）とした":"｜北涼《ほくりょう》の君主は降ったが、残党は｜北涼《ほくりょう》の｜太守《たいしゅ》のまま｜敦煌《とんこう》を保った。｜五胡十六国《ごこじゅうろっこく》の地図と揃えて｜北涼《ほくりょう》（残党）とした","沮渠無諱が敦煌を棄てて西へ去り、李宝（西涼李暠の孫）が伊吾から入って敦煌に拠り、北魏に表を奉じて沙州牧・敦煌公に任じられる":"沮渠無諱が｜敦煌《とんこう》を棄てて西へ去り、李宝（｜西涼《せいりょう》李暠の孫）が伊吾から入って｜敦煌《とんこう》に拠り、｜北魏《ほくぎ》に表を奉じて｜沙州《さしゅう》牧・｜敦煌《とんこう》公に任じられる","太平真君三年":"｜太平真君《たいへいしんくん》三年","南鄭（漢中）":"南鄭（｜漢中《かんちゅう》）","漢中市":"｜漢中《かんちゅう》市","宋の梁州（当時の治は漢中盆地の南城）。433年に楊難当に漢中を奪われるまで宋":"宋の｜梁州《りょうしゅう》（当時の治は｜漢中《かんちゅう》盆地の南城）。433年に｜楊難当《ようなんとう》に｜漢中《かんちゅう》を奪われるまで宋","楊難当が梁州を襲い、十一月に宋の梁州刺史甄法護が城を棄てて西城へ逃げ、難当が漢中の地を有す":"｜楊難当《ようなんとう》が｜梁州《りょうしゅう》を襲い、十一月に宋の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》甄法護が城を棄てて｜西城《せいじょう》へ逃げ、難当が｜漢中《かんちゅう》の地を有す","元嘉十年十一月":"｜元嘉《げんか》十年十一月","蕭承之が氐を破り漢中の故地をすべて回復、蕭思話は鎮を南鄭に移す":"｜蕭承之《しょうしょうし》が氐を破り｜漢中《かんちゅう》の故地をすべて回復、｜蕭《しょう》｜思話《しわ》は鎮を南鄭に移す","元嘉十一年閏月":"｜元嘉《げんか》十一年閏月","梁州長史夏侯道遷が南鄭ごと北魏に降り、北魏は邢巒を梁・秦二州刺史とする":"｜梁州《りょうしゅう》長史夏侯道遷が南鄭ごと｜北魏《ほくぎ》に降り、｜北魏《ほくぎ》は邢巒を梁・秦二州｜刺史《しし》とする","天監四年正月（通鑑の年次）":"｜天監《てんかん》四年正月（｜通鑑《つがん》の年次）","十一月、梁の北梁州刺史蘭欽が南鄭を攻め、北魏（西魏）の梁州刺史元羅が州を挙げて降る":"十一月、梁の北｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》蘭欽が南鄭を攻め、｜北魏《ほくぎ》（｜西魏《せいぎ》）の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》元羅が州を挙げて降る","大同元年十一月":"｜大同《だいどう》元年十一月","西魏の達奚武が南鄭を囲み、梁の梁・秦二州刺史宜豊侯蕭循が降る":"｜西魏《せいぎ》の達奚武が南鄭を囲み、梁の梁・秦二州｜刺史《しし》宜豊侯蕭循が降る","武興":"｜武興《ぶこう》","仇池楊氏の勢力圏（426年に宋が武興に拠ると楊氏が兵を出して拒む）":"仇池｜楊氏《ようし》の勢力圏（426年に宋が｜武興《ぶこう》に拠ると｜楊氏《ようし》が兵を出して拒む）","宋の梁・南秦二州刺史吉翰が始平太守龐咨を遣わして武興に拠らせ、楊難当を撃退":"宋の梁・南秦二州｜刺史《しし》吉翰が始平｜太守《たいしゅ》龐咨を遣わして｜武興《ぶこう》に拠らせ、｜楊難当《ようなんとう》を撃退","元嘉三年":"｜元嘉《げんか》三年","楊難当が梁州を襲い漢中まで取る（442年に宋が武興を攻め取っているので、それ以前に楊氏が回復していた）":"｜楊難当《ようなんとう》が｜梁州《りょうしゅう》を襲い｜漢中《かんちゅう》まで取る（442年に宋が｜武興《ぶこう》を攻め取っているので、それ以前に｜楊氏《ようし》が回復していた）","宋の裴方明らが武興・下辨・白水を取り、仇池を平定":"宋の裴方明らが｜武興《ぶこう》・下辨・白水を取り、仇池を平定","元嘉十九年五月":"｜元嘉《げんか》十九年五月","楊氏（武興王）":"｜楊氏《ようし》（｜武興《ぶこう》王）","武都王楊僧嗣が葭蘆で死に、従弟の楊文度が武興王を自立して魏に降る":"武都王楊僧嗣が葭蘆で死に、従弟の楊文度が｜武興《ぶこう》王を自立して魏に降る","楊氏が武興を拠点にするのはここから。480年には楊後起が武興を鎮す（-10-04 総点検）":"｜楊氏《ようし》が｜武興《ぶこう》を拠点にするのはここから。480年には楊後起が｜武興《ぶこう》を鎮す（-10-04 総点検）","北魏の傅竪眼が武興を克ち楊紹先を執え、その国を滅ぼして武興鎮（のち東益州）とする":"｜北魏《ほくぎ》の｜傅竪眼《ふじゅがん》が｜武興《ぶこう》を克ち楊紹先を執え、その国を滅ぼして｜武興《ぶこう》鎮（のち東｜益州《えきしゅう》）とする","天監五年":"｜天監《てんかん》五年","氐・蜀の叛乱（のち楊紹先が武興に帰って王を称す）":"氐・蜀の｜叛乱《はんらん》（のち楊紹先が｜武興《ぶこう》に帰って王を称す）","魏子建が去ると氐・蜀が叛き、刺史唐永が城を棄てて走り、東益州は没する":"魏子建が去ると氐・蜀が叛き、｜刺史《しし》唐永が城を棄てて走り、東｜益州《えきしゅう》は没する","楊紹先が魏の乱に乗じて武興に帰り再び王を称し、宇文泰に称藩（梁からも官を受ける）":"楊紹先が魏の乱に乗じて｜武興《ぶこう》に帰り再び王を称し、｜宇文泰《うぶんたい》に｜称藩《しょうはん》（梁からも官を受ける）","西魏の達奚武が漢川を経略し、梁将楊賢が武興ごと降る":"｜西魏《せいぎ》の達奚武が｜漢川《かんせん》を｜経略《けいりゃく》し、梁将楊賢が｜武興《ぶこう》ごと降る","大統十七年":"｜大統《だいとう》十七年","仇池公楊盛の本拠（422年に宋が武都王に封ず）":"仇池公｜楊盛《ようせい》の本拠（422年に宋が武都王に封ず）","宋の裴方明が楊難当を破り仇池を平定、胡崇之を北秦州刺史として鎮させる":"宋の裴方明が｜楊難当《ようなんとう》を破り仇池を平定、胡崇之を北｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》として鎮させる","元嘉十九年":"｜元嘉《げんか》十九年","二月、胡崇之が北魏に擒えられ、北魏が仇池を取る":"二月、胡崇之が｜北魏《ほくぎ》に擒えられ、｜北魏《ほくぎ》が仇池を取る","太平真君四年二月":"｜太平真君《たいへいしんくん》四年二月","晋寿":"｜晋寿《しんじゅ》","宋の晋寿太守が置かれている（433年に楊難当に捕らえられる）":"宋の｜晋寿《しんじゅ》｜太守《たいしゅ》が置かれている（433年に｜楊難当《ようなんとう》に捕らえられる）","楊難当が葭萌を攻め、晋寿太守范延郎を捕らえて漢中を有す":"｜楊難当《ようなんとう》が｜葭萌《かぼう》を攻め、｜晋寿《しんじゅ》｜太守《たいしゅ》范延郎を捕らえて｜漢中《かんちゅう》を有す","元嘉十年":"｜元嘉《げんか》十年","蕭承之が漢中の故地を回復し、葭萌水に戍を置く":"｜蕭承之《しょうしょうし》が｜漢中《かんちゅう》の故地を回復し、｜葭萌《かぼう》水に戍を置く","元嘉十一年":"｜元嘉《げんか》十一年","邢巒が漢中から進み、晋寿太守王景胤を逐って晋寿が陥ちる（北魏は晋寿に益州を置く）":"邢巒が｜漢中《かんちゅう》から進み、｜晋寿《しんじゅ》｜太守《たいしゅ》王景胤を逐って｜晋寿《しんじゅ》が陥ちる（｜北魏《ほくぎ》は｜晋寿《しんじゅ》に｜益州《えきしゅう》を置く）","天監四年":"｜天監《てんかん》四年","冬、葭萌の民任令宗が北魏の晋寿太守を殺して城ごと梁に降る":"冬、｜葭萌《かぼう》の民任令宗が｜北魏《ほくぎ》の｜晋寿《しんじゅ》｜太守《たいしゅ》を殺して城ごと梁に降る","天監十四年冬":"｜天監《てんかん》十四年冬","傅竪眼が来援して梁の張斉を大破し、小剣・大剣の諸戍が城を棄て、この地域は北魏に復す":"｜傅竪眼《ふじゅがん》が来援して梁の張斉を大破し、小剣・大剣の諸戍が城を棄て、この地域は｜北魏《ほくぎ》に復す","天監十五年七月":"｜天監《てんかん》十五年七月","梁の益州刺史鄱陽王範らが晋寿を囲み、北魏の東益州刺史傅敬和が降る":"梁の｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》｜鄱陽王《はようおう》範らが｜晋寿《しんじゅ》を囲み、｜北魏《ほくぎ》の東｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》傅敬和が降る","大同元年":"｜大同《だいどう》元年","楊法琛（氐酋・西魏に附す）":"楊法琛（氐酋・｜西魏《せいぎ》に附す）","黎州民が梁の刺史張賁を攻めて逐い、氐酋楊法琛を引き入れて黎州に拠らせる。十月に法琛は西魏に附す":"黎州民が梁の｜刺史《しし》張賁を攻めて逐い、氐酋楊法琛を引き入れて黎州に拠らせる。十月に法琛は｜西魏《せいぎ》に附す","大宝元年":"｜大宝《たいほう》元年","尉遅迥の前軍が剣閣に至り、楊乾運らが西魏に応じる。蜀の平定で剣閣以北は西魏に入る":"｜尉遅迥《うっちけい》の前軍が剣閣に至り、｜楊《よう》｜乾運《けんうん》らが｜西魏《せいぎ》に応じる。蜀の平定で剣閣以北は｜西魏《せいぎ》に入る","東晋から宋へ（宋の巴西郡）":"｜東晋《とうしん》から宋へ（宋の巴西郡）","梁の巴西太守龐景民が拠って降らず、郡民厳玄思が巴州刺史を自称して北魏に附し、景民を斬る":"梁の巴西｜太守《たいしゅ》龐景民が拠って降らず、郡民厳玄思が巴州｜刺史《しし》を自称して｜北魏《ほくぎ》に附し、景民を斬る","北魏の巴州刺史厳始欣が隆城鎮将厳愷を滅ぼし、巴州ごと梁に降る":"｜北魏《ほくぎ》の巴州｜刺史《しし》厳始欣が隆城｜鎮将《ちんしょう》厳愷を滅ぼし、巴州ごと梁に降る","中大通元年十一月":"｜中大通《ちゅうだいつう》元年十一月","正月、北魏の益州刺史長孫寿らが厳始欣を斬り、梁の援軍蕭玩も敗死":"正月、｜北魏《ほくぎ》の｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》｜長孫《ちょうそん》寿らが厳始欣を斬り、梁の援軍蕭玩も敗死","永安三年正月":"｜永安《えいあん》三年正月","梁が漢中・晋寿を回復した年。552年には武陵王紀の下に巴西・梓潼二郡太守がいる":"梁が｜漢中《かんちゅう》・｜晋寿《しんじゅ》を回復した年。552年には｜武陵王紀《ぶりょうおうき》の下に巴西・｜梓潼《しどう》二郡｜太守《たいしゅ》がいる","西魏の蜀平定。554年には西魏が隆州（閬中）を保持し、叛乱勢力に囲まれている":"｜西魏《せいぎ》の蜀平定。554年には｜西魏《せいぎ》が隆州（閬中）を保持し、｜叛乱《はんらん》勢力に囲まれている","成都":"｜成都《せいと》","成都市":"｜成都《せいと》市","東晋から宋へ（益州）":"｜東晋《とうしん》から宋へ（｜益州《えきしゅう》）","斉から梁へ（537年から武陵王蕭紀が益州刺史）":"斉から梁へ（537年から｜武陵王《ぶりょうおう》｜蕭紀《しょうき》が｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》）","尉遅迥が成都を五十日囲み、八月に蕭撝と宜都王円粛が降る":"｜尉遅迥《うっちけい》が｜成都《せいと》を五十日囲み、八月に蕭撝と｜宜都王《ぎとおう》円粛が降る","承聖二年八月":"｜承聖《しょうせい》二年八月","巴郡（江州）":"巴郡（｜江州《こうしゅう》）","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","斉から梁へ（553年に武陵王紀が東下の途中で巴郡に至る）":"斉から梁へ（553年に｜武陵王紀《ぶりょうおうき》が東下の途中で巴郡に至る）","湘東王蕭繹（元帝）":"｜湘東王《しょうとうおう》｜蕭繹《しょうえき》（｜元帝《げんてい》）","三月、湘東王（元帝）側の長沙王韶が巴郡を取る。胡注：西魏は成都を得たがまだ東へ手が回らなかった":"三月、｜湘東王《しょうとうおう》（｜元帝《げんてい》）側の｜長沙王《ちょうさおう》韶が巴郡を取る。胡注：｜西魏《せいぎ》は｜成都《せいと》を得たがまだ東へ手が回らなかった","承聖三年三月":"｜承聖《しょうせい》三年三月","武陽（犍為郡）":"｜武陽《ぶよう》（犍為郡）","武陽":"｜武陽《ぶよう》","成都の降伏で西魏が蜀を平定（犍為個別の降伏記事はない）":"｜成都《せいと》の降伏で｜西魏《せいぎ》が蜀を平定（犍為個別の降伏記事はない）","味県（寧州）":"味県（｜寧州《ねいしゅう》）","宋の寧州刺史が置かれ、441年に晋寧太守爨松子の叛を討平している":"宋の｜寧州《ねいしゅう》｜刺史《しし》が置かれ、441年に晋寧｜太守《たいしゅ》爨松子の叛を討平している","梁の南寧州刺史徐文盛が侯景討伐のため荊州へ召され、以後土豪の爨瓚が一方を窃拠。北周・隋は刺史を遥授するのみ":"梁の｜南寧《なんねい》州｜刺史《しし》徐文盛が｜侯景《こうけい》討伐のため｜荊州《けいしゅう》へ召され、以後土豪の爨瓚が一方を窃拠。｜北周《ほくしゅう》・隋は｜刺史《しし》を遥授するのみ","臨晋（馮翊）":"｜臨晋《りんしん》（｜馮翊《ひょうよく》）","臨晋":"｜臨晋《りんしん》","418年から続く（王脩が殺されて晋軍が乱れ、関中の郡県がみな夏に降る）":"418年から続く（王脩が殺されて｜晋軍《しんぐん》が乱れ、｜関中《かんちゅう》の｜郡県《ぐんけん》がみな夏に降る）","北魏の奚斤が蒲坂から長安へ入り、秦・雍の氐羌がみな奚斤に降る":"｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤が｜蒲坂《ほはん》から｜長安《ちょうあん》へ入り、秦・雍の氐羌がみな｜奚《けい》斤に降る","元嘉三年十二月":"｜元嘉《げんか》三年十二月","臨晋を名指しした記事は無い":"｜臨晋《りんしん》を名指しした記事は無い","夏が長安を取り返す":"夏が｜長安《ちょうあん》を取り返す","元嘉五年":"｜元嘉《げんか》五年","臨晋を名指しした記事は無いが、430年に夏の臨晋守将が見えるので、それまでに夏が持っていた":"｜臨晋《りんしん》を名指しした記事は無いが、430年に夏の｜臨晋《りんしん》守将が見えるので、それまでに夏が持っていた","夏の長安・臨晋・武功の守将が逃げ、関中がすべて北魏に入る":"夏の｜長安《ちょうあん》・｜臨晋《りんしん》・武功の守将が逃げ、｜関中《かんちゅう》がすべて｜北魏《ほくぎ》に入る","元嘉七年十二月":"｜元嘉《げんか》七年十二月","北魏の東西分裂で西魏（宇文泰の関西）。華州（馮翊）は西魏側で、535年・537年の東魏の攻撃を退けている":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂で｜西魏《せいぎ》（｜宇文泰《うぶんたい》の関西）。｜華州《かしゅう》（｜馮翊《ひょうよく》）は｜西魏《せいぎ》側で、535年・537年の｜東魏《とうぎ》の攻撃を退けている","漆（新平）":"漆（｜新平《しんぺい》）","417年から続く（赫連勃勃が安定に進み、後秦の嶺北の郡県・鎮戍がみな夏に降る）":"417年から続く（｜赫連勃勃《かくれんぼつぼつ》が安定に進み、｜後秦《こうしん》の｜嶺北《れいほく》の｜郡県《ぐんけん》・鎮戍がみな夏に降る）","北魏の奚斤が長安に入り、秦・雍の氐羌がみな降る":"｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤が｜長安《ちょうあん》に入り、秦・雍の氐羌がみな降る","新平を名指しした記事は無い":"｜新平《しんぺい》を名指しした記事は無い","関中がすべて北魏に入る":"｜関中《かんちゅう》がすべて｜北魏《ほくぎ》に入る","万俟醜奴（関隴の叛乱）":"｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》（｜関隴《かんろう》の｜叛乱《はんらん》）","推定。新平そのものが陥ちた記事は無い。新平郡の属する涇州で527年に蕭宝寅が大敗し（資治通鑑「宝寅大败于泾州」）、530年には叛乱側の『涇州刺史』侯幾長貴がいる。530年の平定記事が『自泾、豳以西至灵州，贼党皆降于魏』と涇州・豳州一帯を賊の地として扱うので、新平もこの間叛乱勢力の手にあったと推した。隣の安定（涇州治）の既存データが528年に万俟醜奴としているのに年を揃えた":"推定。｜新平《しんぺい》そのものが陥ちた記事は無い。｜新平《しんぺい》郡の属する｜涇州《けいしゅう》で527年に｜蕭《しょう》｜宝寅《ほういん》が大敗し（｜資治通鑑《しじつがん》「宝寅大败于泾州」）、530年には｜叛乱《はんらん》側の『｜涇州《けいしゅう》｜刺史《しし》』侯幾長貴がいる。530年の平定記事が『自泾、豳以西至灵州，贼党皆降于魏』と｜涇州《けいしゅう》・豳州一帯を賊の地として扱うので、｜新平《しんぺい》もこの間｜叛乱《はんらん》勢力の手にあったと推した。隣の安定（｜涇州《けいしゅう》治）の既存データが528年に｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》としているのに年を揃えた","推定。爾朱天光が万俟醜奴を擒え、『涇・豳以西から霊州まで賊党はみな北魏に降った』（資治通鑑）。新平個別の記事は無い":"推定。｜爾朱《じしゅ》｜天光《てんこう》が｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》を擒え、『涇・豳以西から｜霊州《れいしゅう》まで賊党はみな｜北魏《ほくぎ》に降った』（｜資治通鑑《しじつがん》）。｜新平《しんぺい》個別の記事は無い","北魏の東西分裂で西魏の領域":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂で｜西魏《せいぎ》の領域","414年から続く（傉檀が乙弗を討ちに出た隙に乞伏熾磐が楽都を囲み、一夕で城が潰え熾磐が入る。廉屯を涼州刺史として楽都に鎮させる）":"414年から続く（傉檀が乙弗を討ちに出た隙に乞伏熾磐が楽都を囲み、一夕で城が潰え熾磐が入る。廉屯を｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》として楽都に鎮させる）","北涼に逼られた西秦の乞伏暮末が城邑を焼いて東の上邽へ向かい南安に留まる。その旧地はみな吐谷渾に入る（楽都が名指しされているわけではない）":"｜北涼《ほくりょう》に逼られた｜西秦《せいしん》の｜乞伏《きっぷく》｜暮末《ぼまつ》が｜城邑《じょうゆう》を焼いて東の｜上邽《じょうけい》へ向かい｜南安《なんあん》に留まる。その旧地はみな｜吐谷渾《とよくこん》に入る（楽都が名指しされているわけではない）","元嘉七年":"｜元嘉《げんか》七年","このときの楽都太守は北涼の沮渠安周。姑臧陥落後、北魏の封沓が楽都を撃つと安周は南へ逃げて吐谷渾に奔り、封沓は数千戸を掠めて引き上げた。歳末に誰が楽都を押さえたかは原文に無い":"このときの楽都｜太守《たいしゅ》は｜北涼《ほくりょう》の沮渠安周。｜姑臧《こぞう》陥落後、｜北魏《ほくぎ》の封沓が楽都を撃つと安周は南へ逃げて｜吐谷渾《とよくこん》に奔り、封沓は数千戸を掠めて引き上げた。歳末に誰が楽都を押さえたかは原文に無い","元嘉十六年":"｜元嘉《げんか》十六年","爾朱天光が万俟醜奴の残党（万俟道洛・王慶雲）を滅ぼすと、三秦・河・渭・瓜・涼・鄯州がみな降り、侯莫陳悦が鄯州刺史に任じられた。北魏の鄯州が確実に文献に現れる最初の年。ただしこれは州単位の記事で、楽都の城そのものの記事ではない。また『皆降』は鄯州がそれ以前（莫折念生の乱の間）中央から離れていたことを示すので、北魏がこれより前から湟水流域を持っていた可能性は高い":"｜爾朱《じしゅ》｜天光《てんこう》が｜万俟醜奴《ばくきしゅうど》の残党（万俟道洛・王慶雲）を滅ぼすと、三秦・河・渭・瓜・涼・鄯州がみな降り、侯莫陳悦が鄯州｜刺史《しし》に任じられた。｜北魏《ほくぎ》の鄯州が確実に文献に現れる最初の年。ただしこれは州単位の記事で、楽都の城そのものの記事ではない。また『皆降』は鄯州がそれ以前（莫折念生の乱の間）中央から離れていたことを示すので、｜北魏《ほくぎ》がこれより前から湟水流域を持っていた可能性は高い","北魏の東西分裂で西魏。537年に念賢が『河涼瓜鄯渭洮沙七州』を都督し（周書）、538年から柳桧が都督として鄯州に鎮して吐谷渾と戦っている（周書）":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂で｜西魏《せいぎ》。537年に念賢が『河涼瓜鄯渭洮沙｜七州《しちしゅう》』を都督し（｜周書《しゅうしょ》）、538年から柳桧が都督として鄯州に鎮して｜吐谷渾《とよくこん》と戦っている（｜周書《しゅうしょ》）","西魏から北周へ。557年に吐谷渾が北周の涼・鄯・河三州を攻めたが攻城に至らず（帰属は変わらない）":"｜西魏《せいぎ》から｜北周《ほくしゅう》へ。557年に｜吐谷渾《とよくこん》が｜北周《ほくしゅう》の涼・鄯・河｜三州《さんしゅう》を攻めたが攻城に至らず（帰属は変わらない）","北周から隋へ（581年に隋の元諧が鄯州から青海へ出撃している）":"｜北周《ほくしゅう》から隋へ（581年に隋の元諧が鄯州から｜青海《せいかい》へ出撃している）","414年から続く（乞伏熾磐が楽都を落として南涼が滅び、禿髪赴単を西平太守として西平に鎮させる）":"414年から続く（乞伏熾磐が楽都を落として南涼が滅び、禿髪赴単を西平｜太守《たいしゅ》として西平に鎮させる）","西秦の援軍が着く前に沮渠蒙遜が西平を抜き、太守麹承を捕らえる（428年に一度西平を攻めて楽都へ転じたあと）":"｜西秦《せいしん》の援軍が着く前に｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》が西平を抜き、｜太守《たいしゅ》麹承を捕らえる（428年に一度西平を攻めて楽都へ転じたあと）","元嘉六年":"｜元嘉《げんか》六年","北涼の沮渠牧犍が姑臧で北魏に降り、北魏が将を分けて諸郡を従わせる":"｜北涼《ほくりょう》の｜沮渠《そきょ》｜牧犍《ぼくけん》が｜姑臧《こぞう》で｜北魏《ほくぎ》に降り、｜北魏《ほくぎ》が将を分けて諸郡を従わせる","北涼の君主が降ったので北涼の城としては残さない。ただし西平そのものの記事は無く、隣の楽都は太守の沮渠安周が吐谷渾へ逃げて北魏も引き上げているので、北魏の城とも言えない（持ち主なし）":"｜北涼《ほくりょう》の君主が降ったので｜北涼《ほくりょう》の城としては残さない。ただし西平そのものの記事は無く、隣の楽都は｜太守《たいしゅ》の沮渠安周が｜吐谷渾《とよくこん》へ逃げて｜北魏《ほくぎ》も引き上げているので、｜北魏《ほくぎ》の城とも言えない（持ち主なし）","爾朱天光の関隴平定で鄯州が北魏に降り、侯莫陳悦が鄯州刺史に任じられる。州単位の記事で、西平の城そのものの記事ではない（楽都と同じ扱い）":"｜爾朱《じしゅ》｜天光《てんこう》の｜関隴《かんろう》平定で鄯州が｜北魏《ほくぎ》に降り、侯莫陳悦が鄯州｜刺史《しし》に任じられる。州単位の記事で、西平の城そのものの記事ではない（楽都と同じ扱い）","北魏の東西分裂で西魏。大統年間（538〜548の間）に吐谷渾が西平を寇し、西魏の子直（周書〜の人物）が隴右に出て長寧川で吐谷渾を大破している＝西平は西魏の守る地":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂で｜西魏《せいぎ》。｜大統《だいとう》年間（538〜548の間）に｜吐谷渾《とよくこん》が西平を寇し、｜西魏《せいぎ》の子直（｜周書《しゅうしょ》〜の人物）が｜隴右《ろうゆう》に出て長寧川で｜吐谷渾《とよくこん》を大破している＝西平は｜西魏《せいぎ》の守る地","西魏から北周へ（557年に吐谷渾が北周の鄯州を攻める）":"｜西魏《せいぎ》から｜北周《ほくしゅう》へ（557年に｜吐谷渾《とよくこん》が｜北周《ほくしゅう》の鄯州を攻める）","409年から続く（乾帰が平涼から苑川へ逃げ帰り、秦王に復位して更始と改元（410年八月に再び苑川を都とする））":"409年から続く（乾帰が平涼から苑川へ逃げ帰り、｜秦王《しんおう》に復位して更始と｜改元《かいげん》（410年八月に再び苑川を都とする））","乞伏暮末が東へ去り、西秦の旧地は吐谷渾に入る（胡注は苑川から西平・枹罕までを乞伏氏の旧地とする）":"｜乞伏《きっぷく》｜暮末《ぼまつ》が東へ去り、｜西秦《せいしん》の旧地は｜吐谷渾《とよくこん》に入る（胡注は苑川から西平・｜枹罕《ふかん》までを乞伏氏の旧地とする）","推定。苑川そのものの記事は無い。445年八月、吐谷渾の什帰が枹罕を捨てて夜に遁れ、北魏の封敕文が枹罕に入って乙烏頭を留め守らせた（資治通鑑）。北魏は真君六年（445）に枹罕に鎮を置き、のち河州としてその下に金城郡（楡中県を領す）を置いた（魏書）。隣の金城・枹罕の既存データ（445年に北魏）に揃えた":"推定。苑川そのものの記事は無い。445年八月、｜吐谷渾《とよくこん》の什帰が｜枹罕《ふかん》を捨てて夜に遁れ、｜北魏《ほくぎ》の封敕文が｜枹罕《ふかん》に入って乙烏頭を留め守らせた（｜資治通鑑《しじつがん》）。｜北魏《ほくぎ》は真君六年（445）に｜枹罕《ふかん》に鎮を置き、のち河州としてその下に金城郡（楡中県を領す）を置いた（｜魏書《ぎしょ》）。隣の金城・｜枹罕《ふかん》の既存データ（445年に｜北魏《ほくぎ》）に揃えた","東晋→宋（劉裕の受禅）":"｜東晋《とうしん》→宋（｜劉裕《りゅうゆう》の｜受禅《じゅぜん》）","趙広らが涪城を攻め陥とし、程道養を蜀王に立てて弟程道助に涪城を鎮させる":"趙広らが涪城を攻め陥とし、程道養を｜蜀王《しょくおう》に立てて弟程道助に涪城を鎮させる","元嘉九年":"｜元嘉《げんか》九年","元嘉十年五月":"｜元嘉《げんか》十年五月","斉から梁へ。502年に益州刺史劉季連が叛いたが、涪令李膺は季連の召しに応じず、梁の鄧元起の側に付いた":"斉から梁へ。502年に｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》劉季連が叛いたが、涪令｜李《り》｜膺《よう》は季連の召しに応じず、梁の鄧元起の側に付いた","武陵王蕭紀":"｜武陵王《ぶりょうおう》｜蕭紀《しょうき》","台城陥落（549）後、益州の武陵王紀が自立。550年に湘東王繹が紀に『地は孫・劉に擬し、各々境界を安んぜよ』と書き送り、同年紀は潼州刺史楊乾運らを遣わして楊法琛を討っている（潼州＝涪城は紀の支配下）。552年に紀は皇帝を称す":"｜台城《たいじょう》陥落（549）後、｜益州《えきしゅう》の｜武陵王紀《ぶりょうおうき》が自立。550年に｜湘東王《しょうとうおう》繹が紀に『地は孫・劉に擬し、各々境界を安んぜよ』と書き送り、同年紀は｜潼州《どうしゅう》｜刺史《しし》｜楊《よう》｜乾運《けんうん》らを遣わして楊法琛を討っている（潼州＝涪城は紀の支配下）。552年に紀は皇帝を称す","承聖二年五月（周書は五月、通鑑は甲戌）":"｜承聖《しょうせい》二年五月（｜周書《しゅうしょ》は五月、｜通鑑《つがん》は｜甲戌《こうじゅつ》）","西魏の尉遅迥が涪水に至り、武陵王紀の潼州刺史楊乾運が州ごと降る。迥は兵を分けて守らせ成都へ進む":"｜西魏《せいぎ》の｜尉遅迥《うっちけい》が涪水に至り、｜武陵王紀《ぶりょうおうき》の｜潼州《どうしゅう》｜刺史《しし》｜楊《よう》｜乾運《けんうん》が州ごと降る。迥は兵を分けて守らせ｜成都《せいと》へ進む","開陽（琅邪）":"開陽（｜琅邪《ろうや》）","劉裕が即位（東晋→宋）":"｜劉裕《りゅうゆう》が即位（｜東晋《とうしん》→宋）","徐州刺史薛安都の北魏への内附に、宋の琅邪太守鄭演が賛同する":"｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》｜薛安都《せつあんと》の｜北魏《ほくぎ》への内附に、宋の｜琅邪《ろうや》｜太守《たいしゅ》鄭演が賛同する","鄭演は明帝の琅邪太守で、薛安都が彭城ごと北魏に降る謀に賛成した（魏書）。胡注も『宋泰始初，琅没魏』とする。466年十二月に尉元が彭城に入り、翌467年正月に宋の張永・沈攸之が大敗して淮北四州を失う":"鄭演は｜明帝《めいてい》の｜琅邪《ろうや》｜太守《たいしゅ》で、｜薛《せつ》｜安都《あんと》が｜彭城《ほうじょう》ごと｜北魏《ほくぎ》に降る謀に賛成した（｜魏書《ぎしょ》）。胡注も『宋｜泰始《たいし》初，琅没魏』とする。466年十二月に｜尉元《うつげん》が｜彭城《ほうじょう》に入り、翌467年正月に宋の張永・沈｜攸之《ゆうし》が大敗して淮北｜四州《ししゅう》を失う","梁の扫虜将軍彭宝孫が琅邪を抜く（続けて檀丘・東莞も取る）":"梁の扫虜将軍彭宝孫が｜琅邪《ろうや》を抜く（続けて檀丘・東莞も取る）","普通五年十月辛巳":"｜普通《ふつう》五年十月辛巳","推定。北魏が琅邪を取り返した記事は無い。525年六月、豫章王綜の投降で梁軍が彭城で潰え、北魏は『乗勝して梁兵を追撃し、諸城を復取して宿豫に至って還った』（資治通鑑）。527年には梁の彭群・王辯が北魏の琅邪を夏から秋まで囲んでいるので、遅くとも527年春までには北魏の手に戻っている":"推定。｜北魏《ほくぎ》が｜琅邪《ろうや》を取り返した記事は無い。525年六月、｜豫章王《よしょうおう》綜の投降で｜梁軍《りょうぐん》が｜彭城《ほうじょう》で潰え、｜北魏《ほくぎ》は『乗勝して｜梁《りょう》兵を追撃し、諸城を復取して｜宿豫《しゅくよ》に至って還った』（｜資治通鑑《しじつがん》）。527年には梁の彭群・王辯が｜北魏《ほくぎ》の｜琅邪《ろうや》を夏から秋まで囲んでいるので、遅くとも527年春までには｜北魏《ほくぎ》の手に戻っている","北魏の東西分裂。山東は東魏":"｜北魏《ほくぎ》の東西分裂。｜山東《さんとう》は｜東魏《とうぎ》","建徳六年":"｜建徳《けんとく》六年","北周の北斉併合。北斉の行台・州・鎮は東雍州・営州の2つを除きすべて北周に入る（琅邪個別の記事は無い）":"｜北周《ほくしゅう》の｜北斉《ほくせい》併合。｜北斉《ほくせい》の｜行台《こうだい》・州・鎮は東｜雍州《ようしゅう》・｜営州《えいしゅう》の2つを除きすべて｜北周《ほくしゅう》に入る（｜琅邪《ろうや》個別の記事は無い）","北魏の叔孫建らが河を渡り、宋の兗州刺史徐琰が尹卯を棄てて逃げる。泰山・高平・金郷などの郡がみな魏に没する":"｜北魏《ほくぎ》の叔孫建らが河を渡り、宋の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》徐琰が尹卯を棄てて逃げる。泰山・｜高平《こうへい》・金郷などの郡がみな魏に没する","永初三年十二月以後":"｜永初《えいしょ》三年十二月以後","北魏の叔孫建が東陽の囲みを解いて滑台へ去る":"｜北魏《ほくぎ》の叔孫建が東陽の囲みを解いて｜滑台《かつだい》へ去る","景平元年":"｜景平《けいへい》元年","泰山が宋に戻ったと名指す記事は無い。435年（元嘉十二年）に宋の泰山太守がいる（宋書「元嘉十二年，迁督鲁、东平、济北三郡军事、泰山太守」）ので、423〜434年のどこかで宋に戻っている。魏軍の撤退した423年に置いた":"泰山が宋に戻ったと名指す記事は無い。435年（｜元嘉《げんか》十二年）に宋の泰山｜太守《たいしゅ》がいる（｜宋書《そうじょ》「｜元嘉《げんか》十二年，迁督鲁、东平、济北三郡军事、泰山｜太守《たいしゅ》」）ので、423〜434年のどこかで宋に戻っている。｜魏《ぎ》軍の撤退した423年に置いた","泰始二年十一月":"｜泰始《たいし》二年十一月","推定。泰山郡個別の記事は無い。宋の兗州（治瑕丘）は畢衆敬が掌握して『州境みな附く。ただ東平太守申纂のみ無塩に拠って従わず』（資治通鑑）、十一月に北魏軍が瑕丘に至ると衆敬は北魏に降った。泰山は兗州の属郡なのでこの時北魏に入ったと推した。467年に北魏の慕容白曜は無塩・肥城・升城の抵抗拠点を攻めているが、泰山（奉高）の名は抵抗拠点に出ない":"推定。泰山郡個別の記事は無い。宋の｜兗州《えんしゅう》（治瑕丘）は畢衆敬が掌握して『州境みな附く。ただ東平｜太守《たいしゅ》申纂のみ無塩に拠って従わず』（｜資治通鑑《しじつがん》）、十一月に｜北魏《ほくぎ》軍が瑕丘に至ると衆敬は｜北魏《ほくぎ》に降った。泰山は｜兗州《えんしゅう》の属郡なのでこの時｜北魏《ほくぎ》に入ったと推した。467年に｜北魏《ほくぎ》の｜慕容《ぼよう》白曜は無塩・肥城・升城の抵抗拠点を攻めているが、泰山（奉高）の名は抵抗拠点に出ない","北周の北斉併合（泰山個別の記事は無い）":"｜北周《ほくしゅう》の｜北斉《ほくせい》併合（泰山個別の記事は無い）","晋安王子勛":"｜晋安王《しんあんおう》｜子勛《しくん》","楊氏":"｜楊氏《ようし》","沈攸之":"沈｜攸之《ゆうし》","南康王蕭宝融":"｜南康王《なんこうおう》｜蕭《しょう》｜宝融《ほうゆう》","懐荒鎮民の叛乱":"懐荒鎮民の｜叛乱《はんらん》","趙天安":"趙｜天安《てんあん》","蕭宝寅":"｜蕭《しょう》｜宝寅《ほういん》","岳陽王蕭詧":"岳陽王｜蕭詧《しょうさつ》","梁王蕭詧":"｜梁王《りょうおう》｜蕭詧《しょうさつ》","元帝":"｜元帝《げんてい》"}