{"準噶爾":"｜準噶爾《ジュンガル》","日本":"｜日本《にほん》","太平天国":"｜太平天国《たいへいてんごく》","中華民国":"｜中華民国《ちゅうかみんこく》","澎湖":"｜澎湖《ほうこ》","澎湖県":"｜澎湖《ほうこ》県","康熙二十二年に鄭氏が降り、台湾府に属す（明清交替の地図から引き継ぎ）":"｜康熙《こうき》二十二年に｜鄭氏《ていし》が降り、｜台湾《たいわん》府に属す（明清交替の地図から引き継ぎ）","日本軍が澎湖を陥れ、同月の下関条約で台湾・澎湖が日本へ割譲される":"日本軍が｜澎湖《ほうこ》を陥れ、同月の下関条約で｜台湾《たいわん》・｜澎湖《ほうこ》が｜日本《にほん》へ割譲される","鄭氏の承天府を改めて台湾府を置く（明清交替の地図から引き継ぎ）":"｜鄭氏《ていし》の承天府を改めて｜台湾《たいわん》府を置く（明清交替の地図から引き継ぎ）","下関条約で台湾が日本へ割譲される。府城は劉永福の抵抗の後、同年のうちに日本軍が入る":"下関条約で｜台湾《たいわん》が｜日本《にほん》へ割譲される。府城は｜劉永《りゅうえい》福の抵抗の後、同年のうちに日本軍が入る","台湾府諸羅県の北端とされたが、康熙年間は半線以北に官が無く番社に委ねられていた":"｜台湾《たいわん》府諸羅県の北端とされたが、｜康熙《こうき》年間は半線以北に官が無く番社に委ねられていた","天津で中仏新約が成った後、基隆の仏兵が退く。1884年は六月に一度陥ちて劉銘伝が取り返し、八月に再び陥ちた":"｜天津《てんしん》で中仏新約が成った後、基隆の仏兵が退く。1884年は六月に一度陥ちて劉銘伝が取り返し、八月に再び陥ちた","下関条約で台湾が日本へ割譲される":"下関条約で｜台湾《たいわん》が｜日本《にほん》へ割譲される","諸羅県の北路とされたが、康熙年間は官の巡防が半線あたりで止まり、県は置かれていない":"諸羅県の北路とされたが、｜康熙《こうき》年間は官の巡防が半線あたりで止まり、県は置かれていない","乾隆五十一年十二月":"｜乾隆《けんりゅう》五十一年十二月","乾隆五十二年正月":"｜乾隆《けんりゅう》五十二年正月","同治元年四月":"｜同治《どうち》元年四月","官軍が彰化を回復し、台湾の南北両路が平定される":"官軍が彰化を回復し、｜台湾《たいわん》の南北両路が平定される","同治二年十二月":"｜同治《どうち》二年十二月","諸羅県の北路とされたが、康熙年間は官が置かれず番社に委ねられていた":"諸羅県の北路とされたが、｜康熙《こうき》年間は官が置かれず番社に委ねられていた","清の版図の外の番社の地。嘉慶初めから呉沙らの漢人が入植していた":"清の版図の外の番社の地。｜嘉慶《かけい》初めから呉沙らの漢人が入植していた","閩浙総督方維甸の奏により噶瑪蘭を版図に収め、通判を置くことを議定する（噶瑪蘭庁の設置は嘉慶十七年）":"閩浙総督方維甸の奏により噶瑪蘭を版図に収め、通判を置くことを議定する（噶瑪蘭庁の設置は｜嘉慶《かけい》十七年）","嘉慶十五年":"｜嘉慶《かけい》十五年","沈葆楨の奏により台湾府同知（南路撫民同知）を卑南に移駐させる":"沈葆楨の奏により｜台湾《たいわん》府同知（南路撫民同知）を卑南に移駐させる","広州府新安県の属島（明清交替の地図から引き継ぎ）":"｜広州《こうしゅう》府｜新安《しんあん》県の属島（明清交替の地図から引き継ぎ）","琦善が香港を英に許したとして、義律が香港を英領と布告し占領する。翌道光二十二年の南京条約で割譲":"｜琦善《きぜん》が香港を英に許したとして、義律が香港を英領と布告し占領する。翌｜道光《どうこう》二十二年の｜南京《なんきん》条約で割譲","道光二十一年正月":"｜道光《どうこう》二十一年正月","広州府新安県の地（明清交替の地図から引き継ぎ）":"｜広州《こうしゅう》府｜新安《しんあん》県の地（明清交替の地図から引き継ぎ）","道光二十九年":"｜道光《どうこう》二十九年","曹州の教案を口実にドイツ艦隊が膠州湾に入り、守将章高元を砲台から退かせて占領する":"｜曹州《そうしゅう》の教案を口実にドイツ艦隊が膠州湾に入り、守将章高元を砲台から退かせて占領する","光绪二十三年十月":"光绪｜二十三《にじゅうさん》年十月","三国干渉で日本が遼南の地を返す（遼南条約で返還金の支払い後3か月以内に撤兵）":"｜三国《さんごく》干渉で｜日本《にほん》が遼南の地を返す（遼南条約で返還金の支払い後3か月以内に撤兵）","日露戦争に日本が勝ち、旅順・大連の租借権が日本へ移る（関東州）":"日露戦争に｜日本《にほん》が勝ち、旅順・大連の租借権が｜日本《にほん》へ移る（｜関東《かんとう》州）","大連（青泥窪）":"大連（｜青泥《せいでい》窪）","三国干渉で日本が遼南の地を返す":"｜三国《さんごく》干渉で｜日本《にほん》が遼南の地を返す","日露戦争の後、租借権が日本へ移る":"日露戦争の後、租借権が｜日本《にほん》へ移る","広州湾":"｜広州《こうしゅう》湾","雷州で仏人が殺されたことを口実に、フランスの兵艦が広州湾を占拠し租借を求める":"雷州で仏人が殺されたことを口実に、フランスの兵艦が｜広州《こうしゅう》湾を占拠し租借を求める","ネルチンスク条約で外興安嶺の南は中国に属すると定まり、雅克薩城を壊してロシア人を去らせた。以後清の官は常駐しない":"ネルチンスク条約で外｜興安《こうあん》嶺の南は｜中国《ちゅうごく》に属すると定まり、雅克薩城を壊してロシア人を去らせた。以後清の官は常駐しない","康熙二十八年十二月":"｜康熙《こうき》二十八年十二月","咸豊八年四月":"｜咸豊《かんぽう》八年四月","崇徳中からロシア人が占拠して城を築いていた。康熙二十八年の定界でもロシアに属したまま（地理志は「捐以畀俄」と書く）":"｜崇徳《すうとく》中からロシア人が占拠して城を築いていた。｜康熙《こうき》二十八年の定界でもロシアに属したまま（地理志は「捐以畀俄」と書く）","黒龍江左岸の地。康熙二十二年の愛渾城（将軍の駐所）は江の東岸にあった。1689年のネルチンスク条約でも外興安嶺の南として中国に属した":"黒龍江左岸の地。｜康熙《こうき》二十二年の愛渾城（将軍の駐所）は江の東岸にあった。1689年のネルチンスク条約でも外｜興安《こうあん》嶺の南として｜中国《ちゅうごく》に属した","咸豊七年闰五月":"｜咸豊《かんぽう》七年闰五月","費雅喀・赫哲などが貂を貢納する地で、清の官は常駐しない。1689年のネルチンスク条約でも外興安嶺の南として中国に属した":"費雅喀・赫哲などが貂を貢納する地で、清の官は常駐しない。1689年のネルチンスク条約でも外｜興安《こうあん》嶺の南として｜中国《ちゅうごく》に属した","瑷琿条約で黒龍江・松花江の左岸から海口までがロシア領になった":"瑷琿条約で黒龍江・松花江の左岸から｜海口《かいこう》までがロシア領になった","赫哲の居地で、清の官は常駐しない（三姓副都統の管下で貢納）":"赫哲の居地で、清の官は常駐しない（三姓副｜都統《ととう》の管下で貢納）","咸豊九年九月":"｜咸豊《かんぽう》九年九月","咸豊十年十月":"｜咸豊《かんぽう》十年十月","熱河（承徳）":"｜熱河《ねっか》（承徳）","熱河":"｜熱河《ねっか》","喀喇沁・翁牛特などの内札薩克の地で、天聡年間から清に帰している。明清交替の地図から引き継ぎ。宣統三年も熱河都統が置かれている":"喀喇沁・翁牛特などの内札薩克の地で、天聡年間から清に帰している。明清交替の地図から引き継ぎ。｜宣統《せんとう》三年も｜熱河《ねっか》｜都統《ととう》が置かれている","察哈爾の地で清の版図。明清交替の地図から引き継ぎ。康熙三十年にここでハルハの会盟が開かれた":"察哈爾の地で清の版図。明清交替の地図から引き継ぎ。｜康熙《こうき》三十年にここでハルハの会盟が開かれた","諸部は天聡・崇徳年間に清に帰した。明清交替の地図から引き継ぎ。康熙二十九年に噶爾丹が烏珠穆沁へ入ったが、同年に烏蘭布通で敗れて去ったので帰属は変えない":"諸部は天聡・｜崇徳《すうとく》年間に清に帰した。明清交替の地図から引き継ぎ。｜康熙《こうき》二十九年に｜噶爾丹《ガルダン》が烏珠穆沁へ入ったが、同年に烏蘭布通で敗れて去ったので帰属は変えない","鄂爾多斯は天聡九年に帰し、順治六年に札薩克を授けられた。明清交替の地図から引き継ぎ":"鄂爾多斯は天聡九年に帰し、｜順治《じゅんち》六年に札薩克を授けられた。明清交替の地図から引き継ぎ","康熙十六年に噶爾丹に敗れたオチルト汗の遺衆が寧夏・甘州の辺外を流浪し、清から敕印を求めている段階。清の牧地はまだ定まっていない":"｜康熙《こうき》十六年に｜噶爾丹《ガルダン》に敗れたオチルト汗の遺衆が｜寧夏《ねいか》・｜甘州《かんしゅう》の辺外を流浪し、清から敕印を求めている段階。清の牧地はまだ定まっていない","清が寧夏・甘州の辺外に牧地を画定して和囉理らに与えた（旗の編成はまだ）":"清が｜寧夏《ねいか》・｜甘州《かんしゅう》の辺外に牧地を画定して和囉理らに与えた（旗の編成はまだ）","康熙二十五年":"｜康熙《こうき》二十五年","噶爾丹が額爾徳尼招を侵し、哲布尊丹巴と土謝図汗が逃れる":"｜噶爾丹《ガルダン》が額爾徳尼招を侵し、哲布尊丹巴と土謝図汗が逃れる","康熙二十七年":"｜康熙《こうき》二十七年","噶爾丹がハルハを攻め破り、ハルハは清の卡倫の内側へ逃れた。噶爾丹がその地を併せた（地理志は康熙二十八年とするが本紀は二十七年六月）。官を置いた支配ではなく軍の制圧":"｜噶爾丹《ガルダン》がハルハを攻め破り、ハルハは清の卡倫の内側へ逃れた。｜噶爾丹《ガルダン》がその地を併せた（地理志は｜康熙《こうき》二十八年とするが｜本紀《ほんぎ》は二十七年六月）。官を置いた支配ではなく軍の制圧","康熙三十年五月":"｜康熙《こうき》三十年五月","ドロン・ノールの会盟でハルハ全部が内附し、内蒙古四十九旗と同じく扎薩克を編設した年を採る。ただしハルハの民はまだ辺内に寄寓しており、旧牧地へ戻るのは康熙三十六年なので名目上の帰属とする":"ドロン・ノールの会盟でハルハ全部が内附し、内｜蒙古《もうこ》四十九旗と同じく扎薩克を編設した年を採る。ただしハルハの民はまだ辺内に寄寓しており、旧牧地へ戻るのは｜康熙《こうき》三十六年なので名目上の帰属とする","杭達多爾済らが哲布尊丹巴を擁して帝号を称し、建元して国を立て、庫倫辦事大臣三多が去った":"杭達多爾済らが哲布尊丹巴を擁して｜帝号《ていごう》を称し、｜建元《けんげん》して国を立て、庫倫辦事大臣三多が去った","宣統三年十月":"｜宣統《せんとう》三年十月","乾隆二十七年から清の庫倫辦事大臣が駐していた。車臣汗部の伝は称号を十一月とする":"｜乾隆《けんりゅう》二十七年から清の庫倫辦事大臣が駐していた。車臣汗部の伝は称号を十一月とする","噶爾丹のハルハ侵攻で土謝図汗部が潰え、辺内へ逃れる":"｜噶爾丹《ガルダン》のハルハ侵攻で土謝図汗部が潰え、辺内へ逃れる","宣統三年":"｜宣統《せんとう》三年","雍正五年に恰克図がロシアとの互市の地と定められ、庫倫辦事大臣が統べていた。買売城そのものの失陥の月日は清史稿に記事がない":"｜雍正《ようせい》五年に恰克図がロシアとの互市の地と定められ、庫倫辦事大臣が統べていた。買売城そのものの失陥の月日は｜清史稿《しんしこう》に記事がない","噶爾丹が額爾徳尼招を侵す":"｜噶爾丹《ガルダン》が額爾徳尼招を侵す","庫倫の独立にハルハ四部の王公が従い、清の地でなくなった":"庫倫の独立にハルハ四部の｜王公《おうこう》が従い、清の地でなくなった","噶爾丹が克魯倫河まで掠め、車臣汗部の十万余戸が来帰":"｜噶爾丹《ガルダン》が克魯倫河まで掠め、車臣汗部の十万余戸が｜来帰《らいき》","哲布尊丹巴が庫倫で帝号を称し、車臣汗部の王公・札薩克を従わせた":"哲布尊丹巴が庫倫で｜帝号《ていごう》を称し、車臣汗部の｜王公《おうこう》・札薩克を従わせた","宣統三年十一月":"｜宣統《せんとう》三年十一月","噶爾丹が三万の兵で杭愛山まで掠め、札薩克図汗部が大いに潰える":"｜噶爾丹《ガルダン》が三万の兵で杭愛山まで掠め、札薩克図汗部が大いに潰える","庫倫の独立に賽音諾顔部などの王公が従い、烏里雅蘇台将軍奎芳が去った":"庫倫の独立に賽音諾顔部などの｜王公《おうこう》が従い、烏里雅蘇台将軍奎芳が去った","雍正十一年に平郡王福彭の大軍が駐し、雍正中に城を築いてから定辺左副将軍の駐所だった":"｜雍正《ようせい》十一年に平郡王福彭の大軍が駐し、｜雍正《ようせい》中に城を築いてから定辺左副将軍の駐所だった","噶爾丹の一族が阿爾台の科布多に聚牧していた。厄魯特とハルハが入り交じって住む地でもあった":"｜噶爾丹《ガルダン》の一族が阿爾台の科布多に聚牧していた。厄魯特とハルハが入り交じって住む地でもあった","噶爾丹が死に、ハルハの西境が阿爾台まで及んだ":"｜噶爾丹《ガルダン》が死に、ハルハの西境が阿爾台まで及んだ","康熙三十六年闰三月":"｜康熙《こうき》三十六年闰三月","烏蘭布通の敗戦の後、噶爾丹は科布多へ移っていた。その死後は阿爾台以東がハルハ（清）の地とされたが、科布多に清の官はまだいない":"烏蘭布通の敗戦の後、｜噶爾丹《ガルダン》は科布多へ移っていた。その死後は阿爾台以東がハルハ（清）の地とされたが、科布多に清の官はまだいない","噶爾丹の侵攻でハルハが潰え、博貝は清に来帰した。烏梁海の頭目はハルハにも清にも属さず吹河に住んでいた":"｜噶爾丹《ガルダン》の侵攻でハルハが潰え、博貝は清に｜来帰《らいき》した。烏梁海の頭目はハルハにも清にも属さず吹河に住んでいた","博貝が烏梁海を招撫し、頭目和羅爾邁が部衆を率いて降った。以後、清の札薩克博貝が烏梁海を管轄":"博貝が烏梁海を｜招撫《しょうぶ》し、頭目和羅爾邁が部衆を率いて降った。以後、清の札薩克博貝が烏梁海を管轄","康熙五十四年九月":"｜康熙《こうき》五十四年九月","雍正四年に策妄阿喇布坦が克木克木斉克は準噶爾の旧属だとして返還を求めたが、清は許さなかった。のち定辺左副将軍の管下":"｜雍正《ようせい》四年に策妄阿喇布坦が克木克木斉克は｜準噶爾《ジュンガル》の旧属だとして返還を求めたが、清は許さなかった。のち定辺左副将軍の管下","日本軍が金州を陥れ、副都統連順は城を棄てて逃れる":"日本軍が金州を陥れ、副｜都統《ととう》連順は城を棄てて逃れる","義和団事件の戦役でロシア軍が金州を取り、副都統を拘留":"｜義和団《ぎわだん》事件の戦役でロシア軍が金州を取り、副｜都統《ととう》を拘留","以後、金州副都統は城に戻れず省城（承德）に寄治した":"以後、金州副｜都統《ととう》は城に戻れず省城（承德）に寄治した","日露講和を受けた満洲善後条約で、ロシアの旅大租借の権利が日本に移る":"日露講和を受けた満洲善後条約で、ロシアの旅大租借の権利が｜日本《にほん》に移る","察罕托羅海（青海湖）":"｜察罕《チャガン》托羅海（｜青海《せいかい》湖）","察罕托羅海":"｜察罕《チャガン》托羅海","青海湖の東岸":"｜青海《せいかい》湖の東岸","顧実汗の子孫の青海ホシュートが遊牧し、清へは貢を修めるだけで臣属していない（原文「青海向虽修贡，未隶臣属」）":"顧実汗の子孫の｜青海《せいかい》ホシュートが遊牧し、清へは貢を修めるだけで臣属していない（原文「｜青海《せいかい》向虽修贡，未隶臣属」）","顧実汗の子達什巴図爾が青海の諸台吉を率いて入覲し、部を挙げて帰順。翌年正月に和碩親王に封じられた":"顧実汗の子達什巴図爾が｜青海《せいかい》の諸台吉を率いて入覲し、部を挙げて帰順。翌年正月に和碩親王に封じられた","康熙三十六年十一月":"｜康熙《こうき》三十六年十一月","入覲して帰順した年を採る（地理志は「康熙三十七年，悉众内附」と翌年に書く）。この時点では青海に清の官は置かれておらず、爵位を授けただけなので名目上の帰属":"入覲して帰順した年を採る（地理志は「｜康熙《こうき》三十七年，悉众内附」と翌年に書く）。この時点では｜青海《せいかい》に清の官は置かれておらず、爵位を授けただけなので名目上の帰属","羅卜藏丹津が察罕托羅海に諸台吉を盟させ、清の爵号を捨てさせて自ら達頼琿台吉と号し、清の使臣常寿を拘留して叛く":"羅卜藏丹津が｜察罕《チャガン》托羅海に諸台吉を盟させ、清の｜爵号《しゃくごう》を捨てさせて自ら達頼琿台吉と号し、清の使臣常寿を拘留して叛く","雍正元年":"｜雍正《ようせい》元年","岳鍾琪の軍が羅卜藏丹津の本拠を衝き、羅卜藏丹津はジュンガルへ逃れて青海平定":"岳鍾琪の軍が羅卜藏丹津の本拠を衝き、羅卜藏丹津はジュンガルへ逃れて｜青海《せいかい》平定","雍正二年三月":"｜雍正《ようせい》二年三月","翌雍正三年（1725年）に青海の諸部を二十九旗の扎薩克に編成し、西寧辦事大臣に統べさせた。これ以後は名目ではなく清の版図":"翌｜雍正《ようせい》三年（1725年）に｜青海《せいかい》の諸部を二十九旗の扎薩克に編成し、西寧辦事大臣に統べさせた。これ以後は名目ではなく清の版図","顧実汗以来、青海ホシュートがカム（巴爾喀木）から賦を取っていた（雍正二年の善後の議に「以青海地广可牧畜，巴尔喀木粮富，令子孙游牧青海，而巴尔喀木纳其赋」）。玉樹の諸族もその支配下に置いた":"顧実汗以来、｜青海《せいかい》ホシュートがカム（巴爾喀木）から賦を取っていた（｜雍正《ようせい》二年の善後の議に「以｜青海《せいかい》地广可牧畜，巴尔喀木粮富，令子孙游牧｜青海《せいかい》，而巴尔喀木纳其赋」）。玉樹の諸族もその支配下に置いた","主の青海ホシュートが清に帰順（名目上の帰属）":"主の｜青海《せいかい》ホシュートが清に帰順（名目上の帰属）","康定市":"｜康定《こうてい》市","康熙初めに明正土司が帰順して清の土司となった。ただし茶の交易のためチベットの営官が打箭炉に駐していた（唐希順伝「许西藏营官在打箭炉管理土伯特贸易事」）":"｜康熙《こうき》初めに明正土司が帰順して清の土司となった。ただし茶の交易のためチベットの営官が打箭炉に駐していた（唐希順伝「许西藏营官在打箭炉管理土伯特贸易事」）","康熙三十九年十一月":"｜康熙《こうき》三十九年十一月","康熙四十年二月":"｜康熙《こうき》四十年二月","ダライ・ラマ政権（第巴・ラサン汗）の営官が治める地。康熙五十六〜五十八年にはラサを奪ったジュンガルに営官が靡いた（原文「贼复诱里塘营官喇嘛归藏，於是巴塘、察木多、乍雅、巴尔喀木皆为所摇惑矣」）が、ジュンガルの兵は来ていない":"ダライ・ラマ政権（第巴・ラサン汗）の営官が治める地。｜康熙《こうき》五十六〜五十八年にはラサを奪ったジュンガルに営官が靡いた（原文「贼复诱里塘营官喇嘛归藏，於是巴塘、察木多、乍雅、巴尔喀木皆为所摇惑矣」）が、ジュンガルの兵は来ていない","都統法喇の軍が進み、副将岳鍾琪が里塘・巴塘を招撫して帰順させる":"｜都統《ととう》法喇の軍が進み、副将岳鍾琪が里塘・巴塘を｜招撫《しょうぶ》して帰順させる","康熙五十八年六月":"｜康熙《こうき》五十八年六月","雍正五年（1727年）に巴塘とともに四川へ隷し宣撫司を置いた。光緒三十一年の郷城の乱でも里塘の町は失っていない。宣統三年の歳末まで清":"｜雍正《ようせい》五年（1727年）に巴塘とともに｜四川《しせん》へ隷し宣撫司を置いた。｜光緒《こうしょ》三十一年の郷城の乱でも里塘の町は失っていない。｜宣統《せんとう》三年の歳末まで清","岳鍾琪が里塘・巴塘を招撫し、法喇が巴塘に進駐する":"岳鍾琪が里塘・巴塘を｜招撫《しょうぶ》し、法喇が巴塘に進駐する","光緒三十一年三月に巴塘の番衆が駐蔵帮辦大臣鳳全を殺したが、同年六月に馬維騏が巴塘を回復しており、歳末の持ち主は変わらない。宣統三年の歳末まで清":"｜光緒《こうしょ》三十一年三月に巴塘の番衆が駐蔵帮辦大臣鳳全を殺したが、同年六月に馬維騏が巴塘を回復しており、歳末の持ち主は変わらない。｜宣統《せんとう》三年の歳末まで清","康熙五十八年":"｜康熙《こうき》五十八年","雍正元年（1723年）にラサの駐防兵を撤して察木多に戍兵を置いた。宣統元年（1909年）に辺務大臣の管下へ移した。宣統元年の鍾穎の川軍が一時察木多で囲まれたが失っていない。宣統三年の歳末まで清":"｜雍正《ようせい》元年（1723年）にラサの駐防兵を撤して察木多に戍兵を置いた。｜宣統《せんとう》元年（1909年）に辺務大臣の管下へ移した。｜宣統《せんとう》元年の鍾穎の川軍が一時察木多で囲まれたが失っていない。｜宣統《せんとう》三年の歳末まで清","康熙五十六年":"｜康熙《こうき》五十六年","康熙五十九年八月":"｜康熙《こうき》五十九年八月","宣統二年（1910年）にも拉里の僧俗が駐蔵大臣聯豫に投誠しているが、その前もダライ・ラマ政権の下の地として清":"｜宣統《せんとう》二年（1910年）にも拉里の僧俗が駐蔵大臣聯豫に投誠しているが、その前もダライ・ラマ政権の下の地として清","ジュンガルの策凌敦多布の軍が達木に至り、ラサを奪う。翌年、救援の西安将軍額倫特が喀喇烏蘇で敗死":"ジュンガルの策凌敦多布の軍が達木に至り、ラサを奪う。翌年、救援の｜西安《せいあん》将軍額倫特が喀喇烏蘇で敗死","平逆将軍延信の軍が青海から進み、卜克河・綽馬喇でジュンガル軍を破り、策凌敦多布は逃れる":"平逆将軍延信の軍が｜青海《せいかい》から進み、卜克河・綽馬喇でジュンガル軍を破り、策凌敦多布は逃れる","乾隆十五年（1750年）の珠爾黙特那木扎勒の変の後、達木の番衆を駐蔵大臣の直轄とした。宣統二年（1910年）に聯豫が哈拉烏蘇に委員を置いた":"｜乾隆《けんりゅう》十五年（1750年）の珠爾黙特那木扎勒の変の後、達木の番衆を駐蔵大臣の直轄とした。｜宣統《せんとう》二年（1910年）に聯豫が哈拉烏蘇に委員を置いた","第巴桑結がダライ・ラマの名で治め、康熙四十四年からはラサン汗が治める。清は爵号を与え（康熙四十八年に侍郎赫寿を遣わして藏務を協理させたが常置ではない）、清の外の政権として扱う":"第巴桑結がダライ・ラマの名で治め、｜康熙《こうき》四十四年からはラサン汗が治める。清は｜爵号《しゃくごう》を与え（｜康熙《こうき》四十八年に侍郎赫寿を遣わして藏務を協理させたが常置ではない）、清の外の政権として扱う","定西将軍噶爾弼がラサを取り、九月に延信がダライ・ラマを送って布達拉で坐床させる。蒙古・川・滇の兵を留めて戍らせる":"定西将軍噶爾弼がラサを取り、九月に延信がダライ・ラマを送って布達拉で坐床させる。｜蒙古《もうこ》・川・滇の兵を留めて戍らせる","雍正元年（1723年）に駐防兵を撤したが、清が封じた貝子・噶卜倫が治めた。雍正五年（1727年）に阿爾布巴らが康済鼐を殺したが、翌年頗羅鼐が平定し、正副の駐蔵大臣を常駐させた。乾隆十五年（1750年）十月の珠爾黙特那木扎勒の変（駐蔵大臣傅清・拉布敦の遇害）も年内に収まった。光緒三十年（1904年）七月に英軍がラサに入り達頼は逃れたが、九月に英軍は退き駐蔵大臣は残った。宣統二年（1910年）正月に川軍がラサに入り達頼はインドへ逃れた":"｜雍正《ようせい》元年（1723年）に駐防兵を撤したが、清が封じた貝子・噶卜倫が治めた。｜雍正《ようせい》五年（1727年）に阿爾布巴らが康済鼐を殺したが、翌年頗羅鼐が平定し、正副の駐蔵大臣を常駐させた。｜乾隆《けんりゅう》十五年（1750年）十月の珠爾黙特那木扎勒の変（駐蔵大臣傅清・拉布敦の遇害）も年内に収まった。｜光緒《こうしょ》三十年（1904年）七月に英軍がラサに入り達頼は逃れたが、九月に英軍は退き駐蔵大臣は残った。｜宣統《せんとう》二年（1910年）正月に川軍がラサに入り達頼はインドへ逃れた","康熙五十九年":"｜康熙《こうき》五十九年","乾隆十五年（1750年）に後藏にも大臣を置いて鎮守させ、江孜に守備・汛を置いた。光緒三十年（1904年）に英軍が江孜を攻め落としたが、ラサの条約の後英軍は退き（英の商務官と護衛だけが残った）、清の官は残った。宣統三年の歳末まで清":"｜乾隆《けんりゅう》十五年（1750年）に後藏にも大臣を置いて鎮守させ、江孜に守備・汛を置いた。｜光緒《こうしょ》三十年（1904年）に英軍が江孜を攻め落としたが、ラサの条約の後英軍は退き（英の商務官と護衛だけが残った）、清の官は残った。｜宣統《せんとう》三年の歳末まで清","乾隆五十六年（1791年）八月〜九月にグルカ（廓爾喀）が札什倫布を掠めたが、都司徐南騰が官寨を守り、グルカは財物を奪ってすぐに去った（本紀「廓尔喀入扎什伦布，寻遁去」）ので持ち主は変えない。宣統三年の歳末まで清":"｜乾隆《けんりゅう》五十六年（1791年）八月〜九月にグルカ（廓爾喀）が札什倫布を掠めたが、都司徐南騰が官寨を守り、グルカは財物を奪ってすぐに去った（｜本紀《ほんぎ》「廓尔喀入扎什伦布，寻遁去」）ので持ち主は変えない。｜宣統《せんとう》三年の歳末まで清","ダライ・ラマ政権（ラサン汗）の地。康熙五十六年にジュンガル軍は阿里を通ってチベットに入ったが、阿里の第巴康済鼐はジュンガルに従わず、その退路を断った":"ダライ・ラマ政権（ラサン汗）の地。｜康熙《こうき》五十六年にジュンガル軍は阿里を通ってチベットに入ったが、阿里の第巴康済鼐はジュンガルに従わず、その退路を断った","その後は頗羅鼐の長子珠爾黙特策布登が清の扎薩克一等台吉・鎮国公として阿里を守った。道光二十一年（1841年）にラダック（森巴）が噶爾など阿里の営寨を奪ったが、駐蔵大臣の遣わした兵が攻め返し、ラダックは占めた営寨を返して降った。宣統三年の歳末まで清":"その後は頗羅鼐の長子珠爾黙特策布登が清の扎薩克一等台吉・｜鎮国公《ちんこくこう》として阿里を守った。｜道光《どうこう》二十一年（1841年）にラダック（森巴）が噶爾など阿里の営寨を奪ったが、駐蔵大臣の遣わした兵が攻め返し、ラダックは占めた営寨を返して降った。｜宣統《せんとう》三年の歳末まで清","準噶爾の北部の遊牧地（塔爾巴哈台と同じく準噶爾に属した）":"｜準噶爾《ジュンガル》の北部の遊牧地（塔爾巴哈台と同じく｜準噶爾《ジュンガル》に属した）","乾隆二十二年":"｜乾隆《けんりゅう》二十二年","同治三年九月":"｜同治《どうち》三年九月","咸豊十年の北京条約で西の界を斎桑淖爾まで引くと定め、同治二年にはロシアが兵を斎桑淖爾へ送り耕作・家屋を建てていた":"｜咸豊《かんぽう》十年の北京条約で西の界を斎桑淖爾まで引くと定め、｜同治《どうち》二年にはロシアが兵を斎桑淖爾へ送り耕作・家屋を建てていた","東布魯特は準噶爾に圧迫されて安集延へ西遷していた":"東布魯特は｜準噶爾《ジュンガル》に圧迫されて安集延へ西遷していた","兆恵らの招撫で東布魯特が内附を乞う":"兆恵らの｜招撫《しょうぶ》で東布魯特が内附を乞う","乾隆二十三年六月":"｜乾隆《けんりゅう》｜二十三《にじゅうさん》年六月","遊牧部の帰順で清の官は置かれていない（貢道は回部経由）":"遊牧部の帰順で清の官は置かれていない（貢道は｜回部《かいぶ》経由）","勘分西北界約記で伊犁の西の界が特穆爾図淖爾まで引かれ、湖の地がロシア側となる":"勘分西北界約記で｜伊犁《イリ》の西の界が特穆爾図淖爾まで引かれ、湖の地がロシア側となる","籓部伝は伊犁に接する東布魯特五部がすでにロシアに投附したと記す":"籓部伝は｜伊犁《イリ》に接する東布魯特｜五部《ごぶ》がすでにロシアに投附したと記す","伊犁河の下流の遊牧地。準噶爾の領域と見た（原文に地名なし）":"｜伊犁《イリ》河の下流の遊牧地。｜準噶爾《ジュンガル》の領域と見た（原文に地名なし）","準部平定（伊犁の卡倫の外の地）":"準部平定（｜伊犁《イリ》の卡倫の外の地）","勘分西北界約記で伊犁の西の諸卡倫を界とし、その外がロシア領となる":"勘分西北界約記で｜伊犁《イリ》の西の諸卡倫を界とし、その外がロシア領となる","同治元年にはロシアが伊犁属の瑪呢図一帯に卡倫を私設し、哈薩克・布魯特を属国と称していた":"｜同治《どうち》元年にはロシアが｜伊犁《イリ》属の瑪呢図一帯に卡倫を私設し、哈薩克・布魯特を属国と称していた","武昌":"｜武昌《ぶしょう》","太平天国軍が武昌を陥れ、巡撫常大淳が死ぬ。年末は太平天国軍が城内にいた":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が｜武昌《ぶしょう》を陥れ、巡撫常大淳が死ぬ。年末は｜太平天国《たいへいてんごく》軍が城内にいた","咸豊二年十二月":"｜咸豊《かんぽう》二年十二月","太平天国軍が城を棄てて東下し、向栄が回復を奏する":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が城を棄てて東下し、向栄が回復を奏する","咸豊三年正月":"｜咸豊《かんぽう》三年正月","太平天国軍が武昌を三たび陥れ、巡撫陶恩培が死ぬ":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が｜武昌《ぶしょう》を三たび陥れ、巡撫陶恩培が死ぬ","咸豊五年三月":"｜咸豊《かんぽう》五年三月","胡林翼が武昌、官文が漢陽を回復":"胡林翼が｜武昌《ぶしょう》、官文が｜漢陽《かんよう》を回復","咸豊六年十一月":"｜咸豊《かんぽう》六年十一月","1861年に陳玉成・李秀成の軍が湖北に入ったが、武昌の省城は落ちていない":"1861年に陳玉成・李秀成の軍が｜湖北《こほく》に入ったが、｜武昌《ぶしょう》の省城は落ちていない","武昌の新軍が蜂起し総督瑞澂が城を捨てる。黎元洪を都督に推して軍政府を置く":"｜武昌《ぶしょう》の新軍が蜂起し総督瑞澂が城を捨てる。黎元洪を都督に推して軍政府を置く","宣統三年八月十九日":"｜宣統《せんとう》三年八月十九日","湖北軍政府、本紀は乙卯（八月二十一日）の条に書く（奏報の日）。列伝の劉锡祺伝は八月十九日。対岸の漢口は九月初六日、漢陽は十月初七日に清軍が奪回したが、武昌は退位まで革命軍が保った":"｜湖北《こほく》軍政府、｜本紀《ほんぎ》は乙卯（八月二十一日）の条に書く（｜奏報《そうほう》の日）。｜列伝《れつでん》の劉锡祺伝は八月十九日。対岸の漢口は九月初六日、｜漢陽《かんよう》は十月初七日に清軍が奪回したが、｜武昌《ぶしょう》は退位まで革命軍が保った","黄州":"｜黄州《こうしゅう》","太平天国の西征軍が黄州を陥れる。翌年正月、総督呉文鎔が黄州を攻めて敗死するまで保持":"｜太平天国《たいへいてんごく》の西征軍が｜黄州《こうしゅう》を陥れる。翌年正月、総督呉文鎔が｜黄州《こうしゅう》を攻めて敗死するまで保持","咸豊三年十月":"｜咸豊《かんぽう》三年十月","湖北の官軍が黄州を回復":"｜湖北《こほく》の官軍が｜黄州《こうしゅう》を回復","咸豊四年九月":"｜咸豊《かんぽう》四年九月","太平天国軍が小池口から長江に沿って黄州・蘄州を陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が小池口から｜長江《ちょうこう》に沿って｜黄州《こうしゅう》・蘄州を陥れる","咸豊五年正月":"｜咸豊《かんぽう》五年正月","湖北の官軍が武昌県・黄州府城を回復":"｜湖北《こほく》の官軍が｜武昌《ぶしょう》県・｜黄州《こうしゅう》府城を回復","咸豊六年十二月":"｜咸豊《かんぽう》六年十二月","1861年2月に陳玉成が黄州を襲って陥れたが、同年8〜9月に回復したので歳末は清":"1861年2月に陳玉成が｜黄州《こうしゅう》を襲って陥れたが、同年8〜9月に回復したので歳末は清","黄州が革命軍の手に落ちる（九月初三日の電旨に「先後不保」）":"｜黄州《こうしゅう》が革命軍の手に落ちる（九月初三日の電旨に「先後不保」）","宣統三年九月初三日以前":"｜宣統《せんとう》三年九月初三日以前","湖北軍政府":"｜湖北《こほく》軍政府","明清交替の地図から引き継ぎ。1854年に太平天国軍が宜昌府城に入ったが同年5月に荊州将軍官文の軍が回復したので歳末は清":"明清交替の地図から引き継ぎ。1854年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が宜昌府城に入ったが同年5月に｜荊州《けいしゅう》将軍官文の軍が回復したので歳末は清","宜昌の駐軍が武昌に応じる":"宜昌の駐軍が｜武昌《ぶしょう》に応じる","安陸市":"｜安陸《あんりく》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1855年4月に太平天国軍に陥れられたが同年10月に官文が回復、1861年にも陳玉成の軍が拠ったが同年7〜8月に回復。いずれも歳末は清":"明清交替の地図から引き継ぎ。1855年4月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍に陥れられたが同年10月に官文が回復、1861年にも陳玉成の軍が拠ったが同年7〜8月に回復。いずれも歳末は清","安陸の知府桂廕の伝に、安陸より先に隣の徳安が陥ちたとある":"｜安陸《あんりく》の知府桂廕の伝に、｜安陸《あんりく》より先に隣の徳安が陥ちたとある","宣統三年十月初五日以前":"｜宣統《せんとう》三年十月初五日以前","明清交替の地図から引き継ぎ。1854年6月末に京山の土匪と太平天国軍が安陸府城を陥れたが、閏7月に湖北の官軍が回復したので歳末は清":"明清交替の地図から引き継ぎ。1854年6月末に京山の土匪と｜太平天国《たいへいてんごく》軍が｜安陸《あんりく》府城を陥れたが、閏7月に｜湖北《こほく》の官軍が回復したので歳末は清","安陸府の駐防二営が兵変し、知府桂廕が自尽する":"｜安陸《あんりく》府の駐防二営が兵変し、知府桂廕が自尽する","宣統三年十月初五日":"｜宣統《せんとう》三年十月初五日","襄陽":"｜襄陽《じょうよう》","襄陽市":"｜襄陽《じょうよう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。太平天国・捻軍の通過はあったが城は失っていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜太平天国《たいへいてんごく》・捻軍の通過はあったが城は失っていない","襄陽で党人が武昌に応じ、襄陽の権局の存厚が殺される":"｜襄陽《じょうよう》で党人が｜武昌《ぶしょう》に応じ、｜襄陽《じょうよう》の権局の存厚が殺される","宣統三年十月（日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年十月（日不詳）","荊州":"｜荊州《けいしゅう》","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。太平天国軍は1854年に監利・宜昌まで迫ったが荊州城は失っていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜太平天国《たいへいてんごく》軍は1854年に監利・宜昌まで迫ったが｜荊州《けいしゅう》城は失っていない","署左翼副都統恒齢が自殺し、その数日後に将軍連魁らが門を開いて民軍を入れる":"署左翼副｜都統《ととう》恒齢が自殺し、その数日後に将軍連魁らが門を開いて民軍を入れる","宣統三年十月下旬（日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年十月下旬（日不詳）","明清交替の地図から引き継ぎ。1862年に太平天国の陳得才らが鄖西・竹山・竹渓など属県を陥れたが府城は失っていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。1862年に｜太平天国《たいへいてんごく》の陳得才らが鄖西・竹山・竹渓など属県を陥れたが府城は失っていない","湖北の府県が次々に軍政府に帰した中に入ると推す":"｜湖北《こほく》の府県が次々に軍政府に帰した中に入ると推す","宣統三年（月日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年（月日不詳）","湖北軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜湖北《こほく》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","明清交替の地図から引き継ぎ。1857年に土匪、1862年に太平天国軍に一時陥れられたが、いずれもすぐ回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1857年に土匪、1862年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍に一時陥れられたが、いずれもすぐ回復","長沙":"｜長沙《ちょうさ》","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1852年に太平天国軍が約80日包囲したが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。1852年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が約80日包囲したが落ちていない","長沙の新軍が蜂起し、巡抚余誠格は兵艦に逃れる":"｜長沙《ちょうさ》の新軍が蜂起し、巡抚余誠格は兵艦に逃れる","宣統三年九月初一日":"｜宣統《せんとう》三年九月初一日","湖南軍政府":"｜湖南《こなん》軍政府","辰州の総兵周瑞龍が降り、道府の官は印を捨てて去る":"辰州の｜総兵《そうへい》周瑞龍が降り、道府の官は印を捨てて去る","宣統三年九月（日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年九月（日不詳）","明清交替の地図から引き継ぎ。1854年5月に太平天国軍が陥れたが長く守らず、同年中に洞庭湖方面へ退いたので歳末は清":"明清交替の地図から引き継ぎ。1854年5月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが長く守らず、同年中に洞庭湖方面へ退いたので歳末は清","常徳を軍政府の龍璋が巡按している（楊譲梨が常徳を経て長沙へ送られる）":"常徳を軍政府の龍璋が巡按している（楊譲梨が常徳を経て｜長沙《ちょうさ》へ送られる）","衡州":"｜衡州《こうしゅう》","宣統三年九月二十一日以前":"｜宣統《せんとう》三年九月二十一日以前","岳州":"｜岳州《がくしゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。1852年11月に太平天国軍が陥れたが、守らずに長江を下り、同月のうちに城内の太平天国軍は逃げ去った。1854年にも2〜3月と6〜7月に陥落したが、いずれも同年内に回復。歳末はすべて清":"明清交替の地図から引き継ぎ。1852年11月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが、守らずに｜長江《ちょうこう》を下り、同月のうちに城内の｜太平天国《たいへいてんごく》軍は逃げ去った。1854年にも2〜3月と6〜7月に陥落したが、いずれも同年内に回復。歳末はすべて清","長沙の軍政府に帰したと推す":"｜長沙《ちょうさ》の軍政府に帰したと推す","湖南軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜湖南《こなん》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","宝慶":"｜宝慶《ほうけい》","明清交替の地図から引き継ぎ。1852年に太平天国軍が攻めたが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。1852年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が攻めたが落ちていない","郴州":"｜郴州《ちんしゅう》","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1852年7月に太平天国軍が陥れたが8月に全軍が長沙へ去った。1855年6月には広東から入った反乱軍が拠ったが同年10月に回復。いずれも歳末は清":"明清交替の地図から引き継ぎ。1852年7月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが8月に全軍が｜長沙《ちょうさ》へ去った。1855年6月には広東から入った反乱軍が拠ったが同年10月に回復。いずれも歳末は清","靖州苗族侗族自治県":"｜靖州苗《せいしゅうびょう》族侗族自治県","南昌":"｜南昌《なんしょう》","南昌市":"｜南昌《なんしょう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1853年に太平天国軍が約3か月包囲したが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。1853年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が約3か月包囲したが落ちていない","南昌の新軍が独立を号し、巡抚馮汝騤は九江へ去る":"｜南昌《なんしょう》の新軍が独立を号し、巡抚馮汝騤は｜九江《きゅうこう》へ去る","宣統三年九月初十日":"｜宣統《せんとう》三年九月初十日","江西軍政府":"｜江西《こうせい》軍政府","九江":"｜九江《きゅうこう》","九江市":"｜九江《きゅうこう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1853年正月に太平天国軍が陥れて通過、同年8〜9月にも陥れたが9月26日に回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1853年正月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れて通過、同年8〜9月にも陥れたが9月26日に回復","太平天国軍が九江郡城に拠る（林啓栄が守将となり1858年まで守る）":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が｜九江《きゅうこう》郡城に拠る（林啓栄が守将となり1858年まで守る）","咸豊四年闰七月":"｜咸豊《かんぽう》四年闰七月","李続賓らの湖北の官軍が九江を回復":"李続賓らの｜湖北《こほく》の官軍が｜九江《きゅうこう》を回復","九江の兵が変じ、湖口・九江を失う":"｜九江《きゅうこう》の兵が変じ、湖口・｜九江《きゅうこう》を失う","宣統三年九月初三日":"｜宣統《せんとう》三年九月初三日","九江軍政府、江西で最初に清の官を逐った所。九月初二日の夜に兵変が起き、初三日に失守と電報される":"｜九江《きゅうこう》軍政府、｜江西《こうせい》で最初に清の官を逐った所。九月初二日の夜に兵変が起き、初三日に失守と電報される","饒州":"｜饒州《じょうしゅう》","鄱陽県":"｜鄱陽《はよう》県","南昌の軍政府に帰したと推す":"｜南昌《なんしょう》の軍政府に帰したと推す","江西軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜江西《こうせい》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","咸豊六年二月":"｜咸豊《かんぽう》六年二月","1861年・1864年に太平天国軍が攻めたが落ちていない":"1861年・1864年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が攻めたが落ちていない","太平天国軍が撫州から分かれて建昌郡城を陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が撫州から分かれて建昌郡城を陥れる","咸豊八年五月":"｜咸豊《かんぽう》八年五月","本紀の咸豊七年二月の「克復建昌」は南康府の建昌県のこと":"｜本紀《ほんぎ》の｜咸豊《かんぽう》七年二月の「克復建昌」は｜南康《なんこう》府の建昌県のこと","咸豊五年十二月":"｜咸豊《かんぽう》五年十二月","江西の官軍が瑞州を回復":"｜江西《こうせい》の官軍が瑞州を回復","咸豊七年八月":"｜咸豊《かんぽう》七年八月","袁州":"｜袁州《えんしゅう》","石達開の軍が新昌・瑞州・臨江に続いて袁州を陥れる":"石達開の軍が新昌・瑞州・臨江に続いて｜袁州《えんしゅう》を陥れる","守将李能通が西門を開いて降り、劉長佑が袁州を回復":"守将李能通が西門を開いて降り、｜劉長《りゅうちょう》佑が｜袁州《えんしゅう》を回復","咸豊六年三月":"｜咸豊《かんぽう》六年三月","曽国荃らの湖南の官軍が吉安を回復":"曽国荃らの｜湖南《こなん》の官軍が吉安を回復","咸豊八年九月":"｜咸豊《かんぽう》八年九月","贛州":"｜贛州《かんしゅう》","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","南安":"｜南安《なんあん》","明清交替の地図から引き継ぎ。1859年正月に太平天国の残部が陥れたが2月に蕭啓江が回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1859年正月に｜太平天国《たいへいてんごく》の残部が陥れたが2月に蕭啓江が回復","安慶":"｜安慶《あんけい》","安慶市":"｜安慶《あんけい》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1853年正月に太平天国軍が陥れたが、そのまま東下した":"明清交替の地図から引き継ぎ。1853年正月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが、そのまま東下した","太平天国の西征軍が安慶を再び陥れ、以後長く拠る":"｜太平天国《たいへいてんごく》の西征軍が｜安慶《あんけい》を再び陥れ、以後長く拠る","咸豊三年五月":"｜咸豊《かんぽう》三年五月","曽国荃の軍が安慶を回復":"曽国荃の軍が｜安慶《あんけい》を回復","咸豊十一年八月":"｜咸豊《かんぽう》十一年八月","安慶の新軍が変じ、巡抚朱家宝を都督に推す":"｜安慶《あんけい》の新軍が変じ、巡抚朱家宝を都督に推す","宣統三年九月十八日":"｜宣統《せんとう》三年九月十八日","安徽軍政府、九月初九・初十日の砲営・標営の変は撃退された（政紀）。高謙伝は安慶の変を九月二十五日と書く":"安徽軍政府、九月初九・初十日の砲営・標営の変は撃退された（政紀）。高謙伝は｜安慶《あんけい》の変を九月二十五日と書く","潁州":"｜潁州《えいしゅう》","太平天国軍が廬州を陥れ、巡撫江忠源が死ぬ":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が廬州を陥れ、巡撫江忠源が死ぬ","咸豊三年十二月":"｜咸豊《かんぽう》三年十二月","咸豊五年十月":"｜咸豊《かんぽう》五年十月","太平天国軍（陳玉成）が廬州を再び陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍（陳玉成）が廬州を再び陥れる","咸豊八年七月":"｜咸豊《かんぽう》八年七月","多隆阿の軍が廬州を回復し、陳玉成は寿州へ逃れて苗沛霖に捕らえられる":"多隆阿の軍が廬州を回復し、陳玉成は｜寿州《じゅしゅう》へ逃れて苗沛霖に捕らえられる","太平天国軍が池州府城を占拠":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が池州府城を占拠","咸豊十一年九月":"｜咸豊《かんぽう》十一年九月","太平":"｜太平《たいへい》","明清交替の地図から引き継ぎ。1854年2月に太平天国軍が陥れたが同年夏に張国樑・鄧紹良が回復。1855年初めにも太平天国軍が拠ったが同年6月までに清軍が再び回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1854年2月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが同年夏に張国樑・鄧紹良が回復。1855年初めにも｜太平天国《たいへいてんごく》軍が拠ったが同年6月までに清軍が再び回復","この頃から太平府城の南の要地金柱関に太平天国軍が拠り、以後当塗・蕪湖は太平天国の手にあった（府城を再び失った年月は原文で確かめられない）":"この頃から｜太平《たいへい》府城の南の要地金柱関に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が拠り、以後当塗・蕪湖は｜太平天国《たいへいてんごく》の手にあった（府城を再び失った年月は原文で確かめられない）","咸豊六年正月":"｜咸豊《かんぽう》六年正月","曽国荃・彭玉麟の水陸軍が太平府城・金柱関・蕪湖を回復":"曽国荃・彭玉麟の水陸軍が｜太平《たいへい》府城・金柱関・蕪湖を回復","同治元年五月":"｜同治《どうち》元年五月","明清交替の地図から引き継ぎ。1856年4月に太平天国軍が陥れたが同年12月に回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1856年4月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが同年12月に回復","太平天国軍が寧国を陥れ、提督周天受が死ぬ":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が寧国を陥れ、提督周天受が死ぬ","咸豊十年九月":"｜咸豊《かんぽう》十年九月","同治元年七月":"｜同治《どうち》元年七月","明清交替の地図から引き継ぎ。1855年3月に太平天国軍が陥れたが同年中に浙江の軍が回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1855年3月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが同年中に浙江の軍が回復","太平天国軍（李世賢）が徽州を陥れ、守る道員李元度は城を棄てて逃げる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍（李世賢）が徽州を陥れ、守る道員李元度は城を棄てて逃げる","咸豊十一年七月":"｜咸豊《かんぽう》十一年七月","鳳陽":"｜鳳陽《ほうよう》","鳳陽県":"｜鳳陽《ほうよう》県","明清交替の地図から引き継ぎ。1853年4月に太平天国の北伐軍が陥れたが翌月回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1853年4月に｜太平天国《たいへいてんごく》の｜北伐《ほくばつ》軍が陥れたが翌月回復","捻軍が臨淮に続いて鳳陽府・県城を陥れ、張元隆らが拠る":"捻軍が｜臨淮《りんわい》に続いて｜鳳陽《ほうよう》府・県城を陥れ、張元隆らが拠る","袁甲三が鳳陽府・県城を回復し、張元隆を捕らえて処刑":"袁甲三が｜鳳陽《ほうよう》府・県城を回復し、張元隆を捕らえて処刑","咸豊十年二月":"｜咸豊《かんぽう》十年二月","1859年4月に張元隆が投降して鳳陽をいったん返したが、同年のうちに再び叛いて城に拠り、年末は官軍が攻撃中だった":"1859年4月に張元隆が投降して｜鳳陽《ほうよう》をいったん返したが、同年のうちに再び叛いて城に拠り、年末は官軍が攻撃中だった","泗州（盱眙）":"｜泗州《ししゅう》（盱眙）","泗州":"｜泗州《ししゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。盱眙は1859年に太平天国軍と捻軍に陥れられたが、いずれも同年内に回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。盱眙は1859年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍と捻軍に陥れられたが、いずれも同年内に回復","蘇州":"｜蘇州《そしゅう》","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","李秀成の軍が蘇州を陥れ、巡撫徐有壬が死ぬ":"李秀成の軍が｜蘇州《そしゅう》を陥れ、巡撫徐有壬が死ぬ","咸豊十年四月":"｜咸豊《かんぽう》十年四月","李鴻章が蘇州を回復（太平天国の守将郜永寛らが降る）":"｜李《り》｜鴻章《こうしょう》が｜蘇州《そしゅう》を回復（｜太平天国《たいへいてんごく》の守将郜永寛らが降る）","同治二年十一月":"｜同治《どうち》二年十一月","江蘇巡抚程徳全が蘇州で革命軍に附き、都督を称す":"江蘇巡抚程徳全が｜蘇州《そしゅう》で革命軍に附き、都督を称す","宣統三年九月十五日":"｜宣統《せんとう》三年九月十五日","常州":"｜常州《じょうしゅう》","常州市":"｜常州《じょうしゅう》市","江南大営の崩壊後、李秀成の軍が常州を陥れる":"｜江南《こうなん》大営の崩壊後、李秀成の軍が｜常州《じょうしゅう》を陥れる","李鴻章が常州を回復":"｜李《り》｜鴻章《こうしょう》が｜常州《じょうしゅう》を回復","同治三年四月":"｜同治《どうち》三年四月","9月に回復していた江陰が再び太平天国軍に陥れられる":"9月に回復していた江陰が再び｜太平天国《たいへいてんごく》軍に陥れられる","咸豊十年十二月":"｜咸豊《かんぽう》十年十二月","李鴻章の軍が江陰を回復":"｜李《り》｜鴻章《こうしょう》の軍が江陰を回復","同治二年八月":"｜同治《どうち》二年八月","江蘇軍政府（程徳全）、五属の一括の宣告。この城だけの記事は無い（江陰は常州府の県）":"江蘇軍政府（程徳全）、五属の一括の宣告。この城だけの記事は無い（江陰は｜常州《じょうしゅう》府の県）","松江":"｜松江《しょうこう》","上海市松江区":"上海市｜松江《しょうこう》区","明清交替の地図から引き継ぎ。1860年5月・7月に太平天国軍が陥れたが、6月と上海の包囲が解けた後に清軍（華爾の洋槍隊を含む）が回復し、以後守り通した。1862年にも包囲されたが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。1860年5月・7月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが、6月と上海の包囲が解けた後に清軍（華爾の洋槍隊を含む）が回復し、以後守り通した。1862年にも包囲されたが落ちていない","咸豊三年八月":"｜咸豊《かんぽう》三年八月","1860年・1862年に太平天国軍が迫ったが県城は落ちていない":"1860年・1862年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が迫ったが県城は落ちていない","宣統三年九月十三日":"｜宣統《せんとう》三年九月十三日","上海の革命派、本紀は九月戊寅（十四日）の条に「革命軍陥上海」と書く":"上海の革命派、｜本紀《ほんぎ》は九月戊寅（十四日）の条に「革命軍陥上海」と書く","鎮江":"｜鎮江《ちんこう》","鎮江市":"｜鎮江《ちんこう》市","太平天国軍が鎮江・揚州を陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が｜鎮江《ちんこう》・｜揚州《ようしゅう》を陥れる","咸豊三年三月":"｜咸豊《かんぽう》三年三月","和春・張国樑が鎮江を回復":"和春・張国樑が｜鎮江《ちんこう》を回復","咸豊七年十一月":"｜咸豊《かんぽう》七年十一月","鎮江が陥ち、京口副都統載穆が自尽する":"｜鎮江《ちんこう》が陥ち、｜京口《けいこう》副｜都統《ととう》載穆が自尽する","江蘇軍政府（鎮江）":"江蘇軍政府（｜鎮江《ちんこう》）","南京（応天）":"｜南京《なんきん》（｜応天《おうてん》）","南京":"｜南京《なんきん》","南京市":"｜南京《なんきん》市","太平天国軍が江寧を陥れ、将軍祥厚らが死ぬ。以後ここを都とする":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が｜江寧《こうねい》を陥れ、｜将軍《しょうぐん》｜祥厚《しょうこう》らが死ぬ。以後ここを都とする","咸豊三年二月":"｜咸豊《かんぽう》三年二月","曽国荃の軍が江寧を回復。洪秀全はこれより前に死んでいた":"曽国荃の軍が｜江寧《こうねい》を回復。｜洪秀全《こうしゅうぜん》はこれより前に死んでいた","同治三年六月":"｜同治《どうち》三年六月","江浙聯軍が江寧を陥し、将軍鉄良・総督張人駿は上海へ、張勲は徐州へ退く":"江浙聯軍が｜江寧《こうねい》を陥し、将軍鉄良・総督張人駿は上海へ、張勲は｜徐州《じょしゅう》へ退く","宣統三年十月十二日":"｜宣統《せんとう》三年十月十二日","江浙聯軍（のち中華民国臨時政府）、九月十八日に江寧の新軍（徐紹楨）が変じたが張勲が雨花台で破り、城は清が十月十二日まで保った。十一月十日に臨時大総統が選ばれ南京に政府を置く":"江浙聯軍（のち｜中華民国《ちゅうかみんこく》臨時政府）、九月十八日に｜江寧《こうねい》の新軍（徐紹楨）が変じたが張勲が雨花台で破り、城は清が十月十二日まで保った。十一月十日に臨時大総統が選ばれ｜南京《なんきん》に政府を置く","清江浦の兵が変じて城が陥ち、護理江北提督奭良が罪を請う":"清江浦の兵が変じて城が陥ち、護理｜江北《こうほく》提督奭良が罪を請う","宣統三年十月初一日以前":"｜宣統《せんとう》三年十月初一日以前","江北の革命派（清江）":"｜江北《こうほく》の革命派（清江）","揚州":"｜揚州《ようしゅう》","揚州市":"｜揚州《ようしゅう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1853年3月に太平天国軍が陥れたが同年12月に城を棄てて出たので歳末は清。1856年3月・1858年9月にも陥落したが、いずれも数日〜十数日で回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1853年3月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が陥れたが同年12月に城を棄てて出たので歳末は清。1856年3月・1858年9月にも陥落したが、いずれも数日〜十数日で回復","江北の革命派":"｜江北《こうほく》の革命派","徐州":"｜徐州《じょしゅう》","徐州市":"｜徐州《じょしゅう》市","杭州":"｜杭州《こうしゅう》","杭州市":"｜杭州《こうしゅう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1860年2〜3月に李秀成が杭州を陥れたが、6日後に将軍瑞昌が回復":"明清交替の地図から引き継ぎ。1860年2〜3月に李秀成が｜杭州《こうしゅう》を陥れたが、6日後に将軍瑞昌が回復","李秀成の軍が杭州を陥れ、満城も落ちて将軍瑞昌・巡撫王有齢が死ぬ":"李秀成の軍が｜杭州《こうしゅう》を陥れ、満城も落ちて将軍瑞昌・巡撫王有齢が死ぬ","咸豊十一年十一月":"｜咸豊《かんぽう》十一年十一月","左宗棠の部将蒋益澧らが杭州・余杭を回復":"左宗棠の部将蒋益澧らが｜杭州《こうしゅう》・｜余杭《よこう》を回復","同治三年三月":"｜同治《どうち》三年三月","杭州の新軍が夜に城を陥し、巡抚増韞を捕らえる。旗営は二日抗って和を議す":"｜杭州《こうしゅう》の新軍が夜に城を陥し、巡抚増韞を捕らえる。旗営は二日抗って和を議す","宣統三年九月十四日":"｜宣統《せんとう》三年九月十四日","太平天国軍（李世賢）が寿昌・金華・龍游・湯渓を陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍（李世賢）が｜寿昌《じゅしょう》・金華・龍游・湯渓を陥れる","咸豊十一年五月":"｜咸豊《かんぽう》十一年五月","同治二年二月":"｜同治《どうち》二年二月","太平天国軍が呉江・崑山に続いて嘉興を陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が呉江・崑山に続いて嘉興を陥れる","咸豊十年五月":"｜咸豊《かんぽう》十年五月","李鴻章の部将程学啓が嘉興を回復":"｜李《り》｜鴻章《こうしょう》の部将程学啓が嘉興を回復","湖州":"｜湖州《こしゅう》","湖州市":"｜湖州《こしゅう》市","太平天国軍が湖州を陥れ、趙景賢が捕らえられる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が｜湖州《こしゅう》を陥れ、趙景賢が捕らえられる","江蘇・浙江の官軍が湖州・安吉を回復":"江蘇・浙江の官軍が｜湖州《こしゅう》・安吉を回復","同治三年八月":"｜同治《どうち》三年八月","紹興":"｜紹興《しょうこう》","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","李秀成の軍が蕭山・紹興を陥れる":"李秀成の軍が蕭山・｜紹興《しょうこう》を陥れる","咸豊十一年十月":"｜咸豊《かんぽう》十一年十月","左宗棠の軍（蒋益澧と英仏の兵）が紹興を回復":"左宗棠の軍（蒋益澧と｜英仏《えいふつ》の兵）が｜紹興《しょうこう》を回復","台州":"｜台州《たいしゅう》","太平天国軍が奉化・台州を陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が奉化・｜台州《たいしゅう》を陥れる","道員蘇鏡蓉らが民団と水陸から攻めて台州郡城を回復":"道員蘇鏡蓉らが民団と水陸から攻めて｜台州《たいしゅう》郡城を回復","明清交替の地図から引き継ぎ。1858年・1861年・1862年に太平天国軍に包囲されたが府城は落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。1858年・1861年・1862年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍に包囲されたが府城は落ちていない","太平天国軍が処州を再び陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が処州を再び陥れる","同治元年八月":"｜同治《どうち》元年八月","明清交替の地図から引き継ぎ。1862年に太平天国軍が温州・瑞安を包囲したが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。1862年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が温州・｜瑞安《ずいあん》を包囲したが落ちていない","道光二十一年九月":"｜道光《どうこう》二十一年九月","道光二十二年四月":"｜道光《どうこう》二十二年四月","太平天国軍が寧波・鎮海を陥れる":"｜太平天国《たいへいてんごく》軍が寧波・鎮海を陥れる","咸豊十一年十二月":"｜咸豊《かんぽう》十一年十二月","官軍（英仏軍の協力）が寧波・鎮海を回復する":"官軍（｜英仏《えいふつ》軍の協力）が寧波・鎮海を回復する","舟山市定海区":"舟山市｜定海《ていかい》区","明清交替の地図から引き継ぎ。康熙二十六年に定海県を舟山に移し置く":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜康熙《こうき》二十六年に｜定海《ていかい》県を舟山に移し置く","アヘン戦争。英軍が定海県城を陥れ、知県姚懐祥らが死ぬ":"アヘン戦争。英軍が｜定海《ていかい》県城を陥れ、知県姚懐祥らが死ぬ","道光二十年六月":"｜道光《どうこう》二十年六月","南京条約の賠償金の支払いが済み、英軍が舟山から引き揚げる":"｜南京《なんきん》条約の賠償金の支払いが済み、英軍が舟山から引き揚げる","道光二十六年五月":"｜道光《どうこう》二十六年五月","福州":"｜福州《ふくしゅう》","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。1910年末まで清の府州県・駐防の城で、歳末をまたいで他勢力に保持された記事は見つからない。":"明清交替の地図から引き継ぎ。1910年末まで清の｜府州《ふしゅう》県・駐防の城で、歳末をまたいで他勢力に保持された記事は見つからない。","福州の新軍・防軍が督署・将軍署を攻め、二昼夜戦って総督松寿・将軍朴寿が死ぬ":"｜福州《ふくしゅう》の新軍・防軍が督署・将軍署を攻め、二昼夜戦って総督松寿・将軍朴寿が死ぬ","宣統三年九月十九日":"｜宣統《せんとう》三年九月十九日","福建軍政府、定煊伝は九月十八日の夜明け前（四鼓）に砲声が起きたと書く。本紀は癸未（十九日）":"｜福建《ふっけん》軍政府、定煊伝は九月十八日の夜明け前（四鼓）に砲声が起きたと書く。｜本紀《ほんぎ》は癸未（十九日）","汀州":"｜汀州《ていしゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊七年五月に太平天国軍が汀州を陥れ、閏五月に清軍が奪回した（年内）。咸豊十一年にも陥ったが林文察が年内に克復。同治三〜四年の李世賢・汪海洋は汀州府下を荒らしたが府城を保持した記事は見つからない。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》七年五月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が｜汀州《ていしゅう》を陥れ、閏五月に清軍が奪回した（年内）。｜咸豊《かんぽう》十一年にも陥ったが林文察が年内に克復。｜同治《どうち》三〜四年の李世賢・汪海洋は｜汀州府《ていしゅうふ》下を荒らしたが府城を保持した記事は見つからない。","汀州の府城に白旗が掲がり、知府来秀が服毒する":"｜汀州《ていしゅう》の府城に白旗が掲がり、知府来秀が服毒する","宣統三年九月三十日":"｜宣統《せんとう》三年九月三十日","福建軍政府":"｜福建《ふっけん》軍政府","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊七年四月に太平天国軍が邵武を陥れ、六月に清軍が奪回した（年内）。咸豊八年にも再び乱れ、九月に克復して「闽省肃清」となった。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》七年四月に｜太平天国《たいへいてんごく》軍が邵武を陥れ、六月に清軍が奪回した（年内）。｜咸豊《かんぽう》八年にも再び乱れ、九月に克復して「闽省肃清」となった。","延平":"｜延平《えんぺい》","福州が乱れた後、永安（延平府の県）に土匪が起つ":"｜福州《ふくしゅう》が乱れた後、｜永安《えいあん》（｜延平《えんぺい》府の県）に土匪が起つ","福建軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜福建《ふっけん》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","福建の軍政府に帰したと推す":"｜福建《ふっけん》の軍政府に帰したと推す","建寧":"｜建寧《けんねい》","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊八年六月・同治三年五月の「陷建宁」は邵武府の建寧県のことと見られ、いずれも年内に回復している。建寧府城（建甌）が歳末をまたいで他勢力に保持された記事は見つからない。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》八年六月・｜同治《どうち》三年五月の「陷建宁」は邵武府の｜建寧《けんねい》県のことと見られ、いずれも年内に回復している。｜建寧《けんねい》府城（建甌）が歳末をまたいで他勢力に保持された記事は見つからない。","泉州":"｜泉州《せんしゅう》","泉州市":"｜泉州《せんしゅう》市","漳州":"｜漳州《しょうしゅう》","漳州市":"｜漳州《しょうしゅう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊三年の小刀会（海澄の会匪）は漳州を陥れたが、六月に紳商が奪回した（年内）。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》三年の小刀会（海澄の｜会匪《かいひ》）は｜漳州《しょうしゅう》を陥れたが、六月に紳商が奪回した（年内）。","天京陥落後に南下した李世賢の太平天国軍が広東から福建に入り、漳州府城を陥れる":"天京陥落後に南下した李世賢の｜太平天国《たいへいてんごく》軍が広東から｜福建《ふっけん》に入り、｜漳州《しょうしゅう》府城を陥れる","同治三年十月":"｜同治《どうち》三年十月","清軍が漳州府城を克復し、李世賢らは広東方面へ去る":"清軍が｜漳州《しょうしゅう》府城を克復し、李世賢らは広東方面へ去る","同治四年四月":"｜同治《どうち》四年四月","明清交替の地図から引き継ぎ。道光二十一年七月に英軍が陥れたが翌月に去った（年内撤退）。英軍は対岸の鼓浪嶼を道光二十五年まで占めたが、廈門の城は清":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜道光《どうこう》二十一年七月に英軍が陥れたが翌月に去った（年内撤退）。英軍は対岸の鼓浪嶼を｜道光《どうこう》二十五年まで占めたが、廈門の城は清","広州":"｜広州《こうしゅう》","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","英仏連合軍":"｜英仏《えいふつ》連合軍","第二次アヘン戦争。英仏軍が広東省城に入り、総督葉名琛を捕らえて去る。巡抚柏貴らは城内に閉じ込められ、英仏の委員会の下に置かれる":"第二次アヘン戦争。｜英仏《えいふつ》軍が広東省城に入り、総督葉名琛を捕らえて去る。巡抚柏貴らは城内に閉じ込められ、｜英仏《えいふつ》の委員会の下に置かれる","咸豊七年十二月":"｜咸豊《かんぽう》七年十二月","英仏両国の兵が広東省城から退き、省城が返還される":"｜英仏《えいふつ》両国の兵が広東省城から退き、省城が返還される","咸豊十一年三月":"｜咸豊《かんぽう》十一年三月","潮州":"｜潮州《ちょうしゅう》","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。〜60年代の紅巾・太平天国の残党・土客械闘でも、府城が年を越えて奪われた記事は清史稿本紀と実録に見当たらない":"明清交替の地図から引き継ぎ。〜60年代の紅巾・｜太平天国《たいへいてんごく》の残党・土客械闘でも、府城が年を越えて奪われた記事は｜清史稿《しんしこう》｜本紀《ほんぎ》と｜実録《じつろく》に見当たらない","潮州鎮総兵趙国賢が自尽し、民党が府署を攻めて知府陳兆棠を殺す":"｜潮州《ちょうしゅう》鎮｜総兵《そうへい》趙国賢が自尽し、民党が府署を攻めて知府陳兆棠を殺す","宣統三年九月二十八日":"｜宣統《せんとう》三年九月二十八日","高州鎮総兵陸建章が独立に附かず任地を離れる":"高州鎮｜総兵《そうへい》陸建章が独立に附かず任地を離れる","宣統三年十月二十五日以前":"｜宣統《せんとう》三年十月二十五日以前","肇慶":"｜肇慶《ちょうけい》","肇慶市":"｜肇慶《ちょうけい》市","広東の紅巾（天地会）の蜂起軍が肇慶府城を陥れて拠る":"広東の紅巾（天地会）の蜂起軍が｜肇慶《ちょうけい》府城を陥れて拠る","咸豊四年八月":"｜咸豊《かんぽう》四年八月","広東の官軍が肇慶府城を回復":"広東の官軍が｜肇慶《ちょうけい》府城を回復","咸豊五年六月":"｜咸豊《かんぽう》五年六月","明清交替の地図から引き継ぎ。府城は清朝末まで清の手にある。光緒二十五年に雷州半島の東岸（遂渓・呉川の一部）が広州湾としてフランスの租借地になったが、雷州府城は租借地の外":"明清交替の地図から引き継ぎ。府城は清朝末まで清の手にある。｜光緒《こうしょ》二十五年に雷州半島の東岸（遂渓・呉川の一部）が｜広州《こうしゅう》湾としてフランスの租借地になったが、雷州府城は租借地の外","瓊州":"｜瓊州《けいしゅう》","海口市":"｜海口《かいこう》市","桂林":"｜桂林《けいりん》","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊二年に太平天国軍、咸豊九年に石達開が包囲したが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》二年に｜太平天国《たいへいてんごく》軍、｜咸豊《かんぽう》九年に石達開が包囲したが落ちていない","広西巡抚沈秉堃が都督を称す":"｜広西《こうせい》巡抚沈秉堃が都督を称す","宣統三年九月十七日":"｜宣統《せんとう》三年九月十七日","広西軍政府（沈秉堃）":"｜広西《こうせい》軍政府（沈秉堃）","潯州":"｜潯州《じんしゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。道光三十年に洪秀全が桂平県金田で挙兵したが、府城は取っていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜道光《どうこう》三十年に｜洪秀全《こうしゅうぜん》が桂平県金田で挙兵したが、府城は取っていない","大成国":"｜大成《たいせい》国","艇匪梁培友らが梧州から遡って潯州府城を陥れ、のち陳開がここを本拠とする":"艇匪梁培友らが梧州から遡って｜潯州《じんしゅう》府城を陥れ、のち陳開がここを本拠とする","咸豊五年九月":"｜咸豊《かんぽう》五年九月","劉長佑の水陸軍が潯州府城を回復し、陳開を斬る":"｜劉長《りゅうちょう》佑の水陸軍が｜潯州《じんしゅう》府城を回復し、陳開を斬る","広西の独立に入ったと推す":"｜広西《こうせい》の独立に入ったと推す","広西軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜広西《こうせい》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊七年に游匪楊西安らが府城を半年ほど占拠したが、同年のうちに湘軍・広西軍が奪回したので歳末の帰属は清のまま":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》七年に游匪楊｜西安《せいあん》らが府城を半年ほど占拠したが、同年のうちに湘軍・｜広西《こうせい》軍が奪回したので歳末の帰属は清のまま","広西巡抚が都督を称し、省が独立したと推す":"｜広西《こうせい》巡抚が都督を称し、省が独立したと推す","咸豊七年九月":"｜咸豊《かんぽう》七年九月","咸豊七年二月":"｜咸豊《かんぽう》七年二月","咸豊八年六月":"｜咸豊《かんぽう》八年六月","咸豊九年六月":"｜咸豊《かんぽう》九年六月","咸豊七年":"｜咸豊《かんぽう》七年","咸豊八年":"｜咸豊《かんぽう》八年","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊七年に股匪が府城を陥れたが、同年八月十五日に回復したので歳末は清のまま":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》七年に股匪が府城を陥れたが、同年八月十五日に回復したので歳末は清のまま","太平府":"｜太平《たいへい》府","南寧州の土匪":"南｜寧州《ねいしゅう》の土匪","土匪が太平府城を襲って陥れる":"土匪が｜太平《たいへい》府城を襲って陥れる","広西の官軍が太平府城を回復":"｜広西《こうせい》の官軍が｜太平《たいへい》府城を回復","昆明（雲南府）":"｜昆明《こんめい》（｜雲南《うんなん》府）","昆明":"｜昆明《こんめい》","昆明市":"｜昆明《こんめい》市","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊七年・同治元年・同治七〜八年に回民軍が省城を囲み、同治二年には回弁馬栄が総督潘鐸を殺して一時省城を占めたが、いずれも年内に退けられ、歳末は清のまま":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》七年・｜同治《どうち》元年・｜同治《どうち》七〜八年に回民軍が省城を囲み、｜同治《どうち》二年には回弁馬栄が総督潘鐸を殺して一時省城を占めたが、いずれも年内に退けられ、歳末は清のまま","宣統三年九月初九日":"｜宣統《せんとう》三年九月初九日","雲南軍政府":"｜雲南《うんなん》軍政府","杜文秀":"｜杜《と》｜文秀《ぶんしゅう》","回民が永昌府とともに騰越庁城を陥れる":"回民が｜永昌《えいしょう》府とともに騰越庁城を陥れる","李惟述らが五月初三日夜に地道で城壁を崩して騰越庁城を回復し、雲南全省が平定される":"李惟述らが五月初三日夜に地道で城壁を崩して騰越庁城を回復し、｜雲南《うんなん》全省が平定される","同治十二年五月":"｜同治《どうち》十二年五月","宣統三年九月初六日":"｜宣統《せんとう》三年九月初六日","騰越の民軍、雲南で省城より早く起きた":"騰越の民軍、｜雲南《うんなん》で省城より早く起きた","永昌":"｜永昌《えいしょう》","明清交替の地図から引き継ぎ。道光年間に漢・回の争いで回民が府城を攻めたが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜道光《どうこう》年間に漢・回の争いで回民が府城を攻めたが落ちていない","回民が永昌府と龍陵・騰越の両庁を陥れる":"回民が｜永昌《えいしょう》府と龍陵・騰越の両庁を陥れる","楊玉科が杜文秀の将馬双元の内応を得て永昌府城を回復":"楊玉科が｜杜《と》｜文秀《ぶんしゅう》の将馬双元の内応を得て｜永昌《えいしょう》府城を回復","同治十年":"｜同治《どうち》十年","宣統三年九月十二日以後（日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年九月十二日以後（日不詳）","雲南の民軍":"｜雲南《うんなん》の民軍","臨安":"｜臨安《りんあん》","明清交替の地図から引き継ぎ。同治年間は団練の首領梁士美が府城に拠り、清の命令にあまり従わなかったが、清の官職を帯びたまま（実録同治十年「梁士美…安坐府城」）":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》年間は団練の首領梁士美が府城に拠り、清の命令にあまり従わなかったが、清の官職を帯びたまま（｜実録《じつろく》｜同治《どうち》十年「梁士美…安坐府城」）","署臨元鎮総兵孔慶塘が、蒙自（臨安府の県）の商民が尽く変じたので脱出したと呈する":"署臨元鎮｜総兵《そうへい》孔慶塘が、蒙自（｜臨安府《りんあんふ》の県）の商民が尽く変じたので脱出したと呈する","雲南の回民":"｜雲南《うんなん》の回民","同治二年":"｜同治《どうち》二年","同治三年":"｜同治《どうち》三年","雲南の軍政府に帰したと推す":"｜雲南《うんなん》の軍政府に帰したと推す","雲南軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜雲南《うんなん》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊・同治の回民の乱で州城を年を越えて失った記事は清史稿本紀・実録に見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》・｜同治《どうち》の回民の乱で州城を年を越えて失った記事は｜清史稿《しんしこう》｜本紀《ほんぎ》・｜実録《じつろく》に見つからない","咸豊十年八月":"｜咸豊《かんぽう》十年八月","杜文秀の東征軍が楚雄府城を囲み陥れる":"｜杜《と》｜文秀《ぶんしゅう》の東征軍が楚雄府城を囲み陥れる","同治六年":"｜同治《どうち》六年","李惟述らの滇軍が楚雄・南安・定遠を回復":"李惟述らの滇軍が楚雄・｜南安《なんあん》・定遠を回復","同治八年十月":"｜同治《どうち》八年十月","明清交替の地図から引き継ぎ。順治末に土府那氏を除いて流官を置いた（明清交替期）。回民の乱でも州城の失陥記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜順治《じゅんち》末に土府那氏を除いて流官を置いた（明清交替期）。回民の乱でも州城の失陥記事は見つからない","大理の回民が官を殺して府城に拠り、杜文秀がここを本拠とする":"大理の回民が官を殺して府城に拠り、｜杜《と》｜文秀《ぶんしゅう》がここを本拠とする","咸豊六年":"｜咸豊《かんぽう》六年","楊玉科らが地道で東南の城隅を崩して入城し、杜文秀は服毒して降る":"楊玉科らが地道で東南の城隅を崩して入城し、｜杜《と》｜文秀《ぶんしゅう》は服毒して降る","同治十一年十一月":"｜同治《どうち》十一年十一月","明の麗江軍民府の土知府木氏が清に降り、順治十六年に土府とされた。流官はまだ置かれていない":"明の麗江軍民府の土知府木氏が清に降り、｜順治《じゅんち》十六年に土府とされた。流官はまだ置かれていない","咸豊十一年":"｜咸豊《かんぽう》十一年","同治四年":"｜同治《どうち》四年","杜文秀の大軍が麗江・鶴慶・剣川を再び陥れる":"｜杜《と》｜文秀《ぶんしゅう》の大軍が麗江・鶴慶・剣川を再び陥れる","同治五年四月":"｜同治《どうち》五年四月","同治九年三月":"｜同治《どうち》九年三月","明清交替の地図から引き継ぎ。明は車里宣慰司の地で、康熙三年から元江府通判が普洱に分防していた（地理志）。雍正七年に普洱府を置く":"明清交替の地図から引き継ぎ。明は車里宣慰司の地で、｜康熙《こうき》三年から元江府通判が普洱に分防していた（地理志）。｜雍正《ようせい》七年に普洱府を置く","署普洱鎮総兵田仲興らが三月二十一日に普洱府城を回復":"署普洱鎮｜総兵《そうへい》田仲興らが三月二十一日に普洱府城を回復","同治四年三月":"｜同治《どうち》四年三月","貴陽":"｜貴陽《きよう》","貴陽市":"｜貴陽《きよう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊・同治の苗・教・号軍の乱でも省城は落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》・｜同治《どうち》の苗・教・号軍の乱でも省城は落ちていない","貴州が独立して都督を挙げ、巡抚沈瑜慶は逃れる":"｜貴州《きしゅう》が独立して都督を挙げ、巡抚沈瑜慶は逃れる","貴州軍政府":"｜貴州《きしゅう》軍政府","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊四年の楊鳳、同治元年の石達開、号軍がいずれも府城を囲んだが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》四年の楊鳳、｜同治《どうち》元年の石達開、号軍がいずれも府城を囲んだが落ちていない","貴州の独立に入ったと推す":"｜貴州《きしゅう》の独立に入ったと推す","貴州軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜貴州《きしゅう》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","明清交替の地図から引き継ぎ。同治六年に賊が府城を攻めたが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》六年に賊が府城を攻めたが落ちていない","麻哈州から来た賊が正月二十九日に都匀府城を陥れる（咸豊六年にも一度陥ちたが同年に回復）":"麻哈州から来た賊が正月二十九日に都匀府城を陥れる（｜咸豊《かんぽう》六年にも一度陥ちたが同年に回復）","咸豊八年正月":"｜咸豊《かんぽう》八年正月","同治七年十一月":"｜同治《どうち》七年十一月","同治八年":"｜同治《どうち》八年","同治九年十一月":"｜同治《どうち》九年十一月","鎮遠":"｜鎮遠《ちんえん》","鎮遠県":"｜鎮遠《ちんえん》県","苗・教軍が鎮遠府城を陥れ、知府呉登甲らが死ぬ":"苗・教軍が｜鎮遠《ちんえん》府城を陥れ、知府呉登甲らが死ぬ","咸豊八年八月":"｜咸豊《かんぽう》八年八月","湖南の援黔軍が鎮遠の府・衛両城を回復":"｜湖南《こなん》の援黔軍が｜鎮遠《ちんえん》の府・衛両城を回復","咸豊九年十二月":"｜咸豊《かんぽう》九年十二月","台拱の苗が清江・鎮遠の二城に拠って犄角とする":"台拱の苗が清江・｜鎮遠《ちんえん》の二城に拠って犄角とする","同治七年":"｜同治《どうち》七年","席宝田配下の黄潤昌・鄧子垣が正月二十七日に鎮遠の府・衛両城を回復":"席宝田配下の黄潤昌・鄧子垣が正月二十七日に｜鎮遠《ちんえん》の府・衛両城を回復","同治八年正月":"｜同治《どうち》八年正月","安隆（安龍）":"安隆（｜安龍《あんりゅう》）","安龍県":"｜安龍《あんりゅう》県","明清交替の地図から引き継ぎ。清初は明制のまま安籠所（地理志「顺治初，因明为安笼所」）。嘉慶二年の仲苗（王嚢仙）の蜂起で南籠府城は包囲されたが落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。清初は明制のまま安籠所（地理志「顺治初，因明为安笼所」）。｜嘉慶《かけい》二年の仲苗（王嚢仙）の蜂起で南籠府城は包囲されたが落ちていない","貴州の回民":"｜貴州《きしゅう》の回民","新城の回民金万照らが貞豊の賊と結んで興義府城を襲い拠る":"｜新城《しんじょう》の回民金万照らが貞豊の賊と結んで興義府城を襲い拠る","同治五年五月":"｜同治《どうち》五年五月","雲南・貴州の官軍が四月二十五日に南門から入り興義府城を回復":"｜雲南《うんなん》・｜貴州《きしゅう》の官軍が四月二十五日に南門から入り興義府城を回復","同治十一年四月":"｜同治《どうち》十一年四月","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊年間に苗・教軍に長く囲まれたが、咸豊八年に包囲が解けた":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》年間に苗・教軍に長く囲まれたが、｜咸豊《かんぽう》八年に包囲が解けた","明代以来の九股の「生苗」の地で、清の官も土司も置かれていない（清史稿地理志「明，九股生苗地」）":"明代以来の九股の「生苗」の地で、清の官も土司も置かれていない（｜清史稿《しんしこう》地理志「明，九股生苗地」）","雍正十一年":"｜雍正《ようせい》十一年","咸豊六年十月":"｜咸豊《かんぽう》六年十月","成都":"｜成都《せいと》","成都市":"｜成都《せいと》市","明清交替の地図から引き継ぎ。嘉慶初めの白蓮教、咸豊末の李永和・藍朝鼎（滇匪）、同治初めの石達開はいずれも流動し、府州城を年を越えて保持した記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜嘉慶《かけい》初めの白蓮教、｜咸豊《かんぽう》末の李｜永和《えいわ》・藍朝鼎（滇匪）、｜同治《どうち》初めの石達開はいずれも流動し、｜府州《ふしゅう》城を年を越えて保持した記事は見つからない","総督趙爾豊が初六日に政権を蒲殿俊に渡し、初七日に独立を宣布して大漢四川軍政府を立てる":"総督趙爾豊が初六日に政権を蒲殿俊に渡し、初七日に独立を宣布して｜大漢《だいかん》｜四川《しせん》軍政府を立てる","宣統三年十月初七日":"｜宣統《せんとう》三年十月初七日","大漢四川軍政府、十月十八日に軍が乱れて蒲殿俊が逃げ、尹昌衡・羅綸が都督となる。十一月初三日（丙寅）に趙爾豊が殺される":"｜大漢《だいかん》｜四川《しせん》軍政府、十月十八日に軍が乱れて蒲殿俊が逃げ、尹昌衡・羅綸が都督となる。十一月初三日（｜丙寅《へいいん》）に趙爾豊が殺される","重慶":"｜重慶《じゅうけい》","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","重慶で兵変が起き、軍民が独立を求める（成都の独立より前）":"｜重慶《じゅうけい》で兵変が起き、軍民が独立を求める（｜成都《せいと》の独立より前）","宣統三年十月初六日以前（日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年十月初六日以前（日不詳）","重慶の革命派":"｜重慶《じゅうけい》の革命派","武昌の挙兵に夔州府が響応する":"｜武昌《ぶしょう》の挙兵に夔州府が響応する","宣統三年十月初十日以前（日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年十月初十日以前（日不詳）","四川の革命派":"｜四川《しせん》の革命派","嘉定":"｜嘉定《かてい》","成都の独立の後、各属も独立したと推す":"｜成都《せいと》の独立の後、各属も独立したと推す","四川の革命派、1911年の中の経緯: 宣統三年八月十七日以前に保路同志軍、宣統三年（八月〜十月初、日不詳）にqing、宣統三年十月（日不詳）に四川の革命派":"｜四川《しせん》の革命派、1911年の中の経緯: ｜宣統《せんとう》三年八月十七日以前に保路同志軍、｜宣統《せんとう》三年（八月〜十月初、日不詳）にqing、｜宣統《せんとう》三年十月（日不詳）に｜四川《しせん》の革命派","保寧":"｜保寧《ほねい》","四川の革命派、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜四川《しせん》の革命派、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","雅州":"｜雅州《がしゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。清初は明制のまま建昌衛で、雍正六年に寧遠府となる（清史稿地理志「雍正六年改府」）":"明清交替の地図から引き継ぎ。清初は明制のまま建昌衛で、｜雍正《ようせい》六年に｜寧遠《ねいえん》府となる（｜清史稿《しんしこう》地理志「｜雍正《ようせい》六年改府」）","重慶市万州区":"｜重慶《じゅうけい》市万州区","重慶市忠県":"｜重慶《じゅうけい》市忠県","西安":"｜西安《せいあん》","西安市":"｜西安《せいあん》市","明清交替の地図から引き継ぎ。同治元年以降の陝西回民の蜂起では回民が西安を囲み、同年八月に解囲、のちも再三来犯したが城は落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》元年以降の｜陝西《せんせい》回民の蜂起では回民が｜西安《せいあん》を囲み、同年八月に解囲、のちも再三来犯したが城は落ちていない","西安の新軍が漢城を占め、翌日満城を破る。将軍文瑞らが死ぬ":"｜西安《せいあん》の新軍が漢城を占め、翌日満城を破る。将軍文瑞らが死ぬ","陝西軍政府、本紀は丙寅（初二日）の条。楊調元伝も「九月朔，陕变继作」。甘粛の升允の軍は退位までに長武・邠州などを取り返したが、西安は取り返せなかった（政紀十二月十五日「尚未恢复西安」）":"｜陝西《せんせい》軍政府、｜本紀《ほんぎ》は｜丙寅《へいいん》（初二日）の条。楊調元伝も「九月朔，陕变继作」。｜甘粛《かんしゅく》の升允の軍は退位までに長武・邠州などを取り返したが、｜西安《せいあん》は取り返せなかった（政紀十二月十五日「尚未恢复｜西安《せいあん》」）","潼関":"｜潼関《どうかん》","潼関県":"｜潼関《どうかん》県","明清交替の地図から引き継ぎ。捻軍・回民が潼関を窺ったが城を失った記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。捻軍・回民が｜潼関《どうかん》を窺ったが城を失った記事は見つからない","陝西軍一万余が攻め、趙倜は潼関から閿郷へ退く":"｜陝西《せんせい》軍一万余が攻め、趙倜は｜潼関《どうかん》から閿郷へ退く","宣統三年十一月初三日":"｜宣統《せんとう》三年十一月初三日","陝西軍政府、1911年の中の経緯: 宣統三年九月十一日に陝西軍政府、宣統三年九月十四日にqing、宣統三年九月十四日〜十月二十日（日不詳）に陝西軍政府、宣統三年十月二十一日にqing、宣統三年十一月初三日に陝西軍政府、宣統三年十二月初十日以前（日不詳）にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）":"｜陝西《せんせい》軍政府、1911年の中の経緯: ｜宣統《せんとう》三年九月十一日に｜陝西《せんせい》軍政府、｜宣統《せんとう》三年九月十四日にqing、｜宣統《せんとう》三年九月十四日〜十月二十日（日不詳）に｜陝西《せんせい》軍政府、｜宣統《せんとう》三年十月二十一日にqing、｜宣統《せんとう》三年十一月初三日に｜陝西《せんせい》軍政府、｜宣統《せんとう》三年十二月初十日以前（日不詳）にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）","鳳翔":"｜鳳翔《ほうしょう》","鳳翔県":"｜鳳翔《ほうしょう》県","明清交替の地図から引き継ぎ。同治元年九月から同治二年十月まで回民に囲まれ（「凤翔困守半年」）、陶茂林が解囲。城は落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》元年九月から｜同治《どうち》二年十月まで回民に囲まれ（「凤翔困守半年」）、陶茂林が解囲。城は落ちていない","宣統三年九月初八日":"｜宣統《せんとう》三年九月初八日","陝西の民軍（原文は「民軍の名を仮る匪徒」）":"｜陝西《せんせい》の民軍（原文は「民軍の名を仮る匪徒」）","同州":"｜同州《どうしゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。同治元年に陝西回民が同州を囲み、多隆阿が解囲。府城が陥ちた記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》元年に｜陝西《せんせい》回民が｜同州《どうしゅう》を囲み、多隆阿が解囲。府城が陥ちた記事は見つからない","同州府の華州で民軍が州署を囲み、署知州楊宜瀚が自尽する":"｜同州《どうしゅう》府の｜華州《かしゅう》で民軍が州署を囲み、署｜知州《ちしゅう》楊宜瀚が自尽する","陝西軍政府":"｜陝西《せんせい》軍政府","商州":"｜商州《しょうしゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。白蓮教・太平天国・捻軍が商州一帯を通過したが、城を守らせた記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。白蓮教・｜太平天国《たいへいてんごく》・捻軍が｜商州《しょうしゅう》一帯を通過したが、城を守らせた記事は見つからない","陝西の革命軍が商洛から河南へ攻め出る":"｜陝西《せんせい》の革命軍が商洛から｜河南《かなん》へ攻め出る","明清交替の地図から引き継ぎ。同治七〜九年に回民が楡林へ窜ったが、城が陥ちた記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》七〜九年に回民が楡林へ窜ったが、城が陥ちた記事は見つからない","楡林で変が起き、楡林鎮総兵が縛られて獄に送られる":"楡林で変が起き、楡林鎮｜総兵《そうへい》が縛られて獄に送られる","延安":"｜延安《えんあん》","延安市":"｜延安《えんあん》市","明清交替の地図から引き継ぎ。同治元年に延安の回民が起ち、同治六〜七年には北山の土匪（董福祥ら）・捻軍・回民が延安一帯を荒らしたが、府城が陥ちて守られた記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》元年に｜延安《えんあん》の回民が起ち、｜同治《どうち》六〜七年には北山の土匪（董福祥ら）・捻軍・回民が｜延安《えんあん》一帯を荒らしたが、府城が陥ちて守られた記事は見つからない","陝西の軍政府に帰したと推す":"｜陝西《せんせい》の軍政府に帰したと推す","陝西軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜陝西《せんせい》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","米脂":"｜米脂《べいし》","米脂県":"｜米脂《べいし》県","明清交替の地図から引き継ぎ。同治六〜九年に回民・捻軍が米脂を通ったが、城を守らせた記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》六〜九年に回民・捻軍が｜米脂《べいし》を通ったが、城を守らせた記事は見つからない","興安":"｜興安《こうあん》","明清交替の地図から引き継ぎ。同治二年正月に太平軍が興安府城を陥したが、翌二月に陝西の団勇が回復した（年内）。嘉慶の白蓮教も府城を守らせてはいない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》二年正月に｜太平《たいへい》軍が｜興安《こうあん》府城を陥したが、翌二月に｜陝西《せんせい》の団勇が回復した（年内）。｜嘉慶《かけい》の白蓮教も府城を守らせてはいない","興安で会匪が官を殺し、属県が「賊窟」となる":"｜興安《こうあん》で｜会匪《かいひ》が官を殺し、属県が「賊窟」となる","興安の会匪（革命派）":"｜興安《こうあん》の｜会匪《かいひ》（革命派）","漢中":"｜漢中《かんちゅう》","漢中市":"｜漢中《かんちゅう》市","太平天国の陳得才・梁成富（啓王）らが漢中・城固を陥し、南鄭に拠る":"｜太平天国《たいへいてんごく》の陳得才・梁成富（啓王）らが｜漢中《かんちゅう》・城固を陥し、南鄭に拠る","天京の救援に呼び戻された太平軍が退き、官軍が漢中を回復":"天京の救援に呼び戻された｜太平《たいへい》軍が退き、官軍が｜漢中《かんちゅう》を回復","同治三年二月":"｜同治《どうち》三年二月","太原":"｜太原《たいげん》","太原市":"｜太原《たいげん》市","山西軍政府、本紀は癸酉（初九日）の条。1911年の中の経緯: 宣統三年九月初八日に山西軍政府、宣統三年十一月十八日にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）":"｜山西《さんせい》軍政府、｜本紀《ほんぎ》は｜癸酉《きゆう》（初九日）の条。1911年の中の経緯: ｜宣統《せんとう》三年九月初八日に｜山西《さんせい》軍政府、｜宣統《せんとう》三年十一月十八日にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）","大同":"｜大同《だいどう》","大同市":"｜大同《だいどう》市","大同の防兵が潰変して大同が陥ち、大同鎮総兵王得勝が革職される":"｜大同《だいどう》の防兵が潰変して｜大同《だいどう》が陥ち、｜大同《だいどう》鎮｜総兵《そうへい》王得勝が革職される","宣統三年十月十四日以前（日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年十月十四日以前（日不詳）","山西の革命派（混成協の叛兵）、1911年の中の経緯: 宣統三年十月十四日以前（日不詳）に山西の革命派（混成協の叛兵）、宣統三年十二月十二日以前（日不詳）にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）":"｜山西《さんせい》の革命派（混成協の叛兵）、1911年の中の経緯: ｜宣統《せんとう》三年十月十四日以前（日不詳）に｜山西《さんせい》の革命派（混成協の叛兵）、｜宣統《せんとう》三年十二月十二日以前（日不詳）にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）","代州":"｜代州《だいしゅう》","太原の革命軍が北へ出て雁門関を攻める（十月初二日）。代州は雁門の南で、太原側の地と推す":"｜太原《たいげん》の革命軍が北へ出て｜雁門《がんもん》関を攻める（十月初二日）。｜代州《だいしゅう》は｜雁門《がんもん》の南で、｜太原《たいげん》側の地と推す","山西軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した":"｜山西《さんせい》軍政府、この地点そのものの日付は原文に見えない。省城（または省の首長）の帰属から推した","寧武関":"寧｜武関《ぶかん》","太原の軍政府の地と推す":"｜太原《たいげん》の軍政府の地と推す","汾州":"｜汾州《ふんしゅう》","蒲州":"｜蒲州《ほしゅう》","永済市":"｜永済《えいせい》市","平陽":"｜平陽《へいよう》","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊三年八月に太平天国の北伐軍が平陽を陥れたが、勝保の軍がすぐに奪回した（年内）。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》三年八月に｜太平天国《たいへいてんごく》の｜北伐《ほくばつ》軍が｜平陽《へいよう》を陥れたが、勝保の軍がすぐに奪回した（年内）。","済南":"｜済南《さいなん》","済南市":"｜済南《さいなん》市","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊四年三月に太平天国の北伐援軍が臨清を陥れたが、十日後に清軍が奪回した（年内）。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》四年三月に｜太平天国《たいへいてんごく》の｜北伐《ほくばつ》援軍が臨清を陥れたが、十日後に清軍が奪回した（年内）。","聊城市":"｜聊城《りょうじょう》市","兗州":"｜兗州《えんしゅう》","済寧市兗州区":"済寧市｜兗州《えんしゅう》区","青州":"｜青州《せいしゅう》","青州市":"｜青州《せいしゅう》市","河南府（洛陽）":"｜河南《かなん》府（｜洛陽《らくよう》）","河南府":"｜河南《かなん》府","洛陽市":"｜洛陽《らくよう》市","懐慶":"｜懐慶《かいけい》","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊三年に太平天国の北伐軍が懐慶を囲んだが八月に解囲された。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》三年に｜太平天国《たいへいてんごく》の｜北伐《ほくばつ》軍が｜懐慶《かいけい》を囲んだが八月に解囲された。","明清交替の地図から引き継ぎ。嘉慶十八年の天理教（李文成）は衛輝府下の滑県城を九月から十二月まで拠ったが、府城の衛輝は取っていない。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜嘉慶《かけい》十八年の天理教（李文成）は衛輝府下の滑県城を九月から十二月まで拠ったが、府城の衛輝は取っていない。","帰徳":"｜帰徳《きとく》","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊三年五月に太平天国の北伐軍が帰徳を陥れたが通過しただけで、官を置いて守っていない。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》三年五月に｜太平天国《たいへいてんごく》の｜北伐《ほくばつ》軍が｜帰徳《きとく》を陥れたが通過しただけで、官を置いて守っていない。","陳州":"｜陳州《ちんしゅう》","汝州":"｜汝州《じょしゅう》","汝州市":"｜汝州《じょしゅう》市","南陽":"｜南陽《なんよう》","南陽市":"｜南陽《なんよう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。咸豊七年九月に捻軍が南陽を陥れたが、官軍の追撃で四散した。歳末をまたいで保持した記事は見つからない。":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜咸豊《かんぽう》七年九月に捻軍が｜南陽《なんよう》を陥れたが、官軍の追撃で四散した。歳末をまたいで保持した記事は見つからない。","北京（順天）":"北京（｜順天《じゅんてん》）","八か国の連合軍が京師を陥れる。両宮は西安へ逃れ、歳末も連合軍が城を分けて占領":"八か国の連合軍が京師を陥れる。｜両宮《りょうきゅう》は｜西安《せいあん》へ逃れ、歳末も連合軍が城を分けて占領","辛丑の和約の後、連合軍が京師から引き揚げる":"辛丑の｜和約《わやく》の後、連合軍が京師から引き揚げる","天津":"｜天津《てんしん》","天津市":"｜天津《てんしん》市","連合軍が天津を陥れ、直隷総督裕禄らは北倉へ退く。以後は連合軍の都統衙門が治める":"連合軍が｜天津《てんしん》を陥れ、｜直隷《ちょくれい》総督裕禄らは北倉へ退く。以後は連合軍の｜都統《ととう》衙門が治める","各国が天津の返還を照会し、北洋大臣（袁世凱）が接収する":"各国が｜天津《てんしん》の返還を照会し、｜北洋《ほくよう》大臣（｜袁世凱《えんせいがい》）が接収する","山海関":"｜山海関《さんかいかん》","秦皇島市山海関区":"秦皇島市｜山海関《さんかいかん》区","明清交替の地図から引き継ぎ。1900年に連合軍が山海関の砲台・鉄道を押さえたが、州県の官が追われた記事は見つからない。":"明清交替の地図から引き継ぎ。1900年に連合軍が｜山海関《さんかいかん》の砲台・鉄道を押さえたが、州県の官が追われた記事は見つからない。","天津市薊州区":"｜天津《てんしん》市薊州区","永平":"｜永平《えいへい》","盧龍県":"｜盧龍《ろりゅう》県","宣府":"｜宣府《せんぷ》","保定":"｜保定《ほてい》","保定市":"｜保定《ほてい》市","連合軍が保定に入り、総督署・藩庫・四門を押さえ、護理総督の布政使廷雍を殺す":"連合軍が｜保定《ほてい》に入り、総督署・藩庫・四門を押さえ、護理総督の布政使廷雍を殺す","新任の直隷布政使周馥が保定で藩司の印を受け、連合軍は引き揚げる":"新任の｜直隷《ちょくれい》布政使周馥が｜保定《ほてい》で藩司の印を受け、連合軍は引き揚げる","河間":"｜河間《かかん》","河間市":"｜河間《かかん》市","邯鄲市永年区":"｜邯鄲《かんたん》市永年区","瀋陽（盛京）":"｜瀋陽《しんよう》（｜盛京《せいけい》）","瀋陽":"｜瀋陽《しんよう》","瀋陽市":"｜瀋陽《しんよう》市","遼陽":"｜遼陽《りょうよう》","遼陽市":"｜遼陽《りょうよう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。日清戦争では知州徐慶璋が団練で守り抜き陥落しなかった。1900年のロシア軍の進駐、〜1905年の日露戦争でも清の官が残ったため清のまま。":"明清交替の地図から引き継ぎ。日清戦争では｜知州《ちしゅう》徐慶璋が団練で守り抜き陥落しなかった。1900年のロシア軍の進駐、〜1905年の日露戦争でも清の官が残ったため清のまま。","三国干渉後の遼南還付条約により、営口・海城・蓋平などを清が接収":"｜三国《さんごく》干渉後の遼南還付条約により、営口・海城・蓋平などを清が接収","明清交替の地図から引き継ぎ。日清戦争（光緒二十年〜二十一年）で日本軍が一時入った。":"明清交替の地図から引き継ぎ。日清戦争（｜光緒《こうしょ》二十年〜二十一年）で日本軍が一時入った。","鎮江堡":"｜鎮江《ちんこう》堡","丹東市":"丹｜東市《とうし》","遼南還付で鳳凰・岫岩などの地を清が順次接収":"遼南還付で｜鳳凰《ほうおう》・岫岩などの地を清が順次接収","錦州":"｜錦州《きんしゅう》","錦州市":"｜錦州《きんしゅう》市","寧遠":"｜寧遠《ねいえん》","明清交替の地図から引き継ぎ。康熙十五年に寧古塔将軍がここへ移り、以後の吉林将軍の駐所。1900年にロシア軍が城と機器局を押さえたが、将軍長順は任にとどまり、1903年の交収で返還された（清の官が残ったので清のまま）":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜康熙《こうき》十五年に寧古塔将軍がここへ移り、以後の吉林将軍の駐所。1900年にロシア軍が城と機器局を押さえたが、将軍長順は任にとどまり、1903年の交収で返還された（清の官が残ったので清のまま）","明清交替の地図から引き継ぎ。順治十年に昂邦章京を置き、康熙十五年に将軍が吉林へ移った後も副都統が駐した。1900年にロシア軍が寧古塔を経て進み、庫の銀銭も失われたが、吉林将軍の管下として1903年に交収された（清のまま）":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜順治《じゅんち》十年に昂邦章京を置き、｜康熙《こうき》十五年に将軍が吉林へ移った後も副｜都統《ととう》が駐した。1900年にロシア軍が寧古塔を経て進み、庫の銀銭も失われたが、吉林将軍の管下として1903年に交収された（清のまま）","明清交替の地図から引き継ぎ。1684年にはまだ城・官はなく、寧古塔将軍の管下の赫哲などの地。康熙五十三年に協領、雍正十年に副都統を置いた。〜59年にロシア人が通商を求めて来たが居座りは解かれた。1900年に「俄据」とされたが、吉林将軍の管下として1903年に交収された（清のまま）":"明清交替の地図から引き継ぎ。1684年にはまだ城・官はなく、寧古塔将軍の管下の赫哲などの地。｜康熙《こうき》五十三年に協領、｜雍正《ようせい》十年に副｜都統《ととう》を置いた。〜59年にロシア人が通商を求めて来たが居座りは解かれた。1900年に「俄据」とされたが、吉林将軍の管下として1903年に交収された（清のまま）","明清交替の地図から引き継ぎ。1684年にはまだ城はなく、清に属する科爾沁などの地。康熙三十一年に城を築き協領を置いた（吉林の地理志は副都統の移駐を三十三年とする）":"明清交替の地図から引き継ぎ。1684年にはまだ城はなく、清に属する科爾沁などの地。｜康熙《こうき》三十一年に城を築き協領を置いた（吉林の地理志は副｜都統《ととう》の移駐を三十三年とする）","明清交替の地図から引き継ぎ。1684年にはまだ城はなく、天聡・崇徳中に服属した達呼爾などの地。康熙三十一年に城を築き、三十八年に黒龍江将軍が移駐した。1900年にロシア軍が省城に迫り将軍寿山は自尽したが、副都統薩保らが残って政務を執り、後任の将軍が赴任した（清の官が残ったので清のまま）":"明清交替の地図から引き継ぎ。1684年にはまだ城はなく、天聡・｜崇徳《すうとく》中に服属した達呼爾などの地。｜康熙《こうき》三十一年に城を築き、三十八年に黒龍江将軍が移駐した。1900年にロシア軍が省城に迫り将軍寿山は自尽したが、副｜都統《ととう》薩保らが残って政務を執り、後任の将軍が赴任した（清の官が残ったので清のまま）","明清交替の地図から引き継ぎ。康熙十年に墨爾哲勒氏が来帰して新満洲に編成された地。康熙二十四年に城を築き、二十九年から三十八年まで黒龍江将軍の駐所。1900年のロシア軍の進攻でも清の城として扱われ、清のまま":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜康熙《こうき》十年に墨爾哲勒氏が｜来帰《らいき》して新満洲に編成された地。｜康熙《こうき》二十四年に城を築き、二十九年から三十八年まで黒龍江将軍の駐所。1900年のロシア軍の進攻でも清の城として扱われ、清のまま","康熙二十二年に黒龍江将軍を新設して愛渾城に駐させた（雅克薩のロシア人に対する前線）":"｜康熙《こうき》二十二年に黒龍江将軍を新設して愛渾城に駐させた（雅克薩のロシア人に対する前線）","ロシア軍が黒河・瑷琿を攻め落とし、副都統鳳翔は城外へ退いて戦死した。清の官が城を追われた":"ロシア軍が黒河・瑷琿を攻め落とし、副｜都統《ととう》｜鳳翔《ほうしょう》は城外へ退いて戦死した。清の官が城を追われた","和約の後に黒龍江右岸の地を取り戻した（左岸の江東六十四屯は戻らなかった）":"｜和約《わやく》の後に黒龍江右岸の地を取り戻した（左岸の｜江東《こうとう》六十四屯は戻らなかった）","明清交替の地図から引き継ぎ。1684年にはまだ城はなく、寧古塔将軍の管下の庫爾喀人の地。康熙五十三年に協領を置いた。1860年の北京続約で東の沿海の地はロシア領になったが琿春は清に残った。1900年に「俄据」とされたが、吉林将軍の管下として1903年に交収された（清のまま）":"明清交替の地図から引き継ぎ。1684年にはまだ城はなく、寧古塔将軍の管下の庫爾喀人の地。｜康熙《こうき》五十三年に協領を置いた。1860年の北京続約で東の沿海の地はロシア領になったが琿春は清に残った。1900年に「俄据」とされたが、吉林将軍の管下として1903年に交収された（清のまま）","ネルチンスク条約で額爾古訥河の南岸が中国に属すると定まった（官はまだ置かれていない）":"ネルチンスク条約で額爾古訥河の南岸が｜中国《ちゅうごく》に属すると定まった（官はまだ置かれていない）","同治三年五月":"｜同治《どうち》三年五月","隴西県":"｜隴西《ろうせい》県","明清交替の地図から引き継ぎ。同治四年十月に回民が囲み、十一月に解囲。城は落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》四年十月に回民が囲み、十一月に解囲。城は落ちていない","蘭州":"｜蘭州《らんしゅう》","蘭州市":"｜蘭州《らんしゅう》市","明清交替の地図から引き継ぎ。乾隆四十六年に蘇四十三の撒拉爾回民が省城を囲み、同治三年には河州・狄道の回民が来犯し、同治五年には標兵の変があったが、いずれも年内に収まった":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜乾隆《けんりゅう》四十六年に蘇四十三の撒拉爾回民が省城を囲み、｜同治《どうち》三年には河州・狄道の回民が来犯し、｜同治《どうち》五年には標兵の変があったが、いずれも年内に収まった","涼州":"｜涼州《りょうしゅう》","武威市":"｜武威《ぶい》市","明清交替の地図から引き継ぎ。同治四年三月に涼州の回民が叛いたがすぐ平定（「凉州回众叛，剿平之」）。同治九年にも回民が窜ったが撃退。城は落ちていない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》四年三月に｜涼州《りょうしゅう》の回民が叛いたがすぐ平定（「凉州回众叛，剿平之」）。｜同治《どうち》九年にも回民が窜ったが撃退。城は落ちていない","甘州":"｜甘州《かんしゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。同治四年に甘州の回民が永固堡を陥し、同治十二年に白彦虎が甘州へ窜ったが、府城が陥ちた記事は見つからない":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》四年に｜甘州《かんしゅう》の回民が永固堡を陥し、｜同治《どうち》十二年に白彦虎が｜甘州《かんしゅう》へ窜ったが、府城が陥ちた記事は見つからない","粛州":"｜粛州《しゅくしゅう》","粛州の回民":"｜粛州《しゅくしゅう》の回民","回民が嘉峪関を占め、粛州城を陥す":"回民が嘉峪関を占め、｜粛州《しゅくしゅう》城を陥す","同治四年五月":"｜同治《どうち》四年五月","左宗棠・金順・徐占彪らが粛州を攻略し、馬文禄を誅す":"左宗棠・金順・徐占彪らが｜粛州《しゅくしゅう》を攻略し、馬文禄を誅す","同治十二年九月":"｜同治《どうち》十二年九月","同治三年十一月":"｜同治《どうち》三年十一月","同治十一年":"｜同治《どうち》十一年","同治四年二月":"｜同治《どうち》四年二月","明清交替の地図から引き継ぎ。同治年間に回民が再三陥し、そのつど官軍が回復した（下の不確か参照）":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》年間に回民が再三陥し、そのつど官軍が回復した（下の不確か参照）","秦州":"｜秦州《しんしゅう》","明清交替の地図から引き継ぎ。同治二年に回民が秦州の境に入り知州托克清阿が戦死したが、州城は守られた（「后秦州承其规画，防御严密，境获安全」）。曹克忠が秦州の囲みを解いている":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜同治《どうち》二年に回民が｜秦州《しんしゅう》の境に入り｜知州《ちしゅう》托克清阿が戦死したが、州城は守られた（「后｜秦州《しんしゅう》承其规画，防御严密，境获｜安全《あんぜん》」）。曹克忠が｜秦州《しんしゅう》の囲みを解いている","寧夏":"｜寧夏《ねいか》","馬化龍が寧夏（漢城）・霊州を陥す。満城は囲まれて持ちこたえた":"馬化龍が｜寧夏《ねいか》（漢城）・｜霊州《れいしゅう》を陥す。満城は囲まれて持ちこたえた","馬化龍が撫を乞い、寧夏漢城を献じる":"馬化龍が撫を乞い、｜寧夏《ねいか》漢城を献じる","同治五年正月":"｜同治《どうち》五年正月","寧夏の府城が陥ち、満城（新城）が囲まれる":"｜寧夏《ねいか》の府城が陥ち、満城（｜新城《しんじょう》）が囲まれる","寧夏の蜂起勢力（原文は「匪」）、志鋭伝に「兰州军譁变，宁夏继之」。政紀十一月二十三日の上諭が寧夏道・寧夏府・寧朔県などの官を「失守城池」として処分している。1911年の中の経緯: 宣統三年十月十四日以前（日不詳）に寧夏の蜂起勢力（原文は「匪」）、宣統三年十一月十八日以前（日不詳）にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）":"｜寧夏《ねいか》の蜂起勢力（原文は「匪」）、志鋭伝に「兰州军譁变，宁夏继之」。政紀十一月｜二十三《にじゅうさん》日の｜上諭《じょうゆ》が｜寧夏《ねいか》道・｜寧夏《ねいか》府・寧朔県などの官を「失守城池」として処分している。1911年の中の経緯: ｜宣統《せんとう》三年十月十四日以前（日不詳）に｜寧夏《ねいか》の蜂起勢力（原文は「匪」）、｜宣統《せんとう》三年十一月十八日以前（日不詳）にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）","明清交替の地図から引き継ぎ（霊州に属す堡）":"明清交替の地図から引き継ぎ（｜霊州《れいしゅう》に属す堡）","霊州の回民が起ち、馬化龍が金積堡を本拠にする":"｜霊州《れいしゅう》の回民が起ち、馬化龍が金積堡を本拠にする","同治元年九月":"｜同治《どうち》元年九月","同治十年二月":"｜同治《どうち》十年二月","霊州が失守し、呉忠堡も蜂起勢力の手に入る":"｜霊州《れいしゅう》が失守し、呉忠堡も蜂起勢力の手に入る","宣統三年十月初八日以前（日不詳）":"｜宣統《せんとう》三年十月初八日以前（日不詳）","寧夏の蜂起勢力（原文は「匪」）、1911年の中の経緯: 宣統三年十月初八日以前（日不詳）に寧夏の蜂起勢力（原文は「匪」）、宣統三年十二月初九日以前（日不詳）にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）":"｜寧夏《ねいか》の蜂起勢力（原文は「匪」）、1911年の中の経緯: ｜宣統《せんとう》三年十月初八日以前（日不詳）に｜寧夏《ねいか》の蜂起勢力（原文は「匪」）、｜宣統《せんとう》三年十二月初九日以前（日不詳）にqing。退位（1912年2月12日）までに持ち主がさらに替わった（qing）","伊犁（恵遠城）":"｜伊犁《イリ》（恵遠城）","伊犁":"｜伊犁《イリ》","準噶爾の本拠":"｜準噶爾《ジュンガル》の本拠","五月に清軍が伊犁を定め六月にダワチを捕らえたが、九月にアムルサナが叛いて伊犁を犯し、定北将軍班第が自刃":"五月に清軍が｜伊犁《イリ》を定め六月にダワチを捕らえたが、九月にアムルサナが叛いて｜伊犁《イリ》を犯し、定北将軍班第が自刃","乾隆二十年九月":"｜乾隆《けんりゅう》二十年九月","翌二十三年正月に諸軍が伊犁に会して残党を一掃。乾隆二十五年に弁事大臣、二十七年に伊犁将軍を置く":"翌｜二十三《にじゅうさん》年正月に諸軍が｜伊犁《イリ》に会して残党を一掃。｜乾隆《けんりゅう》二十五年に弁事大臣、二十七年に｜伊犁《イリ》将軍を置く","伊犁大城（恵遠城）が陥り、将軍明緒らが死ぬ":"｜伊犁《イリ》大城（恵遠城）が陥り、将軍明緒らが死ぬ","本紀は五月乙亥の条に記す（奏報の日）。前年に惠寧城（巴燕岱）が陥っている":"｜本紀《ほんぎ》は五月乙亥の条に記す（｜奏報《そうほう》の日）。前年に惠寧城（巴燕岱）が陥っている","ロシアが兵を出して伊犁を襲い取る（「代わりに回復した」と称する）":"ロシアが兵を出して｜伊犁《イリ》を襲い取る（「代わりに回復した」と称する）","同治十年五月":"｜同治《どうち》十年五月","光緒七年正月のイリ条約（改訂条約）により、伊犁将軍金順が伊犁を接収":"｜光緒《こうしょ》七年正月のイリ条約（改訂条約）により、｜伊犁《イリ》将軍金順が｜伊犁《イリ》を接収","条約の調印は光緒七年正月（「七年正月，与俄外部尚书吉尔斯…在俄都画押」）。返還地の受け取りは翌八年二月なので、歳末の持ち主は1881年がロシア、1882年から清":"条約の調印は｜光緒《こうしょ》七年正月（「七年正月，与俄外部尚书吉尔斯…在俄都画押」）。返還地の受け取りは翌八年二月なので、歳末の持ち主は1881年がロシア、1882年から清","城を築き参賛大臣を置いたのは乾隆二十九〜三十一年。〜57年はアムルサナの叛乱の舞台":"城を築き参賛大臣を置いたのは｜乾隆《けんりゅう》二十九〜三十一年。〜57年はアムルサナの｜叛乱《はんらん》の舞台","前年（同治四年）の回変では喇嘛棍噶札拉参の兵が囲みを解いた":"前年（｜同治《どうち》四年）の回変では喇嘛棍噶札拉参の兵が囲みを解いた","署伊犁将軍栄全が塔爾巴哈台に至り、城の近くに行営を立てる（同年十一月に参賛大臣富和を任命）":"署｜伊犁《イリ》将軍栄全が塔爾巴哈台に至り、城の近くに｜行営《こうえい》を立てる（同年十一月に参賛大臣富和を任命）","同治十年十二月":"｜同治《どうち》十年十二月","哈密の回部（ダルハン・ベク）は清に入貢しつつ、ガルダンの強勢を畏れて準噶爾に従っていた。":"哈密の｜回部《かいぶ》（ダルハン・ベク）は清に｜入貢《にゅうこう》しつつ、ガルダンの強勢を畏れて｜準噶爾《ジュンガル》に従っていた。","康熙三十六年正月":"｜康熙《こうき》三十六年正月","前年（康熙三十五年）に降表を出しているが、扎薩克を設けた三十六年を採った。1715年・1731年に準噶爾が襲ったが撃退され、帰属は変わらない":"前年（｜康熙《こうき》三十五年）に｜降表《こうひょう》を出しているが、扎薩克を設けた三十六年を採った。1715年・1731年に｜準噶爾《ジュンガル》が襲ったが撃退され、帰属は変わらない","前年（同治三年）十月にも漢回が乱を起こしたが十一月に平定された":"前年（｜同治《どうち》三年）十月にも漢回が乱を起こしたが十一月に平定された","同治六年四月":"｜同治《どうち》六年四月","地理志は準噶爾の台吉の遊牧地とする":"地理志は｜準噶爾《ジュンガル》の台吉の遊牧地とする","康熙三十六年":"｜康熙《こうき》三十六年","康熙五十九年七月":"｜康熙《こうき》五十九年七月","翌年（康熙六十年八月）には副都統の兵を進駐させ屯田した":"翌年（｜康熙《こうき》六十年八月）には副｜都統《ととう》の兵を進駐させ｜屯田《とんでん》した","雍正三年":"｜雍正《ようせい》三年","額敏和卓らは魯克沁に残って準噶爾を拒んだ":"額敏和卓らは魯克沁に残って｜準噶爾《ジュンガル》を拒んだ","準噶爾が吐魯番を侵し、岳鍾琪が援兵を出して兵を留め屯戍させる":"｜準噶爾《ジュンガル》が吐魯番を侵し、岳鍾琪が援兵を出して兵を留め屯戍させる","雍正九年六月":"｜雍正《ようせい》九年六月","額敏和卓が魯克沁の回衆を率いて内地（瓜州）へ移り、清は吐魯番を引き払う":"額敏和卓が魯克沁の回衆を率いて内地（｜瓜州《かしゅう》）へ移り、清は吐魯番を引き払う","雍正十年":"｜雍正《ようせい》十年","引用の「防」は底本どおり（旨の誤字）。年は直前の行の「十年遵」による。乾隆二十年まで吐魯番の回民は準噶爾に貢賦を納めた":"引用の「防」は底本どおり（旨の誤字）。年は直前の行の「十年遵」による。｜乾隆《けんりゅう》二十年まで吐魯番の回民は｜準噶爾《ジュンガル》に｜貢賦《こうふ》を納めた","乾隆二十年四月":"｜乾隆《けんりゅう》二十年四月","乾隆二十一年十一月":"｜乾隆《けんりゅう》二十一年十一月","アムルサナに呼応した厄魯特諸宰桑の叛乱の一部":"アムルサナに呼応した厄魯特諸宰桑の｜叛乱《はんらん》の一部","乾隆二十二年春":"｜乾隆《けんりゅう》二十二年春","乾隆二十四年に辟展弁事大臣を置く":"｜乾隆《けんりゅう》二十四年に辟展弁事大臣を置く","同治三年七月":"｜同治《どうち》三年七月","攻め抜いた報は同治十年正月の上諭に見える":"攻め抜いた報は｜同治《どうち》十年正月の｜上諭《じょうゆ》に見える","準噶爾の台吉の遊牧地":"｜準噶爾《ジュンガル》の台吉の遊牧地","準噶爾が平らげられ、烏魯木斉が内属":"｜準噶爾《ジュンガル》が平らげられ、烏魯木斉が内属","乾隆二十年":"｜乾隆《けんりゅう》二十年","官を置いたのは乾隆二十五年（同知）から":"官を置いたのは｜乾隆《けんりゅう》二十五年（同知）から","六月に参将索煥章らが叛して漢城が陥り、十月に満城も陥落して都統平瑞らが死ぬ。妥明（陝回の阿渾）が城に拠る":"六月に参将索煥章らが叛して漢城が陥り、十月に満城も陥落して｜都統《ととう》平瑞らが死ぬ。妥明（陝回の阿渾）が城に拠る","同治十年四月":"｜同治《どうち》十年四月","同治十二年にも「安集延久踞烏城」とある。白彦虎はその下で烏魯木斉に拠った":"｜同治《どうち》十二年にも「安集延久踞烏城」とある。白彦虎はその下で烏魯木斉に拠った","本紀は八月辛卯の条に回復を記す（奏報の日）。左宗棠伝は五月に天山を越えて攻め克ったとする。どちらも光緒二年":"｜本紀《ほんぎ》は八月｜辛卯《しんぼう》の条に回復を記す（｜奏報《そうほう》の日）。左宗棠伝は五月に天山を越えて攻め克ったとする。どちらも｜光緒《こうしょ》二年","官を置いたのは乾隆二十七年（弁事大臣）":"官を置いたのは｜乾隆《けんりゅう》二十七年（弁事大臣）","回民が庫爾喀喇烏蘇を陥れ、伊犁が戒厳":"回民が庫爾喀喇烏蘇を陥れ、｜伊犁《イリ》が戒厳","同治四年七月":"｜同治《どうち》四年七月","伊犁大城の陥落と前後して道が絶え、庫爾喀喇烏蘇領隊大臣は任地に赴けなくなる":"｜伊犁《イリ》大城の陥落と前後して道が絶え、庫爾喀喇烏蘇領隊大臣は任地に赴けなくなる","署伊犁将軍栄全が英廉らの馬隊を庫爾喀喇烏蘇へ送り屯扎させる":"署｜伊犁《イリ》将軍栄全が英廉らの馬隊を庫爾喀喇烏蘇へ送り屯扎させる","同治十一年九月":"｜同治《どうち》十一年九月","翌二十三年に城を築き、二十四年に弁事大臣を置く。乾隆二十二〜二十三年は付近に厄魯特の叛衆（沙拉斯・瑪呼斯）が残っていた":"翌｜二十三《にじゅうさん》年に城を築き、二十四年に弁事大臣を置く。｜乾隆《けんりゅう》二十二〜｜二十三《にじゅうさん》年は付近に厄魯特の叛衆（沙拉斯・瑪呼斯）が残っていた","同治六年（年は仮置き）":"｜同治《どうち》六年（年は仮置き）","準噶爾の平定に際し葉爾羌など回部の和卓が来降":"｜準噶爾《ジュンガル》の平定に際し葉爾羌など｜回部《かいぶ》の和卓が来降","霍集占が庫車で城を閉じて清使阿敏道を捕らえ、叛く。阿敏道は殺される":"霍集占が庫車で城を閉じて清使｜阿敏《あびん》道を捕らえ、叛く。｜阿敏《あびん》道は殺される","乾隆二十二年四月":"｜乾隆《けんりゅう》二十二年四月","乾隆二十三年":"｜乾隆《けんりゅう》｜二十三《にじゅうさん》年","乾隆二十三年九月":"｜乾隆《けんりゅう》｜二十三《にじゅうさん》年九月","乾隆三十年閏二月に烏什の回民が叛いて弁事大臣素誠を殺したが、同年九月に城を以て降ったので変えない（本紀「乌什叛回以城降」）":"｜乾隆《けんりゅう》三十年閏二月に烏什の回民が叛いて弁事大臣素誠を殺したが、同年九月に城を以て降ったので変えない（｜本紀《ほんぎ》「乌什叛回以城降」）","和卓家は準噶爾の支配下にあり、準噶爾汗が和卓の一族を伊犁に囚えていた":"和卓家は｜準噶爾《ジュンガル》の支配下にあり、｜準噶爾《ジュンガル》汗が和卓の一族を｜伊犁《イリ》に囚えていた","回部の和卓が来降し、定北将軍班第が囚われていた波羅泥都を放って喀什噶爾へ帰す":"｜回部《かいぶ》の和卓が来降し、定北将軍班第が囚われていた波羅泥都を放って喀什噶爾へ帰す","大小和卓が叛き、阿敏道を殺す":"大小和卓が叛き、｜阿敏《あびん》道を殺す","叛乱の兆しは前年（乾隆二十一年十月）に報じられている":"｜叛乱《はんらん》の兆しは前年（｜乾隆《けんりゅう》二十一年十月）に報じられている","乾隆二十四年闰六月":"｜乾隆《けんりゅう》二十四年闰六月","張格爾":"｜張格爾《ちょうかくじ》","張格爾が喀什噶爾城を陥れ、参賛大臣慶祥らが死ぬ":"｜張格爾《ちょうかくじ》が喀什噶爾城を陥れ、参賛大臣慶祥らが死ぬ","道光六年八月":"｜道光《どうこう》六年八月","1820年・1825年の張格爾の入卡は城を陥れていない":"1820年・1825年の｜張格爾《ちょうかくじ》の入卡は城を陥れていない","長齢らが喀什噶爾を克ち、張格爾は逃れる":"長齢らが喀什噶爾を克ち、｜張格爾《ちょうかくじ》は逃れる","道光七年四月":"｜道光《どうこう》七年四月","1830年（道光十年）の浩罕・安集延の入寇は城を囲んだが陥れず同年十二月に平定。1847年・1857年の入寇も同年のうちに回復（1857年は回城が一時占拠され九月に回復）":"1830年（｜道光《どうこう》十年）の浩罕・安集延の｜入寇《にゅうこう》は城を囲んだが陥れず同年十二月に平定。1847年・1857年の｜入寇《にゅうこう》も同年のうちに回復（1857年は回城が一時占拠され九月に回復）","同治四年（年は仮置き）":"｜同治《どうち》四年（年は仮置き）","清史稿地理志は阿古柏の乱を同治三年にまとめて記す。喀什噶爾漢城は清の守備何歩雲が阿古柏に降って守っていた":"｜清史稿《しんしこう》地理志は阿古柏の乱を｜同治《どうち》三年にまとめて記す。喀什噶爾漢城は清の守備何歩雲が阿古柏に降って守っていた","本紀は光緒四年正月の条に「西軍復葉爾羌、喀什噶爾」と記す（奏報の日）。董福祥伝は和闐を克ったのを「是冬」とし、同じ光緒三年の冬":"｜本紀《ほんぎ》は｜光緒《こうしょ》四年正月の条に「西軍復葉爾羌、喀什噶爾」と記す（｜奏報《そうほう》の日）。董福祥伝は和闐を克ったのを「是冬」とし、同じ｜光緒《こうしょ》三年の冬","喀什噶爾の属地（喀什噶爾の項と同じく準噶爾の支配下）":"喀什噶爾の属地（喀什噶爾の項と同じく｜準噶爾《ジュンガル》の支配下）","回部の和卓が来降":"｜回部《かいぶ》の和卓が来降","霍集占を平らげて内属し、英吉沙爾と名付け総兵を置く":"霍集占を平らげて内属し、英吉沙爾と名付け｜総兵《そうへい》を置く","乾隆二十四年":"｜乾隆《けんりゅう》二十四年","葉爾羌の汗は準噶爾に阻まれて清に通じられなかった":"葉爾羌の汗は｜準噶爾《ジュンガル》に阻まれて清に通じられなかった","葉爾羌など回部の和卓が来降し内属":"葉爾羌など｜回部《かいぶ》の和卓が来降し内属","乾隆二十三年冬〜二十四年正月、兆恵は葉爾羌城外の黒水営で包囲された":"｜乾隆《けんりゅう》｜二十三《にじゅうさん》年冬〜二十四年正月、兆恵は葉爾羌城外の黒水営で包囲された","張格爾が喀什噶爾に続いて葉爾羌を陥れ、弁事大臣音登額らが死ぬ":"｜張格爾《ちょうかくじ》が喀什噶爾に続いて葉爾羌を陥れ、弁事大臣音登額らが死ぬ","道光七年":"｜道光《どうこう》七年","1830年（道光十年）・1847年の入寇は葉爾羌で撃退された。道光十一年以後、回疆参賛大臣が葉爾羌に駐す":"1830年（｜道光《どうこう》十年）・1847年の｜入寇《にゅうこう》は葉爾羌で撃退された。｜道光《どうこう》十一年以後、｜回疆《かいきょう》参賛大臣が葉爾羌に駐す","同治五年（年は仮置き）":"｜同治《どうち》五年（年は仮置き）","張格爾が和闐城を陥れ、領隊大臣奕湄らが死ぬ":"｜張格爾《ちょうかくじ》が和闐城を陥れ、領隊大臣奕湄らが死ぬ","道光六年七月":"｜道光《どうこう》六年七月","道光七年五月":"｜道光《どうこう》七年五月","明清交替の地図から引き継ぎ。清の版図（綏遠城将軍の管下）。1911年も清の官が残る（宣統三年の本紀・籓部に失陥の記事なし）":"明清交替の地図から引き継ぎ。清の版図（綏遠城将軍の管下）。1911年も清の官が残る（｜宣統《せんとう》三年の｜本紀《ほんぎ》・籓部に失陥の記事なし）","明清交替の地図から引き継ぎ。雍正元年（1723年）十一月に羅卜藏丹津の軍が西寧を襲ったが守備の官軍に撃退され、城は失っていない。雍正三年（1725年）以後は青海の諸旗を統べる西寧辦事大臣（總理青海蒙古番子事務）の駐所。宣統三年の歳末まで清":"明清交替の地図から引き継ぎ。｜雍正《ようせい》元年（1723年）十一月に羅卜藏丹津の軍が西寧を襲ったが守備の官軍に撃退され、城は失っていない。｜雍正《ようせい》三年（1725年）以後は｜青海《せいかい》の諸旗を統べる西寧辦事大臣（總理｜青海《せいかい》｜蒙古《もうこ》番子事務）の駐所。｜宣統《せんとう》三年の歳末まで清"}