{"西晋":"｜西晋《せいしん》","東晋":"｜東晋《とうしん》","前趙":"｜前趙《ぜんちょう》","後趙":"｜後趙《こうちょう》","成漢":"｜成漢《せいかん》","前涼":"｜前涼《ぜんりょう》","前燕":"｜前燕《ぜんえん》","前秦":"｜前秦《ぜんしん》","後燕":"｜後燕《こうえん》","西燕":"｜西燕《せいえん》","後秦":"｜後秦《こうしん》","南燕":"｜南燕《なんえん》","西秦":"｜西秦《せいしん》","北涼":"｜北涼《ほくりょう》","西涼":"｜西涼《せいりょう》","北魏":"｜北魏《ほくぎ》","吐谷渾":"｜吐谷渾《とよくこん》","柔然":"｜柔然《じゅうぜん》","高句麗":"｜高句麗《こうくり》","晋陽":"｜晋陽《しんよう》","太原市":"｜太原《たいげん》市","西晋の内地（并州太原国晋陽、并州の州治）。306年から并州刺史劉琨が拠る。312年八月に漢の劉粲・劉曜が晋陽を取ったが、同年のうちに拓跋猗盧の救援で劉曜は民を掠めて退き、猗盧は箕澹・段繁を晋陽に留めて戍らせた（歳末は劉琨＝西晋側）。帰属は変えない":"｜西晋《せいしん》の内地（｜并州《へいしゅう》｜太原《たいげん》国｜晋陽《しんよう》、｜并州《へいしゅう》の｜州治《しゅうち》）。306年から｜并州刺史《へいしゅうしし》｜劉《りゅう》｜琨《こん》が拠る。312年八月に漢の｜劉粲《りゅうさん》・｜劉曜《りゅうよう》が｜晋陽《しんよう》を取ったが、同年のうちに｜拓跋《たくばつ》猗盧の救援で｜劉曜《りゅうよう》は民を掠めて退き、猗盧は箕澹・段繁を｜晋陽《しんよう》に留めて戍らせた（歳末は｜劉《りゅう》｜琨《こん》＝｜西晋《せいしん》側）。帰属は変えない","石勒":"｜石勒《せきろく》","劉琨の司空長史李弘が并州（晋陽）ごと石勒に降り、劉琨は飛狐から薊の段匹磾のもとへ走る":"｜劉《りゅう》｜琨《こん》の｜司空《しくう》長史李弘が｜并州《へいしゅう》（｜晋陽《しんよう》）ごと｜石勒《せきろく》に降り、｜劉《りゅう》｜琨《こん》は飛狐から薊の段匹磾のもとへ走る","建興四年十二月":"｜建興《けんこう》四年十二月","石勒が趙王を称する（石勒の城）。325年に後趙の西夷中郎将王騰が并州刺史崔琨・上党内史王昚を殺して并州ごと前趙に降ったが、同年六月に石虎が王騰を擒えて殺しており、年内に戻っているので帰属は変えない":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する（｜石勒《せきろく》の城）。325年に｜後趙《こうちょう》の西夷中郎将王騰が｜并州刺史《へいしゅうしし》崔琨・｜上党《じょうとう》内史王昚を殺して｜并州《へいしゅう》ごと｜前趙《ぜんちょう》に降ったが、同年六月に｜石虎《せきこ》が王騰を擒えて殺しており、年内に戻っているので帰属は変えない","後趙の并州刺史張平が後趙の滅亡（石祗の死）とともに自立し、前秦に降って大将軍・冀州牧を受ける。以後352年に前燕、357年に東晋・前秦へと名目上の服属先を替えつつ新興・雁門・西河・太原・上党・上郡を保つ":"｜後趙《こうちょう》の｜并州刺史《へいしゅうしし》張平が｜後趙《こうちょう》の滅亡（｜石祗《せきし》の死）とともに自立し、｜前秦《ぜんしん》に降って｜大将軍《だいしょうぐん》・｜冀州《きしゅう》牧を受ける。以後352年に｜前燕《ぜんえん》、357年に｜東晋《とうしん》・｜前秦《ぜんしん》へと名目上の服属先を替えつつ新興・｜雁門《がんもん》・西河・｜太原《たいげん》・｜上党《じょうとう》・上郡を保つ","永和七年":"｜永和《えいわ》七年","前燕の慕容評が并州の張平を討ち、并州の壁塁百余が燕に降る。燕は悦綰を并州刺史とする。張平は平陽へ走る":"｜前燕《ぜんえん》の｜慕容《ぼよう》評が｜并州《へいしゅう》の張平を討ち、｜并州《へいしゅう》の壁塁百余が燕に降る。燕は悦綰を｜并州刺史《へいしゅうしし》とする。張平は｜平陽《へいよう》へ走る","升平二年":"｜升平《しょうへい》二年","前秦の王猛・楊安が地道から晋陽に入り、燕の并州刺史東海王慕容荘を擒える":"｜前秦《ぜんしん》の王猛・楊安が地道から｜晋陽《しんよう》に入り、燕の｜并州刺史《へいしゅうしし》｜東海王《とうかいおう》｜慕容《ぼよう》荘を擒える","太和五年九月（辛巳）":"｜太和《たいわ》五年九月（辛巳）","苻丕が王騰を晋陽に留めて平陽へ進み、襄陵で西燕の慕容永に大敗して死ぬ。苻丕の王公百官はみな慕容永に没し、慕容永は長子で即位":"｜苻丕《ふひ》が王騰を｜晋陽《しんよう》に留めて｜平陽《へいよう》へ進み、｜襄陵《じょうりょう》で｜西燕《せいえん》の｜慕容永《ぼようえい》に大敗して死ぬ。｜苻丕《ふひ》の王公百官はみな｜慕容永《ぼようえい》に没し、｜慕容永《ぼようえい》は長子で即位","太元十一年":"｜太元《たいげん》十一年","後燕の慕容垂が西燕を破り、晋陽の守将は城を棄てて走り、丹楊王慕容瓚が晋陽を取る。慕容瓚を并州刺史として晋陽に鎮させる":"｜後燕《こうえん》の｜慕容垂《ぼようすい》が｜西燕《せいえん》を破り、｜晋陽《しんよう》の守将は城を棄てて走り、丹楊王｜慕容《ぼよう》瓚が｜晋陽《しんよう》を取る。｜慕容《ぼよう》瓚を｜并州刺史《へいしゅうしし》として｜晋陽《しんよう》に鎮させる","太元十九年":"｜太元《たいげん》十九年","北魏の拓跋珪が晋陽に臨み、燕の并州牧遼西王慕容農は城を棄てて東へ走る。魏は并州を取って刺史・太守を置く":"｜北魏《ほくぎ》の｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》が｜晋陽《しんよう》に臨み、燕の｜并州《へいしゅう》牧｜遼西《りょうせい》王慕容農は城を棄てて東へ走る。魏は｜并州《へいしゅう》を取って｜刺史《しし》・｜太守《たいしゅ》を置く","皇始元年九月":"｜皇始《こうし》元年九月","平陽（晋州）":"｜平陽《へいよう》（｜晋州《しんしゅう》）","平陽":"｜平陽《へいよう》","西晋の内地（平陽郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜平陽《へいよう》郡）","漢王劉淵が平陽を攻め、平陽太守宋抽は郡を棄てて走る。劉淵は蒲子に遷都し、翌309年正月に平陽へ遷都":"漢王｜劉淵《りゅうえん》が｜平陽《へいよう》を攻め、｜平陽《へいよう》｜太守《たいしゅ》宋抽は郡を棄てて走る。｜劉淵《りゅうえん》は｜蒲子《ほし》に遷都し、翌309年正月に｜平陽《へいよう》へ遷都","永嘉二年七月（甲辰）":"｜永嘉《えいか》二年七月（｜甲辰《こうしん》）","靳準の乱（八月に劉粲以下を殺す）の後、石勒・石虎が平陽を攻め、靳明は平陽の士女を率いて劉曜のもとへ走る。石勒は平陽の宮室を焼き、戍を置いて帰る（名目上は漢の大将軍）":"｜靳《きん》準の乱（八月に｜劉粲《りゅうさん》以下を殺す）の後、｜石勒《せきろく》・｜石虎《せきこ》が｜平陽《へいよう》を攻め、｜靳《きん》明は｜平陽《へいよう》の士女を率いて｜劉曜《りゅうよう》のもとへ走る。｜石勒《せきろく》は｜平陽《へいよう》の宮室を焼き、戍を置いて帰る（名目上は漢の｜大将軍《だいしょうぐん》）","太興元年十二月":"｜太興《たいこう》元年十二月","石勒が趙王を称する。晋書地理志は『劉曜が長安に都を移すと平陽以東の地は石勒に入った』とする（晋書：劉曜徙都長安，其平陽以東地入石勒）":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する。｜晋書《しんじょ》地理志は『｜劉曜《りゅうよう》が｜長安《ちょうあん》に都を移すと｜平陽《へいよう》以東の地は｜石勒《せきろく》に入った』とする（｜晋書《しんじょ》：｜劉曜《りゅうよう》徙都｜長安《ちょうあん》，其｜平陽《へいよう》以東地入｜石勒《せきろく》）","後趙の滅亡。并州の張平が前秦に降って大将軍となる。353年に前秦の苻飛が平陽で晋王を称した劉康を討ち、356〜357年には前秦の平陽太守苻産が匈奴堡にいた":"｜後趙《こうちょう》の滅亡。｜并州《へいしゅう》の張平が｜前秦《ぜんしん》に降って｜大将軍《だいしょうぐん》となる。353年に｜前秦《ぜんしん》の苻飛が｜平陽《へいよう》で｜晋王《しんおう》を称した｜劉康《りゅうこう》を討ち、356〜357年には｜前秦《ぜんしん》の｜平陽《へいよう》｜太守《たいしゅ》苻産が｜匈奴《きょうど》堡にいた","前秦・前燕に相次いで討たれた張平が三千の衆を率いて平陽に走り、また燕に降る（名目上は燕に服属）":"｜前秦《ぜんしん》・｜前燕《ぜんえん》に相次いで討たれた張平が三千の衆を率いて｜平陽《へいよう》に走り、また燕に降る（名目上は燕に服属）","平陽の人が郡を挙げて燕に降り、燕は段剛を太守とした。張平が燕の平陽を襲って段剛・韓苞を殺したが、その後前秦に攻められて滅ぼされる":"｜平陽《へいよう》の人が郡を挙げて燕に降り、燕は段剛を｜太守《たいしゅ》とした。張平が燕の｜平陽《へいよう》を襲って段剛・韓苞を殺したが、その後｜前秦《ぜんしん》に攻められて滅ぼされる","升平五年":"｜升平《しょうへい》五年","平陽に進んだ前秦の苻丕が襄陵で西燕の慕容永に大敗し、慕容永は東へ進んで長子に拠る":"｜平陽《へいよう》に進んだ｜前秦《ぜんしん》の｜苻丕《ふひ》が｜襄陵《じょうりょう》で｜西燕《せいえん》の｜慕容永《ぼようえい》に大敗し、｜慕容永《ぼようえい》は東へ進んで長子に拠る","後燕が長子を落として西燕を滅ぼし、慕容永の統べた八郡を得る":"｜後燕《こうえん》が長子を落として｜西燕《せいえん》を滅ぼし、｜慕容永《ぼようえい》の統べた八郡を得る","北魏が并州を取り、汾川を略定する。402年には魏の平陽太守貳塵・平陽の乾壁が見え、410年には魏が于栗磾に一万を率いて平陽を鎮させている":"｜北魏《ほくぎ》が｜并州《へいしゅう》を取り、汾川を略定する。402年には魏の｜平陽《へいよう》｜太守《たいしゅ》貳塵・｜平陽《へいよう》の乾壁が見え、410年には魏が于栗磾に一万を率いて｜平陽《へいよう》を鎮させている","皇始元年":"｜皇始《こうし》元年","離石":"｜離石《りせき》","離石区":"｜離石《りせき》区","西晋の西河国離石県。南匈奴の五部が住む":"｜西晋《せいしん》の西河国｜離石《りせき》県。南｜匈奴《きょうど》の｜五部《ごぶ》が住む","劉淵が左国城に至って大単于を称し、離石に都する。同年十月に左国城で漢王に即位":"｜劉淵《りゅうえん》が｜左国城《さこくじょう》に至って大｜単于《ぜんう》を称し、｜離石《りせき》に都する。同年十月に｜左国城《さこくじょう》で漢王に即位","永興元年":"｜永興《えいこう》元年","漢の崩壊（318年）後、石勒の領域になったとみる。晋書石勒載記に石虎が離石の鮮卑郁粥を討ってその衆城を降した記事、地理志に石勒が荒廃した離石の地に永石郡を置いた記事がある":"漢の崩壊（318年）後、｜石勒《せきろく》の領域になったとみる。｜晋書《しんじょ》石勒載記に｜石虎《せきこ》が｜離石《りせき》の｜鮮卑《せんぴ》郁粥を討ってその衆城を降した記事、地理志に｜石勒《せきろく》が荒廃した｜離石《りせき》の地に永石郡を置いた記事がある","後趙の并州刺史張平が自立（西河は張平の地）":"｜後趙《こうちょう》の｜并州刺史《へいしゅうしし》張平が自立（西河は張平の地）","前燕が張平を討ち、并州の壁塁百余が燕に降る":"｜前燕《ぜんえん》が張平を討ち、｜并州《へいしゅう》の壁塁百余が燕に降る","前秦が前燕の并州を取り、ついで燕を滅ぼす。燕の州郡はすべて秦に降る":"｜前秦《ぜんしん》が｜前燕《ぜんえん》の｜并州《へいしゅう》を取り、ついで燕を滅ぼす。燕の州郡はすべて秦に降る","太和五年":"｜太和《たいわ》五年","苻丕が襄陵で慕容永に敗れて死に、苻丕の臣佐はみな慕容永に没する":"｜苻丕《ふひ》が｜襄陵《じょうりょう》で｜慕容永《ぼようえい》に敗れて死に、｜苻丕《ふひ》の臣佐はみな｜慕容永《ぼようえい》に没する","後燕が西燕を滅ぼし、慕容永の統べた八郡を得る。396年に燕の離石護軍高秀和が見える":"｜後燕《こうえん》が｜西燕《せいえん》を滅ぼし、｜慕容永《ぼようえい》の統べた八郡を得る。396年に燕の｜離石《りせき》｜護軍《ごぐん》高秀和が見える","魏の奚牧が汾川を略定し、燕の丹楊王慕容買得と離石護軍高秀和を（平陶で）獲る":"魏の奚牧が汾川を略定し、燕の丹楊王｜慕容《ぼよう》買得と｜離石《りせき》｜護軍《ごぐん》高秀和を（平陶で）獲る","皇始元年九月（己未）":"｜皇始《こうし》元年九月（｜己未《きび》）","上党":"｜上党《じょうとう》","西晋の内地（上党郡）。304年に漢の劉曜が泫氏・屯留・長子などを取ったが、上党太守は壺関に拠って晋に属した":"｜西晋《せいしん》の内地（｜上党《じょうとう》郡）。304年に漢の｜劉曜《りゅうよう》が泫氏・屯留・長子などを取ったが、｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》は壺関に拠って晋に属した","漢の劉聡・王弥・石勒が壺関を攻め、屯留・長子を破る。上党太守龐淳が壺関ごと漢に降る（劉琨は張倚を上党太守として襄垣に拠らせた）":"漢の｜劉聡《りゅうそう》・王弥・｜石勒《せきろく》が壺関を攻め、屯留・長子を破る。｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》龐淳が壺関ごと漢に降る（｜劉《りゅう》｜琨《こん》は張倚を｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》として襄垣に拠らせた）","永嘉三年":"｜永嘉《えいか》三年","石勒が河内など二十四郡を趙国として趙王を称する。上党はその二十四郡の一つ":"｜石勒《せきろく》が｜河内《かだい》など二十四郡を趙国として｜趙王《ちょうおう》を称する。｜上党《じょうとう》はその二十四郡の一つ","太興二年十一月":"｜太興《たいこう》二年十一月","後趙の滅亡。庫傉官偉が部衆を率いて上党から前燕に降る":"｜後趙《こうちょう》の滅亡。庫傉官偉が部衆を率いて｜上党《じょうとう》から｜前燕《ぜんえん》に降る","上党の人馮鴦が燕の上党太守段剛を逐い、安民城に拠って太守を自称し、東晋に降る（名目上は晋）。その後張平にも附く":"｜上党《じょうとう》の人馮鴦が燕の｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》段剛を逐い、安民城に拠って｜太守《たいしゅ》を自称し、｜東晋《とうしん》に降る（名目上は晋）。その後張平にも附く","永和十一年":"｜永和《えいわ》十一年","燕の上庸王慕容評・慕輿根が馮鴦を攻め、馮鴦は野王の呂護のもとへ走り、その党はみな降る。晋書は『慕容恪が上党に進拠した』とする":"燕の上庸王｜慕容《ぼよう》評・慕輿根が馮鴦を攻め、馮鴦は｜野王《やおう》の呂護のもとへ走り、その党はみな降る。｜晋書《しんじょ》は『｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が｜上党《じょうとう》に進拠した』とする","前秦の王猛が壺関を落とし、燕の上党太守南安王慕容越を擒える":"｜前秦《ぜんしん》の王猛が壺関を落とし、燕の｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》｜南安王《なんあんおう》｜慕容《ぼよう》越を擒える","苻丕が襄陵で敗れて死に、西燕の慕容永が上党の長子に拠って皇帝に即位する（壺関には前秦の楊輔が戍っていた）":"｜苻丕《ふひ》が｜襄陵《じょうりょう》で敗れて死に、｜西燕《せいえん》の｜慕容永《ぼようえい》が｜上党《じょうとう》の長子に拠って皇帝に即位する（壺関には｜前秦《ぜんしん》の楊輔が戍っていた）","後燕の慕容垂が長子を囲み、内応で城に入って慕容永を殺す。宜都王慕容鳳を雍州刺史として長子に鎮させる":"｜後燕《こうえん》の｜慕容垂《ぼようすい》が長子を囲み、内応で城に入って｜慕容永《ぼようえい》を殺す。｜宜都王《ぎとおう》｜慕容《ぼよう》鳳を｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》として長子に鎮させる","北魏が并州を取り、晋陽から東へ逃げる燕の慕容農を潞川（上党）まで追う。402年には魏の上党太守が見える":"｜北魏《ほくぎ》が｜并州《へいしゅう》を取り、｜晋陽《しんよう》から東へ逃げる燕の慕容農を｜潞川《ろせん》（｜上党《じょうとう》）まで追う。402年には魏の｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》が見える","雁門":"｜雁門《がんもん》","西晋雁門郡（陘南）":"｜西晋《せいしん》｜雁門《がんもん》郡（陘南）","劉琨の并州が石勒に降り、劉琨は幽州へ走る。雁門の陥落を名指す条は無い":"｜劉《りゅう》｜琨《こん》の｜并州《へいしゅう》が｜石勒《せきろく》に降り、｜劉《りゅう》｜琨《こん》は｜幽州《ゆうしゅう》へ走る。｜雁門《がんもん》の陥落を名指す条は無い","石勒が趙王を称する。325年に後趙の石佗が雁門から上郡へ出撃しており後趙の地と確かめられる（通鑑）":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する。325年に｜後趙《こうちょう》の石佗が｜雁門《がんもん》から上郡へ出撃しており｜後趙《こうちょう》の地と確かめられる（通鑑）","後趙の并州刺史張平が自立（雁門は張平の地）":"｜後趙《こうちょう》の｜并州刺史《へいしゅうしし》張平が自立（｜雁門《がんもん》は張平の地）","前燕が張平を討ち、并州の壁塁百余が燕に降る。361年に燕の雁門太守単男が見える":"｜前燕《ぜんえん》が張平を討ち、｜并州《へいしゅう》の壁塁百余が燕に降る。361年に燕の｜雁門《がんもん》｜太守《たいしゅ》単男が見える","前秦が前燕を滅ぼし、燕の州郡はすべて秦に降る。376年以後は劉庫仁が雁門・上谷・代郡の兵を統べた":"｜前秦《ぜんしん》が｜前燕《ぜんえん》を滅ぼし、燕の州郡はすべて秦に降る。376年以後は劉庫仁が｜雁門《がんもん》・｜上谷《じょうこく》・代郡の兵を統べた","独孤部（劉顕）":"独孤部（｜劉《りゅう》顕）","劉庫仁（384年に殺される）の弟頭眷を、庫仁の子劉顕が殺して自立する。前秦の北辺の統制は失われる":"劉庫仁（384年に殺される）の弟頭眷を、庫仁の子｜劉《りゅう》顕が殺して自立する。｜前秦《ぜんしん》の北辺の統制は失われる","太元十年":"｜太元《たいげん》十年","後燕の慕容麟・慕容楷が劉顕を大破し、劉顕は馬邑西山へ、さらに西燕へ走る。燕は劉顕の部衆を収め、弟の可泥を烏桓王として残衆を撫させる":"｜後燕《こうえん》の｜慕容麟《ぼようりん》・｜慕容《ぼよう》楷が｜劉《りゅう》顕を大破し、｜劉《りゅう》顕は｜馬邑《ばゆう》｜西山《せいざん》へ、さらに｜西燕《せいえん》へ走る。燕は｜劉《りゅう》顕の部衆を収め、弟の可泥を烏桓王として｜残衆《ざんしゅう》を撫させる","太元十二年":"｜太元《たいげん》十二年","北魏の拓跋珪が四十余万で馬邑から南へ出て句注を越え、并州を平定する":"｜北魏《ほくぎ》の｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》が四十余万で｜馬邑《ばゆう》から南へ出て句注を越え、｜并州《へいしゅう》を平定する","皇始元年八月":"｜皇始《こうし》元年八月","西晋幽州の代郡。王浚が幽州刺史として統べる（310年に劉琨が猗盧に代郡を封じようとしたが王浚が許さず撃退した）":"｜西晋《せいしん》｜幽州《ゆうしゅう》の代郡。王｜浚《しゅん》が｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》として統べる（310年に｜劉《りゅう》｜琨《こん》が猗盧に代郡を封じようとしたが王｜浚《しゅん》が許さず撃退した）","西晋→東晋。318年に段匹磾（晋の幽州刺史）の署した代郡太守辟閭嵩が見える（晋書）":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。318年に段匹磾（晋の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》）の署した代郡｜太守《たいしゅ》辟閭嵩が見える（｜晋書《しんじょ》）","石勒の将孔萇が幽州の諸郡を攻めてすべて取り、段匹磾は楽陵の邵続のもとへ走る":"｜石勒《せきろく》の将孔萇が｜幽州《ゆうしゅう》の諸郡を攻めてすべて取り、段匹磾は楽陵の邵続のもとへ走る","太興二年":"｜太興《たいこう》二年","前燕の慕容儁が幽州を取り、弟の慕容宜を代郡城郎とする。同年八月に代郡の人趙榼が三百余家を率いて叛き張平に帰したので、燕は代郡の民を凡城へ移した":"｜前燕《ぜんえん》の｜慕容儁《ぼようしゅん》が｜幽州《ゆうしゅう》を取り、弟の｜慕容《ぼよう》宜を代郡城郎とする。同年八月に代郡の人趙榼が三百余家を率いて叛き張平に帰したので、燕は代郡の民を凡城へ移した","永和六年":"｜永和《えいわ》六年","前秦が前燕を滅ぼし、燕の州郡はすべて秦に降る。376年以後は前秦に仕えた劉庫仁が代郡の兵を統べる":"｜前秦《ぜんしん》が｜前燕《ぜんえん》を滅ぼし、燕の州郡はすべて秦に降る。376年以後は｜前秦《ぜんしん》に仕えた劉庫仁が代郡の兵を統べる","後燕が薊に入って幽州を取る。387年以前に燕の代郡太守賈閏がいた":"｜後燕《こうえん》が薊に入って｜幽州《ゆうしゅう》を取る。387年以前に燕の代郡｜太守《たいしゅ》賈閏がいた","許謙（劉顕に附く）":"許謙（｜劉《りゅう》顕に附く）","代郡の人許謙が燕の太守賈閏を逐い、郡ごと劉顕に附く":"代郡の人許謙が燕の｜太守《たいしゅ》賈閏を逐い、郡ごと｜劉《りゅう》顕に附く","燕の趙王慕容麟が許謙を破り、許謙は西燕へ走る。燕は代郡を廃してその民をすべて龍城へ移す（395年にも燕の代郡太守賈閏が見えるので燕の領域とした）":"燕の｜趙王《ちょうおう》｜慕容麟《ぼようりん》が許謙を破り、許謙は｜西燕《せいえん》へ走る。燕は代郡を廃してその民をすべて｜龍城《りゅうじょう》へ移す（395年にも燕の代郡｜太守《たいしゅ》賈閏が見えるので燕の領域とした）","太元十三年":"｜太元《たいげん》十三年","北魏が燕の広寧太守劉亢泥を斬り、燕の上谷太守は郡を棄てて走る（代郡の東隣まで魏の手に入る）。398年に魏は代郡を畿内とする":"｜北魏《ほくぎ》が燕の広寧太守劉亢泥を斬り、燕の上谷太守は郡を棄てて走る（代郡の東隣まで魏の手に入る）。398年に魏は代郡を畿内とする","皇始元年六月":"｜皇始《こうし》元年六月","平城":"｜平城《へいじょう》","大同市":"｜大同《だいどう》市","拓跋部":"｜拓跋《たくばつ》部","晋は曹魏以来陘嶺以北を棄てており、平城は『故平城』（旧城）。拓跋の桓帝猗㐌の部が代郡参合陂の北に居た。313年に猗盧が故平城を修めて南都とする（通鑑）":"晋は｜曹魏《そうぎ》以来陘嶺以北を棄てており、｜平城《へいじょう》は『故｜平城《へいじょう》』（旧城）。｜拓跋《たくばつ》の｜桓帝《かんてい》猗㐌の部が代郡｜参合陂《さんごうは》の北に居た。313年に猗盧が故｜平城《へいじょう》を修めて｜南都《なんと》とする（通鑑）","拓跋猗盧が代王に進封される。平城は代の南都":"｜拓跋《たくばつ》猗盧が｜代王《だいおう》に進封される。｜平城《へいじょう》は代の｜南都《なんと》","前秦が代を滅ぼす。代の民を二部に分け、黄河以東を劉庫仁、以西を劉衛辰に統べさせる（平城は河東＝劉庫仁）。380年に前秦は烏丸府を代郡の平城に移している":"｜前秦《ぜんしん》が代を滅ぼす。代の民を二部に分け、｜黄河《こうが》以東を劉庫仁、以西を｜劉衛辰《りゅうえいしん》に統べさせる（｜平城《へいじょう》は｜河東《かとう》＝劉庫仁）。380年に｜前秦《ぜんしん》は烏丸府を代郡の｜平城《へいじょう》に移している","太元元年":"｜太元《たいげん》元年","劉庫仁の子劉顕が叔父頭眷を殺して自立する":"劉庫仁の子｜劉《りゅう》顕が叔父頭眷を殺して自立する","拓跋珪が後燕の慕容麟とともに劉顕を馬邑の南・彌沢で大破し、劉顕は西燕へ走る":"｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》が｜後燕《こうえん》の｜慕容麟《ぼようりん》とともに｜劉《りゅう》顕を｜馬邑《ばゆう》の南・彌沢で大破し、｜劉《りゅう》顕は｜西燕《せいえん》へ走る","太元十二年（登国二年）六月":"｜太元《たいげん》十二年（登国二年）六月","和林格爾県":"｜和林《おりん》格爾県","拓跋三部のうち猗盧の部が定襄の盛楽故城に居る。313年に猗盧が盛楽に城いて北都とする":"｜拓跋《たくばつ》三部のうち猗盧の部が｜定襄《ていじょう》の盛楽故城に居る。313年に猗盧が盛楽に城いて北都とする","拓跋猗盧が代王に進封される。盛楽は代の北都。337年に烈帝翳槐が盛楽に城いて居し、340年に什翼犍が雲中の盛楽宮に都を移す":"｜拓跋《たくばつ》猗盧が｜代王《だいおう》に進封される。盛楽は代の北都。337年に烈帝翳槐が盛楽に城いて居し、340年に什翼犍が雲中の盛楽宮に都を移す","前秦が代を滅ぼし、黄河以東を劉庫仁に統べさせる（拓跋珪も劉庫仁に依る）":"｜前秦《ぜんしん》が代を滅ぼし、｜黄河《こうが》以東を劉庫仁に統べさせる（｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》も劉庫仁に依る）","劉顕が叔父頭眷を殺して自立し、拓跋珪を殺そうとする（珪は賀蘭部へ逃れる）":"｜劉《りゅう》顕が叔父頭眷を殺して自立し、｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》を殺そうとする（珪は｜賀蘭部《がらんぶ》へ逃れる）","拓跋珪が牛川で代王に即位し（正月）、定襄の盛楽に移り住む。四月に魏王と改称":"｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》が｜牛川《ぎゅうせん》で｜代王《だいおう》に即位し（正月）、｜定襄《ていじょう》の盛楽に移り住む。四月に｜魏王《ぎおう》と改称","後漢末に雲中郡は流徙分散し、魏晋は陘嶺以北を棄てた。295年に猗盧が雑胡を雲中・五原・朔方へ徙している。西晋の雲中郡は無く、雲中県の名は新興郡（陘南）に移っている":"｜後漢《ごかん》末に雲中郡は流徙分散し、魏晋は陘嶺以北を棄てた。295年に猗盧が雑胡を雲中・五原・｜朔方《さくほう》へ徙している。｜西晋《せいしん》の雲中郡は無く、雲中県の名は新興郡（陘南）に移っている","拓跋猗盧が代王に進封される。340年に什翼犍が雲中の盛楽宮に都する":"｜拓跋《たくばつ》猗盧が｜代王《だいおう》に進封される。340年に什翼犍が雲中の盛楽宮に都する","什翼犍が雲中に還ったところを庶長子寔君に殺され、前秦の李柔・張蚝が雲中へ急行する。前秦は代の民を分けて黄河以東を劉庫仁に統べさせる":"什翼犍が雲中に還ったところを｜庶長子《しょちょうし》寔君に殺され、｜前秦《ぜんしん》の李柔・張蚝が雲中へ急行する。｜前秦《ぜんしん》は代の民を分けて｜黄河《こうが》以東を劉庫仁に統べさせる","太元元年十二月":"｜太元《たいげん》元年十二月","劉顕が叔父頭眷を殺して自立する":"｜劉《りゅう》顕が叔父頭眷を殺して自立する","拓跋珪が代王に即位して盛楽に移る（雲中は盛楽の西隣）。390年に魏は雲中に遷り、395年に『雲中の盛楽』に還る":"｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》が｜代王《だいおう》に即位して盛楽に移る（雲中は盛楽の西隣）。390年に魏は雲中に遷り、395年に『雲中の盛楽』に還る","長安":"｜長安《ちょうあん》","西安市":"｜西安《せいあん》市","西晋の雍州の治所（内地）。関中の氐・羌の乱は299年正月に孟観が斉万年を捕らえて平定済み（通鑑「孟观大破氐众于中亭，获齐万年」・299年条）":"｜西晋《せいしん》の｜雍州《ようしゅう》の治所（内地）。｜関中《かんちゅう》の氐・羌の乱は299年正月に孟観が斉万年を捕らえて平定済み（通鑑「孟观大破氐众于中亭，获齐万年」・299年条）","漢の趙染・劉曜らが長安を囲み、南陽王模が降る。劉曜が雍州牧として長安に鎮す":"漢の趙染・｜劉曜《りゅうよう》らが｜長安《ちょうあん》を囲み、｜南陽《なんよう》王模が降る。｜劉曜《りゅうよう》が雍州牧として｜長安《ちょうあん》に鎮す","永嘉五年八月〜九月":"｜永嘉《えいか》五年八月〜九月","賈疋らが長安を数か月囲み、劉曜が平陽へ退く。秦王業（のちの愍帝）が長安に入る":"｜賈疋《かしょ》らが｜長安《ちょうあん》を数か月囲み、｜劉曜《りゅうよう》が｜平陽《へいよう》へ退く。｜秦王《しんおう》業（のちの｜愍帝《びんてい》）が｜長安《ちょうあん》に入る","永嘉六年（五月より前）":"｜永嘉《えいか》六年（五月より前）","愍帝が劉曜に降る":"｜愍帝《びんてい》が｜劉曜《りゅうよう》に降る","建興四年十一月乙未":"｜建興《けんこう》四年十一月｜乙未《いつび》","劉曜が長安に都し、国号を趙に改める":"｜劉曜《りゅうよう》が｜長安《ちょうあん》に都し、国号を趙に改める","前趙の太子熙・劉胤が上邽へ逃れ、蒋英・辛恕が長安に拠って後趙に降り、石生が入る。八〜九月の劉胤の反攻も石虎が破る":"｜前趙《ぜんちょう》の太子熙・劉胤が｜上邽《じょうけい》へ逃れ、蒋英・辛恕が｜長安《ちょうあん》に拠って｜後趙《こうちょう》に降り、石生が入る。八〜九月の劉胤の反攻も｜石虎《せきこ》が破る","咸和四年（正月〜九月）":"｜咸和《かんわ》四年（正月〜九月）","苻健":"｜苻健《ふけん》","後趙の王朗が去った後、杜洪が長安に拠り晋の征北将軍を自称。十月に苻健が長安へ迫り杜洪は司竹へ逃げ、十一月甲午に苻健が入城して建康へ献捷（晋に属すと称した）":"｜後趙《こうちょう》の王朗が去った後、｜杜《と》洪が｜長安《ちょうあん》に拠り晋の征北将軍を自称。十月に｜苻健《ふけん》が｜長安《ちょうあん》へ迫り｜杜《と》洪は司竹へ逃げ、十一月甲午に｜苻健《ふけん》が入城して｜建康《けんこう》へ献捷（晋に属すと称した）","永和六年（杜洪）／十一月甲午（苻健入城）":"｜永和《えいわ》六年（｜杜《と》洪）／十一月甲午（｜苻健《ふけん》入城）","苻健が天王・大単于となり国号を大秦（前秦）とする（実際の支配者は前年と同じ）":"｜苻健《ふけん》が天王・大｜単于《ぜんう》となり国号を｜大秦《だいしん》（｜前秦《ぜんしん》）とする（実際の支配者は前年と同じ）","永和七年正月丙辰":"｜永和《えいわ》七年正月丙辰","苻堅が五将山へ出て、太子宏も長安を捨てて下辨へ逃げ、西燕の慕容沖が長安に入る":"｜苻堅《ふけん》が｜五将山《ごしょうざん》へ出て、太子宏も｜長安《ちょうあん》を捨てて下辨へ逃げ、｜西燕《せいえん》の｜慕容沖《ぼようちゅう》が｜長安《ちょうあん》に入る","太元十年五月〜（閏五月以降）":"｜太元《たいげん》十年五月〜（閏五月以降）","西燕が鮮卑四十余万口を率いて長安を去って東へ。盧水胡の郝奴が一時長安に入るが、四月に姚萇が攻めて降し、姚萇が長安で皇帝に即位":"｜西燕《せいえん》が｜鮮卑《せんぴ》四十余万口を率いて｜長安《ちょうあん》を去って東へ。盧水胡の郝奴が一時｜長安《ちょうあん》に入るが、四月に｜姚萇《ようちょう》が攻めて降し、｜姚萇《ようちょう》が｜長安《ちょうあん》で皇帝に即位","太元十一年（春〜四月）":"｜太元《たいげん》十一年（春〜四月）","王鎮悪が渭橋で破り平朔門から入り、姚泓が降る":"王｜鎮悪《ちんあく》が｜渭橋《いきょう》で破り平朔門から入り、｜姚泓《ようこう》が降る","義熙十三年八月壬戌〜癸亥":"｜義熙《ぎき》十三年八月壬戌〜癸亥","劉義真が東へ去り、長安の民が朱齢石を逐い、赫連勃勃が長安に入る":"｜劉《りゅう》｜義真《ぎしん》が東へ去り、｜長安《ちょうあん》の民が朱｜齢石《れいせき》を逐い、｜赫連勃勃《かくれんぼつぼつ》が｜長安《ちょうあん》に入る","義熙十四年十一月":"｜義熙《ぎき》十四年十一月","夏の助興・乙斗が長安を捨てて安定へ逃げ、北魏の奚斤が入る":"夏の助興・乙斗が｜長安《ちょうあん》を捨てて安定へ逃げ、｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤が入る","元嘉三年十二月":"｜元嘉《げんか》三年十二月","奚斤が平涼の馬髦嶺で夏に捕らえられ、丘堆と高涼王礼が長安を捨てて蒲坂へ逃げ、夏が長安を取り返す":"｜奚《けい》斤が平涼の馬髦嶺で夏に捕らえられ、丘堆と高｜涼王《りょうおう》礼が｜長安《ちょうあん》を捨てて｜蒲坂《ほはん》へ逃げ、夏が｜長安《ちょうあん》を取り返す","元嘉五年（二月〜三月）":"｜元嘉《げんか》五年（二月〜三月）","魏書世祖紀（403行）は「丘堆…弃甲东走蒲坂」とだけ書き、長安を失ったとは書かない":"｜魏書《ぎしょ》｜世祖《せいそ》｜紀《き》（403行）は「丘堆…弃甲东走｜蒲坂《ほはん》」とだけ書き、｜長安《ちょうあん》を失ったとは書かない","平涼が落ち、夏の長安・臨晋・武功の守将が逃げ、関中がすべて北魏に入る":"平涼が落ち、夏の｜長安《ちょうあん》・｜臨晋《りんしん》・武功の守将が逃げ、｜関中《かんちゅう》がすべて｜北魏《ほくぎ》に入る","元嘉七年十二月（丁卯の平涼陥落の後）":"｜元嘉《げんか》七年十二月（丁卯の平涼陥落の後）","臨晋（馮翊）":"｜臨晋《りんしん》（｜馮翊《ひょうよく》）","臨晋":"｜臨晋《りんしん》","西晋の馮翊郡（内地）":"｜西晋《せいしん》の｜馮翊《ひょうよく》郡（内地）","南陽王模が漢に降った後、馮翊太守索綝が安定へ逃れる":"｜南陽《なんよう》王模が漢に降った後、｜馮翊《ひょうよく》｜太守《たいしゅ》索綝が安定へ逃れる","永嘉五年（九月ごろ）":"｜永嘉《えいか》五年（九月ごろ）","太守が逃げたことは書かれているが、漢が臨晋に守将を置いた記事は無い":"｜太守《たいしゅ》が逃げたことは書かれているが、漢が｜臨晋《りんしん》に守将を置いた記事は無い","晋が長安を取り返し、梁粛が馮翊太守として見える":"晋が｜長安《ちょうあん》を取り返し、梁粛が｜馮翊《ひょうよく》｜太守《たいしゅ》として見える","永嘉六年":"｜永嘉《えいか》六年","劉曜が馮翊を抜き、太守梁粛が逃げる":"｜劉曜《りゅうよう》が｜馮翊《ひょうよく》を抜き、｜太守《たいしゅ》梁粛が逃げる","建興三年十月以降":"｜建興《けんこう》三年十月以降","劉曜が国号を趙に改める":"｜劉曜《りゅうよう》が国号を趙に改める","前趙の太子熙らが上邽へ逃れ、関中の諸鎮が持ち場を捨てる。長安は後趙の石生が押さえる":"｜前趙《ぜんちょう》の太子熙らが｜上邽《じょうけい》へ逃れ、｜関中《かんちゅう》の｜諸鎮《しょちん》が持ち場を捨てる。｜長安《ちょうあん》は｜後趙《こうちょう》の石生が押さえる","咸和四年":"｜咸和《かんわ》四年","苻菁が渭北で張先を擒え、三輔の郡県・堡壁がみな苻健に降る（苻健は晋に属すと称した）":"｜苻《ふ》｜菁《せい》が｜渭北《いほく》で張先を擒え、｜三輔《さんぽ》の｜郡県《ぐんけん》・堡壁がみな｜苻健《ふけん》に降る（｜苻健《ふけん》は晋に属すと称した）","苻健が天王を称し国号を大秦とする（長安の行を参照）":"｜苻健《ふけん》が天王を称し国号を｜大秦《だいしん》とする（｜長安《ちょうあん》の行を参照）","前秦（苻登）の馮翊太守蘭櫝を姚萇が擒える":"｜前秦《ぜんしん》（｜苻登《ふとう》）の｜馮翊《ひょうよく》｜太守《たいしゅ》蘭櫝を｜姚萇《ようちょう》が擒える","太元十二年十二月":"｜太元《たいげん》十二年十二月","蘭櫝は385年に苻堅が馮翊に送った将（晋書）で、387年にも「秦冯翊太守」（通鑑）。その根拠地は頻陽・和寧で、臨晋城そのものの帰属は書かれていない":"蘭櫝は385年に｜苻堅《ふけん》が｜馮翊《ひょうよく》に送った将（｜晋書《しんじょ》）で、387年にも「秦冯翊｜太守《たいしゅ》」（通鑑）。その根拠地は頻陽・｜和寧《かねい》で、｜臨晋《りんしん》城そのものの帰属は書かれていない","後秦が滅び、王鎮悪が馮翊太守を領する":"｜後秦《こうしん》が滅び、王｜鎮悪《ちんあく》が｜馮翊《ひょうよく》｜太守《たいしゅ》を領する","義熙十三年":"｜義熙《ぎき》十三年","王脩が殺されて晋軍が乱れ、関中の郡県がみな夏に降る":"王脩が殺されて｜晋軍《しんぐん》が乱れ、｜関中《かんちゅう》の｜郡県《ぐんけん》がみな夏に降る","義熙十四年":"｜義熙《ぎき》十四年","北魏の奚斤が蒲坂から長安へ入り、秦・雍の氐羌がみな奚斤に降る":"｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤が｜蒲坂《ほはん》から｜長安《ちょうあん》へ入り、秦・雍の氐羌がみな｜奚《けい》斤に降る","臨晋を名指しした記事は無い":"｜臨晋《りんしん》を名指しした記事は無い","夏が長安を取り返す":"夏が｜長安《ちょうあん》を取り返す","元嘉五年":"｜元嘉《げんか》五年","臨晋を名指しした記事は無いが、430年に夏の臨晋守将が見えるので、それまでに夏が持っていた":"｜臨晋《りんしん》を名指しした記事は無いが、430年に夏の｜臨晋《りんしん》守将が見えるので、それまでに夏が持っていた","夏の長安・臨晋・武功の守将が逃げ、関中がすべて北魏に入る":"夏の｜長安《ちょうあん》・｜臨晋《りんしん》・武功の守将が逃げ、｜関中《かんちゅう》がすべて｜北魏《ほくぎ》に入る","元嘉七年十二月":"｜元嘉《げんか》七年十二月","漆（新平）":"漆（｜新平《しんぺい》）","西晋の新平郡（内地）":"｜西晋《せいしん》の｜新平《しんぺい》郡（内地）","西晋→東晋。311年に漢の攻撃を退けた新平太守竺恢（通鑑「使其将刘雅、赵染攻新平，不克」）は316年にも晋方として長安救援に出たが、長安陥落後の新平の実際の持ち主は書かれていない":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。311年に漢の攻撃を退けた｜新平《しんぺい》｜太守《たいしゅ》竺恢（通鑑「使其将刘雅、赵染攻｜新平《しんぺい》，不克」）は316年にも晋方として｜長安《ちょうあん》救援に出たが、｜長安《ちょうあん》陥落後の｜新平《しんぺい》の実際の持ち主は書かれていない","司馬保（晋王）":"｜司馬《しば》保（｜晋王《しんおう》）","屠各の路松多が新平・扶風で兵を起こし晋王保に付き、保は張顗を新平太守とする":"屠各の路松多が｜新平《しんぺい》・｜扶風《ふふう》で兵を起こし｜晋王《しんおう》保に付き、保は張顗を｜新平《しんぺい》｜太守《たいしゅ》とする","劉曜が草壁を抜き路松多は隴城へ逃げ、陰密も抜く":"｜劉曜《りゅうよう》が草壁を抜き路松多は｜隴城《ろうじょう》へ逃げ、陰密も抜く","太興三年正月":"｜太興《たいこう》三年正月","新平城を名指しして取った記事は無い":"｜新平《しんぺい》城を名指しして取った記事は無い","新平などの戎夏が劉胤に応じたが、九月に石虎が義渠で劉胤を破り上邽まで落とす":"｜新平《しんぺい》などの戎夏が劉胤に応じたが、九月に｜石虎《せきこ》が義渠で劉胤を破り｜上邽《じょうけい》まで落とす","咸和四年八月〜九月":"｜咸和《かんわ》四年八月〜九月","苻健が長安に入り、秦・雍の夷夏がみな付く（苻健は晋に属すと称した）":"｜苻健《ふけん》が｜長安《ちょうあん》に入り、秦・雍の夷夏がみな付く（｜苻健《ふけん》は晋に属すと称した）","永和六年十一月":"｜永和《えいわ》六年十一月","苻健が天王を称し国号を大秦とする":"｜苻健《ふけん》が天王を称し国号を｜大秦《だいしん》とする","前年から姚萇に囲まれた新平の苟輔が糧尽きて城を出、姚萇が坑殺する。七月に姚萇は新平へ移り、苻堅を新平の仏寺で縊殺":"前年から｜姚萇《ようちょう》に囲まれた｜新平《しんぺい》の苟輔が糧尽きて城を出、｜姚萇《ようちょう》が｜坑殺《こうさつ》する。七月に｜姚萇《ようちょう》は｜新平《しんぺい》へ移り、｜苻堅《ふけん》を｜新平《しんぺい》の仏寺で縊殺","太元十年（五月ごろ）":"｜太元《たいげん》十年（五月ごろ）","張晏・強金槌ら（苻丕・苻登方）":"張晏・強金槌ら（｜苻丕《ふひ》・｜苻登《ふとう》方）","苻丕の檄に新平の張晏らが応じて起兵する":"｜苻丕《ふひ》の檄に｜新平《しんぺい》の張晏らが応じて起兵する","太元十一年秋":"｜太元《たいげん》十一年秋","新平城が前秦方に移った年の記事は無い。391年に「秦兗州刺史强金槌据新平」とあるので391年より前に前秦方に移っている。386年は推定":"｜新平《しんぺい》城が｜前秦《ぜんしん》方に移った年の記事は無い。391年に「秦｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》强金槌据｜新平《しんぺい》」とあるので391年より前に｜前秦《ぜんしん》方に移っている。386年は推定","前秦の兗州刺史強金槌が新平に拠ったまま後秦に降る":"｜前秦《ぜんしん》の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》強金槌が｜新平《しんぺい》に拠ったまま｜後秦《こうしん》に降る","太元十六年":"｜太元《たいげん》十六年","赫連勃勃が安定に進み、後秦の嶺北の郡県・鎮戍がみな夏に降る":"｜赫連勃勃《かくれんぼつぼつ》が安定に進み、｜後秦《こうしん》の｜嶺北《れいほく》の｜郡県《ぐんけん》・鎮戍がみな夏に降る","義熙十三年（晋が長安を取った後）":"｜義熙《ぎき》十三年（晋が｜長安《ちょうあん》を取った後）","新平（漆）を名指しした記事は無い。新平は嶺北にあたると見て夏とした":"｜新平《しんぺい》（漆）を名指しした記事は無い。｜新平《しんぺい》は｜嶺北《れいほく》にあたると見て夏とした","北魏の奚斤が長安に入り、秦・雍の氐羌がみな降る":"｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤が｜長安《ちょうあん》に入り、秦・雍の氐羌がみな降る","新平を名指しした記事は無い":"｜新平《しんぺい》を名指しした記事は無い","関中がすべて北魏に入る":"｜関中《かんちゅう》がすべて｜北魏《ほくぎ》に入る","西晋の安定郡。関中の氐・羌の乱は299年に平定済み":"｜西晋《せいしん》の安定郡。｜関中《かんちゅう》の氐・羌の乱は299年に平定済み","西晋→東晋。安定太守焦嵩（通鑑）は316年に長安救援に出たが、その後は自立的に動いた（318年に陳安と上邽の司馬保を攻める：通鑑）":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。安定｜太守《たいしゅ》焦嵩（通鑑）は316年に｜長安《ちょうあん》救援に出たが、その後は自立的に動いた（318年に陳安と｜上邽《じょうけい》の｜司馬《しば》保を攻める：通鑑）","晋王保が周庸を安定太守とし、陰密に拠らせる":"｜晋王《しんおう》保が周庸を安定｜太守《たいしゅ》とし、陰密に拠らせる","安定城（臨涇）そのものを保方が持ったかは書かれていないが、翌年劉曜が「进陷安定」とあるので前趙の城ではなかった":"安定城（臨涇）そのものを保方が持ったかは書かれていないが、翌年｜劉曜《りゅうよう》が「进陷安定」とあるので｜前趙《ぜんちょう》の城ではなかった","劉曜が草壁を抜いて安定を陥れ、さらに游子遠が安定に移って叛く者を降す":"｜劉曜《りゅうよう》が草壁を抜いて安定を陥れ、さらに游子遠が安定に移って叛く者を降す","太興三年正月〜":"｜太興《たいこう》三年正月〜","安定などの戎夏が劉胤に応じたが、石虎が義渠で破り上邽も落とす":"安定などの戎夏が劉胤に応じたが、｜石虎《せきこ》が義渠で破り｜上邽《じょうけい》も落とす","苻柳・苻双・苻廋とともに燕公武が安定に拠って苻堅に叛く":"苻柳・苻双・苻廋とともに燕公武が安定に拠って｜苻堅《ふけん》に叛く","太和二年十月":"｜太和《たいわ》二年十月","王鑑・呂光が苻双・苻武を破り、苻武は安定を捨てて上邽へ逃げる":"王鑑・呂光が苻双・苻武を破り、苻武は安定を捨てて｜上邽《じょうけい》へ逃げる","太和三年（四月ごろ）":"｜太和《たいわ》三年（四月ごろ）","姚萇が安定を撃ち、前秦の安西将軍苻珍を擒え、嶺北の諸城がみな降る":"｜姚萇《ようちょう》が安定を撃ち、｜前秦《ぜんしん》の安西将軍苻珍を擒え、｜嶺北《れいほく》の諸城がみな降る","正月に姚恢が安定の鎮戸を率いて安定を捨てて長安へ向かい、のち赫連勃勃が安定に進んで嶺北の郡県・鎮戍がみな夏に降る":"正月に｜姚《よう》｜恢《かい》が安定の｜鎮戸《ちんこ》を率いて安定を捨てて｜長安《ちょうあん》へ向かい、のち｜赫連勃勃《かくれんぼつぼつ》が安定に進んで｜嶺北《れいほく》の｜郡県《ぐんけん》・鎮戍がみな夏に降る","安定の民が城を挙げて北魏に降る":"安定の民が城を挙げて｜北魏《ほくぎ》に降る","元嘉四年九月丁酉":"｜元嘉《げんか》四年九月丁酉","奚斤が平涼で夏に敗れると、安定で輜重を守っていた丘堆が輜重を捨てて逃げる":"｜奚《けい》斤が平涼で夏に敗れると、安定で輜重を守っていた丘堆が輜重を捨てて逃げる","北魏が鶉觚原で赫連定を破り、その日のうちに安定へ進み、夏の東平公乙斗が城を捨てて逃げる":"｜北魏《ほくぎ》が｜鶉觚原《じゅんこげん》で｜赫連定《かくれんてい》を破り、その日のうちに安定へ進み、夏の東平公乙斗が城を捨てて逃げる","元嘉七年十一月":"｜元嘉《げんか》七年十一月","高平":"｜高平《こうへい》","西晋の安定郡の北辺。晋書地理志の安定郡の7県に高平は無い（城・県が無い）":"｜西晋《せいしん》の安定郡の北辺。｜晋書《しんじょ》地理志の安定郡の7県に｜高平《こうへい》は無い（城・県が無い）","西晋→東晋（安定と同じ扱い）":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》（安定と同じ扱い）","劉曜が安定を陥れる。前趙は朔州牧を高平に鎮させた":"｜劉曜《りゅうよう》が安定を陥れる。｜前趙《ぜんちょう》は朔州牧を｜高平《こうへい》に鎮させた","太興三年（推定）":"｜太興《たいこう》三年（推定）","晋書地理志は前趙が朔州牧を高平に置いたとするが年を書かない。320年は安定陥落の年に合わせた推定":"｜晋書《しんじょ》地理志は｜前趙《ぜんちょう》が朔州牧を｜高平《こうへい》に置いたとするが年を書かない。320年は安定陥落の年に合わせた推定","前趙が崩れ、関中の諸鎮が持ち場を捨てる":"｜前趙《ぜんちょう》が崩れ、｜関中《かんちゅう》の｜諸鎮《しょちん》が持ち場を捨てる","高平を名指しした記事は無い":"｜高平《こうへい》を名指しした記事は無い","苻健が天王を称し国号を大秦とする。高平を名指しした記事は無く、前秦の支配は推定。386年に前秦方の「高平牧官都尉」王敏が見える（通鑑）":"｜苻健《ふけん》が天王を称し国号を｜大秦《だいしん》とする。｜高平《こうへい》を名指しした記事は無く、｜前秦《ぜんしん》の支配は推定。386年に｜前秦《ぜんしん》方の「｜高平《こうへい》牧官｜都尉《とい》」王敏が見える（通鑑）","前秦の驃騎将軍没弈干が衆を率いて後秦に降り、高平公に封じられる":"｜前秦《ぜんしん》の驃｜騎将《きしょう》軍没弈干が衆を率いて｜後秦《こうしん》に降り、｜高平《こうへい》公に封じられる","太元十七年":"｜太元《たいげん》十七年","赫連勃勃が高平川で狩りと偽って没弈干を襲殺し、その衆を併せる":"｜赫連勃勃《かくれんぼつぼつ》が｜高平《こうへい》川で狩りと偽って没弈干を襲殺し、その衆を併せる","義熙三年（六月の称王より前）":"｜義熙《ぎき》三年（六月の称王より前）","夏の平涼が十二月に北魏に降り、関中がことごとく北魏に入る。夏主赫連定は西の上邽へ去る":"夏の平涼が十二月に｜北魏《ほくぎ》に降り、｜関中《かんちゅう》がことごとく｜北魏《ほくぎ》に入る。｜夏主《かしゅ》｜赫連定《かくれんてい》は西の｜上邽《じょうけい》へ去る","推定。高平そのものの記事は無い。高平は平涼の北にあり、夏主が上邽へ去って平涼・安定・長安を失った430年の暮れには夏の手を離れたと見た（南北朝の地図と揃えた）。436年に北魏の「高平诸军」が見える":"推定。｜高平《こうへい》そのものの記事は無い。｜高平《こうへい》は平涼の北にあり、｜夏主《かしゅ》が｜上邽《じょうけい》へ去って平涼・安定・｜長安《ちょうあん》を失った430年の暮れには夏の手を離れたと見た（｜南北朝《なんほくちょう》の地図と揃えた）。436年に｜北魏《ほくぎ》の「｜高平《こうへい》诸军」が見える","統万":"｜統万《とうまん》","城は無い。300年にこの地（朔方・奢延水）を誰が押さえていたかを示す原文は見つからない。のちの鉄弗部の劉虎はこの時期まだ新興（山西）にいた（通鑑「子虎立，居新兴，号铁弗氏」）":"城は無い。300年にこの地（｜朔方《さくほう》・奢延水）を誰が押さえていたかを示す原文は見つからない。のちの鉄弗部の劉虎はこの時期まだ新興（｜山西《さんせい》）にいた（通鑑「子虎立，居新兴，号铁弗氏」）","鉄弗部（劉衛辰）":"鉄弗部（｜劉衛辰《りゅうえいしん》）","代の什翼犍に追われた劉衛辰が前秦に逃げ、苻堅が衛辰を朔方へ送り返して兵で守らせる（前秦に名目上服属）":"代の什翼犍に追われた｜劉衛辰《りゅうえいしん》が｜前秦《ぜんしん》に逃げ、｜苻堅《ふけん》が衛辰を｜朔方《さくほう》へ送り返して兵で守らせる（｜前秦《ぜんしん》に名目上服属）","太和二年":"｜太和《たいわ》二年","「还朔方」とあるので衛辰はこれより前から朔方にいた。376年に前秦は衛辰を西単于として代来城に置いた（通鑑）":"「还｜朔方《さくほう》」とあるので衛辰はこれより前から｜朔方《さくほう》にいた。376年に｜前秦《ぜんしん》は衛辰を西｜単于《ぜんう》として代来城に置いた（通鑑）","北魏の拓跋珪が黄河を南へ渡って衛辰の悦跋城（代来城）に迫り、衛辰は部下に殺され、河南の諸部が平定される":"｜北魏《ほくぎ》の｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》が｜黄河《こうが》を南へ渡って衛辰の悦跋城（代来城）に迫り、衛辰は部下に殺され、｜河南《かなん》の諸部が平定される","太元十六年十一月〜十二月":"｜太元《たいげん》十六年十一月〜十二月","北魏が統万の地に城や守将を置いた記事は無い（名目）":"｜北魏《ほくぎ》が｜統万《とうまん》の地に城や守将を置いた記事は無い（名目）","後秦の安北将軍として朔方に鎮していた赫連勃勃が後秦に叛き、大夏天王を称する":"｜後秦《こうしん》の安北将軍として｜朔方《さくほう》に鎮していた｜赫連勃勃《かくれんぼつぼつ》が｜後秦《こうしん》に叛き、｜大夏《たいか》天王を称する","義熙三年六月":"｜義熙《ぎき》三年六月","413年に統万城を築き都とする（通鑑「宜名新城曰统万」）":"413年に｜統万城《とうまんじょう》を築き都とする（通鑑「宜名｜新城《しんじょう》曰统万」）","北魏の太武帝が赫連昌を破り、統万城に入る。常山王素らを留めて統万に鎮させる":"｜北魏《ほくぎ》の｜太武帝《たいぶてい》が｜赫連昌《かくれんしょう》を破り、｜統万城《とうまんじょう》に入る。｜常山王《じょうざんおう》素らを留めて｜統万《とうまん》に鎮させる","元嘉四年六月乙巳":"｜元嘉《げんか》四年六月乙巳","蒲坂":"｜蒲坂《ほはん》","永済市":"｜永済《えいせい》市","西晋の河東郡（内地）":"｜西晋《せいしん》の｜河東《かとう》郡（内地）","南陽王模が蒲坂の守りに置いた趙染が、馮翊太守になれなかったのを怒って衆を率いて漢に降る。313〜315年に劉曜が蒲坂に屯する":"｜南陽《なんよう》王模が｜蒲坂《ほはん》の守りに置いた趙染が、｜馮翊《ひょうよく》｜太守《たいしゅ》になれなかったのを怒って衆を率いて漢に降る。313〜315年に｜劉曜《りゅうよう》が｜蒲坂《ほはん》に屯する","永嘉五年（八月より前）":"｜永嘉《えいか》五年（八月より前）","劉曜が国号を趙に改める。前趙は并州牧を蒲坂に鎮させた":"｜劉曜《りゅうよう》が国号を趙に改める。｜前趙《ぜんちょう》は｜并州《へいしゅう》牧を｜蒲坂《ほはん》に鎮させた","蒲坂を名指しした記事は無い。328年には石虎が蒲坂を攻めたが劉曜が救っている（通鑑）。333年に後趙の河東王石生が蒲坂に軍している":"｜蒲坂《ほはん》を名指しした記事は無い。328年には｜石虎《せきこ》が｜蒲坂《ほはん》を攻めたが｜劉曜《りゅうよう》が救っている（通鑑）。333年に｜後趙《こうちょう》の｜河東王《かとうおう》石生が｜蒲坂《ほはん》に軍している","後趙が崩れた（350年に関中の王朗・麻秋が東へ去る）後、蒲坂を誰が持ったかの記事は無い":"｜後趙《こうちょう》が崩れた（350年に｜関中《かんちゅう》の王朗・麻秋が東へ去る）後、｜蒲坂《ほはん》を誰が持ったかの記事は無い","姚襄の司馬尹赤が前秦に奔り、前秦は尹赤を并州刺史として蒲坂に鎮させる":"｜姚《よう》｜襄《じょう》の｜司馬《しば》尹赤が｜前秦《ぜんしん》に奔り、｜前秦《ぜんしん》は尹赤を｜并州刺史《へいしゅうしし》として｜蒲坂《ほはん》に鎮させる","永和八年":"｜永和《えいわ》八年","苻柳（晋公）":"苻柳（｜晋公《しんこう》）","晋公柳が蒲坂に拠って苻堅に叛く":"｜晋公《しんこう》柳が｜蒲坂《ほはん》に拠って｜苻堅《ふけん》に叛く","王猛らが蒲坂を抜き、苻柳を斬る":"王猛らが｜蒲坂《ほはん》を抜き、苻柳を斬る","太和三年九月":"｜太和《たいわ》三年九月","西燕が長安を去って河東の聞喜に城を築いて住み、慕容永が河東王となる":"｜西燕《せいえん》が｜長安《ちょうあん》を去って｜河東《かとう》の｜聞喜《ぶんき》に城を築いて住み、｜慕容永《ぼようえい》が｜河東王《かとうおう》となる","太元十一年（推定）":"｜太元《たいげん》十一年（推定）","蒲坂を西燕が取った記事は無い。394年に西燕が滅びた時に「其所署河东太守柳恭」が自守しているので、西燕が河東郡を押さえていたことは確か":"｜蒲坂《ほはん》を｜西燕《せいえん》が取った記事は無い。394年に｜西燕《せいえん》が滅びた時に「其所署河东｜太守《たいしゅ》柳恭」が自守しているので、｜西燕《せいえん》が｜河東《かとう》郡を押さえていたことは確か","柳恭（西燕の河東太守）":"柳恭（｜西燕《せいえん》の｜河東《かとう》｜太守《たいしゅ》）","後燕が長子を落として慕容永を斬り、西燕が滅ぶ。西燕の河東太守柳恭らが兵を擁して自守":"｜後燕《こうえん》が長子を落として｜慕容永《ぼようえい》を斬り、｜西燕《せいえん》が滅ぶ。｜西燕《せいえん》の｜河東《かとう》｜太守《たいしゅ》柳恭らが兵を擁して自守","後秦の姚緒が薛強の導きで龍門から黄河を渡って蒲坂に入り、柳恭らが降る。姚緒が并・冀二州牧として蒲坂に鎮す":"｜後秦《こうしん》の姚緒が薛強の導きで龍門から｜黄河《こうが》を渡って｜蒲坂《ほはん》に入り、柳恭らが降る。姚緒が并・冀二州牧として｜蒲坂《ほはん》に鎮す","太元二十一年":"｜太元《たいげん》二十一年","後秦が滅び、平原公璞・并州刺史尹昭が蒲坂をもって晋に降る":"｜後秦《こうしん》が滅び、｜平原公《へいげんこう》璞・｜并州刺史《へいしゅうしし》尹昭が｜蒲坂《ほはん》をもって晋に降る","義熙十三年八〜九月":"｜義熙《ぎき》十三年八〜九月","夏の叱奴侯提が蒲坂の毛徳祖を攻め、毛徳祖は防げず全軍で彭城へ帰る":"夏の叱奴侯提が｜蒲坂《ほはん》の毛｜徳祖《とくそ》を攻め、毛｜徳祖《とくそ》は防げず全軍で｜彭城《ほうじょう》へ帰る","義熙十五年（二月より前）":"｜義熙《ぎき》十五年（二月より前）","統万が囲まれたと聞いた夏の蒲坂守将乙斗が城を捨てて長安へ逃げ、北魏の奚斤が蒲坂を取る":"｜統万《とうまん》が囲まれたと聞いた夏の｜蒲坂《ほはん》守将乙斗が城を捨てて｜長安《ちょうあん》へ逃げ、｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤が｜蒲坂《ほはん》を取る","元嘉三年（十一月ごろ）":"｜元嘉《げんか》三年（十一月ごろ）","西晋の弘農郡（内地）":"｜西晋《せいしん》の弘農郡（内地）","漢兵が東に弘農を略し、太守宋哲が江東へ逃げる":"漢兵が東に弘農を略し、｜太守《たいしゅ》宋哲が｜江東《こうとう》へ逃げる","建興五年（建武元年）正月":"｜建興《けんこう》五年（｜建武《けんぶ》元年）正月","劉曜が国号を趙に改める。324年に前趙の河南太守が陝より東の新安にいる（通鑑「司州刺史石生击赵河南太守尹平于新安」）ので、陝は前趙側":"｜劉曜《りゅうよう》が国号を趙に改める。324年に｜前趙《ぜんちょう》の｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》が陝より東の｜新安《しんあん》にいる（通鑑「｜司州《ししゅう》｜刺史《しし》石生击赵｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》尹平于｜新安《しんあん》」）ので、陝は｜前趙《ぜんちょう》側","前趙が崩れ、後趙の石生が洛陽の兵を率いて長安へ入る":"｜前趙《ぜんちょう》が崩れ、｜後趙《こうちょう》の石生が｜洛陽《らくよう》の兵を率いて｜長安《ちょうあん》へ入る","後趙が崩れた後、352年に前秦の豫州刺史楊群が弘農に退くまで、陝の持ち主の記事は無い":"｜後趙《こうちょう》が崩れた後、352年に｜前秦《ぜんしん》の豫州刺史楊群が弘農に退くまで、陝の持ち主の記事は無い","謝尚が許昌を取り、前秦の豫州刺史楊群が弘農に退いて屯する":"謝尚が｜許昌《きょしょう》を取り、｜前秦《ぜんしん》の豫州刺史楊群が弘農に退いて屯する","永和八年十月":"｜永和《えいわ》八年十月","355年には前秦の魏王廋が豫州牧として陝城に鎮している（通鑑）":"355年には｜前秦《ぜんしん》の｜魏王《ぎおう》廋が豫州牧として陝城に鎮している（通鑑）","魏公廋が陝城に拠って苻堅に叛く":"魏公廋が陝城に拠って｜苻堅《ふけん》に叛く","王猛らが陝城を抜き苻廋を擒える（廋はこの年、陝城をもって前燕に降ると申し出たが、前燕は兵を出さなかった）":"王猛らが陝城を抜き苻廋を擒える（廋はこの年、陝城をもって｜前燕《ぜんえん》に降ると申し出たが、｜前燕《ぜんえん》は兵を出さなかった）","太和三年十二月":"｜太和《たいわ》三年十二月","前秦の平原公暉が洛陽・陝城の兵七万を率いて長安へ帰る（陝を放棄）":"｜前秦《ぜんしん》の｜平原公《へいげんこう》暉が｜洛陽《らくよう》・陝城の兵七万を率いて｜長安《ちょうあん》へ帰る（陝を放棄）","太元九年":"｜太元《たいげん》九年","晋の荊州刺史桓石民が晏謙に弘農を撃たせて下し、湖・陝の二戍を初めて置く":"晋の｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》桓石民が晏謙に弘農を撃たせて下し、湖・陝の二戍を初めて置く","太元十一年六月以降":"｜太元《たいげん》十一年六月以降","後秦の姚興が湖城を攻め、晋の弘農太守陶仲山らが降り、陝城に至る":"｜後秦《こうしん》の｜姚興《ようこう》が湖城を攻め、晋の弘農太守陶仲山らが降り、陝城に至る","隆安元年":"｜隆安《りゅうあん》元年","王鎮悪が澠池へ進み、毛徳祖が後秦の弘農太守尹雅を擒える。七月に劉裕が陝に至る":"王｜鎮悪《ちんあく》が澠池へ進み、毛｜徳祖《とくそ》が｜後秦《こうしん》の弘農太守尹雅を擒える。七月に｜劉裕《りゅうゆう》が陝に至る","義熙十三年（正月〜七月）":"｜義熙《ぎき》十三年（正月〜七月）","推定（直接の記事なし）。晋は418年に関中を失い、419年に蒲坂の毛徳祖も夏に追われて東へ去った。晋書地理志は夏が「荆州刺史镇陕」としたと書き（年なし）、426年には夏の弘農太守曹達が見える。夏が陝を得た年は原文で確かめられないので、晋が河東から退いた419年に仮に置いた":"推定（直接の記事なし）。晋は418年に｜関中《かんちゅう》を失い、419年に｜蒲坂《ほはん》の毛｜徳祖《とくそ》も夏に追われて東へ去った。｜晋書《しんじょ》地理志は夏が「荆州｜刺史《しし》镇陕」としたと書き（年なし）、426年には夏の弘農太守曹達が見える。夏が陝を得た年は原文で確かめられないので、晋が｜河東《かとう》から退いた419年に仮に置いた","北魏の周幾が陝城を襲い、夏の弘農太守曹達が戦わずに逃げる":"｜北魏《ほくぎ》の周幾が陝城を襲い、夏の弘農太守曹達が戦わずに逃げる","元嘉三年（九月出兵）":"｜元嘉《げんか》三年（九月出兵）","西晋の上洛郡（内地）":"｜西晋《せいしん》の上洛郡（内地）","西晋→東晋。316年には晋の華輯が上洛など四郡の兵を監して霸上に屯した（通鑑）。その後353年まで上洛の持ち主の記事は無い":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。316年には晋の華輯が上洛など四郡の兵を監して霸上に屯した（通鑑）。その後353年まで上洛の持ち主の記事は無い","前秦の平昌王菁が上洛を略定し、豊陽川に荊州を置く":"｜前秦《ぜんしん》の平昌王菁が上洛を略定し、豊陽川に｜荊州《けいしゅう》を置く","永和九年九月":"｜永和《えいわ》九年九月","前秦の洛州刺史張五虎が豊陽に拠って晋に降る":"｜前秦《ぜんしん》の｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》張五虎が豊陽に拠って晋に降る","太元九年五月":"｜太元《たいげん》九年五月","後秦の姚興が陝城に至り、さらに上洛を攻めて抜く":"｜後秦《こうしん》の｜姚興《ようこう》が陝城に至り、さらに上洛を攻めて抜く","沈田子・傅弘之が武関から入り、後秦の戍将がみな城を捨てて逃げる":"沈｜田子《でんし》・傅弘之が｜武関《ぶかん》から入り、｜後秦《こうしん》の戍将がみな城を捨てて逃げる","義熙十三年七月":"｜義熙《ぎき》十三年七月","東晋→宋":"｜東晋《とうしん》→宋","北魏の雍州刺史葛那が上洛を攻め、宋の上洛太守鐔長生が郡を捨てて逃げる":"｜北魏《ほくぎ》の｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》葛那が上洛を攻め、宋の上洛｜太守《たいしゅ》鐔｜長生《ちょうせい》が郡を捨てて逃げる","元嘉十六年三月":"｜元嘉《げんか》十六年三月","上邽（秦州）":"｜上邽《じょうけい》（｜秦州《しんしゅう》）","上邽":"｜上邽《じょうけい》","西晋の秦州。303〜305年に秦州刺史皇甫重が上邽で河間王顒の兵に囲まれたのは晋の内紛で、帰属は変わらない":"｜西晋《せいしん》の｜秦州《しんしゅう》。303〜305年に｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》皇甫重が｜上邽《じょうけい》で｜河間王《かかんおう》｜顒《ぎょう》の兵に囲まれたのは晋の内紛で、帰属は変わらない","西晋→東晋。上邽には311年から南陽王保（模の子）が鎮していた（通鑑「表遣世子保为平西中郎将，镇上邽」）":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。｜上邽《じょうけい》には311年から｜南陽《なんよう》王保（模の子）が鎮していた（通鑑「表遣世子保为平西中郎将，镇｜上邽《じょうけい》」）","南陽王保が晋王を自称し、建康と改元して百官を置く":"｜南陽《なんよう》王保が｜晋王《しんおう》を自称し、｜建康《けんこう》と｜改元《かいげん》して百官を置く","晋王保が部将の張春・楊次に殺される。陳安が前趙の大将軍として張春らを討ち、上邽で保を葬る":"｜晋王《しんおう》保が部将の張春・楊次に殺される。陳安が｜前趙《ぜんちょう》の｜大将軍《だいしょうぐん》として張春らを討ち、｜上邽《じょうけい》で保を葬る","太興三年五月":"｜太興《たいこう》三年五月","陳安は前趙の秦州刺史（322年条）として上邽に拠ったが、実際には半ば自立":"陳安は｜前趙《ぜんちょう》の｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》（322年条）として｜上邽《じょうけい》に拠ったが、実際には半ば自立","陳安が前趙に叛き、上邽に還って涼王を自称する":"陳安が｜前趙《ぜんちょう》に叛き、｜上邽《じょうけい》に還って｜涼王《りょうおう》を自称する","太寧元年（永昌元年）":"｜太寧《たいねい》元年（｜永昌《えいしょう》元年）","劉曜が隴城・上邽を囲み、陳安が死ぬ。別将宋亭が趙募を斬って上邽をもって降る":"｜劉曜《りゅうよう》が｜隴城《ろうじょう》・｜上邽《じょうけい》を囲み、陳安が死ぬ。別将宋亭が趙募を斬って｜上邽《じょうけい》をもって降る","太寧元年七月以降":"｜太寧《たいねい》元年七月以降","石虎が義渠で劉胤を破り、上邽が潰れて前趙の太子熙らを捕らえる":"｜石虎《せきこ》が義渠で劉胤を破り、｜上邽《じょうけい》が潰れて｜前趙《ぜんちょう》の太子熙らを捕らえる","咸和四年九月":"｜咸和《かんわ》四年九月","郭権":"｜郭権《かくけん》","石生の敗死後、その将郭権が上邽に拠って晋に降ると称する":"石生の敗死後、その将｜郭権《かくけん》が｜上邽《じょうけい》に拠って晋に降ると称する","咸和八年十二月":"｜咸和《かんわ》八年十二月","上邽の豪族が郭権を殺して後趙に降る":"｜上邽《じょうけい》の豪族が｜郭権《かくけん》を殺して｜後趙《こうちょう》に降る","後趙の涼州刺史石寧がひとり上邽に拠ったが、十二月に苻雄が撃ち斬る（苻健は晋に属すと称した）":"｜後趙《こうちょう》の｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》石寧がひとり｜上邽《じょうけい》に拠ったが、十二月に｜苻雄《ふゆう》が撃ち斬る（｜苻健《ふけん》は晋に属すと称した）","永和六年十二月":"｜永和《えいわ》六年十二月","前涼の張重華が王擢に上邽を攻めさせ、秦州の郡県が多く応じ、前秦の秦州刺史苻願が長安へ逃げる":"｜前涼《ぜんりょう》の｜張重華《ちょうじゅうか》が王擢に｜上邽《じょうけい》を攻めさせ、｜秦州《しんしゅう》の｜郡県《ぐんけん》が多く応じ、｜前秦《ぜんしん》の｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》苻願が｜長安《ちょうあん》へ逃げる","永和九年五月":"｜永和《えいわ》九年五月","王擢が衆を率いて前秦に降り、前秦は啖鉄を秦州刺史とする":"王擢が衆を率いて｜前秦《ぜんしん》に降り、｜前秦《ぜんしん》は啖鉄を｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》とする","永和十年十一月":"｜永和《えいわ》十年十一月","上邽城を取り返した記事そのものは無い":"｜上邽《じょうけい》城を取り返した記事そのものは無い","趙公双が上邽に拠って苻堅に叛く":"趙公双が｜上邽《じょうけい》に拠って｜苻堅《ふけん》に叛く","王鑑らが上邽を抜き、苻双・苻武を斬る":"王鑑らが｜上邽《じょうけい》を抜き、苻双・苻武を斬る","太和三年七月":"｜太和《たいわ》三年七月","前秦の秦州刺史王統が秦州をもって後秦に降り、姚碩徳が秦州刺史として上邽に鎮す":"｜前秦《ぜんしん》の｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》王統が｜秦州《しんしゅう》をもって｜後秦《こうしん》に降り、姚碩徳が｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》として｜上邽《じょうけい》に鎮す","太元十一年九月":"｜太元《たいげん》十一年九月","楊定（前秦の官を受ける）":"｜楊《よう》定（｜前秦《ぜんしん》の官を受ける）","仇池の楊定が後秦の隴城・冀城を抜き、秦州牧・隴西王を自称し、前秦がこれを認める":"仇池の｜楊《よう》定が｜後秦《こうしん》の｜隴城《ろうじょう》・冀城を抜き、｜秦州《しんしゅう》牧・｜隴西《ろうせい》王を自称し、｜前秦《ぜんしん》がこれを認める","太元十四年（推定）":"｜太元《たいげん》十四年（推定）","上邽を取った記事は無い。394年に楊定が「留司马邵强守秦州」（通鑑）、楊定の死後に姜乳が上邽を「袭据」したことから、楊定が上邽を持っていたと推定":"｜上邽《じょうけい》を取った記事は無い。394年に｜楊《よう》定が「留司马邵强守｜秦州《しんしゅう》」（通鑑）、｜楊《よう》定の死後に姜乳が｜上邽《じょうけい》を「袭据」したことから、｜楊《よう》定が｜上邽《じょうけい》を持っていたと推定","楊定の死後、天水の姜乳が上邽を襲って拠る":"｜楊《よう》定の死後、天水の姜乳が｜上邽《じょうけい》を襲って拠る","通鑑は395年の条で『初め、楊定が死んだとき』と回想する。楊定の戦死は394年十月の条にある（-10-04 総点検。以前は395年としていた）":"通鑑は395年の条で『初め、｜楊《よう》定が死んだとき』と回想する。｜楊《よう》定の戦死は394年十月の条にある（-10-04 総点検。以前は395年としていた）","後秦の姚碩徳が上邽の姜乳を攻めて降し、秦州牧として上邽に鎮す":"｜後秦《こうしん》の姚碩徳が｜上邽《じょうけい》の姜乳を攻めて降し、｜秦州《しんしゅう》牧として｜上邽《じょうけい》に鎮す","後秦滅亡後、上邽の後秦の旧将姚艾が西秦に藩を称し、秦州牧とされる":"｜後秦《こうしん》滅亡後、｜上邽《じょうけい》の｜後秦《こうしん》の旧将姚艾が｜西秦《せいしん》に藩を称し、｜秦州《しんしゅう》牧とされる","推定（直接の記事なし）。418年十二月には西秦が上邽の民を枹罕へ移しており（通鑑）西秦の支配下だったが、421年に西秦が上邽を攻めているので、それまでに西秦の手を離れていた。427年には夏主昌が上邽へ逃げ込んでいる（通鑑）。誰が・いつ取ったかの記事は見つからない":"推定（直接の記事なし）。418年十二月には｜西秦《せいしん》が｜上邽《じょうけい》の民を｜枹罕《ふかん》へ移しており（通鑑）｜西秦《せいしん》の支配下だったが、421年に｜西秦《せいしん》が｜上邽《じょうけい》を攻めているので、それまでに｜西秦《せいしん》の手を離れていた。427年には｜夏主《かしゅ》昌が｜上邽《じょうけい》へ逃げ込んでいる（通鑑）。誰が・いつ取ったかの記事は見つからない","夏の赫連定が西へ移ると、仇池の楊難当が上邽に拠り、子を秦州刺史として守らせる":"夏の｜赫連定《かくれんてい》が西へ移ると、仇池の｜楊難当《ようなんとう》が｜上邽《じょうけい》に拠り、子を｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》として守らせる","仇池の君主楊難当その人の城なので、仇池と同じ面にする（南北朝の地図と揃えた）":"仇池の君主｜楊難当《ようなんとう》その人の城なので、仇池と同じ面にする（｜南北朝《なんほくちょう》の地図と揃えた）","北魏の楽平王丕らが略陽に至り、楊難当が詔を奉じて上邽の守兵を仇池へ引き揚げる":"｜北魏《ほくぎ》の楽｜平王《へいおう》丕らが略陽に至り、｜楊難当《ようなんとう》が詔を奉じて｜上邽《じょうけい》の守兵を仇池へ引き揚げる","太延二年九月":"｜太延《たいえん》二年九月","西晋の内地（魏郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜魏郡《ぎぐん》）","王弥・石勒が鄴を寇し、征北将軍和郁が城を棄てて逃げる。石勒は魏郡太守王粋を三台で殺す":"王弥・｜石勒《せきろく》が鄴を寇し、征北将軍和郁が城を棄てて逃げる。｜石勒《せきろく》は｜魏郡《ぎぐん》｜太守《たいしゅ》王粋を三台で殺す","永嘉二年九月":"｜永嘉《えいか》二年九月","晋の守将も太守も失われ、漢の側も城を守った記事が無い。歳末は誰の城とも言えない状態として扱う":"晋の守将も｜太守《たいしゅ》も失われ、漢の側も城を守った記事が無い。歳末は誰の城とも言えない状態として扱う","晋の魏郡太守劉矩が郡ごと石勒に降り、石勒は劉矩に塁を統べさせる":"晋の｜魏郡《ぎぐん》｜太守《たいしゅ》劉矩が郡ごと｜石勒《せきろく》に降り、｜石勒《せきろく》は劉矩に塁を統べさせる","劉琨が兄の子劉演を魏郡太守として鄴に鎮させる。七月に石勒が来るが劉演は三台を守り、石勒は張賓の策で攻めずに襄国へ向かう":"｜劉《りゅう》｜琨《こん》が兄の子劉演を｜魏郡《ぎぐん》｜太守《たいしゅ》として鄴に鎮させる。七月に｜石勒《せきろく》が来るが劉演は三台を守り、｜石勒《せきろく》は張賓の策で攻めずに｜襄国《じょうこく》へ向かう","石虎が鄴を攻め、鄴が潰える。劉演は廩丘へ奔り、桃豹を魏郡太守、のち石虎が鄴に鎮す":"｜石虎《せきこ》が鄴を攻め、鄴が潰える。劉演は廩丘へ奔り、桃豹を｜魏郡《ぎぐん》｜太守《たいしゅ》、のち｜石虎《せきこ》が鄴に鎮す","石勒が趙王を称する（319年十一月）":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する（319年十一月）","冉閔が石鑑を殺して石氏を滅ぼし、皇帝に即いて国号を大魏とする（都は鄴）":"｜冉《ぜん》｜閔《びん》が｜石鑑《せきかん》を殺して｜石氏《せきし》を滅ぼし、皇帝に即いて国号を大魏とする（都は鄴）","永和六年閏正月":"｜永和《えいわ》六年閏正月","冉閔が捕らえられた後も蒋幹・太子智が鄴を守ったが、長水校尉馬願らが城門を開いて燕兵を入れる。慕容評が鄴に鎮す":"｜冉《ぜん》｜閔《びん》が捕らえられた後も蒋幹・太子智が鄴を守ったが、長水校尉馬願らが城門を開いて燕兵を入れる。｜慕容《ぼよう》評が鄴に鎮す","永和八年八月庚午":"｜永和《えいわ》八年八月庚午","同年六月に東晋の戴施が鄴に入り三台を助け守ったが、八月に蒋幹とともに城を縋り降りて倉垣へ逃げた":"同年六月に｜東晋《とうしん》の戴施が鄴に入り三台を助け守ったが、八月に蒋幹とともに城を縋り降りて倉垣へ逃げた","燕の散騎侍郎余蔚らが夜に鄴の北門を開いて秦兵を入れ、苻堅が鄴宮に入る":"燕の散騎侍郎余蔚らが夜に鄴の北門を開いて｜秦《しん》兵を入れ、｜苻堅《ふけん》が｜鄴宮《ぎょうきゅう》に入る","太和五年十一月":"｜太和《たいわ》五年十一月","苻丕が鄴を守り続けた（384年から慕容垂が包囲、四月に東晋の劉牢之が鄴城に入屯）が、苻丕は鄴中の男女六万余口を率いて西の潞川へ去り、慕容垂は魯王和を南中郎将として鄴に鎮させる":"｜苻丕《ふひ》が鄴を守り続けた（384年から｜慕容垂《ぼようすい》が包囲、四月に｜東晋《とうしん》の｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が鄴城に入屯）が、｜苻丕《ふひ》は鄴中の男女六万余口を率いて西の｜潞川《ろせん》へ去り、｜慕容垂《ぼようすい》は｜魯王《ろおう》和を南中郎将として鄴に鎮させる","燕の范陽王慕容徳が鄴から戸四万を率いて滑台へ南徙し、魏の衛王儀が鄴に入る":"燕の｜范陽《はんよう》王｜慕容徳《ぼようとく》が鄴から戸四万を率いて｜滑台《かつだい》へ南徙し、魏の｜衛王《えいおう》儀が鄴に入る","隆安二年正月":"｜隆安《りゅうあん》二年正月","襄国":"｜襄国《じょうこく》","西晋の内地（広平郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（広平郡）","張賓の策に従い石勒が襄国に拠り、ここを根拠地とする":"張賓の策に従い｜石勒《せきろく》が｜襄国《じょうこく》に拠り、ここを根拠地とする","永嘉六年七月以後":"｜永嘉《えいか》六年七月以後","石勒が襄国で趙王を称する（319年十一月）。335年に石虎が鄴へ遷都するまで都":"｜石勒《せきろく》が｜襄国《じょうこく》で｜趙王《ちょうおう》を称する（319年十一月）。335年に｜石虎《せきこ》が鄴へ遷都するまで都","劉顕":"｜劉《りゅう》顕","後趙の将劉顕が石祗を殺して首を鄴に送り（一時冉魏に付く）、七月に鄴を攻めて敗れると襄国に還って皇帝を称する":"｜後趙《こうちょう》の将｜劉《りゅう》顕が｜石祗《せきし》を殺して首を鄴に送り（一時冉魏に付く）、七月に鄴を攻めて敗れると｜襄国《じょうこく》に還って皇帝を称する","冉閔が劉顕を破って襄国に入り、宮室を焼いて民を鄴へ移す。四月に冉閔は燕に捕らえられ、八月に鄴も燕に落ちる":"｜冉《ぜん》｜閔《びん》が｜劉《りゅう》顕を破って｜襄国《じょうこく》に入り、宮室を焼いて民を鄴へ移す。四月に｜冉《ぜん》｜閔《びん》は燕に捕らえられ、八月に鄴も燕に落ちる","燕が襄国そのものを取った記事は無い。冉魏が滅んだ352年の歳末には河北の冉魏の地が燕に帰したとみて前燕にした（推定）":"燕が｜襄国《じょうこく》そのものを取った記事は無い。冉魏が滅んだ352年の歳末には｜河北《かほく》の冉魏の地が燕に帰したとみて｜前燕《ぜんえん》にした（推定）","前燕の滅亡。燕の諸州の牧守が尽く秦に降る":"｜前燕《ぜんえん》の滅亡。燕の諸州の牧守が尽く秦に降る","前秦の陽平太守邵興が冀州の旧郡県を集めて襄国で会しようとしたが、燕の慕容隆が襄国で邵興を大破する":"｜前秦《ぜんしん》の陽平｜太守《たいしゅ》邵興が｜冀州《きしゅう》の旧｜郡県《ぐんけん》を集めて｜襄国《じょうこく》で会しようとしたが、燕の｜慕容《ぼよう》隆が｜襄国《じょうこく》で邵興を大破する","襄国の守将の記事は無い。389年に燕が陽平王柔を襄国に鎮させているので、384年のこの戦い以後は燕の城とみた":"｜襄国《じょうこく》の守将の記事は無い。389年に燕が陽｜平王《へいおう》柔を｜襄国《じょうこく》に鎮させているので、384年のこの戦い以後は燕の城とみた","魏王珪が常山を抜き、常山以東の守宰は逃げるか降り、中山・鄴・信都の三城だけが燕のために守る":"｜魏王《ぎおう》珪が常山を抜き、常山以東の守宰は逃げるか降り、｜中山《ちゅうざん》・鄴・｜信都《しんと》の三城だけが燕のために守る","中山（定州）":"｜中山《ちゅうざん》（定州）","中山":"｜中山《ちゅうざん》","西晋の内地（中山国）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜中山《ちゅうざん》国）","王浚の滅亡（314年）の後、石勒が幽・冀を平らげ州郡の戸口を調べ始める。石勒の中山太守秦固がいたことが載記に見える":"王｜浚《しゅん》の滅亡（314年）の後、｜石勒《せきろく》が幽・冀を平らげ州郡の戸口を調べ始める。｜石勒《せきろく》の｜中山《ちゅうざん》｜太守《たいしゅ》秦固がいたことが｜載記《さいき》に見える","石勒が趙王を称する。中山は趙国24郡の1つ":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する。｜中山《ちゅうざん》は趙国24郡の1つ","後趙の崩壊後、中山は冉魏の中山太守侯龕と冉閔の将白同が守っていた":"｜後趙《こうちょう》の崩壊後、｜中山《ちゅうざん》は冉魏の｜中山《ちゅうざん》｜太守《たいしゅ》侯龕と｜冉《ぜん》｜閔《びん》の将白同が守っていた","中山が冉閔に付いた時期の記事は無い。351年の燕の攻撃の時点で冉魏の城だったことから350年の歳末を冉魏とした":"｜中山《ちゅうざん》が｜冉《ぜん》｜閔《びん》に付いた時期の記事は無い。351年の燕の攻撃の時点で冉魏の城だったことから350年の歳末を冉魏とした","慕容恪が中山を囲み、侯龕が降る。恪が中山に入る":"｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が｜中山《ちゅうざん》を囲み、侯龕が降る。恪が｜中山《ちゅうざん》に入る","慕容麟が中山を囲んで攻め落とし、苻鑑を捕らえて中山に留屯する":"｜慕容麟《ぼようりん》が｜中山《ちゅうざん》を囲んで攻め落とし、苻鑑を捕らえて｜中山《ちゅうざん》に留屯する","太元九年七月":"｜太元《たいげん》九年七月","魏が中山を攻め落とし、燕の公卿以下二万余人が降る（慕容宝は三月に中山を捨てて龍城へ去り、その後は慕容詳・慕容麟が拠っていた）":"魏が｜中山《ちゅうざん》を攻め落とし、燕の｜公卿《こうけい》以下二万余人が降る（｜慕容宝《ぼようほう》は三月に｜中山《ちゅうざん》を捨てて｜龍城《りゅうじょう》へ去り、その後は｜慕容詳《ぼようしょう》・｜慕容麟《ぼようりん》が拠っていた）","隆安元年十月甲申":"｜隆安《りゅうあん》元年十月甲申","信都（冀州）":"｜信都《しんと》（｜冀州《きしゅう》）","信都":"｜信都《しんと》","冀州区":"｜冀州《きしゅう》区","西晋の内地（冀州の治所）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜冀州《きしゅう》の治所）","王浚の滅亡後、石勒が幽・冀を平らげる。石勒の長楽太守程遐が見える":"王｜浚《しゅん》の滅亡後、｜石勒《せきろく》が幽・冀を平らげる。｜石勒《せきろく》の｜長楽《ちょうらく》｜太守《たいしゅ》程｜遐《か》が見える","309年・312年に石勒は信都を攻めて冀州刺史を殺したが、そのたびに王浚が後任を置いて信都を保った（312年は邵挙が保つ）":"309年・312年に｜石勒《せきろく》は｜信都《しんと》を攻めて｜冀州《きしゅう》｜刺史《しし》を殺したが、そのたびに王｜浚《しゅん》が後任を置いて｜信都《しんと》を保った（312年は邵挙が保つ）","石勒が趙王を称する。長楽は趙国24郡の1つ":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する。｜長楽《ちょうらく》は趙国24郡の1つ","冉魏の滅亡（352年四月に冉閔が捕らえられ八月に鄴が落ちる）で冀州が燕に帰す":"冉魏の滅亡（352年四月に｜冉《ぜん》｜閔《びん》が捕らえられ八月に鄴が落ちる）で｜冀州《きしゅう》が燕に帰す","信都そのものの記事は354年（燕が冀州刺史呉王霸を信都に移して治めさせる）まで無い。350年には後趙の汝陰王琨が冀州（信都）へ奔っている":"｜信都《しんと》そのものの記事は354年（燕が｜冀州《きしゅう》｜刺史《しし》｜呉王《ごおう》霸を｜信都《しんと》に移して治めさせる）まで無い。350年には｜後趙《こうちょう》の｜汝陰王《じょいんおう》琨が｜冀州《きしゅう》（｜信都《しんと》）へ奔っている","苻堅が鄧羌に信都を攻めさせる。前燕の滅亡":"｜苻堅《ふけん》が鄧羌に｜信都《しんと》を攻めさせる。｜前燕《ぜんえん》の滅亡","前秦の冀州刺史苻定が信都ごと燕に降る":"｜前秦《ぜんしん》の｜冀州《きしゅう》｜刺史《しし》苻定が｜信都《しんと》ごと燕に降る","苻丕が即位すると苻定らは謝罪の使者を送り、苻定は信都に拠って燕を拒む（苻丕は十一月に苻定を冀州牧とする）":"｜苻丕《ふひ》が即位すると苻定らは謝罪の使者を送り、苻定は｜信都《しんと》に拠って燕を拒む（｜苻丕《ふひ》は十一月に苻定を｜冀州《きしゅう》牧とする）","燕の太原王楷らが苻定・苻紹・苻謨・苻亮を攻め、書で禍福を説くと定らは皆降る":"燕の｜太原王《たいげんおう》楷らが苻定・苻紹・苻謨・苻亮を攻め、書で禍福を説くと定らは皆降る","魏が六十余日攻め、燕の宜都王鳳が城を越えて中山へ逃げ、信都が魏に降る":"魏が六十余日攻め、燕の｜宜都王《ぎとおう》鳳が城を越えて｜中山《ちゅうざん》へ逃げ、｜信都《しんと》が魏に降る","隆安元年正月癸亥":"｜隆安《りゅうあん》元年正月癸亥","楽城（河間）":"楽城（｜河間《かかん》）","西晋の内地（河間国）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜河間《かかん》国）","王浚の滅亡後、石勒が幽・冀を平らげる。章武の王昚の乱に対して石勒が張夷を河間太守とする":"王｜浚《しゅん》の滅亡後、｜石勒《せきろく》が幽・冀を平らげる。｜章武《しょうぶ》の王昚の乱に対して｜石勒《せきろく》が張夷を｜河間《かかん》｜太守《たいしゅ》とする","石勒が趙王を称する。河間は趙国24郡の1つ":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する。｜河間《かかん》は趙国24郡の1つ","燕王儁が冀州に南進して章武・河間を取り、封裕を河間太守とする":"｜燕王《えんおう》儁が｜冀州《きしゅう》に南進して｜章武《しょうぶ》・｜河間《かかん》を取り、封裕を｜河間《かかん》｜太守《たいしゅ》とする","永和六年九月":"｜永和《えいわ》六年九月","燕が冀州を平定する。十二月に慕容麟が前秦の王兗の守る博陵（河間の西隣）を抜き、慕容麟・慕容隆が信都から勃海・清河を徇える":"燕が｜冀州《きしゅう》を平定する。十二月に｜慕容麟《ぼようりん》が｜前秦《ぜんしん》の王兗の守る博陵（｜河間《かかん》の西隣）を抜き、｜慕容麟《ぼようりん》・｜慕容《ぼよう》隆が｜信都《しんと》から勃海・｜清河《せいが》を徇える","常山以東の郡県は皆魏に付き、燕は中山・鄴・信都の三城だけを守る":"常山以東の｜郡県《ぐんけん》は皆魏に付き、燕は｜中山《ちゅうざん》・鄴・｜信都《しんと》の三城だけを守る","薊（幽州）":"薊（｜幽州《ゆうしゅう》）","西晋の幽州の治所（のち王浚が拠る）":"｜西晋《せいしん》の｜幽州《ゆうしゅう》の治所（のち王｜浚《しゅん》が拠る）","石勒が薊を襲って王浚を捕らえ、劉翰を行幽州刺史として薊を戍らせて還るが、劉翰は石勒に従わず段匹磾に帰し、段匹磾が薊城に拠る":"｜石勒《せきろく》が薊を襲って王｜浚《しゅん》を捕らえ、劉翰を行｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》として薊を戍らせて還るが、劉翰は｜石勒《せきろく》に従わず段匹磾に帰し、段匹磾が薊城に拠る","建興二年三月":"｜建興《けんこう》二年三月","段匹磾は晋の幽州刺史を称する段部の人。保持者の側は晋のまま（勢力が王浚から段匹磾へ代わった）":"段匹磾は晋の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》を称する段部の人。保持者の側は晋のまま（勢力が王｜浚《しゅん》から段匹磾へ代わった）","司馬睿が晋王を称する。段匹磾は晋の幽州刺史として薊に拠る":"｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する。段匹磾は晋の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》として薊に拠る","石勒の将孔萇が幽州の諸郡を尽く取り、段匹磾は衆が飢え散って楽陵の邵続のもとへ逃げる":"｜石勒《せきろく》の将孔萇が｜幽州《ゆうしゅう》の諸郡を尽く取り、段匹磾は衆が飢え散って楽陵の邵続のもとへ逃げる","胡注（320年の条）に「匹磾奔邵续，蓟为石氏所取」。320年に段匹磾が薊を攻めたが取れずに還った":"胡注（320年の条）に「匹磾奔邵续，蓟为｜石氏《せきし》所取」。320年に段匹磾が薊を攻めたが取れずに還った","燕王儁が薊を抜き、薊に都する":"｜燕王《えんおう》儁が薊を抜き、薊に都する","永和六年三月乙巳":"｜永和《えいわ》六年三月乙巳","前燕の滅亡。郭慶を幽州刺史として薊に鎮させる":"｜前燕《ぜんえん》の滅亡。郭慶を｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》として薊に鎮させる","燕の帯方王佐・平規が薊を攻め、前秦の幽州刺史王永は和龍と薊城の宮室を焼いて壺関へ奔り、佐らが薊に入る":"燕の帯方王佐・平規が薊を攻め、｜前秦《ぜんしん》の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》王永は｜和龍《わりゅう》と薊城の宮室を焼いて壺関へ奔り、佐らが薊に入る","太元十年二月":"｜太元《たいげん》十年二月","燕主宝が薊中の府庫を尽く移して北の龍城へ去る。魏は中山を平らげると張袞を幽州刺史とする":"燕主宝が薊中の府庫を尽く移して北の｜龍城《りゅうじょう》へ去る。魏は｜中山《ちゅうざん》を平らげると張袞を｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》とする","涿（范陽）":"涿（｜范陽《はんよう》）","西晋の内地（范陽国）。313年には王浚の司馬游統が范陽に鎮していた":"｜西晋《せいしん》の内地（｜范陽《はんよう》国）。313年には王｜浚《しゅん》の｜司馬《しば》游統が｜范陽《はんよう》に鎮していた","司馬睿が晋王を称する。この時期の范陽は薊の段匹磾（晋の幽州刺史）の勢力下とみた":"｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する。この時期の｜范陽《はんよう》は薊の段匹磾（晋の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》）の勢力下とみた","石勒の将孔萇が幽州の諸郡を尽く取る。石勒の趙国24郡に范陽が入る":"｜石勒《せきろく》の将孔萇が｜幽州《ゆうしゅう》の諸郡を尽く取る。｜石勒《せきろく》の趙国24郡に｜范陽《はんよう》が入る","燕兵が范陽に至り、范陽太守李産は八城の令長を率いて降り、燕はそのまま李産を太守とする":"燕兵が｜范陽《はんよう》に至り、｜范陽《はんよう》｜太守《たいしゅ》李産は八城の令長を率いて降り、燕はそのまま李産を｜太守《たいしゅ》とする","前秦の幽州刺史王永が薊を捨てて壺関へ去り、燕が幽州を得る（384年は范陽で燕の平規と秦の宋敞が戦い、平規が薊南に進んだが劉庫仁の援軍に破られた）":"｜前秦《ぜんしん》の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》王永が薊を捨てて壺関へ去り、燕が｜幽州《ゆうしゅう》を得る（384年は｜范陽《はんよう》で燕の平規と秦の宋敞が戦い、平規が薊南に進んだが劉庫仁の援軍に破られた）","魏の長孫肥らが燕主宝を范陽まで追い、新城戍を破って還る。燕主宝は薊を捨てて龍城へ去る":"魏の｜長孫《ちょうそん》肥らが燕主宝を｜范陽《はんよう》まで追い、｜新城《しんじょう》戍を破って還る。燕主宝は薊を捨てて｜龍城《りゅうじょう》へ去る","西晋の内地（常山郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（常山郡）","王浚の滅亡のころ、石勒の常山太守邢泰がいて、劉琨の楽平太守焦球が常山を攻めて邢泰を斬る":"王｜浚《しゅん》の滅亡のころ、｜石勒《せきろく》の常山｜太守《たいしゅ》邢泰がいて、｜劉《りゅう》｜琨《こん》の楽平｜太守《たいしゅ》焦球が常山を攻めて邢泰を斬る","石勒が趙王を称する。常山は趙国24郡の1つ":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する。常山は趙国24郡の1つ","後趙の崩壊後、常山は冉魏の側にあった（351年に燕の慕容恪が常山を討ち、352年に劉顕が常山を攻めると冉閔が自ら救援に来る）":"｜後趙《こうちょう》の崩壊後、常山は冉魏の側にあった（351年に燕の｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が常山を討ち、352年に｜劉《りゅう》顕が常山を攻めると｜冉《ぜん》｜閔《びん》が自ら救援に来る）","冉閔が常山へ向かう途中、魏昌の廉台で慕容恪に捕らえられ、慕容恪が常山に進屯する":"｜冉《ぜん》｜閔《びん》が常山へ向かう途中、魏昌の廉台で｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》に捕らえられ、｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が常山に進屯する","永和八年四月":"｜永和《えいわ》八年四月","慕容麟が常山を抜き、守っていた前秦の苻亮・苻謨が降る":"｜慕容麟《ぼようりん》が常山を抜き、守っていた｜前秦《ぜんしん》の苻亮・苻謨が降る","魏王珪が常山を攻めて抜き、太守苟延を捕らえる":"｜魏王《ぎおう》珪が常山を攻めて抜き、｜太守《たいしゅ》苟延を捕らえる","南皮（渤海）":"南皮（｜渤海《ぼっかい》）","西晋の内地（勃海郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（勃海郡）","王浚が任じた勃海太守劉胤が郡を捨てて厭次の邵続に依る。その後、石勒が参軍臨深を勃海太守とする":"王｜浚《しゅん》が任じた｜勃海《ぼっかい》｜太守《たいしゅ》劉胤が郡を捨てて厭次の邵続に依る。その後、｜石勒《せきろく》が参軍臨深を｜勃海《ぼっかい》｜太守《たいしゅ》とする","石勒が趙王を称する。勃海は趙国24郡の1つ":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する。勃海は趙国24郡の1つ","後趙の乱に乗じて逄約が冉魏に付いて勃海太守となり、旧太守劉準・土豪封放と勃海を分けていたが、燕の高開が勃海に至ると劉準・封放が降り、燕は封放を勃海太守とする":"｜後趙《こうちょう》の乱に乗じて逄約が冉魏に付いて｜勃海《ぼっかい》｜太守《たいしゅ》となり、旧｜太守《たいしゅ》｜劉《りゅう》｜準《じゅん》・土豪封放と勃海を分けていたが、燕の高開が勃海に至ると｜劉《りゅう》｜準《じゅん》・封放が降り、燕は封放を｜勃海《ぼっかい》｜太守《たいしゅ》とする","慕容麟・慕容隆が信都から勃海・清河を徇え、麟が勃海太守封懿を捕らえる":"｜慕容麟《ぼようりん》・｜慕容《ぼよう》隆が｜信都《しんと》から勃海・｜清河《せいが》を徇え、麟が｜勃海《ぼっかい》｜太守《たいしゅ》封懿を捕らえる","燕の旧将張驤の子張超が三千余家を集めて南皮に拠り、烏桓王を自称して諸郡を抄掠する":"燕の旧将張｜驤《じょう》の子張超が三千余家を集めて南皮に拠り、烏桓王を自称して諸郡を抄掠する","隆安二年":"｜隆安《りゅうあん》二年","天興二年":"｜天興《てんこう》二年","龍城（営州）":"｜龍城《りゅうじょう》（｜営州《えいしゅう》）","龍城":"｜龍城《りゅうじょう》","柳城の地。晋は柳城県を置いていない。313年に王浚の従事韓咸が「監護柳城」していたので晋の出先とした":"柳城の地。晋は柳城県を置いていない。313年に王｜浚《しゅん》の従事韓咸が「｜監護《かんご》柳城」していたので晋の出先とした","司馬睿が晋王を称する（名目）":"｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する（名目）","慕容部":"｜慕容《ぼよう》部","晋の平州刺史崔毖が高句麗へ奔り、その衆は尽く慕容廆に降る。慕容廆が平州の地を握る":"晋の平州｜刺史《しし》崔毖が｜高句麗《こうくり》へ奔り、その衆は尽く｜慕容廆《ぼようかい》に降る。｜慕容廆《ぼようかい》が平州の地を握る","慕容皝が燕王を称する（337年十月）。341年に龍城を築き、342年十月に龍城へ遷都":"｜慕容皝《ぼようこう》が｜燕王《えんおう》を称する（337年十月）。341年に｜龍城《りゅうじょう》を築き、342年十月に｜龍城《りゅうじょう》へ遷都","秦の郭慶が龍城に進み、燕の太傅評は高句麗へ奔る。燕の諸州の牧守が尽く秦に降る":"秦の郭慶が｜龍城《りゅうじょう》に進み、燕の｜太傅《たいふ》評は｜高句麗《こうくり》へ奔る。燕の諸州の牧守が尽く秦に降る","前秦の幽州刺史王永が和龍・薊城の宮室を焼いて去り、燕王垂は帯方王佐に龍城を鎮させる。十一月に慕容農が龍城に入り、幽州牧として鎮す":"｜前秦《ぜんしん》の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》王永が｜和龍《わりゅう》・薊城の宮室を焼いて去り、｜燕王《えんおう》垂は帯方王佐に｜龍城《りゅうじょう》を鎮させる。十一月に慕容農が｜龍城《りゅうじょう》に入り、｜幽州《ゆうしゅう》牧として鎮す","馮跋らが慕容熙を殺し、慕容雲（高雲）が龍城で天王に即く（407年）":"｜馮《ふう》｜跋《ばつ》らが｜慕容熙《ぼようき》を殺し、｜慕容《ぼよう》雲（高雲）が｜龍城《りゅうじょう》で天王に即く（407年）","燕王（馮弘）が龍城の戸を率いて東の高句麗へ移り、宮殿を焼く。魏が和龍を得る":"｜燕王《えんおう》（馮弘）が｜龍城《りゅうじょう》の戸を率いて東の｜高句麗《こうくり》へ移り、宮殿を焼く。魏が｜和龍《わりゅう》を得る","太延二年五月":"｜太延《たいえん》二年五月","慕容廆の本拠。慕容部は晋に名目上服属（鮮卑都督）":"｜慕容廆《ぼようかい》の本拠。｜慕容《ぼよう》部は晋に名目上服属（｜鮮卑《せんぴ》都督）","慕容皝が燕王を称する（337年十月）。338年に後趙の石虎が棘城を十余日囲んだが落とせなかった":"｜慕容皝《ぼようこう》が｜燕王《えんおう》を称する（337年十月）。338年に｜後趙《こうちょう》の｜石虎《せきこ》が棘城を十余日囲んだが落とせなかった","燕が龍城・遼東を回復し、慕容農が幽・平二州を都督して龍城に鎮す":"燕が｜龍城《りゅうじょう》・｜遼東《りょうとう》を回復し、慕容農が幽・平二州を都督して｜龍城《りゅうじょう》に鎮す","慕容雲（高雲）が龍城で天王に即く（407年）":"｜慕容《ぼよう》雲（高雲）が｜龍城《りゅうじょう》で天王に即く（407年）","北燕の滅亡（燕王が龍城を捨てて高句麗へ移る）":"北燕の滅亡（｜燕王《えんおう》が｜龍城《りゅうじょう》を捨てて｜高句麗《こうくり》へ移る）","太延二年":"｜太延《たいえん》二年","段務勿塵の段部の地。晋（王浚）と婚姻を結び、のち遼西公に封じられる。晋の遼西郡（陽楽・肥如・海陽）の中だが、晋は令支県を置いていない":"段務勿塵の段部の地。晋（王｜浚《しゅん》）と婚姻を結び、のち｜遼西《りょうせい》公に封じられる。晋の｜遼西《りょうせい》郡（陽楽・肥如・海陽）の中だが、晋は令支県を置いていない","後趙の石虎の大軍が来ると段遼は令支を捨てて密雲山へ奔り、石虎が令支の宮に入る。翌339年に李農を営州牧として令支に鎮させる":"｜後趙《こうちょう》の｜石虎《せきこ》の大軍が来ると段遼は令支を捨てて密雲山へ奔り、｜石虎《せきこ》が令支の宮に入る。翌339年に｜李《り》農を｜営州《えいしゅう》牧として令支に鎮させる","咸康四年三月":"｜咸康《かんこう》四年三月","燕王儁が三道から後趙を伐ち、慕容霸は東道の徒河から出て安楽・北平を収め、燕は三月に薊を取る。令支で後趙の側にいた段蘭の後継段龕は部落を率いて南へ去る":"｜燕王《えんおう》儁が三道から｜後趙《こうちょう》を伐ち、｜慕容《ぼよう》霸は東道の徒河から出て安楽・｜北平《ほくへい》を収め、燕は三月に薊を取る。令支で｜後趙《こうちょう》の側にいた段蘭の後継｜段龕《だんかん》は部落を率いて南へ去る","永和六年二月":"｜永和《えいわ》六年二月","燕が令支城を取った記事は無い。令支より西の北平・薊が350年に燕の手に入ったことからの推定":"燕が令支城を取った記事は無い。令支より西の｜北平《ほくへい》・薊が350年に燕の手に入ったことからの推定","隆安五年":"｜隆安《りゅうあん》五年","燕の慕容抜が魏の令支戍を攻め落とし、宿沓干は逃げる。燕は慕容抜を幽州刺史として令支に鎮させる":"燕の｜慕容《ぼよう》抜が魏の令支戍を攻め落とし、宿沓干は逃げる。燕は｜慕容《ぼよう》抜を｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》として令支に鎮させる","元興元年":"｜元興《げんこう》元年","慕容熙が殺されて高雲が立つと、令支に鎮していた燕の幽州刺史上庸公懿は令支ごと魏に降り、魏は懿を平州牧・昌黎王とする":"｜慕容熙《ぼようき》が殺されて高雲が立つと、令支に鎮していた燕の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》上庸公懿は令支ごと魏に降り、魏は懿を平州牧・昌黎王とする","義熙三年":"｜義熙《ぎき》三年","通鑑本文は「以支降魏」と「令」字を脱する。胡注本は「以令支降魏」":"通鑑本文は「以支降魏」と「令」字を脱する。胡｜注本《ちゅうほん》は「以令支降魏」","北燕が尚書令馮万泥を幽・冀二州牧として肥如（令支の東南隣）に鎮させる":"北燕が｜尚書令《しょうしょれい》馮万泥を幽・冀二州牧として肥如（令支の東南隣）に鎮させる","義熙四年五月":"｜義熙《ぎき》四年五月","令支そのものの記事は無い。北燕の幽州が肥如に置かれ、416年に魏の延普が濡水を渡って燕の幽州刺史を攻めていることから、令支を含む濡水以東は北燕の地とみた（推定）":"令支そのものの記事は無い。北燕の｜幽州《ゆうしゅう》が肥如に置かれ、416年に魏の延普が濡水を渡って燕の｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》を攻めていることから、令支を含む濡水以東は北燕の地とみた（推定）","肥如に鎮していた燕の長楽公馮崇が魏に降り、郡を挙げて降ることを請う（燕は封羽に遼西の崇を囲ませ、433年正月に魏が救援）":"肥如に鎮していた燕の｜長楽《ちょうらく》公馮崇が魏に降り、郡を挙げて降ることを請う（燕は封羽に｜遼西《りょうせい》の崇を囲ませ、433年正月に魏が救援）","元嘉九年十二月":"｜元嘉《げんか》九年十二月","襄平（遼東）":"襄平（｜遼東《りょうとう》）","遼陽市":"｜遼陽《りょうよう》市","晋の平州・遼東国。東夷校尉の居所":"晋の平州・｜遼東《りょうとう》国。東夷校尉の居所","司馬睿が晋王を称する。平州刺史・東夷校尉崔毖が遼東に鎮す":"｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する。平州｜刺史《しし》・東夷校尉崔毖が｜遼東《りょうとう》に鎮す","崔毖が高句麗・段氏・宇文氏を誘って慕容廆を攻めさせたが失敗し、高句麗へ奔る。慕容廆は子の仁を遼東に鎮させる":"崔毖が｜高句麗《こうくり》・｜段氏《だんし》・｜宇文《うぶん》氏を誘って｜慕容廆《ぼようかい》を攻めさせたが失敗し、｜高句麗《こうくり》へ奔る。｜慕容廆《ぼようかい》は子の仁を｜遼東《りょうとう》に鎮させる","慕容仁":"｜慕容《ぼよう》仁","慕容廆の死後、慕容仁が平郭で叛き、前大農孫機らが遼東城を挙げて仁に応じ、仁が遼東の地を尽く有する":"｜慕容廆《ぼようかい》の死後、｜慕容《ぼよう》仁が平郭で叛き、前大農孫機らが｜遼東《りょうとう》城を挙げて仁に応じ、仁が｜遼東《りょうとう》の地を尽く有する","咸和八年閏月":"｜咸和《かんわ》八年閏月","慕容皝が遼東を討って襄平に至り、城に入る。仁の翟楷・龐鑒は単騎で逃げる（仁は平郭に残り、336年に滅ぶ）":"｜慕容皝《ぼようこう》が｜遼東《りょうとう》を討って襄平に至り、城に入る。仁の翟楷・龐鑒は単騎で逃げる（仁は平郭に残り、336年に滅ぶ）","慕容皝が燕王を称する（337年十月）":"｜慕容皝《ぼようこう》が｜燕王《えんおう》を称する（337年十月）","遼東太守韓稠が先に秦に降っており、逃げてきた燕の宜都王桓を入れない":"｜遼東《りょうとう》｜太守《たいしゅ》韓稠が先に秦に降っており、逃げてきた燕の｜宜都王《ぎとおう》桓を入れない","六月に高句麗が遼東を寇し燕の救援軍を破って遼東・玄菟を陥れたが、同年のうちに慕容農が高句麗を撃って遼東・玄菟二郡を回復する":"六月に｜高句麗《こうくり》が｜遼東《りょうとう》を寇し燕の救援軍を破って｜遼東《りょうとう》・玄菟を陥れたが、同年のうちに慕容農が｜高句麗《こうくり》を撃って｜遼東《りょうとう》・玄菟二郡を回復する","高句麗が宿軍（遼河の西）を攻め、燕の平州刺史慕容帰が城を捨てて逃げる":"｜高句麗《こうくり》が宿軍（遼河の西）を攻め、燕の平州｜刺史《しし》｜慕容《ぼよう》帰が城を捨てて逃げる","高句麗が遼東城（襄平）を取った記事は無い。400年には燕の襄平令がいる（通鑑年）。405年に燕王熙が高句麗の遼東城を攻めて落とせなかった（通鑑年）ので、402年から404年の間に高句麗の城になっている。宿軍が落ちた402年に合わせた":"｜高句麗《こうくり》が｜遼東《りょうとう》城（襄平）を取った記事は無い。400年には燕の襄平令がいる（通鑑年）。405年に｜燕王《えんおう》熙が｜高句麗《こうくり》の｜遼東《りょうとう》城を攻めて落とせなかった（通鑑年）ので、402年から404年の間に｜高句麗《こうくり》の城になっている。宿軍が落ちた402年に合わせた","洛陽":"｜洛陽《らくよう》","洛陽市":"｜洛陽《らくよう》市","西晋の都":"｜西晋《せいしん》の都","漢の呼延晏・王弥・劉曜が洛陽を陥し、劉曜は洛陽を守れないとして焼き払う。漢は守将を置かず、晋の残党（荀籓の行台・魏浚の石梁塢）は周辺に散る":"漢の｜呼延《こえん》｜晏《あん》・王弥・｜劉曜《りゅうよう》が｜洛陽《らくよう》を陥し、｜劉曜《りゅうよう》は｜洛陽《らくよう》を守れないとして焼き払う。漢は守将を置かず、晋の残党（荀籓の｜行台《こうだい》・魏浚の石梁塢）は周辺に散る","永嘉五年六月":"｜永嘉《えいか》五年六月","漢の劉聡が趙固を荊州刺史・領河南太守として洛陽に鎮させる":"漢の｜劉聡《りゅうそう》が趙固を｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》・領｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》として｜洛陽《らくよう》に鎮させる","漢→前趙（劉曜が国号を趙に改める）。317年に趙固が李矩に降って一時晋に属したが、317年十二月に劉粲の将劉雅生が洛陽を攻め、固は陽城山へ逃げた。318年の歳末の持ち主ははっきりしない。劉曜載記では晋の李矩が金墉を襲って克ったのち、劉曜が劉岳に洛陽を鎮させようとし、尹安・宋始らの四軍が洛陽に屯した":"漢→｜前趙《ぜんちょう》（｜劉曜《りゅうよう》が国号を趙に改める）。317年に趙固が李矩に降って一時晋に属したが、317年十二月に｜劉粲《りゅうさん》の将劉雅生が｜洛陽《らくよう》を攻め、固は｜陽城《ようじょう》山へ逃げた。318年の歳末の持ち主ははっきりしない。｜劉曜《りゅうよう》｜載記《さいき》では晋の李矩が｜金墉《きんよう》を襲って克ったのち、｜劉曜《りゅうよう》が｜劉《りゅう》岳に｜洛陽《らくよう》を鎮させようとし、尹安・宋始らの四軍が｜洛陽《らくよう》に屯した","洛陽に屯した前趙の尹安・宋始ら四軍が後趙に降り、また叛いて李矩に降る。石生が宋始の軍を虜にして河北へ去り、河南の民はみな李矩に帰して洛陽は空になる":"｜洛陽《らくよう》に屯した｜前趙《ぜんちょう》の尹安・宋始ら四軍が｜後趙《こうちょう》に降り、また叛いて李矩に降る。石生が宋始の軍を虜にして｜河北《かほく》へ去り、｜河南《かなん》の民はみな李矩に帰して｜洛陽《らくよう》は空になる","太興三年":"｜太興《たいこう》三年","後趙の司州刺史石生が洛陽を拠点に前趙の河南太守尹平を新安で斬る。325年の条には「后赵将石生屯洛阳」":"｜後趙《こうちょう》の｜司州《ししゅう》｜刺史《しし》石生が｜洛陽《らくよう》を拠点に｜前趙《ぜんちょう》の｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》尹平を｜新安《しんあん》で斬る。325年の条には「后赵将石生屯洛阳」","太寧二年":"｜太寧《たいねい》二年","後趙が洛陽に鎮を置いた年そのものは原文で確かめられない（321〜323年は空白）。324年に後趙の司州刺史として石生が現れ、325年に洛陽に屯している":"｜後趙《こうちょう》が｜洛陽《らくよう》に鎮を置いた年そのものは原文で確かめられない（321〜323年は空白）。324年に｜後趙《こうちょう》の｜司州《ししゅう》｜刺史《しし》として石生が現れ、325年に｜洛陽《らくよう》に屯している","冉魏の平南将軍高崇・征虜将軍呂護が洛州刺史鄭系を捕らえ、その地をもって晋に降る":"冉魏の｜平南将軍《へいなんしょうぐん》高崇・征虜将軍呂護が｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》鄭系を捕らえ、その地をもって晋に降る","永和七年八月":"｜永和《えいわ》七年八月","張遇が許昌で晋に叛き、部将上官恩に洛陽を拠らせる。張遇は前秦の征東大将軍・豫州牧となり、秦の苻雄が陳・潁・許・洛の民を関中へ移す":"張遇が｜許昌《きょしょう》で晋に叛き、部将上官恩に｜洛陽《らくよう》を拠らせる。張遇は｜前秦《ぜんしん》の｜征東大将軍《せいとうだいしょうぐん》・豫州牧となり、秦の｜苻雄《ふゆう》が陳・潁・許・洛の民を｜関中《かんちゅう》へ移す","秦の苻黄眉が洛陽から西へ逃げる。翌354年の条で晋の河南太守戴施が洛陽にいる":"秦の苻黄眉が｜洛陽《らくよう》から西へ逃げる。翌354年の条で晋の｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》戴施が｜洛陽《らくよう》にいる","永和九年":"｜永和《えいわ》九年","黄眉が去った後に晋の戴施が入った年は書かれていない。354年に戴施が洛陽から逃げていることからの推定":"黄眉が去った後に晋の戴施が入った年は書かれていない。354年に戴施が｜洛陽《らくよう》から逃げていることからの推定","もと冉魏の降将周成が叛き、宛から洛陽を襲う。晋の河南太守戴施は鮪渚へ逃げる":"もと冉魏の降将周成が叛き、宛から｜洛陽《らくよう》を襲う。晋の｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》戴施は鮪渚へ逃げる","永和十年":"｜永和《えいわ》十年","桓温が伊水で姚襄を破り、周成が降る。毛穆之・陳午・戴施に二千人で洛陽を守らせる":"｜桓温《かんおん》が｜伊水《いすい》で｜姚《よう》｜襄《じょう》を破り、周成が降る。毛穆之・陳午・戴施に二千人で｜洛陽《らくよう》を守らせる","永和十二年八月":"｜永和《えいわ》十二年八月","355〜356年に姚襄が洛陽の周成を囲んだが落とせなかった":"355〜356年に｜姚《よう》｜襄《じょう》が｜洛陽《らくよう》の周成を囲んだが落とせなかった","前燕の慕容恪・慕容垂が洛陽を落とし沈勁を斬る。慕容筑を洛州刺史として金墉に鎮させる":"｜前燕《ぜんえん》の｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》・｜慕容垂《ぼようすい》が｜洛陽《らくよう》を落とし沈勁を斬る。｜慕容《ぼよう》筑を｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》として｜金墉《きんよう》に鎮させる","興寧三年三月":"｜興寧《こうねい》三年三月","362年に燕の呂護が攻めたが晋が守り、364年九月に陳祐が沈勁に五百人を残して洛陽を出た":"362年に燕の呂護が攻めたが晋が守り、364年九月に陳祐が沈勁に五百人を残して｜洛陽《らくよう》を出た","前秦の王猛に迫られ、燕の洛州刺史慕容筑が洛陽ごと降る":"｜前秦《ぜんしん》の王猛に迫られ、燕の｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》｜慕容《ぼよう》筑が｜洛陽《らくよう》ごと降る","太和五年正月":"｜太和《たいわ》五年正月","秦の平原公苻暉が洛陽・陝城の兵七万を率いて長安へ帰り、晋の桓石民（晋書では桓石虔）が魯陽から河南太守高茂を北上させて洛陽を戍らせる":"秦の｜平原公《へいげんこう》苻暉が｜洛陽《らくよう》・陝城の兵七万を率いて｜長安《ちょうあん》へ帰り、晋の桓石民（｜晋書《しんじょ》では桓石虔）が｜魯陽《ろよう》から｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》高茂を北上させて｜洛陽《らくよう》を戍らせる","後秦の姚崇が百余日囲んで洛陽を落とし、晋の河南太守辛恭靖を捕らえる。淮・漢以北の諸城の多くが秦に降り人質を送る":"｜後秦《こうしん》の｜姚《よう》崇が百余日囲んで｜洛陽《らくよう》を落とし、晋の｜河南《かなん》太守辛恭靖を捕らえる。淮・漢以北の諸城の多くが秦に降り人質を送る","隆安三年":"｜隆安《りゅうあん》三年","劉裕の北伐。檀道済らが成皋へ進み、秦の姚洸が洛陽で降る。毛修之を河南・河内二郡太守として洛陽を戍らせる":"｜劉裕《りゅうゆう》の｜北伐《ほくばつ》。｜檀道済《たんどうさい》らが成皋へ進み、秦の姚洸が｜洛陽《らくよう》で降る。毛修之を｜河南《かなん》・｜河内《かだい》二郡｜太守《たいしゅ》として｜洛陽《らくよう》を戍らせる","義熙十二年十月":"｜義熙《ぎき》十二年十月","東晋→宋の交替":"｜東晋《とうしん》→宋の交替","北魏の于栗磾が金墉を攻め、宋の河南太守王涓之が城を捨てて逃げる。于栗磾を豫州刺史として洛陽に鎮させる":"｜北魏《ほくぎ》の于栗磾が｜金墉《きんよう》を攻め、宋の｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》王涓之が城を捨てて逃げる。于栗磾を豫州刺史として｜洛陽《らくよう》に鎮させる","景平元年正月":"｜景平《けいへい》元年正月","宜陽":"｜宜陽《ぎよう》","宜陽県":"｜宜陽《ぎよう》県","西晋の内地（弘農郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（弘農郡）","司馬睿が晋王を称する（西晋→東晋の交替）":"｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する（｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》の交替）","宜陽界の一泉塢にいた晋の魏該が「胡寇」に逼られて新野へ南遷する":"｜宜陽《ぎよう》界の一泉塢にいた晋の魏該が「胡寇」に逼られて新野へ南遷する","魏該が去った後に宜陽を誰が押さえたかは書かれていない。西隣が劉曜の前趙なので前趙とした（推定）":"魏該が去った後に｜宜陽《ぎよう》を誰が押さえたかは書かれていない。西隣が｜劉曜《りゅうよう》の｜前趙《ぜんちょう》なので｜前趙《ぜんちょう》とした（推定）","後趙が前趙の劉岳を洛西で破り、李矩が南へ去る。司・豫・徐・兗の地がみな後趙に入る":"｜後趙《こうちょう》が｜前趙《ぜんちょう》の｜劉《りゅう》岳を洛西で破り、李矩が南へ去る。司・豫・徐・兗の地がみな｜後趙《こうちょう》に入る","太寧三年":"｜太寧《たいねい》三年","冉魏の将が洛州刺史鄭系を捕らえ、洛州の地をもって晋に降る（宜陽そのものの記事は無い）":"冉魏の将が｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》鄭系を捕らえ、洛州の地をもって晋に降る（｜宜陽《ぎよう》そのものの記事は無い）","前秦の苻雄が関東を略し、陳・潁・許・洛の民を関中へ移す。354年に秦は洛州刺史趙倶を宜陽に鎮させている":"｜前秦《ぜんしん》の｜苻雄《ふゆう》が｜関東《かんとう》を略し、陳・潁・許・洛の民を｜関中《かんちゅう》へ移す。354年に秦は｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》趙倶を｜宜陽《ぎよう》に鎮させている","秦の苻暉が洛陽・陝城の兵を率いて長安へ帰り、晋が洛陽を戍る（宜陽そのものの記事は無い）":"秦の苻暉が｜洛陽《らくよう》・陝城の兵を率いて｜長安《ちょうあん》へ帰り、晋が｜洛陽《らくよう》を戍る（｜宜陽《ぎよう》そのものの記事は無い）","後秦が洛陽を落とし、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（宜陽そのものの記事は無い）":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を落とし、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（｜宜陽《ぎよう》そのものの記事は無い）","劉裕の北伐で王鎮悪が宜陽に至る":"｜劉裕《りゅうゆう》の｜北伐《ほくばつ》で王｜鎮悪《ちんあく》が｜宜陽《ぎよう》に至る","義熙十二年":"｜義熙《ぎき》十二年","北魏が洛陽を取り、奚斤らが司・兗・豫の諸郡県をことごとく定める（宜陽そのものの記事は無い）":"｜北魏《ほくぎ》が｜洛陽《らくよう》を取り、｜奚《けい》斤らが司・兗・豫の諸郡県をことごとく定める（｜宜陽《ぎよう》そのものの記事は無い）","景平元年":"｜景平《けいへい》元年","河内":"｜河内《かだい》","西晋の内地（河内郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜河内《かだい》郡）","漢の劉聡・劉曜・石勒が河内太守裴整を懐に囲み、河内の人が裴整を捕らえて漢に降る":"漢の｜劉聡《りゅうそう》・｜劉曜《りゅうよう》・｜石勒《せきろく》が｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》裴整を懐に囲み、｜河内《かだい》の人が裴整を捕らえて漢に降る","永嘉四年七月":"｜永嘉《えいか》四年七月","河内督将郭黙が裴整の余衆を集めて塢主となり、劉琨が黙を河内太守にした。郭黙は314年まで懐で漢に抗し、その後李矩のもとへ去った":"｜河内《かだい》督将郭黙が裴整の余衆を集めて塢主となり、｜劉《りゅう》｜琨《こん》が黙を｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》にした。郭黙は314年まで懐で漢に抗し、その後李矩のもとへ去った","石勒が趙王を称し、河内など二十四郡を趙国とする":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称し、｜河内《かだい》など二十四郡を趙国とする","苻健が趙の官爵を受けたまま、趙倶を河内太守として温を、牛夷に懐を戍らせる。その後健は関中へ向かう":"｜苻健《ふけん》が趙の官爵を受けたまま、趙倶を｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》として温を、牛夷に懐を戍らせる。その後健は｜関中《かんちゅう》へ向かう","苻健は351年に天王を称して前秦を建てる。355年に「秦の河内太守王会」が燕に降っている":"｜苻健《ふけん》は351年に天王を称して｜前秦《ぜんしん》を建てる。355年に「秦の｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》王会」が燕に降っている","後趙の旧将高昌が野王に屯し、晋に降る":"｜後趙《こうちょう》の旧将高昌が｜野王《やおう》に屯し、晋に降る","野王は河内郡の治所。苻健の守将は温・懐の戍で、健は350年に衆を挙げて西へ去っている。高昌はこのあと秦・燕にも次々と降って自立を保ち、354年に呂護が燕の河内太守として野王に入る（-10-04 総点検。以前は前秦と推定していた）":"｜野王《やおう》は｜河内《かだい》郡の治所。｜苻健《ふけん》の守将は温・懐の戍で、健は350年に衆を挙げて西へ去っている。高昌はこのあと秦・燕にも次々と降って自立を保ち、354年に呂護が燕の｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》として｜野王《やおう》に入る（-10-04 総点検。以前は｜前秦《ぜんしん》と推定していた）","呂護が魯口から野王へ逃げ、燕に謝罪して燕の河内太守となる":"呂護が魯口から｜野王《やおう》へ逃げ、燕に謝罪して燕の｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》となる","永和十年三月":"｜永和《えいわ》十年三月","前燕が滅び、燕の州郡がすべて前秦に降る":"｜前燕《ぜんえん》が滅び、燕の州郡がすべて｜前秦《ぜんしん》に降る","前燕の滅亡（370年十一月）で燕の州郡の長官はすべて前秦に降った（通鑑）。この城そのものの記事は無いが、370年の歳末に燕の城だったので前秦とした":"｜前燕《ぜんえん》の滅亡（370年十一月）で燕の州郡の長官はすべて｜前秦《ぜんしん》に降った（通鑑）。この城そのものの記事は無いが、370年の歳末に燕の城だったので｜前秦《ぜんしん》とした","慕容垂の将可足渾潭が河内で兵を集め、野王を攻め落とす":"｜慕容垂《ぼようすい》の将可足渾潭が｜河内《かだい》で兵を集め、｜野王《やおう》を攻め落とす","北魏が穆崇を豫州刺史として野王に鎮させる（秦が洛陽を取ったのに備える）":"｜北魏《ほくぎ》が穆崇を豫州刺史として｜野王《やおう》に鎮させる（秦が｜洛陽《らくよう》を取ったのに備える）","北魏が河内を取った年そのものは書かれていない。398年正月に魏が鄴を取っている。この年の通鑑の年見出しはコーパスで「公元三三九年」と誤植":"｜北魏《ほくぎ》が｜河内《かだい》を取った年そのものは書かれていない。398年正月に魏が鄴を取っている。この年の通鑑の年見出しはコーパスで「公元三三九年」と誤植","虎牢":"｜虎牢《ころう》","滎陽市":"｜滎陽《けいよう》市","西晋の内地（滎陽郡成皋県）。311年の洛陽陥落後も晋の河南尹華薈が成皋におり、のち李矩が滎陽で漢・石勒に抗した":"｜西晋《せいしん》の内地（｜滎陽《けいよう》郡成皋県）。311年の｜洛陽《らくよう》陥落後も晋の河南尹華薈が成皋におり、のち李矩が｜滎陽《けいよう》で漢・｜石勒《せきろく》に抗した","李矩・郭黙が後趙に敗れて南へ去り、司・豫・徐・兗の地がみな後趙に入る":"李矩・郭黙が｜後趙《こうちょう》に敗れて南へ去り、司・豫・徐・兗の地がみな｜後趙《こうちょう》に入る","冉魏の諸将が許昌・洛州などの諸城をもって晋に降る（成皋そのものの記事は無い）":"冉魏の諸将が｜許昌《きょしょう》・洛州などの諸城をもって晋に降る（成皋そのものの記事は無い）","燕の慕容忠が晋の滎陽太守劉遠を攻め、遠は魯陽へ逃げる。翌364年には燕の豫州刺史孫興が成皋に軍している":"燕の｜慕容忠《ぼようちゅう》が晋の｜滎陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》劉遠を攻め、遠は｜魯陽《ろよう》へ逃げる。翌364年には燕の豫州刺史孫興が成皋に軍している","興寧元年四月":"｜興寧《こうねい》元年四月","前秦の王猛が燕の洛州刺史慕容筑に「已に成皋の険を塞いだ」と書き送り、洛陽を降す":"｜前秦《ぜんしん》の王猛が燕の｜洛州《らくしゅう》｜刺史《しし》｜慕容《ぼよう》筑に「已に成皋の険を塞いだ」と書き送り、｜洛陽《らくよう》を降す","滎陽の人鄭燮が郡をもって晋に降る":"｜滎陽《けいよう》の人鄭燮が郡をもって晋に降る","太元十年三月":"｜太元《たいげん》十年三月","翟遼が滎陽を寇し、太守張卓を捕らえる":"翟遼が｜滎陽《けいよう》を寇し、｜太守《たいしゅ》張卓を捕らえる","太元十四年四月":"｜太元《たいげん》十四年四月","翟遼が滎陽郡を押さえたと読んだ。成皋そのものの記事は無い":"翟遼が｜滎陽《けいよう》郡を押さえたと読んだ。成皋そのものの記事は無い","後燕が翟釗を破り、翟釗の統べた七郡三万余戸がそのまま燕に入る":"｜後燕《こうえん》が｜翟《てき》｜釗《しょう》を破り、｜翟《てき》｜釗《しょう》の統べた七郡三万余戸がそのまま燕に入る","慕容徳が鄴から滑台へ移って南燕を建て、龍城の後燕は河南を失う":"｜慕容徳《ぼようとく》が鄴から｜滑台《かつだい》へ移って｜南燕《なんえん》を建て、｜龍城《りゅうじょう》の｜後燕《こうえん》は｜河南《かなん》を失う","推定。成皋そのものの記事は無い。398年に後燕は龍城へ退き、南燕の軍は同じ年に滎陽郡京県の管城で晋軍を破っている（通鑑）。399年に後秦が洛陽を取るまでは南燕の側とみた（-10-04 総点検。以前は399年まで後燕のままだった）":"推定。成皋そのものの記事は無い。398年に｜後燕《こうえん》は｜龍城《りゅうじょう》へ退き、｜南燕《なんえん》の軍は同じ年に｜滎陽《けいよう》郡京県の管城で｜晋軍《しんぐん》を破っている（通鑑）。399年に｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取るまでは｜南燕《なんえん》の側とみた（-10-04 総点検。以前は399年まで｜後燕《こうえん》のままだった）","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る","劉裕の北伐。秦の陽城・滎陽の二城が降り、晋兵が成皋に進む":"｜劉裕《りゅうゆう》の｜北伐《ほくばつ》。秦の｜陽城《ようじょう》・｜滎陽《けいよう》の二城が降り、晋兵が成皋に進む","北魏が二百日囲んで虎牢を陥し、宋の司州刺史毛徳祖を捕らえる":"｜北魏《ほくぎ》が二百日囲んで｜虎牢《ころう》を陥し、宋の｜司州《ししゅう》｜刺史《しし》毛｜徳祖《とくそ》を捕らえる","景平元年閏四月":"｜景平《けいへい》元年閏四月","滑台":"｜滑台《かつだい》","西晋の内地（濮陽国白馬県）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜濮陽《ぼくよう》国白馬県）","西晋の滅亡（316年）の後、319年に石勒が趙王を称するまで、滑台を誰が押さえていたかの記事が無い（晋書地理志は恵帝の末に兗州の全境が石勒に没したとする）。東晋の城とは言えないので、どの王朝の城とも言えないとした":"｜西晋《せいしん》の滅亡（316年）の後、319年に｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称するまで、｜滑台《かつだい》を誰が押さえていたかの記事が無い（｜晋書《しんじょ》地理志は｜恵帝《けいてい》の末に｜兗州《えんしゅう》の全境が｜石勒《せきろく》に没したとする）。｜東晋《とうしん》の城とは言えないので、どの王朝の城とも言えないとした","石勒が趙王を称する。晋書地理志は恵帝の末に兗州の全境が石勒に没したとする。滑台そのものの記事は無い（310年に石勒が白馬を抜いたが一時の攻略）":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する。｜晋書《しんじょ》地理志は｜恵帝《けいてい》の末に｜兗州《えんしゅう》の全境が｜石勒《せきろく》に没したとする。｜滑台《かつだい》そのものの記事は無い（310年に｜石勒《せきろく》が白馬を抜いたが一時の攻略）","後趙の旧将で州郡に拠る者が燕に使いを送る。高昌は燕・晋・秦に次々と降って中立を保ち、358年に燕に東燕で討たれ、359年に白馬から滎陽へ奔る":"｜後趙《こうちょう》の旧将で州郡に拠る者が燕に使いを送る。高昌は燕・晋・秦に次々と降って中立を保ち、358年に燕に東燕で討たれ、359年に白馬から｜滎陽《けいよう》へ奔る","高昌が白馬（滑台）に拠った始まりの年は書かれていない":"高昌が白馬（｜滑台《かつだい》）に拠った始まりの年は書かれていない","高昌が燕を防ぎきれず白馬から滎陽へ奔る":"高昌が燕を防ぎきれず白馬から｜滎陽《けいよう》へ奔る","升平三年七月":"｜升平《しょうへい》三年七月","謝玄が劉牢之らに碻磝を、済陽太守郭満に滑台を拠らせる":"謝玄が｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》らに｜碻磝《こうごう》を、済陽｜太守《たいしゅ》郭満に｜滑台《かつだい》を拠らせる","翟遼が黎陽から滑台へ移る":"翟遼が｜黎陽《れいよう》から｜滑台《かつだい》へ移る","後燕の慕容垂が翟釗を破り、章武王宙を兗・豫二州刺史として滑台に鎮させる":"｜後燕《こうえん》の｜慕容垂《ぼようすい》が｜翟《てき》｜釗《しょう》を破り、｜章武《しょうぶ》王宙を兗・豫二州｜刺史《しし》として｜滑台《かつだい》に鎮させる","太元十七年六月":"｜太元《たいげん》十七年六月","慕容徳が鄴から四万戸を率いて滑台へ南徙し、燕王を称する（南燕）":"｜慕容徳《ぼようとく》が鄴から四万戸を率いて｜滑台《かつだい》へ南徙し、｜燕王《えんおう》を称する（｜南燕《なんえん》）","慕容和の長史李辨が和を殺し、滑台をもって北魏に降る。魏の和跋が入城し、慕容徳は青州へ去る":"｜慕容《ぼよう》和の長史李辨が和を殺し、｜滑台《かつだい》をもって｜北魏《ほくぎ》に降る。魏の和跋が入城し、｜慕容徳《ぼようとく》は｜青州《せいしゅう》へ去る","晋の王仲徳の水軍が河に入り、魏の兗州刺史尉建が滑台を捨てて北へ渡る。仲徳が滑台に入る":"晋の王仲徳の水軍が河に入り、魏の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》尉建が｜滑台《かつだい》を捨てて北へ渡る。仲徳が｜滑台《かつだい》に入る","北魏の奚斤らが滑台を急攻して抜く。宋の東郡太守王景度は逃げる":"｜北魏《ほくぎ》の｜奚《けい》斤らが｜滑台《かつだい》を急攻して抜く。宋の｜東郡《とうぐん》｜太守《たいしゅ》王景度は逃げる","永初三年":"｜永初《えいしょ》三年","宋の到彦之の北伐に、北魏の滑台の戍兵が城を捨てて去る。到彦之が朱修之に滑台を守らせる":"宋の到｜彦之《げんし》の｜北伐《ほくばつ》に、｜北魏《ほくぎ》の｜滑台《かつだい》の戍兵が城を捨てて去る。到｜彦之《げんし》が朱｜修之《しゅうし》に｜滑台《かつだい》を守らせる","元嘉七年":"｜元嘉《げんか》七年","同年のうちに北魏は洛陽・虎牢を取り返したが、滑台は朱修之が翌年まで守った":"同年のうちに｜北魏《ほくぎ》は｜洛陽《らくよう》・｜虎牢《ころう》を取り返したが、｜滑台《かつだい》は朱｜修之《しゅうし》が翌年まで守った","北魏が数か月囲んで滑台を克ち、朱修之を捕らえる":"｜北魏《ほくぎ》が数か月囲んで｜滑台《かつだい》を克ち、朱｜修之《しゅうし》を捕らえる","元嘉八年二月":"｜元嘉《げんか》八年二月","枋頭":"｜枋頭《ほうとう》","西晋の内地（汲郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜汲郡《きゅうぐん》）","枋頭に壁していた汲郡の向冰を石勒が破り、その資儲を得て鄴へ進む":"｜枋頭《ほうとう》に壁していた｜汲郡《きゅうぐん》の向冰を｜石勒《せきろく》が破り、その資儲を得て鄴へ進む","永嘉六年七月":"｜永嘉《えいか》六年七月","石勒が趙王を称する（312〜318年は名目上漢の将）。333年に石虎が蒲洪を流民都督として枋頭に住まわせた":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称する（312〜318年は名目上漢の将）。333年に｜石虎《せきこ》が蒲洪を流民都督として｜枋頭《ほうとう》に住まわせた","蒲洪が都督を罷められて怒り、枋頭に帰って晋に使いを送り降る。350年正月にも「蒲洪据枋头…皆不附于闵」":"蒲洪が都督を罷められて怒り、｜枋頭《ほうとう》に帰って晋に使いを送り降る。350年正月にも「蒲洪据枋头…皆不附于闵」","永和五年":"｜永和《えいわ》五年","蒲洪（苻洪）は晋に名目上降ったが独立勢力として扱った。350年に子の苻健が枋頭に宮室を治めたのち関中へ去る":"蒲洪（｜苻洪《ふこう》）は晋に名目上降ったが独立勢力として扱った。350年に子の｜苻健《ふけん》が｜枋頭《ほうとう》に宮室を治めたのち｜関中《かんちゅう》へ去る","晋の謝尚が戴施に枋頭を拠らせ、伝国璽を枋頭へ送らせる":"晋の謝尚が戴施に｜枋頭《ほうとう》を拠らせ、｜伝国璽《でんこくじ》を｜枋頭《ほうとう》へ送らせる","黎陽太守韓高・秦の河内太守王会らが郡をもって燕に降る（隣の黎陽の帰属）":"｜黎陽《れいよう》｜太守《たいしゅ》韓高・秦の｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》王会らが郡をもって燕に降る（隣の｜黎陽《れいよう》の帰属）","晋の戴施が枋頭を去った年・燕が枋頭を取った年は書かれていない。隣郡黎陽の燕への帰属から推定。369年に桓温が枋頭まで来たときは燕の地":"晋の戴施が｜枋頭《ほうとう》を去った年・燕が｜枋頭《ほうとう》を取った年は書かれていない。隣郡｜黎陽《れいよう》の燕への帰属から推定。369年に｜桓温《かんおん》が｜枋頭《ほうとう》まで来たときは燕の地","前秦の苻堅が鄴から枋頭へ行き、父老を宴して枋頭を永昌と改める":"｜前秦《ぜんしん》の｜苻堅《ふけん》が鄴から｜枋頭《ほうとう》へ行き、｜父老《ふろう》を宴して｜枋頭《ほうとう》を｜永昌《えいしょう》と改める","燕の范陽王徳が秦の枋頭を撃って取り、戍を置いて還る":"燕の｜范陽《はんよう》王徳が秦の｜枋頭《ほうとう》を撃って取り、戍を置いて還る","慕容徳が鄴を捨てて滑台へ南徙し、北魏の衛王儀が鄴に入る":"｜慕容徳《ぼようとく》が鄴を捨てて｜滑台《かつだい》へ南徙し、｜北魏《ほくぎ》の｜衛王《えいおう》儀が鄴に入る","枋頭そのものの記事は無い。416年に魏の叔孫建が河内から枋頭へ向かい、423年に魏が娥清・周幾を枋頭に鎮させている":"｜枋頭《ほうとう》そのものの記事は無い。416年に魏の叔孫建が｜河内《かだい》から｜枋頭《ほうとう》へ向かい、423年に魏が｜娥《が》清・周幾を｜枋頭《ほうとう》に鎮させている","陳留（大梁）":"陳留（｜大梁《だいりょう》）","西晋の内地。310〜311年に晋の陳留太守王賛が倉垣で石勒を退け、311年に苟晞が倉垣に行台を置いた":"｜西晋《せいしん》の内地。310〜311年に晋の陳留｜太守《たいしゅ》王賛が倉垣で｜石勒《せきろく》を退け、311年に｜苟《こう》｜晞《き》が倉垣に｜行台《こうだい》を置いた","西晋→東晋。この頃は蓬陂塢主陳川が陳留太守を自称して浚儀に拠り、祖逖を助けていた（名目上晋）":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。この頃は蓬陂塢主｜陳川《ちんせん》が陳留｜太守《たいしゅ》を自称して浚儀に拠り、祖逖を助けていた（名目上晋）","陳川が浚儀をもって叛き石勒に降る。石虎が祖逖を浚儀で破り、桃豹に陳川の故城を守らせる":"｜陳川《ちんせん》が浚儀をもって叛き｜石勒《せきろく》に降る。｜石虎《せきこ》が祖逖を浚儀で破り、桃豹に｜陳川《ちんせん》の故城を守らせる","太興二年四月":"｜太興《たいこう》二年四月","石勒が趙王を称するのは同年十一月なので歳末は後趙":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称するのは同年十一月なので歳末は｜後趙《こうちょう》","祖逖の将韓潜・馮鉄が陳川の故城で桃豹と対峙し、豹は夜逃げして東燕城へ屯す。馮鉄が二台を拠り、逖は雍丘に鎮す":"祖逖の将韓潜・馮鉄が｜陳川《ちんせん》の故城で桃豹と｜対峙《たいじ》し、豹は夜逃げして東燕城へ屯す。馮鉄が二台を拠り、逖は雍丘に鎮す","祖逖の死後、後趙が河南を寇し、ついに陳留を取る":"祖逖の死後、｜後趙《こうちょう》が｜河南《かなん》を寇し、ついに陳留を取る","永昌元年":"｜永昌《えいしょう》元年","冉魏の諸将が河南の諸城をもって晋に降る。352年正月には晋の督護戴施が倉垣におり、九月に晋の滎陽太守劉遯が倉垣を拠る":"冉魏の諸将が｜河南《かなん》の諸城をもって晋に降る。352年正月には晋の｜督護《とくご》戴施が倉垣におり、九月に晋の｜滎陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》劉遯が倉垣を拠る","350年に後趙の段龕が陳留に拠ったが、同年七月に東の広固へ去った":"350年に｜後趙《こうちょう》の｜段龕《だんかん》が陳留に拠ったが、同年七月に東の｜広固《こうこ》へ去った","謝万の敗走後、許昌・潁川・譙・沛の諸城が相次いで燕に没する":"謝万の敗走後、｜許昌《きょしょう》・潁川・譙・沛の諸城が相次いで燕に没する","升平三年":"｜升平《しょうへい》三年","陳留の名は挙がっていない。363年に燕の慕容塵が晋の陳留太守袁披を（潁川郡の）長平で攻めており、その時には晋の陳留太守は郡外にいた":"陳留の名は挙がっていない。363年に燕の｜慕容《ぼよう》塵が晋の陳留｜太守《たいしゅ》袁披を（潁川郡の）長平で攻めており、その時には晋の陳留｜太守《たいしゅ》は郡外にいた","謝玄の北伐で劉牢之が秦の兗州刺史張崇を鄄城から逐い、河南の城堡がみな晋に帰附する":"謝玄の｜北伐《ほくばつ》で｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が秦の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》張崇を鄄城から逐い、｜河南《かなん》の城堡がみな晋に帰附する","太元九年九月":"｜太元《たいげん》九年九月","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る。416年には秦の兗州刺史韋華が倉垣にいる":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る。416年には秦の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》韋華が倉垣にいる","晋の沈林子が汴水から河へ入り、襄邑の董神虎と倉垣を攻め克つ。秦の兗州刺史韋華が降る":"晋の沈林子が汴水から河へ入り、｜襄邑《じょうゆう》の董神虎と倉垣を攻め克つ。秦の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》韋華が降る","北魏の滑稽が倉垣を襲い、宋の兵吏はみな城を越えて逃げ、陳留太守厳稜が奚斤に降る。魏は王玉を陳留太守として倉垣を守らせる":"｜北魏《ほくぎ》の滑稽が倉垣を襲い、宋の兵吏はみな城を越えて逃げ、陳留｜太守《たいしゅ》厳稜が｜奚《けい》斤に降る。魏は王玉を陳留｜太守《たいしゅ》として倉垣を守らせる","許昌":"｜許昌《きょしょう》","許昌市":"｜許昌《きょしょう》市","西晋の内地。311年二月に石勒が許昌を抜き、六月にも許昌に屯したが、勒はその後南へ去り、晋の荀組が318年まで許昌にいた":"｜西晋《せいしん》の内地。311年二月に｜石勒《せきろく》が｜許昌《きょしょう》を抜き、六月にも｜許昌《きょしょう》に屯したが、勒はその後南へ去り、晋の荀組が318年まで｜許昌《きょしょう》にいた","西晋→東晋。318年に司徒荀組が石勒に逼られて江を渡ったが、晋の都尉魯潜が325年まで許昌を守った":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。318年に｜司徒《しと》荀組が｜石勒《せきろく》に逼られて江を渡ったが、晋の｜都尉《とい》魯潜が325年まで｜許昌《きょしょう》を守った","晋の都尉魯潜が許昌をもって叛き後趙に降る":"晋の｜都尉《とい》魯潜が｜許昌《きょしょう》をもって叛き｜後趙《こうちょう》に降る","冉魏の豫州牧張遇が許昌などの諸城をもって晋に降る":"冉魏の豫州牧張遇が｜許昌《きょしょう》などの諸城をもって晋に降る","352年に張遇が許昌で叛いて前秦につき、秦は楊群を豫州刺史として許昌に鎮させたが、同年十月に晋の王俠が許昌を克った。歳末は晋":"352年に張遇が｜許昌《きょしょう》で叛いて｜前秦《ぜんしん》につき、秦は楊群を豫州刺史として｜許昌《きょしょう》に鎮させたが、同年十月に晋の王俠が｜許昌《きょしょう》を克った。歳末は晋","姚襄":"｜姚《よう》｜襄《じょう》","姚襄が外黄で高季を攻め、進んで許昌に拠る":"｜姚《よう》｜襄《じょう》が外黄で高季を攻め、進んで｜許昌《きょしょう》に拠る","永和十一年五月":"｜永和《えいわ》十一年五月","桓温が伊水で姚襄を破り、姚襄は北へ逃げる。許・洛の士女が温に得られる":"｜桓温《かんおん》が｜伊水《いすい》で｜姚《よう》｜襄《じょう》を破り、｜姚《よう》｜襄《じょう》は北へ逃げる。許・洛の士女が温に得られる","許昌そのものを晋が取った記事は無い。姚襄が平陽へ去ったことからの推定":"｜許昌《きょしょう》そのものを晋が取った記事は無い。｜姚《よう》｜襄《じょう》が｜平陽《へいよう》へ去ったことからの推定","謝万が潰走し、許昌・潁川・譙・沛の諸城が相次いで燕に没する":"謝万が潰走し、｜許昌《きょしょう》・潁川・譙・沛の諸城が相次いで燕に没する","桓温が弟の桓豁に許昌を取らせ、燕将慕容塵を破る":"｜桓温《かんおん》が弟の桓豁に｜許昌《きょしょう》を取らせ、燕将｜慕容《ぼよう》塵を破る","升平五年四月":"｜升平《しょうへい》五年四月","363年に晋の汝南太守朱斌が「虚に乗じて許昌を襲い克つ」とあるので、それまでに燕が許昌を取り返している。取り返した年は書かれていない":"363年に晋の汝南｜太守《たいしゅ》朱斌が「虚に乗じて｜許昌《きょしょう》を襲い克つ」とあるので、それまでに燕が｜許昌《きょしょう》を取り返している。取り返した年は書かれていない","燕の慕容塵が長平で陳留太守袁披を攻める隙に、晋の汝南太守朱斌が許昌を襲って克つ":"燕の｜慕容《ぼよう》塵が長平で陳留｜太守《たいしゅ》袁披を攻める隙に、晋の汝南｜太守《たいしゅ》朱斌が｜許昌《きょしょう》を襲って克つ","興寧元年十月":"｜興寧《こうねい》元年十月","燕の李洪が許昌・汝南を攻め、燕はついに許昌・汝南・陳郡を抜き、慕容塵を許昌に屯させる":"燕の李洪が｜許昌《きょしょう》・汝南を攻め、燕はついに｜許昌《きょしょう》・汝南・陳郡を抜き、｜慕容《ぼよう》塵を｜許昌《きょしょう》に屯させる","興寧二年四月":"｜興寧《こうねい》二年四月","謝玄の北伐で河南の城堡がみな晋に帰附する（許昌そのものの記事は無い）":"謝玄の｜北伐《ほくばつ》で｜河南《かなん》の城堡がみな晋に帰附する（｜許昌《きょしょう》そのものの記事は無い）","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る。416年には秦の潁川太守姚垣が許昌にいる":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る。416年には秦の潁川｜太守《たいしゅ》姚垣が｜許昌《きょしょう》にいる","同じ399年に北魏が滑台を得て「陳・潁の民の多くが魏に附いた」。401年には魏の長孫肥が許昌を徇えたが一時のもの":"同じ399年に｜北魏《ほくぎ》が｜滑台《かつだい》を得て「陳・潁の民の多くが魏に附いた」。401年には魏の｜長孫《ちょうそん》肥が｜許昌《きょしょう》を徇えたが一時のもの","檀道済が許昌を克ち、秦の潁川太守姚垣と大将楊業を捕らえる":"｜檀道済《たんどうさい》が｜許昌《きょしょう》を克ち、秦の潁川｜太守《たいしゅ》姚垣と大将｜楊《よう》業を捕らえる","北魏の周幾が許昌を寇し、許昌は潰え宋の潁川太守李元徳は項へ逃げる。魏は許昌城を平らげ、境界を定めて還る":"｜北魏《ほくぎ》の周幾が｜許昌《きょしょう》を寇し、｜許昌《きょしょう》は潰え宋の潁川｜太守《たいしゅ》李｜元徳《げんとく》は項へ逃げる。魏は｜許昌《きょしょう》城を平らげ、境界を定めて還る","景平元年十一月":"｜景平《けいへい》元年十一月","同年春に奚斤が許昌を取り魏の庾龍を潁川太守としたが、宋の李元徳が庾龍を斬って取り返していた。魏は城を壊して去ったので、城としては廃墟。430年に魏は司馬楚之を潁川に置いている":"同年春に｜奚《けい》斤が｜許昌《きょしょう》を取り魏の庾龍を潁川｜太守《たいしゅ》としたが、宋の李｜元徳《げんとく》が庾龍を斬って取り返していた。魏は城を壊して去ったので、城としては廃墟。430年に魏は｜司馬《しば》楚之を潁川に置いている","魯陽":"｜魯陽《ろよう》","西晋の内地（南陽郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜南陽《なんよう》郡）","李矩が後趙に敗れて南へ帰る途中、魯陽で死ぬ。司・豫・徐・兗の地がみな後趙に入り、淮を境とする":"李矩が｜後趙《こうちょう》に敗れて南へ帰る途中、｜魯陽《ろよう》で死ぬ。司・豫・徐・兗の地がみな｜後趙《こうちょう》に入り、淮を境とする","冉魏の荊州刺史楽弘らが諸城をもって晋に降る（魯陽そのものの記事は無い）":"冉魏の｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》楽弘らが諸城をもって晋に降る（｜魯陽《ろよう》そのものの記事は無い）","356年に桓温が督護高武に魯陽を拠らせ、363年に晋の滎陽太守劉遠が魯陽へ逃げている":"356年に｜桓温《かんおん》が｜督護《とくご》高武に｜魯陽《ろよう》を拠らせ、363年に晋の｜滎陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》劉遠が｜魯陽《ろよう》へ逃げている","前燕が洛陽を落とし、呉王垂を荊州牧として一万の兵で魯陽に鎮させる":"｜前燕《ぜんえん》が｜洛陽《らくよう》を落とし、｜呉王《ごおう》垂を｜荊州《けいしゅう》牧として一万の兵で｜魯陽《ろよう》に鎮させる","興寧三年":"｜興寧《こうねい》三年","晋の将軍劉春が魯陽を攻め、秦の荊州刺史都貴が長安へ逃げ帰る。荊州刺史桓石民が魯陽を拠る":"晋の将軍劉春が｜魯陽《ろよう》を攻め、秦の｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》都貴が｜長安《ちょうあん》へ逃げ帰る。｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》桓石民が｜魯陽《ろよう》を拠る","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（魯陽そのものの記事は無い）":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（｜魯陽《ろよう》そのものの記事は無い）","劉裕の北伐。王鎮悪・檀道済が許・洛へ、新野太守朱超石らが陽城へ向かう（魯陽そのものの記事は無い）":"｜劉裕《りゅうゆう》の｜北伐《ほくばつ》。王｜鎮悪《ちんあく》・｜檀道済《たんどうさい》が許・洛へ、新野｜太守《たいしゅ》朱超石らが｜陽城《ようじょう》へ向かう（｜魯陽《ろよう》そのものの記事は無い）","東晋→宋の交替。宋書州郡志は永初の郡国簿で魯陽を南陽郡の県に数える（宋書）":"｜東晋《とうしん》→宋の交替。｜宋書《そうじょ》州郡志は｜永初《えいしょ》の郡国簿で｜魯陽《ろよう》を｜南陽《なんよう》郡の県に数える（｜宋書《そうじょ》）","西晋の内地。311年に東海王越が項で死に、洛陽を焼いた後の王弥が項関に屯した":"｜西晋《せいしん》の内地。311年に｜東海王《とうかいおう》越が項で死に、｜洛陽《らくよう》を焼いた後の王弥が項関に屯した","李矩が南へ去り、司・豫・徐・兗の地がみな後趙に入り、淮を境とする":"李矩が南へ去り、司・豫・徐・兗の地がみな｜後趙《こうちょう》に入り、淮を境とする","冉魏の豫州牧張遇らが許昌などの諸城をもって晋に降る（陳そのものの記事は無い）":"冉魏の豫州牧張遇らが｜許昌《きょしょう》などの諸城をもって晋に降る（陳そのものの記事は無い）","352年に前秦の苻雄が陳・潁・許・洛の民を関中へ移したが、同年十月に晋が許昌を取り返し秦の豫州刺史は弘農へ退いた":"352年に｜前秦《ぜんしん》の｜苻雄《ふゆう》が陳・潁・許・洛の民を｜関中《かんちゅう》へ移したが、同年十月に晋が｜許昌《きょしょう》を取り返し秦の豫州刺史は弘農へ退いた","燕の李洪が許昌・汝南を攻め、晋の陳郡太守朱輔は彭城へ退く。燕は許昌・汝南・陳郡を抜く":"燕の李洪が｜許昌《きょしょう》・汝南を攻め、晋の陳郡｜太守《たいしゅ》朱輔は｜彭城《ほうじょう》へ退く。燕は｜許昌《きょしょう》・汝南・陳郡を抜く","謝玄の北伐で河南の城堡がみな晋に帰附する（陳そのものの記事は無い）":"謝玄の｜北伐《ほくばつ》で｜河南《かなん》の城堡がみな晋に帰附する（陳そのものの記事は無い）","387年に翟釗が陳・潁を寇し、晋の朱序が撃退している":"387年に｜翟《てき》｜釗《しょう》が陳・潁を寇し、晋の朱｜序《じょ》が撃退している","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る。416年には秦の徐州刺史姚掌が項城にいる":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る。416年には秦の｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》姚掌が項城にいる","檀道済が秦境に入り、秦の徐州刺史姚掌が項城をもって降る":"｜檀道済《たんどうさい》が秦境に入り、秦の｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》姚掌が項城をもって降る","東晋→宋の交替。422〜423年に宋の豫州刺史劉粹が項城を拠点に北魏を防ぎ、許昌・汝陽の太守が項へ逃げ込んだ。426年に魏の王慧龍が項城を囲んだが退いた":"｜東晋《とうしん》→宋の交替。422〜423年に宋の豫州刺史劉粹が項城を拠点に｜北魏《ほくぎ》を防ぎ、｜許昌《きょしょう》・汝陽の｜太守《たいしゅ》が項へ逃げ込んだ。426年に魏の王慧龍が項城を囲んだが退いた","懸瓠（汝南）":"｜懸瓠《けんこ》（汝南）","懸瓠":"｜懸瓠《けんこ》","西晋の内地（汝南郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（汝南郡）","後趙の石生が汝南を寇し、晋の汝南内史祖済を捕らえる":"｜後趙《こうちょう》の石生が汝南を寇し、晋の汝南内史祖済を捕らえる","咸和元年四月":"｜咸和《かんわ》元年四月","冉魏の豫州牧張遇らが許昌などの諸城をもって晋に降る（汝南そのものの記事は無い）":"冉魏の豫州牧張遇らが｜許昌《きょしょう》などの諸城をもって晋に降る（汝南そのものの記事は無い）","燕の李洪が許昌・汝南を攻め、懸瓠で晋兵を破る。汝南太守朱斌は寿春へ逃げ、燕は許昌・汝南・陳郡を抜く":"燕の李洪が｜許昌《きょしょう》・汝南を攻め、｜懸瓠《けんこ》で晋兵を破る。汝南｜太守《たいしゅ》朱斌は｜寿春《じゅしゅん》へ逃げ、燕は｜許昌《きょしょう》・汝南・陳郡を抜く","謝玄の北伐で河南の城堡がみな晋に帰附する（汝南そのものの記事は無い）":"謝玄の｜北伐《ほくばつ》で｜河南《かなん》の城堡がみな晋に帰附する（汝南そのものの記事は無い）","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降って人質を送る（汝南そのものの記事は無い）":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降って人質を送る（汝南そのものの記事は無い）","416年に汝南の東隣の新蔡に秦の太守董遵がいた":"416年に汝南の東隣の｜新蔡《しんさい》に秦の｜太守《たいしゅ》董遵がいた","檀道済が秦境に入り、諸屯守がみな降る。降らなかった新蔡太守董遵を攻め殺す":"｜檀道済《たんどうさい》が秦境に入り、諸屯守がみな降る。降らなかった｜新蔡《しんさい》｜太守《たいしゅ》董遵を攻め殺す","東晋→宋の交替。422〜423年に宋の豫州刺史劉粹は懸瓠に鎮していた（胡注）。宋は450年まで懸瓠を守る":"｜東晋《とうしん》→宋の交替。422〜423年に宋の豫州刺史劉粹は｜懸瓠《けんこ》に鎮していた（胡注）。宋は450年まで｜懸瓠《けんこ》を守る","宛（南陽）":"宛（｜南陽《なんよう》）","南陽市":"｜南陽《なんよう》市","西晋の内地（南陽国）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜南陽《なんよう》国）","雍州流民の侯脱が宛に拠り、石勒が宛を攻め克って侯脱を斬る。勒はその後襄陽を寇し、江西に屯す":"｜雍州《ようしゅう》流民の侯脱が宛に拠り、｜石勒《せきろく》が宛を攻め克って侯脱を斬る。勒はその後｜襄陽《じょうよう》を寇し、｜江西《こうせい》に屯す","永嘉四年":"｜永嘉《えいか》四年","晋の荀崧が荊州江北諸軍事を都督して宛に屯し、杜曾に囲まれるが守り抜く":"晋の荀崧が｜荊州《けいしゅう》｜江北《こうほく》諸軍事を都督して宛に屯し、杜曾に囲まれるが守り抜く","建興三年":"｜建興《けんこう》三年","石勒が去った後、晋が宛を取り戻した年は書かれていない（312年に流民の王如が王敦に降った）":"｜石勒《せきろく》が去った後、晋が宛を取り戻した年は書かれていない（312年に流民の王如が王｜敦《とん》に降った）","後趙の石堪が宛を攻め、晋の南陽太守王国が降る":"｜後趙《こうちょう》の石堪が宛を攻め、晋の｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》王国が降る","咸和三年四月":"｜咸和《かんわ》三年四月","冉魏の荊州刺史楽弘・徐州刺史周成らが諸城をもって晋に降る":"冉魏の｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》楽弘・｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》周成らが諸城をもって晋に降る","宛そのものの記事は無いが、のち（354年）周成が宛から洛陽を襲っており、冉魏の降将が宛にいたことが分かる。349年十月に晋の司馬勲が宛城を抜き後趙の南陽太守を殺したが、梁州へ還った":"宛そのものの記事は無いが、のち（354年）周成が宛から｜洛陽《らくよう》を襲っており、冉魏の降将が宛にいたことが分かる。349年十月に晋の｜司馬《しば》勲が宛城を抜き｜後趙《こうちょう》の｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》を殺したが、｜梁州《りょうしゅう》へ還った","もと冉魏の降将周成が叛き、宛から洛陽を襲う":"もと冉魏の降将周成が叛き、宛から｜洛陽《らくよう》を襲う","桓温が洛陽を回復し、周成が降って捕らわれる":"｜桓温《かんおん》が｜洛陽《らくよう》を回復し、周成が降って捕らわれる","宛の記事は無い。周成の勢力が消えたことからの推定。362年に晋の河南太守戴施が洛陽から宛へ奔っている":"宛の記事は無い。周成の勢力が消えたことからの推定。362年に晋の｜河南《かなん》｜太守《たいしゅ》戴施が｜洛陽《らくよう》から宛へ奔っている","晋の南陽督護趙億が宛城をもって燕に降り、太守桓澹は新野へ逃げる。燕は趙盤を魯陽から宛に戍らせる":"晋の｜南陽《なんよう》｜督護《とくご》趙億が宛城をもって燕に降り、｜太守《たいしゅ》桓澹は新野へ逃げる。燕は趙盤を｜魯陽《ろよう》から宛に戍らせる","太和元年":"｜太和《たいわ》元年","荊州刺史桓豁・竟陵太守羅崇が宛を攻め抜き、兵を留めて戍らせる":"｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》桓豁・竟陵｜太守《たいしゅ》羅崇が宛を攻め抜き、兵を留めて戍らせる","前秦の襄陽攻めで慕容垂が南陽を抜き、太守鄭裔を捕らえる":"｜前秦《ぜんしん》の襄陽攻めで｜慕容垂《ぼようすい》が｜南陽《なんよう》を抜き、｜太守《たいしゅ》鄭裔を捕らえる","太元三年":"｜太元《たいげん》三年","晋の竟陵太守趙統が襄陽を攻め、秦の荊州刺史都貴が魯陽へ逃げる。のち魯陽も晋が取る（宛そのものの記事は無い）":"晋の竟陵｜太守《たいしゅ》趙統が｜襄陽《じょうよう》を攻め、秦の｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》都貴が｜魯陽《ろよう》へ逃げる。のち｜魯陽《ろよう》も晋が取る（宛そのものの記事は無い）","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（宛そのものの記事は無い）":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（宛そのものの記事は無い）","胡注は405年に秦が晋へ返した十二郡を「隆安二年（398）に淮・漢以北が多く秦に降った」地とする":"胡注は405年に秦が晋へ返した十二郡を「｜隆安《りゅうあん》二年（398）に淮・漢以北が多く秦に降った」地とする","後秦の姚興が劉裕の求めに応じ、南郷・順陽・新野・舞陰など十二郡を晋に返す":"｜後秦《こうしん》の｜姚興《ようこう》が｜劉裕《りゅうゆう》の求めに応じ、南郷・順陽・新野・舞陰など十二郡を晋に返す","義熙元年":"｜義熙《ぎき》元年","宛（南陽郡）が十二郡に入るかは書かれていない（挙がる舞陰は南陽郡の県）。同年正月に晋の南陽太守魯宗之が襄陽を襲っており、415年には秦の姚成王が「南陽に至った」ので、晋の地と見た":"宛（｜南陽《なんよう》郡）が十二郡に入るかは書かれていない（挙がる舞陰は｜南陽《なんよう》郡の県）。同年正月に晋の｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》魯宗之が｜襄陽《じょうよう》を襲っており、415年には秦の姚成王が「｜南陽《なんよう》に至った」ので、晋の地と見た","東晋→宋の交替。宋書州郡志は永初の郡国簿に南陽郡を載せる。宋は5世紀末まで南陽を保つ":"｜東晋《とうしん》→宋の交替。｜宋書《そうじょ》州郡志は｜永初《えいしょ》の郡国簿に｜南陽《なんよう》郡を載せる。宋は5世紀末まで｜南陽《なんよう》を保つ","西晋の内地（義陽郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（義陽郡）","西晋→東晋。319年に晋の魏該が宜陽から新野へ南遷し、周訪を助けて杜曾を討った":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。319年に晋の魏該が｜宜陽《ぎよう》から新野へ南遷し、周訪を助けて杜曾を討った","後趙の石堪が宛を攻め、晋の南陽太守が降る":"｜後趙《こうちょう》の石堪が宛を攻め、晋の｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》が降る","新野そのものの記事は無いが、332年に晋が後趙から新野を抜いているので、それまでに後趙に入っている":"新野そのものの記事は無いが、332年に晋が｜後趙《こうちょう》から新野を抜いているので、それまでに｜後趙《こうちょう》に入っている","陶侃の兄の子陶臻と竟陵太守李陽が新野を攻め抜く。後趙の郭敬は逃げ、桓宣が襄陽を抜く":"陶侃の兄の子陶臻と竟陵｜太守《たいしゅ》李陽が新野を攻め抜く。｜後趙《こうちょう》の郭敬は逃げ、桓宣が｜襄陽《じょうよう》を抜く","咸和七年":"｜咸和《かんわ》七年","前秦の襄陽攻めで慕容垂が南陽を抜き、苻丕と襄陽で会する（翌379年に襄陽陥落）":"｜前秦《ぜんしん》の襄陽攻めで｜慕容垂《ぼようすい》が｜南陽《なんよう》を抜き、｜苻丕《ふひ》と｜襄陽《じょうよう》で会する（翌379年に｜襄陽《じょうよう》陥落）","晋の竟陵太守趙統が襄陽を攻め、秦の荊州刺史都貴が魯陽へ逃げる":"晋の竟陵｜太守《たいしゅ》趙統が｜襄陽《じょうよう》を攻め、秦の｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》都貴が｜魯陽《ろよう》へ逃げる","胡注は405年に返された十二郡を「隆安二年に淮・漢以北が多く秦に降った」地とする":"胡注は405年に返された十二郡を「｜隆安《りゅうあん》二年に淮・漢以北が多く秦に降った」地とする","後秦の姚興が南郷・順陽・新野・舞陰など十二郡を晋に返す":"｜後秦《こうしん》の｜姚興《ようこう》が南郷・順陽・新野・舞陰など十二郡を晋に返す","睢陽":"｜睢陽《すいよう》","西晋の内地（梁国）。311年に荀籓の行台が褚翜を梁国内史とした":"｜西晋《せいしん》の内地（｜梁国《りょうこく》）。311年に荀籓の｜行台《こうだい》が褚翜を｜梁国《りょうこく》内史とした","西晋→東晋。319年に祖逖が浚儀で敗れて梁国へ退いた":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。319年に祖逖が浚儀で敗れて｜梁国《りょうこく》へ退いた","322年に祖逖の死後、後趙が河南を寇して「梁・鄭の間がまた騒然となった」。梁国が後趙に入った年は書かれていない":"322年に祖逖の死後、｜後趙《こうちょう》が｜河南《かなん》を寇して「梁・鄭の間がまた騒然となった」。｜梁国《りょうこく》が｜後趙《こうちょう》に入った年は書かれていない","後趙の滅亡（351年）の後、353年に殷浩が姚襄を梁国に置くまで、睢陽を誰が押さえていたかの記事が無い":"｜後趙《こうちょう》の滅亡（351年）の後、353年に｜殷《いん》｜浩《こう》が｜姚《よう》｜襄《じょう》を｜梁国《りょうこく》に置くまで、｜睢陽《すいよう》を誰が押さえていたかの記事が無い","殷浩が姚襄を梁国の蠡台に移し、梁国内史とする":"｜殷《いん》｜浩《こう》が｜姚《よう》｜襄《じょう》を｜梁国《りょうこく》の蠡台に移し、｜梁国《りょうこく》内史とする","燕の太宰慕容恪が呉王垂を都督河南諸軍事として梁国の蠡台に鎮させる":"燕の｜太宰《たいさい》｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が｜呉王《ごおう》垂を都督｜河南《かなん》諸軍事として｜梁国《りょうこく》の蠡台に鎮させる","升平四年":"｜升平《しょうへい》四年","359年に許昌・潁川・譙・沛の諸城が燕に没している":"359年に｜許昌《きょしょう》・潁川・譙・沛の諸城が燕に没している","桓温の北伐で豫州刺史袁真が譙・梁を克つ（石門は開けず）":"｜桓温《かんおん》の｜北伐《ほくばつ》で豫州刺史袁真が譙・梁を克つ（石門は開けず）","太和四年":"｜太和《たいわ》四年","翌370年正月、寿春で叛した袁真が晋に通じた梁国内史朱憲を殺している":"翌370年正月、｜寿春《じゅしゅん》で叛した袁真が晋に通じた｜梁国《りょうこく》内史朱憲を殺している","前秦が彭城を取り、毛当を徐州刺史として彭城に鎮させる":"｜前秦《ぜんしん》が｜彭城《ほうじょう》を取り、毛当を｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》として｜彭城《ほうじょう》に鎮させる","太元四年":"｜太元《たいげん》四年","梁国そのものの記事は無い。秦の淮北への進出（378〜379年）からの推定":"｜梁国《りょうこく》そのものの記事は無い。秦の淮北への進出（378〜379年）からの推定","晋の劉牢之が秦の譙城を抜く。386年に謝玄は朱序を梁国に屯させようとしている":"晋の｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が秦の譙城を抜く。386年に謝玄は朱｜序《じょ》を｜梁国《りょうこく》に屯させようとしている","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る。416年に秦の将王苟生が梁郡蒙県の漆丘にいる":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る。416年に秦の将王苟生が梁郡蒙県の漆丘にいる","王鎮悪が秦境に入り、秦の将王苟生が漆丘（梁郡蒙県）をもって降る":"王｜鎮悪《ちんあく》が秦境に入り、秦の将王苟生が漆丘（梁郡蒙県）をもって降る","東晋→宋の交替。宋は梁郡を豫州に属させて保つ（宋書）":"｜東晋《とうしん》→宋の交替。宋は梁郡を豫州に属させて保つ（｜宋書《そうじょ》）","亳州市":"｜亳州《はくしゅう》市","西晋の内地（譙郡）。永嘉の乱の後は流民の塢主張平・樊雅が譙に拠り、晋の劉演が張平を豫州刺史、樊雅を譙郡太守とした（名目上晋）":"｜西晋《せいしん》の内地（譙郡）。｜永嘉《えいか》の乱の後は流民の塢主張平・樊雅が譙に拠り、晋の劉演が張平を豫州刺史、樊雅を譙郡｜太守《たいしゅ》とした（名目上晋）","祖逖が樊雅を降して譙城に入る。石虎が譙を囲んだが桓宣の救援で退く":"祖逖が樊雅を降して譙城に入る。｜石虎《せきこ》が譙を囲んだが桓宣の救援で退く","建武元年":"｜建武《けんぶ》元年","西晋→東晋の交替の年。譙は塢主の名目上の晋から、祖逖の実効支配に移る":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》の交替の年。譙は塢主の名目上の晋から、祖逖の実効支配に移る","祖逖の死後、後趙がしばしば河南を寇し、譙を囲む。豫州刺史祖約は防げず寿春へ退く":"祖逖の死後、｜後趙《こうちょう》がしばしば｜河南《かなん》を寇し、譙を囲む。豫州刺史祖約は防げず｜寿春《じゅしゅん》へ退く","譙の陥落そのものは書かれていない。333年の条に後趙の譙郡太守彭彪が見える":"譙の陥落そのものは書かれていない。333年の条に｜後趙《こうちょう》の譙郡｜太守《たいしゅ》彭彪が見える","姚襄が晋に帰し、詔して譙城に屯させる":"｜姚《よう》｜襄《じょう》が晋に帰し、詔して譙城に屯させる","桓温の北伐で豫州刺史袁真が譙・梁を克つ":"｜桓温《かんおん》の｜北伐《ほくばつ》で豫州刺史袁真が譙・梁を克つ","譙そのものの記事は無いが、384年に晋の劉牢之が「秦の譙城」を抜いているので、それまでに秦が取っている":"譙そのものの記事は無いが、384年に晋の｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が「秦の譙城」を抜いているので、それまでに秦が取っている","晋の劉牢之が秦の譙城を抜く":"晋の｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が秦の譙城を抜く","太元九年正月":"｜太元《たいげん》九年正月","後秦が洛陽を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（譙そのものの記事は無い）":"｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を取り、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（譙そのものの記事は無い）","王鎮悪・檀道済が秦境に入り、漆丘・項城などの諸屯守がみな降る（譙そのものの記事は無い）":"王｜鎮悪《ちんあく》・｜檀道済《たんどうさい》が秦境に入り、漆丘・項城などの諸屯守がみな降る（譙そのものの記事は無い）","東晋→宋の交替。宋書州郡志は譙郡を宋の豫州の郡として載せ、424年（景平二年）に譙郡の流民が魏に叛き没したと記す":"｜東晋《とうしん》→宋の交替。｜宋書《そうじょ》州郡志は譙郡を宋の豫州の郡として載せ、424年（｜景平《けいへい》二年）に譙郡の流民が魏に叛き没したと記す","姑臧":"｜姑臧《こぞう》","武威市":"｜武威《ぶい》市","西晋の涼州の治所。301年正月に張軌が涼州刺史として着任（通鑑年）。以後も316年までは西晋の州として扱う":"｜西晋《せいしん》の｜涼州《りょうしゅう》の治所。301年正月に｜張軌《ちょうき》が｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》として着任（通鑑年）。以後も316年までは｜西晋《せいしん》の州として扱う","317年から前涼（張寔）。張氏の本拠":"317年から｜前涼《ぜんりょう》（｜張寔《ちょうしょく》）。｜張氏《ちょうし》の本拠","前秦の苟萇らが姑臧に至り張天錫が降る。九月に梁熙を涼州刺史として姑臧に置く":"｜前秦《ぜんしん》の苟萇らが｜姑臧《こぞう》に至り｜張天錫《ちょうてんしゃく》が降る。九月に梁熙を｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》として｜姑臧《こぞう》に置く","太元元年八月":"｜太元《たいげん》元年八月","西域から戻った呂光が梁熙を殺して姑臧に入り、自ら涼州刺史を領す（苻堅の死をまだ知らず、前秦の将として動いた）":"西域から戻った呂光が梁熙を殺して｜姑臧《こぞう》に入り、自ら｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》を領す（｜苻堅《ふけん》の死をまだ知らず、｜前秦《ぜんしん》の将として動いた）","呂光が苻堅の死を知り、大安と改元して自立（十二月に涼州牧・酒泉公を自称）。389年三河王、396年天王は同じ政権の称号の変化":"呂光が｜苻堅《ふけん》の死を知り、｜大安《たいあん》と｜改元《かいげん》して自立（十二月に｜涼州《りょうしゅう》牧・酒泉公を自称）。389年三河王、396年天王は同じ政権の称号の変化","太元十一年十月":"｜太元《たいげん》十一年十月","呂隆が後秦に降り、後秦の斉難が王尚を行涼州刺史として兵三千で姑臧に置く（401年九月に呂隆は姚碩徳に降を請い後秦の涼州刺史となったが、403年までは呂氏が姑臧を保った）":"呂隆が｜後秦《こうしん》に降り、｜後秦《こうしん》の斉難が王尚を行｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》として兵三千で｜姑臧《こぞう》に置く（401年九月に呂隆は姚碩徳に降を請い｜後秦《こうしん》の｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》となったが、403年までは｜呂氏《りょし》が｜姑臧《こぞう》を保った）","元興二年八月":"｜元興《げんこう》二年八月","後秦の姚興が禿髪傉檀を涼州刺史として姑臧に置き王尚を召還。八月に傉檀は文支を姑臧に鎮させ、十一月に自ら姑臧へ遷る（後秦の爵命は受けたまま）":"｜後秦《こうしん》の｜姚興《ようこう》が禿髪傉檀を｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》として｜姑臧《こぞう》に置き王尚を召還。八月に傉檀は文支を｜姑臧《こぞう》に鎮させ、十一月に自ら｜姑臧《こぞう》へ遷る（｜後秦《こうしん》の爵命は受けたまま）","義熙二年":"｜義熙《ぎき》二年","傉檀が沮渠蒙遜に敗れて楽都へ遷ると、魏安の侯諶らが姑臧の南城に拠って焦朗を推し、名目上蒙遜に降る。翌年まで焦朗が姑臧を保つ":"傉檀が｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》に敗れて楽都へ遷ると、魏安の侯諶らが｜姑臧《こぞう》の南城に拠って焦朗を推し、名目上蒙遜に降る。翌年まで焦朗が｜姑臧《こぞう》を保つ","義熙六年":"｜義熙《ぎき》六年","沮渠蒙遜が姑臧を攻め抜き焦朗を捕らえ、弟の挐を秦州刺史として姑臧に置く。412年に蒙遜自身が姑臧へ遷る":"｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》が｜姑臧《こぞう》を攻め抜き焦朗を捕らえ、弟の挐を｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》として｜姑臧《こぞう》に置く。412年に蒙遜自身が｜姑臧《こぞう》へ遷る","義熙七年":"｜義熙《ぎき》七年","北魏の太武帝が姑臧を囲み、沮渠牧犍が面縛して降る。十月に楽平王丕らを涼州に留める":"｜北魏《ほくぎ》の｜太武帝《たいぶてい》が｜姑臧《こぞう》を囲み、｜沮渠《そきょ》｜牧犍《ぼくけん》が｜面縛《めんばく》して降る。十月に楽｜平王《へいおう》丕らを｜涼州《りょうしゅう》に留める","元嘉十六年九月丙戌":"｜元嘉《げんか》十六年九月丙戌","西晋の涼州張掖郡":"｜西晋《せいしん》の｜涼州《りょうしゅう》張掖郡","317年から前涼（張寔。名目上は晋に属し建興年号を使い続けたが、地図では独立政権として塗る）":"317年から｜前涼《ぜんりょう》（｜張寔《ちょうしょく》。名目上は晋に属し｜建興《けんこう》年号を使い続けたが、地図では独立政権として塗る）","張天錫の降伏で涼州の郡県がすべて前秦に降る":"｜張天錫《ちょうてんしゃく》の降伏で｜涼州《りょうしゅう》の｜郡県《ぐんけん》がすべて｜前秦《ぜんしん》に降る","呂光が姑臧に入り涼州の郡県がみな呂光に降る":"呂光が｜姑臧《こぞう》に入り｜涼州《りょうしゅう》の｜郡県《ぐんけん》がみな呂光に降る","呂光が大安と改元して自立。387年に張掖太守彭晃が叛いたが、呂光が同年に二旬攻めて城を抜き彭晃を誅した（年をまたがないので帰属は変えない）":"呂光が｜大安《たいあん》と｜改元《かいげん》して自立。387年に張掖｜太守《たいしゅ》彭晃が叛いたが、呂光が同年に二旬攻めて城を抜き彭晃を誅した（年をまたがないので帰属は変えない）","段業が沮渠男成・王徳に張掖を攻めさせ、後涼の呂弘が張掖を棄てて東へ走り、段業が治所を張掖へ移す。401年五月に沮渠蒙遜が張掖で段業を殺して北涼を継ぐ（同じ政権の継承）":"段業が沮渠男成・王徳に張掖を攻めさせ、後涼の呂弘が張掖を棄てて東へ走り、段業が治所を張掖へ移す。401年五月に｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》が張掖で段業を殺して｜北涼《ほくりょう》を継ぐ（同じ政権の継承）","禿髪保周（北魏に叛く）":"禿髪保周（｜北魏《ほくぎ》に叛く）","姑臧陥落後、北涼の張掖太守沮渠宜得が倉庫を焼いて酒泉へ走り、北魏は張掖に将を置いた。十月癸亥、北魏が張掖王とした禿髪保周が鮮卑諸部を率いて張掖に拠り北魏に叛く（440年に北魏が討つ）":"｜姑臧《こぞう》陥落後、｜北涼《ほくりょう》の張掖｜太守《たいしゅ》沮渠宜得が倉庫を焼いて酒泉へ走り、｜北魏《ほくぎ》は張掖に将を置いた。十月癸亥、｜北魏《ほくぎ》が張掖王とした禿髪保周が｜鮮卑《せんぴ》諸部を率いて張掖に拠り｜北魏《ほくぎ》に叛く（440年に｜北魏《ほくぎ》が討つ）","元嘉十六年九月〜十月癸亥":"｜元嘉《げんか》十六年九月〜十月癸亥","西晋の涼州酒泉郡":"｜西晋《せいしん》の｜涼州《りょうしゅう》酒泉郡","涼州の郡県がすべて前秦に降る":"｜涼州《りょうしゅう》の｜郡県《ぐんけん》がすべて｜前秦《ぜんしん》に降る","酒泉太守宋皓は呂光に降らず城を守ったが、呂光が攻めて捕らえる":"酒泉｜太守《たいしゅ》宋皓は呂光に降らず城を守ったが、呂光が攻めて捕らえる","呂光が大安と改元して自立。387年八月に王穆が酒泉を襲って拠ったが、同年のうちに呂光が酒泉を攻め克ち王穆は殺された（年をまたがないので帰属は変えない）":"呂光が｜大安《たいあん》と｜改元《かいげん》して自立。387年八月に王穆が酒泉を襲って拠ったが、同年のうちに呂光が酒泉を攻め克ち王穆は殺された（年をまたがないので帰属は変えない）","晋昌太守王徳・敦煌太守孟敏が段業に降り、段業が王徳を酒泉太守とする。400年に王徳が北涼に叛いて城を焼き唐瑶のもとへ走ったが、蒙遜が討って退けた":"晋昌｜太守《たいしゅ》王徳・敦煌｜太守《たいしゅ》孟敏が段業に降り、段業が王徳を酒泉｜太守《たいしゅ》とする。400年に王徳が｜北涼《ほくりょう》に叛いて城を焼き唐瑶のもとへ走ったが、蒙遜が討って退けた","沮渠蒙遜の配下の酒泉・涼寧二郡が叛いて西涼（李暠）に降る。405年に李暠が都を酒泉へ遷す":"｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》の配下の酒泉・涼寧二郡が叛いて｜西涼《せいりょう》（李暠）に降る。405年に李暠が都を酒泉へ遷す","西涼の李歆が蓼泉で沮渠蒙遜に殺され、蒙遜が酒泉に入って子の牧犍を酒泉太守とする":"｜西涼《せいりょう》の李歆が蓼泉で｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》に殺され、蒙遜が酒泉に入って子の牧犍を酒泉｜太守《たいしゅ》とする","永初元年":"｜永初《えいしょ》元年","姑臧陥落後、北魏の奚眷が酒泉を攻め、酒泉太守沮渠無諱・宜得は晋昌を経て敦煌へ走る。北魏は弋陽公元絜に酒泉を守らせる（440年正月に無諱が元絜を捕らえ、三月に酒泉を抜く）":"｜姑臧《こぞう》陥落後、｜北魏《ほくぎ》の奚眷が酒泉を攻め、酒泉｜太守《たいしゅ》沮渠無諱・宜得は晋昌を経て敦煌へ走る。｜北魏《ほくぎ》は弋陽公元絜に酒泉を守らせる（440年正月に無諱が元絜を捕らえ、三月に酒泉を抜く）","元嘉十六年":"｜元嘉《げんか》十六年","西晋の涼州敦煌郡":"｜西晋《せいしん》の｜涼州《りょうしゅう》敦煌郡","317年から前涼。345年に張駿が敦煌など三郡と三営で沙州を置く":"317年から｜前涼《ぜんりょう》。345年に｜張駿《ちょうしゅん》が敦煌など三郡と三営で｜沙州《さしゅう》を置く","西域から戻る呂光に敦煌太守姚静・晋昌太守李純が郡ごと降る":"西域から戻る呂光に敦煌｜太守《たいしゅ》姚静・晋昌｜太守《たいしゅ》｜李《り》｜純《じゅん》が郡ごと降る","呂光が大安と改元して自立":"呂光が｜大安《たいあん》と｜改元《かいげん》して自立","敦煌太守孟敏が郡ごと段業に降り、段業は孟敏を沙州刺史とする":"敦煌｜太守《たいしゅ》孟敏が郡ごと段業に降り、段業は孟敏を｜沙州《さしゅう》｜刺史《しし》とする","敦煌太守李暠が段業の任命した後任索嗣を退け、北涼の晋昌太守唐瑶の檄で涼公・領敦煌太守に推され、庚子と改元（西涼）":"敦煌｜太守《たいしゅ》李暠が段業の任命した後任索嗣を退け、｜北涼《ほくりょう》の晋昌｜太守《たいしゅ》唐瑶の檄で涼公・領敦煌｜太守《たいしゅ》に推され、｜庚子《こうし》と｜改元《かいげん》（｜西涼《せいりょう》）","隆安四年":"｜隆安《りゅうあん》四年","李歆の敗死後、敦煌太守李恂は敦煌を棄てて北山へ逃れ、蒙遜は索元緒を行敦煌太守とした（北涼）。冬に李恂が敦煌に戻って索元緒を追い、涼州刺史を称して永建と改元。歳末は李恂（西涼の残党）":"李歆の敗死後、敦煌｜太守《たいしゅ》李恂は敦煌を棄てて北山へ逃れ、蒙遜は索元緒を行敦煌｜太守《たいしゅ》とした（｜北涼《ほくりょう》）。冬に李恂が敦煌に戻って索元緒を追い、｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》を称して｜永建《えいけん》と｜改元《かいげん》。歳末は李恂（｜西涼《せいりょう》の残党）","永初元年冬":"｜永初《えいしょ》元年冬","沮渠蒙遜が堤を築いて敦煌を水攻めにし、宋承らが城ごと降り李恂は自殺。西涼が滅ぶ":"｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》が堤を築いて敦煌を水攻めにし、宋承らが城ごと降り李恂は自殺。｜西涼《せいりょう》が滅ぶ","永初二年":"｜永初《えいしょ》二年","沮渠無諱・宜得・唐児（姑臧陥落後の残党）":"沮渠無諱・宜得・唐児（｜姑臧《こぞう》陥落後の残党）","姑臧陥落後も北涼の敦煌太守沮渠唐児が敦煌を保ち、酒泉・張掖を逃れた無諱・宜得が合流する。北魏の手は及んでいない":"｜姑臧《こぞう》陥落後も｜北涼《ほくりょう》の敦煌｜太守《たいしゅ》沮渠唐児が敦煌を保ち、酒泉・張掖を逃れた無諱・宜得が合流する。｜北魏《ほくぎ》の手は及んでいない","西晋の涼州西平郡。308年に西平太守曹祛が張軌の追放を謀ったが、張寔に討たれた（晋の内部の争いで帰属は変わらない）":"｜西晋《せいしん》の｜涼州《りょうしゅう》西平郡。308年に西平｜太守《たいしゅ》曹祛が｜張軌《ちょうき》の追放を謀ったが、｜張寔《ちょうしょく》に討たれた（晋の内部の争いで帰属は変わらない）","317年から前涼。355年に西平人衛綝が郡に拠って叛いたが、同年に張琚に破られた（年をまたがないので帰属は変えない）":"317年から｜前涼《ぜんりょう》。355年に西平人衛綝が郡に拠って叛いたが、同年に張琚に破られた（年をまたがないので帰属は変えない）","涼州の郡県がみな呂光に降る":"｜涼州《りょうしゅう》の｜郡県《ぐんけん》がみな呂光に降る","呂光の西平太守康寧が匈奴王を自称して叛き、湟河太守強禧を殺す。呂光はたびたび討ったが勝てなかった":"呂光の西平｜太守《たいしゅ》康寧が｜匈奴《きょうど》王を自称して叛き、湟河｜太守《たいしゅ》強禧を殺す。呂光はたびたび討ったが勝てなかった","宋書は呂光が沮渠蒙遜の叔父羅仇を西平太守としたと記す（羅仇は397年に呂光に殺される）。遅くともこの頃までに西平は呂光の側に戻っていたと読んだ。戻った年は原文に無い":"｜宋書《そうじょ》は呂光が｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》の叔父羅仇を西平｜太守《たいしゅ》としたと記す（羅仇は397年に呂光に殺される）。遅くともこの頃までに西平は呂光の側に戻っていたと読んだ。戻った年は原文に無い","羌の梁飢が西平を攻め、西平人田玄明が太守郭幸を捕らえて代わり、子を禿髪烏孤に質として送る。烏孤が梁飢を破り田玄明を西平内史とする。399年に利鹿孤が西平に治を移す":"羌の梁飢が西平を攻め、西平人田｜玄明《げんめい》が｜太守《たいしゅ》郭幸を捕らえて代わり、子を禿髪烏孤に質として送る。烏孤が梁飢を破り田｜玄明《げんめい》を西平内史とする。399年に利鹿孤が西平に治を移す","乞伏熾磐が楽都を落として南涼が滅び、禿髪赴単を西平太守として西平に鎮させる":"乞伏熾磐が楽都を落として南涼が滅び、禿髪赴単を西平｜太守《たいしゅ》として西平に鎮させる","義熙十年":"｜義熙《ぎき》十年","西秦の援軍が着く前に沮渠蒙遜が西平を抜き、太守麹承を捕らえる（428年に一度西平を攻めて楽都へ転じたあと）":"｜西秦《せいしん》の援軍が着く前に｜沮渠《そきょ》｜蒙遜《もうそん》が西平を抜き、｜太守《たいしゅ》麹承を捕らえる（428年に一度西平を攻めて楽都へ転じたあと）","元嘉六年":"｜元嘉《げんか》六年","北涼の沮渠牧犍が姑臧で北魏に降り、北魏が将を分けて諸郡を従わせる":"｜北涼《ほくりょう》の｜沮渠《そきょ》｜牧犍《ぼくけん》が｜姑臧《こぞう》で｜北魏《ほくぎ》に降り、｜北魏《ほくぎ》が将を分けて諸郡を従わせる","北涼の君主が降ったので北涼の城としては残さない。ただし西平そのものの記事は無く、隣の楽都は太守の沮渠安周が吐谷渾へ逃げて北魏も引き上げているので、北魏の城とも言えない（持ち主なし）":"｜北涼《ほくりょう》の君主が降ったので｜北涼《ほくりょう》の城としては残さない。ただし西平そのものの記事は無く、隣の楽都は｜太守《たいしゅ》の沮渠安周が｜吐谷渾《とよくこん》へ逃げて｜北魏《ほくぎ》も引き上げているので、｜北魏《ほくぎ》の城とも言えない（持ち主なし）","西晋の西平郡の地（楽都城）":"｜西晋《せいしん》の西平郡の地（楽都城）","呂光が大安と改元して自立（胡注は呂氏がすでに楽都郡を置いていたと見る）":"呂光が｜大安《たいあん》と｜改元《かいげん》して自立（胡注は｜呂氏《りょし》がすでに楽都郡を置いていたと見る）","後涼の楽都太守田瑶・湟河太守張裯・澆河太守王稚が郡ごと禿髪烏孤に降る。399年に烏孤が楽都へ治を移し、402年に傉檀も楽都に遷る（南涼の都）":"後涼の楽都｜太守《たいしゅ》田瑶・湟河｜太守《たいしゅ》張裯・澆河｜太守《たいしゅ》王稚が郡ごと禿髪烏孤に降る。399年に烏孤が楽都へ治を移し、402年に傉檀も楽都に遷る（南涼の都）","傉檀が乙弗を討ちに出た隙に乞伏熾磐が楽都を囲み、一夕で城が潰え熾磐が入る。廉屯を涼州刺史として楽都に鎮させる":"傉檀が乙弗を討ちに出た隙に乞伏熾磐が楽都を囲み、一夕で城が潰え熾磐が入る。廉屯を｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》として楽都に鎮させる","北涼に逼られた西秦の乞伏暮末が城邑を焼いて東の上邽へ向かい南安に留まる。その旧地はみな吐谷渾に入る（楽都が名指しされているわけではない）":"｜北涼《ほくりょう》に逼られた｜西秦《せいしん》の｜乞伏《きっぷく》｜暮末《ぼまつ》が｜城邑《じょうゆう》を焼いて東の｜上邽《じょうけい》へ向かい｜南安《なんあん》に留まる。その旧地はみな｜吐谷渾《とよくこん》に入る（楽都が名指しされているわけではない）","このときの楽都太守は北涼の沮渠安周。姑臧陥落後、北魏の封沓が楽都を撃つと安周は南へ逃げて吐谷渾に奔り、封沓は数千戸を掠めて引き上げた。歳末に誰が楽都を押さえたかは原文に無い":"このときの楽都｜太守《たいしゅ》は｜北涼《ほくりょう》の沮渠安周。｜姑臧《こぞう》陥落後、｜北魏《ほくぎ》の封沓が楽都を撃つと安周は南へ逃げて｜吐谷渾《とよくこん》に奔り、封沓は数千戸を掠めて引き上げた。歳末に誰が楽都を押さえたかは原文に無い","枹罕":"｜枹罕《ふかん》","西晋の枹罕県（隴西郡。のち張軌が晋興郡に分属させる）":"｜西晋《せいしん》の｜枹罕《ふかん》県（｜隴西《ろうせい》郡。のち｜張軌《ちょうき》が晋興郡に分属させる）","317年から前涼（張寔）。320年に司馬保を殺した張春が枹罕へ逃げ込んでいる":"317年から｜前涼《ぜんりょう》（｜張寔《ちょうしょく》）。320年に｜司馬《しば》保を殺した張春が｜枹罕《ふかん》へ逃げ込んでいる","涼州の将辛晏が枹罕に拠って張駿に従わない":"｜涼州《りょうしゅう》の将辛晏が｜枹罕《ふかん》に拠って｜張駿《ちょうしゅん》に従わない","太寧二年十二月":"｜太寧《たいねい》二年十二月","辛晏が枹罕ごと降り、張駿が河南の地を回収する":"辛晏が｜枹罕《ふかん》ごと降り、｜張駿《ちょうしゅん》が｜河南《かなん》の地を回収する","前趙の南陽王劉胤が韓璞を破って河を渡り、張閬・辛晏（枹罕護軍）が衆ごと前趙に降る。張駿は河南の地を失う":"｜前趙《ぜんちょう》の｜南陽《なんよう》王劉胤が韓璞を破って河を渡り、張閬・辛晏（｜枹罕《ふかん》｜護軍《ごぐん》）が衆ごと｜前趙《ぜんちょう》に降る。｜張駿《ちょうしゅん》は｜河南《かなん》の地を失う","咸和二年十月":"｜咸和《かんわ》二年十月","前趙は329年九月に上邽が落ちて滅んだ。この城の前趙の守将がその後どうしたかの記事は無く、330年に張駿（前涼）が「前趙の滅亡に因って」河南の地を回収するまで、どの王朝の城とも言えないとした":"｜前趙《ぜんちょう》は329年九月に｜上邽《じょうけい》が落ちて滅んだ。この城の｜前趙《ぜんちょう》の守将がその後どうしたかの記事は無く、330年に｜張駿《ちょうしゅん》（｜前涼《ぜんりょう》）が「｜前趙《ぜんちょう》の滅亡に因って」｜河南《かなん》の地を回収するまで、どの王朝の城とも言えないとした","前趙の滅亡に乗じて張駿が河南の地を回収し、狄道まで進めて後趙と境を分ける":"｜前趙《ぜんちょう》の滅亡に乗じて｜張駿《ちょうしゅん》が｜河南《かなん》の地を回収し、狄道まで進めて｜後趙《こうちょう》と境を分ける","咸和五年":"｜咸和《かんわ》五年","後趙の麻秋の大軍を謝艾が退けたあと、枹罕護軍李逵が衆七千を率いて後趙に降り、河以南の氐・羌がみな後趙に付く":"｜後趙《こうちょう》の麻秋の大軍を謝｜艾《がい》が退けたあと、｜枹罕《ふかん》｜護軍《ごぐん》李逵が衆七千を率いて｜後趙《こうちょう》に降り、河以南の氐・羌がみな｜後趙《こうちょう》に付く","永和三年":"｜永和《えいわ》三年","後趙の瓦解（349〜351年）。後趙の枹罕の守将のその後、前涼がいつ回復したかは原文に見えない。351年（後趙の滅亡）で後趙の色を止めた":"｜後趙《こうちょう》の瓦解（349〜351年）。｜後趙《こうちょう》の｜枹罕《ふかん》の守将のその後、｜前涼《ぜんりょう》がいつ回復したかは原文に見えない。351年（｜後趙《こうちょう》の滅亡）で｜後趙《こうちょう》の色を止めた","前涼の河州刺史張瓘が枹罕を守っている（張祚が張掖太守索孚を代わりに送る）。遅くともこの年までに前涼が枹罕を回復":"｜前涼《ぜんりょう》の河州｜刺史《しし》張｜瓘《かん》が｜枹罕《ふかん》を守っている（｜張祚《ちょうそ》が張掖｜太守《たいしゅ》索孚を代わりに送る）。遅くともこの年までに｜前涼《ぜんりょう》が｜枹罕《ふかん》を回復","隴西の李儼が張天錫に攻められて枹罕に退き前秦に救いを求める。王猛が枹罕東で張天錫を破り、李儼を捕らえて彭越を涼州刺史として枹罕に置く":"｜隴西《ろうせい》の李儼が｜張天錫《ちょうてんしゃく》に攻められて｜枹罕《ふかん》に退き｜前秦《ぜんしん》に救いを求める。王猛が｜枹罕《ふかん》東で｜張天錫《ちょうてんしゃく》を破り、李儼を捕らえて｜彭越《ほうえつ》を｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》として｜枹罕《ふかん》に置く","枹罕の羌彭奚念が乞伏乾帰に付き、乾帰は奚念を北河州刺史とする":"｜枹罕《ふかん》の羌彭奚念が｜乞伏乾帰《きっぷくけんき》に付き、乾帰は奚念を北河州｜刺史《しし》とする","太元十四年十一月":"｜太元《たいげん》十四年十一月","呂光が自ら枹罕の彭奚念を攻めて克ち、奚念は甘松へ奔る":"呂光が自ら｜枹罕《ふかん》の彭奚念を攻めて克ち、奚念は甘松へ奔る","後涼の呂延が乾帰に敗死し耿稚らは一旦枹罕に退いたが、呂光は姑臧へ引き上げる。六月、乾帰が翟瑁を興晋太守として枹罕に鎮させる":"後涼の呂延が乾帰に敗死し耿稚らは一旦｜枹罕《ふかん》に退いたが、呂光は｜姑臧《こぞう》へ引き上げる。六月、乾帰が翟瑁を興晋｜太守《たいしゅ》として｜枹罕《ふかん》に鎮させる","隆安元年六月":"｜隆安《りゅうあん》元年六月","乾帰が後秦の姚興に大敗し、姚興が枹罕に進む。八月、乾帰が枹罕で後秦に降る（西秦の城は後秦へ。以後は後秦の河州刺史が置かれる）":"乾帰が｜後秦《こうしん》の｜姚興《ようこう》に大敗し、｜姚興《ようこう》が｜枹罕《ふかん》に進む。八月、乾帰が｜枹罕《ふかん》で｜後秦《こうしん》に降る（｜西秦《せいしん》の城は｜後秦《こうしん》へ。以後は｜後秦《こうしん》の河州｜刺史《しし》が置かれる）","隆安四年八月":"｜隆安《りゅうあん》四年八月","後秦の河州刺史彭奚念が叛いて南涼の禿髪傉檀に降る。408年十二月に乞伏熾磐が枹罕の奚念を攻めて敗れる":"｜後秦《こうしん》の河州｜刺史《しし》彭奚念が叛いて南涼の禿髪傉檀に降る。408年十二月に乞伏熾磐が｜枹罕《ふかん》の奚念を攻めて敗れる","義熙三年十月":"｜義熙《ぎき》三年十月","乞伏熾磐が奚念を破って枹罕を克ち、乾帰が苑川へ逃げ帰って秦王に復位。屋引破光を河州刺史として枹罕に鎮させる":"乞伏熾磐が奚念を破って｜枹罕《ふかん》を克ち、乾帰が苑川へ逃げ帰って｜秦王《しんおう》に復位。屋引破光を河州｜刺史《しし》として｜枹罕《ふかん》に鎮させる","義熙五年":"｜義熙《ぎき》五年","彭利発（西羌）":"彭利発（｜西羌《せいきょう》）","西羌の彭利発が枹罕を襲って拠り、大将軍・河州牧を自称。乾帰が討つが克てない":"｜西羌《せいきょう》の彭利発が｜枹罕《ふかん》を襲って拠り、｜大将軍《だいしょうぐん》・河州牧を自称。乾帰が討つが克てない","義熙七年十二月":"｜義熙《ぎき》七年十二月","彭利発が衆を棄てて南へ走り斬られる。乞伏審虔を河州刺史として枹罕に置き、同年に熾磐が枹罕へ遷る（西秦の都）":"彭利発が衆を棄てて南へ走り斬られる。乞伏審虔を河州｜刺史《しし》として｜枹罕《ふかん》に置き、同年に熾磐が｜枹罕《ふかん》へ遷る（｜西秦《せいしん》の都）","義熙八年":"｜義熙《ぎき》八年","乞伏暮末が城邑を焼いて東の上邽へ向かい南安に留まる。西秦の旧地はみな吐谷渾に入る（胡注は苑川から西平・枹罕までを乞伏氏の旧地とする）。432年に北魏は吐谷渾王慕璝が金城・枹罕・隴西の地を得ていることを認めている":"｜乞伏《きっぷく》｜暮末《ぼまつ》が｜城邑《じょうゆう》を焼いて東の｜上邽《じょうけい》へ向かい｜南安《なんあん》に留まる。｜西秦《せいしん》の旧地はみな｜吐谷渾《とよくこん》に入る（胡注は苑川から西平・｜枹罕《ふかん》までを乞伏氏の旧地とする）。432年に｜北魏《ほくぎ》は｜吐谷渾《とよくこん》王｜慕璝《ぼかい》が金城・｜枹罕《ふかん》・｜隴西《ろうせい》の地を得ていることを認めている","鮮卑諸部（のち乞伏部）":"｜鮮卑《せんぴ》諸部（のち乞伏部）","乞伏述延が鮮卑莫侯を苑川で破ってここに定住した（晋書載記）。述延の時期は329年以前としか分からない。晋の金城郡楡中県の地だが、晋の守宰がいた記事は無い":"乞伏述延が｜鮮卑《せんぴ》莫侯を苑川で破ってここに定住した（｜晋書《しんじょ》｜載記《さいき》）。述延の時期は329年以前としか分からない。晋の金城郡楡中県の地だが、晋の守宰がいた記事は無い","後趙が前趙を滅ぼすと乞伏述延は恐れて麦田へ移る。以後371年までの苑川の持ち主は原文に見えない":"｜後趙《こうちょう》が｜前趙《ぜんちょう》を滅ぼすと乞伏述延は恐れて麦田へ移る。以後371年までの苑川の持ち主は原文に見えない","前秦の王統が度堅山の乞伏司繁を襲い、苑川で迎え撃った司繁の部衆が降る。前秦は司繁の従叔吐雷を勇士護軍として部衆を治めさせる（373年には司繁を勇士川に鎮させる）":"｜前秦《ぜんしん》の王統が度堅山の乞伏司繁を襲い、苑川で迎え撃った司繁の部衆が降る。｜前秦《ぜんしん》は司繁の従叔吐雷を勇士｜護軍《ごぐん》として部衆を治めさせる（373年には司繁を勇士川に鎮させる）","咸安元年":"｜咸安《かんあん》元年","乞伏国仁が大単于・秦河二州牧を自称し建義と改元、十二郡を置いて勇士城を築き都とする（西秦）。388年に乾帰が金城へ遷都":"乞伏国仁が大｜単于《ぜんう》・秦河二州牧を自称し｜建義《けんぎ》と｜改元《かいげん》、十二郡を置いて勇士城を築き都とする（｜西秦《せいしん》）。388年に乾帰が金城へ遷都","乾帰がこの年苑川へ遷都したが、後秦に大敗して苑川へ逃げ戻り、部衆三万六千が後秦に降る。乾帰も八月に後秦に降る。401年以後は後秦の配下として乾帰が苑川に鎮した":"乾帰がこの年苑川へ遷都したが、｜後秦《こうしん》に大敗して苑川へ逃げ戻り、部衆三万六千が｜後秦《こうしん》に降る。乾帰も八月に｜後秦《こうしん》に降る。401年以後は｜後秦《こうしん》の配下として乾帰が苑川に鎮した","乾帰が平涼から苑川へ逃げ帰り、秦王に復位して更始と改元（410年八月に再び苑川を都とする）":"乾帰が平涼から苑川へ逃げ帰り、｜秦王《しんおう》に復位して更始と｜改元《かいげん》（410年八月に再び苑川を都とする）","乞伏暮末が東へ去り、西秦の旧地は吐谷渾に入る（胡注は苑川から西平・枹罕までを乞伏氏の旧地とする）":"｜乞伏《きっぷく》｜暮末《ぼまつ》が東へ去り、｜西秦《せいしん》の旧地は｜吐谷渾《とよくこん》に入る（胡注は苑川から西平・｜枹罕《ふかん》までを乞伏氏の旧地とする）","蘭州市":"｜蘭州《らんしゅう》市","西晋の金城郡（晋志では涼州所属。秦州成立時に秦州へ入れられたこともある）":"｜西晋《せいしん》の金城郡（晋志では｜涼州《りょうしゅう》所属。｜秦州《しんしゅう》成立時に｜秦州《しんしゅう》へ入れられたこともある）","317年から前涼（318年に張寔が金城太守竇濤を上邽救援に送っている）":"317年から｜前涼《ぜんりょう》（318年に｜張寔《ちょうしょく》が金城｜太守《たいしゅ》竇濤を｜上邽《じょうけい》救援に送っている）","前趙の劉胤に韓璞が敗れ、金城太守張閬・辛晏が衆数万を率いて前趙に降る。張駿は河南の地を失う":"｜前趙《ぜんちょう》の劉胤に韓璞が敗れ、金城｜太守《たいしゅ》張閬・辛晏が衆数万を率いて｜前趙《ぜんちょう》に降る。｜張駿《ちょうしゅん》は｜河南《かなん》の地を失う","前趙の滅亡に乗じて張駿が河南の地を回収（狄道まで）":"｜前趙《ぜんちょう》の滅亡に乗じて｜張駿《ちょうしゅん》が｜河南《かなん》の地を回収（狄道まで）","後趙の涼州刺史麻秋・孫伏都が金城を攻め、太守張沖が降る。347年に謝艾に敗れた麻秋は金城へ退いている":"｜後趙《こうちょう》の｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》麻秋・孫｜伏都《ふくと》が金城を攻め、｜太守《たいしゅ》張沖が降る。347年に謝｜艾《がい》に敗れた麻秋は金城へ退いている","永和二年":"｜永和《えいわ》二年","後趙の瓦解（349〜351年）。その後371年まで金城の守宰の記事が無い。351年（後趙の滅亡）で後趙の色を止めた":"｜後趙《こうちょう》の瓦解（349〜351年）。その後371年まで金城の守宰の記事が無い。351年（｜後趙《こうちょう》の滅亡）で｜後趙《こうちょう》の色を止めた","前秦が涼州の治所を天水から金城へ移す（胡注『自天水徙治金城』）":"｜前秦《ぜんしん》が｜涼州《りょうしゅう》の治所を天水から金城へ移す（胡注『自天水徙治金城』）","太元十三年九月":"｜太元《たいげん》十三年九月","後涼の呂纂らが西秦の金城を抜き、続いて自立した禿髪烏孤が後涼の金城を攻め克つ（同年に二度持ち主が変わる。歳末は南涼）":"後涼の呂纂らが｜西秦《せいしん》の金城を抜き、続いて自立した禿髪烏孤が後涼の金城を攻め克つ（同年に二度持ち主が変わる。歳末は南涼）","西秦が金城太守辛静を右丞相とする":"｜西秦《せいしん》が金城｜太守《たいしゅ》辛静を右｜丞相《じょうしょう》とする","397年に南涼が金城を克ったあと、西秦がいつ取り返したかは書かれていない。399年に西秦の金城太守が見え、400年に後秦に敗れた乾帰が金城へ逃げ込んでいるので、399年から西秦とした（-10-04 総点検）":"397年に南涼が金城を克ったあと、｜西秦《せいしん》がいつ取り返したかは書かれていない。399年に｜西秦《せいしん》の金城｜太守《たいしゅ》が見え、400年に｜後秦《こうしん》に敗れた乾帰が金城へ逃げ込んでいるので、399年から｜西秦《せいしん》とした（-10-04 総点検）","後秦に大敗した乾帰が金城へ逃げ、群臣に後秦へ降れと告げて允吾へ去る。八月に乾帰も後秦に降る。401年・402年には後秦の軍が金城から河を渡り、金城に屯している":"｜後秦《こうしん》に大敗した乾帰が金城へ逃げ、群臣に｜後秦《こうしん》へ降れと告げて允吾へ去る。八月に乾帰も｜後秦《こうしん》に降る。401年・402年には｜後秦《こうしん》の軍が金城から河を渡り、金城に屯している","西秦の乾帰が後秦の金城郡を攻め抜く":"｜西秦《せいしん》の乾帰が｜後秦《こうしん》の金城郡を攻め抜く","西秦の旧地が吐谷渾に入る。432年に北魏の詔が吐谷渾王慕璝の得た地として金城を挙げる":"｜西秦《せいしん》の旧地が｜吐谷渾《とよくこん》に入る。432年に｜北魏《ほくぎ》の詔が｜吐谷渾《とよくこん》王｜慕璝《ぼかい》の得た地として金城を挙げる","襄武（隴西郡）":"襄武（｜隴西《ろうせい》郡）","隴西県":"｜隴西《ろうせい》県","西晋の秦州隴西郡。305年に隴西太守韓稚が秦州刺史張輔を殺したが、晋の内部の争いで帰属は変わらない":"｜西晋《せいしん》の｜秦州《しんしゅう》｜隴西《ろうせい》郡。305年に｜隴西《ろうせい》｜太守《たいしゅ》韓稚が｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》張輔を殺したが、晋の内部の争いで帰属は変わらない","司馬保":"｜司馬《しば》保","上邽の南陽王司馬保（相国）の秦州の地。317年は晋王睿のもとの東晋に属する。318年に保は晋王を称し、320年に部下に殺される。そのあとも隴西太守梁勲ら保の旧将が隴西を保った":"｜上邽《じょうけい》の｜南陽《なんよう》王｜司馬《しば》保（｜相国《しょうこく》）の｜秦州《しんしゅう》の地。317年は｜晋王《しんおう》睿のもとの｜東晋《とうしん》に属する。318年に保は｜晋王《しんおう》を称し、320年に部下に殺される。そのあとも｜隴西《ろうせい》｜太守《たいしゅ》梁勲ら保の旧将が｜隴西《ろうせい》を保った","上邽の司馬保の秦州の地。上邽の行と同じく、保が晋王を称した319年から東晋とは別に扱う（-10-04 総点検で上邽と揃えた）":"｜上邽《じょうけい》の｜司馬《しば》保の｜秦州《しんしゅう》の地。｜上邽《じょうけい》の行と同じく、保が｜晋王《しんおう》を称した319年から｜東晋《とうしん》とは別に扱う（-10-04 総点検で｜上邽《じょうけい》と揃えた）","晋王保の旧将（隴西太守梁勲）":"｜晋王《しんおう》保の旧将（｜隴西《ろうせい》｜太守《たいしゅ》梁勲）","晋王保が部将に殺され、隴西太守梁勲ら保の旧将が隴西を保つ":"｜晋王《しんおう》保が部将に殺され、｜隴西《ろうせい》｜太守《たいしゅ》梁勲ら保の旧将が｜隴西《ろうせい》を保つ","推定。322年に『故晋王保の将楊韜・隴西太守梁勲が劉曜に降る』とあるので、それまで保の旧将が隴西を保ったとみた（-10-04 総点検）":"推定。322年に『故｜晋王《しんおう》保の将楊韜・｜隴西《ろうせい》｜太守《たいしゅ》梁勲が｜劉曜《りゅうよう》に降る』とあるので、それまで保の旧将が｜隴西《ろうせい》を保ったとみた（-10-04 総点検）","前趙の劉曜が仇池を攻めたとき、旧晋王保の将楊韜と隴西太守梁勲が劉曜に降る。同じ年に張茂が韓璞に隴西・南安の地を取らせて秦州を置く（歳末は前涼）":"｜前趙《ぜんちょう》の｜劉曜《りゅうよう》が仇池を攻めたとき、旧｜晋王《しんおう》保の将楊韜と｜隴西《ろうせい》｜太守《たいしゅ》梁勲が｜劉曜《りゅうよう》に降る。同じ年に｜張茂《ちょうも》が韓璞に｜隴西《ろうせい》・｜南安《なんあん》の地を取らせて｜秦州《しんしゅう》を置く（歳末は｜前涼《ぜんりょう》）","張駿が前趙の秦州諸郡を攻めたが劉胤に大敗し、河南の地を失う（326年に張駿は前趙を恐れて隴西・南安の民二千余家を姑臧へ移していた）":"｜張駿《ちょうしゅん》が｜前趙《ぜんちょう》の｜秦州《しんしゅう》諸郡を攻めたが劉胤に大敗し、｜河南《かなん》の地を失う（326年に｜張駿《ちょうしゅん》は｜前趙《ぜんちょう》を恐れて｜隴西《ろうせい》・｜南安《なんあん》の民二千余家を｜姑臧《こぞう》へ移していた）","咸和二年":"｜咸和《かんわ》二年","後趙の石虎が前趙の劉胤を破って上邽が潰え、秦隴が後趙に入る。330年の前涼の回復は狄道までで、その東の襄武は後趙側":"｜後趙《こうちょう》の｜石虎《せきこ》が｜前趙《ぜんちょう》の劉胤を破って｜上邽《じょうけい》が潰え、秦隴が｜後趙《こうちょう》に入る。330年の｜前涼《ぜんりょう》の回復は狄道までで、その東の襄武は｜後趙《こうちょう》側","王擢（後趙の旧将）":"王擢（｜後趙《こうちょう》の旧将）","後趙の西中郎将王擢が隴上に拠る。352年に東晋・前燕に降を請い、同年前秦の苻雄に隴西で攻められて涼州へ奔る":"｜後趙《こうちょう》の西中郎将王擢が隴上に拠る。352年に｜東晋《とうしん》・｜前燕《ぜんえん》に降を請い、同年｜前秦《ぜんしん》の｜苻雄《ふゆう》に｜隴西《ろうせい》で攻められて｜涼州《りょうしゅう》へ奔る","前涼の張重華が王擢を秦州刺史として上邽を攻めさせ、秦州の郡県の多くが応じる。354年の桓温入関のとき王擢は隴西に鎮していた（同年王擢は張祚に背いて前秦に降るが、前涼の牛霸が王擢を破っている）":"｜前涼《ぜんりょう》の｜張重華《ちょうじゅうか》が王擢を｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》として｜上邽《じょうけい》を攻めさせ、｜秦州《しんしゅう》の｜郡県《ぐんけん》の多くが応じる。354年の｜桓温《かんおん》｜入関《にゅうかん》のとき王擢は｜隴西《ろうせい》に鎮していた（同年王擢は｜張祚《ちょうそ》に背いて｜前秦《ぜんしん》に降るが、｜前涼《ぜんりょう》の牛霸が王擢を破っている）","隴西の李儼が郡に拠って張瓘の命を受けず、東晋の年号を用いる（のち前秦に降り、また張天錫に通じ、366年十二月には秦・涼の両方と絶つ）":"｜隴西《ろうせい》の李儼が郡に拠って張｜瓘《かん》の命を受けず、｜東晋《とうしん》の年号を用いる（のち｜前秦《ぜんしん》に降り、また｜張天錫《ちょうてんしゃく》に通じ、366年十二月には秦・涼の両方と絶つ）","前秦は隴西太守姜衡を置いて斂岐を討ち、王猛が枹罕で李儼を捕らえる":"｜前秦《ぜんしん》は｜隴西《ろうせい》｜太守《たいしゅ》姜衡を置いて斂岐を討ち、王猛が｜枹罕《ふかん》で李儼を捕らえる","乾帰が前秦の苻崇・仇池の楊定を破って殺し、隴西の地をすべて得る":"乾帰が｜前秦《ぜんしん》の｜苻崇《ふすう》・仇池の｜楊《よう》定を破って殺し、｜隴西《ろうせい》の地をすべて得る","太元十九年十月":"｜太元《たいげん》十九年十月","後秦の姚碩徳が南安峡から入り、隴西で防いだ乾帰を姚興が大破。乾帰は八月に後秦に降る":"｜後秦《こうしん》の姚碩徳が｜南安《なんあん》峡から入り、｜隴西《ろうせい》で防いだ乾帰を｜姚興《ようこう》が大破。乾帰は八月に｜後秦《こうしん》に降る","後秦の太尉・領隴西内史索稜が隴西ごと乞伏熾磐に降る（410年に乾帰が後秦の隴西諸郡を攻め克ったが、411年には索稜が後秦の隴西内史として置かれている）":"｜後秦《こうしん》の｜太尉《たいい》・領｜隴西《ろうせい》内史索稜が｜隴西《ろうせい》ごと乞伏熾磐に降る（410年に乾帰が｜後秦《こうしん》の｜隴西《ろうせい》諸郡を攻め克ったが、411年には索稜が｜後秦《こうしん》の｜隴西《ろうせい》内史として置かれている）","義熙九年":"｜義熙《ぎき》九年","北魏の太武帝が平涼を囲んだとき、夏の隴西の守将が北魏に降る":"｜北魏《ほくぎ》の｜太武帝《たいぶてい》が平涼を囲んだとき、夏の｜隴西《ろうせい》の守将が｜北魏《ほくぎ》に降る","建康":"｜建康《けんこう》","南京市":"｜南京《なんきん》市","西晋の内地（この時代の名は建業・建鄴）":"｜西晋《せいしん》の内地（この時代の名は｜建業《けんぎょう》・｜建鄴《けんぎょう》）","張昌の別帥石冰が揚州を破り、刺史陳徽が逃げて諸郡が没する。石冰は304年三月に建康（建業）から北へ逃げるまで居座った（年をまたぐ）":"張昌の別帥石冰が｜揚州《ようしゅう》を破り、｜刺史《しし》陳徽が逃げて諸郡が没する。石冰は304年三月に｜建康《けんこう》（｜建業《けんぎょう》）から北へ逃げるまで居座った（年をまたぐ）","太安二年（七月ごろ）":"｜太安《たいあん》二年（七月ごろ）","陳敏・周玘が建康の石冰を攻め、石冰が北へ走って斬られ揚州が平定される":"陳敏・周玘が｜建康《けんこう》の石冰を攻め、石冰が北へ走って斬られ｜揚州《ようしゅう》が平定される","永興元年三月":"｜永興《えいこう》元年三月","陳敏が歴陽で叛き、揚州刺史劉機・丹陽太守を逐って江東を占める（楚公を自称）":"陳敏が｜歴陽《れきよう》で叛き、｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》劉機・｜丹陽《たんよう》｜太守《たいしゅ》を逐って｜江東《こうとう》を占める（楚公を自称）","永興二年十二月":"｜永興《えいこう》二年十二月","顧栄・甘卓らが寝返って陳敏を討ち、周馥が陳敏の首を京師へ送る。同年九月に琅邪王司馬睿が建業に至る":"顧栄・甘卓らが寝返って陳敏を討ち、周馥が陳敏の首を京師へ送る。同年九月に｜琅邪王《ろうやおう》｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜建業《けんぎょう》に至る","永嘉元年三月己未朔":"｜永嘉《えいか》元年三月｜己未《きび》朔","317年に司馬睿が晋王を称する（西晋→東晋）。この地域は丸ごと引き継がれる":"317年に｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する（｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》）。この地域は丸ごと引き継がれる","蘇峻":"蘇｜峻《しゅん》","蘇峻が青渓柵を破って台城に入り、庾亮は尋陽へ逃げる。九月に蘇峻が戦死した後も、弟の蘇逸が石頭に拠って年を越す（329年二月に平定）":"蘇｜峻《しゅん》が｜青渓《せいけい》柵を破って｜台城《たいじょう》に入り、｜庾《ゆ》｜亮《りょう》は｜尋陽《じんよう》へ逃げる。九月に蘇｜峻《しゅん》が戦死した後も、弟の蘇逸が石頭に拠って年を越す（329年二月に平定）","咸和三年二月丙辰":"｜咸和《かんわ》三年二月丙辰","諸軍が石頭を攻め、蘇逸を捕らえて斬る。成帝は温嶠の船に迎えられる":"諸軍が石頭を攻め、蘇逸を捕らえて斬る。｜成帝《せいてい》は温｜嶠《きょう》の船に迎えられる","咸和四年二月丙戌":"｜咸和《かんわ》四年二月丙戌","403年十二月壬辰、桓玄が皇帝位に即く（国号は楚）。晋の内地が丸ごと桓楚になる":"403年十二月壬辰、｜桓玄《かんげん》が｜皇帝位《こうていい》に即く（国号は楚）。晋の内地が丸ごと桓楚になる","劉裕が江乗・羅落で桓玄の軍を破り、桓玄は西へ逃げる。劉裕が建康に入り石頭に留台を置く":"｜劉裕《りゅうゆう》が江乗・羅落で｜桓玄《かんげん》の軍を破り、｜桓玄《かんげん》は西へ逃げる。｜劉裕《りゅうゆう》が｜建康《けんこう》に入り石頭に｜留台《りゅうだい》を置く","元興三年三月":"｜元興《げんこう》三年三月","420年六月、劉裕が即位（東晋→宋）":"420年六月、｜劉裕《りゅうゆう》が即位（｜東晋《とうしん》→宋）","京口":"｜京口《けいこう》","西晋の内地":"｜西晋《せいしん》の内地","陳敏が江東を占める（京口は江東の要地。個別の記事は無く、江東全体の占拠記事による）":"陳敏が｜江東《こうとう》を占める（｜京口《けいこう》は｜江東《こうとう》の要地。個別の記事は無く、｜江東《こうとう》全体の占拠記事による）","永嘉元年三月":"｜永嘉《えいか》元年三月","劉裕・何無忌が京口城に入り、桓玄の徐州刺史桓修を斬る":"｜劉裕《りゅうゆう》・何｜無忌《むき》が｜京口《けいこう》城に入り、｜桓玄《かんげん》の｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》桓修を斬る","元興三年二月丙辰":"｜元興《げんこう》三年二月丙辰","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","404年三月に劉裕が建康を取り返して晋の朝廷を立て直し、桓楚の東・南の郡県は晋に戻った（王朝の交替と同じ扱い。この城の個別の帰順の記事は無く、桓楚の残党が残った記事も無い）":"404年三月に｜劉裕《りゅうゆう》が｜建康《けんこう》を取り返して晋の朝廷を立て直し、桓楚の東・南の｜郡県《ぐんけん》は晋に戻った（王朝の交替と同じ扱い。この城の個別の帰順の記事は無く、桓楚の残党が残った記事も無い）","山陰（会稽）":"山陰（｜会稽《かいけい》）","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","陳敏が呉越の地を占める（会稽は「越」。個別の記事は無い）":"陳敏が呉越の地を占める（｜会稽《かいけい》は「越」。個別の記事は無い）","陳敏が江東を占め、丹陽太守らが官を棄てて逃げる（宣城は丹陽から分かれた江東の郡。個別の記事は無い）":"陳敏が｜江東《こうとう》を占め、｜丹陽《たんよう》｜太守《たいしゅ》らが官を棄てて逃げる（宣城は｜丹陽《たんよう》から分かれた｜江東《こうとう》の郡。個別の記事は無い）","建安":"｜建安《けんあん》","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","尋陽":"｜尋陽《じんよう》","九江市":"｜九江《きゅうこう》市","西晋の内地（尋陽郡が置かれる前は武昌郡柴桑県）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜尋陽《じんよう》郡が置かれる前は｜武昌《ぶしょう》郡柴桑県）","何無忌・劉道規が桑落洲で桓玄の将何澹之を破り、湓口を取って尋陽に拠る":"何｜無忌《むき》・劉道規が桑落洲で｜桓玄《かんげん》の将何澹之を破り、湓口を取って｜尋陽《じんよう》に拠る","元興三年四月":"｜元興《げんこう》三年四月","豫章":"｜豫章《よしょう》","南昌市":"｜南昌《なんしょう》市","晋の復辟。桓玄の兄の子桓亮が江州刺史を自称して豫章を寇したが、尋陽の劉敬宣が撃退した":"晋の｜復辟《ふくへき》。｜桓玄《かんげん》の兄の｜子桓《しかん》亮が｜江州《こうしゅう》｜刺史《しし》を自称して｜豫章《よしょう》を寇したが、｜尋陽《じんよう》の劉敬宣が撃退した","元興三年":"｜元興《げんこう》三年","南康":"｜南康《なんこう》","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","盧循":"｜盧《ろ》循","徐道覆が南康・廬陵・豫章を寇し、守相が皆郡を捨てて逃げる。孫処が番禺を取った後、沈田子らに始興・南康・臨賀・始安など嶺表の諸郡を討ち平げさせた（盧循方が南康を保っていた）":"徐道覆が｜南康《なんこう》・｜廬陵《ろりょう》・｜豫章《よしょう》を寇し、守相が皆郡を捨てて逃げる。孫処が｜番禺《ばんぐう》を取った後、沈｜田子《でんし》らに｜始興《しこう》・｜南康《なんこう》・臨賀・始安など嶺表の諸郡を討ち平げさせた（｜盧《ろ》循方が｜南康《なんこう》を保っていた）","義熙六年（二月ごろ）":"｜義熙《ぎき》六年（二月ごろ）","盧循の残党の平定（二月に徐道覆が始興で斬られ、四月に盧循が交州で死ぬ）":"｜盧《ろ》循の残党の平定（二月に徐道覆が｜始興《しこう》で斬られ、四月に｜盧《ろ》循が｜交州《こうしゅう》で死ぬ）","武昌":"｜武昌《ぶしょう》","鄂州市":"｜鄂州《がくしゅう》市","劉道規が武昌を攻め、桓氏の置いた武昌太守王旻を破る":"劉道規が｜武昌《ぶしょう》を攻め、桓氏の置いた｜武昌《ぶしょう》｜太守《たいしゅ》王旻を破る","夏口（郢州）":"夏口（｜郢州《えいしゅう》）","劉毅・何無忌・劉道規が夏口に至り、桓振の将馮該・孟山図・桓仙客の守る魯山城・偃月塁を一日で落とす":"｜劉《りゅう》｜毅《き》・何｜無忌《むき》・劉道規が夏口に至り、｜桓《かん》振の将｜馮《ふう》該・孟山図・桓仙客の守る魯山城・偃月塁を一日で落とす","元興三年（十月ごろ）":"｜元興《げんこう》三年（十月ごろ）","巴陵":"｜巴陵《はりょう》","劉毅らが巴陵を攻め取る（それまで桓玄の故将王稚徽・桓振方が巴陵を戍っていた）":"｜劉《りゅう》｜毅《き》らが｜巴陵《はりょう》を攻め取る（それまで｜桓玄《かんげん》の故将王稚徽・｜桓《かん》振方が｜巴陵《はりょう》を戍っていた）","元興三年十二月":"｜元興《げんこう》三年十二月","正月に劉毅らが江陵を落とし桓振が逃げる。五月までに桓玄の余党を討ち、荊・湘・江・豫が皆平らぐ（武陵の個別記事は無い）":"正月に｜劉《りゅう》｜毅《き》らが｜江陵《こうりょう》を落とし｜桓《かん》振が逃げる。五月までに｜桓玄《かんげん》の余党を討ち、荊・湘・江・豫が皆平らぐ（武陵の個別記事は無い）","長沙":"｜長沙《ちょうさ》","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","杜弢":"｜杜弢《ととう》","湘州の巴蜀流民が杜弢を主に推して叛き、長沙を攻める。湘州刺史荀眺が城を捨てて広州へ逃げる":"｜湘州《しょうしゅう》の巴蜀流民が｜杜弢《ととう》を主に推して叛き、｜長沙《ちょうさ》を攻める。｜湘州《しょうしゅう》｜刺史《しし》荀眺が城を捨てて｜広州《こうしゅう》へ逃げる","永嘉五年五月":"｜永嘉《えいか》五年五月","陶侃が杜弢を破り、杜弢は逃げて道中で死ぬ。陶侃と応詹が長沙を落とし湘州が平らぐ":"陶侃が｜杜弢《ととう》を破り、｜杜弢《ととう》は逃げて道中で死ぬ。陶侃と応詹が｜長沙《ちょうさ》を落とし｜湘州《しょうしゅう》が平らぐ","建興三年八月":"｜建興《けんこう》三年八月","江陵の回復（正月）に続き、桓亮・苻宏らが湘州を寇したが守将が撃退し、荊・湘・江・豫が平らぐ":"｜江陵《こうりょう》の回復（正月）に続き、桓亮・苻宏らが｜湘州《しょうしゅう》を寇したが守将が撃退し、荊・湘・江・豫が平らぐ","長沙を取った杜弢が南へ零陵・桂陽を破り、二千石の長吏を多く殺す":"｜長沙《ちょうさ》を取った｜杜弢《ととう》が南へ零陵・｜桂陽《けいよう》を破り、二千石の長吏を多く殺す","永嘉五年":"｜永嘉《えいか》五年","陶侃が杜弢を破り湘州が平らぐ":"陶侃が｜杜弢《ととう》を破り｜湘州《しょうしゅう》が平らぐ","劉毅が臨鄣で桓氏方の「偽零陵太守」劉叔祖を斬る（404年の歳末まで零陵は桓氏方の太守の下にあった）":"｜劉《りゅう》｜毅《き》が臨鄣で桓氏方の「偽零陵｜太守《たいしゅ》」劉叔祖を斬る（404年の歳末まで零陵は桓氏方の｜太守《たいしゅ》の下にあった）","桂陽":"｜桂陽《けいよう》","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","杜弢が南へ零陵・桂陽を破る":"｜杜弢《ととう》が南へ零陵・｜桂陽《けいよう》を破る","桓玄の余党が平らぐ。五月には桂陽太守章武王秀（桓振の妹婿）が謀反の疑いで誅された（このとき桂陽は晋の太守の下）":"｜桓玄《かんげん》の余党が平らぐ。五月には｜桂陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》｜章武《しょうぶ》王秀（｜桓《かん》振の妹婿）が謀反の疑いで誅された（このとき｜桂陽《けいよう》は晋の｜太守《たいしゅ》の下）","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","東晋が盧循を広州刺史に任じる。始安は広州の郡なので、名目上は晋の州・実際は盧循の支配下とみる（始安の個別の記事は無い）":"｜東晋《とうしん》が｜盧《ろ》循を｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》に任じる。始安は｜広州《こうしゅう》の郡なので、名目上は晋の州・実際は｜盧《ろ》循の支配下とみる（始安の個別の記事は無い）","広州刺史盧循が叛いて江州を寇す。孫処が番禺を取った後、沈田子らに始興・南康・臨賀・始安を討ち平げさせた（始安は盧循方だった）":"｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》｜盧《ろ》循が叛いて｜江州《こうしゅう》を寇す。孫処が｜番禺《ばんぐう》を取った後、沈｜田子《でんし》らに｜始興《しこう》・｜南康《なんこう》・臨賀・始安を討ち平げさせた（始安は｜盧《ろ》循方だった）","盧循の残党の平定（二月に徐道覆が斬られ、四月に盧循が交州で死ぬ）":"｜盧《ろ》循の残党の平定（二月に徐道覆が斬られ、四月に｜盧《ろ》循が｜交州《こうしゅう》で死ぬ）","始興":"｜始興《しこう》","盧循が番禺を陥れた後、徐道覆に始興を攻めさせ、始興相阮腆之を捕らえる":"｜盧《ろ》循が｜番禺《ばんぐう》を陥れた後、徐道覆に｜始興《しこう》を攻めさせ、｜始興《しこう》相阮腆之を捕らえる","元興三年十月":"｜元興《げんこう》三年十月","東晋が盧循を広州刺史、徐道覆を始興相に任じる（名目上は晋の郡、実際は盧循方）":"｜東晋《とうしん》が｜盧《ろ》循を｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》、徐道覆を｜始興《しこう》相に任じる（名目上は晋の郡、実際は｜盧《ろ》循方）","始興太守徐道覆が叛いて北上する。十二月に左里で敗れた後、徐道覆は始興に逃げこんで守る（年をまたぐ）":"｜始興《しこう》｜太守《たいしゅ》徐道覆が叛いて北上する。十二月に｜左里《さり》で敗れた後、徐道覆は｜始興《しこう》に逃げこんで守る（年をまたぐ）","義熙六年三月／十二月":"｜義熙《ぎき》六年三月／十二月","孟懐玉が始興を落とし徐道覆を斬る":"孟懐玉が｜始興《しこう》を落とし徐道覆を斬る","義熙七年二月壬午":"｜義熙《ぎき》七年二月壬午","番禺（広州）":"｜番禺《ばんぐう》（｜広州《こうしゅう》）","番禺":"｜番禺《ばんぐう》","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","王機が広州を求めて王敦に拒まれたが、広州の将温邵らが刺史郭訥に叛いて王機を迎え、王機が広州に入る（晋書は「篡州」「盗拠」と書く）":"王機が｜広州《こうしゅう》を求めて王｜敦《とん》に拒まれたが、｜広州《こうしゅう》の将温邵らが｜刺史《しし》郭訥に叛いて王機を迎え、王機が｜広州《こうしゅう》に入る（｜晋書《しんじょ》は「篡州」「盗拠」と書く）","王敦が陶侃を広州刺史に左遷し、陶侃が広州に至って杜弘を破り王機を逐う。広州が平らぐ":"王｜敦《とん》が陶侃を｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》に｜左遷《させん》し、陶侃が｜広州《こうしゅう》に至って杜弘を破り王機を逐う。｜広州《こうしゅう》が平らぐ","盧循が番禺を百余日囲んだ末に夜襲で陥れ、広州刺史呉隠之を捕らえて広州の事を摂る":"｜盧《ろ》循が｜番禺《ばんぐう》を百余日囲んだ末に夜襲で陥れ、｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》呉隠之を捕らえて｜広州《こうしゅう》の事を摂る","元興三年十月壬戌":"｜元興《げんこう》三年十月壬戌","朝廷は討つ暇が無く、盧循を広州刺史に任じる（名目上は晋の州、実際は盧循の支配）":"朝廷は討つ暇が無く、｜盧《ろ》循を｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》に任じる（名目上は晋の州、実際は｜盧《ろ》循の支配）","正月に盧循が叛いて北上。劉裕が海路で遣わした孫処が大霧に乗じて番禺を一日で落とす":"正月に｜盧《ろ》循が叛いて北上。｜劉裕《りゅうゆう》が海路で遣わした孫処が大霧に乗じて｜番禺《ばんぐう》を一日で落とす","義熙六年（十二月より前）":"｜義熙《ぎき》六年（十二月より前）","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","西晋の内地（当時は南海郡〜東官郡の地。義安郡は413年に置かれる）":"｜西晋《せいしん》の内地（当時は南海郡〜東官郡の地。義安郡は413年に置かれる）","龍編（交州）":"龍編（｜交州《こうしゅう》）","西晋の交州（刺史吾彦の後を顧秘が継ぐ）":"｜西晋《せいしん》の｜交州《こうしゅう》（｜刺史《しし》吾彦の後を顧秘が継ぐ）","317年に司馬睿が晋王を称する（西晋→東晋）。交州は梁碩・脩湛の下で名目上の服属が続く":"317年に｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する（｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》）。｜交州《こうしゅう》は｜梁《りょう》｜碩《せき》・脩湛の下で名目上の服属が続く","襄陽":"｜襄陽《じょうよう》","襄陽市":"｜襄陽《じょうよう》市","西晋の内地（荊州・梁州）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜荊州《けいしゅう》・｜梁州《りょうしゅう》）","征南将軍山簡が厳嶷に迫られて襄陽を捨て夏口へ移る。石勒が南下して襄陽を寇し、刁膺を留めて襄陽を守らせる":"征南将軍山簡が厳嶷に迫られて｜襄陽《じょうよう》を捨て夏口へ移る。｜石勒《せきろく》が南下して｜襄陽《じょうよう》を寇し、刁膺を留めて｜襄陽《じょうよう》を守らせる","石勒は江・漢に拠る策を張賓に退けられ、江夏を抜いたのち北へ去る（二月には新蔡・許昌）。襄陽に晋の鎮も石勒の守将も確かめられない":"｜石勒《せきろく》は江・漢に拠る策を張賓に退けられ、江夏を抜いたのち北へ去る（二月には｜新蔡《しんさい》・｜許昌《きょしょう》）。｜襄陽《じょうよう》に晋の鎮も｜石勒《せきろく》の守将も確かめられない","永嘉五年正月〜二月":"｜永嘉《えいか》五年正月〜二月","愍帝が任じた荊州刺史第五猗が武関から出て、杜曾に襄陽で迎えられ、漢・沔を分け拠る":"｜愍帝《びんてい》が任じた｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》第五猗が｜武関《ぶかん》から出て、杜曾に｜襄陽《じょうよう》で迎えられ、漢・沔を分け拠る","周訪が杜曾を大破して漢・沔を定め、梁州刺史に移って襄陽に屯する":"周訪が杜曾を大破して漢・沔を定め、｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》に移って｜襄陽《じょうよう》に屯する","317年八月に第五猗が杜曾とともに背いたが、同じ年のうちに周訪が杜曾を破り、襄陽に屯した（歳末は東晋）。以前は319年から東晋としていた（-10-04 総点検）":"317年八月に第五猗が杜曾とともに背いたが、同じ年のうちに周訪が杜曾を破り、｜襄陽《じょうよう》に屯した（歳末は｜東晋《とうしん》）。以前は319年から｜東晋《とうしん》としていた（-10-04 総点検）","後趙の郭敬が襄陽に入るが、城を毀して民を沔北へ移し、樊城に城いて戍す":"｜後趙《こうちょう》の郭敬が｜襄陽《じょうよう》に入るが、城を毀して民を｜沔北《べんぼく》へ移し、｜樊城《はんじょう》に城いて戍す","郭敬は襄陽を壊して樊城に退いたので、330年の暮れに後趙が押さえていたのは襄陽ではなく対岸の樊城。晋がいつ取り返したか（330年か331年か）は書かれていないので、332年の行（桓宣が襄陽に鎮する）まで誰の城とも言えないとした（-10-04 総点検）":"郭敬は｜襄陽《じょうよう》を壊して｜樊城《はんじょう》に退いたので、330年の暮れに｜後趙《こうちょう》が押さえていたのは｜襄陽《じょうよう》ではなく対岸の｜樊城《はんじょう》。晋がいつ取り返したか（330年か331年か）は書かれていないので、332年の行（桓宣が｜襄陽《じょうよう》に鎮する）まで誰の城とも言えないとした（-10-04 総点検）","晋がいったん取り返した襄陽を四月に郭敬が再び抜くが、秋に桓宣・李陽が樊城を襲って郭敬を走らせ、襄陽を抜く。桓宣が襄陽に鎮する":"晋がいったん取り返した｜襄陽《じょうよう》を四月に郭敬が再び抜くが、秋に桓宣・李陽が｜樊城《はんじょう》を襲って郭敬を走らせ、｜襄陽《じょうよう》を抜く。桓宣が｜襄陽《じょうよう》に鎮する","咸和七年四月・秋":"｜咸和《かんわ》七年四月・秋","前秦の苻丕が襄陽を攻め落とし、朱序を捕える（378年から包囲）。梁成を荊州刺史として襄陽に鎮させる":"｜前秦《ぜんしん》の｜苻丕《ふひ》が｜襄陽《じょうよう》を攻め落とし、朱｜序《じょ》を捕える（378年から包囲）。梁成を｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》として｜襄陽《じょうよう》に鎮させる","太元四年二月戊午":"｜太元《たいげん》四年二月戊午","竟陵太守趙統が襄陽を攻め、前秦の荊州刺史都貴が魯陽へ逃げる":"竟陵｜太守《たいしゅ》趙統が｜襄陽《じょうよう》を攻め、｜前秦《ぜんしん》の｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》都貴が｜魯陽《ろよう》へ逃げる","桓玄が楚を建てる（403年十二月）。荊州・梁州は桓玄の地盤":"｜桓玄《かんげん》が楚を建てる（403年十二月）。｜荊州《けいしゅう》・｜梁州《りょうしゅう》は｜桓玄《かんげん》の地盤","桓玄の死後、江陵を回復した桓振が桓蔚を雍州刺史として襄陽に鎮させる（歳末も桓氏）":"｜桓玄《かんげん》の死後、｜江陵《こうりょう》を回復した｜桓《かん》振が桓蔚を｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》として｜襄陽《じょうよう》に鎮させる（歳末も桓氏）","404年の暮れに桓氏が押さえていた城（江陵・襄陽と湘州・荊州北部）はみな桓玄の死後の桓振の側なので、江陵・襄陽だけに勢力名「桓振」を付けると同じ桓楚の中に境の線と2つ目の国名が出る。勢力名を付けずに桓楚1つにまとめた（-10-04 総点検）":"404年の暮れに桓氏が押さえていた城（｜江陵《こうりょう》・｜襄陽《じょうよう》と｜湘州《しょうしゅう》・｜荊州《けいしゅう》北部）はみな｜桓玄《かんげん》の死後の｜桓《かん》振の側なので、｜江陵《こうりょう》・｜襄陽《じょうよう》だけに勢力名「｜桓《かん》振」を付けると同じ桓楚の中に境の線と2つ目の国名が出る。勢力名を付けずに桓楚1つにまとめた（-10-04 総点検）","南陽太守魯宗之が兵を起こして襄陽を襲い、桓蔚が江陵へ逃げる。魯宗之が雍州刺史となる":"｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》魯宗之が兵を起こして｜襄陽《じょうよう》を襲い、桓蔚が｜江陵《こうりょう》へ逃げる。魯宗之が｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》となる","義熙元年正月":"｜義熙《ぎき》元年正月","江陵":"｜江陵《こうりょう》","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","西晋→東晋（司馬睿が晋王を称する）":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》（｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する）","桓玄は五月に死ぬが、桓振が江陵を陥して安帝を押さえる。歳末も桓氏の手にある（桓謙らが璽綬を安帝に返して名目上は晋に戻した点に注意）":"｜桓玄《かんげん》は五月に死ぬが、｜桓《かん》振が｜江陵《こうりょう》を陥して｜安帝《あんてい》を押さえる。歳末も桓氏の手にある（｜桓《かん》謙らが｜璽綬《じじゅ》を｜安帝《あんてい》に返して名目上は晋に戻した点に注意）","劉毅らが江陵に入り、三月に桓振を斬って江陵を取り返す。荊州の桓氏の残党が潰える":"｜劉《りゅう》｜毅《き》らが｜江陵《こうりょう》に入り、三月に｜桓《かん》振を斬って｜江陵《こうりょう》を取り返す。｜荊州《けいしゅう》の桓氏の残党が潰える","義熙元年正月〜三月":"｜義熙《ぎき》元年正月〜三月","桓振が益州刺史とした桓放之が西陵に屯するが、毛璩方の文処茂に破られて江陵へ逃げ帰る":"｜桓《かん》振が｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》とした桓放之が西陵に屯するが、毛｜璩《きょ》方の文処茂に破られて｜江陵《こうりょう》へ逃げ帰る","巴東（白帝）":"巴東（｜白帝《はくてい》）","成の李寿が費黒らを率いて巴東・建平を攻め抜く。巴東太守楊謙・監軍毌丘奥が宜都へ退く":"成の｜李寿《りじゅ》が費黒らを率いて巴東・｜建平《けんぺい》を攻め抜く。巴東｜太守《たいしゅ》楊謙・｜監軍《かんぐん》毌丘奥が宜都へ退く","咸和五年十月":"｜咸和《かんわ》五年十月","陶侃の遺表に「毌丘奥を巴東に遣わした」とあり、334年までに晋が巴東に戻っている":"陶侃の｜遺表《いひょう》に「毌丘奥を巴東に遣わした」とあり、334年までに晋が巴東に戻っている","咸和九年（陶侃の遺表）":"咸和九年（陶侃の｜遺表《いひょう》）","益州刺史毛璩が桓玄の命を拒み、巴東太守柳約之らが桓希を破って白帝に進み屯する":"｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》毛｜璩《きょ》が｜桓玄《かんげん》の命を拒み、巴東｜太守《たいしゅ》柳約之らが桓希を破って｜白帝《はくてい》に進み屯する","譙縦が毛璩を殺して成都王を称し、弟の譙明子を巴州刺史として白帝に屯させる":"譙縦が毛｜璩《きょ》を殺して｜成都王《せいとおう》を称し、弟の譙明子を巴州｜刺史《しし》として｜白帝《はくてい》に屯させる","益州刺史司馬栄期が白帝で譙明子を破る":"｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》｜司馬《しば》｜栄期《えいき》が｜白帝《はくてい》で譙明子を破る","義熙二年正月":"｜義熙《ぎき》二年正月","義熙六年十一月":"｜義熙《ぎき》六年十一月","到彦之が白帝で譙道福を攻めて抜く（宋書武帝紀。通鑑にはこの条が見つからない）":"到｜彦之《げんし》が｜白帝《はくてい》で譙道福を攻めて抜く（｜宋書《そうじょ》｜武帝《ぶてい》｜紀《き》。通鑑にはこの条が見つからない）","義熙七年四月":"｜義熙《ぎき》七年四月","前秦の梁州刺史韋鍾が魏興を抜き、太守吉挹は捕えられて食を絶って死ぬ（378年八月から西城を包囲）":"｜前秦《ぜんしん》の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》韋鍾が魏興を抜き、｜太守《たいしゅ》吉挹は捕えられて食を絶って死ぬ（378年八月から｜西城《せいじょう》を包囲）","太元四年四月戊申":"｜太元《たいげん》四年四月戊申","桓沖が上庸太守郭宝に前秦の魏興・上庸・新城三郡を攻めさせて抜く":"｜桓《かん》沖が上庸｜太守《たいしゅ》郭宝に｜前秦《ぜんしん》の魏興・上庸・｜新城《しんじょう》三郡を攻めさせて抜く","毛璩が漢中を攻めて桓玄の梁州刺史桓希を斬り、自ら梁州を領する。以後の晋の梁州刺史は魏興に治した":"毛｜璩《きょ》が｜漢中《かんちゅう》を攻めて｜桓玄《かんげん》の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》桓希を斬り、自ら｜梁州《りょうしゅう》を領する。以後の晋の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》は魏興に治した","元興三年六月":"｜元興《げんこう》三年六月","前秦が魏興を抜いた年。384年に晋が前秦の上庸太守段方を降しているので、この前後に上庸も前秦に入った（年は原文に無い）":"｜前秦《ぜんしん》が魏興を抜いた年。384年に晋が｜前秦《ぜんしん》の上庸｜太守《たいしゅ》段方を降しているので、この前後に上庸も｜前秦《ぜんしん》に入った（年は原文に無い）","太元四年（推定）":"｜太元《たいげん》四年（推定）","毛璩が桓希を斬って梁州を領する。以後の晋の梁州は魏興に治し魏興・上庸・新城の三郡を保った":"毛｜璩《きょ》が桓希を斬って｜梁州《りょうしゅう》を領する。以後の晋の｜梁州《りょうしゅう》は魏興に治し魏興・上庸・｜新城《しんじょう》の三郡を保った","もと新野王歆の牙門将胡亢が竟陵に衆を集めて楚公を自称し、杜曾を竟陵太守とする":"もと新｜野王《やおう》歆の｜牙門《がもん》将胡亢が竟陵に衆を集めて楚公を自称し、杜曾を竟陵｜太守《たいしゅ》とする","杜曾が胡亢を殺してその衆を併せ、南中郎将・竟陵太守を自称する。十月に陶侃を破る":"杜曾が胡亢を殺してその衆を併せ、南中郎将・竟陵｜太守《たいしゅ》を自称する。十月に陶侃を破る","建興元年":"｜建興《けんこう》元年","晋（王廙方）の竟陵内史朱伺が見える。東晋の城":"晋（王廙方）の竟陵内史朱伺が見える。｜東晋《とうしん》の城","劉懐粛が桓玄の将馮該を石城で追い斬る。荊州の桓氏の残党が潰える":"劉懐粛が｜桓玄《かんげん》の将｜馮《ふう》該を石城で追い斬る。｜荊州《けいしゅう》の桓氏の残党が潰える","安陸":"｜安陸《あんりく》","安陸市":"｜安陸《あんりく》市","桓振は江陵を失って溳川・鄖城（胡注では江夏郡雲杜県の東南）に逃れ、三月に江陵を襲って斬られる。安陸一帯の桓氏の残党が潰える":"｜桓《かん》振は｜江陵《こうりょう》を失って溳川・鄖城（胡注では江夏郡雲杜県の東南）に逃れ、三月に｜江陵《こうりょう》を襲って斬られる。｜安陸《あんりく》一帯の桓氏の残党が潰える","桓振が溳川（随・安陸を流れる溳水）へ逃げ、三月に斬られる。荊州の桓氏の残党が潰える":"｜桓《かん》振が溳川（随・｜安陸《あんりく》を流れる溳水）へ逃げ、三月に斬られる。｜荊州《けいしゅう》の桓氏の残党が潰える","荊州の桓氏の残党が潰える（404年に桓振が義陽で衆を集めようとして弋陽で破られている）":"｜荊州《けいしゅう》の桓氏の残党が潰える（404年に｜桓《かん》振が義陽で衆を集めようとして弋陽で破られている）","広固（青州）":"｜広固《こうこ》（｜青州《せいしゅう》）","広固":"｜広固《こうこ》","青州市":"｜青州《せいしゅう》市","西晋の内地（青州。治所は臨淄）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜青州《せいしゅう》。治所は臨淄）","青州刺史苟晞の弟苟純が守る青州を曹嶷（王弥の部将・漢の安東将軍）が攻め、苟晞が敗れて城を棄てる":"｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》｜苟《こう》｜晞《き》の弟苟純が守る｜青州《せいしゅう》を曹嶷（王弥の部将・漢の安東将軍）が攻め、｜苟《こう》｜晞《き》が敗れて城を棄てる","永嘉五年正月":"｜永嘉《えいか》五年正月","315年の条に「汉青州刺史曹嶷尽得齐、鲁间郡县，自镇临菑」（通鑑）。広固城は曹嶷が築いた（胡注）。築城の年は確かめられない":"315年の条に「汉｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》曹嶷尽得齐、鲁间郡县，自镇临菑」（通鑑）。｜広固《こうこ》城は曹嶷が築いた（胡注）。築城の年は確かめられない","曹嶷が漢に背いて晋に付き、晋王司馬睿へ勧進する":"曹嶷が漢に背いて晋に付き、｜晋王《しんおう》｜司馬《しば》｜睿《えい》へ勧進する","318年の条に「初，曹嶷既据青州，乃叛汉来降。又以建康悬远，势援不接，复与石勒相结，勒授嶷东州大将军、青州牧」（通鑑）。晋と石勒の両方に名目上属し実質は自立なので どの国の城でもない勢力とした（晋の名目上の青州刺史）":"318年の条に「初，曹嶷既据｜青州《せいしゅう》，乃叛汉来降。又以｜建康《けんこう》悬远，势援不接，复与｜石勒《せきろく》相结，勒授嶷东州大将军、｜青州《せいしゅう》牧」（通鑑）。晋と｜石勒《せきろく》の両方に名目上属し実質は自立なので どの国の城でもない勢力とした（晋の名目上の｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》）","石虎が曹嶷を攻め、広固を囲んで降す。青州刺史劉徴に広固を鎮させる":"｜石虎《せきこ》が曹嶷を攻め、｜広固《こうこ》を囲んで降す。｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》劉徴に｜広固《こうこ》を鎮させる","太寧元年":"｜太寧《たいねい》元年","段龕（段部）":"｜段龕《だんかん》（段部）","段龕が後趙の乱に乗じて南下し、広固に拠って斉王を称する":"｜段龕《だんかん》が｜後趙《こうちょう》の乱に乗じて南下し、｜広固《こうこ》に拠って斉王を称する","永和六年七月":"｜永和《えいわ》六年七月","段龕":"｜段龕《だんかん》","段龕が青州ごと晋に内附し、鎮北将軍・斉公に封じられる":"｜段龕《だんかん》が｜青州《せいしゅう》ごと晋に内附し、鎮北将軍・｜斉公《せいこう》に封じられる","永和七年正月〜二月":"｜永和《えいわ》七年正月〜二月","慕容恪が広固を囲み、段龕が面縛して降る。慕容塵に広固を鎮させる":"｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が｜広固《こうこ》を囲み、｜段龕《だんかん》が｜面縛《めんばく》して降る。｜慕容《ぼよう》塵に｜広固《こうこ》を鎮させる","永和十二年十一月":"｜永和《えいわ》十二年十一月","前燕が前秦に滅ぼされ、燕の州郡がすべて秦に降る":"｜前燕《ぜんえん》が｜前秦《ぜんしん》に滅ぼされ、燕の州郡がすべて秦に降る","前燕の領域ごとの移転（個別の攻略記事は無い）":"｜前燕《ぜんえん》の領域ごとの移転（個別の攻略記事は無い）","謝玄が高素を遣わし、前秦の青州刺史苻朗が降る":"謝玄が高素を遣わし、｜前秦《ぜんしん》の｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》苻朗が降る","385〜399年は晋に属した辟閭渾（388年の条「因苻氏乱，据齐地来降」）が広固を保つ":"385〜399年は晋に属した辟閭渾（388年の条「因｜苻氏《ふし》乱，据齐地来降」）が｜広固《こうこ》を保つ","慕容徳が青州に入り、辟閭渾は魏へ逃げる途中で斬られる。広固を都とする":"｜慕容徳《ぼようとく》が｜青州《せいしゅう》に入り、辟閭渾は魏へ逃げる途中で斬られる。｜広固《こうこ》を都とする","この年の通鑑の年見出しは「公元三三九年」と誤植されている（隆安三年・己亥＝399）":"この年の通鑑の年見出しは「公元三三九年」と誤植されている（｜隆安《りゅうあん》三年・己亥＝399）","劉裕が広固を総攻撃し、悦寿が門を開いて晋軍を入れる。慕容超を捕らえ南燕が滅ぶ":"｜劉裕《りゅうゆう》が｜広固《こうこ》を総攻撃し、｜悦寿《えつじゅ》が門を開いて｜晋軍《しんぐん》を入れる。｜慕容超《ぼようちょう》を捕らえ｜南燕《なんえん》が滅ぶ","義熙六年二月丁亥":"｜義熙《ぎき》六年二月丁亥","409年六月から包囲（409年の歳末はまだ南燕が広固の小城を保つ）。以後の青州の治所は東陽城":"409年六月から包囲（409年の歳末はまだ｜南燕《なんえん》が｜広固《こうこ》の｜小城《しょうじょう》を保つ）。以後の｜青州《せいしゅう》の治所は東｜陽城《ようじょう》","劉裕が即位（東晋→宋）":"｜劉裕《りゅうゆう》が即位（｜東晋《とうしん》→宋）","西晋の内地（東莱国）":"｜西晋《せいしん》の内地（東莱国）","司馬睿が晋王を称する（西晋→東晋）":"｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する（｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》）","東莱太守鞠彭が曹嶷と攻め合った末、郡人千余家とともに海を渡って崔毖のもとへ去る":"東莱｜太守《たいしゅ》鞠彭が曹嶷と攻め合った末、郡人千余家とともに海を渡って崔毖のもとへ去る","太興二年の条（「初」として記す）":"｜太興《たいこう》二年の条（「初」として記す）","鞠彭は苟晞が任じた晋の東莱太守。曹嶷の扱いは東陽（広固）と同じく、どの国の城でもない勢力（晋・石勒に名目上属した自立勢力）":"鞠彭は｜苟《こう》｜晞《き》が任じた晋の東莱｜太守《たいしゅ》。曹嶷の扱いは東陽（｜広固《こうこ》）と同じく、どの国の城でもない勢力（晋・｜石勒《せきろく》に名目上属した自立勢力）","石虎が曹嶷を降し、青州の郡県の多くが後趙に降る":"｜石虎《せきこ》が曹嶷を降し、｜青州《せいしゅう》の｜郡県《ぐんけん》の多くが｜後趙《こうちょう》に降る","段龕が広固に拠って斉王を称する":"｜段龕《だんかん》が｜広固《こうこ》に拠って斉王を称する","東莱が段龕に属したと名指す記事は無い。段龕が「青州」として晋に内附している（351年）ことから青州の一部として扱った":"東莱が｜段龕《だんかん》に属したと名指す記事は無い。｜段龕《だんかん》が「｜青州《せいしゅう》」として晋に内附している（351年）ことから｜青州《せいしゅう》の一部として扱った","段龕が青州ごと晋に内附する":"｜段龕《だんかん》が｜青州《せいしゅう》ごと晋に内附する","慕容恪が段龕を降して斉の地を平定し、鞠殷を東莱太守とする":"｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が｜段龕《だんかん》を降して斉の地を平定し、鞠殷を東莱｜太守《たいしゅ》とする","前燕の領域ごとの移転（個別の攻略記事は無い）。380年に秦の石越が東莱から海を渡って和龍を襲っており（通鑑）、秦の東莱が確かめられる":"｜前燕《ぜんえん》の領域ごとの移転（個別の攻略記事は無い）。380年に秦の石越が東莱から海を渡って｜和龍《わりゅう》を襲っており（通鑑）、秦の東莱が確かめられる","前秦の青州刺史苻朗が晋に降る":"｜前秦《ぜんしん》の｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》苻朗が晋に降る","東莱を名指す記事は無く、青州全体の移転として扱った":"東莱を名指す記事は無く、｜青州《せいしゅう》全体の移転として扱った","慕容徳の北地王鍾が青州の諸郡へ檄を伝え、辟閭渾の守将が降る":"｜慕容徳《ぼようとく》の北地王鍾が｜青州《せいしゅう》の諸郡へ檄を伝え、辟閭渾の守将が降る","広固が落ちて南燕が滅ぶ":"｜広固《こうこ》が落ちて｜南燕《なんえん》が滅ぶ","義熙六年二月":"｜義熙《ぎき》六年二月","済南市":"｜済南《さいなん》市","西晋の内地（済南郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜済南《さいなん》郡）","漢の青州刺史曹嶷が斉・魯の間の郡県をすべて得る":"漢の｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》曹嶷が斉・魯の間の｜郡県《ぐんけん》をすべて得る","済南を名指す記事は無い。311〜314年の間に曹嶷の手に入った可能性が高いが年は確かめられないので、名指しで「尽得」とある315年に置いた":"｜済南《さいなん》を名指す記事は無い。311〜314年の間に曹嶷の手に入った可能性が高いが年は確かめられないので、名指しで「尽得」とある315年に置いた","曹嶷が晋に付く（名目上は晋の青州刺史、石勒とも結ぶ）":"曹嶷が晋に付く（名目上は晋の｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》、｜石勒《せきろく》とも結ぶ）","済南を名指す記事は無い（356年に慕容恪が「济南之战」と言っており、段龕が済南で戦っている）":"｜済南《さいなん》を名指す記事は無い（356年に｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が「济南之战」と言っており、｜段龕《だんかん》が｜済南《さいなん》で戦っている）","慕容恪が段龕を済水の南で破り、十一月に広固で降して斉の地を平定する":"｜慕容《ぼよう》｜恪《かく》が｜段龕《だんかん》を済水の南で破り、十一月に｜広固《こうこ》で降して斉の地を平定する","永和十二年":"｜永和《えいわ》十二年","歴城を名指す記事は無く、青州全体の移転として扱った":"歴城を名指す記事は無く、｜青州《せいしゅう》全体の移転として扱った","後燕が張願を甕口で破って歴城に進み、陳留王紹を青州刺史として歴城に鎮させる":"｜後燕《こうえん》が｜張願《ちょうがん》を甕口で破って歴城に進み、｜陳留王《ちんりゅうおう》紹を｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》として歴城に鎮させる","燕の青州刺史慕容紹が平原太守辟閭渾（晋に付いた）に迫られて黄巾固へ退く":"燕の｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》｜慕容《ぼよう》紹が平原｜太守《たいしゅ》辟閭渾（晋に付いた）に迫られて黄巾固へ退く","慕容徳が青州の諸郡へ檄を伝え、辟閭渾の守将が降る":"｜慕容徳《ぼようとく》が｜青州《せいしゅう》の諸郡へ檄を伝え、辟閭渾の守将が降る","西晋の内地（平原国）":"｜西晋《せいしん》の内地（平原国）","石勒が楽平を攻めた際、石勒の南和令趙領が平原などの民数千戸を率いて石勒に背き邵続へ奔る":"｜石勒《せきろく》が楽平を攻めた際、｜石勒《せきろく》の南和令趙領が平原などの民数千戸を率いて｜石勒《せきろく》に背き邵続へ奔る","建興四年":"｜建興《けんこう》四年","平原の民が石勒の支配下にあったことを示す記事で、平原城を誰が持ったかを直接言う記事ではない。年は載記に無く、通鑑の楽平攻め（316年）に合わせた":"平原の民が｜石勒《せきろく》の支配下にあったことを示す記事で、平原城を誰が持ったかを直接言う記事ではない。年は｜載記《さいき》に無く、通鑑の楽平攻め（316年）に合わせた","石勒が趙王を称し、平原を含む二十四郡を趙国とする":"｜石勒《せきろく》が｜趙王《ちょうおう》を称し、平原を含む二十四郡を趙国とする","後趙が351年に滅んだ後、「赵末」に平原の杜能らが兵を擁して城邑に拠った（353年の条）。杜能が平原城を持ったと名指す記事は無い（引用は353年の条にしか無いのでここには付けない）":"｜後趙《こうちょう》が351年に滅んだ後、「赵末」に平原の杜能らが兵を擁して｜城邑《じょうゆう》に拠った（353年の条）。杜能が平原城を持ったと名指す記事は無い（引用は353年の条にしか無いのでここには付けない）","杜能らが前燕に降り、杜能を平原太守とする":"杜能らが｜前燕《ぜんえん》に降り、杜能を平原｜太守《たいしゅ》とする","慕容垂が慕容農を遣わして清河・平原を徇え、租賦を督する":"｜慕容垂《ぼようすい》が慕容農を遣わして｜清河《せいが》・平原を徇え、租賦を督する","北魏が後燕の冀州を取る。平原の徐超が畔城で叛き、魏の将軍奚辱が捕斬する":"｜北魏《ほくぎ》が｜後燕《こうえん》の｜冀州《きしゅう》を取る。平原の徐超が｜畔城《はんじょう》で叛き、魏の将軍奚辱が捕斬する","皇始二年":"｜皇始《こうし》二年","北魏が平原を押さえたことを直接言う記事は見つからない。この記事（魏が平原の叛乱を討つ）と、403年の魏の平原太守和跋（通鑑）、422年の「自平原济河」（通鑑）から、397年以後は魏とした":"｜北魏《ほくぎ》が平原を押さえたことを直接言う記事は見つからない。この記事（魏が平原の｜叛乱《はんらん》を討つ）と、403年の魏の平原｜太守《たいしゅ》和跋（通鑑）、422年の「自平原济河」（通鑑）から、397年以後は魏とした","碻磝":"｜碻磝《こうごう》","茌平区":"｜茌平《しへい》区","西晋の内地（済北・平原の境の河津）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜済北《さいほく》・平原の境の河津）","後趙が泰山の徐龕を滅ぼし、徐州・兗州の間の塢壁の多くが後趙に降る":"｜後趙《こうちょう》が泰山の徐龕を滅ぼし、｜徐州《じょしゅう》・｜兗州《えんしゅう》の間の塢壁の多くが｜後趙《こうちょう》に降る","碻磝を名指す記事は無い。兗州の北部が後趙の手に入った年として置いた":"｜碻磝《こうごう》を名指す記事は無い。｜兗州《えんしゅう》の北部が｜後趙《こうちょう》の手に入った年として置いた","後趙の滅亡後、旧後趙（冉魏）の徐州・兗州の刺史が城ごと晋に降る":"｜後趙《こうちょう》の滅亡後、旧｜後趙《こうちょう》（冉魏）の｜徐州《じょしゅう》・｜兗州《えんしゅう》の｜刺史《しし》が城ごと晋に降る","碻磝・済北を名指す記事は無い（代理の記事）":"｜碻磝《こうごう》・｜済北《さいほく》を名指す記事は無い（代理の記事）","済北太守高柱らが郡ごと前燕に降る":"｜済北《さいほく》｜太守《たいしゅ》高柱らが郡ごと｜前燕《ぜんえん》に降る","謝玄が劉牢之らを遣わして碻磝に拠る":"謝玄が｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》らを遣わして｜碻磝《こうごう》に拠る","後燕が碻磝の西で河を渡り、晋の済北太守温詳の子温楷が守る碻磝を破る。温詳は彭城へ逃げ、衆は燕に降る":"｜後燕《こうえん》が｜碻磝《こうごう》の西で河を渡り、晋の｜済北《さいほく》｜太守《たいしゅ》温詳の子温楷が守る｜碻磝《こうごう》を破る。温詳は｜彭城《ほうじょう》へ逃げ、衆は燕に降る","太元十二年正月":"｜太元《たいげん》十二年正月","慕容徳が南へ兵を引き、兗州北辺の郡県がみな降る":"｜慕容徳《ぼようとく》が南へ兵を引き、｜兗州《えんしゅう》北辺の｜郡県《ぐんけん》がみな降る","碻磝を名指す記事は無い。済北は兗州の北辺":"｜碻磝《こうごう》を名指す記事は無い。｜済北《さいほく》は｜兗州《えんしゅう》の北辺","碻磝が晋に入った年を名指す記事は無い。417年に劉裕が北青州刺史向弥を碻磝に留めて戍らせている（通鑑「以左将军向弥为北青州刺史，留戍碻磝」）":"｜碻磝《こうごう》が晋に入った年を名指す記事は無い。417年に｜劉裕《りゅうゆう》が北｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》向弥を｜碻磝《こうごう》に留めて戍らせている（通鑑「以左将军向弥为北｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》，留戍｜碻磝《こうごう》」）","北魏の娥清・叔孫建らが河を渡って碻磝に軍し、宋の兗州刺史徐琰が尹卯を棄てて逃げる":"｜北魏《ほくぎ》の｜娥《が》清・叔孫建らが河を渡って｜碻磝《こうごう》に軍し、宋の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》徐琰が尹卯を棄てて逃げる","永初三年十二月以後":"｜永初《えいしょ》三年十二月以後","423年（泰常八年）に魏が碻磝に済州を置く（胡注）":"423年（｜泰常《たいじょう》八年）に魏が｜碻磝《こうごう》に済州を置く（胡注）","西晋の内地（泰山郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（泰山郡）","司馬睿が晋王を称する（西晋→東晋）。泰山太守徐龕は晋の太守（318年の条）":"｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する（｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》）。泰山｜太守《たいしゅ》徐龕は晋の｜太守《たいしゅ》（318年の条）","泰山太守徐龕が功を劉遐に先んじられたのを怒り、泰山ごと石勒に降って兗州刺史を自称する":"泰山｜太守《たいしゅ》徐龕が功を劉遐に先んじられたのを怒り、泰山ごと｜石勒《せきろく》に降って｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》を自称する","太興二年（晋書は夏四月の条）":"｜太興《たいこう》二年（｜晋書《しんじょ》は夏四月の条）","320年に徐龕は晋へ降ろうとして拒まれ（通鑑）、同年また石勒に降る。歳末は後趙側":"320年に徐龕は晋へ降ろうとして拒まれ（通鑑）、同年また｜石勒《せきろく》に降る。歳末は｜後趙《こうちょう》側","太興四年二月":"｜太興《たいこう》四年二月","石虎が泰山を抜き、徐龕を襄国へ送る":"｜石虎《せきこ》が泰山を抜き、徐龕を｜襄国《じょうこく》へ送る","永昌元年七月":"｜永昌《えいしょう》元年七月","泰山を名指す記事は無い（代理の記事）。356年に荀羨が参軍戴遂らに泰山を守らせ（通鑑）、358〜365年は諸葛攸が晋の泰山太守（358年に燕も泰山郡の山茌に太守を置いた）":"泰山を名指す記事は無い（代理の記事）。356年に荀羨が参軍戴遂らに泰山を守らせ（通鑑）、358〜365年は｜諸葛《しょかつ》｜攸《ゆう》が晋の泰山｜太守《たいしゅ》（358年に燕も泰山郡の山茌に｜太守《たいしゅ》を置いた）","前燕の慕容厲が晋の泰山太守諸葛攸を攻め、攸は淮南へ逃げる。兗州の諸郡を陥れて守宰を置く":"｜前燕《ぜんえん》の｜慕容《ぼよう》厲が晋の泰山｜太守《たいしゅ》｜諸葛《しょかつ》｜攸《ゆう》を攻め、攸は｜淮南《わいなん》へ逃げる。｜兗州《えんしゅう》の諸郡を陥れて守宰を置く","劉牢之が前秦の兗州刺史張崇を攻め、崇は鄄城を棄てて燕へ奔る。河南の城堡がみな晋に帰附する":"｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が｜前秦《ぜんしん》の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》張崇を攻め、崇は鄄城を棄てて燕へ奔る。｜河南《かなん》の城堡がみな晋に帰附する","泰山を名指す記事は無い。385年に晋の泰山太守任泰がいる（通鑑）":"泰山を名指す記事は無い。385年に晋の泰山｜太守《たいしゅ》任泰がいる（通鑑）","張願（翟遼に降る）":"｜張願《ちょうがん》（翟遼に降る）","晋の泰山太守張願が郡ごと叛いて翟遼（丁零）に降る":"晋の泰山｜太守《たいしゅ》｜張願《ちょうがん》が郡ごと叛いて翟遼（｜丁零《ていれい》）に降る","劉牢之が翟遼を滑台で破り、張願が晋に降る":"｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が翟遼を｜滑台《かつだい》で破り、｜張願《ちょうがん》が晋に降る","太元十五年八月":"｜太元《たいげん》十五年八月","張願の降伏で泰山が晋に戻ったと直接言う記事は無い。394年に晋の高平・太山・琅邪の諸郡が燕に城を棄てているので、394年以前に晋に戻っている":"｜張願《ちょうがん》の降伏で泰山が晋に戻ったと直接言う記事は無い。394年に晋の｜高平《こうへい》・太山・｜琅邪《ろうや》の諸郡が燕に城を棄てているので、394年以前に晋に戻っている","後燕の慕容農・尹国が青・兗を略し、晋の高平・太山・琅邪の諸郡がみな城を棄てて潰走する":"｜後燕《こうえん》の慕容農・尹国が青・兗を略し、晋の｜高平《こうへい》・太山・｜琅邪《ろうや》の諸郡がみな城を棄てて潰走する","慕容徳が南へ兵を引き、兗州北辺の郡県が降る。南海王法を兗州刺史として梁父（泰山郡）に鎮させる":"｜慕容徳《ぼようとく》が南へ兵を引き、｜兗州《えんしゅう》北辺の｜郡県《ぐんけん》が降る。南海王法を｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》として梁父（泰山郡）に鎮させる","劉裕の広固包囲中、泰山太守申宣が南燕の使者張綱を捕らえて劉裕に送る（泰山が晋に付く）":"｜劉裕《りゅうゆう》の｜広固《こうこ》包囲中、泰山｜太守《たいしゅ》申宣が｜南燕《なんえん》の使者｜張綱《ちょうこう》を捕らえて｜劉裕《りゅうゆう》に送る（泰山が晋に付く）","申宣が南燕の太守から寝返ったのか、晋が置いた太守かは確かめられない":"申宣が｜南燕《なんえん》の｜太守《たいしゅ》から寝返ったのか、晋が置いた｜太守《たいしゅ》かは確かめられない","北魏の叔孫建らが河を渡り、宋の兗州刺史徐琰が尹卯を棄てて逃げる。泰山・高平・金郷などの郡がみな魏に没する":"｜北魏《ほくぎ》の叔孫建らが河を渡り、宋の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》徐琰が尹卯を棄てて逃げる。泰山・｜高平《こうへい》・金郷などの郡がみな魏に没する","北魏の叔孫建が東陽の囲みを解いて滑台へ去る":"｜北魏《ほくぎ》の叔孫建が東陽の囲みを解いて｜滑台《かつだい》へ去る","泰山が宋に戻ったと名指す記事は無い。435年（元嘉十二年）に宋の泰山太守がいる（宋書「元嘉十二年，迁督鲁、东平、济北三郡军事、泰山太守」）ので、423〜434年のどこかで宋に戻っている。魏軍の撤退した423年に置いた":"泰山が宋に戻ったと名指す記事は無い。435年（｜元嘉《げんか》十二年）に宋の泰山｜太守《たいしゅ》がいる（｜宋書《そうじょ》「｜元嘉《げんか》十二年，迁督鲁、东平、济北三郡军事、泰山｜太守《たいしゅ》」）ので、423〜434年のどこかで宋に戻っている。｜魏《ぎ》軍の撤退した423年に置いた","兗州区":"｜兗州《えんしゅう》区","西晋の内地（魯郡・高平国の境）":"｜西晋《せいしん》の内地（魯郡・｜高平《こうへい》国の境）","司馬睿が晋王を称する（西晋→東晋）。313年から郗鑒が晋の兗州刺史として鄒山（魯郡）に拠る":"｜司馬《しば》｜睿《えい》が｜晋王《しんおう》を称する（｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》）。313年から｜郗鑒《ちかん》が晋の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》として鄒山（魯郡）に拠る","後趙の石瞻が晋の兗州刺史檀斌を鄒山で攻め殺す":"｜後趙《こうちょう》の石瞻が晋の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》檀斌を鄒山で攻め殺す","太寧三年四月":"｜太寧《たいねい》三年四月","瑕丘を名指す記事は無く、魯郡の鄒山の陥落を代理とした。322年に郗鑒が後趙に迫られて鄒山から合肥へ退いている（通鑑）":"瑕丘を名指す記事は無く、魯郡の鄒山の陥落を代理とした。322年に｜郗鑒《ちかん》が｜後趙《こうちょう》に迫られて鄒山から合肥へ退いている（通鑑）","魯郡を名指す記事は無い（代理の記事）。366年に燕が「拔鲁」し、367年に晋の庾希が「不能救鲁、高平」で免官されている（通鑑）ので、366年以前は晋の魯郡がある":"魯郡を名指す記事は無い（代理の記事）。366年に燕が「拔鲁」し、367年に晋の｜庾《ゆ》希が「不能救鲁、｜高平《こうへい》」で免官されている（通鑑）ので、366年以前は晋の魯郡がある","前燕の慕容厲が兗州を寇し、魯・高平など数郡を抜いて守宰を置く":"｜前燕《ぜんえん》の｜慕容《ぼよう》厲が｜兗州《えんしゅう》を寇し、魯・｜高平《こうへい》など数郡を抜いて守宰を置く","劉牢之が前秦の兗州刺史張崇を逐い、河南の城堡がみな晋に帰附する":"｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が｜前秦《ぜんしん》の｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》張崇を逐い、｜河南《かなん》の城堡がみな晋に帰附する","魯を名指す記事は無い。408年に晋の魯郡太守徐邵が鄒山にいる（通鑑）":"魯を名指す記事は無い。408年に晋の魯郡｜太守《たいしゅ》徐邵が鄒山にいる（通鑑）","元興二年十二月":"｜元興《げんこう》二年十二月","桓玄が晋の禅りを受けて楚を建てる（東晋→桓楚）。歳末は桓楚の領域":"｜桓玄《かんげん》が晋の禅りを受けて楚を建てる（｜東晋《とうしん》→桓楚）。歳末は桓楚の領域","劉裕らが挙兵して建康を回復し、晋が復する（桓楚→東晋）":"｜劉裕《りゅうゆう》らが挙兵して｜建康《けんこう》を回復し、晋が復する（桓楚→｜東晋《とうしん》）","開陽（琅邪）":"開陽（｜琅邪《ろうや》）","西晋の内地（琅邪国）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜琅邪国《ろうやこく》）","後趙の石瞻が下邳・彭城を寇し、東莞・東海を取る。劉遐は泗口へ退く":"｜後趙《こうちょう》の石瞻が下邳・｜彭城《ほうじょう》を寇し、東莞・東海を取る。劉遐は泗口へ退く","琅邪（開陽）を名指す記事は無い。北の東莞と南の東海がともに後趙に入った年として置いた。339年に蔡謨が「自寿阳至琅邪，城壁相望」と後趙の城の列を言う（通鑑）":"｜琅邪《ろうや》（開陽）を名指す記事は無い。北の東莞と南の東海がともに｜後趙《こうちょう》に入った年として置いた。339年に蔡謨が「自寿阳至｜琅邪《ろうや》，城壁相望」と｜後趙《こうちょう》の城の列を言う（通鑑）","琅邪を名指す記事は無い（代理の記事）。356年に荀羨が琅邪に至り、諸葛攸らに琅邪を守らせている（通鑑）":"｜琅邪《ろうや》を名指す記事は無い（代理の記事）。356年に荀羨が｜琅邪《ろうや》に至り、｜諸葛《しょかつ》｜攸《ゆう》らに｜琅邪《ろうや》を守らせている（通鑑）","後燕の慕容農らが青・兗を略し、晋の高平・太山・琅邪の諸郡がみな城を棄てて潰走する":"｜後燕《こうえん》の慕容農らが青・兗を略し、晋の｜高平《こうへい》・太山・｜琅邪《ろうや》の諸郡がみな城を棄てて潰走する","慕容徳が琅邪に進んで拠り、徐・兗の民十余万が帰附する":"｜慕容徳《ぼようとく》が｜琅邪《ろうや》に進んで拠り、徐・兗の民十余万が帰附する","劉裕が下邳から歩いて琅邪に進み、通る所に城を築いて兵を留める":"｜劉裕《りゅうゆう》が下邳から歩いて｜琅邪《ろうや》に進み、通る所に城を築いて兵を留める","義熙五年五月":"｜義熙《ぎき》五年五月","410年に檀韶を琅邪太守とする（通鑑）":"410年に檀韶を｜琅邪《ろうや》｜太守《たいしゅ》とする（通鑑）","彭城":"｜彭城《ほうじょう》","徐州市":"｜徐州《じょしゅう》市","西晋の内地（彭城国）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜彭城《ほうじょう》国）","石勒（周撫）":"｜石勒《せきろく》（周撫）","彭城内史周撫が沛国内史周默を殺し、衆を率いて石勒に降る":"｜彭城《ほうじょう》内史周撫が沛国内史周默を殺し、衆を率いて｜石勒《せきろく》に降る","太興元年":"｜太興《たいこう》元年","石勒はこの年まだ名目上漢の将（312〜318年の石勒の扱い）":"｜石勒《せきろく》はこの年まだ名目上漢の将（312〜318年の｜石勒《せきろく》の扱い）","劉遐・徐龕が周撫を寒山で破り斬る":"劉遐・徐龕が周撫を｜寒山《かんざん》で破り斬る","太興二年二月":"｜太興《たいこう》二年二月","後趙が彭城・下邳を寇し、晋の徐州刺史卞敦が盱眙へ退く。淮北の諸郡の多くが後趙に入る":"｜後趙《こうちょう》が｜彭城《ほうじょう》・下邳を寇し、晋の｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》卞敦が盱眙へ退く。淮北の諸郡の多くが｜後趙《こうちょう》に入る","彭城を名指す記事は無い（代理の記事）。359年に晋の郗曇が彭城へ退いて屯している（通鑑）":"｜彭城《ほうじょう》を名指す記事は無い（代理の記事）。359年に晋の郗曇が｜彭城《ほうじょう》へ退いて屯している（通鑑）","前秦の彭超が彭城を囲み、晋の戴逯が彭城の衆を連れて謝玄のもとへ去る。秦は彭城に拠り、毛当を徐州刺史として鎮させる":"｜前秦《ぜんしん》の彭超が｜彭城《ほうじょう》を囲み、晋の戴逯が｜彭城《ほうじょう》の衆を連れて謝玄のもとへ去る。秦は｜彭城《ほうじょう》に拠り、毛当を｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》として鎮させる","謝玄が下邳に至り、前秦の徐州刺史趙遷が彭城を棄てて逃げる":"謝玄が下邳に至り、｜前秦《ぜんしん》の｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》趙遷が｜彭城《ほうじょう》を棄てて逃げる","西晋の内地（下邳国）":"｜西晋《せいしん》の内地（下邳国）","石勒が下邳を攻め陥し、晋の徐州刺史卞敦が盱眙へ退く":"｜石勒《せきろく》が下邳を攻め陥し、晋の｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》卞敦が盱眙へ退く","晋が荀羨を淮陰に鎮させ、まもなく兗州刺史を兼ねて下邳に鎮させる":"晋が荀羨を淮陰に鎮させ、まもなく｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》を兼ねて下邳に鎮させる","永和八年三月":"｜永和《えいわ》八年三月","前秦が王顕を揚州刺史として下邳を戍らせる（彭城・下邳がともに陥ちる）":"｜前秦《ぜんしん》が王顕を｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》として下邳を戍らせる（｜彭城《ほうじょう》・下邳がともに陥ちる）","西晋の内地（広陵郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜広陵《こうりょう》郡）","西晋の内地（臨淮郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜臨淮《りんわい》郡）","鍾離":"｜鍾離《しょうり》","鳳陽県":"｜鳳陽《ほうよう》県","西晋の内地（淮南郡）":"｜西晋《せいしん》の内地（｜淮南《わいなん》郡）","広陵":"｜広陵《こうりょう》","揚州市":"｜揚州《ようしゅう》市","寿陽（寿春）":"寿陽（｜寿春《じゅしゅん》）","寿春に鎮する晋の豫州刺史祖約が蘇峻の叛乱に加わり、兵を送る":"｜寿春《じゅしゅん》に鎮する晋の豫州刺史祖約が蘇｜峻《しゅん》の｜叛乱《はんらん》に加わり、兵を送る","咸和二年十一月":"｜咸和《かんわ》二年十一月","後趙の石聡・石堪が淮水を渡って寿春を攻め、祖約の衆が潰えて歴陽へ逃げる":"｜後趙《こうちょう》の石聡・石堪が｜淮水《わいすい》を渡って｜寿春《じゅしゅん》を攻め、祖約の衆が潰えて｜歴陽《れきよう》へ逃げる","咸和三年七月":"｜咸和《かんわ》三年七月","通鑑は「虏寿春二万馀户而归」と書くが、載記は「陷寿春」。339年に蔡謨が寿陽を後趙の城として言い（通鑑）、345年に後趙が晋から寝返った路永を寿春に屯させている（通鑑）":"通鑑は「虏｜寿春《じゅしゅん》二万馀户而归」と書くが、｜載記《さいき》は「陷｜寿春《じゅしゅん》」。339年に蔡謨が寿陽を｜後趙《こうちょう》の城として言い（通鑑）、345年に｜後趙《こうちょう》が晋から寝返った路永を｜寿春《じゅしゅん》に屯させている（通鑑）","後趙の揚州刺史王浹が寿春ごと晋に降り、晋の陳逵が寿春に入るが、八月に褚裒の敗戦を聞いて寿春の積聚を焼き、城を壊して引き上げる":"｜後趙《こうちょう》の｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》王浹が｜寿春《じゅしゅん》ごと晋に降り、晋の陳逵が｜寿春《じゅしゅん》に入るが、八月に｜褚《ちょ》｜裒《ほう》の敗戦を聞いて｜寿春《じゅしゅん》の積聚を焼き、城を壊して引き上げる","殷浩の北伐で謝尚・荀羨が寿春に進んで屯する":"｜殷《いん》｜浩《こう》の｜北伐《ほくばつ》で謝尚・荀羨が｜寿春《じゅしゅん》に進んで屯する","枋頭の敗戦の罪を着せられた晋の豫州刺史袁真が寿春に拠って叛き、前燕に降る（秦にも使いを送る）":"｜枋頭《ほうとう》の敗戦の罪を着せられた晋の豫州刺史袁真が｜寿春《じゅしゅん》に拠って叛き、｜前燕《ぜんえん》に降る（秦にも使いを送る）","太和四年十月":"｜太和《たいわ》四年十月","燕は袁真を揚州刺史としたが、使者は淮水を越える前に死んだ（通鑑）。370年に袁真が死に、子の袁瑾が寿春を保って燕・秦に属す。名目上の燕への服属なので どの国の城でもない勢力（名目上の服属）とした":"燕は袁真を｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》としたが、使者は｜淮水《わいすい》を越える前に死んだ（通鑑）。370年に袁真が死に、子の袁瑾が｜寿春《じゅしゅん》を保って燕・秦に属す。名目上の燕への服属なので どの国の城でもない勢力（名目上の服属）とした","桓温が寿春を抜き、袁瑾と朱輔を捕らえる":"｜桓温《かんおん》が｜寿春《じゅしゅん》を抜き、袁瑾と朱輔を捕らえる","咸安元年正月丁亥":"｜咸安《かんあん》元年正月丁亥","寿春の祖約が蘇峻の叛乱に加わる":"｜寿春《じゅしゅん》の祖約が蘇｜峻《しゅん》の｜叛乱《はんらん》に加わる","合肥を名指す記事は無い。328年に毛宝が「祖约军…合肥戍」を抜いていることから、叛乱の年に祖約の手にあったとした":"合肥を名指す記事は無い。328年に毛宝が「祖约军…合肥戍」を抜いていることから、｜叛乱《はんらん》の年に祖約の手にあったとした","咸和三年":"｜咸和《かんわ》三年","合肥が後趙の手に入った年は確かめられない。350年に晋が「魏合肥」（冉魏＝旧後趙の合肥、南蛮校尉桑坦が守る）を攻めているので、349年の歳末には後趙の城だった。祖約が後趙へ奔り淮南が後趙に入った後とみて329年に仮に置いた（引用なし）":"合肥が｜後趙《こうちょう》の手に入った年は確かめられない。350年に晋が「魏合肥」（冉魏＝旧｜後趙《こうちょう》の合肥、南蛮校尉桑坦が守る）を攻めているので、349年の歳末には｜後趙《こうちょう》の城だった。祖約が｜後趙《こうちょう》へ奔り｜淮南《わいなん》が｜後趙《こうちょう》に入った後とみて329年に仮に置いた（引用なし）","晋の廬江太守袁真が冉魏の合肥を攻めて克ち、住民を連れて引き上げる":"晋の｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》袁真が冉魏の合肥を攻めて克ち、住民を連れて引き上げる","永和六年五月":"｜永和《えいわ》六年五月","「虏其居民而还」で晋が守兵を置いたかは確かめられない。364年に桓温が舟師で合肥に屯しており（通鑑）、晋の側とした":"「虏其居民而还」で晋が守兵を置いたかは確かめられない。364年に｜桓温《かんおん》が舟師で合肥に屯しており（通鑑）、晋の側とした","歴陽":"｜歴陽《れきよう》","陳敏が東へ帰って兵を集めると称し、歴陽に拠って叛く。のち江東を押さえる":"陳敏が東へ帰って兵を集めると称し、｜歴陽《れきよう》に拠って叛く。のち｜江東《こうとう》を押さえる","永興二年":"｜永興《えいこう》二年","劉准が揚州刺史劉機らを歴陽から出して陳敏を討ち、陳敏は建業で斬られる":"劉准が｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》劉機らを｜歴陽《れきよう》から出して陳敏を討ち、陳敏は｜建業《けんぎょう》で斬られる","永嘉元年二月〜三月":"｜永嘉《えいか》元年二月〜三月","歴陽内史蘇峻が朝廷の召還に応じず叛く（十二月に兵を出して建康へ向かう）":"｜歴陽《れきよう》内史蘇｜峻《しゅん》が朝廷の召還に応じず叛く（十二月に兵を出して｜建康《けんこう》へ向かう）","寿春を後趙に追われた祖約が歴陽へ逃げて拠る（蘇峻は九月に戦死）":"｜寿春《じゅしゅん》を｜後趙《こうちょう》に追われた祖約が｜歴陽《れきよう》へ逃げて拠る（蘇｜峻《しゅん》は九月に戦死）","趙胤が甘苗を遣わして歴陽の祖約を撃ち、祖約は後趙へ奔り、将の牽騰が衆を率いて降る":"趙胤が甘苗を遣わして｜歴陽《れきよう》の祖約を撃ち、祖約は｜後趙《こうちょう》へ奔り、将の牽騰が衆を率いて降る","咸和四年正月戊辰":"｜咸和《かんわ》四年正月｜戊辰《ぼしん》","南鄭（漢中）":"南鄭（｜漢中《かんちゅう》）","漢中市":"｜漢中《かんちゅう》市","西晋の梁州の治所":"｜西晋《せいしん》の｜梁州《りょうしゅう》の治所","楊虎・楊難敵が梁州（漢中）を急攻し、梁州刺史胡子序が城を棄てて走り、難敵が刺史を自称":"楊虎・楊難敵が｜梁州《りょうしゅう》（｜漢中《かんちゅう》）を急攻し、｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》胡子序が城を棄てて走り、難敵が｜刺史《しし》を自称","梁州人張咸らが楊難敵を逐い、その地を成に帰す（漢中が成の有となる）":"｜梁州《りょうしゅう》人張咸らが楊難敵を逐い、その地を成に帰す（｜漢中《かんちゅう》が成の有となる）","建興二年":"｜建興《けんこう》二年","成漢の滅亡で梁州（漢中）が晋に戻る":"｜成漢《せいかん》の滅亡で｜梁州《りょうしゅう》（｜漢中《かんちゅう》）が晋に戻る","受け取りの具体的な記事は通鑑・晋書に見えない。宋書州郡志は「李氏滅、復旧」とし、347年の周撫は梁州の漢中・巴西・梓潼・陰平四郡を督した。351年に梁州刺史司馬勲が南鄭に帰る（通鑑年）ので、遅くとも351年には晋の城":"受け取りの具体的な記事は通鑑・｜晋書《しんじょ》に見えない。｜宋書《そうじょ》州郡志は「｜李氏《りし》滅、復旧」とし、347年の周撫は｜梁州《りょうしゅう》の｜漢中《かんちゅう》・巴西・｜梓潼《しどう》・陰平四郡を督した。351年に｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》｜司馬《しば》勲が南鄭に帰る（通鑑年）ので、遅くとも351年には晋の城","司馬勲":"｜司馬《しば》勲","梁州刺史司馬勲が叛き、梁・益二州牧・成都王を自号":"｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》｜司馬《しば》勲が叛き、梁・益二州牧・｜成都王《せいとおう》を自号","興寧三年十一月":"｜興寧《こうねい》三年十一月","桓豁の督護桓羆が南鄭を攻め、朱序が司馬勲を擒える":"桓豁の｜督護《とくご》桓羆が南鄭を攻め、朱｜序《じょ》が｜司馬《しば》勲を擒える","太和元年三月〜五月":"｜太和《たいわ》元年三月〜五月","前秦の朱肜が漢中を抜き、梁州刺史楊亮は西城へ走る。前秦は毛当を梁州刺史として漢中に鎮させる":"｜前秦《ぜんしん》の朱肜が｜漢中《かんちゅう》を抜き、｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》楊亮は｜西城《せいじょう》へ走る。｜前秦《ぜんしん》は毛当を｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》として｜漢中《かんちゅう》に鎮させる","寧康元年冬":"｜寧康《ねいこう》元年冬","楊佺期が成固に拠り、前秦の梁州刺史潘猛が漢中を棄てて長安へ走る":"楊佺期が成固に拠り、｜前秦《ぜんしん》の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》潘猛が｜漢中《かんちゅう》を棄てて｜長安《ちょうあん》へ走る","403年十二月壬辰、桓玄が皇帝位に即く（国号は楚）。晋の内地が丸ごと桓楚になる。益州刺史毛璩が桓玄の命を拒んだのは翌404年の初めで（通鑑の元興三年）、403年の歳末にはまだ桓楚に背いていないので、蜀・梁州・寧州も桓楚とした":"403年十二月壬辰、｜桓玄《かんげん》が｜皇帝位《こうていい》に即く（国号は楚）。晋の内地が丸ごと桓楚になる。｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》毛｜璩《きょ》が｜桓玄《かんげん》の命を拒んだのは翌404年の初めで（通鑑の｜元興《げんこう》三年）、403年の歳末にはまだ桓楚に背いていないので、蜀・｜梁州《りょうしゅう》・｜寧州《ねいしゅう》も桓楚とした","毛璩が漢中を攻めて桓玄の梁州刺史桓希を斬り、自ら梁州を領する":"毛｜璩《きょ》が｜漢中《かんちゅう》を攻めて｜桓玄《かんげん》の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》桓希を斬り、自ら｜梁州《りょうしゅう》を領する","桓希は桓玄が置いた梁州刺史で、毛璩の将に漢中で斬られた":"桓希は｜桓玄《かんげん》が置いた｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》で、毛｜璩《きょ》の将に｜漢中《かんちゅう》で斬られた","譙縦の乱で蜀が乱れ漢中が空虚になり、氐王楊盛が兄の子楊撫に漢中を拠らせる":"譙縦の乱で蜀が乱れ｜漢中《かんちゅう》が空虚になり、氐王｜楊盛《ようせい》が兄の子楊撫に｜漢中《かんちゅう》を拠らせる","楊盛は同年七月に後秦に降り（名目上の服属）、407年に晋に再び通じて苻宣を梁州督護として漢中に入れる。漢中の保持者は仇池の楊氏のまま":"｜楊盛《ようせい》は同年七月に｜後秦《こうしん》に降り（名目上の服属）、407年に晋に再び通じて苻宣を｜梁州《りょうしゅう》｜督護《とくご》として｜漢中《かんちゅう》に入れる。｜漢中《かんちゅう》の保持者は仇池の｜楊氏《ようし》のまま","索邈が梁州刺史となり、楊盛の苻宣は仇池に還る":"索邈が｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》となり、｜楊盛《ようせい》の苻宣は仇池に還る","索邈は南鄭でなく南城（漢中郡褒中県）に治した（宋書州郡志・通鑑年）":"索邈は南鄭でなく南城（｜漢中《かんちゅう》郡褒中県）に治した（｜宋書《そうじょ》州郡志・通鑑年）","東晋→宋（劉裕の受禅）":"｜東晋《とうしん》→宋（｜劉裕《りゅうゆう》の｜受禅《じゅぜん》）","楊難当が梁州を襲い、梁州刺史甄法護が城を棄てて西城へ走る。難当が漢中の地を有つ":"｜楊難当《ようなんとう》が｜梁州《りょうしゅう》を襲い、｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》甄法護が城を棄てて｜西城《せいじょう》へ走る。難当が｜漢中《かんちゅう》の地を有つ","元嘉十年十一月丁未":"｜元嘉《げんか》十年十一月丁未","蕭承之が氐を破り漢中の故地を悉く収める。南城が焼かれていたので蕭思話は南鄭に鎮を移す":"｜蕭承之《しょうしょうし》が氐を破り｜漢中《かんちゅう》の故地を悉く収める。南城が焼かれていたので｜蕭《しょう》｜思話《しわ》は南鄭に鎮を移す","元嘉十一年閏三月":"｜元嘉《げんか》十一年閏三月","武興":"｜武興《ぶこう》","西晋の武都郡沮県（晋書地理志）。仇池の楊氏の勢力圏に接する":"｜西晋《せいしん》の武都郡沮県（｜晋書《しんじょ》地理志）。仇池の｜楊氏《ようし》の勢力圏に接する","楊虎・楊難敵が梁州を急攻し、梁州刺史胡子序が城を棄てて走り、難敵が刺史を自称する":"楊虎・楊難敵が｜梁州《りょうしゅう》を急攻し、｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》胡子序が城を棄てて走り、難敵が｜刺史《しし》を自称する","推定。武興（沮県）そのものの記事は無い。仇池と漢中のあいだにあり、晋の梁州が楊氏に落ちた313年から楊氏の勢力下とみた（-10-04 総点検）":"推定。｜武興《ぶこう》（沮県）そのものの記事は無い。仇池と｜漢中《かんちゅう》のあいだにあり、晋の｜梁州《りょうしゅう》が｜楊氏《ようし》に落ちた313年から｜楊氏《ようし》の勢力下とみた（-10-04 総点検）","成漢が滅び、梁州（漢中）が晋に戻る":"｜成漢《せいかん》が滅び、｜梁州《りょうしゅう》（｜漢中《かんちゅう》）が晋に戻る","推定。武興そのものの記事は無い。373年に東晋の楊広が仇池を襲って敗れたとき『沮水の諸戍がみな城を棄てて潰走した』とあり、それまでに晋が沮水（武興）に戍を置いていた。置いた年は書かれていないので、梁州が晋に戻った347年に置いた（-10-04 総点検）":"推定。｜武興《ぶこう》そのものの記事は無い。373年に｜東晋《とうしん》の｜楊《よう》｜広《こう》が仇池を襲って敗れたとき『｜沮水《そすい》の諸戍がみな城を棄てて潰走した』とあり、それまでに晋が｜沮水《そすい》（｜武興《ぶこう》）に戍を置いていた。置いた年は書かれていないので、｜梁州《りょうしゅう》が晋に戻った347年に置いた（-10-04 総点検）","東晋の梁州刺史楊亮の子楊広が仇池を襲って前秦の楊安に敗れ、沮水の諸戍がみな城を棄てて潰走する":"｜東晋《とうしん》の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》楊亮の子｜楊《よう》｜広《こう》が仇池を襲って｜前秦《ぜんしん》の楊安に敗れ、｜沮水《そすい》の諸戍がみな城を棄てて潰走する","寧康元年":"｜寧康《ねいこう》元年","楊定が歴城に治し、百頃（仇池）に儲蓄を置いて仇池公を自称（仇池国の再興）":"｜楊《よう》定が歴城に治し、百頃（仇池）に儲蓄を置いて仇池公を自称（仇池国の再興）","推定：武興（沮県）を楊定が取ったという記事は無い。前秦の瓦解と仇池国の再興に合わせて楊氏の側に置いた":"推定：｜武興《ぶこう》（沮県）を｜楊《よう》定が取ったという記事は無い。｜前秦《ぜんしん》の瓦解と仇池国の再興に合わせて｜楊氏《ようし》の側に置いた","楊盛の苻宣が漢中に入り、後秦の刺史王敏が退いて武興に屯する":"｜楊盛《ようせい》の苻宣が｜漢中《かんちゅう》に入り、｜後秦《こうしん》の｜刺史《しし》王敏が退いて｜武興《ぶこう》に屯する","推定：後秦の滅亡（417年）。武興を楊氏が取った記事は無いが、426年に「仇池氐楊興平」が内附を求め、宋の吉翰が武興に拠ったことから、それ以前は楊氏の勢力下にあったと見る":"推定：｜後秦《こうしん》の滅亡（417年）。｜武興《ぶこう》を｜楊氏《ようし》が取った記事は無いが、426年に「｜仇池氐《きゅうちてい》楊｜興平《こうへい》」が内附を求め、宋の吉翰が｜武興《ぶこう》に拠ったことから、それ以前は｜楊氏《ようし》の勢力下にあったと見る","仇池の氐楊興平が内附を求め、宋の梁・南秦二州刺史吉翰が始平太守龐咨を遣わして武興に拠る。楊玄の弟楊難当が拒むが龐咨が撃退":"仇池の氐楊｜興平《こうへい》が内附を求め、宋の梁・南秦二州｜刺史《しし》吉翰が始平｜太守《たいしゅ》龐咨を遣わして｜武興《ぶこう》に拠る。楊玄の弟｜楊難当《ようなんとう》が拒むが龐咨が撃退","元嘉三年":"｜元嘉《げんか》三年","楊難当が梁州を襲い白馬（陽平関）を破る":"｜楊難当《ようなんとう》が｜梁州《りょうしゅう》を襲い白馬（陽平関）を破る","元嘉十年":"｜元嘉《げんか》十年","推定：433年に武興を取った記事は無い。442年に宋の劉道真が武興で楊難当の建忠将軍苻隆を破っているので、それまでに楊氏の手に戻っている。白馬は武興の東（漢中寄り）にあるので、遅くとも433年の梁州襲撃の時には楊氏が武興を押さえていたと見た":"推定：433年に｜武興《ぶこう》を取った記事は無い。442年に宋の劉道真が｜武興《ぶこう》で｜楊難当《ようなんとう》の建忠将軍苻隆を破っているので、それまでに｜楊氏《ようし》の手に戻っている。白馬は｜武興《ぶこう》の東（｜漢中《かんちゅう》寄り）にあるので、遅くとも433年の｜梁州《りょうしゅう》襲撃の時には｜楊氏《ようし》が｜武興《ぶこう》を押さえていたと見た","296年（元康六年）十二月に楊茂搜が略陽から部落四千家を率いて仇池（百頃）に還り拠る（通鑑年の条にもある）":"296年（｜元康《げんこう》六年）十二月に楊茂搜が略陽から部落四千家を率いて仇池（百頃）に還り拠る（通鑑年の条にもある）","陳安の死で楊難敵が漢中へ南奔し、前趙の劉曜が田崧を益州刺史として仇池に鎮させる":"陳安の死で楊難敵が｜漢中《かんちゅう》へ南奔し、｜前趙《ぜんちょう》の｜劉曜《りゅうよう》が田崧を｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》として仇池に鎮させる","前秦の苻雅・楊安が仇池公楊纂を攻め、楊統が武都の衆を率いて降り、楊纂も面縛して降る。楊安が仇池に鎮する":"｜前秦《ぜんしん》の苻雅・楊安が仇池公楊纂を攻め、楊統が武都の衆を率いて降り、楊纂も｜面縛《めんばく》して降る。楊安が仇池に鎮する","楊定が隴右に奔って旧衆を集め、歴城に治して百頃に儲蓄を置き、仇池公を自称（仇池国の再興）":"｜楊《よう》定が｜隴右《ろうゆう》に奔って旧衆を集め、歴城に治して百頃に儲蓄を置き、仇池公を自称（仇池国の再興）","晋寿":"｜晋寿《しんじゅ》","西晋の梁州梓潼郡晋寿県":"｜西晋《せいしん》の｜梁州《りょうしゅう》｜梓潼《しどう》郡｜晋寿《しんじゅ》県","李特":"｜李特《りとく》","李蕩が河間王の督護衙博を葭萌に攻め、衙博は走り、その衆は尽く降る":"｜李蕩《りとう》が河間王の｜督護《とくご》衙博を｜葭萌《かぼう》に攻め、衙博は走り、その衆は尽く降る","太安元年":"｜太安《たいあん》元年","李雄が成都王を称する（永興元年十月）。李特の流民軍がそのまま成（成漢）になる":"｜李雄《りゆう》が｜成都王《せいとおう》を称する（｜永興《えいこう》元年十月）。｜李特《りとく》の流民軍がそのまま成（｜成漢《せいかん》）になる","成都を失った李勢が葭萌（晋寿）まで逃れて桓温に降文を送り、成漢が滅ぶ":"｜成都《せいと》を失った｜李勢《りせい》が｜葭萌《かぼう》（｜晋寿《しんじゅ》）まで逃れて｜桓温《かんおん》に｜降文《こうぶん》を送り、｜成漢《せいかん》が滅ぶ","永和三年三月":"｜永和《えいわ》三年三月","前秦の朱肜が漢中を抜き、徐成が剣門を克つ（晋寿は漢中と剣門の間）":"｜前秦《ぜんしん》の朱肜が｜漢中《かんちゅう》を抜き、徐成が剣門を克つ（｜晋寿《しんじゅ》は｜漢中《かんちゅう》と剣門の間）","晋寿そのものの陥落は書かれていない。漢中と剣門がともに前秦の手に落ちたので前秦とした":"｜晋寿《しんじゅ》そのものの陥落は書かれていない。｜漢中《かんちゅう》と剣門がともに｜前秦《ぜんしん》の手に落ちたので｜前秦《ぜんしん》とした","東晋が漢中（潘猛の逃走）と涪城（梓潼太守塁襲の降伏）を回復":"｜東晋《とうしん》が｜漢中《かんちゅう》（潘猛の逃走）と涪城（｜梓潼《しどう》｜太守《たいしゅ》塁襲の降伏）を回復","晋寿そのものの回復は書かれていない。北の漢中と南の涪城がともに384年に晋に戻ったので東晋とした":"｜晋寿《しんじゅ》そのものの回復は書かれていない。北の｜漢中《かんちゅう》と南の涪城がともに384年に晋に戻ったので｜東晋《とうしん》とした","益州刺史毛璩が桓玄の使者を留めて命を受けず、桓玄が三巴に置いた守りを破って白帝まで進む":"｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》毛｜璩《きょ》が｜桓玄《かんげん》の使者を留めて命を受けず、｜桓玄《かんげん》が三巴に置いた守りを破って｜白帝《はくてい》まで進む","404年の初めに毛璩が桓玄の命を拒み、益州・梁州の南を晋の側に保った。この城そのものの記事は無い":"404年の初めに毛｜璩《きょ》が｜桓玄《かんげん》の命を拒み、｜益州《えきしゅう》・｜梁州《りょうしゅう》の南を晋の側に保った。この城そのものの記事は無い","楊難当が葭萌を攻め、晋寿太守范延郎を獲る":"｜楊難当《ようなんとう》が｜葭萌《かぼう》を攻め、｜晋寿《しんじゅ》｜太守《たいしゅ》范延郎を獲る","蕭承之らが漢中の故地を悉く収め、葭萌水に戍を置く":"｜蕭承之《しょうしょうし》らが｜漢中《かんちゅう》の故地を悉く収め、｜葭萌《かぼう》水に戍を置く","西晋の梁州巴西郡":"｜西晋《せいしん》の｜梁州《りょうしゅう》巴西郡","李蕩が衙博を破り、梓潼太守張演は城を棄てて走り、巴西郡丞毛植が郡を挙げて降る":"｜李蕩《りとう》が衙博を破り、｜梓潼《しどう》｜太守《たいしゅ》張演は城を棄てて走り、巴西｜郡丞《ぐんじょう》毛植が郡を挙げて降る","巴西に鎮した成の太尉李国を帳下の文石が殺し、巴西を挙げて羅尚に降る":"巴西に鎮した成の｜太尉《たいい》李国を帳下の文石が殺し、巴西を挙げて羅尚に降る","三月の成漢滅亡で晋に帰した後、十二月に振威護軍蕭敬文が征虜将軍楊謙を殺して涪城を陥れ、益州牧を自称して巴西を取る":"三月の｜成漢《せいかん》滅亡で晋に帰した後、十二月に振威｜護軍《ごぐん》蕭敬文が征虜将軍楊謙を殺して涪城を陥れ、｜益州牧《えきしゅうぼく》を自称して巴西を取る","永和三年十二月":"｜永和《えいわ》三年十二月","周撫・司馬勲が涪城で蕭敬文を斬る":"周撫・｜司馬《しば》勲が涪城で蕭敬文を斬る","永和八年八月":"｜永和《えいわ》八年八月","前秦が梁・益二州を取る。晋の益州刺史毛虎生は巴西まで進んだが糧が乏しく巴東へ退く":"｜前秦《ぜんしん》が梁・益二州を取る。晋の｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》毛虎生は巴西まで進んだが糧が乏しく巴東へ退く","東晋の梁州刺史楊亮が蜀を伐ち、前秦の巴西太守康回が数敗して成都へ退く":"｜東晋《とうしん》の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》楊亮が蜀を伐ち、｜前秦《ぜんしん》の巴西｜太守《たいしゅ》康回が数敗して｜成都《せいと》へ退く","巴西の人譙縦が侯暉・陽昧に推され、涪城を襲って梁・秦二州刺史を称する（巴西は梁州の郡）":"巴西の人譙縦が侯暉・陽昧に推され、涪城を襲って梁・秦二州｜刺史《しし》を称する（巴西は｜梁州《りょうしゅう》の郡）","巴西郡城の帰属は書かれていない。譙縦が梁州刺史を称し、巴西の人が担いだ叛乱なので譙縦の側とした":"巴西郡城の帰属は書かれていない。譙縦が｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》を称し、巴西の人が担いだ｜叛乱《はんらん》なので譙縦の側とした","朱齢石が蜀を平らげ、譙縦は自縊し、巴西の人王志がその首を斬って送る":"朱｜齢石《れいせき》が蜀を平らげ、譙縦は｜自縊《じい》し、巴西の人王志がその首を斬って送る","義熙九年七月":"｜義熙《ぎき》九年七月","西晋の梁州梓潼郡涪城県":"｜西晋《せいしん》の｜梁州《りょうしゅう》｜梓潼《しどう》郡涪城県","梓潼太守張演が城を棄てて走り、李特は涪を拠点にする（八月に「特欲還涪」）":"｜梓潼《しどう》｜太守《たいしゅ》張演が城を棄てて走り、｜李特《りとく》は涪を拠点にする（八月に「特欲還涪」）","梓潼が羅尚に降り、晋の梓潼内史譙登が涪城に進み拠る。李雄自らの攻撃も退ける":"｜梓潼《しどう》が羅尚に降り、晋の｜梓潼《しどう》内史譙登が涪城に進み拠る。｜李雄《りゆう》自らの攻撃も退ける","成の太傅李驤が涪城を抜き、譙登を獲る":"成の｜太傅《たいふ》｜李驤《りじょう》が涪城を抜き、譙登を獲る","三月の成漢滅亡で晋に帰し、四月に征虜将軍楊謙が鄧定・隗文の乱で涪城を棄てて徳陽へ退いた後、十二月に蕭敬文が楊謙を殺して涪城を陥れ、益州牧を自称":"三月の｜成漢《せいかん》滅亡で晋に帰し、四月に征虜将軍楊謙が鄧定・隗文の乱で涪城を棄てて徳陽へ退いた後、十二月に蕭敬文が楊謙を殺して涪城を陥れ、｜益州牧《えきしゅうぼく》を自称","叛いた梁州刺史司馬勲が剣閣に入って涪を攻め、西夷校尉の毌丘某（名は底本で外字）が城を棄てて走る":"叛いた｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》｜司馬《しば》勲が剣閣に入って涪を攻め、西夷校尉の毌丘某（名は底本で外字）が城を棄てて走る","朱序・周楚が司馬勲を破って擒える":"朱｜序《じょ》・周楚が｜司馬《しば》勲を破って擒える","太和元年五月":"｜太和《たいわ》元年五月","前秦の楊安が梓潼を攻め、涪城を固守した梓潼太守周颺が母・妻を獲られて降る":"｜前秦《ぜんしん》の楊安が｜梓潼《しどう》を攻め、涪城を固守した｜梓潼《しどう》｜太守《たいしゅ》周颺が母・妻を獲られて降る","寧康元年十一月":"｜寧康《ねいこう》元年十一月","前秦の梓潼太守塁襲が涪城を挙げて降る":"｜前秦《ぜんしん》の｜梓潼《しどう》｜太守《たいしゅ》塁襲が涪城を挙げて降る","朱齢石が成都に入り、涪城に重兵を置いていた譙道福も平模の陥落を聞いて成都へ赴いたのち衆が散じる":"朱｜齢石《れいせき》が｜成都《せいと》に入り、涪城に重兵を置いていた譙道福も平模の陥落を聞いて｜成都《せいと》へ赴いたのち衆が散じる","趙広らが涪城を攻め陥とし、程道養を蜀王に立てて弟程道助に涪城を鎮させる":"趙広らが涪城を攻め陥とし、程道養を｜蜀王《しょくおう》に立てて弟程道助に涪城を鎮させる","元嘉九年":"｜元嘉《げんか》九年","元嘉十年五月":"｜元嘉《げんか》十年五月","成都":"｜成都《せいと》","成都市":"｜成都《せいと》市","召還を命じられた益州刺史趙廞が新任の耿滕を殺し、大都督・大将軍・益州牧を自称して成都に拠る":"召還を命じられた｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》趙廞が新任の耿滕を殺し、｜大都督《だいととく》・｜大将軍《だいしょうぐん》・｜益州牧《えきしゅうぼく》を自称して｜成都《せいと》に拠る","永康元年十二月":"｜永康《えいこう》元年十二月","李特が趙廞を討って成都に入り、三月に晋の益州刺史羅尚が成都に至る":"｜李特《りとく》が趙廞を討って｜成都《せいと》に入り、三月に晋の｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》羅尚が｜成都《せいと》に至る","永寧元年正月〜三月":"｜永寧《えいねい》元年正月〜三月","李雄が羅尚を急攻し、羅尚は夜に牛鞞水から東へ逃れ、留守の張羅が門を開いて降る。李雄が成都に入る":"｜李雄《りゆう》が羅尚を急攻し、羅尚は夜に牛鞞水から東へ逃れ、留守の張羅が門を開いて降る。｜李雄《りゆう》が｜成都《せいと》に入る","太安二年閏月":"｜太安《たいあん》二年閏月","正月に李特が少城を取ったが、三月に李特が戦死して一時退いた。閏月（年末）に李雄が成都を取る":"正月に｜李特《りとく》が少城を取ったが、三月に｜李特《りとく》が戦死して一時退いた。閏月（年末）に｜李雄《りゆう》が｜成都《せいと》を取る","三月に桓温が成都を取り李勢が降って成漢が滅ぶ（東晋）。四月丁巳に成漢の旧将鄧定・隗文が再び成都に入り、七月に范長生の子范賁を帝に立てる":"三月に｜桓温《かんおん》が｜成都《せいと》を取り｜李勢《りせい》が降って｜成漢《せいかん》が滅ぶ（｜東晋《とうしん》）。四月丁巳に｜成漢《せいかん》の旧将鄧定・隗文が再び｜成都《せいと》に入り、七月に｜范《はん》｜長生《ちょうせい》の子范賁を帝に立てる","永和三年三月〜七月":"｜永和《えいわ》三年三月〜七月","益州刺史周撫・龍驤将軍朱燾が范賁を斬り、益州が平らぐ":"｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》周撫・龍驤将軍朱燾が范賁を斬り、｜益州《えきしゅう》が平らぐ","永和五年四月":"｜永和《えいわ》五年四月","益州刺史周仲孫が綿竹で朱肜を拒んだが、毛当が成都に迫ると南中へ奔る。前秦が梁・益二州を取り、楊安が益州牧として成都に鎮する":"｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》周仲孫が｜綿竹《めんちく》で朱肜を拒んだが、毛当が｜成都《せいと》に迫ると南中へ奔る。｜前秦《ぜんしん》が梁・益二州を取り、楊安が｜益州牧《えきしゅうぼく》として｜成都《せいと》に鎮する","前秦の益州刺史王広が李丕に成都を守らせて隴西へ奔り、晋の蜀郡太守任権が成都を攻め抜いて李丕を斬り、益州を回復":"｜前秦《ぜんしん》の｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》王広が李丕に｜成都《せいと》を守らせて｜隴西《ろうせい》へ奔り、晋の｜蜀郡《しょくぐん》｜太守《たいしゅ》任権が｜成都《せいと》を攻め抜いて李丕を斬り、｜益州《えきしゅう》を回復","益州の営戸李騰が城を開いて譙縦の兵を入れ、毛璩・毛瑗を殺す。譙縦が成都王を称する":"｜益州《えきしゅう》の営戸李騰が城を開いて譙縦の兵を入れ、毛｜璩《きょ》・毛瑗を殺す。譙縦が｜成都王《せいとおう》を称する","譙縦は407年九月に後秦に藩を称し、409年に後秦から蜀王に冊されたが、成都は譙縦が持った（名目上の服属）":"譙縦は407年九月に｜後秦《こうしん》に藩を称し、409年に｜後秦《こうしん》から｜蜀王《しょくおう》に冊されたが、｜成都《せいと》は譙縦が持った（名目上の服属）","朱齢石が平模を破り、譙縦が成都を棄てて逃れ、壬申に朱齢石が成都に入る":"朱｜齢石《れいせき》が平模を破り、譙縦が｜成都《せいと》を棄てて逃れ、壬申に朱｜齢石《れいせき》が｜成都《せいと》に入る","巴郡（江州）":"巴郡（｜江州《こうしゅう》）","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","西晋の梁州巴郡。304年に羅尚が成都を失って巴郡に移屯する":"｜西晋《せいしん》の｜梁州《りょうしゅう》巴郡。304年に羅尚が｜成都《せいと》を失って巴郡に移屯する","310年の羅尚の死後巴郡が乱れ、311年に巴郡太守張羅が隗文らと戦って死に、隗文らは吏民を駆って成に降る。312年に晋の益州の残存勢力（三府）は南の涪陵へ退く":"310年の羅尚の死後巴郡が乱れ、311年に巴郡｜太守《たいしゅ》張羅が隗文らと戦って死に、隗文らは｜吏民《りみん》を駆って成に降る。312年に晋の｜益州《えきしゅう》の残存勢力（三府）は南の涪陵へ退く","永嘉六年ごろ":"｜永嘉《えいか》六年ごろ","推定：成が巴郡（江州）を取った記事は無い。通鑑は314年の条（晋書は年を書かない）で巴郡が成の側から「晋兵（東軍）」を告急したとするので、遅くとも314年には成の城。312年は晋の三府が南へ退いた年として置いた":"推定：成が巴郡（｜江州《こうしゅう》）を取った記事は無い。通鑑は314年の条（｜晋書《しんじょ》は年を書かない）で巴郡が成の側から「晋兵（東軍）」を告急したとするので、遅くとも314年には成の城。312年は晋の三府が南へ退いた年として置いた","成漢の滅亡（李勢の降伏）":"｜成漢《せいかん》の滅亡（｜李勢《りせい》の降伏）","巴郡の受け取りの記事は無い。成漢の滅亡で晋に帰したとした":"巴郡の受け取りの記事は無い。｜成漢《せいかん》の滅亡で晋に帰したとした","前秦が梁・益二州を取り、寧州刺史姚萇を巴郡の墊江に屯させる":"｜前秦《ぜんしん》が梁・益二州を取り、｜寧州《ねいしゅう》｜刺史《しし》｜姚萇《ようちょう》を巴郡の墊江に屯させる","江州そのものの守将は書かれていない。巴郡の属県墊江に前秦の姚萇が屯したので前秦とした":"｜江州《こうしゅう》そのものの守将は書かれていない。巴郡の属県墊江に｜前秦《ぜんしん》の｜姚萇《ようちょう》が屯したので｜前秦《ぜんしん》とした","東晋の梁州刺史楊亮が蜀を伐ち、巴郡に屯する":"｜東晋《とうしん》の｜梁州《りょうしゅう》｜刺史《しし》楊亮が蜀を伐ち、巴郡に屯する","譙縦が弟の譙明子を巴州刺史として白帝（巴東）に屯させる（江州は成都と白帝の間）":"譙縦が弟の譙明子を巴州｜刺史《しし》として｜白帝《はくてい》（巴東）に屯させる（｜江州《こうしゅう》は｜成都《せいと》と｜白帝《はくてい》の間）","推定：江州そのものの帰属は書かれていない":"推定：｜江州《こうしゅう》そのものの帰属は書かれていない","朱齢石が蜀を平らげる":"朱｜齢石《れいせき》が蜀を平らげる","武陽（犍為郡）":"｜武陽《ぶよう》（犍為郡）","武陽":"｜武陽《ぶよう》","益州刺史趙廞が叛き、犍為太守李密らを殺して守令を置き換える":"｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》趙廞が叛き、犍為｜太守《たいしゅ》｜李密《りみつ》らを殺して守令を置き換える","趙廞の滅亡。羅尚の下で晋の犍為太守がいる":"趙廞の滅亡。羅尚の下で晋の犍為｜太守《たいしゅ》がいる","永寧元年":"｜永寧《えいねい》元年","李驤が犍為を攻めて羅尚の糧道を断ち、太守龔恢を獲て殺す":"｜李驤《りじょう》が犍為を攻めて羅尚の｜糧道《りょうどう》を断ち、｜太守《たいしゅ》龔恢を獲て殺す","太安二年":"｜太安《たいあん》二年","桓温が彭模（武陽県）に至り、成漢を滅ぼした後、益州刺史周撫を彭模に鎮させる":"｜桓温《かんおん》が彭模（｜武陽《ぶよう》県）に至り、｜成漢《せいかん》を滅ぼした後、｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》周撫を彭模に鎮させる","前秦が梁・益二州を取る":"｜前秦《ぜんしん》が梁・益二州を取る","晋の蜀郡太守任権が成都を抜き、益州を回復":"晋の｜蜀郡《しょくぐん》｜太守《たいしゅ》任権が｜成都《せいと》を抜き、｜益州《えきしゅう》を回復","譙縦が成都を取り成都王を称する":"譙縦が｜成都《せいと》を取り｜成都王《せいとおう》を称する","武陽が譙縦の手にあったことは、413年に譙縦の侯暉・譙詵が平模（武陽県）に拠って朱齢石を拒んだことで分かる":"｜武陽《ぶよう》が譙縦の手にあったことは、413年に譙縦の侯暉・譙詵が平模（｜武陽《ぶよう》県）に拠って朱｜齢石《れいせき》を拒んだことで分かる","朱齢石が平模の北城を急攻して克ち、侯暉・譙詵を斬る":"朱｜齢石《れいせき》が平模の北城を急攻して克ち、侯暉・譙詵を斬る","味県（寧州）":"味県（｜寧州《ねいしゅう》）","寧州は廃されて南夷校尉（李毅）が置かれていた（302年に寧州を復置して李毅を刺史とする）":"｜寧州《ねいしゅう》は廃されて南夷校尉（李毅）が置かれていた（302年に｜寧州《ねいしゅう》を復置して李毅を｜刺史《しし》とする）","西晋→東晋。寧州刺史王遜は司馬睿に勧進している":"｜西晋《せいしん》→｜東晋《とうしん》。｜寧州《ねいしゅう》｜刺史《しし》王遜は｜司馬《しば》｜睿《えい》に勧進している","成の李寿が朱提を囲み、寧州刺史尹奉が成に降る。成が南中の地を尽く有つ":"成の｜李寿《りじゅ》が朱提を囲み、｜寧州《ねいしゅう》｜刺史《しし》尹奉が成に降る。成が南中の地を尽く有つ","咸和八年三月":"｜咸和《かんわ》八年三月","東晋の広州刺史鄧岳が漢（成）の寧州を撃ち、漢の建寧太守孟彦が寧州刺史霍彪を執えて降る":"｜東晋《とうしん》の｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》鄧岳が漢（成）の｜寧州《ねいしゅう》を撃ち、漢の｜建寧《けんねい》｜太守《たいしゅ》孟彦が｜寧州《ねいしゅう》｜刺史《しし》霍彪を執えて降る","咸康五年三月乙丑":"｜咸康《かんこう》五年三月乙丑","404年に劉裕が建康を取り返して晋の朝廷を立て直し、益州の毛璩も晋の側に立った。寧州の個別の帰順の記事は無く、桓楚の残党が残った記事も無い（王朝の交替と同じ扱い）":"404年に｜劉裕《りゅうゆう》が｜建康《けんこう》を取り返して晋の朝廷を立て直し、｜益州《えきしゅう》の毛｜璩《きょ》も晋の側に立った。｜寧州《ねいしゅう》の個別の帰順の記事は無く、桓楚の残党が残った記事も無い（王朝の交替と同じ扱い）","晋の譙郡山桑県（晋書地理志。渦陽城はまだ無いので山桑で代える）":"晋の譙郡山桑県（｜晋書《しんじょ》地理志。渦｜陽城《ようじょう》はまだ無いので山桑で代える）","推定。祖逖の死後に後趙が譙を囲み、豫州刺史祖約が寿春へ退く（通鑑年）。山桑は譙と寿春のあいだの渦水沿いで、このとき後趙の側に入ったとみる（隣の譙と同じ年）。325年には司・豫・徐・兗の地が後趙に入り淮を境とする（通鑑）。山桑そのものの記事は無い":"推定。祖逖の死後に｜後趙《こうちょう》が譙を囲み、豫州刺史祖約が｜寿春《じゅしゅん》へ退く（通鑑年）。山桑は譙と｜寿春《じゅしゅん》のあいだの渦水沿いで、このとき｜後趙《こうちょう》の側に入ったとみる（隣の譙と同じ年）。325年には司・豫・徐・兗の地が｜後趙《こうちょう》に入り淮を境とする（通鑑）。山桑そのものの記事は無い","推定。後趙の滅亡後、姚襄が晋に帰して譙城に屯する（通鑑年、隣の譙と同じ年）。353年十月に殷浩が寿春から北伐して山桑まで進んでいるので、それまでに晋の側だったとみる。山桑の帰属を直接書いた記事は無い":"推定。｜後趙《こうちょう》の滅亡後、｜姚《よう》｜襄《じょう》が晋に帰して譙城に屯する（通鑑年、隣の譙と同じ年）。353年十月に｜殷《いん》｜浩《こう》が｜寿春《じゅしゅん》から｜北伐《ほくばつ》して山桑まで進んでいるので、それまでに晋の側だったとみる。山桑の帰属を直接書いた記事は無い","姚襄が叛いて殷浩を山桑で破り、兄の姚益に山桑の塁を守らせる。殷浩が送った劉啓・王彬之も山桑で敗死する":"｜姚《よう》｜襄《じょう》が叛いて｜殷《いん》｜浩《こう》を山桑で破り、兄の姚益に山桑の塁を守らせる。｜殷《いん》｜浩《こう》が送った｜劉《りゅう》｜啓《けい》・王彬之も山桑で敗死する","永和九年十月〜":"｜永和《えいわ》九年十月〜","推定。姚襄が所部の勧めで北へ還り、外黄を攻めて許昌に拠る（通鑑年）。山桑の姚益もこのとき去ったとみるが、山桑の記事は無い。354〜355年に晋の誰が山桑を押さえたかは不明":"推定。｜姚《よう》｜襄《じょう》が｜所部《しょぶ》の勧めで北へ還り、外黄を攻めて｜許昌《きょしょう》に拠る（通鑑年）。山桑の姚益もこのとき去ったとみるが、山桑の記事は無い。354〜355年に晋の誰が山桑を押さえたかは不明","推定。謝万が渦・潁に入って潰走し、許昌・潁川・譙・沛の諸城が相次いで燕に没する（通鑑年、隣の譙と同じ年）。山桑は渦水沿いで譙の南。山桑そのものの記事は無い":"推定。謝万が渦・潁に入って潰走し、｜許昌《きょしょう》・潁川・譙・沛の諸城が相次いで燕に没する（通鑑年、隣の譙と同じ年）。山桑は渦水沿いで譙の南。山桑そのものの記事は無い","推定。桓温の北伐で豫州刺史袁真が譙・梁を克つ（通鑑年、隣の譙と同じ年）。同年十月に袁真が寿春に拠って叛き燕に降る（通鑑）ので、369〜371年の山桑は袁真の側だった可能性もある":"推定。｜桓温《かんおん》の｜北伐《ほくばつ》で豫州刺史袁真が譙・梁を克つ（通鑑年、隣の譙と同じ年）。同年十月に袁真が｜寿春《じゅしゅん》に拠って叛き燕に降る（通鑑）ので、369〜371年の山桑は袁真の側だった可能性もある","推定。隣の譙に合わせる（前秦が彭城を取り、384年に晋の劉牢之が『秦の譙城』を抜くので、その間は前秦）。前秦が譙・山桑を取った年の記事は見つからない":"推定。隣の譙に合わせる（｜前秦《ぜんしん》が｜彭城《ほうじょう》を取り、384年に晋の｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が『秦の譙城』を抜くので、その間は｜前秦《ぜんしん》）。｜前秦《ぜんしん》が譙・山桑を取った年の記事は見つからない","推定。晋の劉牢之が秦の譙城を抜く（通鑑年、隣の譙と同じ年）。386年に翟遼が譙を寇し朱序が撃退している（通鑑）":"推定。晋の｜劉《りゅう》｜牢之《ろうし》が秦の譙城を抜く（通鑑年、隣の譙と同じ年）。386年に翟遼が譙を寇し朱｜序《じょ》が撃退している（通鑑）","推定。後秦が洛陽を抜き、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（通鑑年、隣の譙と同じ扱い）。山桑そのものの記事は無く、晋の側に残った可能性もある":"推定。｜後秦《こうしん》が｜洛陽《らくよう》を抜き、淮・漢以北の諸城の多くが秦に降る（通鑑年、隣の譙と同じ扱い）。山桑そのものの記事は無く、晋の側に残った可能性もある","推定。王鎮悪・檀道済が秦境に入り、漆丘・項城などの諸屯守が降る（通鑑年、隣の譙と同じ年）":"推定。王｜鎮悪《ちんあく》・｜檀道済《たんどうさい》が秦境に入り、漆丘・項城などの諸屯守が降る（通鑑年、隣の譙と同じ年）","晋の東海郡朐県（晋書地理志）":"晋の東海郡朐県（｜晋書《しんじょ》地理志）","後趙の石瞻が下邳・彭城を寇して東莞・東海を取り、晋の東海太守蕭誕が郡ごと石勒に降る（朐は東海郡の県。朐そのものの記事は無い）":"｜後趙《こうちょう》の石瞻が下邳・｜彭城《ほうじょう》を寇して東莞・東海を取り、晋の東海｜太守《たいしゅ》蕭誕が郡ごと｜石勒《せきろく》に降る（朐は東海郡の県。朐そのものの記事は無い）","推定。後趙の滅亡後、旧後趙（冉魏）の徐州・兗州の刺史らが城ごと晋に降り（通鑑年）、352年に荀羨が下邳に鎮する（通鑑）。隣の琅邪・彭城（351年）に合わせた。東海郡・朐の記事は無い":"推定。｜後趙《こうちょう》の滅亡後、旧｜後趙《こうちょう》（冉魏）の｜徐州《じょしゅう》・｜兗州《えんしゅう》の｜刺史《しし》らが城ごと晋に降り（通鑑年）、352年に荀羨が下邳に鎮する（通鑑）。隣の｜琅邪《ろうや》・｜彭城《ほうじょう》（351年）に合わせた。東海郡・朐の記事は無い","桓玄が晋の禅りを受けて楚を建てる（東晋→桓楚）":"｜桓玄《かんげん》が晋の禅りを受けて楚を建てる（｜東晋《とうしん》→桓楚）","劉裕らが建康を回復し晋が復する（桓楚→東晋）。401年に晋の下邳太守劉裕が近くの郁洲で孫恩を破っている（通鑑）":"｜劉裕《りゅうゆう》らが｜建康《けんこう》を回復し晋が復する（桓楚→｜東晋《とうしん》）。401年に晋の下邳｜太守《たいしゅ》｜劉裕《りゅうゆう》が近くの郁洲で孫恩を破っている（通鑑）","東晋から宋へ（沿海の内地）":"｜東晋《とうしん》から宋へ（沿海の内地）","城の初出。南燕の慕容興宗らが晋の宿豫を抜き、晋の陽平太守劉千載・済陰太守徐阮を捕らえて大いに掠めて去る（保持はしない）。同年に劉裕が南燕を伐ち410年に滅ぼす":"城の初出。｜南燕《なんえん》の｜慕容《ぼよう》｜興宗《こうそう》らが晋の｜宿豫《しゅくよ》を抜き、晋の陽平｜太守《たいしゅ》劉千載・｜済陰《さいいん》｜太守《たいしゅ》徐阮を捕らえて大いに掠めて去る（保持はしない）。同年に｜劉裕《りゅうゆう》が｜南燕《なんえん》を伐ち410年に滅ぼす","義熙五年二月":"｜義熙《ぎき》五年二月","東晋から宋へ（宿豫は東晋安帝の置いた県・宋の徐州域）":"｜東晋《とうしん》から宋へ（｜宿豫《しゅくよ》は｜東晋《とうしん》｜安帝《あんてい》の置いた県・宋の｜徐州《じょしゅう》域）","薄骨律鎮（霊州）":"薄骨律鎮（｜霊州《れいしゅう》）","霊武市":"｜霊武《れいぶ》市","北魏が薄骨律鎮を置く":"｜北魏《ほくぎ》が薄骨律鎮を置く","鎮が置かれた年から地図に出す。胡注は赫連夏の果城に置いたとするが、夏の城としての記事は無い":"鎮が置かれた年から地図に出す。胡注は｜赫連《かくれん》夏の果城に置いたとするが、夏の城としての記事は無い","三城（延州）":"三城（｜延州《えんしゅう》）","延安市":"｜延安《えんあん》市","三城の初出。北羌の薄句大を討った後趙の章武王石斌らが軍を収めて三城に還る（後趙の拠点）":"三城の初出。北羌の薄句大を討った｜後趙《こうちょう》の｜章武《しょうぶ》王石｜斌《ひん》らが軍を収めて三城に還る（｜後趙《こうちょう》の拠点）","推定。後趙の崩壊後、苻健が長安に入り（350年）天王を称して国号を大秦とする（351年）。三城の記事は無い":"推定。｜後趙《こうちょう》の崩壊後、｜苻健《ふけん》が｜長安《ちょうあん》に入り（350年）天王を称して国号を｜大秦《だいしん》とする（351年）。三城の記事は無い","推定。前秦の瓦解の後。391年には鮮卑の薛干部が三城のあたりに屯聚しており（魏書薛干伝『常屯聚于三城之間』・通鑑）、劉衛辰の子勃勃を匿っている。薛干部がいつから三城に拠ったかは不明":"推定。｜前秦《ぜんしん》の瓦解の後。391年には｜鮮卑《せんぴ》の薛干部が三城のあたりに屯聚しており（｜魏書《ぎしょ》薛干伝『常屯聚于三城之間』・通鑑）、｜劉衛辰《りゅうえいしん》の子｜勃勃《ぼつぼつ》を匿っている。薛干部がいつから三城に拠ったかは不明","北魏の拓跋珪が薛干部の太悉伏（悉佛）を三城に襲い、城を屠って民を徙して還る。太悉伏は後秦へ逃げる（北魏は保持しない）":"｜北魏《ほくぎ》の｜拓跋《たくばつ》｜珪《けい》が薛干部の太悉伏（悉佛）を三城に襲い、城を屠って民を徙して還る。太悉伏は｜後秦《こうしん》へ逃げる（｜北魏《ほくぎ》は保持しない）","太悉伏が長安から逃げ帰って嶺北に戻り、上郡以西の鮮卑・雑胡がみな応じる（三城に戻ったとはっきり書いた記事は無い）":"太悉伏が｜長安《ちょうあん》から逃げ帰って｜嶺北《れいほく》に戻り、上郡以西の｜鮮卑《せんぴ》・雑胡がみな応じる（三城に戻ったとはっきり書いた記事は無い）","この年には三城は後秦の城で、夏の赫連勃勃が薛干など三部を破り『秦の三城より北の諸戍』を攻める（三城が後秦に入った年は不明）":"この年には三城は｜後秦《こうしん》の城で、夏の｜赫連勃勃《かくれんぼつぼつ》が薛干など三部を破り『秦の三城より北の諸戍』を攻める（三城が｜後秦《こうしん》に入った年は不明）","後秦の将姚詳が三城を棄てて南の大蘇へ奔り、夏の鹿奕于に捕らえられる（晋書載記）。前年410年に夏は三城より南の定陽を抜いている（通鑑「勃勃又遣兄子左将军罗提攻拔定阳」・胡注は定陽を鄜州鄜城県界とする）":"｜後秦《こうしん》の将姚詳が三城を棄てて南の大蘇へ奔り、夏の鹿奕于に捕らえられる（｜晋書《しんじょ》｜載記《さいき》）。前年410年に夏は三城より南の定陽を抜いている（通鑑「｜勃勃《ぼつぼつ》又遣兄子左将军罗提攻拔定阳」・胡注は定陽を｜鄜州《ふしゅう》鄜城県界とする）","夏の関中支配の崩壊（夏主赫連定は430年にも鄜城まで出ている）":"夏の｜関中《かんちゅう》支配の崩壊（｜夏主《かしゅ》｜赫連定《かくれんてい》は430年にも鄜城まで出ている）","懐朔鎮":"｜懐朔鎮《かいさくちん》","北魏が漢の五原郡の地に鎮を置く（のちの懐朔鎮）":"｜北魏《ほくぎ》が漢の五原郡の地に鎮を置く（のちの｜懐朔鎮《かいさくちん》）","陸俟が懐荒鎮大将となる（懐荒鎮の初出。前の鎮将は郎孤）":"陸俟が懐荒鎮大将となる（懐荒鎮の初出。前の｜鎮将《ちんしょう》は郎孤）","鎮が初めて原文に見える年から地図に出す（前の鎮将がいたので、置かれたのはもう少し前）":"鎮が初めて原文に見える年から地図に出す（前の｜鎮将《ちんしょう》がいたので、置かれたのはもう少し前）","晋王保の旧将":"｜晋王《しんおう》保の旧将","張願":"｜張願《ちょうがん》","楊定":"｜楊《よう》定","鮮卑諸部":"｜鮮卑《せんぴ》諸部"}