{"南宋":"｜南宋《なんそう》","北漢":"｜北漢《ほくかん》","南唐":"｜南唐《なんとう》","後蜀":"｜後蜀《こうしょく》","南漢":"｜南漢《なんかん》","斉（劉豫）":"斉（｜劉豫《りゅうよ》）","西夏":"｜西夏《せいか》","武平軍":"｜武平《ぶへい》軍","荊南":"｜荊南《けいなん》","幽州（燕京）":"｜幽州《ゆうしゅう》（｜燕京《えんけい》）","幽州":"｜幽州《ゆうしゅう》","燕雲十六州の割譲。盧龍節度使趙徳鈞が契丹に降る":"燕雲十六州の割譲。｜盧龍《ろりゅう》｜節度使《せつどし》趙徳鈞が｜契丹《きったん》に降る","天福元年閏十一月":"｜天福《てんぷく》元年閏十一月","936年、石敬瑭が契丹に盧龍一道と雁門以北の諸州の割譲を約し、十一月に燕雲十六州の割譲を定めた。後唐の盧龍節度使趙徳鈞は団柏で契丹に降り、述律太后の問いに「幽州は太后のもの」と答えている。翌937年に契丹は幽州を南京とし、938年十一月に後晋が十六州の図籍を献じた":"936年、｜石敬瑭《せきけいとう》が｜契丹《きったん》に盧龍一道と｜雁門《がんもん》以北の諸州の割譲を約し、十一月に燕雲十六州の割譲を定めた。｜後唐《こうとう》の｜盧龍《ろりゅう》｜節度使《せつどし》趙徳鈞は団柏で｜契丹《きったん》に降り、｜述律《じゅつりつ》｜太后《たいこう》の問いに「｜幽州《ゆうしゅう》は太后のもの」と答えている。翌937年に｜契丹《きったん》は｜幽州《ゆうしゅう》を｜南京《なんきん》とし、938年十一月に｜後晋《こうしん》が十六州の｜図籍《とせき》を献じた","金が燕京を取る":"金が｜燕京《えんけい》を取る","宣和四年十二月":"｜宣和《せんな》四年十二月","北遼（耶律淳・蕭妃）の燕京に金の太祖が入城":"北遼（｜耶律《やりつ》｜淳《じゅん》・蕭妃）の｜燕京《えんけい》に金の｜太祖《たいそ》が入城","金が燕京を宋に引き渡す":"金が｜燕京《えんけい》を宋に引き渡す","宣和五年四月":"｜宣和《せんな》五年四月","金が燕京と六州を宋に引き渡す。宋は燕山府とする":"金が｜燕京《えんけい》と六州を宋に引き渡す。宋は燕山府とする","宣和七年十二月":"｜宣和《せんな》七年十二月","郭薬師が燕山府ごと金の宗望に降る":"郭薬師が燕山府ごと金の｜宗望《そうぼう》に降る","モンゴルが中都を取る":"モンゴルが｜中都《ちゅうと》を取る","貞祐三年五月":"｜貞祐《ていゆう》三年五月","金の中都が陥ち、石抹明安が入って守る（金は前年に汴京へ遷都）":"金の｜中都《ちゅうと》が陥ち、石抹明安が入って守る（金は前年に｜汴京《べんけい》へ遷都）","天福元年":"｜天福《てんぷく》元年","盧龍の巡属。936年の割譲の約束に含まれ、盧龍節度使趙徳鈞が契丹に降った。938年十一月に後晋が図籍を献じた":"｜盧龍《ろりゅう》の巡属。936年の割譲の約束に含まれ、｜盧龍《ろりゅう》｜節度使《せつどし》趙徳鈞が｜契丹《きったん》に降った。938年十一月に｜後晋《こうしん》が｜図籍《とせき》を献じた","宣和四年九月":"｜宣和《せんな》四年九月","金の涿州刺史李瘸驢がモンゴルに帰順し、この年に涿・易を任された易水公靖安民もモンゴル軍に囲まれて死ぬ。この後の金側の記事は無い":"金の涿州｜刺史《しし》李瘸驢がモンゴルに帰順し、この年に涿・易を任された易水公靖安民もモンゴル軍に囲まれて死ぬ。この後の金側の記事は無い","易県":"｜易県《えきけん》","顕徳六年五月":"｜顕徳《けんとく》六年五月","959年五月、後周の世宗の北征で義武節度使孫行友が易州を抜き、契丹の刺史李在欽を捕らえた":"959年五月、｜後周《こうしゅう》の｜世宗《せいそう》の北征で義武｜節度使《せつどし》孫行友が易州を抜き、｜契丹《きったん》の｜刺史《しし》李在欽を捕らえた","960年正月に後周から宋へ。965・966年に契丹が易州に侵したが撃退されている":"960年正月に｜後周《こうしゅう》から宋へ。965・966年に｜契丹《きったん》が易州に侵したが撃退されている","端拱二年正月":"｜端拱《たんきょう》二年正月","遼の聖宗が易州を攻め破り、刺史劉墀が遼に降る":"遼の｜聖宗《せいそう》が易州を攻め破り、｜刺史《しし》劉墀が遼に降る","雄州（瓦橋関）":"雄州（｜瓦橋関《がきょうかん》）","960〜979年は五代十国の地図と同じ城で描くので、この城は980年から地図に出す":"960〜979年は｜五代十国《ごだいじっこく》の地図と同じ城で描くので、この城は980年から地図に出す","天会五年九月":"｜天会《てんかい》五年九月","金の撻懶・闍母の河北経略で雄州が降る":"金の｜撻懶《たつらん》・闍母の｜河北《かほく》経略で雄州が降る","霸州（益津関）":"霸州（｜益津《えきしん》関）","河北北辺の州が金に降る":"｜河北《かほく》北辺の州が金に降る","雄州・保州が降った天会五年に金の手に入ったとみた（霸州の陥落の記事は見つからない）":"雄州・保州が降った｜天会《てんかい》五年に金の手に入ったとみた（霸州の陥落の記事は見つからない）","貞祐元年":"｜貞祐《ていゆう》元年","モンゴルの太祖の中軍が霸州に至り、霸州の官が迎え降る。降人を史天倪に率いさせて霸州に屯させた":"モンゴルの｜太祖《たいそ》の中軍が霸州に至り、霸州の官が迎え降る。降人を史天倪に率いさせて霸州に屯させた","1213年に霸州に屯した降人はまもなく漠北へ移され、1214年の講和でモンゴル軍は退いた。1217年にもモンゴルが金の霸州を攻めている":"1213年に霸州に屯した降人はまもなく｜漠北《ばくほく》へ移され、1214年の講和でモンゴル軍は退いた。1217年にもモンゴルが金の霸州を攻めている","莫州":"｜莫州《ばくしゅう》","莫州が後周に降る":"｜莫州《ばくしゅう》が｜後周《こうしゅう》に降る","959年五月、後周の世宗の北征で契丹の莫州刺史劉楚信が城ごと降った":"959年五月、｜後周《こうしゅう》の｜世宗《せいそう》の北征で｜契丹《きったん》の｜莫州《ばくしゅう》｜刺史《しし》劉楚信が城ごと降った","960年正月に後周から宋へ":"960年正月に｜後周《こうしゅう》から宋へ","北宋から南宋へ（高宗の即位）":"｜北宋《ほくそう》から｜南宋《なんそう》へ（｜高《こう》｜宗《そう》の即位）","莫州が金に降る":"｜莫州《ばくしゅう》が金に降る","天会六年":"｜天会《てんかい》六年","河北で最後まで守った州のひとつ。金の王伯龍が攻めて降す":"｜河北《かほく》で最後まで守った州のひとつ。金の王伯龍が攻めて降す","張柔の進撃で河北中部の城が降る":"張柔の進撃で｜河北《かほく》中部の城が降る","瀛州（河間府）":"瀛州（｜河間《かかん》府）","河間市":"｜河間《かかん》市","瀛州が後周に降る":"瀛州が｜後周《こうしゅう》に降る","959年五月、後周の世宗の北征で契丹の瀛州刺史高彦暉が城ごと降り、関南がみな平らいだ":"959年五月、｜後周《こうしゅう》の｜世宗《せいそう》の北征で｜契丹《きったん》の瀛州｜刺史《しし》高彦暉が城ごと降り、｜関南《かんなん》がみな平らいだ","金が河間府を破る":"金が｜河間《かかん》府を破る","建炎元年十一月":"｜建炎《けんえん》元年十一月","1126年の三鎮割譲の約を拒んで守っていたが金に破られる":"1126年の｜三鎮《さんちん》割譲の約を拒んで守っていたが金に破られる","河間公の州県が失われる":"｜河間《かかん》公の州県が失われる","金の河間公移剌衆家奴の管下の州県が守れなくなる":"金の｜河間《かかん》公移剌衆家奴の管下の州県が守れなくなる","金が河間府を取り戻す":"金が｜河間《かかん》府を取り戻す","元光元年八月":"｜元光《げんこう》元年八月","河間公移剌衆家奴と高陽公張甫が河間府を取り戻す":"｜河間《かかん》公移剌衆家奴と｜高陽《こうよう》公張甫が｜河間《かかん》府を取り戻す","河間府が再びモンゴルの手に":"｜河間《かかん》府が再びモンゴルの手に","翌年には河間公と高陽公は信安（鎮安府）を守るだけになる":"翌年には｜河間《かかん》公と｜高陽《こうよう》公は信安（鎮安府）を守るだけになる","保州（保定）":"保州（｜保定《ほてい》）","保定市":"｜保定《ほてい》市","金の撻懶の河北経略で保州が降る":"金の｜撻懶《たつらん》の｜河北《かほく》経略で保州が降る","定州（中山府）":"定州（｜中山《ちゅうざん》府）","後漢から後周へ":"｜後漢《ごかん》から｜後周《こうしゅう》へ","後周から宋へ":"｜後周《こうしゅう》から宋へ","金が中山府を破る":"金が｜中山《ちゅうざん》府を破る","建炎二年三月":"｜建炎《けんえん》二年三月","靖康の末から三年囲まれて破られる":"｜靖康《せいこう》の末から三年囲まれて破られる","中山府がモンゴルに降る":"｜中山《ちゅうざん》府がモンゴルに降る","張柔（モンゴル）が武仙を破り、祁陽・曲陽・中山などの城を降す":"張柔（モンゴル）が武仙を破り、祁陽・曲陽・｜中山《ちゅうざん》などの城を降す","鎮州（真定府）":"｜鎮州《ちんしゅう》（真定府）","鎮州":"｜鎮州《ちんしゅう》","靖康元年十月":"｜靖康《せいこう》元年十月","金の宗望が真定府を破り、知府李邈が死ぬ":"金の｜宗望《そうぼう》が真定府を破り、知府李邈が死ぬ","興定四年秋":"｜興定《こうてい》四年秋","金の恒山公武仙が木華黎に降り、史天倪の副として真定を治める":"金の｜恒山《こうざん》公武仙が木華黎に降り、史天倪の副として真定を治める","正大二年十一月":"｜正大《せいだい》二年十一月","宝慶二年二月":"｜宝慶《ほうけい》二年二月","史天沢が董俊の兵を借りて真定を取り戻し、武仙は西山に逃れる":"史天沢が董俊の兵を借りて真定を取り戻し、武仙は｜西山《せいざん》に逃れる","滄州":"｜滄州《そうしゅう》","金が滄州を破る":"金が｜滄州《そうしゅう》を破る","建炎三年":"｜建炎《けんえん》三年","知州劉錫が城を棄てて逃げ、金が滄州を破る":"知州劉錫が城を棄てて逃げ、金が｜滄州《そうしゅう》を破る","斉（劉豫）の領域となる":"斉（｜劉豫《りゅうよ》）の領域となる","建炎四年九月":"｜建炎《けんえん》四年九月","金が劉豫を斉の皇帝に立て、旧河（北流の黄河の故道）を境とする。劉豫は前年から大名・開徳・滄などの州を節度していた":"金が｜劉豫《りゅうよ》を斉の皇帝に立て、旧河（北流の｜黄河《こうが》の故道）を境とする。｜劉豫《りゅうよ》は前年から大名・開徳・滄などの州を節度していた","金が劉豫を廃し、斉の領域が金に戻る":"金が｜劉豫《りゅうよ》を廃し、斉の領域が金に戻る","王福が滄州をもって張林（宋）に降る":"王福が｜滄州《そうしゅう》をもって張林（宋）に降る","嘉定十三年七月":"｜嘉定《かてい》十三年七月","金の滄州経略使王福が、益都の張林（宋の京東安撫）に攻められて城をもって降る":"金の｜滄州《そうしゅう》経略使王福が、益都の張林（宋の京東安撫）に攻められて城をもって降る","張林が滄州ごとモンゴルに降る":"張林が｜滄州《そうしゅう》ごとモンゴルに降る","嘉定十四年十一月":"｜嘉定《かてい》十四年十一月","張林がモンゴルに降り、木華黎は張林を益都・滄・景・浜・棣等州の都元帥とする":"張林がモンゴルに降り、木華黎は張林を益都・滄・景・浜・棣等州の｜都元帥《とげんすい》とする","冀州":"｜冀州《きしゅう》","冀州区":"｜冀州《きしゅう》区","金が冀州を破る":"金が｜冀州《きしゅう》を破る","建炎二年九月":"｜建炎《けんえん》二年九月","金が冀州を破り、権知州が自ら縊れる":"金が｜冀州《きしゅう》を破り、権知州が自ら縊れる","モンゴルが冀州を抜く":"モンゴルが｜冀州《きしゅう》を抜く","モンゴル側の王義が冀州を抜き、金の節度使柴茂を捕らえる":"モンゴル側の王義が｜冀州《きしゅう》を抜き、金の｜節度使《せつどし》柴茂を捕らえる","邢州（信徳府）":"｜邢州《けいしゅう》（信徳府）","邢州":"｜邢州《けいしゅう》","金の宗望が南下の途中で信徳府を破り、兵を留めて後ろを守らせる":"金の｜宗望《そうぼう》が南下の途中で信徳府を破り、兵を留めて後ろを守らせる","靖康元年十二月":"｜靖康《せいこう》元年十二月","知信徳府梁揚祖が兵三千を率いて康王の大元帥府に加わる":"知信徳府梁揚祖が兵三千を率いて｜康王《こうおう》の大元帥府に加わる","天会六年六月":"｜天会《てんかい》六年六月","金の撻懶が兵を遣って磁州・信徳府を下す":"金の｜撻懶《たつらん》が兵を遣って磁州・信徳府を下す","邢州がモンゴルに降る":"｜邢州《けいしゅう》がモンゴルに降る","興定四年冬":"｜興定《こうてい》四年冬","木華黎が邢州を取り都元帥府を立てる。金の邢州節度使武貴が降る":"木華黎が｜邢州《けいしゅう》を取り｜都元帥《とげんすい》府を立てる。金の｜邢州《けいしゅう》｜節度使《せつどし》武貴が降る","魏州（大名府）":"｜魏州《ぎしゅう》（｜大名府《たいめいふ》）","魏州":"｜魏州《ぎしゅう》","金が大名府を破る":"金が｜大名府《たいめいふ》を破る","建炎二年十二月":"｜建炎《けんえん》二年十二月","金の宗翰が北京大名府を破る":"金の｜宗翰《そうかん》が北京｜大名府《たいめいふ》を破る","斉（劉豫）が大名府で建国":"斉（｜劉豫《りゅうよ》）が｜大名府《たいめいふ》で建国","劉豫が北京（大名府）で即位し、国号を大斉とする":"｜劉豫《りゅうよ》が北京（｜大名府《たいめいふ》）で即位し、国号を｜大斉《だいせい》とする","モンゴルが大名府を取る":"モンゴルが｜大名府《たいめいふ》を取る","興定元年冬":"｜興定《こうてい》元年冬","木華黎が大名府を攻め取る":"木華黎が｜大名府《たいめいふ》を攻め取る","蘇椿が大名府をもって宋に帰す":"蘇椿が｜大名府《たいめいふ》をもって宋に帰す","嘉定十七年六月":"｜嘉定《かてい》十七年六月","大名府の蘇椿らが城をもって宋に帰す":"｜大名府《たいめいふ》の蘇椿らが城をもって宋に帰す","大名府がモンゴル（厳実）の手に戻る":"｜大名府《たいめいふ》がモンゴル（厳実）の手に戻る","正大二年":"｜正大《せいだい》二年","蘇椿は大名から金へ奔り、宋の彭義斌が敗死すると京東・河北の州県は再び厳実（モンゴル）の手に帰す":"蘇椿は大名から金へ奔り、宋の彭義斌が敗死すると京東・｜河北《かほく》の州県は再び厳実（モンゴル）の手に帰す","相州（彰徳府）":"｜相州《そうしゅう》（｜彰徳府《しょうとくふ》）","相州":"｜相州《そうしゅう》","相州が金に降る":"｜相州《そうしゅう》が金に降る","建炎二年十一月":"｜建炎《けんえん》二年十一月","宝慶三年":"｜宝慶《ほうけい》三年","澶州（開徳府）":"｜澶州《せんしゅう》（開徳府）","澶州":"｜澶州《せんしゅう》","濮陽市":"｜濮陽《ぼくよう》市","金が澶淵を攻め、知開徳府王棣が乱兵に踏み殺されて城が破れる":"金が｜澶淵《せんえん》を攻め、知開徳府王棣が乱兵に踏み殺されて城が破れる","劉豫の斉の領域（旧河以南）":"｜劉豫《りゅうよ》の斉の領域（旧河以南）","興定元年":"｜興定《こうてい》元年","モンゴル軍が中山府・新楽県を通り、続いて磁州を下す":"モンゴル軍が｜中山《ちゅうざん》府・新楽県を通り、続いて磁州を下す","金の右副元帥宗輔が浜州から燕に還る。前の知浜州向大猷は金に降って知青州となる":"金の｜右副元帥《ゆうふくげんすい》｜宗輔《そうほ》が浜州から燕に還る。前の知浜州向大猷は金に降って知｜青州《せいしゅう》となる","嘉定十二年":"｜嘉定《かてい》十二年","益都の張林が李全を通じて青・莒…浜・棣・寧海・済南の十二郡を挙げて宋に帰す":"益都の張林が李全を通じて青・莒…浜・棣・寧海・｜済南《さいなん》の十二郡を挙げて宋に帰す","張林がモンゴルに降り、益都・滄・景・浜・棣等州の都元帥となる":"張林がモンゴルに降り、益都・滄・景・浜・棣等州の｜都元帥《とげんすい》となる","燕京とともに金の手に":"｜燕京《えんけい》とともに金の手に","金が燕京を取り、燕京の諸州県を撫定させる":"金が｜燕京《えんけい》を取り、｜燕京《えんけい》の諸州県を撫定させる","金が燕京と涿・易・檀・順・景・薊の六州を宋に引き渡す":"金が｜燕京《えんけい》と涿・易・檀・順・景・薊の六州を宋に引き渡す","金の宗望の南下で檀州が破られる":"金の｜宗望《そうぼう》の南下で檀州が破られる","貞祐二年":"｜貞祐《ていゆう》二年","金が燕京と六州を宋に引き渡す。この年、奚の蕭幹が薊州を陥れたが、郭薬師に破られて逃げ、部下に殺された":"金が｜燕京《えんけい》と六州を宋に引き渡す。この年、奚の蕭幹が薊州を陥れたが、郭薬師に破られて逃げ、部下に殺された","金の宗望の南下で薊州が破られる":"金の｜宗望《そうぼう》の南下で薊州が破られる","盧龍県":"｜盧龍《ろりゅう》県","契丹が平州を落とす":"｜契丹《きったん》が平州を落とす","天賛二年正月":"｜天賛《てんさん》二年正月","923年正月、契丹の大元帥堯骨（のちの太宗）が平州を落とし、刺史趙思温を捕らえた。二月に平州を盧龍軍とし節度使を置いた。通鑑は924年に契丹が盧文進らに営・平などの州を拠らせたと書く":"923年正月、｜契丹《きったん》の大元帥｜堯骨《ぎょうこつ》（のちの｜太宗《たいそう》）が平州を落とし、｜刺史《しし》｜趙《ちょう》思温を捕らえた。二月に平州を｜盧龍《ろりゅう》軍とし｜節度使《せつどし》を置いた。通鑑は924年に｜契丹《きったん》が盧文進らに営・平などの州を拠らせたと書く","張覚の叛乱の後、張敦固が平州に拠る":"張覚の｜叛乱《はんらん》の後、張敦固が平州に拠る","宣和五年十一月":"｜宣和《せんな》五年十一月","正月に遼の平州が金に降り（金は南京とし張覚を留守とする）、張覚は五月に金に叛いて宋に付く。十一月に金の宗望が張覚を破ると、城中は張敦固を都統に立てて金の使者を殺し、城に拠って拒む":"正月に遼の平州が金に降り（金は｜南京《なんきん》とし張覚を留守とする）、張覚は五月に金に叛いて宋に付く。十一月に金の｜宗望《そうぼう》が張覚を破ると、城中は張敦固を｜都統《ととう》に立てて金の使者を殺し、城に拠って拒む","宣和六年五月":"｜宣和《せんな》六年五月","金の闍母が南京（平州）を攻め落とし、張敦固を殺す":"金の闍母が｜南京《なんきん》（平州）を攻め落とし、張敦固を殺す","貞祐三年十二月":"｜貞祐《ていゆう》三年十二月","八月に史天倪（モンゴル）が平州を取り金の経略使が降るが、十二月にモンゴルに叛いた錦州の張致が平・灤などの州を下す":"八月に史天倪（モンゴル）が平州を取り金の経略使が降るが、十二月にモンゴルに叛いた｜錦州《きんしゅう》の張致が平・灤などの州を下す","貞祐四年":"｜貞祐《ていゆう》四年","木華黎が張致を破って錦州を囲み、張致は縛られて降り殺される":"木華黎が張致を破って｜錦州《きんしゅう》を囲み、張致は縛られて降り殺される","営州（柳城）":"｜営州《えいしゅう》（柳城）","営州":"｜営州《えいしゅう》","営州が金の手に":"｜営州《えいしゅう》が金の手に","宣和五年":"｜宣和《せんな》五年","平州とともに金に降る。張覚が叛くと営州で金軍を迎え撃ったが、のち張覚の母と妻は営州で金に捕らえられた":"平州とともに金に降る。張覚が叛くと｜営州《えいしゅう》で金軍を迎え撃ったが、のち張覚の母と妻は｜営州《えいしゅう》で金に捕らえられた","モンゴルが平州を取った後、十二月に錦州の張致が平・灤などの州を下す（営州の旧地は平州の属県）":"モンゴルが平州を取った後、十二月に｜錦州《きんしゅう》の張致が平・灤などの州を下す（｜営州《えいしゅう》の旧地は平州の属県）","太原（并州）":"｜太原《たいげん》（｜并州《へいしゅう》）","太原":"｜太原《たいげん》","太原市":"｜太原《たいげん》市","劉崇が晋陽で即位":"｜劉崇《りゅうすう》が｜晋陽《しんよう》で即位","正月に劉崇が晋陽で即位し北漢を立てる":"正月に｜劉崇《りゅうすう》が｜晋陽《しんよう》で即位し｜北漢《ほくかん》を立てる","北漢の降伏":"｜北漢《ほくかん》の降伏","太平興国四年五月":"｜太平興国《たいへいこうこく》四年五月","五月に劉継元が宋の太宗に降り北漢が滅ぶ":"五月に｜劉継元《りゅうけいげん》が宋の｜太宗《たいそう》に降り｜北漢《ほくかん》が滅ぶ","靖康元年九月":"｜靖康《せいこう》元年九月","興定二年九月":"｜興定《こうてい》二年九月","ムカリが河東に入り太原府を破る":"ムカリが｜河東《かとう》に入り太原府を破る","至元八年十一月":"｜至元《しげん》八年十一月","代州":"｜代州《だいしゅう》","北漢の十二州の一つ":"｜北漢《ほくかん》の十二州の一つ","北漢の降伏で宋へ":"｜北漢《ほくかん》の降伏で宋へ","金が代州を破る":"金が｜代州《だいしゅう》を破る","金の宗翰の南下。城内の漢児が守将李嗣本を捕えて降った":"金の｜宗翰《そうかん》の南下。城内の漢児が守将李嗣本を捕えて降った","モンゴルが代州を取る":"モンゴルが｜代州《だいしゅう》を取る","興定二年八月":"｜興定《こうてい》二年八月","ムカリが太和嶺から河東に入る":"ムカリが｜太和《たいわ》嶺から｜河東《かとう》に入る","太祖十三年":"｜太祖《たいそ》十三年","ムカリの河東攻め":"ムカリの｜河東《かとう》攻め","開宝二年五月":"｜開宝《かいほう》二年五月","宋の太祖の太原攻めのとき、偏師に囲まれた嵐州の趙文度が降る":"宋の｜太祖《たいそ》の｜太原《たいげん》攻めのとき、偏師に囲まれた嵐州の趙文度が降る","北漢が嵐州を取り返している（取り返した年は不明）":"｜北漢《ほくかん》が嵐州を取り返している（取り返した年は不明）","開宝九年（確かめられた最も早い記事）":"｜開宝《かいほう》九年（確かめられた最も早い記事）","969年に趙文度が降ったのち、北漢が嵐州を取り返した。取り返した年は原文に無く、北漢の「嵐・憲・石三州巡検使」が捕らえられた976年を確かめられた最も早い年とした":"969年に趙文度が降ったのち、｜北漢《ほくかん》が嵐州を取り返した。取り返した年は原文に無く、｜北漢《ほくかん》の「嵐・憲・石｜三州《さんしゅう》巡検使」が捕らえられた976年を確かめられた最も早い年とした","太平興国四年四月":"｜太平興国《たいへいこうこく》四年四月","宋の知府州折御卿が岢嵐軍を破ったのち嵐州を下した":"宋の知｜府州《ふしゅう》折御卿が岢嵐軍を破ったのち嵐州を下した","天会五年":"｜天会《てんかい》五年","汴京攻略から引き揚げる途中の金の銀術可が抜いた":"｜汴京《べんけい》攻略から引き揚げる途中の金の銀術可が抜いた","金が河東北路から退く":"金が｜河東《かとう》北路から退く","元光二年":"｜元光《げんこう》二年","金の晋陽公郭文振が河東から孟州へ移され、金の河東北路の拠点が尽きた":"金の｜晋陽《しんよう》公郭文振が｜河東《かとう》から孟州へ移され、金の｜河東《かとう》北路の拠点が尽きた","麟州":"｜麟州《りんしゅう》","北漢の麟州刺史楊重訓が城を挙げて後周に降る":"｜北漢《ほくかん》の｜麟州《りんしゅう》｜刺史《しし》楊重訓が城を挙げて｜後周《こうしゅう》に降る","顕徳四年十月癸亥":"｜顕徳《けんとく》四年十月癸亥","楊重訓は952年に一度後周へ帰款したが、957年には北漢の刺史として降っている":"楊重訓は952年に一度｜後周《こうしゅう》へ帰款したが、957年には｜北漢《ほくかん》の｜刺史《しし》として降っている","宋が後周に代わる（961年・962年に楊重勲＝重訓が北漢の攻撃を退け、967年に麟州に建寧軍が置かれる）":"宋が｜後周《こうしゅう》に代わる（961年・962年に楊重勲＝重訓が｜北漢《ほくかん》の攻撃を退け、967年に｜麟州《りんしゅう》に｜建寧《けんねい》軍が置かれる）","高宗が南京応天府で即位":"｜高《こう》｜宗《そう》が｜南京《なんきん》｜応天府《おうてんふ》で即位","建炎元年五月":"｜建炎《けんえん》元年五月","北宋から南宋へ":"｜北宋《ほくそう》から｜南宋《なんそう》へ","知府州折可求が麟・府・豊の3州をもって金に降る（続資治通鑑は1128年、金史太宗紀は1129年二月）":"知｜府州《ふしゅう》折可求が麟・府・豊の3州をもって金に降る（続｜資治通鑑《しじつがん》は1128年、｜金史《きんし》｜太宗《たいそう》｜紀《き》は1129年二月）","陝西を斉に与える":"｜陝西《せんせい》を斉に与える","金が陝西の地を斉に与える":"金が｜陝西《せんせい》の地を斉に与える","金が劉豫を廃す":"金が｜劉豫《りゅうよ》を廃す","紹興七年十一月":"｜紹興《しょうこう》七年十一月","西夏が府州を陥れる":"｜西夏《せいか》が｜府州《ふしゅう》を陥れる","紹興九年春":"｜紹興《しょうこう》九年春","府州の陥落に合わせた推定（下の「確かめられないこと」を参照）":"｜府州《ふしゅう》の陥落に合わせた推定（下の「確かめられないこと」を参照）","西夏の滅亡":"｜西夏《せいか》の滅亡","西夏の降伏":"｜西夏《せいか》の降伏","府州":"｜府州《ふしゅう》","府谷県":"｜府谷《ふこく》県","後周が後漢に代わる。府州の折徳扆は北漢に付かず、952年に北漢の攻撃を破り岢嵐軍を取った":"｜後周《こうしゅう》が｜後漢《ごかん》に代わる。｜府州《ふしゅう》の折徳扆は｜北漢《ほくかん》に付かず、952年に｜北漢《ほくかん》の攻撃を破り岢嵐軍を取った","宋が後周に代わる（折徳扆・御勲・御卿が府州を守る）":"宋が｜後周《こうしゅう》に代わる（折徳扆・御勲・御卿が｜府州《ふしゅう》を守る）","折可求の死に乗じて西夏が府州を陥れる":"折可求の死に乗じて｜西夏《せいか》が｜府州《ふしゅう》を陥れる","西夏が豊州を陥す":"｜西夏《せいか》が豊州を陥す","慶暦元年":"｜慶暦《けいれき》元年","元昊が豊州を陥す":"｜元昊《げんこう》が豊州を陥す","嘉祐六年十二月":"｜嘉祐《かゆう》六年十二月","雲州（大同府）":"雲州（｜大同《だいどう》府）","大同市":"｜大同《だいどう》市","呉巒が召し還され雲州が契丹に渡る":"呉巒が召し還され雲州が｜契丹《きったん》に渡る","天福二年":"｜天福《てんぷく》二年","契丹の太宗が北へ帰る途中で大同節度使沙彦珣を留めると、節度判官呉巒が州事を領して城を閉ざし、契丹は半年攻めても落とせなかった。後晋の高祖が契丹に頼んで囲みを解かせ、呉巒を召し還したので、雲州は契丹に渡った":"｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が北へ帰る途中で｜大同《だいどう》｜節度使《せつどし》沙彦珣を留めると、節度判官呉巒が州事を領して城を閉ざし、｜契丹《きったん》は半年攻めても落とせなかった。｜後晋《こうしん》の｜高祖《こうそ》が｜契丹《きったん》に頼んで囲みを解かせ、呉巒を召し還したので、雲州は｜契丹《きったん》に渡った","保大二年四月":"｜保大《ほだい》二年四月","太祖八年":"｜太祖《たいそ》八年","天顕十一年十二月":"｜天顕《てんけん》十一年十二月","936年の割譲の約束に含まれる。十二月に契丹の太宗が応州で後唐の振武節度使らを留めて帰さなかった":"936年の割譲の約束に含まれる。十二月に｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が｜応州《おうしゅう》で｜後唐《こうとう》の振武｜節度使《せつどし》らを留めて帰さなかった","応州":"｜応州《おうしゅう》","契丹の太宗が応州に入る":"｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が｜応州《おうしゅう》に入る","936年の割譲の約束に含まれる。十二月、契丹の太宗が応州に入り、後唐の大同・彰国・振武の3節度使が出迎えたのを留めて帰さなかった。937年に応州の馬軍都指揮使郭崇威は契丹に仕えるのを恥じて南へ帰った":"936年の割譲の約束に含まれる。十二月、｜契丹《きったん》の｜太宗《たいそう》が｜応州《おうしゅう》に入り、｜後唐《こうとう》の｜大同《だいどう》・彰国・振武の3｜節度使《せつどし》が出迎えたのを留めて帰さなかった。937年に｜応州《おうしゅう》の馬軍｜都指揮《としき》使郭崇威は｜契丹《きったん》に仕えるのを恥じて南へ帰った","応州が宋に降る":"｜応州《おうしゅう》が宋に降る","遼の将蘇京が応州をもって宋に降る":"遼の将蘇京が｜応州《おうしゅう》をもって宋に降る","金が応州を取り返す":"金が｜応州《おうしゅう》を取り返す","宣和六年":"｜宣和《せんな》六年","金が応州の守臣蘇京を追い出す":"金が｜応州《おうしゅう》の守臣蘇京を追い出す","モンゴルの応州の保持が見える":"モンゴルの｜応州《おうしゅう》の保持が見える","興定二年六月":"｜興定《こうてい》二年六月","金の枢密院が「大元が応州・飛狐に兵を集めている」と報じる。モンゴルの保持が確かめられる最初の記事":"金の枢密院が「大元が｜応州《おうしゅう》・飛狐に兵を集めている」と報じる。モンゴルの保持が確かめられる最初の記事","燕雲十六州の図籍の献上":"燕雲十六州の｜図籍《とせき》の献上","会同元年十一月":"｜会同《かいどう》元年十一月","936年の割譲の約束に含まれ、938年十一月に後晋が十六州の図籍を契丹に献じた":"936年の割譲の約束に含まれ、938年十一月に｜後晋《こうしん》が十六州の｜図籍《とせき》を｜契丹《きったん》に献じた","保大二年":"｜保大《ほだい》二年","モンゴルの南伐":"モンゴルの｜南伐《なんばつ》","太祖の南伐の先鋒が蔚州の属県飛狐に至り、城が降る":"｜太祖《たいそ》の｜南伐《なんばつ》の｜先鋒《せんぽう》が蔚州の属県飛狐に至り、城が降る","宣徳州（帰化州）":"｜宣徳《せんとく》州（帰化州）","宣徳州":"｜宣徳《せんとく》州","武州が契丹の手に入る":"武州が｜契丹《きったん》の手に入る","936年の割譲の約束に含まれる。937年に契丹が威塞軍（新州）の節度使を従わせており、その属郡の武州も契丹の手に入ったとみた。938年に遼は武州を帰化州と改めた":"936年の割譲の約束に含まれる。937年に｜契丹《きったん》が威塞軍（｜新州《しんしゅう》）の｜節度使《せつどし》を従わせており、その属郡の武州も｜契丹《きったん》の手に入ったとみた。938年に遼は武州を帰化州と改めた","天輔六年":"｜天輔《てんぽ》六年","モンゴルが宣徳府を取る":"モンゴルが｜宣徳《せんとく》府を取る","至寧元年七月":"｜至寧《しねい》元年七月","モンゴルが宣徳府を破る":"モンゴルが｜宣徳《せんとく》府を破る","天徳が金に降る":"｜天徳《てんとく》が金に降る","金の闍母・婁室が天徳・雲内などの州を招降":"金の闍母・｜婁室《ろうしつ》が｜天徳《てんとく》・雲内などの州を招降","貞祐年間":"｜貞祐《ていゆう》年間","貞祐年間には豊州がモンゴルの手にあった（完顔陳和尚伝。モンゴルに捕われた陳和尚が豊州の母を訪ねる）":"｜貞祐《ていゆう》年間には豊州がモンゴルの手にあった（｜完顔《ワンヤン》陳和尚伝。モンゴルに捕われた陳和尚が豊州の母を訪ねる）","潞州（隆徳府）":"｜潞州《ろしゅう》（隆徳府）","潞州":"｜潞州《ろしゅう》","後周が後漢に代わる。潞州は北漢に付かず後周の城として北漢と戦う":"｜後周《こうしゅう》が｜後漢《ごかん》に代わる。｜潞州《ろしゅう》は｜北漢《ほくかん》に付かず｜後周《こうしゅう》の城として｜北漢《ほくかん》と戦う","宋が後周に代わる。昭義節度使李筠が四月に背いたが、六月に子の守節が城ごと降った（年内に収まったので変えない）":"宋が｜後周《こうしゅう》に代わる。｜昭義《しょうぎ》｜節度使《せつどし》｜李《り》｜筠《いん》が四月に背いたが、六月に子の守節が城ごと降った（年内に収まったので変えない）","靖康元年":"｜靖康《せいこう》元年","モンゴルが潞州を取る":"モンゴルが｜潞州《ろしゅう》を取る","興定二年":"｜興定《こうてい》二年","モンゴルが潞州を取り、金の元帥右監軍が戦死":"モンゴルが｜潞州《ろしゅう》を取り、金の元帥右｜監軍《かんぐん》が戦死","金が潞州を立て直す":"金が｜潞州《ろしゅう》を立て直す","興定三年":"｜興定《こうてい》三年","金の張開が潞州招撫使となり、林州へ移した潞州の民を戻す。翌年張開は上党公（沢・潞・沁州）":"金の張開が｜潞州《ろしゅう》｜招撫《しょうぶ》使となり、林州へ移した｜潞州《ろしゅう》の民を戻す。翌年張開は｜上党《じょうとう》公（沢・潞・沁州）","潞州がモンゴルに降る":"｜潞州《ろしゅう》がモンゴルに降る","太祖十六年":"｜太祖《たいそ》十六年","金の潞州元帥裴守謙が城をもってモンゴル（史天倪）に降る":"金の｜潞州《ろしゅう》元帥裴守謙が城をもってモンゴル（史天倪）に降る","北漢の降伏で宋へ。劉継元の置いた節度使が汾州で降る":"｜北漢《ほくかん》の降伏で宋へ。｜劉継元《りゅうけいげん》の置いた｜節度使《せつどし》が汾州で降る","モンゴルが汾州を取り、金の節度使が戦死":"モンゴルが汾州を取り、金の｜節度使《せつどし》が戦死","晋州（平陽府）":"｜晋州《しんしゅう》（｜平陽《へいよう》府）","晋州":"｜晋州《しんしゅう》","後周が後漢に代わる。北漢が二度晋州を攻めたが王晏・王峻が守り抜いた":"｜後周《こうしゅう》が｜後漢《ごかん》に代わる。｜北漢《ほくかん》が二度｜晋州《しんしゅう》を攻めたが王晏・王｜峻《しゅん》が守り抜いた","宋が後周に代わる":"宋が｜後周《こうしゅう》に代わる","金が平陽府を破る":"金が｜平陽《へいよう》府を破る","モンゴルが平陽を取る":"モンゴルが｜平陽《へいよう》を取る","興定二年十月":"｜興定《こうてい》二年十月","行省参政李革が守る平陽が陥ちる":"行省参政李革が守る｜平陽《へいよう》が陥ちる","後周が後漢に代わる（北漢に付かない。十二月に王峻が絳州から晋州の救援に向かう）":"｜後周《こうしゅう》が｜後漢《ごかん》に代わる（｜北漢《ほくかん》に付かない。十二月に王｜峻《しゅん》が絳州から｜晋州《しんしゅう》の救援に向かう）","建炎二年":"｜建炎《けんえん》二年","興定三年秋":"｜興定《こうてい》三年秋","後周が後漢に代わる。北漢が隰州を攻めたが刺史許遷が撃退した":"｜後周《こうしゅう》が｜後漢《ごかん》に代わる。｜北漢《ほくかん》が隰州を攻めたが｜刺史《しし》許遷が撃退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元十三年正月":"｜至元《しげん》十三年正月","南唐の滅亡とともに宋へ。976年正月に昭武軍（撫州）節度留後を名乗る盧絳が州県を焼き掠めたが、盧絳は宣州から歙州へ動いており、撫州の城に拠った記事ではない":"｜南唐《なんとう》の滅亡とともに宋へ。976年正月に｜昭武《しょうぶ》軍（撫州）節度留後を名乗る盧絳が州県を焼き掠めたが、盧絳は宣州から歙州へ動いており、撫州の城に拠った記事ではない","元軍が撫州に迫り、施至道が城をもって降る":"元軍が撫州に迫り、施｜至道《しどう》が城をもって降る","贛・吉・袁・南安の四郡が元に帰附する":"贛・吉・袁・｜南安《なんあん》の四郡が元に帰附する","至元十三年三月乙酉":"｜至元《しげん》十三年三月｜乙酉《いつゆう》","虔州（贛州）":"｜虔州《けんしゅう》（｜贛州《かんしゅう》）","虔州":"｜虔州《けんしゅう》","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","贛州など四郡が元に帰附する":"｜贛州《かんしゅう》など四郡が元に帰附する","建州（建寧府）":"｜建州《けんしゅう》（｜建寧《けんねい》府）","建州":"｜建州《けんしゅう》","南唐が建州を落とし、王延政が降る（殷＝閩の滅亡）":"｜南唐《なんとう》が｜建州《けんしゅう》を落とし、｜王延政《おうえんせい》が降る（殷＝閩の滅亡）","開運二年八月":"｜開運《かいうん》二年八月","945年の初めに王延政は国号を閩に戻していた。南唐は建州に永安軍を置いた。新五代史の南唐世家はこの事を保大四年（946）に繋けるが、通鑑に従う":"945年の初めに｜王延政《おうえんせい》は国号を閩に戻していた。｜南唐《なんとう》は｜建州《けんしゅう》に｜永安《えいあん》軍を置いた。｜新五代史《しんごだいし》の南唐世家はこの事を｜保大《ほだい》四年（946）に繋けるが、通鑑に従う","南唐の李煜が降り、南唐の州はみな宋に帰す":"｜南唐《なんとう》の｜李煜《りいく》が降り、｜南唐《なんとう》の州はみな宋に帰す","范汝為が再び叛いて建州に入り、守臣王浚明が城を棄てる":"范汝為が再び叛いて｜建州《けんしゅう》に入り、守臣王｜浚《しゅん》明が城を棄てる","韓世忠が建州を抜き、范汝為が自焚して死ぬ":"韓世忠が｜建州《けんしゅう》を抜き、范汝為が｜自焚《じふん》して死ぬ","紹興二年正月辛丑":"｜紹興《しょうこう》二年正月辛丑","元の阿剌罕の兵が建寧府を破る":"元の阿剌罕の兵が｜建寧《けんねい》府を破る","至元十三年十一月":"｜至元《しげん》十三年十一月","福州":"｜福州《ふくしゅう》","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","南唐軍が潰走し、呉越の余安が福州に入り、李達（李仁達）が兵を呉越に授ける":"｜南唐《なんとう》軍が潰走し、呉越の余安が｜福州《ふくしゅう》に入り、李達（李仁達）が兵を呉越に授ける","天福十二年三月":"｜天福《てんぷく》十二年三月","呉越は鮑修譲を福州に駐屯させ、同じ年に南唐へ降ろうとした李孺贇（李仁達）を殺した。950年に南唐の査文徽が福州を襲ったが、呉越の呉程に敗れて捕らえられた":"呉越は鮑修譲を｜福州《ふくしゅう》に駐屯させ、同じ年に｜南唐《なんとう》へ降ろうとした李孺贇（李仁達）を殺した。950年に｜南唐《なんとう》の査文徽が｜福州《ふくしゅう》を襲ったが、呉越の呉程に敗れて捕らえられた","銭俶が両浙の十三州一軍を宋に献じる（納土）":"銭俶が両浙の十｜三州《さんしゅう》一軍を宋に献じる（納土）","太平興国三年五月":"｜太平興国《たいへいこうこく》三年五月","景炎帝が去った後、元軍に福安府の王剛中が降る":"｜景炎《けいえん》帝が去った後、元軍に福安府の王剛中が降る","至元十三年十一月〜十二月":"｜至元《しげん》十三年十一月〜十二月","同年五月に宋の端宗がここで即位し、福安府と改めた":"同年五月に宋の｜端宗《たんそう》がここで即位し、福安府と改めた","泉州":"｜泉州《せんしゅう》","泉州市":"｜泉州《せんしゅう》市","留従効が南唐の戍兵を泉州から送り帰し、南唐は制せず":"留従効が｜南唐《なんとう》の戍兵を｜泉州《せんしゅう》から送り帰し、｜南唐《なんとう》は制せず","天福十二年（南唐の福州の敗戦の後）":"｜天福《てんぷく》十二年（｜南唐《なんとう》の｜福州《ふくしゅう》の敗戦の後）","南唐の福州攻めが潰えた947年、留従効は泉州に兵を返して南唐の戍将を送り帰し、南唐はこれを制することができなかった。以後の泉州は留従効の自立した城で、949年の清源軍の設置はそれを追認した名目にすぎない。新五代史の閩世家も「景の守兵を逐い、泉・漳二州に拠る」と書く。949年の行はこの行に置き換える（持ち主が同じなので不要になる）":"｜南唐《なんとう》の福州攻めが潰えた947年、留従効は｜泉州《せんしゅう》に兵を返して｜南唐《なんとう》の戍将を送り帰し、｜南唐《なんとう》はこれを制することができなかった。以後の｜泉州《せんしゅう》は留従効の自立した城で、949年の清源軍の設置はそれを追認した名目にすぎない。｜新五代史《しんごだいし》の｜閩《びん》｜世家《せいか》も「景の守兵を逐い、泉・漳二州に拠る」と書く。949年の行はこの行に置き換える（持ち主が同じなので不要になる）","太平興国三年四月":"｜太平興国《たいへいこうこく》三年四月","蒲寿庚と知泉州田子真が城をもって元に降る":"｜蒲《ほ》｜寿庚《じゅこう》と知｜泉州《せんしゅう》田子真が城をもって元に降る","至元十三年十二月戊辰":"｜至元《しげん》十三年十二月｜戊辰《ぼしん》","留従効が南唐の守兵を逐い、泉・漳二州に拠る":"留従効が｜南唐《なんとう》の守兵を逐い、泉・漳二州に拠る","天福十二年":"｜天福《てんぷく》十二年","947年に南唐の福州攻めが潰えたあと、留従効は泉州の南唐の戍兵を送り帰し、新五代史は泉・漳の二州に拠ったと書く。泉州と同じく947年から清源軍（949年の節度使の任命は追認）":"947年に｜南唐《なんとう》の福州攻めが潰えたあと、留従効は｜泉州《せんしゅう》の｜南唐《なんとう》の戍兵を送り帰し、｜新五代史《しんごだいし》は泉・漳の二州に拠ったと書く。｜泉州《せんしゅう》と同じく947年から清源軍（949年の｜節度使《せつどし》の任命は追認）","至元十四年十一月":"｜至元《しげん》十四年十一月","汀州":"｜汀州《ていしゅう》","許文稹が汀州ごと南唐に降る":"許文稹が｜汀州《ていしゅう》ごと｜南唐《なんとう》に降る","開運二年九月":"｜開運《かいうん》二年九月","元軍が汀関を下し、汀州の守臣黄去疾が宋に背き、呉浚も汀州で降る":"元軍が汀関を下し、｜汀州《ていしゅう》の守臣黄去疾が宋に背き、呉浚も｜汀州《ていしゅう》で降る","至元十四年正月":"｜至元《しげん》十四年正月","1276年十月に文天祥が汀州に入っており、その年の歳末は宋":"1276年十月に文天祥が｜汀州《ていしゅう》に入っており、その年の歳末は宋","江陵府（荊州）":"｜江陵《こうりょう》府（｜荊州《けいしゅう》）","江陵府":"｜江陵《こうりょう》府","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","後梁が高季昌（のちの高季興）を荊南節度使とした":"｜後梁《こうりょう》が高季昌（のちの高季興）を｜荊南《けいなん》｜節度使《せつどし》とした","開平元年":"｜開平《かいへい》元年","依頼主の地図の方針に従い907年から荊南とする。この年の荊南は江陵の一城だけで、高季昌は後梁の任じた節度使として後梁に従っていた（後梁の太祖の死後は朝貢を絶ち、のち後唐・呉への称臣と離反を繰り返す）。907年に武貞軍の雷彦恭と楚の兵が江陵を攻めたが退けた":"依頼主の地図の方針に従い907年から｜荊南《けいなん》とする。この年の｜荊南《けいなん》は｜江陵《こうりょう》の一城だけで、高季昌は｜後梁《こうりょう》の任じた｜節度使《せつどし》として｜後梁《こうりょう》に従っていた（｜後梁《こうりょう》の｜太祖《たいそ》の死後は朝貢を絶ち、のち｜後唐《こうとう》・呉への｜称臣《しょうしん》と離反を繰り返す）。907年に武貞軍の雷彦恭と楚の兵が｜江陵《こうりょう》を攻めたが退けた","宋の李処耘・慕容延釗が江陵に入り、高継沖が三州を献じて降った":"宋の李処耘・｜慕容《ぼよう》延釗が｜江陵《こうりょう》に入り、高継沖が｜三州《さんしゅう》を献じて降った","乾徳元年二月":"｜乾徳《けんとく》元年二月","927年の後唐の劉訓の攻撃、928年の楚軍の進逼はいずれも撤退で終わり、江陵は963年まで荊南の本拠のまま":"927年の｜後唐《こうとう》の劉訓の攻撃、928年の｜楚《そ》軍の進逼はいずれも撤退で終わり、｜江陵《こうりょう》は963年まで｜荊南《けいなん》の本拠のまま","群盗劉超が荊南府を占拠。宋の鎮撫使解潜は城が残破して住めず峡州宜都に寓治":"群盗劉超が｜荊南《けいなん》府を占拠。宋の鎮撫使解潜は城が残破して住めず峡州宜都に寓治","建炎四年五月":"｜建炎《けんえん》四年五月","公安にいた劉超が招安に応じ光州の守に移る。荊南は鎮撫使解潜の管下に戻る":"公安にいた劉超が招安に応じ光州の守に移る。｜荊南《けいなん》は鎮撫使解潜の管下に戻る","京湖宣撫使朱禩孫・湖北制置副使高達が江陵をもって元に降る":"京湖宣撫使朱禩孫・｜湖北《こほく》制置｜副使《ふくし》高達が｜江陵《こうりょう》をもって元に降る","鄂州":"｜鄂州《がくしゅう》","武漢市武昌区":"武漢市｜武昌《ぶしょう》区","937年十月に李昪が即位し、呉の城は南唐へ移った":"937年十月に｜李昪《りべん》が即位し、呉の城は｜南唐《なんとう》へ移った","金陵が落ちて南唐の国主李煜が降った":"｜金陵《きんりょう》が落ちて｜南唐《なんとう》の国主｜李煜《りいく》が降った","956年に後周の命で湖南の王逵が鄂州を攻め、958年に南唐は江北を後周に割いたが、江南の鄂州は975年まで南唐のまま。974〜975年に宋の漢陽軍が鄂州の水軍を破っている。李煜の降伏のあと江南の諸城は相次いで帰順した":"956年に｜後周《こうしゅう》の命で｜湖南《こなん》の王逵が｜鄂州《がくしゅう》を攻め、958年に｜南唐《なんとう》は｜江北《こうほく》を｜後周《こうしゅう》に割いたが、｜江南《こうなん》の｜鄂州《がくしゅう》は975年まで｜南唐《なんとう》のまま。974〜975年に宋の｜漢陽《かんよう》軍が｜鄂州《がくしゅう》の水軍を破っている。｜李煜《りいく》の降伏のあと｜江南《こうなん》の諸城は相次いで帰順した","伯顔が漢江を下って渡江し、権守張晏然が鄂州をもって降る":"｜伯顔《ばやん》が漢江を下って渡江し、権守張晏然が｜鄂州《がくしゅう》をもって降る","咸淳十年十二月":"｜咸淳《かんじゅん》十年十二月","岳州":"｜岳州《がくしゅう》","劉言の将の王逵らが潭州を取り、蒲公益が岳州を攻めて南唐の刺史宋徳権が逃げた":"劉言の将の王逵らが｜潭州《たんしゅう》を取り、蒲公益が｜岳州《がくしゅう》を攻めて｜南唐《なんとう》の｜刺史《しし》宋徳権が逃げた","広順二年十月":"｜広順《こうじゅん》二年十月","954年に王逵は潘叔嗣を岳州団練使とした。956年に潘叔嗣が王逵を殺したが、武平軍（周行逢）の州のまま":"954年に王逵は潘叔嗣を｜岳州《がくしゅう》団練使とした。956年に潘叔嗣が王逵を殺したが、｜武平《ぶへい》軍（周行逢）の州のまま","宋の慕容延釗の別軍が三江口で湖南の軍を破り、岳州を取った":"宋の｜慕容《ぼよう》延釗の別軍が三江口で｜湖南《こなん》の軍を破り、｜岳州《がくしゅう》を取った","阿里海牙が岳州を攻め、総制孟之縉（孟子縉）が城をもって降る":"阿里海牙が｜岳州《がくしゅう》を攻め、総制孟之縉（孟子縉）が城をもって降る","潭州":"｜潭州《たんしゅう》","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","劉言・王逵が辺鎬を潭州から追い、南唐の守将が湖南の諸州から逃げる":"劉言・王逵が辺｜鎬《こう》を｜潭州《たんしゅう》から追い、｜南唐《なんとう》の守将が｜湖南《こなん》の諸州から逃げる","王逵が潭州に入る。劉言は治所を朗州へ移し、潭州は王逵（武安節度使）が持った。劉言は郴州・連州を除く馬氏の嶺北の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ。張文表の乱（962年冬十月以後、衡州から潭州に入って留後を称し、963年正月ごろ楊師璠が潭州を取り返して文表を捕らえた）は年をまたいだが数か月で終わった武平軍内の叛乱なので、武平軍の城のままとする":"王逵が｜潭州《たんしゅう》に入る。劉言は治所を朗州へ移し、｜潭州《たんしゅう》は王逵（｜武安《ぶあん》｜節度使《せつどし》）が持った。劉言は｜郴州《ちんしゅう》・連州を除く｜馬氏《ばし》の｜嶺北《れいほく》の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ。張文表の乱（962年冬十月以後、｜衡州《こうしゅう》から｜潭州《たんしゅう》に入って留後を称し、963年正月ごろ楊師璠が｜潭州《たんしゅう》を取り返して文表を捕らえた）は年をまたいだが数か月で終わった｜武平《ぶへい》軍内の｜叛乱《はんらん》なので、｜武平《ぶへい》軍の城のままとする","張文表が潭州を奪う":"張文表が｜潭州《たんしゅう》を奪う","周行逢の死後、衡州刺史張文表が叛いて潭州に入り、留後廖簡を殺して権留後を称した。宋軍に敗れるのは963年。宋・遼・金・西夏の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け":"周行逢の死後、｜衡州《こうしゅう》｜刺史《しし》張文表が叛いて｜潭州《たんしゅう》に入り、留後廖簡を殺して権留後を称した。｜宋《そう》軍に敗れるのは963年。宋・遼・金・｜西夏《せいか》の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け","宋軍が朗州に入り、湖南が平定される":"｜宋《そう》軍が朗州に入り、｜湖南《こなん》が平定される","乾徳元年三月":"｜乾徳《けんとく》元年三月","孔彦舟が潭州に拠り、宋が追認する":"孔彦舟が｜潭州《たんしゅう》に拠り、宋が追認する","孔彦舟が潭州に入ったが、宋は彼を鎮撫使に任じ、長沙に拠ったと聞いたうえで湖南路兵馬副総管として潭州に屯させた。宋の鎮撫使の城は宋に数える":"孔彦舟が｜潭州《たんしゅう》に入ったが、宋は彼を鎮撫使に任じ、｜長沙《ちょうさ》に拠ったと聞いたうえで｜湖南《こなん》路兵馬副｜総管《そうかん》として｜潭州《たんしゅう》に屯させた。宋の鎮撫使の城は宋に数える","孔彦舟が潭州を焼いて去り、馬友が潭州に入る。五月に戻った孔彦舟を破り、以後潭州に拠る":"孔彦舟が｜潭州《たんしゅう》を焼いて去り、馬友が｜潭州《たんしゅう》に入る。五月に戻った孔彦舟を破り、以後｜潭州《たんしゅう》に拠る","李宏が潭州に入って馬友を殺し、韓世忠の統制解元が潭州子城に入る":"李宏が｜潭州《たんしゅう》に入って馬友を殺し、韓世忠の統制解元が｜潭州《たんしゅう》｜子城《しじょう》に入る","紹興二年六月":"｜紹興《しょうこう》二年六月","徳祐二年正月":"｜徳祐《とくゆう》二年正月","衡州":"｜衡州《こうしゅう》","劉言は郴州・連州を除く馬氏の嶺北の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ。張文表の乱（962年冬十月以後、衡州から潭州に入って留後を称し、963年正月ごろ楊師璠が潭州を取り返して文表を捕らえた）は年をまたいだが数か月で終わった武平軍内の叛乱なので、武平軍の城のままとする":"劉言は｜郴州《ちんしゅう》・連州を除く｜馬氏《ばし》の｜嶺北《れいほく》の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ。張文表の乱（962年冬十月以後、｜衡州《こうしゅう》から｜潭州《たんしゅう》に入って留後を称し、963年正月ごろ楊師璠が｜潭州《たんしゅう》を取り返して文表を捕らえた）は年をまたいだが数か月で終わった｜武平《ぶへい》軍内の｜叛乱《はんらん》なので、｜武平《ぶへい》軍の城のままとする","衡州刺史張文表が叛く":"｜衡州《こうしゅう》｜刺史《しし》張文表が叛く","衡州刺史張文表が周保権に叛いた（潭州と同じ）。宋・遼・金・西夏の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け":"｜衡州《こうしゅう》｜刺史《しし》張文表が周保権に叛いた（｜潭州《たんしゅう》と同じ）。宋・遼・金・｜西夏《せいか》の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け","潭州陥落後に湖南の州郡が相次いで元に降る":"｜潭州《たんしゅう》陥落後に｜湖南《こなん》の州郡が相次いで元に降る","劉言は郴州・連州を除く馬氏の嶺北の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ":"劉言は｜郴州《ちんしゅう》・連州を除く｜馬氏《ばし》の｜嶺北《れいほく》の旧領をすべて取り戻した。のち王逵（953〜956）、周行逢（956〜962）、周保権が継ぐ","郴州":"｜郴州《ちんしゅう》","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","南漢の潘崇徹が義章で南唐の援軍を破り郴州を取る":"｜南漢《なんかん》の潘崇徹が義章で｜南唐《なんとう》の援軍を破り｜郴州《ちんしゅう》を取る","広順元年十二月":"｜広順《こうじゅん》元年十二月","潘美らが郴州を攻め取り、刺史陸光図を殺す":"潘美らが｜郴州《ちんしゅう》を攻め取り、｜刺史《しし》陸｜光図《こうと》を殺す","乾徳二年九月":"｜乾徳《けんとく》二年九月","邵州（宝慶府）":"邵州（｜宝慶《ほうけい》府）","潭州陥落後に湖南の州郡が降る。宝慶通判曾如驥は屈せず死ぬ":"｜潭州《たんしゅう》陥落後に｜湖南《こなん》の州郡が降る。｜宝慶《ほうけい》通判曾如驥は屈せず死ぬ","辰州刺史劉言が朗州に迎えられ、武平留後となる":"辰州｜刺史《しし》劉言が朗州に迎えられ、｜武平《ぶへい》留後となる","広順元年":"｜広順《こうじゅん》元年","朗州の劉言の一党は南唐に降らず、南唐の旌節も得られなかった（翌年に南唐が朗州を図る）。辰州は劉言の側に残ったとみる":"朗州の劉言の一党は｜南唐《なんとう》に降らず、｜南唐《なんとう》の旌節も得られなかった（翌年に｜南唐《なんとう》が朗州を図る）。辰州は劉言の側に残ったとみる","江陵が元に降ったのち、荊湖北路の諸州が相次いで降る":"｜江陵《こうりょう》が元に降ったのち、荊｜湖北《こほく》路の諸州が相次いで降る","951年に朗州の軍が楚から離れて劉言を武平留後に立てた。澧州は唐の武貞（武平）軍の巡属で朗州の北隣にあり、南唐が澧州を取った記事もないので朗州とともに武平軍とする。963年に武平軍の張従富が澧州の南で宋軍と戦って潰えた":"951年に朗州の軍が楚から離れて劉言を｜武平《ぶへい》留後に立てた。澧州は唐の武貞（｜武平《ぶへい》）軍の巡属で朗州の北隣にあり、｜南唐《なんとう》が澧州を取った記事もないので朗州とともに｜武平《ぶへい》軍とする。963年に｜武平《ぶへい》軍の張従富が澧州の南で｜宋《そう》軍と戦って潰えた","湖南の張従富らの軍が澧州の南で宋軍に潰え、宋が朗州に入って湖南の旧地を収めた":"｜湖南《こなん》の張従富らの軍が澧州の南で｜宋《そう》軍に潰え、宋が朗州に入って｜湖南《こなん》の旧地を収めた","建炎四年二月":"｜建炎《けんえん》四年二月","紹興五年":"｜紹興《しょうこう》五年","朗州の王逵・周行逢らが馬希萼に背いて朗州へ帰り、辰州刺史の劉言を迎えて権武平留後とした":"朗州の王逵・周行逢らが馬｜希萼《きがく》に背いて朗州へ帰り、辰州｜刺史《しし》の劉言を迎えて権｜武平《ぶへい》留後とした","949〜950年に朗州（武平軍）の馬希萼が兄弟の楚王馬希広と争って南唐に称藩し、950年末に潭州を取って楚王となったが、これは楚の内紛なので950年までは楚とする。951年に朗州の軍が離反し、十月に楚が南唐に降ると、劉言は南唐に節を求めつつ後周にも称藩して自立した（依頼主の表は武平軍を952年からとするが、朗州は951年中に自立している）。952年に潭州を取り、953年に王逵が劉言を捕らえ、956年に潘叔嗣が王逵を殺し、以後は周行逢・周保権。朗州は954年以後武平軍の使府":"949〜950年に朗州（｜武平《ぶへい》軍）の馬｜希萼《きがく》が兄弟の｜楚王《そおう》馬希広と争って｜南唐《なんとう》に｜称藩《しょうはん》し、950年末に｜潭州《たんしゅう》を取って｜楚王《そおう》となったが、これは楚の内紛なので950年までは楚とする。951年に朗州の軍が離反し、十月に楚が｜南唐《なんとう》に降ると、劉言は｜南唐《なんとう》に節を求めつつ｜後周《こうしゅう》にも｜称藩《しょうはん》して自立した（依頼主の表は｜武平《ぶへい》軍を952年からとするが、朗州は951年中に自立している）。952年に｜潭州《たんしゅう》を取り、953年に王逵が劉言を捕らえ、956年に潘叔嗣が王逵を殺し、以後は周行逢・周保権。朗州は954年以後｜武平《ぶへい》軍の使府","宋の李処耘・慕容延釗が朗州に入り、湖南の旧地をすべて収めた":"宋の李処耘・｜慕容《ぼよう》延釗が朗州に入り、｜湖南《こなん》の旧地をすべて収めた","乾徳元年三月壬戌":"｜乾徳《けんとく》元年三月壬戌","江陵が元に降ったのち、荊湖北路の諸州（鼎・常徳）が相次いで降る":"｜江陵《こうりょう》が元に降ったのち、荊｜湖北《こほく》路の諸州（鼎・常徳）が相次いで降る","高季興が夔・忠・万・帰・峡の五州を属郡に求め、後唐が許した":"高季興が夔・忠・万・帰・峡の五州を属郡に求め、｜後唐《こうとう》が許した","天成元年":"｜天成《てんせい》元年","通鑑はこの時与えた州を夔・忠・万の三州とだけ記すが、新五代史・十国春秋は帰・峡を含む五州とし、927年に西方鄴が夔・忠・万を取り返したあと高季興は荊・帰・峡の三州で呉に称臣している。以後963年まで荊南の州":"通鑑はこの時与えた州を夔・忠・万の｜三州《さんしゅう》とだけ記すが、｜新五代史《しんごだいし》・｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》は帰・峡を含む五州とし、927年に西方鄴が夔・忠・万を取り返したあと高季興は荊・帰・峡の｜三州《さんしゅう》で呉に｜称臣《しょうしん》している。以後963年まで｜荊南《けいなん》の州","高継沖が江陵・帰・峡の三州を献じて宋に降った":"高継沖が｜江陵《こうりょう》・帰・峡の｜三州《さんしゅう》を献じて宋に降った","江陵が元に降ったのち、帰・峡などの州が相次いで降る":"｜江陵《こうりょう》が元に降ったのち、帰・峡などの州が相次いで降る","郢州":"｜郢州《えいしゅう》","宋が桑仲の罪を赦し、襄陽府鄧随郢州鎮撫使に任じる":"宋が桑仲の罪を赦し、｜襄陽《じょうよう》府鄧随｜郢州《えいしゅう》鎮撫使に任じる","斉（劉豫）の兵が郢州を犯し、守将李簡が城を棄てる。劉豫は荊超を知郢州とする":"斉（｜劉豫《りゅうよ》）の兵が｜郢州《えいしゅう》を犯し、守将李簡が城を棄てる。｜劉豫《りゅうよ》は荊超を知｜郢州《えいしゅう》とする","岳飛が郢州を奪回":"岳飛が｜郢州《えいしゅう》を奪回","紹興四年五月":"｜紹興《しょうこう》四年五月","モンゴルが随・郢二州と荊門軍を破り、郢州の守臣喬士安は郡を委てて去る":"モンゴルが随・郢二州と荊門軍を破り、｜郢州《えいしゅう》の守臣喬士安は郡を委てて去る","端平三年":"｜端平《たんぺい》三年","孟珙が江陵節制司に襄・郢を衝かせ、張俊が郢州を回復":"｜孟《もう》｜珙《きょう》が｜江陵《こうりょう》節制司に襄・郢を衝かせ、張俊が｜郢州《えいしゅう》を回復","嘉熙二年":"｜嘉熙《かき》二年","江陵が元に降ったのち、郢州なども相次いで降る":"｜江陵《こうりょう》が元に降ったのち、｜郢州《えいしゅう》なども相次いで降る","斉の李成が襄陽に入り、知随州李道も城を棄てる。劉豫は王嵩を知随州とする":"斉の李成が｜襄陽《じょうよう》に入り、知随州李道も城を棄てる。｜劉豫《りゅうよ》は王嵩を知随州とする","1139年の河南返還で宋に戻ったとみる推定。宋が随州を取り返した記事は見つからない（次に宋の知随州が出るのは1141年）":"1139年の｜河南《かなん》返還で宋に戻ったとみる推定。宋が随州を取り返した記事は見つからない（次に宋の知随州が出るのは1141年）","金の完顔匡が随州を取る（宋の随州の将が逃げる）":"金の｜完顔《かんがん》｜匡《きょう》が随州を取る（宋の随州の将が逃げる）","嘉定の和議で韓侂胄の首と引き換えに淮・陝の侵地が宋に返される":"｜嘉定《かてい》の和議で韓｜侂胄《たくちゅう》の首と引き換えに淮・陝の侵地が宋に返される","江陵が元に降ったのち、随州なども相次いで降る":"｜江陵《こうりょう》が元に降ったのち、随州なども相次いで降る","安陸市":"｜安陸《あんりく》市","伯顔の軍が鄂州に至り、知徳安府来興国が城をもって降る":"｜伯顔《ばやん》の軍が｜鄂州《がくしゅう》に至り、知徳安府来｜興国《こうこく》が城をもって降る","開京（開城）":"｜開京《かいけい》（開城）","開京":"｜開京《かいけい》","開城（朝鮮民主主義人民共和国）":"開城（｜朝鮮《ちょうせん》民主主義人民共和国）","高麗の都。〜1270年は王が江華島に移ったが、開京を他の国が治めたことはないので高麗のまま":"高麗の都。〜1270年は王が｜江華島《こうかとう》に移ったが、｜開京《かいけい》を他の国が治めたことはないので高麗のまま","平壌（朝鮮民主主義人民共和国）":"平壌（｜朝鮮《ちょうせん》民主主義人民共和国）","高麗の太祖王建が平壌を西京とした":"高麗の｜太祖《たいそ》｜王建《おうけん》が平壌を西京とした","李延齢・崔坦らが西京など六十城を挙げてモンゴルに付く（1270年に東寧府）":"李｜延齢《えんれい》・崔坦らが西京など六十城を挙げてモンゴルに付く（1270年に東寧府）","至元六年":"｜至元《しげん》六年","昇州（江寧府・建康府）":"昇州（｜江寧府《こうねいふ》・｜建康《けんこう》府）","南京市":"｜南京《なんきん》市","南唐の都（江寧府）":"｜南唐《なんとう》の都（｜江寧府《こうねいふ》）","曹彬の宋軍が金陵を落とし、李煜が表を奉じて降る（南唐の滅亡）":"曹｜彬《ひん》の｜宋《そう》軍が｜金陵《きんりょう》を落とし、｜李煜《りいく》が表を奉じて降る（｜南唐《なんとう》の滅亡）","開宝八年十一月乙未":"｜開宝《かいほう》八年十一月｜乙未《いつび》","兀朮（完顔宗弼）が建康を破り、年を越して留まる":"｜兀朮《うじゅ》（｜完顔《ワンヤン》｜宗弼《そうひつ》）が｜建康《けんこう》を破り、年を越して留まる","金軍が建康を焼いて北へ去り、岳飛の軍が入城":"金軍が｜建康《けんこう》を焼いて北へ去り、岳飛の軍が入城","趙溍が城を捨て、都統徐王栄らが元に降る":"趙溍が城を捨て、｜都統《ととう》徐王栄らが元に降る","徳祐元年三月":"｜徳祐《とくゆう》元年三月","潤州（鎮江府）":"｜潤州《じゅんしゅう》（鎮江府）","潤州":"｜潤州《じゅんしゅう》","丁徳裕と呉越の兵に囲まれ、潤州留後の劉澄が城を開いて降る":"丁徳裕と呉越の兵に囲まれ、｜潤州《じゅんしゅう》留後の劉澄が城を開いて降る","開宝八年九月戊寅":"｜開宝《かいほう》八年九月戊寅","建炎三年十二月":"｜建炎《けんえん》三年十二月","宋の命で出た呉越王俶の兵に囲まれ、大将金成礼が刺史禹万成を捕えて城ごと降る。五月に宋の行営兵馬都監丁徳裕が権知常州":"宋の命で出た｜呉越王《ごえつおう》俶の兵に囲まれ、大将金成礼が｜刺史《しし》禹万成を捕えて城ごと降る。五月に宋の｜行営《こうえい》兵馬都監丁徳裕が権知常州","開宝八年四月丁巳":"｜開宝《かいほう》八年四月丁巳","攻めたのは呉越の兵だが、宋の招撫制置使としての出兵で、降った後は宋の監軍が知州を務めたので宋の城とする":"攻めたのは呉越の兵だが、宋の｜招撫《しょうぶ》制置使としての出兵で、降った後は宋の｜監軍《かんぐん》が知州を務めたので宋の城とする","伯顔が常州を破り屠城（三月に一度降り、五月に宋の劉師勇が奪回していた）":"｜伯顔《ばやん》が常州を破り屠城（三月に一度降り、五月に宋の劉師勇が奪回していた）","蘇州（平江府）":"｜蘇州《そしゅう》（｜平江《へいこう》府）","蘇州":"｜蘇州《そしゅう》","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","898年に顧全武が淮南から蘇州を取り返して以来、呉越の城。908〜909年に呉（淮南）の周本らが包囲したが落ちなかった。後に中呉軍節度使の治所":"898年に顧全武が｜淮南《わいなん》から｜蘇州《そしゅう》を取り返して以来、呉越の城。908〜909年に呉（｜淮南《わいなん》）の周本らが包囲したが落ちなかった。後に中呉軍｜節度使《せつどし》の治所","通判王矩之・都統王邦傑が元に降る（三月に潜説友が一度降り、四月までに宋が取り戻していた）":"通判王矩之・｜都統《ととう》王邦傑が元に降る（三月に潜説友が一度降り、四月までに宋が取り戻していた）","徳祐元年十一月〜十二月":"｜徳祐《とくゆう》元年十一月〜十二月","杭州（臨安府）":"｜杭州《こうしゅう》（｜臨安府《りんあんふ》）","杭州":"｜杭州《こうしゅう》","杭州市":"｜杭州《こうしゅう》市","銭鏐の本拠（鎮海軍）。907年に後梁から呉越王に封じられる":"銭鏐の本拠（鎮海軍）。907年に｜後梁《こうりょう》から｜呉越王《ごえつおう》に封じられる","方臘":"方｜臘《ろう》","方臘が杭州を陥れる":"方｜臘《ろう》が｜杭州《こうしゅう》を陥れる","宣和二年十二月":"｜宣和《せんな》二年十二月","王禀が杭州を取り戻し、四月に方臘が捕らえられる":"王禀が｜杭州《こうしゅう》を取り戻し、四月に方｜臘《ろう》が捕らえられる","宣和三年":"｜宣和《せんな》三年","兀朮が臨安府を破り、年を越して留まる":"｜兀朮《うじゅ》が｜臨安府《りんあんふ》を破り、年を越して留まる","兀朮が臨安を焼いて北へ退く":"｜兀朮《うじゅ》が｜臨安《りんあん》を焼いて北へ退く","謝太后と恭帝が伝国の璽と降表を伯顔に送り、臨安が元に降る":"謝｜太后《たいこう》と｜恭帝《きょうてい》が｜伝国《でんこく》の璽と降表を｜伯顔《ばやん》に送り、｜臨安《りんあん》が元に降る","湖州":"｜湖州《こしゅう》","湖州市":"｜湖州《こしゅう》市","高澧が呉へ逃げ、銭鏐が湖州に入り銭鏢を刺史とする":"高澧が呉へ逃げ、銭鏐が｜湖州《こしゅう》に入り銭鏢を｜刺史《しし》とする","開平四年三月":"｜開平《かいへい》四年三月","秀州（嘉興府）":"｜秀州《しゅうしゅう》（嘉興府）","秀州":"｜秀州《しゅうしゅう》","この時はまだ秀州は無く、嘉興県として呉越の杭州・蘇州の管内。924年に銭鏐が嘉興に開元府を置き、932年に廃した。940年三月に秀州が置かれる（持ち主は変わらない）":"この時はまだ｜秀州《しゅうしゅう》は無く、嘉興県として呉越の｜杭州《こうしゅう》・｜蘇州《そしゅう》の管内。924年に銭鏐が嘉興に｜開元《かいげん》府を置き、932年に廃した。940年三月に｜秀州《しゅうしゅう》が置かれる（持ち主は変わらない）","越州（紹興府）":"越州（｜紹興《しょうこう》府）","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","896年に董昌を滅ぼして以来の銭鏐の東府（鎮東軍）":"896年に董昌を滅ぼして以来の銭鏐の｜東府《とうふ》（鎮東軍）","知越州李鄴が兀朮に降る":"知越州李鄴が｜兀朮《うじゅ》に降る","金軍が去り、高宗が越州に駐蹕する":"金軍が去り、｜高《こう》｜宗《そう》が越州に｜駐蹕《ちゅうひつ》する","建炎四年四月":"｜建炎《けんえん》四年四月","臨安の降伏の後、紹興など浙東の諸郡が元に降る":"｜臨安《りんあん》の降伏の後、｜紹興《しょうこう》など浙東の諸郡が元に降る","徳祐二年":"｜徳祐《とくゆう》二年","明州（慶元府）":"｜明州《めいしゅう》（｜慶元《けいげん》府）","明州":"｜明州《めいしゅう》","907年の明州刺史は黄晟。董昌討伐で銭鏐に兵を送り、以後銭鏐に恭順した。909年に黄晟が死に、銭鏐が明州に巡って子を明州制置使とした（十国春秋の地理志は「遂に其の地を有す」と書く）":"907年の｜明州《めいしゅう》｜刺史《しし》は黄晟。董昌討伐で銭鏐に兵を送り、以後銭鏐に恭順した。909年に黄晟が死に、銭鏐が｜明州《めいしゅう》に巡って子を｜明州《めいしゅう》制置使とした（｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の地理志は「遂に其の地を有す」と書く）","臨安の降伏の後に元が取る。趙孟塁の奪回は失敗し、元の水軍が明州から閩・広へ出る":"｜臨安《りんあん》の降伏の後に元が取る。趙孟塁の奪回は失敗し、元の水軍が｜明州《めいしゅう》から閩・広へ出る","台州":"｜台州《たいしゅう》","898年に銭鏐が越州の指揮使駱団を台州制置使とした。908年には梁が呉越の求めで台州の唐興県を天台県と改めた":"898年に銭鏐が越州の指揮使駱団を｜台州《たいしゅう》制置使とした。908年には梁が呉越の求めで｜台州《たいしゅう》の唐興県を｜天台《てんだい》県と改めた","知台州楊必大が元に降る。のち張世傑が一時拠ったが、董文炳が来て去った":"知｜台州《たいしゅう》楊必大が元に降る。のち張｜世傑《せいけつ》が一時拠ったが、董文炳が来て去った","天祐四年（開平元年）四月":"｜天祐《てんゆう》四年（｜開平《かいへい》元年）四月","董文炳が温州を落として閩へ進む（同年の春には益王・広王が温州に逃れていた）":"董文炳が温州を落として閩へ進む（同年の春には｜益王《えきおう》・｜広王《こうおう》が温州に逃れていた）","徳祐二年冬":"｜徳祐《とくゆう》二年冬","905年に淮南の陶雅・陳璋が婺州を抜いたが、906年二月、陶雅が歙州へ帰ったのに乗じて呉越の方永珍らが婺州を取り返した":"905年に｜淮南《わいなん》の陶雅・陳璋が婺州を抜いたが、906年二月、陶雅が歙州へ帰ったのに乗じて呉越の方永珍らが婺州を取り返した","衢州刺史の陳璋は904年に銭鏐に叛いて淮南に降った。906年、呉越が衢州を囲み、淮南の周本が陳璋を連れて退いたので、呉越が衢州を取り方永珍を衢州制置使とした":"衢州｜刺史《しし》の陳璋は904年に銭鏐に叛いて｜淮南《わいなん》に降った。906年、呉越が衢州を囲み、｜淮南《わいなん》の周本が陳璋を連れて退いたので、呉越が衢州を取り方永珍を衢州制置使とした","方臘が歙州を陥れる":"方｜臘《ろう》が歙州を陥れる","方臘が捕らえられ、乱が平定される":"方｜臘《ろう》が捕らえられ、乱が平定される","江東の諸州が元に降る中で、徽州も招撫使李銓が城を下す":"｜江東《こうとう》の諸州が元に降る中で、徽州も｜招撫《しょうぶ》使李銓が城を下す","南唐の滅亡とともに宋へ。盧絳が潤州から宣州へ移り、金陵の陥落を聞いて福建へ向かった":"｜南唐《なんとう》の滅亡とともに宋へ。盧絳が｜潤州《じゅんしゅう》から宣州へ移り、｜金陵《きんりょう》の陥落を聞いて｜福建《ふっけん》へ向かった","曹彬の宋軍が江を下り、守将の戈彦が城を棄てて逃げ、宋軍が池州に入る":"曹｜彬《ひん》の｜宋《そう》軍が江を下り、守将の戈彦が城を棄てて逃げ、｜宋《そう》軍が池州に入る","開宝七年閏十月己酉":"｜開宝《かいほう》七年閏十月己酉","権州事趙卯発が自害し、都統張林が元に降る":"権州事趙卯発が自害し、｜都統《ととう》張林が元に降る","徳祐元年二月":"｜徳祐《とくゆう》元年二月","契丹の本拠の地。遼史地理志は「臨潢は契丹の故壌」と書く。918年二月に皇都を築き、938年十一月に皇都を上京とし府を臨潢とした":"｜契丹《きったん》の本拠の地。｜遼史《りょうし》地理志は「臨潢は｜契丹《きったん》の故壌」と書く。918年二月に皇都を築き、938年十一月に皇都を上京とし府を臨潢とした","阿骨打が上京を攻め、留守の撻不也（托卜嘉）が城ごと降る":"｜阿骨打《アグダ》が上京を攻め、留守の撻不也（托卜嘉）が城ごと降る","遼天慶十年・金天輔四年五月":"遼｜天慶《てんけい》十年・金｜天輔《てんぽ》四年五月","モンゴルに降って遼王とされた耶律留哥が臨潢府に移る":"モンゴルに降って遼王とされた｜耶律《やりつ》留哥が臨潢府に移る","モンゴル太祖十一年（金貞祐四年）":"モンゴル｜太祖《たいそ》十一年（金｜貞祐《ていゆう》四年）","至元八年十一月に国号を大元とした（王朝交替）":"｜至元《しげん》八年十一月に国号を大元とした（王朝交替）","中京大定府":"｜中京《ちゅうけい》｜大定《たいてい》府","金の都統杲が中京を落とす":"金の｜都統《ととう》杲が｜中京《ちゅうけい》を落とす","遼保大二年・金天輔六年正月乙亥":"遼｜保大《ほだい》二年・金｜天輔《てんぽ》六年正月乙亥","木華黎の軍に北京（中京）の守将が城ごと降る":"木華黎の軍に北京（｜中京《ちゅうけい》）の守将が城ごと降る","モンゴル太祖十年二月（金貞祐三年）":"モンゴル｜太祖《たいそ》十年二月（金｜貞祐《ていゆう》三年）","東京遼陽府":"｜東京《とうけい》｜遼陽《りょうよう》府","遼陽市":"｜遼陽《りょうよう》市","契丹が遼陽の故城を修めて東平郡とする":"｜契丹《きったん》が｜遼陽《りょうよう》の故城を修めて東平郡とする","神冊四年二月":"｜神冊《じんさく》四年二月","918年十二月に阿保機が遼陽の故城に行き、919年二月に遼陽の故城を修めて漢人と渤海の戸を入れ、東平郡として防禦使を置いた。926年に渤海が滅んだのち、929年に東丹国の民を移して南京とした":"918年十二月に｜阿保機《あぼき》が｜遼陽《りょうよう》の故城に行き、919年二月に｜遼陽《りょうよう》の故城を修めて漢人と｜渤海《ぼっかい》の戸を入れ、東平郡として防禦使を置いた。926年に｜渤海《ぼっかい》が滅んだのち、929年に東丹国の民を移して｜南京《なんきん》とした","東京の舎利軍詳穏の大延琳が留守を捕らえ、国号を興遼として自立":"｜東京《とうけい》の舎利軍詳穏の大延琳が留守を捕らえ、国号を興遼として自立","遼太平九年八月":"遼｜太平《たいへい》九年八月","延琳の部将楊詳世が南門を開いて遼軍を入れ、延琳を捕らえる":"延琳の部将楊詳世が南門を開いて｜遼《りょう》軍を入れ、延琳を捕らえる","遼太平十年八月":"遼｜太平《たいへい》十年八月","正月に渤海人高永昌が東京で自立し、五月に金が永昌を破って東京を取る":"正月に｜渤海《ぼっかい》人高｜永昌《えいしょう》が｜東京《とうけい》で自立し、五月に金が｜永昌《えいしょう》を破って｜東京《とうけい》を取る","遼天慶六年・金収国二年五月":"遼｜天慶《てんけい》六年・金｜収国《しゅうこく》二年五月","耶律留哥":"｜耶律《やりつ》留哥","十月に蒲鮮万奴が遼東で自立し、その東京を耶律留哥が破る":"十月に蒲鮮万奴が｜遼東《りょうとう》で自立し、その｜東京《とうけい》を｜耶律《やりつ》留哥が破る","モンゴル太祖十年（金貞祐三年）十一月":"モンゴル｜太祖《たいそ》十年（金｜貞祐《ていゆう》三年）十一月","金が東京留守を置く（耶律留哥は1215年冬にモンゴルへ入朝して東京を離れ、その配下は叛いて澄州へ移った）":"金が｜東京留守《とうけいりゅうしゅ》を置く（｜耶律《やりつ》留哥は1215年冬にモンゴルへ入朝して｜東京《とうけい》を離れ、その配下は叛いて澄州へ移った）","金貞祐四年ごろ":"金｜貞祐《ていゆう》四年ごろ","吾也而・撒里台らが遼東を征して下し、金の遼東行省の葛不哥が逃れて死ぬ":"吾也而・撒里台らが｜遼東《りょうとう》を征して下し、金の｜遼東《りょうとう》行省の葛不哥が逃れて死ぬ","モンゴル太宗元年":"モンゴル｜太宗《たいそう》元年","霸州（興中府）":"霸州（｜興中《こうちゅう》府）","契丹が営州に拠る":"｜契丹《きったん》が｜営州《えいしゅう》に拠る","同光二年":"｜同光《どうこう》二年","契丹が渤海の遼東を攻めるにあたり、将の禿餒と盧文進に営・平などの州を拠らせて燕の地を乱した":"｜契丹《きったん》が｜渤海《ぼっかい》の｜遼東《りょうとう》を攻めるにあたり、将の禿餒と盧文進に営・平などの州を拠らせて燕の地を乱した","興中府が金に降る（同月に一度遼の側に戻るが、金がこの年のうちに破る）":"｜興中《こうちゅう》府が金に降る（同月に一度遼の側に戻るが、金がこの年のうちに破る）","遼保大三年・金天輔七年二月":"遼｜保大《ほだい》三年・金｜天輔《てんぽ》七年二月","金の興中府元帥石天応がモンゴルに降る":"金の｜興中《こうちゅう》府元帥石天応がモンゴルに降る","錦州":"｜錦州《きんしゅう》","錦州市":"｜錦州《きんしゅう》市","遼保大三年・金天輔七年正月庚辰":"遼｜保大《ほだい》三年・金｜天輔《てんぽ》七年正月庚辰","錦州の張鯨が節度使を殺して臨海王を称し、モンゴルに降る":"｜錦州《きんしゅう》の張鯨が｜節度使《せつどし》を殺して｜臨海王《りんかいおう》を称し、モンゴルに降る","モンゴル太祖九年（金貞祐二年）冬":"モンゴル｜太祖《たいそ》九年（金｜貞祐《ていゆう》二年）冬","張鯨がモンゴルに誅され、弟の張致が錦州に拠って自立":"張鯨がモンゴルに誅され、弟の張致が｜錦州《きんしゅう》に拠って自立","モンゴル太祖十年四月（金貞祐三年）":"モンゴル｜太祖《たいそ》十年四月（金｜貞祐《ていゆう》三年）","木華黎が錦州を囲み、張致の部将が致を縛って降る":"木華黎が｜錦州《きんしゅう》を囲み、張致の部将が致を縛って降る","1216年に張致が滅んだ後、金が錦州に元帥劉仲亨を置いて取り戻していた。戻った年は原文で確かめられない推定":"1216年に張致が滅んだ後、金が｜錦州《きんしゅう》に元帥劉仲亨を置いて取り戻していた。戻った年は原文で確かめられない推定","モンゴルが錦州を取る":"モンゴルが｜錦州《きんしゅう》を取る","モンゴルが金の錦州を取り、元帥劉仲亨が死んだ":"モンゴルが金の｜錦州《きんしゅう》を取り、元帥劉仲亨が死んだ","瀋陽市":"｜瀋陽《しんよう》市","高永昌を討つ金の斡魯が遼軍を破って瀋州を取る":"高｜永昌《えいしょう》を討つ金の斡魯が｜遼《りょう》軍を破って瀋州を取る","遼天慶六年・金収国二年":"遼｜天慶《てんけい》六年・金｜収国《しゅうこく》二年","金の遼東宣撫使蒲鮮万奴が叛いて咸平・東京・瀋・澄の諸州を取り、十月に天王を称して国号を大真とする":"金の｜遼東《りょうとう》宣撫使蒲鮮万奴が叛いて｜咸平《かんぺい》・｜東京《とうけい》・瀋・澄の諸州を取り、十月に天王を称して国号を大真とする","金貞祐三年":"金｜貞祐《ていゆう》三年","モンゴルが蒲鮮万奴を擒えて遼東を平らげる":"モンゴルが蒲鮮万奴を擒えて｜遼東《りょうとう》を平らげる","モンゴル太宗五年九月":"モンゴル｜太宗《たいそう》五年九月","咸州（咸平府）":"咸州（｜咸平《かんぺい》府）","遼天慶四年十二月":"遼｜天慶《てんけい》四年十二月","耶律留哥が金の蒲鮮万奴の軍を破って遼東の州郡を取り、咸平を都として中京と号する":"｜耶律《やりつ》留哥が金の蒲鮮万奴の軍を破って｜遼東《りょうとう》の州郡を取り、｜咸平《かんぺい》を都として｜中京《ちゅうけい》と号する","モンゴル太祖九年（金貞祐二年）":"モンゴル｜太祖《たいそ》九年（金｜貞祐《ていゆう》二年）","蒲鮮万奴が咸平などを取って自立（十月に天王を称し国号を大真とする）":"蒲鮮万奴が｜咸平《かんぺい》などを取って自立（十月に天王を称し国号を大真とする）","黄龍府":"｜黄龍府《こうりゅうふ》","阿骨打が黄龍府を落とす":"｜阿骨打《アグダ》が｜黄龍府《こうりゅうふ》を落とす","金収国元年・遼天慶五年九月":"金｜収国《しゅうこく》元年・遼｜天慶《てんけい》五年九月","金の上京行省の太平が蒲鮮万奴に通じて元帥承充を捕らえ、上京路が東夏の側につく":"金の上京行省の｜太平《たいへい》が蒲鮮万奴に通じて元帥承充を捕らえ、上京路が東夏の側につく","金興定元年":"金｜興定《こうてい》元年","モンゴルが蒲鮮万奴を擒え、開元・率賓まで平らげる":"モンゴルが蒲鮮万奴を擒え、｜開元《かいげん》・率賓まで平らげる","寧江州":"｜寧江州《ねいこうしゅう》","遼の東北の辺境（生女真との境）。州が置かれるのは清寧年間":"遼の東北の辺境（生女真との境）。州が置かれるのは｜清寧《せいねい》年間","挙兵した阿骨打が寧江州を落とし、防禦使を捕らえる（金の国号は翌1115年正月）":"挙兵した｜阿骨打《アグダ》が｜寧江州《ねいこうしゅう》を落とし、防禦使を捕らえる（金の国号は翌1115年正月）","遼天慶四年十月":"遼｜天慶《てんけい》四年十月","金の上京行省の太平が蒲鮮万奴に通じ、上京路が東夏の側につく":"金の上京行省の｜太平《たいへい》が蒲鮮万奴に通じ、上京路が東夏の側につく","遼の版図の外の生女真の地（のちの完顔部の本拠）。城は無い":"遼の版図の外の生女真の地（のちの｜完顔《ワンヤン》部の本拠）。城は無い","阿骨打が挙兵して遼を伐つ（金の国号は1115年正月）":"｜阿骨打《アグダ》が挙兵して遼を伐つ（金の国号は1115年正月）","遼天慶四年九月":"遼｜天慶《てんけい》四年九月","遼の東北統軍司の地":"遼の東北｜統軍《とうぐん》司の地","金天輔元年・遼天慶七年正月":"金｜天輔《てんぽ》元年・遼｜天慶《てんけい》七年正月","モンゴルが蒲鮮万奴を擒えて遼東を平らげる（泰州がモンゴルのものになった年は確かめられない）":"モンゴルが蒲鮮万奴を擒えて｜遼東《りょうとう》を平らげる（泰州がモンゴルのものになった年は確かめられない）","モンゴル太宗五年":"モンゴル｜太宗《たいそう》五年","来州節度使田顥らが管轄の戸を率いて金に降る":"来州｜節度使《せつどし》田顥らが管轄の戸を率いて金に降る","錦州で自立した張致が平・灤・瑞などの州を下す":"｜錦州《きんしゅう》で自立した張致が平・灤・瑞などの州を下す","モンゴル太祖十年（金貞祐三年）":"モンゴル｜太祖《たいそ》十年（金｜貞祐《ていゆう》三年）","金収国元年十一月":"金｜収国《しゅうこく》元年十一月","義州（朝鮮民主主義人民共和国 平安北道）":"義州（｜朝鮮《ちょうせん》民主主義人民共和国 平安北道）","高麗が遼に服し、遼が女真の鴨緑江東の数百里の地を高麗に与える":"高麗が遼に服し、遼が女真の鴨緑｜江東《こうとう》の数百里の地を高麗に与える","遼統和十一年":"遼｜統和《とうわ》十一年","遼開泰三年":"遼｜開泰《かいたい》三年","金収国二年":"金｜収国《しゅうこく》二年","金天会四年":"金｜天会《てんかい》四年","至元六年十一月":"｜至元《しげん》六年十一月","高永昌が滅び、遼の東京の州県と南路の女真が金に降る":"高｜永昌《えいしょう》が滅び、遼の｜東京《とうけい》の州県と南路の女真が金に降る","金収国二年五月":"金｜収国《しゅうこく》二年五月","東夏の南京（城子山）":"東夏の｜南京《なんきん》（城子山）","東夏の南京":"東夏の｜南京《なんきん》","阿骨打が挙兵し、東の女真諸部もその下に入る（金の国号は1115年正月）":"｜阿骨打《アグダ》が挙兵し、東の女真諸部もその下に入る（金の国号は1115年正月）","蒲鮮万奴が咸平を棄てて東の曷懶路方面へ移り、開元で僭号する":"蒲鮮万奴が｜咸平《かんぺい》を棄てて東の曷懶路方面へ移り、｜開元《かいげん》で｜僭号《せんごう》する","金興定元年ごろ":"金｜興定《こうてい》元年ごろ","塔思の軍が東夏の南京を攻め落とし、万奴を擒える":"塔思の軍が東夏の｜南京《なんきん》を攻め落とし、万奴を擒える","モンゴル太宗五年（癸巳）九月":"モンゴル｜太宗《たいそう》五年（癸巳）九月","広州":"｜広州《こうしゅう》","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","清海軍節度使劉隠の本拠。後梁は劉隠に兼侍中を加え大彭王とした（名目上の封爵で、広州は劉氏の城）。917年に劉岩（劉龑）が番禺で即位し国号を大越（翌年に漢）とし、広州を興王府とした（国号の変化のみ）":"清海軍｜節度使《せつどし》｜劉隠《りゅういん》の本拠。｜後梁《こうりょう》は｜劉隠《りゅういん》に兼｜侍中《じちゅう》を加え大彭王とした（名目上の｜封爵《ほうしゃく》で、｜広州《こうしゅう》は｜劉氏《りゅうし》の城）。917年に劉岩（｜劉龑《りゅうえん》）が｜番禺《ばんぐう》で即位し国号を｜大越《だいえつ》（翌年に漢）とし、｜広州《こうしゅう》を興王府とした（国号の変化のみ）","南漢の劉鋹が宋に降り、潘美が広州に入る（南漢の州はみな宋へ）":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が宋に降り、潘美が｜広州《こうしゅう》に入る（｜南漢《なんかん》の州はみな宋へ）","開宝四年二月":"｜開宝《かいほう》四年二月","宋の江西制置使趙溍が広州を棄てて逃れ、元軍はまだ入らない":"宋の｜江西《こうせい》制置使趙溍が｜広州《こうしゅう》を棄てて逃れ、元軍はまだ入らない","景炎元年十二月":"｜景炎《けいえん》元年十二月","この年六月に宋の降将梁雄飛が元のために広州に入り、のち熊飛・趙溍が宋のために取り返したが、十二月朔に趙溍が城を棄てた。元軍が広州に至るのは翌年二月":"この年六月に宋の降将梁雄飛が元のために｜広州《こうしゅう》に入り、のち熊飛・趙溍が宋のために取り返したが、十二月朔に趙溍が城を棄てた。元軍が｜広州《こうしゅう》に至るのは翌年二月","元軍が広州を囲み、宋の広東制置使張鎮孫が城ごと降る":"元軍が｜広州《こうしゅう》を囲み、宋の広東制置使張鎮孫が城ごと降る","景炎二年十一月":"｜景炎《けいえん》二年十一月","二月に元軍が入城、四月に張鎮孫が宋のために奪回、十一月に再び元に降った。翌1278年三月に宋の凌震・王道夫が取り返したが、閏十一月に元の李恒が入城し、十二月の宋の反撃も敗れたので1278年の歳末も元":"二月に元軍が入城、四月に張鎮孫が宋のために奪回、十一月に再び元に降った。翌1278年三月に宋の凌震・｜王道《おうどう》夫が取り返したが、閏十一月に元の｜李《り》｜恒《こう》が入城し、十二月の宋の反撃も敗れたので1278年の歳末も元","譚全播の病を聞いた劉岩が韶州を攻め破り、刺史廖爽は楚へ奔る":"譚全播の病を聞いた劉岩が韶州を攻め破り、｜刺史《しし》廖爽は楚へ奔る","乾化元年十二月":"｜乾化《けんか》元年十二月","宋の潘美が蓮華峰の下で南漢の李承渥を破り韶州を取る":"宋の潘美が蓮華峰の下で｜南漢《なんかん》の李承渥を破り韶州を取る","開宝三年十二月":"｜開宝《かいほう》三年十二月","景炎元年十月":"｜景炎《けいえん》元年十月","潮州":"｜潮州《ちょうしゅう》","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","盧光稠の弟盧光睦が潮州を攻めたが、劉氏が撃ち退けた（902年ごろ）。以後は劉氏の州とみる":"盧光稠の弟盧光睦が｜潮州《ちょうしゅう》を攻めたが、｜劉氏《りゅうし》が撃ち退けた（902年ごろ）。以後は｜劉氏《りゅうし》の州とみる","元の唆都が潮州を攻め落とし、知州馬発が死ぬ":"元の唆都が｜潮州《ちょうしゅう》を攻め落とし、知州馬発が死ぬ","景炎三年二月":"｜景炎《けいえん》三年二月","南漢の指揮使万景忻が循州で張遇賢を破り、遇賢は嶺を越えて虔州（南唐）へ向かう":"｜南漢《なんかん》の指揮使｜万景《ばんけい》忻が｜循州《じゅんしゅう》で張｜遇賢《ぐうけん》を破り、遇賢は嶺を越えて｜虔州《けんしゅう》（｜南唐《なんとう》）へ向かう","景炎二年":"｜景炎《けいえん》二年","1276年の歳末は宋の幼主が恵州の甲子門にいた":"1276年の歳末は宋の｜幼主《ようしゅ》が恵州の｜甲子《こうし》門にいた","端州（肇慶府）":"端州（｜肇慶《ちょうけい》府）","肇慶市":"｜肇慶《ちょうけい》市","896年ごろ劉隠が封州の兵で端州に入り、譚玘を斬った。以後劉氏の州":"896年ごろ｜劉隠《りゅういん》が封州の兵で端州に入り、譚玘を斬った。以後｜劉氏《りゅうし》の州","広東の諸郡が元に降り、肇慶府も来降する":"広東の諸郡が元に降り、｜肇慶《ちょうけい》府も来降する","景炎二年二月〜三月":"｜景炎《けいえん》二年二月〜三月","桂州（静江府）":"桂州（｜静江《せいこう》府）","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","南漢の呉懐恩が桂州に迫り、馬希隠・許可瓊が全州へ逃げて桂州が潰える":"｜南漢《なんかん》の呉｜懐恩《かいおん》が桂州に迫り、馬希隠・許可瓊が全州へ逃げて桂州が潰える","広順元年十一月丙寅":"｜広順《こうじゅん》元年十一月｜丙寅《へいいん》","南漢の桂州刺史李承進が逃げ、宋の潘美が桂州を取る":"｜南漢《なんかん》の桂州｜刺史《しし》李承進が逃げ、宋の潘美が桂州を取る","開宝三年（十月末〜十一月）":"｜開宝《かいほう》三年（十月末〜十一月）","元の阿里海牙が堰で水を断って静江府を破り、馬塈が戦死する":"元の阿里海牙が堰で水を断って｜静江《せいこう》府を破り、馬塈が戦死する","楚の内乱に乗じて南漢の呉懐恩が桂州を取り、宜・連・梧などの州を平定。南漢がはじめて嶺南をすべて持つ":"楚の内乱に乗じて｜南漢《なんかん》の呉｜懐恩《かいおん》が桂州を取り、宜・連・梧などの州を平定。｜南漢《なんかん》がはじめて｜嶺南《れいなん》をすべて持つ","静江府の陥落後、阿里海牙が兵を分けて容・藤・梧などの州を取る":"｜静江《せいこう》府の陥落後、阿里海牙が兵を分けて容・藤・梧などの州を取る","劉岩が容州を攻め、姚彦章は容州の士民と府庫を移して長沙へ奔る。劉岩が容管と高州を取る":"劉岩が容州を攻め、姚彦章は容州の士民と府庫を移して｜長沙《ちょうさ》へ奔る。劉岩が容管と高州を取る","静江府の陥落後、阿里海牙が兵を分けて容州などを取る":"｜静江《せいこう》府の陥落後、阿里海牙が兵を分けて容州などを取る","後梁の末帝が即位し、劉岩を清海・建武（邕州）節度使とする。この時までに邕州は劉氏の手にあったとみる（通鑑も915年に劉岩を清海・建武節度使と書く）":"｜後梁《こうりょう》の｜末帝《まつてい》が即位し、劉岩を清海・｜建武《けんぶ》（邕州）｜節度使《せつどし》とする。この時までに邕州は｜劉氏《りゅうし》の手にあったとみる（通鑑も915年に劉岩を清海・｜建武《けんぶ》｜節度使《せつどし》と書く）","乾化三年二月":"｜乾化《けんか》三年二月","皇祐四年五月・十月":"｜皇祐《こうゆう》四年五月・十月","狄青が帰仁鋪で儂智高を破り、儂智高は城を焼いて大理へ逃れ、宋軍が邕州に入る":"狄青が帰仁鋪で儂智高を破り、儂智高は城を焼いて大理へ逃れ、｜宋《そう》軍が邕州に入る","皇祐五年正月":"｜皇祐《こうゆう》五年正月","静江府の陥落後、邕州の守将馬成旺が城ごと元に降る":"｜静江《せいこう》府の陥落後、邕州の守将馬成旺が城ごと元に降る","静江府の陥落後、元の脱温不花が慶遠などを徇え、潭州行省が降伏を報告する":"｜静江《せいこう》府の陥落後、元の脱温不花が慶遠などを徇え、｜潭州《たんしゅう》行省が降伏を報告する","至元十四年三月（報告の日）":"｜至元《しげん》十四年三月（報告の日）","桂州を落とした南漢の呉懐恩が柳・象などの州を定める":"桂州を落とした｜南漢《なんかん》の呉｜懐恩《かいおん》が柳・象などの州を定める","広順元年十一月":"｜広順《こうじゅん》元年十一月","南漢の劉鋹が降り、南漢が滅ぶ":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が降り、｜南漢《なんかん》が滅ぶ","970年の宋の進攻で柳州を個別に取った記事は見つからないので、南漢の降伏による":"970年の宋の進攻で柳州を個別に取った記事は見つからないので、｜南漢《なんかん》の降伏による","静江府の陥落後、元の脱温不花が柳州などを徇え、潭州行省が降伏を報告する":"｜静江《せいこう》府の陥落後、元の脱温不花が柳州などを徇え、｜潭州《たんしゅう》行省が降伏を報告する","新五代史が劉隠の時代に劉氏に従わなかった勢力として挙げる中に雷州は無い。十国春秋の南漢地理表は海康・遂溪・徐聞の3県を載せる（ただし州名を「常州」と書き、雷州の名は見えない）":"｜新五代史《しんごだいし》が｜劉隠《りゅういん》の時代に｜劉氏《りゅうし》に従わなかった勢力として挙げる中に雷州は無い。｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の｜南漢《なんかん》地理表は海康・遂溪・徐聞の3県を載せる（ただし州名を「常州」と書き、雷州の名は見えない）","南漢の劉鋹が宋に降り、潘美が広州に入る（南漢の州はみな宋へ）。翌972年に宋が雷州の徐聞・遂溪の2県を廃した":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が宋に降り、潘美が｜広州《こうしゅう》に入る（｜南漢《なんかん》の州はみな宋へ）。翌972年に宋が雷州の徐聞・遂溪の2県を廃した","元の広南西道宣慰司が雷・化・高の三州を招降する。宋の曽淵子は雷州を逃れ、五月・六月の宋の張応科・張世杰の奪回も失敗した":"元の広南西道宣慰司が雷・化・高の｜三州《さんしゅう》を招降する。宋の曽淵子は雷州を逃れ、五月・六月の宋の張応科・張世杰の奪回も失敗した","景炎三年三月":"｜景炎《けいえん》三年三月","瓊州":"｜瓊州《けいしゅう》","十国春秋の南漢地理表に瓊州が載り、南漢が曽口・顔羅の2県を省いたとある。963年ごろ南漢が瓊州の米に税を掛けた記事がある。宋は南漢を平定した971年に瓊州に知州を置き、儋・崖・振・万安の4州を属させた":"｜十国春秋《じっこくしゅんじゅう》の｜南漢《なんかん》地理表に｜瓊州《けいしゅう》が載り、｜南漢《なんかん》が曽口・顔羅の2県を省いたとある。963年ごろ｜南漢《なんかん》が｜瓊州《けいしゅう》の米に税を掛けた記事がある。宋は｜南漢《なんかん》を平定した971年に｜瓊州《けいしゅう》に知州を置き、儋・崖・振・万安の4州を属させた","南漢の劉鋹が宋に降る。宋は儋・崖・振・万安の4州を瓊州に属させ、広州に官を選ばせて知州とした":"｜南漢《なんかん》の｜劉鋹《りゅうちょう》が宋に降る。宋は儋・崖・振・万安の4州を｜瓊州《けいしゅう》に属させ、｜広州《こうしゅう》に官を選ばせて知州とした","開宝四年":"｜開宝《かいほう》四年","瓊州の民が乱を起こし、安撫趙与珞を捕らえて元に降る":"｜瓊州《けいしゅう》の民が乱を起こし、安撫趙与珞を捕らえて元に降る","祥興元年十一月":"｜祥興《しょうこう》元年十一月","静江府の陥落後、元の脱温不花が欽州などを徇え、欽州に安撫司を置く":"｜静江《せいこう》府の陥落後、元の脱温不花が欽州などを徇え、欽州に安撫司を置く","至元十四年":"｜至元《しげん》十四年","新会（崖山）":"新会（｜崖山《がいざん》）","広州が元に降り、広東の諸郡も降る":"｜広州《こうしゅう》が元に降り、広東の諸郡も降る","宋の幼主（衛王昺）が新会の崖山に移り、行宮と軍屋を建てて拠る":"宋の｜幼主《ようしゅ》（｜衛王《えいおう》昺）が新会の｜崖山《がいざん》に移り、行宮と軍屋を建てて拠る","祥興元年六月":"｜祥興《しょうこう》元年六月","張弘範が崖山の宋軍を破り、陸秀夫が幼主を負って海に入り、宋が滅ぶ":"張｜弘範《こうはん》が｜崖山《がいざん》の｜宋《そう》軍を破り、陸｜秀夫《しゅうふ》が｜幼主《ようしゅ》を負って海に入り、宋が滅ぶ","祥興二年二月":"｜祥興《しょうこう》二年二月","升龍（大越の都）":"升龍（｜大越《だいえつ》の都）","呉権（呉氏）":"呉権（｜呉氏《ごし》）","楊廷芸の旧将呉権が愛州から兵を挙げて矯公羨を殺し交州に拠る。救援に来た南漢の交王劉弘操を白藤江で破る":"楊廷芸の旧将呉権が愛州から兵を挙げて矯公羨を殺し｜交州《こうしゅう》に拠る。救援に来た｜南漢《なんかん》の交王｜劉弘《りゅうこう》操を白藤江で破る","天福三年":"｜天福《てんぷく》三年","呉権の死後、子の呉昌岌、その弟の呉昌文が立った。954年に呉昌文が南漢に命を請い、南漢は昌文を静海節度使とした（名目上の臣従）":"呉権の死後、子の呉昌岌、その弟の呉昌文が立った。954年に呉昌文が｜南漢《なんかん》に命を請い、｜南漢《なんかん》は昌文を静海｜節度使《せつどし》とした（名目上の臣従）","南漢の大宝八年":"｜南漢《なんかん》の｜大宝《たいほう》八年","丁部領は大勝王（長編は万勝王）を称し、子の丁璉を静海節度使として南漢に告げ、南漢はこれを授けた（名目上の臣従）。南漢が滅ぶと丁璉は宋に朝貢し、973年に宋は丁璉を静海節度使とした（名目上の臣従）":"丁部領は大勝王（｜長編《ちょうへん》は万勝王）を称し、子の丁璉を静海｜節度使《せつどし》として｜南漢《なんかん》に告げ、｜南漢《なんかん》はこれを授けた（名目上の臣従）。｜南漢《なんかん》が滅ぶと丁璉は宋に朝貢し、973年に宋は丁璉を静海｜節度使《せつどし》とした（名目上の臣従）","大越（黎桓が実権を握る）":"｜大越《だいえつ》（黎桓が実権を握る）","黎桓が交州の実権を握る":"黎桓が｜交州《こうしゅう》の実権を握る","丁璉・丁部領が死に、大将黎桓が幼い丁璿を幽閉して軍府を代わりに治めた（前黎朝）。960〜979年は五代十国の地図の行（呉権・丁部領）を使うので、ここから大越の名で描く":"丁璉・丁部領が死に、大将黎桓が幼い丁璿を幽閉して軍府を代わりに治めた（前黎朝）。960〜979年は｜五代十国《ごだいじっこく》の地図の行（呉権・丁部領）を使うので、ここから｜大越《だいえつ》の名で描く","京兆府（長安）":"京兆府（｜長安《ちょうあん》）","西安市":"｜西安《せいあん》市","北宋から南宋へ（高宗が南京応天府で即位）":"｜北宋《ほくそう》から｜南宋《なんそう》へ（｜高《こう》｜宗《そう》が｜南京《なんきん》｜応天府《おうてんふ》で即位）","金の婁室が長安を攻め、宋の経略使が逃れて京兆府が降る":"金の｜婁室《ろうしつ》が｜長安《ちょうあん》を攻め、宋の経略使が逃れて京兆府が降る","建炎三年秋（金史は天会七年十月）":"｜建炎《けんえん》三年秋（｜金史《きんし》は｜天会《てんかい》七年十月）","金が陝西の地を斉（劉豫）に与える":"金が｜陝西《せんせい》の地を斉（｜劉豫《りゅうよ》）に与える","斉の京兆留守は劉豫の弟の劉益。金軍も陝西に駐屯した":"斉の京兆留守は｜劉豫《りゅうよ》の弟の劉益。金軍も｜陝西《せんせい》に駐屯した","金が劉豫を廃し、斉の地は金に帰す":"金が｜劉豫《りゅうよ》を廃し、斉の地は金に帰す","金が河南・陝西の地を宋に返す（紹興の和議の前段）":"金が｜河南《かなん》・｜陝西《せんせい》の地を宋に返す（｜紹興《しょうこう》の和議の前段）","宋の楼炤が長安に入る":"宋の楼炤が｜長安《ちょうあん》に入る","金が盟約を破り、権知永興軍の郝遠が長安の城門を開いて金軍を入れる":"金が盟約を破り、権知｜永興《えいこう》軍の郝遠が｜長安《ちょうあん》の城門を開いて金軍を入れる","鳳翔の陥落を受け、金が京兆を放棄して住民を河南に移す。関中はモンゴルの手に":"｜鳳翔《ほうしょう》の陥落を受け、金が京兆を放棄して住民を｜河南《かなん》に移す。｜関中《かんちゅう》はモンゴルの手に","正大八年四月（金の守備隊は同年九月に撤退）":"｜正大《せいだい》八年四月（金の守備隊は同年九月に撤退）","鳳翔府":"｜鳳翔《ほうしょう》府","鳳翔区":"｜鳳翔《ほうしょう》区","富平の戦いの後、鳳翔府が金に降り、宋の呉玠は和尚原へ退く":"富平の戦いの後、｜鳳翔《ほうしょう》府が金に降り、宋の呉玠は和尚原へ退く","建炎四年九月（富平の敗戦の直後）・十一月":"｜建炎《けんえん》四年九月（富平の敗戦の直後）・十一月","鳳翔には金の陝西経略使完顔杲（撒離喝）の軍が屯し、南の和尚原・仙人関の宋軍と対峙した":"｜鳳翔《ほうしょう》には金の｜陝西《せんせい》経略使｜完顔《かんがん》｜杲《こう》（撒離喝）の軍が屯し、南の和尚原・仙人関の｜宋《そう》軍と｜対峙《たいじ》した","宋の楼炤が鳳翔まで巡る":"宋の楼炤が｜鳳翔《ほうしょう》まで巡る","金の完顔杲（撒離喝）が鳳翔を破る":"金の｜完顔《かんがん》｜杲《こう》（撒離喝）が｜鳳翔《ほうしょう》を破る","モンゴルが鳳翔府を取る":"モンゴルが｜鳳翔《ほうしょう》府を取る","正大八年四月":"｜正大《せいだい》八年四月","華州":"｜華州《かしゅう》","華州区":"｜華州《かしゅう》区","1129年に金の洛索が長安を攻め、経略使郭琰が遁れた。華州の陥落記事は見つからず、長安の陥落からの推定":"1129年に金の洛索が｜長安《ちょうあん》を攻め、経略使郭琰が遁れた。｜華州《かしゅう》の陥落記事は見つからず、｜長安《ちょうあん》の陥落からの推定","返還された陝西の州":"返還された｜陝西《せんせい》の州","金の完顔杲が河中から渡河して陝西に入り、州県が迎え降る":"金の｜完顔《かんがん》｜杲《こう》が｜河中《かちゅう》から渡河して｜陝西《せんせい》に入り、州県が迎え降る","海陵王の南伐に乗じ、宋の金州軍が華州を取る":"｜海陵王《かいりょうおう》の｜南伐《なんばつ》に乗じ、宋の金州軍が｜華州《かしゅう》を取る","金が華州で宋軍を破り、華州は金の防御使の下に":"金が｜華州《かしゅう》で｜宋《そう》軍を破り、｜華州《かしゅう》は金の防御使の下に","大定二年五月〜十月":"｜大定《たいてい》二年五月〜十月","金が関陝の兵を汴京の救援に引き揚げ、潼関も降る":"金が関陝の兵を｜汴京《べんけい》の救援に引き揚げ、｜潼関《どうかん》も降る","同州":"｜同州《どうしゅう》","金の婁室（洛索）が同州を攻め、守臣鄭驤が死に、金は周良を知同州とする":"金の｜婁室《ろうしつ》（洛索）が｜同州《どうしゅう》を攻め、守臣鄭驤が死に、金は周良を知｜同州《どうしゅう》とする","返還された陝西の州（翌1140年の初めに宋の知同州張恂の名が見える）":"返還された｜陝西《せんせい》の州（翌1140年の初めに宋の知｜同州《どうしゅう》張恂の名が見える）","金の完顔杲が河中から渡河して同州の境に入り、州県が迎え降る":"金の｜完顔《かんがん》｜杲《こう》が｜河中《かちゅう》から渡河して｜同州《どうしゅう》の境に入り、州県が迎え降る","木華黎が同州を抜き、節度使李復亨らが自尽する":"木華黎が｜同州《どうしゅう》を抜き、｜節度使《せつどし》李復亨らが自尽する","元光元年十一月":"｜元光《げんこう》元年十一月","木華黎が鳳翔の囲みを解いて退き、ほどなく病没。同州は金に戻る":"木華黎が｜鳳翔《ほうしょう》の囲みを解いて退き、ほどなく病没。｜同州《どうしゅう》は金に戻る","元光二年春":"｜元光《げんこう》二年春","金が関陝の兵を引き揚げ、潼関も降る":"金が関陝の兵を引き揚げ、｜潼関《どうかん》も降る","金が邠州を取る。富平の戦いの後、宋軍は秦州・興州へ退く":"金が邠州を取る。富平の戦いの後、｜宋《そう》軍は｜秦州《しんしゅう》・｜興州《こうしゅう》へ退く","建炎四年（天会八年四月・十月以後）":"｜建炎《けんえん》四年（｜天会《てんかい》八年四月・十月以後）","金が陝西を奪回する":"金が｜陝西《せんせい》を奪回する","太宗三年（辛卯）":"｜太宗《たいそう》三年（｜辛卯《しんぼう》）","鄜州":"｜鄜州《ふしゅう》","金が晋寧軍を破った後、鄜州を破る":"金が晋寧軍を破った後、｜鄜州《ふしゅう》を破る","建炎三年（天会七年四月）":"｜建炎《けんえん》三年（｜天会《てんかい》七年四月）","木華黎が鄜州を破る":"木華黎が｜鄜州《ふしゅう》を破る","興定五年閏十二月":"｜興定《こうてい》五年閏十二月","金が張行信を保大軍節度使（鄜州）に任じる":"金が張行信を｜保大《ほだい》軍｜節度使《せつどし》（｜鄜州《ふしゅう》）に任じる","元光元年正月":"｜元光《げんこう》元年正月","金が関中を放棄する":"金が｜関中《かんちゅう》を放棄する","正大八年":"｜正大《せいだい》八年","後周が鳳州を取る":"｜後周《こうしゅう》が鳳州を取る","顕徳二年十一月":"｜顕徳《けんとく》二年十一月","後周の王景らが鳳州を囲んで取り、後蜀の威武節度使王環を捕える":"｜後周《こうしゅう》の王景らが鳳州を囲んで取り、｜後蜀《こうしょく》の威武｜節度使《せつどし》王環を捕える","モンゴルの闊端が鳳州から四川に入る":"モンゴルの闊端が鳳州から｜四川《しせん》に入る","興元府（梁州）":"｜興元《こうげん》府（｜梁州《りょうしゅう》）","興元府":"｜興元《こうげん》府","漢中市":"｜漢中《かんちゅう》市","興元が後蜀に降る":"｜興元《こうげん》が｜後蜀《こうしょく》に降る","清泰元年":"｜清泰《せいたい》元年","鳳翔攻めに敗れた後唐の山南西道節度使張虔釗が、武定節度使孫漢韶とともに両鎮の地をもって後蜀に降り、後蜀の張業が興元・洋州に入る":"｜鳳翔《ほうしょう》攻めに敗れた｜後唐《こうとう》の｜山南西道《さんなんせいどう》｜節度使《せつどし》張｜虔釗《けんしょう》が、｜武定《ぶてい》｜節度使《せつどし》孫｜漢韶《かんしょう》とともに両鎮の地をもって｜後蜀《こうしょく》に降り、｜後蜀《こうしょく》の張業が｜興元《こうげん》・洋州に入る","後蜀が興元を捨て、宋が入る":"｜後蜀《こうしょく》が｜興元《こうげん》を捨て、宋が入る","乾徳二年十二月":"｜乾徳《けんとく》二年十二月","宋軍が興州を破ると、後蜀の招討使韓保正は山南（興元）を捨てて西県に退き、追われて捕えられた":"｜宋《そう》軍が｜興州《こうしゅう》を破ると、｜後蜀《こうしょく》の招討使韓保正は山南（｜興元《こうげん》）を捨てて西県に退き、追われて捕えられた","モンゴルが武休関を破って興元に入り、宋の蜀口の防衛が崩れる":"モンゴルが武休関を破って｜興元《こうげん》に入り、宋の蜀口の防衛が崩れる","金州が宋から元に降った年月は見つからない。南宋の滅亡（1279年）で元とした":"金州が宋から元に降った年月は見つからない。｜南宋《なんそう》の滅亡（1279年）で元とした","金の陝西経略使完顔杲（撒離喝）と斉の招撫使劉夔の軍が商州に入り、宋の守将邵隆が上津へ退く":"金の｜陝西《せんせい》経略使｜完顔《かんがん》｜杲《こう》（撒離喝）と斉の｜招撫《しょうぶ》使劉夔の軍が商州に入り、宋の守将邵隆が上津へ退く","紹興二年十二月":"｜紹興《しょうこう》二年十二月","金軍が金州・興元から退いた後、宋が商州を回復して知州を置く":"金軍が金州・｜興元《こうげん》から退いた後、宋が商州を回復して知州を置く","紹興三年五月":"｜紹興《しょうこう》三年五月","紹興の和議に従い、商州を金に割く":"｜紹興《しょうこう》の和議に従い、商州を金に割く","海陵王の南伐に乗じ、宋の金州軍が商州を取る":"｜海陵王《かいりょうおう》の｜南伐《なんばつ》に乗じ、宋の金州軍が商州を取る","隆興の和議で宋が商・秦の地を割き、金が商州を取る":"｜隆興《りゅうこう》の和議で宋が商・秦の地を割き、金が商州を取る","大定四年十二月":"｜大定《たいてい》四年十二月","三峰山で金の主力が敗れた年、商州の金の官が民を率いてモンゴルに降る":"｜三峰山《さんぽうざん》で金の主力が敗れた年、商州の金の官が民を率いてモンゴルに降る","太宗四年（壬辰）":"｜太宗《たいそう》四年（壬辰）","階州が後周に降る":"階州が｜後周《こうしゅう》に降る","顕徳二年閏九月":"｜顕徳《けんとく》二年閏九月","後周が秦州を取ると、成・階の2州も後周に降る":"｜後周《こうしゅう》が｜秦州《しんしゅう》を取ると、成・階の2州も｜後周《こうしゅう》に降る","端平三年（翌嘉熙元年にモンゴルの戍兵）":"｜端平《たんぺい》三年（翌｜嘉熙《かき》元年にモンゴルの戍兵）","成州が後周に降る":"成州が｜後周《こうしゅう》に降る","開禧の北伐の反撃で、金の蒲察貞が成州を破る":"｜開禧《かいき》の｜北伐《ほくばつ》の反撃で、金の蒲察貞が成州を破る","開禧二年十二月":"｜開禧《かいき》二年十二月","呉曦の誅殺の後、宋が成州を取り返す":"呉曦の｜誅殺《ちゅうさつ》の後、宋が成州を取り返す","開禧三年":"｜開禧《かいき》三年","モンゴルの闊端の蜀攻めで、関外四州（階・成・西和・鳳）が宋の手を離れる":"モンゴルの闊端の蜀攻めで、関外｜四州《ししゅう》（階・成・西和・鳳）が宋の手を離れる","徐州":"｜徐州《じょしゅう》","徐州市":"｜徐州《じょしゅう》市","後漢から後周への交替。劉贇の部下鞏廷美らが徐州で門を開かず抵抗したが、同じ951年に王彦超が攻め落とした":"｜後漢《ごかん》から｜後周《こうしゅう》への交替。｜劉《りゅう》｜贇《いん》の部下鞏｜廷美《ていび》らが｜徐州《じょしゅう》で門を開かず抵抗したが、同じ951年に王｜彦超《げんちょう》が攻め落とした","高宗が南京応天府で即位（北宋から南宋へ）":"｜高《こう》｜宗《そう》が｜南京《なんきん》｜応天府《おうてんふ》で即位（｜北宋《ほくそう》から｜南宋《なんそう》へ）","正月に金の宗翰が徐州を破って去り、三月に趙立が取り返したが、年末に趙立は城が孤立して食糧も無いとして兵民を率いて南へ去った":"正月に金の｜宗翰《そうかん》が｜徐州《じょしゅう》を破って去り、三月に趙立が取り返したが、年末に趙立は城が孤立して食糧も無いとして兵民を率いて南へ去った","金が劉豫を大斉皇帝に立て、旧河以南の金の占領地を斉に属させる":"金が｜劉豫《りゅうよ》を｜大斉《だいせい》皇帝に立て、旧河以南の金の占領地を斉に属させる","斉の領域に入る。徐州を誰がいつ押さえたかを書く記事は見つからない":"斉の領域に入る。｜徐州《じょしゅう》を誰がいつ押さえたかを書く記事は見つからない","金が劉豫を廃し、斉の領域を直轄にする":"金が｜劉豫《りゅうよ》を廃し、斉の領域を直轄にする","金が河南を宋に返す和議で徐州も宋に返り、宋が知徐州を任命する":"金が｜河南《かなん》を宋に返す和議で｜徐州《じょしゅう》も宋に返り、宋が知｜徐州《じょしゅう》を任命する","金が和議を破って河南を奪い返し、徐州に戍兵を置く":"金が和議を破って｜河南《かなん》を奪い返し、｜徐州《じょしゅう》に戍兵を置く","金の徐州節度副使郭恩が叛将麻琮と徐州を襲って破り、麻琮が州をモンゴルに降す":"金の｜徐州《じょしゅう》節度副使郭恩が叛将麻琮と｜徐州《じょしゅう》を襲って破り、麻琮が州をモンゴルに降す","1232年に徐州の兵が金の行省を逐い、国用安が入城したが、同じ年のうちに王徳全らと金への帰属を誓い、金は徐州に行省を置き続けた。1234年にはモンゴルの張栄がふたたび徐州を破り国用安が死んだ":"1232年に｜徐州《じょしゅう》の兵が金の行省を逐い、｜国用《こくよう》安が入城したが、同じ年のうちに王徳全らと金への帰属を誓い、金は｜徐州《じょしゅう》に行省を置き続けた。1234年にはモンゴルの張栄がふたたび｜徐州《じょしゅう》を破り｜国用《こくよう》安が死んだ","宿州":"｜宿州《しゅくしゅう》","宿州市":"｜宿州《しゅくしゅう》市","斉の知宿州胡斌がいる":"斉の知｜宿州《しゅくしゅう》胡斌がいる","金の任じた知宿州趙栄が割地を待たずに城ごと宋に帰す":"金の任じた知｜宿州《しゅくしゅう》趙栄が割地を待たずに城ごと宋に帰す","紹興九年正月":"｜紹興《しょうこう》九年正月","金が河南を奪い返す。宋の王徳がいったん宿州を取ったが、楊沂中の軍が潰えたあと金が入城して屠った":"金が｜河南《かなん》を奪い返す。宋の王徳がいったん｜宿州《しゅくしゅう》を取ったが、楊沂中の軍が潰えたあと金が入城して屠った","宿州が宋に帰する":"｜宿州《しゅくしゅう》が宋に帰する","金の滅亡後、金の寿春府防御使王弁が宋に帰して宿州を守った（元史地理志「金亡，宋复之」）":"金の滅亡後、金の｜寿春《じゅしゅん》府防御使王弁が宋に帰して｜宿州《しゅくしゅう》を守った（｜元史《げんし》地理志「金亡，宋复之」）","王弁が宿州をもってモンゴルに降る":"王弁が｜宿州《しゅくしゅう》をもってモンゴルに降る","己亥（1239年）に王弁が宿州をもってモンゴルに降った（元史・月里麻思伝は1238年とする）":"己亥（1239年）に王弁が｜宿州《しゅくしゅう》をもってモンゴルに降った（｜元史《げんし》・月里麻思伝は1238年とする）","鄆州（東平府）":"｜鄆州《うんしゅう》（東平府）","鄆州":"｜鄆州《うんしゅう》","斉の領域。劉豫は1129年に金の命で知東平府となり、斉の建国前から東平に拠っていた":"斉の領域。｜劉豫《りゅうよ》は1129年に金の命で知東平府となり、斉の建国前から東平に拠っていた","耿京（宋に通じた叛乱）":"耿京（宋に通じた｜叛乱《はんらん》）","海陵王の南征が崩れた後、耿京が莱蕪から起こって東平府に拠り、翌1162年正月に権知東平府として宋に使者を送った（拠った日は「先是」の回想で年月が無い）":"｜海陵王《かいりょうおう》の南征が崩れた後、耿京が莱蕪から起こって東平府に拠り、翌1162年正月に権知東平府として宋に使者を送った（拠った日は「先是」の回想で年月が無い）","モンゴルに長く囲まれた金の行省蒙古綱が東平を捨てて南へ走り、モンゴルに降った厳実が入城する":"モンゴルに長く囲まれた金の行省｜蒙古《もうこ》綱が東平を捨てて南へ走り、モンゴルに降った厳実が入城する","興定五年":"｜興定《こうてい》五年","斉州（済南府）":"斉州（｜済南《さいなん》府）","済南市":"｜済南《さいなん》市","知済南府の劉豫が城を出て金に降る":"知｜済南府《さいなんふ》の｜劉豫《りゅうよ》が城を出て金に降る","斉の領域。1129年から劉豫の子の劉麟が知済南府":"斉の領域。1129年から｜劉豫《りゅうよ》の子の｜劉《りゅう》｜麟《りん》が知｜済南府《さいなんふ》","宋に帰した李全が斉州に至り、金の守臣王贇が城ごと降る。同じ年に張林も済南などの版籍を宋に奉る":"宋に帰した李全が斉州に至り、金の守臣王贇が城ごと降る。同じ年に張林も｜済南《さいなん》などの版籍を宋に奉る","張栄が済南をもってモンゴルに降る":"張栄が｜済南《さいなん》をもってモンゴルに降る","丙戌（1226年）に張栄がモンゴルに降り、知済南府事とされた":"丙戌（1226年）に張栄がモンゴルに降り、知｜済南府《さいなんふ》事とされた","青州（益都）":"｜青州《せいしゅう》（益都）","青州":"｜青州《せいしゅう》","青州市":"｜青州《せいしゅう》市","金が再び青州を攻め、宋の京東東路安撫使劉洪道が城を棄てて去り、金が向大猷を知青州とする":"金が再び｜青州《せいしゅう》を攻め、宋の京東東路安撫使劉洪道が城を棄てて去り、金が向大猷を知｜青州《せいしゅう》とする","益都に拠った張林が李全を通じて青州など十二郡の版籍を宋に奉る":"益都に拠った張林が李全を通じて｜青州《せいしゅう》など十二郡の版籍を宋に奉る","京東安撫の張林が宋に叛いて京東諸郡をモンゴルに降し、益都等の都元帥府事とされる":"京東安撫の張林が宋に叛いて京東諸郡をモンゴルに降し、益都等の｜都元帥《とげんすい》｜府事《ふじ》とされる","嘉定十四年":"｜嘉定《かてい》十四年","張林が敗走し、宋の李全が青州に入って拠る":"張林が敗走し、宋の李全が｜青州《せいしゅう》に入って拠る","嘉定十五年":"｜嘉定《かてい》十五年","益都をモンゴルに長く囲まれた李全が城を出て降り、モンゴルの山東淮南楚州行省とされる":"益都をモンゴルに長く囲まれた李全が城を出て降り、モンゴルの｜山東《さんとう》｜淮南《わいなん》｜楚州《そしゅう》行省とされる","李全の死後は子の李璮がモンゴルの益都行省。1262年二月に李璮が叛いて宋に付いたが、七月に済南で敗死し、益都はモンゴルに門を開いた":"李全の死後は子の李璮がモンゴルの益都行省。1262年二月に李璮が叛いて宋に付いたが、七月に｜済南《さいなん》で敗死し、益都はモンゴルに門を開いた","1217年十二月にモンゴルが金の密州を取り、節度使が死んだ。金が取り返すのは翌1218年四月":"1217年十二月にモンゴルが金の密州を取り、｜節度使《せつどし》が死んだ。金が取り返すのは翌1218年四月","嘉定十一年":"｜嘉定《かてい》十一年","金が登州・莱州を破り、知莱州の呉鉌が金の左監軍完顔昌のもとにいる":"金が登州・莱州を破り、知莱州の呉鉌が金の左｜監軍《かんぐん》｜完顔《ワンヤン》昌のもとにいる","曲貴（宋に通じた叛乱）":"曲貴（宋に通じた｜叛乱《はんらん》）","正月に金が濰州を破り焼いて去った後、閻皋が知州を名乗って宋のために守ったが、同じ年に金の宗輔が山東をほぼ取り尽くす":"正月に金が濰州を破り焼いて去った後、閻皋が知州を名乗って宋のために守ったが、同じ年に金の｜宗輔《そうほ》が｜山東《さんとう》をほぼ取り尽くす","斉の領域。斉の建国前、金の左監軍完顔昌は濰州に留まった":"斉の領域。斉の建国前、金の左｜監軍《かんぐん》｜完顔《ワンヤン》昌は濰州に留まった","金が河北・山東の関隘をすべて捨てて河南を守り、山東南部はモンゴルに降った李全の勢力下に入る":"金が｜河北《かほく》・｜山東《さんとう》の関隘をすべて捨てて｜河南《かなん》を守り、｜山東《さんとう》南部はモンゴルに降った李全の勢力下に入る","兗州（襲慶府）":"｜兗州《えんしゅう》（襲慶府）","兗州":"｜兗州《えんしゅう》","兗州区":"｜兗州《えんしゅう》区","石珪が済・兗・単3州の総管になる":"石珪が済・兗・単3州の｜総管《そうかん》になる","1221年にモンゴルは降った石珪を済・兗・単3州の総管とした":"1221年にモンゴルは降った石珪を済・兗・単3州の｜総管《そうかん》とした","金が東平を捨てて西山東から退き、厳実が東平に入る":"金が東平を捨てて｜西山《せいざん》東から退き、厳実が東平に入る","聊城市":"｜聊城《りょうじょう》市","金が大名府（北京）とともに博州を押さえる":"金が｜大名府《たいめいふ》（北京）とともに博州を押さえる","斉の領域。1129年から劉豫が金のもとで大名府・博州などを節度していた":"斉の領域。1129年から｜劉豫《りゅうよ》が金のもとで｜大名府《たいめいふ》・博州などを節度していた","嘉定十三年":"｜嘉定《かてい》十三年","後周の右龍武将軍王漢璋が海州を落とす":"｜後周《こうしゅう》の右龍武将軍王漢璋が海州を落とす","顕徳五年正月丁亥":"｜顕徳《けんとく》五年正月丁亥","劉豫が薛安靖に海州を守らせた":"｜劉豫《りゅうよ》が薛安靖に海州を守らせた","劉豫が海州の守りに置いた薛安靖が、金・斉の戍兵を殺して城ごと宋に帰す":"｜劉豫《りゅうよ》が海州の守りに置いた薛安靖が、金・斉の戍兵を殺して城ごと宋に帰す","韓世忠の都統制王勝が海州を攻め取る":"韓世忠の｜都統《ととう》制王勝が海州を攻め取る","張俊が海州の城を毀って民を鎮江へ移し、和議で淮水を境として海州は金に属す":"張俊が海州の城を毀って民を鎮江へ移し、和議で｜淮水《わいすい》を境として海州は金に属す","紹興十一年":"｜紹興《しょうこう》十一年","紹興三十一年八月":"｜紹興《しょうこう》三十一年八月","和議のため宋が海州・泗州の戍兵を撤し、金が海州に入る":"和議のため宋が海州・｜泗州《ししゅう》の戍兵を撤し、金が海州に入る","モンゴルに降って山東淮南楚州行省となった李全が海州に拠る":"モンゴルに降って｜山東《さんとう》｜淮南《わいなん》｜楚州《そしゅう》行省となった李全が海州に拠る","李全は宋の官も帯びたまま1230年まで楚州・海州を往来した。1231年に李全が死ぬと妻の楊妙真と国用安がモンゴルに降り、1232年には楊妙真の「海州元帥」田福がいた。1258年には李璮が宋の海州（東海県に移した州治）と漣水軍を破った":"李全は宋の官も帯びたまま1230年まで｜楚州《そしゅう》・海州を往来した。1231年に李全が死ぬと妻の楊妙真と｜国用《こくよう》安がモンゴルに降り、1232年には楊妙真の「海州元帥」田福がいた。1258年には李璮が宋の海州（東海県に移した｜州治《しゅうち》）と漣水軍を破った","李全の死後、海州は宋に戻った（宋史地理志は1231年とするが、続資治通鑑の1232年にはまだ楊妙真の海州元帥がいる）。1235年に宋は州治を東海県へ移した。戻った年は原文で決まらないので1234年に置く":"李全の死後、海州は宋に戻った（｜宋史《そうし》地理志は1231年とするが、続｜資治通鑑《しじつがん》の1232年にはまだ楊妙真の海州元帥がいる）。1235年に宋は｜州治《しゅうち》を東海県へ移した。戻った年は原文で決まらないので1234年に置く","淳祐十二年（1252年）に李全の子李璮が朐山（海州の旧城）に拠った":"｜淳祐《じゅんゆう》十二年（1252年）に李全の子李璮が朐山（海州の旧城）に拠った","景定三年":"｜景定《けいてい》三年","乙未（1235年）にモンゴルの張栄が邳州を抜いた":"｜乙未《いつび》（1235年）にモンゴルの張栄が邳州を抜いた","成都府（益州）":"｜成都《せいと》府（｜益州《えきしゅう》）","成都府":"｜成都《せいと》府","成都市":"｜成都《せいと》市","西川節度使孟知祥が董璋とともに後唐に背く":"｜西川《せいせん》｜節度使《せつどし》｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》とともに｜後唐《こうとう》に背く","長興元年":"｜長興《ちょうこう》元年","孟知祥の本拠。934年に孟知祥が成都で帝位に即く":"｜孟知祥《もうちしょう》の本拠。934年に｜孟知祥《もうちしょう》が｜成都《せいと》で帝位に即く","後蜀の孟昶が宋に降り、後蜀の州は宋に帰す":"｜後蜀《こうしょく》の｜孟昶《もうちょう》が宋に降り、｜後蜀《こうしょく》の州は宋に帰す","乾徳三年正月":"｜乾徳《けんとく》三年正月","965年から966年にかけて全師雄らの乱が成都の周辺に及んだが、成都は宋が保った":"965年から966年にかけて全師雄らの乱が｜成都《せいと》の周辺に及んだが、｜成都《せいと》は宋が保った","モンゴル（塔海・汪世顕）が成都を落とす":"モンゴル（塔海・汪世顕）が｜成都《せいと》を落とす","淳祐元年":"｜淳祐《じゅんゆう》元年","部将田世顕が北門を開いて制置使陳隆之が死ぬ。モンゴルは降将田世顕を成州の栗亭に移しており、成都に守将を置いた記事は無い。1236年十月の闊端の入城は十一月に宋が成都府を回復したので歳末は宋のまま":"部将田世顕が北門を開いて制置使陳隆之が死ぬ。モンゴルは降将田世顕を成州の栗亭に移しており、｜成都《せいと》に守将を置いた記事は無い。1236年十月の闊端の入城は十一月に宋が｜成都《せいと》府を回復したので歳末は宋のまま","モンゴルが成都を築き直して守る":"モンゴルが｜成都《せいと》を築き直して守る","宝祐五年（丁巳）":"｜宝祐《ほうゆう》五年（丁巳）","劉黒馬の請いで成都を立て、紐璘が守将を置く。1258年に宋の蒲択之が成都を攻めたが敗れた。1272年十二月に宋の昝万寿が成都を攻め大城を壊したが、元は子城を保った":"劉黒馬の請いで｜成都《せいと》を立て、紐璘が守将を置く。1258年に宋の蒲択之が｜成都《せいと》を攻めたが敗れた。1272年十二月に宋の昝万寿が｜成都《せいと》を攻め大城を壊したが、元は｜子城《しじょう》を保った","孟知祥が董璋を破り、梓州が降って東川が孟知祥に帰す":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》を破り、梓州が降って｜東川《とうせん》が｜孟知祥《もうちしょう》に帰す","長興三年五月":"｜長興《ちょうこう》三年五月","董璋は梓州に逃げ帰って部下に殺され、梓州は孟知祥に降った":"｜董《とう》｜璋《しょう》は梓州に逃げ帰って部下に殺され、梓州は｜孟知祥《もうちしょう》に降った","潼川安撫副使・知瀘州の劉整が潼川十五軍州を挙げてモンゴルに降る":"潼川安撫｜副使《ふくし》・知瀘州の劉整が潼川十五軍州を挙げてモンゴルに降る","景定二年（中統二年）":"｜景定《けいてい》二年（｜中統《ちゅうとう》二年）","瀘州は翌年宋が取り返したが、潼川はモンゴルに残り、1262年に劉整が潼川都元帥となる。1265年九月の夏貴の潼川攻めは劉元礼に退けられた":"瀘州は翌年宋が取り返したが、潼川はモンゴルに残り、1262年に劉整が潼川｜都元帥《とげんすい》となる。1265年九月の夏貴の潼川攻めは劉元礼に退けられた","遂州（遂寧府）":"遂州（｜遂寧《すいねい》府）","遂寧市":"｜遂寧《すいねい》市","孟知祥の将李仁罕が遂州を陥れ、後唐の武信軍節度使夏魯奇が自殺":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜李《り》｜仁罕《じんかん》が遂州を陥れ、｜後唐《こうとう》の武信軍｜節度使《せつどし》夏魯奇が自殺","長興二年正月":"｜長興《ちょうこう》二年正月","930年十月から李仁罕が囲み、夏魯奇が年を越えて守った。930年の歳末はまだ後唐の城":"930年十月から｜李《り》｜仁罕《じんかん》が囲み、夏魯奇が年を越えて守った。930年の歳末はまだ｜後唐《こうとう》の城","1242年にモンゴル兵が遂寧を破ったが、守将を置いて年を越した記事は無い。1258年には宋の劉整らが遂寧江の箭灘渡でモンゴル軍を防いでいる":"1242年にモンゴル兵が｜遂寧《すいねい》を破ったが、守将を置いて年を越した記事は無い。1258年には宋の劉整らが｜遂寧《すいねい》江の箭灘渡でモンゴル軍を防いでいる","董璋の滅亡後、孟知祥は閬州を保寧軍とし、果州をその属州とした":"｜董《とう》｜璋《しょう》の滅亡後、｜孟知祥《もうちしょう》は閬州を｜保寧《ほねい》軍とし、果州をその属州とした","青居城の裨将劉淵が都統段元鑑を殺してモンゴルに降る":"青居城の裨将｜劉淵《りゅうえん》が｜都統《ととう》段元鑑を殺してモンゴルに降る","宝祐六年（戊午）":"｜宝祐《ほうゆう》六年（戊午）","順慶府の治所は淳祐九年から青居山。1276年正月に張珏の将趙安が青居を襲い安撫劉才を捕らえたが、城は保たなかった":"順慶府の治所は｜淳祐《じゅんゆう》九年から青居山。1276年正月に張珏の将趙安が青居を襲い安撫劉才を捕らえたが、城は保たなかった","東川が合州を武信軍（孟知祥の将李仁罕が取った遂州）に帰す":"｜東川《とうせん》が合州を武信軍（｜孟知祥《もうちしょう》の将｜李《り》｜仁罕《じんかん》が取った遂州）に帰す","長興二年":"｜長興《ちょうこう》二年","祥興二年（至元十六年）正月":"｜祥興《しょうこう》二年（｜至元《しげん》十六年）正月","渝州（重慶府）":"渝州（｜重慶《じゅうけい》府）","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","孟知祥の将張武が渝州に至り、後唐の刺史張環が降る":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜張武《ちょうぶ》が渝州に至り、｜後唐《こうとう》の｜刺史《しし》張環が降る","長興元年十一月":"｜長興《ちょうこう》元年十一月","都統趙安が城を開いて元に降り、制置使張珏が捕らわれる":"｜都統《ととう》趙安が城を開いて元に降り、制置使張珏が捕らわれる","景炎三年（至元十五年）":"｜景炎《けいえん》三年（｜至元《しげん》十五年）","孟知祥の将李仁罕が夔州を陥れ、後唐の寧江軍節度使安崇阮が逃げる":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜李《り》｜仁罕《じんかん》が夔州を陥れ、｜後唐《こうとう》の寧江軍｜節度使《せつどし》安崇阮が逃げる","長興二年三月":"｜長興《ちょうこう》二年三月","宋の劉光義が峡路を上り、夔州城を落とす。後蜀の寧江軍節度使高彦儔が自焚":"宋の劉光義が峡路を上り、夔州城を落とす。｜後蜀《こうしょく》の寧江軍｜節度使《せつどし》高彦儔が｜自焚《じふん》","孟知祥の将李仁罕が万州を陥れる":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜李《り》｜仁罕《じんかん》が万州を陥れる","宋の劉光義が夔州を発すると万州の刺史が迎え降る":"宋の劉光義が夔州を発すると万州の｜刺史《しし》が迎え降る","景炎元年（至元十三年）":"｜景炎《けいえん》元年（｜至元《しげん》十三年）","孟知祥の先鋒朱偓が涪州を取る":"｜孟知祥《もうちしょう》の｜先鋒《せんぽう》朱偓が涪州を取る","景炎三年（至元十五年）正月":"｜景炎《けいえん》三年（｜至元《しげん》十五年）正月","孟知祥の将張武が渝州を降し、続いて瀘州を取る":"｜孟知祥《もうちしょう》の将｜張武《ちょうぶ》が渝州を降し、続いて瀘州を取る","景定二年六月":"｜景定《けいてい》二年六月","呂文徳が瀘州を取り返し、江安軍と改める":"呂｜文徳《ぶんとく》が瀘州を取り返し、江安軍と改める","景定三年正月":"｜景定《けいてい》三年正月","徳祐元年六月":"｜徳祐《とくゆう》元年六月","景炎元年六月":"｜景炎《けいえん》元年六月","元史の本紀は安西王相府の報告を1278年正月の条に載せる":"｜元史《げんし》の｜本紀《ほんぎ》は｜安西王《あんせいおう》相府の報告を1278年正月の条に載せる","西川の支郡。孟知祥が後唐に背いた930年から孟知祥の側とした":"｜西川《せいせん》の支郡。｜孟知祥《もうちしょう》が｜後唐《こうとう》に背いた930年から｜孟知祥《もうちしょう》の側とした","徳祐元年（至元十二年）":"｜徳祐《とくゆう》元年（｜至元《しげん》十二年）","嘉州（嘉定府）":"嘉州（｜嘉定《かてい》府）","965年に宋の虎捷指揮使呂翰が嘉州で叛いて知州を殺したが、曹翰らが囲んで呂翰は城を棄てて雅州へ走った":"965年に宋の虎捷指揮使呂翰が嘉州で叛いて知州を殺したが、曹翰らが囲んで呂翰は城を棄てて｜雅州《がしゅう》へ走った","嘉定安撫使昝万寿が三亀・九頂などの城とともに元に降る":"｜嘉定《かてい》安撫使昝万寿が三亀・九頂などの城とともに元に降る","1252年に汪徳臣が嘉定に迫ったが余玠らが退けた":"1252年に汪徳臣が｜嘉定《かてい》に迫ったが余玠らが退けた","モンゴルの西川攻め（成都陥落）の後、眉州は荒廃する":"モンゴルの｜西川《せいせん》攻め（｜成都《せいと》陥落）の後、眉州は荒廃する","モンゴルが嘉定への道を扼するため旧眉州城を修築する":"モンゴルが｜嘉定《かてい》への道を扼するため旧眉州城を修築する","咸淳二年":"｜咸淳《かんじゅん》二年","元史の劉元礼伝は至元四年に趙璧が視察したとする。1271年には成都統軍司が眉州に移っている":"｜元史《げんし》の劉元礼伝は｜至元《しげん》四年に趙璧が視察したとする。1271年には｜成都《せいと》｜統軍《とうぐん》司が眉州に移っている","雅州":"｜雅州《がしゅう》","西川の支郡。孟知祥が後唐に背いた930年から孟知祥の側とした。後蜀は934年に雅州に永平軍を置いた":"｜西川《せいせん》の支郡。｜孟知祥《もうちしょう》が｜後唐《こうとう》に背いた930年から｜孟知祥《もうちしょう》の側とした。｜後蜀《こうしょく》は934年に｜雅州《がしゅう》に｜永平《えいへい》軍を置いた","呂翰が雅州に拠る":"呂翰が｜雅州《がしゅう》に拠る","後蜀の降伏で宋に入ったのち、嘉州で叛いた呂翰が曹彬らに敗れて雅州に走って拠り、年を越した。宋・遼・金・西夏の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け":"｜後蜀《こうしょく》の降伏で宋に入ったのち、嘉州で叛いた呂翰が曹｜彬《ひん》らに敗れて｜雅州《がしゅう》に走って拠り、年を越した。宋・遼・金・｜西夏《せいか》の地図と重なる年を揃えたときに見つけた抜け","宋が雅州を取る":"宋が｜雅州《がしゅう》を取る","王全斌が呂翰を破って雅州を取った":"王全斌が呂翰を破って｜雅州《がしゅう》を取った","モンゴルが雅州を攻め落とす":"モンゴルが｜雅州《がしゅう》を攻め落とす","嘉定の降伏に伴い黎州も元に入る":"｜嘉定《かてい》の降伏に伴い黎州も元に入る","孟知祥（後蜀）が利州を取る":"｜孟知祥《もうちしょう》（｜後蜀《こうしょく》）が利州を取る","長興二年二月":"｜長興《ちょうこう》二年二月","石敬瑭の伐蜀軍が退くと、両川の兵がこれを追い、後唐の昭武節度使李彦琦が城を捨てて逃げ、両川の兵が利州に入る。孟知祥は趙廷隠を昭武留後とした":"｜石敬瑭《せきけいとう》の伐｜蜀軍《しょくぐん》が退くと、｜両川《りょうせん》の兵がこれを追い、｜後唐《こうとう》の｜昭武《しょうぶ》｜節度使《せつどし》李彦琦が城を捨てて逃げ、｜両川《りょうせん》の兵が利州に入る。｜孟知祥《もうちしょう》は趙廷隠を｜昭武《しょうぶ》留後とした","乾徳二年十二月晦":"｜乾徳《けんとく》二年十二月晦","宋軍が大漫天寨を破り、後蜀の王昭遠らは桔柏津を渡って剣門に退き、宋の王全斌らが利州に入る":"｜宋《そう》軍が大漫天寨を破り、｜後蜀《こうしょく》の王昭遠らは桔柏津を渡って剣門に退き、宋の王全斌らが利州に入る","曹友聞が陽平関で敗死し、利州は兵乱で廃された。以後十七年間、地は荒れ民は散じた。宋は利州の知州を長寧山などの山城に置いたが、旧城には戻らなかった。1206年冬の呉曦の金への内通は密かなもので、蜀王を僭したのは1207年正月、二月に誅されたので歳末の持ち主は変わらない。1219年の張福の乱、1231年のモンゴル（拖雷）の通過も年内に去った":"曹友聞が陽平関で敗死し、利州は兵乱で廃された。以後十七年間、地は荒れ民は散じた。宋は利州の知州を長寧山などの山城に置いたが、旧城には戻らなかった。1206年冬の呉曦の金への内通は密かなもので、｜蜀王《しょくおう》を僭したのは1207年正月、二月に誅されたので歳末の持ち主は変わらない。1219年の張福の乱、1231年のモンゴル（｜拖雷《トルイ》）の通過も年内に去った","モンゴルが利州・閬州に城き、兵が耕しながら守った（元史は1253年正月）":"モンゴルが利州・閬州に城き、兵が耕しながら守った（｜元史《げんし》は1253年正月）","孟知祥が閬州を取る":"｜孟知祥《もうちしょう》が閬州を取る","長興三年":"｜長興《ちょうこう》三年","孟知祥が董璋を破って東川を併せ、閬州を再び保寧軍として趙廷隠に鎮めさせる":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》を破って｜東川《とうせん》を併せ、閬州を再び｜保寧《ほねい》軍として趙廷隠に鎮めさせる","後蜀の降伏":"｜後蜀《こうしょく》の降伏","後蜀の孟昶が宋に降る":"｜後蜀《こうしょく》の｜孟昶《もうちょう》が宋に降る","孟知祥が東川を併せる":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜東川《とうせん》を併せる","孟知祥が董璋を破って東川を併せる":"｜孟知祥《もうちしょう》が｜董《とう》｜璋《しょう》を破って｜東川《とうせん》を併せる","嘉定の降伏に続いて巴州などが元に下る":"｜嘉定《かてい》の降伏に続いて巴州などが元に下る","嘉熙四年に兵乱で民が散じたが、その後も宋の知巴州が城を守った（権巴州何震之が守城で戦死した記事がある）。1259年正月にモンゴルが巴州の平梁山を攻めたが落ちなかった":"｜嘉熙《かき》四年に兵乱で民が散じたが、その後も宋の知巴州が城を守った（権巴州何震之が守城で戦死した記事がある）。1259年正月にモンゴルが巴州の平｜梁山《りょうざん》を攻めたが落ちなかった","山南西道・武定軍が後蜀に降る":"｜山南西道《さんなんせいどう》・｜武定《ぶてい》軍が｜後蜀《こうしょく》に降る","後唐の山南西道節度使張虔釗・武定節度使孫漢韶が両鎮の地をもって後蜀に降る（通州は山南の巡属）":"｜後唐《こうとう》の｜山南西道《さんなんせいどう》｜節度使《せつどし》張｜虔釗《けんしょう》・｜武定《ぶてい》｜節度使《せつどし》孫｜漢韶《かんしょう》が両鎮の地をもって｜後蜀《こうしょく》に降る（｜通州《つうしゅう》は山南の巡属）","乾徳三年":"｜乾徳《けんとく》三年","後蜀の孟昶が宋に降る。同年、宋は通州を達州と改めた":"｜後蜀《こうしょく》の｜孟昶《もうちょう》が宋に降る。同年、宋は｜通州《つうしゅう》を達州と改めた","東川の本拠梓州が降り、東川の州はみな孟知祥に帰した（綿州個別の記事は見当たらない）":"｜東川《とうせん》の本拠梓州が降り、｜東川《とうせん》の州はみな｜孟知祥《もうちしょう》に帰した（綿州個別の記事は見当たらない）","紐璘が雲頂城を降し、成都・彭・漢・懐・綿などの州が平らぐ":"紐璘が雲頂城を降し、｜成都《せいと》・彭・漢・懐・綿などの州が平らぐ","1254年にはまだ宋が綿州の賦役を免じている":"1254年にはまだ宋が綿州の｜賦役《ふえき》を免じている","後唐の武泰軍節度使楊漢賓が黔南を棄てて忠州へ逃げ、孟知祥が武泰留後を置く":"｜後唐《こうとう》の｜武泰《ぶたい》軍｜節度使《せつどし》楊漢賓が黔南を棄てて忠州へ逃げ、｜孟知祥《もうちしょう》が｜武泰《ぶたい》留後を置く","元の楊文安が紹慶府を破り、郡守鮮龍を捕らえる":"元の楊文安が紹慶府を破り、｜郡守《ぐんしゅ》鮮龍を捕らえる","景炎三年（至元十五年）二月":"｜景炎《けいえん》三年（｜至元《しげん》十五年）二月","宝祐元年十二月":"｜宝祐《ほうゆう》元年十二月","昆明市":"｜昆明《こんめい》市","宝祐二年（甲寅）秋":"｜宝祐《ほうゆう》二年（甲寅）秋","永昌":"｜永昌《えいしょう》","大理国王段興智が捕らえられ、段氏はモンゴルの下で大理の諸部を治める":"大理国王段興智が捕らえられ、｜段氏《だんし》はモンゴルの下で大理の諸部を治める","宝祐二年":"｜宝祐《ほうゆう》二年","至元元年五月":"｜至元《しげん》元年五月","也速答児と皇子奥魯赤が建都蛮を攻め、酋長を捕らえて建都が降る":"也速答児と皇子奥魯赤が建都蛮を攻め、｜酋長《しゅうちょう》を捕らえて建都が降る","至元十年":"｜至元《しげん》十年","夏州（統万城）":"｜夏州《かしゅう》（｜統万城《とうまんじょう》）","夏州":"｜夏州《かしゅう》","党項の李氏（拓跋氏）が世襲する定難軍。李思諫は後梁に臣属し、兵を交えなかった。910年に岐・邠・涇と晋の周徳威が夏州を囲んだが、後梁の救援で解いた（帰属は変わらない）。933年に後唐は李彝超を延州へ移そうとし、安従進に夏州を攻めさせたが落とせず兵を退き、李彝超を改めて定難軍節度使に任じた。960年の宋の建国後も李彝興（彝殷）・李光叡・李継筠が定難軍節度使を継ぎ、979年の歳末も定難軍":"党項の｜李氏《りし》（拓跋氏）が世襲する定難軍。李思諫は｜後梁《こうりょう》に臣属し、兵を交えなかった。910年に岐・邠・涇と晋の周｜徳威《とくい》が｜夏州《かしゅう》を囲んだが、｜後梁《こうりょう》の救援で解いた（帰属は変わらない）。933年に｜後唐《こうとう》は李彝超を｜延州《えんしゅう》へ移そうとし、｜安従進《あんじゅうしん》に｜夏州《かしゅう》を攻めさせたが落とせず兵を退き、李彝超を改めて｜定難軍《ていなんぐん》｜節度使《せつどし》に任じた。960年の宋の建国後も李彝興（彝殷）・李光叡・李継筠が｜定難軍《ていなんぐん》｜節度使《せつどし》を継ぎ、979年の歳末も定難軍","太平興国七年":"｜太平興国《たいへいこうこく》七年","端拱元年":"｜端拱《たんきょう》元年","宋が李継捧（趙保忠）を定難軍節度使として夏州へ戻す。李継遷とは対立したが、夏州の李氏が定難軍を世襲する形に戻ったので西夏側として扱う":"宋が李継捧（趙保忠）を｜定難軍《ていなんぐん》｜節度使《せつどし》として｜夏州《かしゅう》へ戻す。李継遷とは対立したが、｜夏州《かしゅう》の｜李氏《りし》が定難軍を世襲する形に戻ったので｜西夏《せいか》側として扱う","趙保忠の失脚と夏州城の破却":"趙保忠の失脚と｜夏州《かしゅう》城の破却","淳化五年":"｜淳化《じゅんか》五年","趙保忠が捕らえられ、宋の李継隆が夏州に入る。宋は夏州の故城を毀ち住民を綏・銀へ移した":"趙保忠が捕らえられ、宋の李継隆が｜夏州《かしゅう》に入る。宋は｜夏州《かしゅう》の故城を毀ち住民を綏・銀へ移した","至道三年":"｜至道《しどう》三年","1038年に李元昊が帝を称して国号を大夏とした（西夏）":"1038年に｜李元昊《りげんこう》が帝を称して国号を｜大夏《たいか》とした（｜西夏《せいか》）","宝慶三年（夏の宝義二年）":"｜宝慶《ほうけい》三年（夏の宝義二年）","モンゴルが西夏の城邑をことごとく取り、夏主が降って西夏が滅ぶ":"モンゴルが｜西夏《せいか》の｜城邑《じょうゆう》をことごとく取り、｜夏主《かしゅ》が降って｜西夏《せいか》が滅ぶ","興州（興慶府）":"｜興州《こうしゅう》（｜興慶府《こうけいふ》）","興州":"｜興州《こうしゅう》","咸平四年九月":"｜咸平《かんぺい》四年九月","李継遷が霊州の懐遠鎮を囲み、宋の守兵は全滅した":"李継遷が｜霊州《れいしゅう》の懐遠鎮を囲み、宋の守兵は全滅した","モンゴルが西夏の王城（中興府）を囲み、夏主が降って西夏が滅ぶ":"モンゴルが｜西夏《せいか》の王城（｜中興府《ちゅうこうふ》）を囲み、｜夏主《かしゅ》が降って｜西夏《せいか》が滅ぶ","霊州":"｜霊州《れいしゅう》","霊武市":"｜霊武《れいぶ》市","李継遷の霊州攻略":"李継遷の｜霊州《れいしゅう》攻略","咸平五年三月":"｜咸平《かんぺい》五年三月","李継遷が蕃部を大いに集めて霊州を陥し、知州の裴済が死ぬ":"李継遷が蕃部を大いに集めて｜霊州《れいしゅう》を陥し、知州の裴済が死ぬ","銀州":"｜銀州《ぎんしゅう》","米脂県":"｜米脂《べいし》県","李継遷が銀州に拠る":"李継遷が｜銀州《ぎんしゅう》に拠る","雍熙二年二月":"｜雍熙《ようき》二年二月","李継遷が曹光実を誘殺し、銀州を襲って拠る":"李継遷が曹光実を誘殺し、｜銀州《ぎんしゅう》を襲って拠る","宋が銀州に住民を移す":"宋が｜銀州《ぎんしゅう》に住民を移す","趙保忠が捕らえられ、宋は夏州の住民を綏・銀に移して官地を分け与えた":"趙保忠が捕らえられ、宋は｜夏州《かしゅう》の住民を綏・銀に移して官地を分け与えた","宋が銀州を取る":"宋が｜銀州《ぎんしゅう》を取る","崇寧四年三月":"｜崇寧《すうねい》四年三月","鄜延路経略司の陶節夫が銀州を取って城を築く。翌1106年に州を廃して銀州城（銀川城）とした":"鄜延路経略司の陶節夫が｜銀州《ぎんしゅう》を取って城を築く。翌1106年に州を廃して｜銀州《ぎんしゅう》城（銀川城）とした","金の画界で西夏へ":"金の画界で｜西夏《せいか》へ","金が鄜延路を破り、陝西の北辺を米脂谷から北で西夏に分けた。銀州はその北にある":"金が鄜延路を破り、｜陝西《せんせい》の北辺を｜米脂《べいし》谷から北で｜西夏《せいか》に分けた。｜銀州《ぎんしゅう》はその北にある","モンゴルが銀州を取る":"モンゴルが｜銀州《ぎんしゅう》を取る","モンゴルの孛魯が銀州を攻め取り、都元帥の蒙古不華に要害を守らせて帰った":"モンゴルの孛魯が｜銀州《ぎんしゅう》を攻め取り、｜都元帥《とげんすい》の｜蒙古《もうこ》不華に要害を守らせて帰った","唐末から定難軍（夏州の党項李氏）の管下の州。933年、後唐が李彝超を移そうとした詔は「夏、银、绥、宥」の将士吏民に宛てている。943年に綏州刺史李彝敏が夏州の謀叛に加わろうとして発覚し、州を棄てて延州へ逃げたが、州は定難軍の手に残った。宋の代も李氏の一族が綏州刺史で、979年にも定難留後李継筠の配下に綏州刺史李光憲がいる":"唐末から定難軍（｜夏州《かしゅう》の党項｜李氏《りし》）の管下の州。933年、｜後唐《こうとう》が李彝超を移そうとした詔は「夏、银、绥、宥」の将士｜吏民《りみん》に宛てている。943年に綏州｜刺史《しし》李彝敏が｜夏州《かしゅう》の｜謀叛《むほん》に加わろうとして発覚し、州を棄てて｜延州《えんしゅう》へ逃げたが、州は定難軍の手に残った。宋の代も｜李氏《りし》の一族が綏州｜刺史《しし》で、979年にも定難留後李継筠の配下に綏州｜刺史《しし》李光憲がいる","趙保忠（李継捧）が定難軍節度使として5州を管する":"趙保忠（李継捧）が｜定難軍《ていなんぐん》｜節度使《せつどし》として5州を管する","种諤の綏州攻略":"｜种《ちゅう》｜諤《がく》の綏州攻略","治平四年":"｜治平《ちへい》四年","青澗城の种諤が西夏の嵬名山を降して綏州を取る":"青澗城の｜种《ちゅう》｜諤《がく》が｜西夏《せいか》の嵬名山を降して綏州を取る","建炎二年十一月（金の天会六年）":"｜建炎《けんえん》二年十一月（金の｜天会《てんかい》六年）","金の婁室が延安府を破り、綏徳軍が降る":"金の｜婁室《ろうしつ》が｜延安《えんあん》府を破り、綏徳軍が降る","金が陝西の地を劉豫の斉に与える":"金が｜陝西《せんせい》の地を｜劉豫《りゅうよ》の斉に与える","金が劉豫を廃し、斉の地は金へ":"金が｜劉豫《りゅうよ》を廃し、斉の地は金へ","陝西の返還":"｜陝西《せんせい》の返還","金が河南・陝西を宋に返し、宋は郭浩を鄜延路経略安抚使・知延安府とした":"金が｜河南《かなん》・｜陝西《せんせい》を宋に返し、宋は郭浩を鄜延路経略安抚使・知｜延安《えんあん》府とした","金の陝西奪回":"金の｜陝西《せんせい》奪回","金が陝西を奪回。延安では叛将の趙惟清が金に付いた":"金が｜陝西《せんせい》を奪回。｜延安《えんあん》では叛将の趙惟清が金に付いた","金の陝西放棄":"金の｜陝西《せんせい》放棄","モンゴルが鳳翔を取り、金は京兆の民を河南へ移して陝西を捨てた":"モンゴルが｜鳳翔《ほうしょう》を取り、金は京兆の民を｜河南《かなん》へ移して｜陝西《せんせい》を捨てた","咸平五年頃":"｜咸平《かんぺい》五年頃","霊州とともに李継遷の手に入る。1003年には李継遷が塩州に諸族を集めている":"｜霊州《れいしゅう》とともに李継遷の手に入る。1003年には李継遷が塩州に諸族を集めている","西夏の会州":"｜西夏《せいか》の会州","景祐四年（遅くともこの年まで）":"｜景祐《けいゆう》四年（遅くともこの年まで）","李元昊の領した州の中に会州がある":"｜李元昊《りげんこう》の領した州の中に会州がある","元符二年":"｜元符《げんぷ》二年","金が陝西を宋に返し、宋は楊政を熙河蘭鞏路経略安撫使とした。1141年には宋の将の朱勇が会州で慕容洧を退けている":"金が｜陝西《せんせい》を宋に返し、宋は楊政を熙河蘭鞏路経略安撫使とした。1141年には宋の将の朱勇が会州で｜慕容《ぼよう》洧を退けている","陝西の残地の割譲":"｜陝西《せんせい》の残地の割譲","紹興の和議で宋が陝西の残りの地を金に割く":"｜紹興《しょうこう》の和議で宋が｜陝西《せんせい》の残りの地を金に割く","宋の知蘭州の王宏が会州を抜く":"宋の知｜蘭州《らんしゅう》の王宏が会州を抜く","隆興元年":"｜隆興《りゅうこう》元年","呉璘が徳順から退き、秦鳳・熙河・永興3路の新たに取った州軍はすべて金に戻る":"呉璘が徳順から退き、秦鳳・熙河・｜永興《えいこう》3路の新たに取った州軍はすべて金に戻る","西夏の会州攻略":"｜西夏《せいか》の会州攻略","嘉定十三年八月（金の興定四年）":"｜嘉定《かてい》十三年八月（金の｜興定《こうてい》四年）","西夏が金の会州を取り、刺史の烏古論世顕が降る":"｜西夏《せいか》が金の会州を取り、｜刺史《しし》の｜烏古《うこ》論世顕が降る","元光二年（1223年）冬に金の郭蝦蟆と鞏州元帥田瑞が会州を夏から取り返した（夏が拠ってほぼ4年）":"｜元光《げんこう》二年（1223年）冬に金の郭蝦蟆と鞏州元帥田瑞が会州を夏から取り返した（夏が拠ってほぼ4年）","金の遺臣（郭斌）":"金の｜遺臣《いしん》（郭斌）","金の滅亡後も会州都総管郭斌が金のために守った":"金の滅亡後も会州都｜総管《そうかん》郭斌が金のために守った","会州の郭斌が自焚し、城が落ちる":"会州の郭斌が｜自焚《じふん》し、城が落ちる","金の滅亡後も会州都総管郭斌が金のために守り、1236年十月に城が破られた（元史・按竺邇伝は1234年の後に置く）":"金の滅亡後も会州都｜総管《そうかん》郭斌が金のために守り、1236年十月に城が破られた（｜元史《げんし》・按竺邇伝は1234年の後に置く）","西安州":"｜西安《せいあん》州","西夏の天都山":"｜西夏《せいか》の天都山","李元昊が天都などに兵を置いて環慶・鎮戎・原州に備えた":"｜李元昊《りげんこう》が天都などに兵を置いて環慶・鎮戎・原州に備えた","宋の西安州築城":"宋の｜西安《せいあん》州築城","宋が南牟会に西安州と天都などの砦を築く":"宋が南牟会に｜西安《せいあん》州と天都などの砦を築く","西夏の西安州攻略":"｜西夏《せいか》の｜西安《せいあん》州攻略","西夏が西安州を陥す":"｜西夏《せいか》が｜西安《せいあん》州を陥す","涼州（西涼府）":"｜涼州《りょうしゅう》（｜西涼府《せいりょうふ》）","涼州":"｜涼州《りょうしゅう》","武威市":"｜武威《ぶい》市","涼州の留後（唐の鄆州の戍兵の子孫の漢人と土豪）":"｜涼州《りょうしゅう》の留後（唐の｜鄆州《うんしゅう》の戍兵の子孫の漢人と土豪）","後梁は霊武節度使に河西節度を兼ねさせたが名だけで、涼州は自ら守将を立てた。中原へは使いを送って節度使の任命を求めた（933年に留後孫超、934年に留後李文謙、後漢の隠帝の時に留後折逋嘉施）。954年に申師厚が逃げ帰った後「凉州遂绝于中国」。964年に涼州の蕃部の首領数十人が宋に帥を求めた":"｜後梁《こうりょう》は｜霊武《れいぶ》｜節度使《せつどし》に｜河西《かせい》節度を兼ねさせたが名だけで、｜涼州《りょうしゅう》は自ら守将を立てた。｜中原《ちゅうげん》へは使いを送って｜節度使《せつどし》の任命を求めた（933年に留後孫超、934年に留後李文謙、｜後漢《ごかん》の｜隠帝《いんてい》の時に留後折逋嘉施）。954年に申師厚が逃げ帰った後「凉州遂绝于｜中国《ちゅうごく》」。964年に｜涼州《りょうしゅう》の蕃部の首領数十人が宋に帥を求めた","吐蕃（六谷部）":"｜吐蕃《とばん》（六谷部）","六谷部の首領巴勒結が涼州を治める":"六谷部の首領巴勒結が｜涼州《りょうしゅう》を治める","西涼府の六谷部の首領巴勒結（潘羅支）が宋から霊州西面都巡検使に任じられ、六谷が左右廂に分かれて涼州を治めていた。960〜979年は五代十国の地図の行（涼州の留後）を使う":"｜西涼府《せいりょうふ》の六谷部の首領巴勒結（潘羅支）が宋から｜霊州《れいしゅう》西面都巡検使に任じられ、六谷が左右廂に分かれて｜涼州《りょうしゅう》を治めていた。960〜979年は｜五代十国《ごだいじっこく》の地図の行（｜涼州《りょうしゅう》の留後）を使う","李元昊の西涼府攻略":"｜李元昊《りげんこう》の｜西涼府《せいりょうふ》攻略","明道元年":"｜明道《めいどう》元年","李元昊が甘州を陥した後、西涼府を攻め抜く":"｜李元昊《りげんこう》が｜甘州《かんしゅう》を陥した後、｜西涼府《せいりょうふ》を攻め抜く","モンゴルの西涼府攻略":"モンゴルの｜西涼府《せいりょうふ》攻略","宝慶二年":"｜宝慶《ほうけい》二年","モンゴルが西涼府と属県を取る":"モンゴルが｜西涼府《せいりょうふ》と属県を取る","甘州":"｜甘州《かんしゅう》","甘州回鶻":"｜甘州《かんしゅう》｜回鶻《かいこつ》","甘州は回鶻の牙帳。後梁の乾化元年（911）に都督周易言らを、後唐の荘宗の時に王仁美が使いを送り、荘宗は仁美を英義可汗に冊した。後周・宋にも入貢した（959年に玉を献じ、965年に于闐・瓜沙州とともに宋へ使い）":"｜甘州《かんしゅう》は｜回鶻《かいこつ》の牙帳。｜後梁《こうりょう》の｜乾化《けんか》元年（911）に都督周易言らを、｜後唐《こうとう》の｜荘宗《そうそう》の時に王仁美が使いを送り、｜荘宗《そうそう》は仁美を英義｜可汗《かがん》に冊した。｜後周《こうしゅう》・宋にも入貢した（959年に玉を献じ、965年に于闐・瓜｜沙州《さしゅう》とともに宋へ使い）","李元昊の甘州攻略":"｜李元昊《りげんこう》の｜甘州《かんしゅう》攻略","天聖六年":"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万緡を出させた。938年に遼は｜新州《しんしゅう》を奉聖州と改めた","媯州が契丹の手に入る":"媯州が｜契丹《きったん》の手に入る","936年の割譲の約束に含まれる。937年に契丹が威塞軍（新州）の節度使を従わせており、その属郡の媯州も契丹の手に入ったとみた。938年に遼は媯州を可汗州と改めた":"936年の割譲の約束に含まれる。937年に｜契丹《きったん》が威塞軍（｜新州《しんしゅう》）の｜節度使《せつどし》を従わせており、その属郡の媯州も｜契丹《きったん》の手に入ったとみた。938年に遼は媯州を｜可汗《かがん》州と改めた","大越":"｜大越《だいえつ》","涼州の留後":"｜涼州《りょうしゅう》の留後"}