{"唐公李淵":"｜唐公《とうこう》｜李淵《りえん》","李密":"｜李密《りみつ》","定楊":"｜定楊《ていよう》","梁（梁師都）":"梁（｜梁師都《りょうしと》）","梁（蕭銑）":"梁（｜蕭銑《しょうせん》）","楚（林士弘）":"楚（｜林士弘《りんしこう》）","楚（朱粲）":"楚（｜朱粲《しゅさん》）","杜伏威":"｜杜伏威《とふくい》","長安（大興・京兆）":"｜長安《ちょうあん》（大興・京兆）","長安":"｜長安《ちょうあん》","西安市":"｜西安《せいあん》市","隋の西京（大興城）。代王侑が留守":"隋の西京（｜大興城《だいこうじょう》）。｜代王《だいおう》｜侑《ゆう》が留守","李淵が長安を攻め落とし、代王侑を皇帝に立てる":"｜李淵《りえん》が｜長安《ちょうあん》を攻め落とし、｜代王《だいおう》｜侑《ゆう》を皇帝に立てる","李淵が受禅して唐を建てる":"｜李淵《りえん》が｜受禅《じゅぜん》して唐を建てる","武徳元年五月":"｜武徳《ぶとく》元年五月","扶風（岐州）":"｜扶風《ふふう》（｜岐州《きしゅう》）","扶風":"｜扶風《ふふう》","鳳翔区":"｜鳳翔《ほうしょう》区","613年に向海明、614年に唐弼が扶風で挙兵したが、郡城は隋が保った":"613年に向海明、614年に唐弼が｜扶風《ふふう》で挙兵したが、郡城は隋が保った","薛挙の包囲を李世民が破り、扶風太守竇璡が李淵に降る":"｜薛挙《せつきょ》の包囲を｜李《り》｜世民《せいみん》が破り、｜扶風《ふふう》｜太守《たいしゅ》竇璡が｜李淵《りえん》に降る","馮翊（同州）":"｜馮翊《ひょうよく》（｜同州《どうしゅう》）","馮翊":"｜馮翊《ひょうよく》","616年に馮翊の孫華が挙兵したが、郡城は太守蕭造が保った":"616年に｜馮翊《ひょうよく》の孫華が挙兵したが、郡城は｜太守《たいしゅ》蕭造が保った","馮翊太守蕭造が李淵に降る":"｜馮翊《ひょうよく》｜太守《たいしゅ》蕭造が｜李淵《りえん》に降る","613年に楊玄感が永豊倉を開こうと関中を目指したが、上洛へ敗走した":"613年に｜楊《よう》｜玄感《げんかん》が永豊倉を開こうと｜関中《かんちゅう》を目指したが、上洛へ敗走した","華陰令李孝常が永豊倉ごと李淵に降り、李建成が屯して潼関を守る":"華陰令李孝常が永豊倉ごと｜李淵《りえん》に降り、李建成が屯して｜潼関《どうかん》を守る","上洛令張仲琰が城を守ったが、部下が彼を殺して李淵に降る":"上洛令張仲琰が城を守ったが、部下が彼を殺して｜李淵《りえん》に降る","大業末（李淵の入関の時）":"｜大業《たいぎょう》末（｜李淵《りえん》の｜入関《にゅうかん》の時）","延安（延州）":"｜延安《えんあん》（｜延州《えんしゅう》）","延安":"｜延安《えんあん》","延安市":"｜延安《えんあん》市","614年に延安の劉迦論が挙兵したが、同じ年に屈突通に斬られた":"614年に｜延安《えんあん》の劉迦論が挙兵したが、同じ年に屈突通に斬られた","延安・上郡・雕陰の三郡が李淵に降を請う":"｜延安《えんあん》・上郡・｜雕陰《ちょういん》の三郡が｜李淵《りえん》に降を請う","李淵が受禅して唐を建てる。延州総管府を置く":"｜李淵《りえん》が｜受禅《じゅぜん》して唐を建てる。｜延州《えんしゅう》｜総管《そうかん》府を置く","上郡（鄜州）":"上郡（｜鄜州《ふしゅう》）","李淵が受禅して唐を建てる。上郡を鄜州と改める":"｜李淵《りえん》が｜受禅《じゅぜん》して唐を建てる。上郡を｜鄜州《ふしゅう》と改める","雕陰（綏州）":"｜雕陰《ちょういん》（綏州）","雕陰":"｜雕陰《ちょういん》","梁師都が雕陰を略定したのち、雕陰郡が李淵に降を請う（名目上の帰順）":"｜梁師都《りょうしと》が｜雕陰《ちょういん》を略定したのち、｜雕陰《ちょういん》郡が｜李淵《りえん》に降を請う（名目上の帰順）","雕陰の地が梁師都に没する（唐は620年に綏州を延州豊林県に仮に置いた）":"｜雕陰《ちょういん》の地が｜梁師都《りょうしと》に没する（唐は620年に綏州を｜延州《えんしゅう》豊林県に仮に置いた）","梁師都が滅び、綏州を旧地の上県に戻す":"｜梁師都《りょうしと》が滅び、綏州を旧地の上県に戻す","貞観二年":"｜貞観《じょうがん》二年","朔方（夏州・統万）":"｜朔方《さくほう》（｜夏州《かしゅう》・｜統万《とうまん》）","朔方":"｜朔方《さくほう》","朔方の鷹揚郎将梁師都が郡丞を殺して郡に拠り、のち皇帝を称して梁を建てる":"｜朔方《さくほう》の｜鷹揚郎将《ようようろうしょう》｜梁師都《りょうしと》が｜郡丞《ぐんじょう》を殺して郡に拠り、のち皇帝を称して梁を建てる","唐軍が朔方を囲み、従父弟の梁洛仁が梁師都を殺して城ごと降る":"唐軍が｜朔方《さくほう》を囲み、｜従父弟《じゅうふてい》の｜梁《りょう》｜洛仁《らくじん》が｜梁師都《りょうしと》を殺して城ごと降る","貞観二年四月":"｜貞観《じょうがん》二年四月","梁師都が突厥を河南の地に引き入れ、塩川郡を破る":"｜梁師都《りょうしと》が｜突厥《とっけつ》を｜河南《かなん》の地に引き入れ、｜塩川郡《えんせんぐん》を破る","梁師都が滅び、旧城に塩州を置き直す":"｜梁師都《りょうしと》が滅び、旧城に塩州を置き直す","楡林に流されていた郭子和が郡丞王才を斬って永楽王を称し、突厥に臣従する":"楡林に流されていた郭子和が｜郡丞《ぐんじょう》王才を斬って｜永楽《えいらく》王を称し、｜突厥《とっけつ》に臣従する","郭子和が唐に降り、楡林郡守・霊州総管を授けられる（自分の兵で楡林に居続けた）":"郭子和が唐に降り、楡林｜郡守《ぐんしゅ》・｜霊州《れいしゅう》｜総管《そうかん》を授けられる（自分の兵で楡林に居続けた）","武徳元年":"｜武徳《ぶとく》元年","突厥と絶った郭子和が民を率いて南へ移り、延州の故城に置かれる。楡林の地は梁師都に没する":"｜突厥《とっけつ》と絶った郭子和が民を率いて南へ移り、｜延州《えんしゅう》の故城に置かれる。楡林の地は｜梁師都《りょうしと》に没する","梁師都が滅び、勝州を置き直す":"｜梁師都《りょうしと》が滅び、勝州を置き直す","霊武（霊州）":"｜霊武《れいぶ》（｜霊州《れいしゅう》）","霊武":"｜霊武《れいぶ》","613年に霊武の白瑜娑（奴賊）が牧馬を掠めたが、城を取った記事は無い":"613年に｜霊武《れいぶ》の白瑜娑（奴賊）が牧馬を掠めたが、城を取った記事は無い","李淵が長安に入ると、霊武郡が使者を遣わして命を請う":"｜李淵《りえん》が｜長安《ちょうあん》に入ると、｜霊武《れいぶ》郡が使者を遣わして命を請う","竇抗が霊武・塩川などの郡を率いて降り、唐は霊州総管府を置く":"竇抗が｜霊武《れいぶ》・塩川などの郡を率いて降り、唐は｜霊州《れいしゅう》｜総管《そうかん》府を置く","弘化（慶州）":"｜弘化《こうか》（｜慶州《けいしゅう》）","弘化":"｜弘化《こうか》","613年に李淵が弘化留守となって関右の兵を率いた":"613年に｜李淵《りえん》が｜弘化《こうか》留守となって｜関右《かんゆう》の兵を率いた","梁師都が雕陰・弘化・延安などの郡を略定する":"｜梁師都《りょうしと》が｜雕陰《ちょういん》・｜弘化《こうか》・｜延安《えんあん》などの郡を略定する","唐が弘化郡を慶州と改める":"唐が｜弘化《こうか》郡を｜慶州《けいしゅう》と改める","北地（寧州）":"北地（｜寧州《ねいしゅう》）","李淵の政権（義寧の年号）が北地郡の属県を定める":"｜李淵《りえん》の政権（｜義寧《ぎねい》の年号）が北地郡の属県を定める","義寧元年":"｜義寧《ぎねい》元年","李淵が受禅して唐を建てる。八月に薛仁杲が寧州を囲んだが、刺史胡演が退ける":"｜李淵《りえん》が｜受禅《じゅぜん》して唐を建てる。八月に｜薛仁杲《せつじんこう》が｜寧州《ねいしゅう》を囲んだが、｜刺史《しし》胡演が退ける","安定（涇州）":"安定（｜涇州《けいしゅう》）","安定郡が李淵に使者を遣わして命を請う":"安定郡が｜李淵《りえん》に使者を遣わして命を請う","李淵が受禅して唐を建てる。薛挙・薛仁杲に囲まれたが、劉感・長平王叔良が涇州を守り抜く":"｜李淵《りえん》が｜受禅《じゅぜん》して唐を建てる。｜薛挙《せつきょ》・｜薛仁杲《せつじんこう》に囲まれたが、劉感・長｜平王《へいおう》叔良が｜涇州《けいしゅう》を守り抜く","平涼の奴賊が扶風を囲んだが、郡城を取った記事は無い":"平涼の奴賊が｜扶風《ふふう》を囲んだが、郡城を取った記事は無い","平涼留守張隆が李淵に降る":"平涼留守｜張隆《ちょうりゅう》が｜李淵《りえん》に降る","李淵が受禅して唐を建てる。十一月に薛仁杲を平らげて原州を置く":"｜李淵《りえん》が｜受禅《じゅぜん》して唐を建てる。十一月に｜薛仁杲《せつじんこう》を平らげて原州を置く","漢川（梁州・南鄭）":"｜漢川《かんせん》（｜梁州《りょうしゅう》・南鄭）","漢川":"｜漢川《かんせん》","漢中市":"｜漢中《かんちゅう》市","李孝恭が山南を招慰し、所至みな下る":"｜李孝恭《りこうきょう》が山南を｜招慰《しょうい》し、所至みな下る","617年十二月に李孝恭が山南を招慰して至る所が下り、漢中より奥の巴蜀もこの年に下った（公開前の点検で直した）":"617年十二月に｜李孝恭《りこうきょう》が山南を｜招慰《しょうい》して至る所が下り、｜漢中《かんちゅう》より奥の巴蜀もこの年に下った（公開前の点検で直した）","唐公李淵の勢力が唐に移る":"｜唐公《とうこう》｜李淵《りえん》の勢力が唐に移る","615年に蕭瑀が河池郡守として出された。617年に薛挙の子仁越が攻めたが蕭瑀が退けた":"615年に｜蕭《しょう》｜瑀《う》が河池｜郡守《ぐんしゅ》として出された。617年に｜薛挙《せつきょ》の｜子仁《しじん》越が攻めたが｜蕭《しょう》｜瑀《う》が退けた","河池太守蕭瑀が郡ごと李淵に降る":"河池｜太守《たいしゅ》｜蕭《しょう》｜瑀《う》が郡ごと｜李淵《りえん》に降る","博陵郡（613年に高陽郡と改称）":"博陵郡（613年に｜高陽《こうよう》郡と改称）","魏刀児を滅ぼした竇建徳に易州・定州が降る":"魏刀児を滅ぼした｜竇建徳《とうけんとく》に易州・定州が降る","武徳元年（冬・十一月以前）":"｜武徳《ぶとく》元年（冬・十一月以前）","劉黒闥が定州を陥れ、総管李玄通を捕らえる":"劉黒闥が定州を陥れ、｜総管《そうかん》李玄通を捕らえる","武徳四年十一月壬寅":"｜武徳《ぶとく》四年十一月壬寅","劉黒闥の再起で一時その手に落ちたが、幽州大総管李芸（羅芸）が取り返す":"劉黒闥の再起で一時その手に落ちたが、｜幽州《ゆうしゅう》大｜総管《そうかん》李芸（羅芸）が取り返す","武徳五年十二月癸亥":"｜武徳《ぶとく》五年十二月癸亥","河間（瀛州）":"｜河間《かかん》（瀛州）","河間":"｜河間《かかん》","河間市":"｜河間《かかん》市","河間郡。617年七月以降は竇建徳に囲まれるが、郡丞王琮が年をまたいで守る":"｜河間《かかん》郡。617年七月以降は｜竇建徳《とうけんとく》に囲まれるが、｜郡丞《ぐんじょう》王琮が年をまたいで守る","郡丞王琮が竇建徳に降り、瀛州刺史に任じられる":"｜郡丞《ぐんじょう》王琮が｜竇建徳《とうけんとく》に降り、瀛州｜刺史《しし》に任じられる","武徳元年（煬帝の死の報の後）":"｜武徳《ぶとく》元年（｜煬帝《ようだい》の死の報の後）","劉黒闥が瀛州を陥れ、刺史盧士睿を殺す":"劉黒闥が瀛州を陥れ、｜刺史《しし》盧士睿を殺す","武徳四年十月庚寅":"｜武徳《ぶとく》四年十月｜庚寅《こういん》","劉黒闥が饒陽で部将に捕らえられ、河北が唐に定まる":"劉黒闥が饒陽で部将に捕らえられ、｜河北《かほく》が唐に定まる","武徳六年正月":"｜武徳《ぶとく》六年正月","河間郡の県":"｜河間《かかん》郡の県","竇建徳が楽寿に壇を築いて長楽王を称する（618年にここを都と定める）":"｜竇建徳《とうけんとく》が楽寿に壇を築いて｜長楽王《ちょうらくおう》を称する（618年にここを都と定める）","武徳四年十月":"｜武徳《ぶとく》四年十月","渤海（滄州）":"｜渤海《ぼっかい》（｜滄州《そうしゅう》）","渤海":"｜渤海《ぼっかい》","渤海郡":"｜渤海《ぼっかい》郡","竇建徳が滄州を陥れる（同年四月には王孝師が唐の滄州総管に任じられていた）":"｜竇建徳《とうけんとく》が｜滄州《そうしゅう》を陥れる（同年四月には王孝師が唐の｜滄州《そうしゅう》｜総管《そうかん》に任じられていた）","武徳二年六月庚子":"｜武徳《ぶとく》二年六月｜庚子《こうし》","竇建徳の滅亡で唐に帰す":"｜竇建徳《とうけんとく》の滅亡で唐に帰す","武徳四年五月〜":"｜武徳《ぶとく》四年五月〜","武徳五年十一月庚辰":"｜武徳《ぶとく》五年十一月庚辰","恒山（真定）":"｜恒山《こうざん》（真定）","恒山":"｜恒山《こうざん》","恒山郡":"｜恒山《こうざん》郡","恒州が竇建徳に陥る":"恒州が｜竇建徳《とうけんとく》に陥る","竇建徳の滅亡で唐に帰す。同年秋には唐が恒州の兵を劉黒闥討伐に出している":"｜竇建徳《とうけんとく》の滅亡で唐に帰す。同年秋には唐が恒州の兵を劉黒闥討伐に出している","武徳四年":"｜武徳《ぶとく》四年","劉黒闥が恒州を陥れ、刺史王公政を殺す":"劉黒闥が恒州を陥れ、｜刺史《しし》王公政を殺す","武徳五年十二月戊午":"｜武徳《ぶとく》五年十二月戊午","竇建徳が趙州を陥れ、総管張志昂と慰撫使張道源を捕らえる":"｜竇建徳《とうけんとく》が趙州を陥れ、｜総管《そうかん》張志昂と慰撫使張道源を捕らえる","武徳二年九月庚寅":"｜武徳《ぶとく》二年九月｜庚寅《こういん》","劉黒闥が邢州・趙州を陥れる":"劉黒闥が｜邢州《けいしゅう》・趙州を陥れる","武徳四年十二月己巳":"｜武徳《ぶとく》四年十二月｜己巳《きし》","信都（冀州）":"｜信都《しんと》（｜冀州《きしゅう》）","信都":"｜信都《しんと》","冀州区":"｜冀州《きしゅう》区","信都郡":"｜信都《しんと》郡","郡丞麹稜は六月に唐に降って冀州刺史となったが、竇建徳に攻められて城が陥ちる":"｜郡丞《ぐんじょう》麹稜は六月に唐に降って｜冀州《きしゅう》｜刺史《しし》となったが、｜竇建徳《とうけんとく》に攻められて城が陥ちる","武徳元年（十一月以前）":"｜武徳《ぶとく》元年（十一月以前）","劉黒闥が冀州を陥れ、刺史麹稜を殺す":"劉黒闥が｜冀州《きしゅう》を陥れ、｜刺史《しし》麹稜を殺す","武徳四年十二月乙卯":"｜武徳《ぶとく》四年十二月乙卯","622年三月の洺水の敗戦で一度唐に戻ったが、十月の下博の戦いの後に河北の州県が再び劉黒闥に付いたので、622年の歳末も劉黒闥":"622年三月の洺水の敗戦で一度唐に戻ったが、十月の下博の戦いの後に｜河北《かほく》の州県が再び劉黒闥に付いたので、622年の歳末も劉黒闥","襄国（邢州）":"｜襄国《じょうこく》（｜邢州《けいしゅう》）","襄国":"｜襄国《じょうこく》","襄国郡":"｜襄国《じょうこく》郡","隋の襄国通守陳君賓が唐に降り、邢州刺史となる":"隋の｜襄国《じょうこく》通守陳君賓が唐に降り、｜邢州《けいしゅう》｜刺史《しし》となる","武徳元年九月":"｜武徳《ぶとく》元年九月","竇建徳が邢州を陥れ、総管陳君賓を捕らえる":"｜竇建徳《とうけんとく》が｜邢州《けいしゅう》を陥れ、｜総管《そうかん》陳君賓を捕らえる","武徳二年閏二月":"｜武徳《ぶとく》二年閏二月","622年二月に秦王世民が取り返したが、十月以降の再起で再び劉黒闥に付いたとみて、622年の歳末も劉黒闥とした":"622年二月に｜秦王《しんおう》｜世民《せいみん》が取り返したが、十月以降の再起で再び劉黒闥に付いたとみて、622年の歳末も劉黒闥とした","武安郡":"｜武安《ぶあん》郡","隋の武安通守袁子幹が唐に降る":"隋の｜武安《ぶあん》通守袁子幹が唐に降る","武徳元年五月甲寅":"｜武徳《ぶとく》元年五月甲寅","竇建徳が洺州を陥れ、総管袁子幹が降る。同年のうちに竇建徳は洺州へ都を移す":"｜竇建徳《とうけんとく》が洺州を陥れ、｜総管《そうかん》袁子幹が降る。同年のうちに｜竇建徳《とうけんとく》は洺州へ都を移す","武徳二年八月丁未":"｜武徳《ぶとく》二年八月丁未","武徳四年十二月丙寅":"｜武徳《ぶとく》四年十二月｜丙寅《へいいん》","622年三月の洺水の敗戦で唐に戻り（洺州総管廬江王瑗）、十月に劉黒闥が再び取ったので、622年の歳末も劉黒闥":"622年三月の洺水の敗戦で唐に戻り（洺州｜総管《そうかん》｜廬江《ろこう》王瑗）、十月に劉黒闥が再び取ったので、622年の歳末も劉黒闥","清河（貝州）":"｜清河《せいが》（｜貝州《ばいしゅう》）","清河":"｜清河《せいが》","清河県":"｜清河《せいが》県","清河郡。616年から通守楊善会が守る":"｜清河《せいが》郡。616年から通守楊善会が守る","信都を下した竇建徳が清河を囲み、四十日で城が陥ちて通守楊善会が殺される":"｜信都《しんと》を下した｜竇建徳《とうけんとく》が｜清河《せいが》を囲み、四十日で城が陥ちて通守楊善会が殺される","漳南（貝州の属県）で挙兵した劉黒闥が鄃県を陥れ、貝州刺史戴元祥を敗死させる":"漳南（｜貝州《ばいしゅう》の属県）で挙兵した劉黒闥が鄃県を陥れ、｜貝州《ばいしゅう》｜刺史《しし》戴元祥を敗死させる","武徳四年八月":"｜武徳《ぶとく》四年八月","622年三月の敗戦で唐に戻り、十月に貝州刺史許善護が鄃県で全滅した後、再び劉黒闥に付いたとみて622年の歳末も劉黒闥":"622年三月の敗戦で唐に戻り、十月に｜貝州《ばいしゅう》｜刺史《しし》許善護が鄃県で全滅した後、再び劉黒闥に付いたとみて622年の歳末も劉黒闥","平原郡。613年に賊帥杜彦冰らが郡城を陥れたが、略奪して去った":"平原郡。613年に｜賊帥《ぞくすい》杜彦冰らが郡城を陥れたが、略奪して去った","竇建徳の領域に入る（旧唐書地理志に竇建徳を平らげた後に徳州を置くとある）":"｜竇建徳《とうけんとく》の領域に入る（｜旧唐書《くとうじょ》地理志に｜竇建徳《とうけんとく》を平らげた後に徳州を置くとある）","魏郡（相州・鄴）":"｜魏郡《ぎぐん》（｜相州《そうしゅう》・鄴）","魏郡":"｜魏郡《ぎぐん》","隋の安陽令呂珉が相州をもって唐に降る":"隋の安陽令呂珉が｜相州《そうしゅう》をもって唐に降る","武徳元年六月戊寅":"｜武徳《ぶとく》元年六月戊寅","竇建徳が相州を陥れ、刺史呂珉を殺す":"｜竇建徳《とうけんとく》が｜相州《そうしゅう》を陥れ、｜刺史《しし》呂珉を殺す","武徳二年八〜九月己巳":"｜武徳《ぶとく》二年八〜九月｜己巳《きし》","劉黒闥が相州を攻め抜く":"劉黒闥が｜相州《そうしゅう》を攻め抜く","通鑑は相州の陥落を621年十二月に置き、考異で実録の「来年正月乙酉」を奏到の日として退ける。622年正月に秦王が取り返すまで劉黒闥の城（公開前の点検で直した）":"通鑑は｜相州《そうしゅう》の陥落を621年十二月に置き、｜考異《こうい》で｜実録《じつろく》の「来年正月｜乙酉《いつゆう》」を奏到の日として退ける。622年正月に｜秦王《しんおう》が取り返すまで劉黒闥の城（公開前の点検で直した）","武陽（魏州）":"｜武陽《ぶよう》（｜魏州《ぎしゅう》）","武陽":"｜武陽《ぶよう》","武陽郡":"｜武陽《ぶよう》郡","武陽郡丞元宝蔵が郡をもって李密に降り、魏州総管となる":"｜武陽《ぶよう》｜郡丞《ぐんじょう》元宝蔵が郡をもって｜李密《りみつ》に降り、｜魏州《ぎしゅう》｜総管《そうかん》となる","李密の魏州総管元宝蔵が自立して州を保つ":"｜李密《りみつ》の｜魏州《ぎしゅう》｜総管《そうかん》元宝蔵が自立して州を保つ","李密が唐に降った後、李密の将帥・州県の多くは隋（皇泰主）に降った。魏州総管の元宝蔵は州を保ち、619年正月に唐に降った（公開前の点検で直した）":"｜李密《りみつ》が唐に降った後、｜李密《りみつ》の将帥・州県の多くは隋（｜皇泰主《こうたいしゅ》）に降った。｜魏州《ぎしゅう》｜総管《そうかん》の元宝蔵は州を保ち、619年正月に唐に降った（公開前の点検で直した）","竇建徳の領域に入る（旧唐書地理志に竇建徳を平らげて魏州に復したとある）":"｜竇建徳《とうけんとく》の領域に入る（｜旧唐書《くとうじょ》地理志に｜竇建徳《とうけんとく》を平らげて｜魏州《ぎしゅう》に復したとある）","619年の歳末を竇建徳とした。同年秋に竇建徳が洺州・相州・黎陽・衛州を取った流れの中で入ったとみる":"619年の歳末を｜竇建徳《とうけんとく》とした。同年秋に｜竇建徳《とうけんとく》が洺州・｜相州《そうしゅう》・｜黎陽《れいよう》・｜衛州《えいしゅう》を取った流れの中で入ったとみる","劉黒闥が魏州を陥れ、総管潘道毅を殺す":"劉黒闥が｜魏州《ぎしゅう》を陥れ、｜総管《そうかん》潘道毅を殺す","武徳四年十二月庚午":"｜武徳《ぶとく》四年十二月庚午","三月の洺水の戦いで唐が取り返し、十月以降の劉黒闥の再起でも魏州総管田留安が守り通す":"三月の洺水の戦いで唐が取り返し、十月以降の劉黒闥の再起でも｜魏州《ぎしゅう》｜総管《そうかん》田留安が守り通す","武徳五年":"｜武徳《ぶとく》五年","黎陽":"｜黎陽《れいよう》","汲郡の県。613年六月に楊玄感がここで挙兵したが、同年のうちに隋が取り返した":"｜汲郡《きゅうぐん》の県。613年六月に｜楊《よう》｜玄感《げんかん》がここで挙兵したが、同年のうちに隋が取り返した","李密の将徐世勣らが黎陽倉を襲って拠る":"｜李密《りみつ》の将徐世勣らが｜黎陽《れいよう》倉を襲って拠る","李密の旧領を保っていた徐世勣が唐に帰順し、李の姓を賜る":"｜李密《りみつ》の旧領を保っていた徐世勣が唐に帰順し、李の姓を賜る","武徳元年十一月":"｜武徳《ぶとく》元年十一月","618年七月、北上した宇文化及が黎陽の県城に拠って倉城の徐世勣を囲んだが、年内に魏県へ去った":"618年七月、北上した｜宇文化及《うぶんかきゅう》が｜黎陽《れいよう》の県城に拠って倉城の徐世勣を囲んだが、年内に｜魏県《ぎけん》へ去った","竇建徳が黎陽を攻め落とし、淮安王神通らを捕らえる。降った李世勣に黎陽を守らせる":"｜竇建徳《とうけんとく》が｜黎陽《れいよう》を攻め落とし、淮安王神通らを捕らえる。降った李世勣に｜黎陽《れいよう》を守らせる","武徳二年十月":"｜武徳《ぶとく》二年十月","相州を抜いた後に南の黎・衛二州を取った（通鑑年十二月の条）（公開前の点検で直した）":"｜相州《そうしゅう》を抜いた後に南の黎・衛二州を取った（通鑑年十二月の条）（公開前の点検で直した）","秦王が相州を取り返し、劉黒闥は洺州へ退く":"｜秦王《しんおう》が｜相州《そうしゅう》を取り返し、劉黒闥は洺州へ退く","622年正月、秦王の軍が獲嘉に至ると劉黒闥は相州を棄てて洺州に退いた。黎・衛はその南にあり、以後は唐の城（公開前の点検で直した）":"622年正月、｜秦王《しんおう》の軍が獲嘉に至ると劉黒闥は｜相州《そうしゅう》を棄てて洺州に退いた。黎・衛はその南にあり、以後は唐の城（公開前の点検で直した）","汲郡（衛州・衛県）":"｜汲郡《きゅうぐん》（｜衛州《えいしゅう》・衛県）","汲郡":"｜汲郡《きゅうぐん》","唐が汲郡を衛州とする。宇文化及は同年に汲郡に入って糧を求めたが、北の魏県へ去った":"唐が｜汲郡《きゅうぐん》を｜衛州《えいしゅう》とする。｜宇文化及《うぶんかきゅう》は同年に｜汲郡《きゅうぐん》に入って糧を求めたが、北の｜魏県《ぎけん》へ去った","黎陽が陥ちたと聞いて衛州も竇建徳に降る":"｜黎陽《れいよう》が陥ちたと聞いて｜衛州《えいしゅう》も｜竇建徳《とうけんとく》に降る","劉黒闥が衛州を取る":"劉黒闥が｜衛州《えいしゅう》を取る","622年正月、秦王の軍が獲嘉（衛州の西）に至ると劉黒闥は相州を棄てて洺州に退いた。以後は唐の城（公開前の点検で直した）":"622年正月、｜秦王《しんおう》の軍が獲嘉（｜衛州《えいしゅう》の西）に至ると劉黒闥は｜相州《そうしゅう》を棄てて洺州に退いた。以後は唐の城（公開前の点検で直した）","馬邑（朔州）":"｜馬邑《ばゆう》（朔州）","馬邑":"｜馬邑《ばゆう》","馬邑郡":"｜馬邑《ばゆう》郡","劉武周が太守王仁恭を斬って馬邑で挙兵する":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が｜太守《たいしゅ》王｜仁恭《じんきょう》を斬って｜馬邑《ばゆう》で挙兵する","苑君璋（突厥に臣従）":"｜苑《えん》｜君璋《くんしょう》（｜突厥《とっけつ》に臣従）","劉武周が敗れて突厥へ逃げ、朔州を守っていた苑君璋が突厥の大行台として残衆を率いる":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が敗れて｜突厥《とっけつ》へ逃げ、朔州を守っていた｜苑《えん》｜君璋《くんしょう》が｜突厥《とっけつ》の｜大行《たいこう》台として｜残衆《ざんしゅう》を率いる","武徳三年":"｜武徳《ぶとく》三年","高満政が苑君璋を襲って馬邑ごと唐に降る。同年冬に突厥に一時奪われるが、突厥が和親を求めて馬邑を唐に返す":"高満政が｜苑《えん》｜君璋《くんしょう》を襲って｜馬邑《ばゆう》ごと唐に降る。同年冬に｜突厥《とっけつ》に一時奪われるが、｜突厥《とっけつ》が和親を求めて｜馬邑《ばゆう》を唐に返す","武徳六年六月":"｜武徳《ぶとく》六年六月","雁門（代州）":"｜雁門《がんもん》（｜代州《だいしゅう》）","雁門":"｜雁門《がんもん》","雁門郡。615年に煬帝が突厥に囲まれたが城は落ちていない":"｜雁門《がんもん》郡。615年に｜煬帝《ようだい》が｜突厥《とっけつ》に囲まれたが城は落ちていない","劉武周が百日余り囲み、校尉張倫が郡丞陳孝意を殺して降る":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が百日余り囲み、校尉張倫が｜郡丞《ぐんじょう》陳孝意を殺して降る","突厥":"｜突厥《とっけつ》","劉武周の敗走後、突厥の処羅可汗が晋陽まで来て石嶺以北に兵を留めて戍らせる":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》の敗走後、｜突厥《とっけつ》の｜処羅可汗《しょらかがん》が｜晋陽《しんよう》まで来て石嶺以北に兵を留めて戍らせる","代州総管李大恩が雁門に鎮を移し、石嶺以北を平定する":"｜代州《だいしゅう》｜総管《そうかん》李大恩が｜雁門《がんもん》に鎮を移し、石嶺以北を平定する","武徳四年正月":"｜武徳《ぶとく》四年正月","定襄（大利）":"｜定襄《ていじょう》（大利）","定襄":"｜定襄《ていじょう》","和林格爾県":"｜和林《おりん》格爾県","定襄郡（大利城）":"｜定襄《ていじょう》郡（大利城）","劉武周が楼煩・汾陽宮に続いて定襄を攻め落とす":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が楼煩・｜汾陽宮《ふんようきゅう》に続いて｜定襄《ていじょう》を攻め落とす","突厥（隋王楊政道）":"｜突厥《とっけつ》（隋王楊政道）","突厥の処羅可汗が楊政道を隋王に立て、定襄に置く（630年まで続く）":"｜突厥《とっけつ》の｜処羅可汗《しょらかがん》が楊政道を隋王に立て、｜定襄《ていじょう》に置く（630年まで続く）","楼煩郡":"｜楼煩郡《ろうはんぐん》","劉武周が楼煩郡を襲い破り、汾陽宮を取る":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が｜楼煩郡《ろうはんぐん》を襲い破り、｜汾陽宮《ふんようきゅう》を取る","叛胡（稽胡）":"叛胡（｜稽胡《けいこ》）","劉武周の敗走で一旦唐に戻ったのち、叛いた胡が嵐州を陥れる":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》の敗走で一旦唐に戻ったのち、叛いた胡が嵐州を陥れる","武徳三年九月ごろ":"｜武徳《ぶとく》三年九月ごろ","唐が劉武周の旧地を平定して州を置く（太子建成が稽胡を討った年）":"唐が｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》の旧地を平定して州を置く（太子建成が｜稽胡《けいこ》を討った年）","太原（晋陽）":"｜太原《たいげん》（｜晋陽《しんよう》）","太原":"｜太原《たいげん》","太原市":"｜太原《たいげん》市","太原郡（晋陽）":"｜太原《たいげん》郡（｜晋陽《しんよう》）","李淵が晋陽で挙兵し、子の元吉を太原太守として留守させて西へ向かう":"｜李淵《りえん》が｜晋陽《しんよう》で挙兵し、子の｜元吉《げんきつ》を｜太原《たいげん》｜太守《たいしゅ》として留守させて西へ向かう","李淵の勢力が唐に移る（五月の受禅）":"｜李淵《りえん》の勢力が唐に移る（五月の｜受禅《じゅぜん》）","斉王元吉が夜に城を棄てて長安へ逃げ、劉武周が太原に拠る":"｜斉王《せいおう》｜元吉《げんきつ》が夜に城を棄てて｜長安《ちょうあん》へ逃げ、｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が｜太原《たいげん》に拠る","武徳二年九月":"｜武徳《ぶとく》二年九月","宋金剛の敗北を聞いて劉武周が并州を棄てて突厥へ逃げる":"｜宋《そう》｜金剛《こんごう》の敗北を聞いて｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が｜并州《へいしゅう》を棄てて｜突厥《とっけつ》へ逃げる","武徳三年四月":"｜武徳《ぶとく》三年四月","西河郡が李淵の命に従わず、建成・世民が攻め落とす":"西河郡が｜李淵《りえん》の命に従わず、建成・｜世民《せいみん》が攻め落とす","李淵の勢力が唐に移る。619年に劉武周が南下したときも西河（浩州）だけは唐が守り通した":"｜李淵《りえん》の勢力が唐に移る。619年に｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が南下したときも西河（浩州）だけは唐が守り通した","離石（石州）":"｜離石《りせき》（石州）","離石":"｜離石《りせき》","離石区":"｜離石《りせき》区","離石郡。614年に離石胡の劉苗王が叛いたが城を取った記事は無い":"｜離石《りせき》郡。614年に｜離石《りせき》胡の劉苗王が叛いたが城を取った記事は無い","李淵の将張綸が離石を攻め落とし、太守楊子崇を殺す":"｜李淵《りえん》の将張綸が｜離石《りせき》を攻め落とし、｜太守《たいしゅ》楊子崇を殺す","劉季真（離石の稽胡・劉武周と結ぶ）":"劉季真（｜離石《りせき》の｜稽胡《けいこ》・｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》と結ぶ）","離石胡の劉季真が劉武周の兵を引いて石州を陥れ、刺史王倹を殺す":"｜離石《りせき》胡の劉季真が｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》の兵を引いて石州を陥れ、｜刺史《しし》王倹を殺す","武徳二年六月":"｜武徳《ぶとく》二年六月","劉季真が偽って唐に降り石州総管とされ、宋金剛の敗北後に石州を棄てて逃げる":"劉季真が偽って唐に降り石州｜総管《そうかん》とされ、｜宋《そう》｜金剛《こんごう》の敗北後に石州を棄てて逃げる","武徳三年三月〜四月":"｜武徳《ぶとく》三年三月〜四月","李淵の挙兵で西河郡とともに李淵に入り、介休郡が置かれる":"｜李淵《りえん》の挙兵で西河郡とともに｜李淵《りえん》に入り、介休郡が置かれる","劉武周が介州に迫り、沙門道澄の手引きで陥れる":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が介州に迫り、沙門道澄の手引きで陥れる","宋金剛が敗れ、尉遅敬徳と尋相が介休と永安を挙げて降る":"｜宋《そう》｜金剛《こんごう》が敗れ、｜尉遅敬徳《うっちけいとく》と尋相が介休と｜永安《えいあん》を挙げて降る","臨汾（晋州）":"臨汾（｜晋州《しんしゅう》）","霍邑で宋老生を破った李淵が臨汾郡に入る":"｜霍邑《かくゆう》で｜宋《そう》｜老生《ろうせい》を破った｜李淵《りえん》が臨汾郡に入る","劉武周の将宋金剛が晋州を攻め落とす":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》の将｜宋《そう》｜金剛《こんごう》が｜晋州《しんしゅう》を攻め落とす","武徳二年":"｜武徳《ぶとく》二年","兵糧の尽きた宋金剛が北へ退き、秦王世民が追う":"兵糧の尽きた｜宋《そう》｜金剛《こんごう》が北へ退き、｜秦王《しんおう》｜世民《せいみん》が追う","李淵の将張綸が龍泉・文城などの郡を下す":"｜李淵《りえん》の将張綸が龍泉・文城などの郡を下す","李淵の勢力が唐に移る。620年にも唐の隰州総管がいる":"｜李淵《りえん》の勢力が唐に移る。620年にも唐の隰州｜総管《そうかん》がいる","通守陳叔達が拒むが、李淵が攻め落とす":"通守陳｜叔達《しゅくたつ》が拒むが、｜李淵《りえん》が攻め落とす","李淵の勢力が唐に移る。619〜620年に宋金剛が絳州に迫り囲んだが落ちていない":"｜李淵《りえん》の勢力が唐に移る。619〜620年に｜宋《そう》｜金剛《こんごう》が絳州に迫り囲んだが落ちていない","河東（蒲坂）":"｜河東《かとう》（｜蒲坂《ほはん》）","河東":"｜河東《かとう》","永済市":"｜永済《えいせい》市","河東郡。617年は屈突通が守り、李淵が囲んだが落ちず、屈突通が西へ去った後は堯君素が守る。618年十二月に堯君素が部下に殺された後も王行本が隋のために守った":"｜河東《かとう》郡。617年は屈突通が守り、｜李淵《りえん》が囲んだが落ちず、屈突通が西へ去った後は堯君素が守る。618年十二月に堯君素が部下に殺された後も王｜行本《こうほん》が隋のために守った","隋の残存（王行本）":"隋の残存（王｜行本《こうほん》）","皇泰主が王世充に帝位を奪われた後も、王行本が蒲坂に拠り続け劉武周と通じる":"｜皇泰主《こうたいしゅ》が｜王世充《おうせいじゅう》に帝位を奪われた後も、王｜行本《こうほん》が｜蒲坂《ほはん》に拠り続け｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》と通じる","秦武通に攻められた王行本が兵糧尽きて門を開いて降る":"秦武通に攻められた王｜行本《こうほん》が兵糧尽きて門を開いて降る","武徳三年正月":"｜武徳《ぶとく》三年正月","上党（潞州）":"｜上党《じょうとう》（｜潞州《ろしゅう》）","上党":"｜上党《じょうとう》","上党郡":"｜上党《じょうとう》郡","上党郡が唐の潞州となる。620年に劉武周が属県の長子・壺関を陥れたが潞州城は守られた":"｜上党《じょうとう》郡が唐の｜潞州《ろしゅう》となる。620年に｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が属県の長子・壺関を陥れたが｜潞州《ろしゅう》城は守られた","太原郡の県":"｜太原《たいげん》郡の県","太原郡の県として李淵の挙兵に従ったとみなす（楽平そのものの記事は無い）":"｜太原《たいげん》郡の県として｜李淵《りえん》の挙兵に従ったとみなす（楽平そのものの記事は無い）","李淵の勢力が唐に移る。620年に唐が遼州を置く":"｜李淵《りえん》の勢力が唐に移る。620年に唐が遼州を置く","裴寂が敗れ、晋州以北の城鎮が劉武周に没する":"｜裴寂《はいじゃく》が敗れ、｜晋州《しんしゅう》以北の城鎮が｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》に没する","619年九月に裴寂が敗れて晋州以北の城鎮はみな没し、西河だけが残った。同じ月に并州も陥ちた。楽平は并州の県で、名を挙げた記事は無い（公開前の点検で直した）":"619年九月に｜裴寂《はいじゃく》が敗れて｜晋州《しんしゅう》以北の城鎮はみな没し、西河だけが残った。同じ月に｜并州《へいしゅう》も陥ちた。楽平は｜并州《へいしゅう》の県で、名を挙げた記事は無い（公開前の点検で直した）","劉武周が敗走し、唐が楽平に遼州を置く":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が敗走し、唐が楽平に遼州を置く","620年四月に劉武周が并州を棄てて走り、唐はこの年に楽平を治所とする遼州を置いた（公開前の点検で直した）":"620年四月に｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が｜并州《へいしゅう》を棄てて走り、唐はこの年に楽平を治所とする遼州を置いた（公開前の点検で直した）","洛陽（東都）":"｜洛陽《らくよう》（東都）","洛陽":"｜洛陽《らくよう》","洛陽市":"｜洛陽《らくよう》市","隋の東都。616年に煬帝が江都へ行き、越王侗が留守する":"隋の東都。616年に｜煬帝《ようだい》が｜江都《こうと》へ行き、｜越王《えつおう》侗が留守する","王世充が皇泰主から帝位を奪い、鄭を建てる":"｜王世充《おうせいじゅう》が｜皇泰主《こうたいしゅ》から帝位を奪い、鄭を建てる","武徳二年四月":"｜武徳《ぶとく》二年四月","竇建徳が虎牢で敗れ、王世充が秦王世民に降る":"｜竇建徳《とうけんとく》が｜虎牢《ころう》で敗れ、｜王世充《おうせいじゅう》が｜秦王《しんおう》｜世民《せいみん》に降る","武徳四年五月":"｜武徳《ぶとく》四年五月","河南郡の県。617年に李密が攻めたが落ちなかった":"｜河南《かなん》郡の県。617年に｜李密《りみつ》が攻めたが落ちなかった","王世充が鄭を建てる":"｜王世充《おうせいじゅう》が鄭を建てる","竇建徳の敗北を受けて唐に降る":"｜竇建徳《とうけんとく》の敗北を受けて唐に降る","河南郡鞏県。興洛倉（洛口倉）":"｜河南《かなん》郡鞏県。興洛倉（洛口倉）","李密・翟讓が興洛倉を襲って取り、鞏県の長も城ごと李密に降る。李密はここに洛口城を築いて本拠とする":"｜李密《りみつ》・翟讓が興洛倉を襲って取り、鞏県の長も城ごと｜李密《りみつ》に降る。｜李密《りみつ》はここに洛口城を築いて本拠とする","邙山で李密が王世充に敗れ、洛口を守る邴元真が城ごと王世充（東都の側）に降る":"｜邙山《ぼうざん》で｜李密《りみつ》が｜王世充《おうせいじゅう》に敗れ、洛口を守る邴元真が城ごと｜王世充《おうせいじゅう》（東都の側）に降る","竇建徳の敗北を受けて鞏県が唐に降る":"｜竇建徳《とうけんとく》の敗北を受けて鞏県が唐に降る","虎牢（汜水）":"｜虎牢《ころう》（｜汜水《しすい》）","虎牢":"｜虎牢《ころう》","滎陽市汜水鎮":"｜滎陽《けいよう》市｜汜水《しすい》鎮","滎陽郡汜水県。虎牢関。616年に裴仁基が河南道討捕大使として鎮する":"｜滎陽《けいよう》郡｜汜水《しすい》県。｜虎牢《ころう》関。616年に裴仁基が｜河南《かなん》道討捕大使として鎮する","裴仁基が監軍の蕭懐静を殺し、虎牢ごと李密に降る":"裴仁基が｜監軍《かんぐん》の蕭懐静を殺し、｜虎牢《ころう》ごと｜李密《りみつ》に降る","李密が王世充に敗れて虎牢から河陽へ逃れ、李密の将帥・州県の多くが隋（東都）に降る":"｜李密《りみつ》が｜王世充《おうせいじゅう》に敗れて｜虎牢《ころう》から｜河陽《かよう》へ逃れ、｜李密《りみつ》の将帥・州県の多くが隋（東都）に降る","王世充が鄭を建てる。鄭は兄の子の王行本に虎牢を守らせる":"｜王世充《おうせいじゅう》が鄭を建てる。鄭は兄の子の王｜行本《こうほん》に｜虎牢《ころう》を守らせる","鄭の鄭州司兵沈悦が内応し、唐将の王君廓が虎牢を取る。五月に秦王世民がここで竇建徳を破る":"鄭の鄭州司兵沈悦が内応し、唐将の王君廓が｜虎牢《ころう》を取る。五月に｜秦王《しんおう》｜世民《せいみん》がここで｜竇建徳《とうけんとく》を破る","武徳四年二月":"｜武徳《ぶとく》四年二月","滎陽（鄭州）":"｜滎陽《けいよう》（鄭州）","滎陽":"｜滎陽《けいよう》","滎陽郡の郡治・管城":"｜滎陽《けいよう》郡の郡治・管城","河南の諸郡がことごとく李密に付く中で最後まで隋を守った滎陽太守の郇王楊慶が、李密の書を受けて郡ごと降る":"｜河南《かなん》の諸郡がことごとく｜李密《りみつ》に付く中で最後まで隋を守った｜滎陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》の郇王楊慶が、｜李密《りみつ》の書を受けて郡ごと降る","李密の敗北で、その将帥・州県の多くが隋（東都）に降る。楊慶も洛陽に帰る":"｜李密《りみつ》の敗北で、その将帥・州県の多くが隋（東都）に降る。楊慶も｜洛陽《らくよう》に帰る","王世充が鄭を建て、楊慶を管州総管とする":"｜王世充《おうせいじゅう》が鄭を建て、楊慶を管州｜総管《そうかん》とする","管州総管の楊慶が唐に降り、李世勣が兵を率いて城に入る":"管州｜総管《そうかん》の楊慶が唐に降り、李世勣が兵を率いて城に入る","武徳三年十月":"｜武徳《ぶとく》三年十月","滎陽郡浚儀（汴州）":"｜滎陽《けいよう》郡浚儀（｜汴州《べんしゅう》）","滎陽郡浚儀":"｜滎陽《けいよう》郡浚儀","滎陽郡浚儀県":"｜滎陽《けいよう》郡浚儀県","浚儀が李密に陥れられ、県人の王要漢（王伯当の兄）が汴州刺史となる":"浚儀が｜李密《りみつ》に陥れられ、県人の王要漢（王伯当の兄）が｜汴州《べんしゅう》｜刺史《しし》となる","李密の旧領を保つ徐世勣が唐に帰す":"｜李密《りみつ》の旧領を保つ徐世勣が唐に帰す","李密は618年十月に唐に降り、十二月に桃林で背いて斬られたので、618年の暮れに李密の勢力は無い。李密の旧領（東は海・南は江・西は汝州・北は魏郡）は徐世勣が保ち、十一月にそれを唐に献じた。城ごとに唐の官が入った記事は無いので名目上の帰属とした（公開前の点検で直した）":"｜李密《りみつ》は618年十月に唐に降り、十二月に桃林で背いて斬られたので、618年の暮れに｜李密《りみつ》の勢力は無い。｜李密《りみつ》の旧領（東は海・南は江・西は｜汝州《じょしゅう》・北は｜魏郡《ぎぐん》）は徐世勣が保ち、十一月にそれを唐に献じた。城ごとに唐の官が入った記事は無いので名目上の帰属とした（公開前の点検で直した）","王世充が滑台まで地を攻め取りに来ると、汴州刺史の王要漢が使者を送って降る":"｜王世充《おうせいじゅう》が｜滑台《かつだい》まで地を攻め取りに来ると、｜汴州《べんしゅう》｜刺史《しし》の王要漢が使者を送って降る","王要漢が鄭の将の張慈宝を斬って唐に降り、汴州総管となる":"王要漢が鄭の将の張慈宝を斬って唐に降り、｜汴州《べんしゅう》｜総管《そうかん》となる","弘農（陝州）":"弘農（｜陝州《せんしゅう》）","河南郡陝県（弘農宮）":"｜河南《かなん》郡陝県（弘農宮）","長安を取った李淵の軍の劉文静らが東へ攻め、弘農郡を取って新安以西を平定する":"｜長安《ちょうあん》を取った｜李淵《りえん》の軍の｜劉文静《りゅうぶんせい》らが東へ攻め、弘農郡を取って｜新安《しんあん》以西を平定する","義寧元年十二月":"｜義寧《ぎねい》元年十二月","李淵が受禅して唐を建てる。陝州総管府を置く":"｜李淵《りえん》が｜受禅《じゅぜん》して唐を建てる。｜陝州《せんしゅう》｜総管《そうかん》府を置く","宜陽（熊州）":"｜宜陽《ぎよう》（熊州）","宜陽":"｜宜陽《ぎよう》","宜陽県":"｜宜陽《ぎよう》県","河南郡宜陽県":"｜河南《かなん》郡｜宜陽《ぎよう》県","東都を救いに来た李建成・李世民が引き返す途中で段達を破り、宜陽郡を置いて史万宝・盛彦師に守らせる":"東都を救いに来た李建成・｜李《り》｜世民《せいみん》が引き返す途中で｜段達《だんたつ》を破り、｜宜陽《ぎよう》郡を置いて史万宝・盛彦師に守らせる","義寧二年（武徳元年）四月":"｜義寧《ぎねい》二年（｜武徳《ぶとく》元年）四月","河内（懐州）":"｜河内《かだい》（｜懐州《かいしゅう》）","河内":"｜河内《かだい》","河内郡の郡治。617年には河内通守孟善誼が兵を率いて東都の救援に赴いている":"｜河内《かだい》郡の郡治。617年には｜河内《かだい》通守孟善誼が兵を率いて東都の救援に赴いている","王世充が鄭を建てる。河内の堡聚は王世充の持ち物として唐の陟州刺史に攻められる":"｜王世充《おうせいじゅう》が鄭を建てる。｜河内《かだい》の堡聚は｜王世充《おうせいじゅう》の持ち物として唐の陟州｜刺史《しし》に攻められる","鄭の懐州刺史陸善宗が城ごと唐に降る":"鄭の｜懐州《かいしゅう》｜刺史《しし》陸善宗が城ごと唐に降る","東郡（滑州・滑台）":"｜東郡《とうぐん》（｜滑州《かつしゅう》・｜滑台《かつだい》）","東郡":"｜東郡《とうぐん》","東郡（白馬・滑台）。瓦崗はこの郡の中にあるが、郡城は隋の通守王軌が守り続けた":"｜東郡《とうぐん》（白馬・｜滑台《かつだい》）。瓦崗はこの郡の中にあるが、郡城は隋の通守｜王軌《おうき》が守り続けた","北上してきた宇文化及に東郡通守の王軌が降るが（夏）、七月に王軌は李密に降って滑州総管となり、李密が敗れたあと十一月に滑州ごと唐に降る":"北上してきた｜宇文化及《うぶんかきゅう》に｜東郡《とうぐん》通守の｜王軌《おうき》が降るが（夏）、七月に｜王軌《おうき》は｜李密《りみつ》に降って｜滑州《かつしゅう》｜総管《そうかん》となり、｜李密《りみつ》が敗れたあと十一月に｜滑州《かつしゅう》ごと唐に降る","王軌が奴に殺され、滑州の吏民は竇建徳に降るが、その直後に王世充が自ら兵を率いて滑台まで地を攻め取る":"｜王軌《おうき》が奴に殺され、｜滑州《かつしゅう》の｜吏民《りみん》は｜竇建徳《とうけんとく》に降るが、その直後に｜王世充《おうせいじゅう》が自ら兵を率いて｜滑台《かつだい》まで地を攻め取る","三月に鄭の滑州行台僕射韓洪が救援に来た竇建徳に城門を開く。五月に竇建徳が虎牢で敗れ、王世充も降って唐に帰す":"三月に鄭の｜滑州《かつしゅう》｜行台《こうだい》｜僕射《ぼくや》韓洪が救援に来た｜竇建徳《とうけんとく》に城門を開く。五月に｜竇建徳《とうけんとく》が｜虎牢《ころう》で敗れ、｜王世充《おうせいじゅう》も降って唐に帰す","武徳四年三月・五月":"｜武徳《ぶとく》四年三月・五月","梁郡（宋州・睢陽）":"梁郡（｜宋州《そうしゅう》・｜睢陽《すいよう》）","梁郡の郡治。617年冬に滎陽とともに最後まで隋を守った郡":"梁郡の郡治。617年冬に｜滎陽《けいよう》とともに最後まで隋を守った郡","王世充が鄭を建てる。鄭は睢陽を梁州とする":"｜王世充《おうせいじゅう》が鄭を建てる。鄭は｜睢陽《すいよう》を｜梁州《りょうしゅう》とする","鄭の梁州総管程嘉会が唐に降り、杜伏威の将が梁を攻め取る":"鄭の｜梁州《りょうしゅう》｜総管《そうかん》程嘉会が唐に降り、｜杜伏威《とふくい》の将が梁を攻め取る","許昌市":"｜許昌《きょしょう》市","河南の諸郡が滎陽・梁郡を除いてことごとく李密に付く":"｜河南《かなん》の諸郡が｜滎陽《けいよう》・梁郡を除いてことごとく｜李密《りみつ》に付く","王世充が東へ地を攻め取り、河南の地はことごとく王世充に入る":"｜王世充《おうせいじゅう》が東へ地を攻め取り、｜河南《かなん》の地はことごとく｜王世充《おうせいじゅう》に入る","鄭の尉州刺史時徳睿が杞・夏・陳・随・許・潁・尉の七州を率いて唐に降る。十二月にも許・亳など十一州が降を請う":"鄭の尉州｜刺史《しし》時徳睿が杞・夏・陳・随・許・潁・尉の｜七州《しちしゅう》を率いて唐に降る。十二月にも許・亳など十一州が降を請う","武徳三年九月":"｜武徳《ぶとく》三年九月","襄城（汝州）":"｜襄城《じょうじょう》（｜汝州《じょしゅう》）","襄城":"｜襄城《じょうじょう》","汝州市":"｜汝州《じょしゅう》市","襄城郡の郡治":"｜襄城《じょうじょう》郡の郡治","河南の諸郡が李密に付く。李密は伊州を置き、襄城の人張善相を刺史とする":"｜河南《かなん》の諸郡が｜李密《りみつ》に付く。｜李密《りみつ》は伊州を置き、｜襄城《じょうじょう》の人張善相を｜刺史《しし》とする","李密の旧将張善相が伊州を保つ":"｜李密《りみつ》の旧将張善相が伊州を保つ","618年十二月、李密は伊州刺史の張善相を頼って東へ走る途中で斬られた。張善相が唐に降ったのは619年正月（公開前の点検で直した）":"618年十二月、｜李密《りみつ》は伊州｜刺史《しし》の張善相を頼って東へ走る途中で斬られた。張善相が唐に降ったのは619年正月（公開前の点検で直した）","正月に張善相が唐に降るが、王世充がたびたび伊州を攻め、四月に城が陥ちて張善相は死ぬ。十月には鄭の伊州刺史張殷が襄城にいる":"正月に張善相が唐に降るが、｜王世充《おうせいじゅう》がたびたび伊州を攻め、四月に城が陥ちて張善相は死ぬ。十月には鄭の伊州｜刺史《しし》張殷が｜襄城《じょうじょう》にいる","王世充が平らげられ、唐が伊州を置く":"｜王世充《おうせいじゅう》が平らげられ、唐が伊州を置く","淮陽（陳州）":"淮陽（｜陳州《ちんしゅう》）","淮陽太守趙陁が郡ごと李密に降る":"淮陽｜太守《たいしゅ》趙陁が郡ごと｜李密《りみつ》に降る","河南の地はことごとく王世充に入る":"｜河南《かなん》の地はことごとく｜王世充《おうせいじゅう》に入る","鄭の尉州刺史時徳睿が陳州を含む七州を率いて唐に降る":"鄭の尉州｜刺史《しし》時徳睿が｜陳州《ちんしゅう》を含む｜七州《しちしゅう》を率いて唐に降る","兗州総管の徐円朗が劉黒闥と通じて背き、陳州など八州の豪族が応じる":"｜兗州《えんしゅう》｜総管《そうかん》の徐円朗が劉黒闥と通じて背き、｜陳州《ちんしゅう》など八州の豪族が応じる","唐の行台民部尚書史万宝が徐円朗の陳州を攻め取る":"唐の｜行台《こうだい》民部尚書史万宝が徐円朗の｜陳州《ちんしゅう》を攻め取る","武徳五年四月":"｜武徳《ぶとく》五年四月","譙郡（亳州）":"譙郡（｜亳州《はくしゅう》）","亳州市":"｜亳州《はくしゅう》市","譙郡の群盗が李密に帰し、河南の諸郡が滎陽・梁郡を除いてことごとく李密に付く":"譙郡の群盗が｜李密《りみつ》に帰し、｜河南《かなん》の諸郡が｜滎陽《けいよう》・梁郡を除いてことごとく｜李密《りみつ》に付く","王世充が滑台まで地を攻め取りに来ると、亳州刺史の丁叔則が使者を送って降る":"｜王世充《おうせいじゅう》が｜滑台《かつだい》まで地を攻め取りに来ると、｜亳州《はくしゅう》｜刺史《しし》の丁叔則が使者を送って降る","武徳三年十二月":"｜武徳《ぶとく》三年十二月","汝南（豫州・蔡州）":"汝南（豫州・｜蔡州《さいしゅう》）","李密が房彦藻を東へ遣わし、安陸・汝南・淮安・済陽を取る":"｜李密《りみつ》が房彦藻を東へ遣わし、｜安陸《あんりく》・汝南・淮安・済陽を取る","王世充が平らげられ、唐が豫州総管府を置く":"｜王世充《おうせいじゅう》が平らげられ、唐が豫州｜総管《そうかん》府を置く","武徳四年四月":"｜武徳《ぶとく》四年四月","南陽（鄧州・穣）":"｜南陽《なんよう》（｜鄧州《とうしゅう》・穣）","南陽":"｜南陽《なんよう》","鄧州市":"｜鄧州《とうしゅう》市","南陽郡の郡治・穰。617年に王世充が南陽で盧明月を破る。郡丞の呂子臧が隋のために郡を守り続ける":"｜南陽《なんよう》郡の郡治・穰。617年に｜王世充《おうせいじゅう》が｜南陽《なんよう》で盧明月を破る。｜郡丞《ぐんじょう》の呂子臧が隋のために郡を守り続ける","六月に呂子臧が唐に降って鄧州刺史となるが、十月に冠軍で楚帝を称した朱粲が南陽を囲み、長雨で城壁が崩れて陥ち、呂子臧は戦死する":"六月に呂子臧が唐に降って｜鄧州《とうしゅう》｜刺史《しし》となるが、十月に｜冠軍《かんぐん》で｜楚帝《そてい》を称した｜朱粲《しゅさん》が｜南陽《なんよう》を囲み、長雨で城壁が崩れて陥ち、呂子臧は戦死する","武徳元年十月":"｜武徳《ぶとく》元年十月","朱粲は糧が尽きて各地を転々とし、正月に淮源で楊士林らに大敗して菊潭へ逃れる。唐は南陽郡を鄧州とする":"｜朱粲《しゅさん》は糧が尽きて各地を転々とし、正月に｜淮源《わいげん》で楊士林らに大敗して｜菊潭《きくたん》へ逃れる。唐は｜南陽《なんよう》郡を｜鄧州《とうしゅう》とする","楊士林は隋末に郡官を殺して郡に拠り、619年正月に朱粲を逐ってから唐に降った（公開前の点検で直した）":"楊士林は｜隋末《ずいまつ》に郡官を殺して郡に拠り、619年正月に｜朱粲《しゅさん》を逐ってから唐に降った（公開前の点検で直した）","淮安の土豪楊士林・田瓚が朱粲を淮源で破って逐い、漢東の四郡を率いて唐に降り、顕州道行台となる。唐の官を受けながら自分の兵で治める":"淮安の土豪楊士林・田瓚が｜朱粲《しゅさん》を｜淮源《わいげん》で破って逐い、漢東の四郡を率いて唐に降り、顕州道行台となる。唐の官を受けながら自分の兵で治める","武徳二年正月":"｜武徳《ぶとく》二年正月","李密が黎陽倉を取ったあと、武安・永安・義陽・弋陽・斉郡が相次いで李密に降る":"｜李密《りみつ》が｜黎陽《れいよう》倉を取ったあと、｜武安《ぶあん》・｜永安《えいあん》・義陽・弋陽・斉郡が相次いで｜李密《りみつ》に降る","宇文化及の乱のあと州人が盧祖尚を刺史に推す。盧祖尚は東都の皇泰主に使者を送って従い、光州総管を授かる":"｜宇文化及《うぶんかきゅう》の乱のあと州人が盧祖尚を｜刺史《しし》に推す。盧祖尚は東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》に使者を送って従い、光州｜総管《そうかん》を授かる","義寧二年三月":"｜義寧《ぎねい》二年三月","王世充が帝位を奪うと、盧祖尚は州ごと唐に帰順して光州刺史となる":"｜王世充《おうせいじゅう》が帝位を奪うと、盧祖尚は州ごと唐に帰順して光州｜刺史《しし》となる","丹陽（建康・蒋州）":"｜丹陽《たんよう》（｜建康《けんこう》・蒋州）","丹陽":"｜丹陽《たんよう》","南京市":"｜南京《なんきん》市","隋の丹陽郡。613年に劉元進が攻めたが吐万緒に撃退された":"隋の｜丹陽郡《たんようぐん》。613年に劉元進が攻めたが吐万緒に撃退された","沈法興":"｜沈法興《しんほうこう》","煬帝の弑逆の後、呉興太守沈法興が挙兵して余杭・毗陵・丹陽を下す（丹陽は宇文化及のために守っていた楽伯通から陳果仁が奪う）":"｜煬帝《ようだい》の｜弑逆《しいぎゃく》の後、呉興｜太守《たいしゅ》｜沈法興《しんほうこう》が挙兵して｜余杭《よこう》・｜毗陵《びりょう》・｜丹陽《たんよう》を下す（｜丹陽《たんよう》は｜宇文化及《うぶんかきゅう》のために守っていた楽｜伯通《はくつう》から陳果仁が奪う）","義寧二年（武徳元年）三月以後":"｜義寧《ぎねい》二年（｜武徳《ぶとく》元年）三月以後","李子通が沈法興から丹陽を得たのち、杜伏威の行台左僕射輔公祏が江を渡って丹陽を攻め取り、杜伏威が丹陽に移る（杜伏威は619年に唐に降ったが自分の兵で治め続けた）":"｜李子通《りしつう》が｜沈法興《しんほうこう》から｜丹陽《たんよう》を得たのち、｜杜伏威《とふくい》の｜行台《こうだい》｜左僕射《さぼくや》｜輔公祏《ほこうせき》が江を渡って｜丹陽《たんよう》を攻め取り、｜杜伏威《とふくい》が｜丹陽《たんよう》に移る（｜杜伏威《とふくい》は619年に唐に降ったが自分の兵で治め続けた）","武徳三年（是歳）":"｜武徳《ぶとく》三年（是歳）","杜伏威が長安に入朝する":"｜杜伏威《とふくい》が｜長安《ちょうあん》に入朝する","622年七月に杜伏威が入朝して長安に留められ、江淮の地は唐の行台の下に入った。杜伏威が自分の兵で治めた名目上の服属はここで終わりとした":"622年七月に｜杜伏威《とふくい》が入朝して｜長安《ちょうあん》に留められ、｜江淮《こうわい》の地は唐の｜行台《こうだい》の下に入った。｜杜伏威《とふくい》が自分の兵で治めた名目上の服属はここで終わりとした","杜伏威の入朝後、留守の輔公祏が丹陽で帝を称し国号を宋とする":"｜杜伏威《とふくい》の｜入朝《にゅうちょう》後、留守の｜輔公祏《ほこうせき》が｜丹陽《たんよう》で帝を称し国号を宋とする","武徳六年八月":"｜武徳《ぶとく》六年八月","趙郡王孝恭が丹陽を攻め取り、輔公祏は東へ逃れて捕らえられる":"趙郡王孝恭が｜丹陽《たんよう》を攻め取り、｜輔公祏《ほこうせき》は東へ逃れて捕らえられる","武徳七年三月戊戌":"｜武徳《ぶとく》七年三月戊戌","京口（延陵・潤州）":"｜京口《けいこう》（延陵・｜潤州《じゅんしゅう》）","京口":"｜京口《けいこう》","隋の江都郡延陵県":"隋の｜江都《こうと》郡延陵県","沈法興が江表の十余郡を押さえる。620年に李子通が攻めた時、京口は沈法興の城だった":"｜沈法興《しんほうこう》が江表の十余郡を押さえる。620年に｜李子通《りしつう》が攻めた時、｜京口《けいこう》は｜沈法興《しんほうこう》の城だった","義寧二年（武徳元年）":"｜義寧《ぎねい》二年（｜武徳《ぶとく》元年）","李子通が京口を取ったが、輔公祏に敗れて江都を棄てて京口を保ち、さらに東の太湖へ去る。京口は杜伏威が帰順して置いた潤州となる":"｜李子通《りしつう》が｜京口《けいこう》を取ったが、｜輔公祏《ほこうせき》に敗れて｜江都《こうと》を棄てて｜京口《けいこう》を保ち、さらに東の｜太湖《たいこ》へ去る。｜京口《けいこう》は｜杜伏威《とふくい》が帰順して置いた｜潤州《じゅんしゅう》となる","輔公祏の反乱でその地となる":"｜輔公祏《ほこうせき》の反乱でその地となる","武徳六年":"｜武徳《ぶとく》六年","輔公祏が平定され、再び潤州を置く":"｜輔公祏《ほこうせき》が平定され、再び｜潤州《じゅんしゅう》を置く","武徳七年":"｜武徳《ぶとく》七年","毗陵（常州）":"｜毗陵《びりょう》（常州）","毗陵":"｜毗陵《びりょう》","隋の毗陵郡。613年に朱燮・管崇が毗陵に陣を連ねたが吐万緒に破られ、616年には毗陵通守路道徳が離宮を造っている":"隋の｜毗陵《びりょう》郡。613年に朱燮・管崇が｜毗陵《びりょう》に陣を連ねたが吐万緒に破られ、616年には｜毗陵《びりょう》通守路道徳が｜離宮《りきゅう》を造っている","沈法興が毗陵通守路道徳を盟約にかこつけて殺し、その城に拠る。619年には梁王を称して毗陵を都とする":"｜沈法興《しんほうこう》が｜毗陵《びりょう》通守路道徳を盟約にかこつけて殺し、その城に拠る。619年には｜梁王《りょうおう》を称して｜毗陵《びりょう》を都とする","李子通に敗れた沈法興が毗陵を棄てて呉郡へ走り、毗陵は子通に降る。のち杜伏威が帰順して常州を置く":"｜李子通《りしつう》に敗れた｜沈法興《しんほうこう》が｜毗陵《びりょう》を棄てて｜呉郡《ごぐん》へ走り、｜毗陵《びりょう》は｜子通《しつう》に降る。のち｜杜伏威《とふくい》が帰順して常州を置く","輔公祏が平定され、常州を置き直す":"｜輔公祏《ほこうせき》が平定され、常州を置き直す","呉郡（蘇州）":"｜呉郡《ごぐん》（｜蘇州《そしゅう》）","呉郡":"｜呉郡《ごぐん》","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","隋の呉郡。613年に劉元進が朱燮・管崇に迎えられて呉郡に拠り天子を称したが、同じ年のうちに王世充に敗れて呉で死んだ（通鑑の年立て）":"隋の｜呉郡《ごぐん》。613年に劉元進が朱燮・管崇に迎えられて｜呉郡《ごぐん》に拠り天子を称したが、同じ年のうちに｜王世充《おうせいじゅう》に敗れて呉で死んだ（通鑑の年立て）","沈法興が江表の十余郡を押さえる。620年に李子通が呉郡の沈法興を襲っており、それまで呉郡は沈法興の城だった":"｜沈法興《しんほうこう》が江表の十余郡を押さえる。620年に｜李子通《りしつう》が｜呉郡《ごぐん》の｜沈法興《しんほうこう》を襲っており、それまで｜呉郡《ごぐん》は｜沈法興《しんほうこう》の城だった","李子通が呉郡の沈法興を襲って大破し、法興は城を棄てて逃れ江に身を投げる。子通は法興の地をすべて収める":"｜李子通《りしつう》が｜呉郡《ごぐん》の｜沈法興《しんほうこう》を襲って大破し、法興は城を棄てて逃れ江に身を投げる。｜子通《しつう》は法興の地をすべて収める","杜伏威の将王雄誕が蘇州で李子通を破り、余杭で降す。蘇州を置く":"｜杜伏威《とふくい》の将｜王雄誕《おうゆうたん》が｜蘇州《そしゅう》で｜李子通《りしつう》を破り、｜余杭《よこう》で降す。｜蘇州《そしゅう》を置く","武徳四年十一月":"｜武徳《ぶとく》四年十一月","輔公祏が平定され、蘇州都督を置く":"｜輔公祏《ほこうせき》が平定され、｜蘇州《そしゅう》都督を置く","呉興（湖州）":"呉興（｜湖州《こしゅう》）","湖州市":"｜湖州《こしゅう》市","隋末の呉興郡（隋志では呉郡の烏程県）。大業末に沈法興が呉興郡守":"｜隋末《ずいまつ》の呉興郡（隋志では｜呉郡《ごぐん》の烏程県）。｜大業《たいぎょう》末に｜沈法興《しんほうこう》が呉興｜郡守《ぐんしゅ》","呉興太守沈法興が宇文化及の討伐を名目に挙兵し、自立する":"呉興｜太守《たいしゅ》｜沈法興《しんほうこう》が｜宇文化及《うぶんかきゅう》の討伐を名目に挙兵し、自立する","李子通が沈法興を滅ぼし、その地をすべて収める":"｜李子通《りしつう》が｜沈法興《しんほうこう》を滅ぼし、その地をすべて収める","杜伏威の将王雄誕が李子通を平らげ、湖州を置く":"｜杜伏威《とふくい》の将｜王雄誕《おうゆうたん》が｜李子通《りしつう》を平らげ、｜湖州《こしゅう》を置く","輔公祏の平定":"｜輔公祏《ほこうせき》の平定","余杭（杭州）":"｜余杭《よこう》（｜杭州《こうしゅう》）","余杭":"｜余杭《よこう》","杭州市":"｜杭州《こうしゅう》市","隋の余杭郡。613年に余杭の民劉元進が挙兵したが、郡城を拠点にした記事は無い":"隋の｜余杭《よこう》郡。613年に｜余杭《よこう》の民劉元進が挙兵したが、郡城を拠点にした記事は無い","沈法興が挙兵して余杭を下す":"｜沈法興《しんほうこう》が挙兵して｜余杭《よこう》を下す","沈法興を滅ぼした李子通が余杭に都を移す":"｜沈法興《しんほうこう》を滅ぼした｜李子通《りしつう》が｜余杭《よこう》に都を移す","王雄誕に追われた李子通が杭州で窮して降り、杜伏威がその地を収める":"｜王雄誕《おうゆうたん》に追われた｜李子通《りしつう》が｜杭州《こうしゅう》で窮して降り、｜杜伏威《とふくい》がその地を収める","武徳四年十一月庚寅":"｜武徳《ぶとく》四年十一月｜庚寅《こういん》","会稽（越州）":"｜会稽《かいけい》（越州）","会稽":"｜会稽《かいけい》","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","隋の会稽郡。613年に劉元進に応じた勢力に囲まれたが、吐万緒が囲みを解いた":"隋の｜会稽《かいけい》郡。613年に劉元進に応じた勢力に囲まれたが、吐万緒が囲みを解いた","沈法興が江表の十余郡を押さえる。620年に李子通が収めた法興の地は「東は会稽を包む」とある":"｜沈法興《しんほうこう》が江表の十余郡を押さえる。620年に｜李子通《りしつう》が収めた法興の地は「東は｜会稽《かいけい》を包む」とある","李子通が沈法興の地を収め、東は会稽に及ぶ":"｜李子通《りしつう》が｜沈法興《しんほうこう》の地を収め、東は｜会稽《かいけい》に及ぶ","李子通の平定で越州総管を置く（杜伏威の地）":"｜李子通《りしつう》の平定で越州｜総管《そうかん》を置く（｜杜伏威《とふくい》の地）","輔公祏が左游仙を越州総管とし、会稽を守らせる":"｜輔公祏《ほこうせき》が左游仙を越州｜総管《そうかん》とし、｜会稽《かいけい》を守らせる","輔公祏が会稽の左游仙のもとへ逃げる途中で捕らえられ、江南が平定される":"｜輔公祏《ほこうせき》が｜会稽《かいけい》の左游仙のもとへ逃げる途中で捕らえられ、｜江南《こうなん》が平定される","隋の東陽郡。613年に劉元進に応じた豪傑が長吏を捕らえたとあるが、城を保った記事は無い。大業末に東陽の賊帥楼世幹が挙兵した":"隋の東陽郡。613年に劉元進に応じた豪傑が長吏を捕らえたとあるが、城を保った記事は無い。｜大業《たいぎょう》末に東陽の｜賊帥《ぞくすい》楼世幹が挙兵した","楼世幹の討伐で東陽にいた沈法興が、江都の変を聞いて東陽から兵を起こす":"楼世幹の討伐で東陽にいた｜沈法興《しんほうこう》が、｜江都《こうと》の変を聞いて東陽から兵を起こす","李子通が沈法興の地を収める（南は嶺に至るとある）":"｜李子通《りしつう》が｜沈法興《しんほうこう》の地を収める（南は嶺に至るとある）","李子通の平定で婺州を置く（杜伏威の地）":"｜李子通《りしつう》の平定で婺州を置く（｜杜伏威《とふくい》の地）","輔公祏の平定。江南が平らぐ":"｜輔公祏《ほこうせき》の平定。｜江南《こうなん》が平らぐ","永嘉（括州）":"｜永嘉《えいか》（括州）","永嘉":"｜永嘉《えいか》","隋の永嘉郡":"隋の｜永嘉《えいか》郡","619年四月に隋（東都の皇泰主）が絶えた後、唐に入るまで永嘉の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした":"619年四月に隋（東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》）が絶えた後、唐に入るまで｜永嘉《えいか》の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした","李子通が沈法興の地を収める。地理志は括州を「李子通を平らげて置く」とする":"｜李子通《りしつう》が｜沈法興《しんほうこう》の地を収める。地理志は括州を「｜李子通《りしつう》を平らげて置く」とする","李子通の平定で括州総管を置く（杜伏威の地）":"｜李子通《りしつう》の平定で括州｜総管《そうかん》を置く（｜杜伏威《とふくい》の地）","新安（歙州）":"｜新安《しんあん》（歙州）","新安":"｜新安《しんあん》","隋の新安郡":"隋の｜新安《しんあん》郡","汪華が新安に拠って呉王を称する":"汪華が｜新安《しんあん》に拠って｜呉王《ごおう》を称する","汪華が唐に使いを送って降り歙州総管を拝したが、王雄誕に攻められて新安洞口で降る。雄誕が歙州総管となる":"汪華が唐に使いを送って降り歙州｜総管《そうかん》を拝したが、｜王雄誕《おうゆうたん》に攻められて｜新安《しんあん》洞口で降る。雄誕が歙州｜総管《そうかん》となる","619年四月に隋（東都の皇泰主）が絶えた後、唐に入るまで宣城の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした":"619年四月に隋（東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》）が絶えた後、唐に入るまで宣城の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした","杜伏威が帰順し、宣州総管府を置く":"｜杜伏威《とふくい》が帰順し、宣州｜総管《そうかん》府を置く","輔公祏の反乱でその地となり、唐は李靖を宣州へ向かわせる":"｜輔公祏《ほこうせき》の反乱でその地となり、唐は｜李靖《りせい》を宣州へ向かわせる","建安（閩州）":"｜建安《けんあん》（閩州）","建安":"｜建安《けんあん》","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","隋の建安郡。613年に劉元進が建安に退いて拠り、614年六月には賊帥鄭文雅・林宝護が建安郡を陥して太守楊景祥が死んだが、いずれも城を保ち続けた記事は無い":"隋の｜建安《けんあん》郡。613年に劉元進が｜建安《けんあん》に退いて拠り、614年六月には｜賊帥《ぞくすい》鄭文雅・林宝護が｜建安《けんあん》郡を陥して｜太守《たいしゅ》楊景祥が死んだが、いずれも城を保ち続けた記事は無い","619年四月に隋（東都の皇泰主）が絶えた後、唐に入るまで建安の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした":"619年四月に隋（東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》）が絶えた後、唐に入るまで｜建安《けんあん》の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした","唐が建安郡の建安県に建州を置く。閩県には武徳六年に泉州を置く":"唐が｜建安《けんあん》郡の｜建安《けんあん》県に｜建州《けんしゅう》を置く。閩県には｜武徳《ぶとく》六年に｜泉州《せんしゅう》を置く","江都（揚州）":"｜江都《こうと》（｜揚州《ようしゅう》）","江都":"｜江都《こうと》","揚州市":"｜揚州《ようしゅう》市","江都郡。煬帝の行在":"｜江都《こうと》郡。｜煬帝《ようだい》の行在","陳稜が江都ごと唐に降ったのち、李子通が江都を攻め落として入り、帝を称して国号を呉とする":"陳稜が｜江都《こうと》ごと唐に降ったのち、｜李子通《りしつう》が｜江都《こうと》を攻め落として入り、帝を称して国号を呉とする","武徳二年四月（陳稜が唐に降る）・同年九月":"｜武徳《ぶとく》二年四月（陳稜が唐に降る）・同年九月","輔公祏・王雄誕に敗れた李子通が食尽きて江都を捨て京口へ退き、長江の北は杜伏威（唐に帰順済み）のものとなる":"｜輔公祏《ほこうせき》・｜王雄誕《おうゆうたん》に敗れた｜李子通《りしつう》が食尽きて｜江都《こうと》を捨て｜京口《けいこう》へ退き、｜長江《ちょうこう》の北は｜杜伏威《とふくい》（唐に帰順済み）のものとなる","輔公祏が丹陽で叛して宋を称する。広陵（江都）には輔公祏の城主龍龕が拠った":"｜輔公祏《ほこうせき》が｜丹陽《たんよう》で叛して宋を称する。｜広陵《こうりょう》（｜江都《こうと》）には｜輔公祏《ほこうせき》の城主龍龕が拠った","任瑰が揚子城を抜き、広陵の城主龍龕が降る":"任瑰が揚｜子城《しじょう》を抜き、｜広陵《こうりょう》の城主龍龕が降る","武徳七年三月":"｜武徳《ぶとく》七年三月","海陵":"｜海陵《かいりょう》","江都郡の県":"｜江都《こうと》郡の県","李子通が来整に敗れて海陵へ走り、将軍を称する":"｜李子通《りしつう》が来整に敗れて｜海陵《かいりょう》へ走り、将軍を称する","通鑑年の条。616年の「是時李子通海陵に拠る」はすでに居たことを言う（公開前の点検で直した）":"通鑑年の条。616年の「是時｜李子通《りしつう》｜海陵《かいりょう》に拠る」はすでに居たことを言う（公開前の点検で直した）","李子通が江都を捨てて江南へ退き、長江の北はことごとく杜伏威（唐に帰順済み）に入る":"｜李子通《りしつう》が｜江都《こうと》を捨てて｜江南《こうなん》へ退き、｜長江《ちょうこう》の北はことごとく｜杜伏威《とふくい》（唐に帰順済み）に入る","輔公祏の平定で杜伏威の旧領は唐の直轄となる":"｜輔公祏《ほこうせき》の平定で｜杜伏威《とふくい》の旧領は唐の直轄となる","山陽（楚州）":"山陽（｜楚州《そしゅう》）","海州の群雄臧君相が山陽・安宜の地に拠り、東楚州と号する（拠った年は原文に無い）":"海州の群雄臧君相が山陽・安宜の地に拠り、東｜楚州《そしゅう》と号する（拠った年は原文に無い）","臧君相が五州を挙げて唐に降り、海州総管となる。山陽は東楚州とされる":"臧君相が五州を挙げて唐に降り、海州｜総管《そうかん》となる。山陽は東｜楚州《そしゅう》とされる","武徳四年六月":"｜武徳《ぶとく》四年六月","江都郡の県。615年に孟譲が都梁宮に拠ったが、同じ年に王世充に破られて去った":"｜江都《こうと》郡の県。615年に孟譲が都梁宮に拠ったが、同じ年に｜王世充《おうせいじゅう》に破られて去った","619年四月に隋（東都の皇泰主）が絶えた後、唐に入るまで盱眙の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした":"619年四月に隋（東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》）が絶えた後、唐に入るまで盱眙の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした","盱眙に西楚州が置かれ、東楚州とあわせて総管が置かれる":"盱眙に西｜楚州《そしゅう》が置かれ、東｜楚州《そしゅう》とあわせて｜総管《そうかん》が置かれる","鍾離（濠州）":"｜鍾離《しょうり》（｜濠州《ごうしゅう》）","鍾離":"｜鍾離《しょうり》","鳳陽県":"｜鳳陽《ほうよう》県","鍾離郡":"｜鍾離《しょうり》郡","619年四月に隋（東都の皇泰主）が絶えた後、唐に入るまで鍾離の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした":"619年四月に隋（東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》）が絶えた後、唐に入るまで｜鍾離《しょうり》の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした","鍾離郡が唐の濠州とされる":"｜鍾離《しょうり》郡が唐の｜濠州《ごうしゅう》とされる","寿春（淮南・寿州）":"｜寿春《じゅしゅん》（｜淮南《わいなん》・｜寿州《じゅしゅう》）","寿春":"｜寿春《じゅしゅん》","淮南郡":"｜淮南《わいなん》郡","杜伏威が唐に帰順し、淮南郡は寿州とされる":"｜杜伏威《とふくい》が唐に帰順し、｜淮南《わいなん》郡は｜寿州《じゅしゅう》とされる","輔公祏の将陳政通が寿陽を攻め、翌年李世勣に抜かれるまで輔公祏が保つ":"｜輔公祏《ほこうせき》の将陳政通が寿陽を攻め、翌年李世勣に抜かれるまで｜輔公祏《ほこうせき》が保つ","李世勣が淮水を渡って寿陽を抜く":"李世勣が｜淮水《わいすい》を渡って寿陽を抜く","廬江（廬州・合肥）":"｜廬江《ろこう》（廬州・合肥）","廬江":"｜廬江《ろこう》","廬江郡。617年に張善安が襲って陥れたが、そのまま長江を渡って林士弘のもとへ去った":"｜廬江《ろこう》郡。617年に張｜善安《ぜんあん》が襲って陥れたが、そのまま｜長江《ちょうこう》を渡って｜林士弘《りんしこう》のもとへ去った","619年四月に隋（東都の皇泰主）が絶えた後、唐に入るまで廬江の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした":"619年四月に隋（東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》）が絶えた後、唐に入るまで｜廬江《ろこう》の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした","廬江郡が唐の廬州とされる":"｜廬江《ろこう》郡が唐の廬州とされる","歴陽（和州）":"｜歴陽《れきよう》（和州）","歴陽":"｜歴陽《れきよう》","歴陽郡":"｜歴陽《れきよう》郡","陳稜を破った杜伏威が歴陽郡を攻め取り、総管を称する":"陳稜を破った｜杜伏威《とふくい》が｜歴陽《れきよう》郡を攻め取り、｜総管《そうかん》を称する","杜伏威が皇泰主に上表し、東道大総管・楚王を授かる":"｜杜伏威《とふくい》が｜皇泰主《こうたいしゅ》に｜上表《じょうひょう》し、東道大｜総管《そうかん》・｜楚王《そおう》を授かる","宇文化及が授けた歴陽太守は受けず、東都の皇泰主に従った。619年に唐へ帰順した行と同じく、名目上の服属とした（公開前の点検で直した）":"｜宇文化及《うぶんかきゅう》が授けた｜歴陽《れきよう》｜太守《たいしゅ》は受けず、東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》に従った。619年に唐へ帰順した行と同じく、名目上の服属とした（公開前の点検で直した）","杜伏威が唐に降り、和州総管を授けられる（兵と地は自分で治め続ける）":"｜杜伏威《とふくい》が唐に降り、和州｜総管《そうかん》を授けられる（兵と地は自分で治め続ける）","武徳五年正月":"｜武徳《ぶとく》五年正月","周法明の族子周孝節が蘄春を抜く":"周法明の｜族子《ぞくし》周孝節が蘄春を抜く","周法明は隋末に黄梅に拠り、族子に蘄春を攻め抜かせ、621年五月に四郡で唐に降った。抜いた年は書かれないので、隋が絶えた619年に置いた（公開前の点検で直した）":"周法明は｜隋末《ずいまつ》に黄梅に拠り、｜族子《ぞくし》に蘄春を攻め抜かせ、621年五月に四郡で唐に降った。抜いた年は書かれないので、隋が絶えた619年に置いた（公開前の点検で直した）","黄梅に拠った周法明が族子孝節に蘄春を攻め取らせ、四郡を挙げて唐に降る":"黄梅に拠った周法明が｜族子《ぞくし》孝節に蘄春を攻め取らせ、四郡を挙げて唐に降る","永安（黄州）":"｜永安《えいあん》（｜黄州《こうしゅう》）","永安":"｜永安《えいあん》","黄州区":"｜黄州《こうしゅう》区","永安郡":"｜永安《えいあん》郡","永安の大族周法明が江・黄の地を挙げて李密に付く（遠隔地なので名目上の服属）":"｜永安《えいあん》の大族周法明が江・黄の地を挙げて｜李密《りみつ》に付く（遠隔地なので名目上の服属）","李密が王世充に敗れて関中の唐へ去り、周法明は自立のまま残る":"｜李密《りみつ》が｜王世充《おうせいじゅう》に敗れて｜関中《かんちゅう》の唐へ去り、周法明は自立のまま残る","武徳元年九〜十月":"｜武徳《ぶとく》元年九〜十月","周法明が四郡を挙げて唐に降り、黄州総管となる":"周法明が四郡を挙げて唐に降り、｜黄州《こうしゅう》｜総管《そうかん》となる","豫章（洪州）":"｜豫章《よしょう》（｜洪州《こうしゅう》）","豫章":"｜豫章《よしょう》","南昌市":"｜南昌《なんしょう》市","隋の豫章郡":"隋の｜豫章郡《よしょうぐん》","鄱陽の操師乞が豫章郡を陥れ、その死後は林士弘が衆を継いで楚の皇帝を称する":"｜鄱陽《はよう》の｜操師乞《そうしきつ》が｜豫章郡《よしょうぐん》を陥れ、その死後は｜林士弘《りんしこう》が衆を継いで楚の皇帝を称する","張善安が林士弘を襲って外郭を焼き、林士弘は南康へ移る。蕭銑の将の蘇胡児が豫章を襲って取る":"張｜善安《ぜんあん》が｜林士弘《りんしこう》を襲って外郭を焼き、｜林士弘《りんしこう》は｜南康《なんこう》へ移る。｜蕭銑《しょうせん》の将の蘇胡児が｜豫章《よしょう》を襲って取る","張善安":"張｜善安《ぜんあん》","蕭銑の将蘇胡児が守る豫章を張善安が奪う":"｜蕭銑《しょうせん》の将蘇胡児が守る｜豫章《よしょう》を張｜善安《ぜんあん》が奪う","新唐書の張善安伝は、張善安が蕭銑の将の守る豫章を奪い、それを持って唐に帰したと書く（年は無い）。蕭銑が降った621年の暮れには張善安の手にあったとみて、622年の帰順の前の年に置いた":"｜新唐書《しんとうじょ》の張善安伝は、張｜善安《ぜんあん》が｜蕭銑《しょうせん》の将の守る｜豫章《よしょう》を奪い、それを持って唐に帰したと書く（年は無い）。｜蕭銑《しょうせん》が降った621年の暮れには張｜善安《ぜんあん》の手にあったとみて、622年の帰順の前の年に置いた","豫章の賊帥張善安が虔・吉など五州をもって唐に降り、洪州総管を授けられる":"｜豫章《よしょう》の｜賊帥《ぞくすい》張｜善安《ぜんあん》が虔・吉など五州をもって唐に降り、｜洪州総管《こうしゅうそうかん》を授けられる","武徳五年春":"｜武徳《ぶとく》五年春","武徳六年三月に張善安が洪州で叛き輔公祏に応じたが、同年十二月に李大亮に捕らえられて衆は潰えたので、歳末は唐のまま":"｜武徳《ぶとく》六年三月に張｜善安《ぜんあん》が｜洪州《こうしゅう》で叛き｜輔公祏《ほこうせき》に応じたが、同年十二月に李大亮に捕らえられて衆は潰えたので、歳末は唐のまま","九江（江州）":"｜九江《きゅうこう》（｜江州《こうしゅう》）","九江":"｜九江《きゅうこう》","九江市":"｜九江《きゅうこう》市","隋の九江郡":"隋の｜九江《きゅうこう》郡","楚の皇帝を称した林士弘が九江郡を取る":"楚の皇帝を称した｜林士弘《りんしこう》が｜九江《きゅうこう》郡を取る","唐が林士弘から取って江州を置く（地理志による。通鑑に対応する記事は見当たらない）":"唐が｜林士弘《りんしこう》から取って｜江州《こうしゅう》を置く（地理志による。通鑑に対応する記事は見当たらない）","鄱陽（饒州）":"｜鄱陽《はよう》（｜饒州《じょうしゅう》）","鄱陽":"｜鄱陽《はよう》","鄱陽県":"｜鄱陽《はよう》県","隋の鄱陽郡":"隋の｜鄱陽《はよう》郡","鄱陽の人の操師乞・林士弘が挙兵し、九江から番禺までを領する":"｜鄱陽《はよう》の人の｜操師乞《そうしきつ》・｜林士弘《りんしこう》が挙兵し、｜九江《きゅうこう》から｜番禺《ばんぐう》までを領する","唐が江左を平らげて饒州を置く（地理志による）":"唐が江左を平らげて｜饒州《じょうしゅう》を置く（地理志による）","臨川（撫州）":"｜臨川《りんせん》（撫州）","臨川":"｜臨川《りんせん》","隋の臨川郡":"隋の｜臨川《りんせん》郡","林士弘が臨川郡を取る（豪傑が隋の守令を殺して応じる）":"｜林士弘《りんしこう》が｜臨川《りんせん》郡を取る（豪傑が隋の守令を殺して応じる）","林士弘が唐に降り、撫州が置かれる":"｜林士弘《りんしこう》が唐に降り、撫州が置かれる","武徳五年十月":"｜武徳《ぶとく》五年十月","廬陵（吉州）":"｜廬陵《ろりょう》（吉州）","廬陵":"｜廬陵《ろりょう》","隋の廬陵郡":"隋の｜廬陵《ろりょう》郡","林士弘が皇帝を称して廬陵郡を陥れる":"｜林士弘《りんしこう》が皇帝を称して｜廬陵《ろりょう》郡を陥れる","張善安が吉州を持つ":"張｜善安《ぜんあん》が吉州を持つ","622年二月に張善安が降した五州に吉州が入る。取った年は書かれず、遅くとも621年の暮れに置いた（公開前の点検で直した）":"622年二月に張｜善安《ぜんあん》が降した五州に吉州が入る。取った年は書かれず、遅くとも621年の暮れに置いた（公開前の点検で直した）","張善安が虔・吉など五州をもって唐に降る":"張｜善安《ぜんあん》が虔・吉など五州をもって唐に降る","宜春（袁州）":"宜春（｜袁州《えんしゅう》）","林士弘が宜春郡を取る":"｜林士弘《りんしこう》が宜春郡を取る","唐が蕭銑を平らげて袁州を置く（地理志による）":"唐が｜蕭銑《しょうせん》を平らげて｜袁州《えんしゅう》を置く（地理志による）","南康（虔州）":"｜南康《なんこう》（｜虔州《けんしゅう》）","南康":"｜南康《なんこう》","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","隋の南康郡":"隋の｜南康《なんこう》郡","林士弘が南康郡を取る。617年末に豫章を失った林士弘はここへ移る":"｜林士弘《りんしこう》が｜南康《なんこう》郡を取る。617年末に｜豫章《よしょう》を失った｜林士弘《りんしこう》はここへ移る","張善安が虔州を持つ":"張｜善安《ぜんあん》が｜虔州《けんしゅう》を持つ","622年二月に張善安が虔・吉など五州をもって唐に降ったので、それより前に虔州（南康）は林士弘ではなく張善安の手にあった。取った年は書かれず、遅くとも621年の暮れに置いた（公開前の点検で直した）":"622年二月に張｜善安《ぜんあん》が虔・吉など五州をもって唐に降ったので、それより前に｜虔州《けんしゅう》（｜南康《なんこう》）は｜林士弘《りんしこう》ではなく張｜善安《ぜんあん》の手にあった。取った年は書かれず、遅くとも621年の暮れに置いた（公開前の点検で直した）","江陵（南郡・荊州）":"｜江陵《こうりょう》（南郡・｜荊州《けいしゅう》）","江陵":"｜江陵《こうりょう》","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","蕭銑の将楊道生が南郡を下し、蕭銑が巴陵から江陵へ都を移す":"｜蕭銑《しょうせん》の将楊道生が南郡を下し、｜蕭銑《しょうせん》が｜巴陵《はりょう》から｜江陵《こうりょう》へ都を移す","武徳元年（通鑑は四月の条）":"｜武徳《ぶとく》元年（通鑑は四月の条）","李孝恭・李靖が江陵を囲み、蕭銑が城を開いて降る":"｜李孝恭《りこうきょう》・｜李靖《りせい》が｜江陵《こうりょう》を囲み、｜蕭銑《しょうせん》が城を開いて降る","夷陵郡の郡治。郡の通守許紹が郡境を保ち、煬帝が殺された後は郡ごと東都の越王侗に遥かに属した":"夷陵郡の郡治。郡の通守許紹が郡境を保ち、｜煬帝《ようだい》が殺された後は郡ごと東都の｜越王《えつおう》侗に遥かに属した","隋の夷陵郡丞許紹が黔安・武陵・澧陽などの郡を率いて唐に降り、峡州刺史となる":"隋の夷陵｜郡丞《ぐんじょう》許紹が黔安・武陵・澧陽などの郡を率いて唐に降り、峡州｜刺史《しし》となる","襄陽（襄州）":"｜襄陽《じょうよう》（襄州）","襄陽":"｜襄陽《じょうよう》","襄陽市":"｜襄陽《じょうよう》市","襄陽郡の郡治":"｜襄陽《じょうよう》郡の郡治","王世充が皇泰主から帝位を奪い、東都の系統の城が鄭に移る。620年には王世充の甥の魏王王弘烈が襄陽を鎮守している":"｜王世充《おうせいじゅう》が｜皇泰主《こうたいしゅ》から帝位を奪い、東都の系統の城が鄭に移る。620年には｜王世充《おうせいじゅう》の甥の｜魏王《ぎおう》王弘烈が｜襄陽《じょうよう》を鎮守している","王世充の行台王弘烈らが襄州をもって唐に降る":"｜王世充《おうせいじゅう》の｜行台《こうだい》王弘烈らが襄州をもって唐に降る","武徳四年七月":"｜武徳《ぶとく》四年七月","竟陵（郢州）":"竟陵（｜郢州《えいしゅう》）","竟陵郡の郡治（長寿）":"竟陵郡の郡治（｜長寿《ちょうじゅ》）","蕭銑が帝を称し、その版図が東は九江・西は三峡・南は交趾・北は漢川に及ぶ":"｜蕭銑《しょうせん》が帝を称し、その版図が東は｜九江《きゅうこう》・西は｜三峡《さんきょう》・南は交趾・北は｜漢川《かんせん》に及ぶ","武徳元年（義寧二年）":"｜武徳《ぶとく》元年（｜義寧《ぎねい》二年）","郡治の長寿を蕭銑が押さえた記事は無く、版図の総括による":"郡治の｜長寿《ちょうじゅ》を｜蕭銑《しょうせん》が押さえた記事は無く、版図の総括による","唐の郭行方が蕭銑の鄀州（竟陵郡の楽郷などに置いた州）を抜き、十月に蕭銑が降る":"唐の郭行方が｜蕭銑《しょうせん》の鄀州（竟陵郡の楽郷などに置いた州）を抜き、十月に｜蕭銑《しょうせん》が降る","武徳四年七月〜十月":"｜武徳《ぶとく》四年七月〜十月","安陸（安州）":"｜安陸《あんりく》（安州）","安陸":"｜安陸《あんりく》","安陸市":"｜安陸《あんりく》市","安陸郡の郡治":"｜安陸《あんりく》郡の郡治","李密が房彦藻を遣わして安陸・汝南・淮安・済陽を取る":"｜李密《りみつ》が房彦藻を遣わして｜安陸《あんりく》・汝南・淮安・済陽を取る","大業十三年（義寧元年）":"大業十三年（｜義寧《ぎねい》元年）","李密が王世充に大敗し、その将帥・州県の多くが東都の隋（皇泰主）に降る":"｜李密《りみつ》が｜王世充《おうせいじゅう》に大敗し、その将帥・州県の多くが東都の隋（｜皇泰主《こうたいしゅ》）に降る","武徳元年九月以降":"｜武徳《ぶとく》元年九月以降","王世充が皇泰主から帝位を奪い、東都の系統の城が鄭に移る":"｜王世充《おうせいじゅう》が｜皇泰主《こうたいしゅ》から帝位を奪い、東都の系統の城が鄭に移る","周法明の甥周紹則が安陸を抜き、周法明が四郡をもって唐に降る（唐の地理志は「平王世充」として安州を置く）":"周法明の甥周紹則が｜安陸《あんりく》を抜き、周法明が四郡をもって唐に降る（唐の地理志は「｜平王《へいおう》｜世充《せいじゅう》」として安州を置く）","沔陽（復州）":"｜沔陽《べんよう》（復州）","沔陽":"｜沔陽《べんよう》","沔陽郡の郡治":"｜沔陽《べんよう》郡の郡治","周法明の子周紹徳が沔陽を抜く":"周法明の子周紹徳が｜沔陽《べんよう》を抜く","蕭銑の持ち物とした根拠は版図の総括だけだった。周法明の子が隋末に沔陽を抜き、蕭銑がまだ健在の621年五月に四郡で唐に降り、翌月に蕭銑の安州を攻めている（公開前の点検で直した）":"｜蕭銑《しょうせん》の持ち物とした根拠は版図の総括だけだった。周法明の子が｜隋末《ずいまつ》に｜沔陽《べんよう》を抜き、｜蕭銑《しょうせん》がまだ健在の621年五月に四郡で唐に降り、翌月に｜蕭銑《しょうせん》の安州を攻めている（公開前の点検で直した）","周法明の子周紹徳が沔陽を抜き、周法明が四郡をもって唐に降る":"周法明の子周紹徳が｜沔陽《べんよう》を抜き、周法明が四郡をもって唐に降る","江夏（鄂州）":"江夏（｜鄂州《がくしゅう》）","武漢市武昌":"武漢市｜武昌《ぶしょう》","江夏を名指しした記事は無く、版図の総括による。621年に蕭銑の鄂州刺史雷長穎がいる":"江夏を名指しした記事は無く、版図の総括による。621年に｜蕭銑《しょうせん》の｜鄂州《がくしゅう》｜刺史《しし》雷長穎がいる","蕭銑の鄂州刺史雷長穎が魯山をもって唐に降り、同月に蕭銑が降る":"｜蕭銑《しょうせん》の｜鄂州《がくしゅう》｜刺史《しし》雷長穎が魯山をもって唐に降り、同月に｜蕭銑《しょうせん》が降る","巴陵（岳州）":"｜巴陵《はりょう》（｜岳州《がくしゅう》）","巴陵":"｜巴陵《はりょう》","巴陵郡の郡治":"｜巴陵《はりょう》郡の郡治","巴陵校尉董景珍らが郡に拠って隋に叛き、羅川令蕭銑を迎えて巴陵に入れ、蕭銑が梁王を称する":"｜巴陵《はりょう》校尉｜董《とう》｜景珍《けいちん》らが郡に拠って隋に叛き、｜羅川令《らせんれい》｜蕭銑《しょうせん》を迎えて｜巴陵《はりょう》に入れ、｜蕭銑《しょうせん》が｜梁王《りょうおう》を称する","江陵を囲まれた蕭銑が李孝恭に降り、南方の州県が相次いで唐に帰す":"｜江陵《こうりょう》を囲まれた｜蕭銑《しょうせん》が｜李孝恭《りこうきょう》に降り、南方の州県が相次いで唐に帰す","長沙（潭州）":"｜長沙《ちょうさ》（｜潭州《たんしゅう》）","長沙":"｜長沙《ちょうさ》","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","長沙郡の郡治":"｜長沙《ちょうさ》郡の郡治","620年には蕭銑の大司馬董景珍が長沙を鎮守している":"620年には｜蕭銑《しょうせん》の大｜司馬《しば》｜董《とう》｜景珍《けいちん》が｜長沙《ちょうさ》を鎮守している","隋の夷陵郡丞許紹が黔安・武陵・澧陽などの郡を率いて唐に降る":"隋の夷陵｜郡丞《ぐんじょう》許紹が黔安・武陵・澧陽などの郡を率いて唐に降る","唐の黔州刺史田世康が辰州道から蕭銑を討ち、十月に蕭銑が降る":"唐の黔州｜刺史《しし》田世康が辰州道から｜蕭銑《しょうせん》を討ち、十月に｜蕭銑《しょうせん》が降る","衡山（衡州）":"｜衡山《こうざん》（｜衡州《こうしゅう》）","衡山":"｜衡山《こうざん》","衡山郡の郡治（衡陽）":"｜衡山《こうざん》郡の郡治（衡陽）","衡山郡を名指しした記事は無く、版図の総括による":"｜衡山《こうざん》郡を名指しした記事は無く、版図の総括による","唐の地理志に、大業の末に蕭銑が零陵郡の湘源県を分けて灌陽県を置いたとある":"唐の地理志に、｜大業《たいぎょう》の末に｜蕭銑《しょうせん》が零陵郡の湘源県を分けて灌陽県を置いたとある","桂陽（郴州）":"｜桂陽《けいよう》（｜郴州《ちんしゅう》）","桂陽":"｜桂陽《けいよう》","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","桂陽郡の郡治（郴）":"｜桂陽《けいよう》郡の郡治（郴）","桂陽郡を名指しした記事は無く、版図の総括による":"｜桂陽《けいよう》郡を名指しした記事は無く、版図の総括による","南海（広州）":"南海（｜広州《こうしゅう》）","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","南海郡の郡治（番禺）":"南海郡の郡治（｜番禺《ばんぐう》）","林士弘が皇帝を称し、北は九江から南は番禺までを領したとされる":"｜林士弘《りんしこう》が皇帝を称し、北は｜九江《きゅうこう》から南は｜番禺《ばんぐう》までを領したとされる","馮盎が蒼梧・高涼・珠崖・番禺の地をもって林士弘に付く":"馮盎が蒼梧・高涼・珠崖・｜番禺《ばんぐう》の地をもって｜林士弘《りんしこう》に付く","林士弘の指図を受けて広州を占めた高法澄らを馮盎が撃ち破り、嶺外を定める":"｜林士弘《りんしこう》の指図を受けて｜広州《こうしゅう》を占めた高法澄らを馮盎が撃ち破り、嶺外を定める","広州の賊帥鄧文進が唐に降り、七月には馮盎も降る":"｜広州《こうしゅう》の｜賊帥《ぞくすい》鄧文進が唐に降り、七月には馮盎も降る","始興（韶州）":"｜始興《しこう》（韶州）","始興":"｜始興《しこう》","林士弘が北は九江から南は番禺までを領したとされる（始興はその道筋にある）":"｜林士弘《りんしこう》が北は｜九江《きゅうこう》から南は｜番禺《ばんぐう》までを領したとされる（｜始興《しこう》はその道筋にある）","蕭銑の平定後、李靖が嶺を越えて諸州を招撫し、番州を置く":"｜蕭銑《しょうせん》の平定後、｜李靖《りせい》が嶺を越えて諸州を｜招撫《しょうぶ》し、番州を置く","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","始安郡。郡丞李襲志が募兵して郡城を守る":"始安郡。｜郡丞《ぐんじょう》李襲志が募兵して郡城を守る","煬帝の死後も李襲志が隋のために郡城を守り続ける":"｜煬帝《ようだい》の死後も李襲志が隋のために郡城を守り続ける","李襲志が援軍なく二年守ったのち城が陥ち、蕭銑の捕虜となって桂州総管とされる":"李襲志が援軍なく二年守ったのち城が陥ち、｜蕭銑《しょうせん》の捕虜となって桂州｜総管《そうかん》とされる","武徳三年ごろ":"｜武徳《ぶとく》三年ごろ","蕭銑の桂州総管李襲志が所部の諸州を率いて唐に降る":"｜蕭銑《しょうせん》の桂州｜総管《そうかん》李襲志が｜所部《しょぶ》の諸州を率いて唐に降る","馮盎が蒼梧などの地をもって林士弘に付く":"馮盎が蒼梧などの地をもって｜林士弘《りんしこう》に付く","馮盎が林士弘の指図を受けた高法澄らを撃ち破り、番禺・蒼梧・珠崖の地を自ら領して総管を称する":"馮盎が｜林士弘《りんしこう》の指図を受けた高法澄らを撃ち破り、｜番禺《ばんぐう》・蒼梧・珠崖の地を自ら領して｜総管《そうかん》を称する","馮盎が李靖の檄を受けて所部を率いて降り、嶺南がことごとく平らぐ":"馮盎が｜李靖《りせい》の檄を受けて｜所部《しょぶ》を率いて降り、｜嶺南《れいなん》がことごとく平らぐ","武徳五年七月":"｜武徳《ぶとく》五年七月","鬱林（貴州）":"鬱林（｜貴州《きしゅう》）","寧長真が鬱林・始安の地をもって蕭銑に付く":"寧長真が鬱林・始安の地をもって｜蕭銑《しょうせん》に付く","蕭銑が唐に降って滅び、寧長真はまだ唐に降っていない":"｜蕭銑《しょうせん》が唐に降って滅び、寧長真はまだ唐に降っていない","寧長真が寧越・鬱林の地をもって李靖に降る":"寧長真が寧越・鬱林の地をもって｜李靖《りせい》に降る","永平（藤州）":"｜永平《えいへい》（藤州）","永平":"｜永平《えいへい》","永平郡":"｜永平《えいへい》郡","蕭銑の領域が南は交趾にまで及んだとされる。永平郡守李光度はのちに李襲志とひそかに唐への帰順を図る":"｜蕭銑《しょうせん》の領域が南は交趾にまで及んだとされる。｜永平《えいへい》｜郡守《ぐんしゅ》李光度はのちに李襲志とひそかに唐への帰順を図る","李靖が嶺を越えて招撫し、李光度らが子弟を遣わして来謁する。藤州を置く":"｜李靖《りせい》が嶺を越えて｜招撫《しょうぶ》し、李光度らが子弟を遣わして来謁する。藤州を置く","高涼郡。馮氏の本拠":"高涼郡。｜馮氏《ふうし》の本拠","馮盎が蒼梧・高涼などの地をもって林士弘に付く":"馮盎が蒼梧・高涼などの地をもって｜林士弘《りんしこう》に付く","馮盎が林士弘の配下の高法澄らを撃ち破り、高・羅に拠って総管を称する":"馮盎が｜林士弘《りんしこう》の配下の高法澄らを撃ち破り、高・羅に拠って｜総管《そうかん》を称する","馮盎が李靖の檄を受けて降り、その地を高州など八州として高州総管とされる":"馮盎が｜李靖《りせい》の檄を受けて降り、その地を高州など八州として高州｜総管《そうかん》とされる","寧越郡。欽州刺史寧長真の本拠":"寧越郡。欽州｜刺史《しし》寧長真の本拠","欽州刺史寧長真が蕭銑に付き、蕭銑の命で交趾を海路から攻めて敗れる":"欽州｜刺史《しし》寧長真が｜蕭銑《しょうせん》に付き、｜蕭銑《しょうせん》の命で交趾を海路から攻めて敗れる","寧長真が寧越・鬱林の地をもって李靖に降り、欽州総管とされる":"寧長真が寧越・鬱林の地をもって｜李靖《りせい》に降り、欽州｜総管《そうかん》とされる","蕭銑の領域が南は交趾にまで及んだとされる":"｜蕭銑《しょうせん》の領域が南は交趾にまで及んだとされる","蕭銑が唐に降って滅び、合浦太守寧宣はまだ唐に降っていない":"｜蕭銑《しょうせん》が唐に降って滅び、合浦｜太守《たいしゅ》寧宣はまだ唐に降っていない","隋の合浦太守寧宣が唐に降る":"隋の合浦｜太守《たいしゅ》寧宣が唐に降る","義安（潮州）":"義安（｜潮州《ちょうしゅう》）","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","林士弘が北は九江から南は番禺までを領したとされ、のちも循・潮などの州を保つ":"｜林士弘《りんしこう》が北は｜九江《きゅうこう》から南は｜番禺《ばんぐう》までを領したとされ、のちも循・潮などの州を保つ","嶺南の俚帥楊世略が循・潮の二州をもって唐に降る":"｜嶺南《れいなん》の俚帥楊世略が循・潮の二州をもって唐に降る","交趾（交州）":"交趾（｜交州《こうしゅう》）","交趾郡。太守丘和":"交趾郡。｜太守《たいしゅ》丘和","丘和が寧長真の攻撃を退けた後、江都から来た驍果に煬帝の死を確かめ、郡をもって蕭銑に付く":"丘和が寧長真の攻撃を退けた後、｜江都《こうと》から来た｜驍果《ぎょうか》に｜煬帝《ようだい》の死を確かめ、郡をもって｜蕭銑《しょうせん》に付く","蕭銑の交州総管丘和らが江陵へ向かう途中で蕭銑の敗れたのを聞き、李孝恭に降る":"｜蕭銑《しょうせん》の｜交州《こうしゅう》｜総管《そうかん》丘和らが｜江陵《こうりょう》へ向かう途中で｜蕭銑《しょうせん》の敗れたのを聞き、｜李孝恭《りこうきょう》に降る","交趾太守丘和が交・愛の首領を率いて寧長真を退けた後、蕭銑に付く":"交趾｜太守《たいしゅ》丘和が交・愛の首領を率いて寧長真を退けた後、｜蕭銑《しょうせん》に付く","丘和が蕭銑の敗れたのを聞いて海南の地をもって唐に帰する":"丘和が｜蕭銑《しょうせん》の敗れたのを聞いて｜海南《かいなん》の地をもって唐に帰する","天水（秦州）":"天水（｜秦州《しんしゅう》）","秦州区":"｜秦州《しんしゅう》区","薛挙の子の仁杲が天水を攻め落とし、薛挙が金城からここへ都を移す":"｜薛挙《せつきょ》の子の｜仁杲《じんこう》が天水を攻め落とし、｜薛挙《せつきょ》が金城からここへ都を移す","薛仁杲が李世民に降り、隴右が唐に平定される。唐は姜謩を秦州刺史に任じる":"｜薛仁杲《せつじんこう》が｜李《り》｜世民《せいみん》に降り、｜隴右《ろうゆう》が唐に平定される。唐は姜謩を｜秦州《しんしゅう》｜刺史《しし》に任じる","隴西（渭州）":"｜隴西《ろうせい》（渭州）","隴西":"｜隴西《ろうせい》","隴西県":"｜隴西《ろうせい》県","隋の隴西郡":"隋の｜隴西《ろうせい》郡","金城で挙兵した薛挙がまもなく隴西の地をことごとく取る":"金城で挙兵した｜薛挙《せつきょ》がまもなく｜隴西《ろうせい》の地をことごとく取る","薛仁杲が降り、隴右が唐に平定される":"｜薛仁杲《せつじんこう》が降り、｜隴右《ろうゆう》が唐に平定される","金城（蘭州）":"金城（｜蘭州《らんしゅう》）","蘭州市":"｜蘭州《らんしゅう》市","金城府校尉の薛挙が金城令の郝瑗を捕らえて挙兵し、郡県の官を囚えて西秦霸王を称する":"｜金城府《きんじょうふ》｜校尉《こうい》の｜薛挙《せつきょ》が｜金城《きんじょう》令の｜郝瑗《かくえん》を捕らえて挙兵し、｜郡県《ぐんけん》の官を囚えて｜西秦《せいしん》｜霸王《はおう》を称する","枹罕（河州）":"｜枹罕《ふかん》（河州）","枹罕":"｜枹罕《ふかん》","隋の枹罕郡":"隋の｜枹罕《ふかん》郡","薛挙が枹罕に屯した隋将皇甫綰を襲って枹罕を取り、子の仁越を河州刺史とする":"｜薛挙《せつきょ》が｜枹罕《ふかん》に屯した隋将皇甫綰を襲って｜枹罕《ふかん》を取り、子の仁越を河州｜刺史《しし》とする","薛仁杲の妹婿の鍾倶仇が河州をもって唐に帰す":"｜薛仁杲《せつじんこう》の妹婿の鍾倶仇が河州をもって唐に帰す","武徳元年（薛仁杲の滅亡の前後）":"｜武徳《ぶとく》元年（｜薛仁杲《せつじんこう》の滅亡の前後）","四月に薛挙が西平・澆河を取るが、同年のうちに李軌が西平を攻め落とす":"四月に｜薛挙《せつきょ》が西平・澆河を取るが、同年のうちに｜李軌《りき》が西平を攻め落とす","李軌が安興貴・安修仁に捕らえられ、河西がことごとく唐に平定される":"｜李軌《りき》が安｜興貴《こうき》・安｜修仁《しゅうじん》に捕らえられ、｜河西《かせい》がことごとく唐に平定される","武徳二年五月":"｜武徳《ぶとく》二年五月","武徳元年八月から九月の間":"｜武徳《ぶとく》元年八月から九月の間","武都・宕渠・五原などの郡が唐王李淵に降る（翌月の受禅で唐の州となり、武徳元年に武州を置く）":"武都・宕渠・五原などの郡が｜唐王《とうおう》｜李淵《りえん》に降る（翌月の｜受禅《じゅぜん》で唐の州となり、｜武徳《ぶとく》元年に武州を置く）","義寧二年四月":"｜義寧《ぎねい》二年四月","武威（涼州）":"｜武威《ぶい》（｜涼州《りょうしゅう》）","武威":"｜武威《ぶい》","武威市":"｜武威《ぶい》市","隋の武威郡":"隋の｜武威《ぶい》郡","武威鷹揚府司馬の李軌が挙兵し、虎賁郎将謝統師・郡丞韋士政を捕らえて河西大涼王を称する":"｜武威《ぶい》鷹揚府司馬の｜李軌《りき》が挙兵し、虎賁郎将謝｜統師《とうし》・｜郡丞《ぐんじょう》韋士政を捕らえて｜河西《かせい》｜大涼王《だいりょうおう》を称する","安興貴・安修仁が諸胡と兵を挙げ、武威で李軌を捕らえて唐に降す":"安｜興貴《こうき》・安｜修仁《しゅうじん》が諸胡と兵を挙げ、｜武威《ぶい》で｜李軌《りき》を捕らえて唐に降す","張掖（甘州）":"張掖（｜甘州《かんしゅう》）","李軌が張掖・敦煌・西平・枹罕を攻め落とし、河西五郡を保つ":"｜李軌《りき》が張掖・敦煌・西平・｜枹罕《ふかん》を攻め落とし、｜河西《かせい》五郡を保つ","李軌が捕らえられ、河西が唐に平定される（唐はこの年に甘州を置く）":"｜李軌《りき》が捕らえられ、｜河西《かせい》が唐に平定される（唐はこの年に｜甘州《かんしゅう》を置く）","酒泉（粛州）":"酒泉（｜粛州《しゅくしゅう》）","李軌が張掖郡を取る（福禄は張掖郡の県なので、それに従う）":"｜李軌《りき》が張掖郡を取る（福禄は張掖郡の県なので、それに従う）","李軌が捕らえられ、河西が唐に平定される（唐はこの年に肃州を置く）":"｜李軌《りき》が捕らえられ、｜河西《かせい》が唐に平定される（唐はこの年に肃州を置く）","敦煌（瓜州）":"敦煌（｜瓜州《かしゅう》）","李軌が敦煌を攻め落とす":"｜李軌《りき》が敦煌を攻め落とす","李軌が捕らえられ、河西が唐に平定される。唐は敦煌に瓜州を置く":"｜李軌《りき》が捕らえられ、｜河西《かせい》が唐に平定される。唐は敦煌に｜瓜州《かしゅう》を置く","瓜州（敦煌）刺史の賀抜行威が驃騎将軍達奚暠を捕らえて唐に背く":"｜瓜州《かしゅう》（敦煌）｜刺史《しし》の賀抜行威が驃｜騎将《きしょう》軍達奚暠を捕らえて唐に背く","瓜州の土豪王幹が賀抜行威を斬って唐に降り、瓜州が平定される":"｜瓜州《かしゅう》の土豪王幹が賀抜行威を斬って唐に降り、｜瓜州《かしゅう》が平定される","武徳五年五月":"｜武徳《ぶとく》五年五月","済南市":"｜済南《さいなん》市","斉郡。郡丞張須陀が王薄らの反乱集団を討った本拠":"斉郡。｜郡丞《ぐんじょう》張須陀が王薄らの反乱集団を討った本拠","斉郡が李密に降る":"斉郡が｜李密《りみつ》に降る","王薄が斉郡などを挙げて唐に降り、斉州総管となる":"王薄が斉郡などを挙げて唐に降り、斉州｜総管《そうかん》となる","武徳二年三月":"｜武徳《ぶとく》二年三月","北海（青州・益都）":"北海（｜青州《せいしゅう》・益都）","青州市":"｜青州《せいしゅう》市","北海の賊帥綦公順が郡城を降し、のち李密に付く":"北海の｜賊帥《ぞくすい》綦公順が郡城を降し、のち｜李密《りみつ》に付く","隋の北海通守鄭虔符、ついで綦公順が唐に降り、鄭虔符が青州総管となる":"隋の北海通守鄭虔符、ついで綦公順が唐に降り、鄭虔符が｜青州《せいしゅう》｜総管《そうかん》となる","武徳二年三月・四月":"｜武徳《ぶとく》二年三月・四月","東萊郡。高句麗遠征の船団の出港地":"東萊郡。｜高句麗《こうくり》遠征の船団の出港地","619年四月に隋（東都の皇泰主）が絶えた後、唐に入るまで高密の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした":"619年四月に隋（東都の｜皇泰主《こうたいしゅ》）が絶えた後、唐に入るまで高密の持ち主を名指す記事が無い。隋の名のまま残さず、どの勢力の城とも言えないとした","東平（鄆州・鄆城）":"東平（｜鄆州《うんしゅう》・鄆城）","魯郡の賊帥徐円朗が東平を攻め陥とす":"魯郡の｜賊帥《ぞくすい》徐円朗が東平を攻め陥とす","孟海公の余党蔣善合が鄆州に拠る":"孟海公の余党蔣善合が｜鄆州《うんしゅう》に拠る","621年六月に孟海公の余党の蔣善合が鄆州を挙げて唐に降っており、それまで鄆州は唐の城ではなかった。619年の唐への降伏との関係と、蔣善合が取った年は分からない（公開前の点検で直した）":"621年六月に孟海公の余党の蔣善合が｜鄆州《うんしゅう》を挙げて唐に降っており、それまで｜鄆州《うんしゅう》は唐の城ではなかった。619年の唐への降伏との関係と、蔣善合が取った年は分からない（公開前の点検で直した）","徐円朗が背き、鄆州など八州が応じる":"徐円朗が背き、｜鄆州《うんしゅう》など八州が応じる","六月に唐に降った鄆州は、八月に徐円朗が背くと豪右が長吏を殺して応じた。唐が取り戻したのは622年（公開前の点検で直した）":"六月に唐に降った｜鄆州《うんしゅう》は、八月に徐円朗が背くと豪右が長吏を殺して応じた。唐が取り戻したのは622年（公開前の点検で直した）","秦王世民が徐円朗を撃ち、十余城を下す":"｜秦王《しんおう》｜世民《せいみん》が徐円朗を撃ち、十余城を下す","魯郡（兗州・瑕丘）":"魯郡（｜兗州《えんしゅう》・瑕丘）","兗州区":"｜兗州《えんしゅう》区","徐円朗が魯郡に拠り、東平・琅邪以西を取る（李密の檄に「徐圆朗已平鲁郡」）":"徐円朗が魯郡に拠り、東平・｜琅邪《ろうや》以西を取る（｜李密《りみつ》の檄に「徐圆朗已平鲁郡」）","武徳六年二月":"｜武徳《ぶとく》六年二月","琅邪（沂州）":"｜琅邪《ろうや》（沂州）","琅邪":"｜琅邪《ろうや》","琅邪郡":"｜琅邪《ろうや》郡","徐円朗が琅邪以西、北は東平までを取る":"徐円朗が｜琅邪《ろうや》以西、北は東平までを取る","洛陽平定の後に徐円朗が唐に降り、沂州が置かれる":"｜洛陽《らくよう》平定の後に徐円朗が唐に降り、沂州が置かれる","済陰（曹州）":"｜済陰《さいいん》（｜曹州《そうしゅう》）","済陰":"｜済陰《さいいん》","済陰郡。613年に孟海公が周橋に拠って起ったが、郡城ではない":"｜済陰《さいいん》郡。613年に孟海公が周橋に拠って起ったが、郡城ではない","孟海公が済陰郡の地を破る（李密の檄に「孟海公又破济阳」）。のち曹・戴二州を保つ":"孟海公が｜済陰《さいいん》郡の地を破る（｜李密《りみつ》の檄に「孟海公又破济阳」）。のち曹・戴二州を保つ","徐円朗が背き、曹州など八州が応じる":"徐円朗が背き、｜曹州《そうしゅう》など八州が応じる","六月に孟啖鬼が曹州で降ったが、八月に徐円朗が背くと曹・戴も応じた（公開前の点検で直した）":"六月に孟啖鬼が｜曹州《そうしゅう》で降ったが、八月に徐円朗が背くと曹・戴も応じた（公開前の点検で直した）","武陽郡聊城（博州）":"｜武陽《ぶよう》郡｜聊城《りょうじょう》（博州）","武陽郡聊城":"｜武陽《ぶよう》郡｜聊城《りょうじょう》","聊城市":"｜聊城《りょうじょう》市","武陽郡の聊城県":"｜武陽《ぶよう》郡の｜聊城《りょうじょう》県","武陽郡丞元宝蔵が郡を挙げて李密に降る":"｜武陽《ぶよう》｜郡丞《ぐんじょう》元宝蔵が郡を挙げて｜李密《りみつ》に降る","宇文化及が魏県から聊城へ逃げ込み、竇建徳が聊城を抜いて宇文化及を捕らえる":"｜宇文化及《うぶんかきゅう》が｜魏県《ぎけん》から｜聊城《りょうじょう》へ逃げ込み、｜竇建徳《とうけんとく》が｜聊城《りょうじょう》を抜いて｜宇文化及《うぶんかきゅう》を捕らえる","竇建徳の滅亡後、その博州刺史馮士羨が淮安王神通を推して山東の三十余州を下す":"｜竇建徳《とうけんとく》の滅亡後、その博州｜刺史《しし》馮士羨が淮安王神通を推して｜山東《さんとう》の三十余州を下す","彭城（徐州）":"｜彭城《ほうじょう》（｜徐州《じょしゅう》）","彭城":"｜彭城《ほうじょう》","徐州市":"｜徐州《じょしゅう》市","彭城郡。614年に彭城留守董純が周辺の反乱を討つ。618年に宇文化及が通過したが占領はしていない":"｜彭城《ほうじょう》郡。614年に｜彭城《ほうじょう》留守董純が周辺の反乱を討つ。618年に｜宇文化及《うぶんかきゅう》が通過したが占領はしていない","王世充の受禅。徐州は王世充の従弟世辯の徐州行台の下にある":"｜王世充《おうせいじゅう》の｜受禅《じゅぜん》。｜徐州《じょしゅう》は｜王世充《おうせいじゅう》の従弟世辯の｜徐州《じょしゅう》｜行台《こうだい》の下にある","皇泰二年四月":"｜皇泰《こうたい》二年四月","王世充の徐州行台杞王世辯が徐・宋など三十八州を挙げて唐に降る":"｜王世充《おうせいじゅう》の｜徐州《じょしゅう》｜行台《こうだい》杞王世辯が徐・宋など三十八州を挙げて唐に降る","王世充の受禅。徐州行台の管内とみる":"｜王世充《おうせいじゅう》の｜受禅《じゅぜん》。｜徐州《じょしゅう》｜行台《こうだい》の管内とみる","王世充の徐州行台杞王世辯が徐・宋など三十八州を挙げて唐に降り、徐州総管府が邳州などを管する":"｜王世充《おうせいじゅう》の｜徐州《じょしゅう》｜行台《こうだい》杞王世辯が徐・宋など三十八州を挙げて唐に降り、｜徐州《じょしゅう》｜総管《そうかん》府が邳州などを管する","海州の賊帥臧君相が五州を挙げて唐に降り、海州総管となる":"海州の｜賊帥《ぞくすい》臧君相が五州を挙げて唐に降り、海州｜総管《そうかん》となる","蜀郡（益州・成都）":"｜蜀郡《しょくぐん》（｜益州《えきしゅう》・｜成都《せいと》）","蜀郡":"｜蜀郡《しょくぐん》","成都市":"｜成都《せいと》市","隋の蜀郡":"隋の｜蜀郡《しょくぐん》","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（蜀郡もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（｜蜀郡《しょくぐん》もその中に入ったと見る）","大業十三年（義寧元年）十二月":"大業十三年（｜義寧《ぎねい》元年）十二月","李淵の受禅（武徳元年五月）で唐へ。武徳年間に益州刺史段綸・益州道行台が置かれ、唐の直轄が続く":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》（｜武徳《ぶとく》元年五月）で唐へ。｜武徳《ぶとく》年間に｜益州《えきしゅう》｜刺史《しし》段綸・｜益州《えきしゅう》道行台が置かれ、唐の直轄が続く","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（巴西郡もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（巴西郡もその中に入ったと見る）","李淵の受禅で唐へ（武徳元年に隆州と改める）。624年に洋・集二州の獠が隆州の晋城県を陥れたが、州城の閬中は落ちていない":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》で唐へ（｜武徳《ぶとく》元年に隆州と改める）。624年に洋・集二州の獠が隆州の晋城県を陥れたが、州城の閬中は落ちていない","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（巴郡もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（巴郡もその中に入ったと見る）","李淵の受禅で唐へ（武徳元年に渝州を置く）。623年九月に渝州の人張大智が叛いて刺史が城を棄てたが、同年のうちに涪州へ侵入して討たれ衆とともに降ったので、歳末の持ち主は唐のまま":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》で唐へ（｜武徳《ぶとく》元年に渝州を置く）。623年九月に渝州の人張大智が叛いて｜刺史《しし》が城を棄てたが、同年のうちに涪州へ侵入して討たれ衆とともに降ったので、歳末の持ち主は唐のまま","隋の巴東郡":"隋の巴｜東郡《とうぐん》","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（巴東郡もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（巴｜東郡《とうぐん》もその中に入ったと見る）","李淵の受禅で唐へ。李孝恭が信州総管として置かれ、蕭銑攻略の基地となる。蕭銑の軍は峡州（夷陵）で許紹に阻まれて三峡を遡れず、620年に蛮酋冉肇則が信州を攻めたが李靖に斬られた。信州（奉節）が蕭銑の手に入った記事は無い":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》で唐へ。｜李孝恭《りこうきょう》が信州｜総管《そうかん》として置かれ、｜蕭銑《しょうせん》攻略の基地となる。｜蕭銑《しょうせん》の軍は峡州（夷陵）で許紹に阻まれて｜三峡《さんきょう》を遡れず、620年に蛮酋冉肇則が信州を攻めたが｜李靖《りせい》に斬られた。信州（奉節）が｜蕭銑《しょうせん》の手に入った記事は無い","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（巴郡の涪陵もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（巴郡の涪陵もその中に入ったと見る）","李淵の受禅で唐へ。武徳元年に涪州を置く。623年に渝州の張大智が涪州へ侵入したが、討たれて降った":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》で唐へ。｜武徳《ぶとく》元年に涪州を置く。623年に渝州の張大智が涪州へ侵入したが、討たれて降った","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（眉山郡もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（眉山郡もその中に入ったと見る）","李淵の受禅で唐へ。626年の眉州の山獠の反乱は嘉州から割かれた眉州のことで、益州道行台の郭行方に破られた":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》で唐へ。626年の眉州の山獠の反乱は嘉州から割かれた眉州のことで、｜益州《えきしゅう》道行台の郭行方に破られた","遂寧（遂州）":"｜遂寧《すいねい》（遂州）","遂寧":"｜遂寧《すいねい》","遂寧市":"｜遂寧《すいねい》市","隋の遂寧郡":"隋の｜遂寧《すいねい》郡","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（遂寧郡もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（｜遂寧《すいねい》郡もその中に入ったと見る）","李淵の受禅で唐へ。武徳二年に遂州総管府、三年に益州道行台の下に入る":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》で唐へ。｜武徳《ぶとく》二年に遂州｜総管《そうかん》府、三年に｜益州《えきしゅう》道行台の下に入る","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（義城郡もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（義城郡もその中に入ったと見る）","李淵の受禅で唐へ。武徳二年に利州総管府。627年に利州都督李孝常が京師で謀反して誅されたが、京師での事件で利州の帰属は変わらない":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》で唐へ。｜武徳《ぶとく》二年に利州｜総管《そうかん》府。627年に利州都督李孝常が京師で謀反して誅されたが、京師での事件で利州の帰属は変わらない","李孝恭が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、李淵の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（清化郡もその中に入ったと見る）":"｜李孝恭《りこうきょう》が金川から巴蜀へ出て三十余州を降し、｜李淵《りえん》の使者詹俊・李仲袞が巴蜀を下す（清化郡もその中に入ったと見る）","李淵の受禅で唐へ（武徳元年に巴州と改める）":"｜李淵《りえん》の｜受禅《じゅぜん》で唐へ（｜武徳《ぶとく》元年に巴州と改める）","越巂（巂州）":"｜越巂《えっすい》（巂州）","越巂":"｜越巂《えっすい》","隋の越巂郡（辺境）":"隋の｜越巂《えっすい》郡（辺境）","李淵が巴蜀平定に送った使者が韋仁寿を巂州都督府長史に任じ、越巂郡を巂州とする":"｜李淵《りえん》が巴蜀平定に送った使者が韋｜仁寿《にんじゅ》を巂州都督府長史に任じ、｜越巂《えっすい》郡を巂州とする","隋の黔安郡。煬帝の死後（618年）も夷陵郡通守許紹が配下の郡ごと東都の越王侗に属したので、618年まで隋":"隋の黔安郡。｜煬帝《ようだい》の死後（618年）も夷陵郡通守許紹が配下の郡ごと東都の｜越王《えつおう》侗に属したので、618年まで隋","武徳二年閏正月":"｜武徳《ぶとく》二年閏正月","涿郡（幽州）":"｜涿郡《たくぐん》（｜幽州《ゆうしゅう》）","涿郡":"｜涿郡《たくぐん》","高句麗遠征の集結地。煬帝が臨朔宮に入る":"｜高句麗《こうくり》遠征の集結地。｜煬帝《ようだい》が臨朔宮に入る","虎賁郎将の羅芸が留守の官を押さえて涿郡を握り、幽州総管を自称する":"虎賁郎将の羅芸が留守の官を押さえて｜涿郡《たくぐん》を握り、｜幽州《ゆうしゅう》｜総管《そうかん》を自称する","羅芸が表を奉じて唐に帰順し、唐の幽州総管となる":"羅芸が表を奉じて唐に帰順し、唐の｜幽州《ゆうしゅう》｜総管《そうかん》となる","武徳元年十二月癸未":"｜武徳《ぶとく》元年十二月癸未","上谷（易州）":"｜上谷《じょうこく》（易州）","上谷":"｜上谷《じょうこく》","易県":"｜易県《えきけん》","隋の上谷郡。615年ごろから王須抜・魏刀児・宋金剛らの群盗が郡の内外を荒らすが、城を取って保った記事は無い":"隋の｜上谷《じょうこく》郡。615年ごろから王須抜・魏刀児・｜宋《そう》｜金剛《こんごう》らの群盗が郡の内外を荒らすが、城を取って保った記事は無い","竇建徳が魏刀児を滅ぼし、易州・定州などが竇建徳に降る":"｜竇建徳《とうけんとく》が魏刀児を滅ぼし、易州・定州などが｜竇建徳《とうけんとく》に降る","武徳元年（冬）":"｜武徳《ぶとく》元年（冬）","竇建徳が虎牢で捕らえられ、その領域が唐に降る。唐が易州を置く":"｜竇建徳《とうけんとく》が｜虎牢《ころう》で捕らえられ、その領域が唐に降る。唐が易州を置く","高開道が北平を取ったのち漁陽郡を陥れ、燕王を称して漁陽に都する":"高開道が｜北平《ほくへい》を取ったのち漁陽郡を陥れ、｜燕王《えんおう》を称して漁陽に都する","竇建徳に囲まれた羅芸を救ったのを機に高開道が唐に降り、蔚州総管・北平郡王となる（兵と地は自分で保つ）":"｜竇建徳《とうけんとく》に囲まれた羅芸を救ったのを機に高開道が唐に降り、蔚州｜総管《そうかん》・｜北平《ほくへい》郡王となる（兵と地は自分で保つ）","高開道が幽州の救援の兵と車馬を奪って羅芸と絶ち、再び燕王を称する":"高開道が｜幽州《ゆうしゅう》の救援の兵と車馬を奪って羅芸と絶ち、再び｜燕王《えんおう》を称する","武徳四年（末）":"｜武徳《ぶとく》四年（末）","武徳七年二月己未":"｜武徳《ぶとく》七年二月｜己未《きび》","北平（盧龍）":"｜北平《ほくへい》（｜盧龍《ろりゅう》）","北平":"｜北平《ほくへい》","盧龍県":"｜盧龍《ろりゅう》県","隋の北平郡。614年に煬帝が通る。遼東の役以来、右武衛大将軍李景が守る":"隋の｜北平《ほくへい》郡。614年に｜煬帝《ようだい》が通る。｜遼東《りょうとう》の役以来、右武衛｜大将軍《だいしょうぐん》｜李《り》景が守る","李景が柳城へ退き、高開道が北平を取る":"｜李《り》景が柳城へ退き、高開道が｜北平《ほくへい》を取る","同じ618年十二月に鄧暠が柳城・北平の二郡で唐に降ったが、北平はその前に李景が棄て、高開道が取ってから漁陽へ進んだ。以後は漁陽と同じく高開道の城（公開前の点検で直した）":"同じ618年十二月に鄧暠が柳城・｜北平《ほくへい》の二郡で唐に降ったが、｜北平《ほくへい》はその前に｜李《り》景が棄て、高開道が取ってから漁陽へ進んだ。以後は漁陽と同じく高開道の城（公開前の点検で直した）","柳城（遼西・営州）":"柳城（｜遼西《りょうせい》・｜営州《えいしゅう》）","隋の遼西郡（柳城）":"隋の｜遼西《りょうせい》郡（柳城）","柳城・懐遠が羅芸に帰し、羅芸が柳城太守を退けて郡を営州とし、襄平太守鄧暠を総管とする":"柳城・懐遠が羅芸に帰し、羅芸が柳城｜太守《たいしゅ》を退けて郡を｜営州《えいしゅう》とし、襄平｜太守《たいしゅ》鄧暠を｜総管《そうかん》とする","鄧暠が柳城・北平の二郡を挙げて唐に降り、営州総管となる":"鄧暠が柳城・｜北平《ほくへい》の二郡を挙げて唐に降り、｜営州《えいしゅう》｜総管《そうかん》となる","武徳元年十二月丁酉":"｜武徳《ぶとく》元年十二月丁酉","石世則（靺鞨の突地稽を主に奉ず）":"｜石世《せきせい》則（靺鞨の突地稽を主に奉ず）","営州の人石世則が総管の晋文衍を捕らえ、州を挙げて叛き、靺鞨の突地稽を主に奉じる":"｜営州《えいしゅう》の人｜石世《せきせい》則が｜総管《そうかん》の晋文衍を捕らえ、州を挙げて叛き、靺鞨の突地稽を主に奉じる","武徳四年六月庚子":"｜武徳《ぶとく》四年六月｜庚子《こうし》","唐が営州総管府を都督府に改める（唐の州として営州を治めていたことの最初の確かな記事）":"唐が｜営州《えいしゅう》｜総管《そうかん》府を都督府に改める（唐の州として｜営州《えいしゅう》を治めていたことの最初の確かな記事）","高句麗遠征の兵站の鎮。614年に煬帝がここから兵を返す":"｜高句麗《こうくり》遠征の兵站の鎮。614年に｜煬帝《ようだい》がここから兵を返す","羅芸の帰順で唐の幽州総管府の管下に入り、安楽郡が檀州となる":"羅芸の帰順で唐の｜幽州《ゆうしゅう》｜総管《そうかん》府の管下に入り、安楽郡が檀州となる","魏県":"｜魏県《ぎけん》","隋の武陽郡の属県":"隋の｜武陽《ぶよう》郡の属県","武陽郡丞の元宝藏が郡を挙げて李密に降り、李密は郡を魏州として元宝藏を魏州総管とする":"｜武陽《ぶよう》｜郡丞《ぐんじょう》の元宝藏が郡を挙げて｜李密《りみつ》に降り、｜李密《りみつ》は郡を｜魏州《ぎしゅう》として元宝藏を｜魏州《ぎしゅう》｜総管《そうかん》とする","童山で李密に敗れた宇文化及が北へ走って魏県に入り、九月に秦王浩を毒殺して魏県で帝位に即き、国号を許とする。州城（貴郷）の元宝藏は李密の敗亡後も魏州を守っており、宇文化及が持ったのは魏県":"｜童山《どうざん》で｜李密《りみつ》に敗れた｜宇文化及《うぶんかきゅう》が北へ走って｜魏県《ぎけん》に入り、九月に｜秦王《しんおう》浩を毒殺して｜魏県《ぎけん》で帝位に即き、国号を許とする。州城（貴郷）の元宝藏は｜李密《りみつ》の敗亡後も｜魏州《ぎしゅう》を守っており、｜宇文化及《うぶんかきゅう》が持ったのは｜魏県《ぎけん》","黎陽の陥落の後、周りの州県が竇建徳に帰す":"｜黎陽《れいよう》の陥落の後、周りの州県が｜竇建徳《とうけんとく》に帰す","619年に竇建徳が黎陽を抜くと周りの州県がみな帰附した。魏県の名を挙げた記事は無いが、621年五月に竇建徳の僕射斉善行が魏州をもって唐に降っており、同じ魏州の州城も619年から竇建徳としている（公開前の点検で直した）":"619年に｜竇建徳《とうけんとく》が｜黎陽《れいよう》を抜くと周りの州県がみな帰附した。｜魏県《ぎけん》の名を挙げた記事は無いが、621年五月に｜竇建徳《とうけんとく》の｜僕射《ぼくや》斉善行が｜魏州《ぎしゅう》をもって唐に降っており、同じ｜魏州《ぎしゅう》の州城も619年から｜竇建徳《とうけんとく》としている（公開前の点検で直した）","五月に竇建徳の僕射斉善行が洺・相・魏などの州を挙げて唐に降ったが、七月に挙兵した劉黒闥が十二月に魏州を陥れ、総管の潘道毅を殺す":"五月に｜竇建徳《とうけんとく》の｜僕射《ぼくや》斉善行が洺・相・魏などの州を挙げて唐に降ったが、七月に挙兵した劉黒闥が十二月に｜魏州《ぎしゅう》を陥れ、｜総管《そうかん》の潘道毅を殺す","武徳四年十二月":"｜武徳《ぶとく》四年十二月","秦王世民が洺水で劉黒闥を大破し、劉黒闥は突厥へ逃れて山東が平定される。同年冬に劉黒闥が戻って相州以北の州県を従えたが、魏州は総管田留安が守り抜き、翌623年正月に劉黒闥は滅ぶ":"｜秦王《しんおう》｜世民《せいみん》が洺水で劉黒闥を大破し、劉黒闥は｜突厥《とっけつ》へ逃れて｜山東《さんとう》が平定される。同年冬に劉黒闥が戻って｜相州《そうしゅう》以北の州県を従えたが、｜魏州《ぎしゅう》は｜総管《そうかん》田留安が守り抜き、翌623年正月に劉黒闥は滅ぶ","武徳五年三月":"｜武徳《ぶとく》五年三月","大同市":"｜大同《だいどう》市","隋の馬邑郡雲内県の恒安鎮":"隋の｜馬邑《ばゆう》郡雲内県の恒安鎮","劉武周が馬邑太守王仁恭を斬り、郡内の属城に檄を飛ばしてすべて降し、太守を自称する。恒安鎮は馬邑郡の内なのでこの時から劉武周の領とした":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が｜馬邑《ばゆう》｜太守《たいしゅ》王｜仁恭《じんきょう》を斬り、郡内の属城に檄を飛ばしてすべて降し、｜太守《たいしゅ》を自称する。恒安鎮は｜馬邑《ばゆう》郡の内なのでこの時から｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》の領とした","劉武周が敗れて突厥へ逃げ、のち突厥に殺される。朔州を守っていた苑君璋を突厥が大行台とし、劉武周の残衆を率いさせる":"｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》が敗れて｜突厥《とっけつ》へ逃げ、のち｜突厥《とっけつ》に殺される。朔州を守っていた｜苑《えん》｜君璋《くんしょう》を｜突厥《とっけつ》が｜大行《たいこう》台とし、｜劉《りゅう》｜武周《ぶしゅう》の｜残衆《ざんしゅう》を率いさせる","623年に突厥とともに馬邑を陥れて高満政を殺し恒安に退いて拠っていた苑君璋が、頡利可汗の政の乱れを見て衆を率いて唐に降る":"623年に｜突厥《とっけつ》とともに｜馬邑《ばゆう》を陥れて高満政を殺し恒安に退いて拠っていた｜苑《えん》｜君璋《くんしょう》が、｜頡利可汗《けつりかがん》の政の乱れを見て衆を率いて唐に降る","貞観元年五月":"｜貞観《じょうがん》元年五月","隋の涿郡の属県":"隋の｜涿郡《たくぐん》の属県","虎賁郎将の羅芸が涿郡の留守の官を押さえ、幽州総管を自称する。懐戎は涿郡の属県なので郡とともに羅芸の領とした":"虎賁郎将の羅芸が｜涿郡《たくぐん》の留守の官を押さえ、｜幽州《ゆうしゅう》｜総管《そうかん》を自称する。懐戎は｜涿郡《たくぐん》の属県なので郡とともに羅芸の領とした","懐戎の僧高曇晟が県令の設けた斎会に集まった衆を擁して叛き、県令と鎮将を殺して大乗皇帝を称し、高開道を招いて斉王とする":"懐戎の僧高曇晟が県令の設けた斎会に集まった衆を擁して叛き、県令と｜鎮将《ちんしょう》を殺して大乗皇帝を称し、高開道を招いて斉王とする","竇建徳に囲まれた羅芸を救ったのを機に高開道が唐に降り、蔚州総管・北平郡王となる。旧唐書はこの時の高開道を「懐戎の賊帥」と呼ぶ（兵と地は自分で保つ）":"｜竇建徳《とうけんとく》に囲まれた羅芸を救ったのを機に高開道が唐に降り、蔚州｜総管《そうかん》・｜北平《ほくへい》郡王となる。｜旧唐書《くとうじょ》はこの時の高開道を「懐戎の｜賊帥《ぞくすい》」と呼ぶ（兵と地は自分で保つ）","高開道が幽州から粟を受けに来た兵と車馬を留めて羅芸と絶ち、再び燕王を称する。部将の謝稜が偽って羅芸に降り、迎えに出た羅芸の兵を懐戎の手前で破る":"高開道が｜幽州《ゆうしゅう》から粟を受けに来た兵と車馬を留めて羅芸と絶ち、再び｜燕王《えんおう》を称する。部将の謝稜が偽って羅芸に降り、迎えに出た羅芸の兵を懐戎の手前で破る","武徳七年二月":"｜武徳《ぶとく》七年二月","苑君璋":"｜苑《えん》｜君璋《くんしょう》","石世則":"｜石世《せきせい》則"}