{"後漢":"｜後漢《ごかん》","曹操":"｜曹操《そうそう》","西晋":"｜西晋《せいしん》","袁紹":"｜袁紹《えんしょう》","袁譚":"｜袁《えん》｜譚《たん》","公孫瓚":"｜公孫《こうそん》瓚","公孫氏":"｜公孫氏《こうそんし》","袁術":"｜袁術《えんじゅつ》","劉表":"｜劉表《りゅうひょう》","劉璋":"｜劉《りゅう》｜璋《しょう》","劉備":"｜劉備《りゅうび》","孫策":"｜孫策《そんさく》","孫権":"｜孫権《そんけん》","長安":"｜長安《ちょうあん》","西安市":"｜西安《せいあん》市","献帝が長安に入る":"｜献帝《けんてい》が｜長安《ちょうあん》に入る","初平元年三月":"｜初平《しょへい》元年三月","董卓が献帝を長安へ移した。以後195年まで朝廷の都":"｜董《とう》卓が｜献帝《けんてい》を｜長安《ちょうあん》へ移した。以後195年まで朝廷の都","献帝が長安を出て東へ向かい、長安は空になる":"｜献帝《けんてい》が｜長安《ちょうあん》を出て東へ向かい、｜長安《ちょうあん》は空になる","興平二年七月":"｜興平《こうへい》二年七月","李傕・郭汜は献帝を追って東へ出た。長安城は四十日余り無人となり、関中は荒廃した":"｜李《り》｜傕《かく》・郭｜汜《し》は｜献帝《けんてい》を追って東へ出た。｜長安城《ちょうあんじょう》は四十日余り無人となり、｜関中《かんちゅう》は荒廃した","鍾繇が司隷校尉として長安に入る":"鍾繇が｜司隷《しれい》｜校尉《こうい》として｜長安《ちょうあん》に入る","建安二年":"｜建安《けんあん》二年","曹操が鍾繇を司隷校尉とし関中の諸将を督させた。関中の諸将（馬騰・韓遂ら）は子を人質に送ったが、実際は各自が兵を持ったままの名目上の服属":"｜曹操《そうそう》が鍾繇を｜司隷《しれい》｜校尉《こうい》とし｜関中《かんちゅう》の諸将を督させた。｜関中《かんちゅう》の諸将（馬騰・韓遂ら）は子を人質に送ったが、実際は各自が兵を持ったままの名目上の服属","曹丕の受禅で魏が成立":"｜曹丕《そうひ》の｜受禅《じゅぜん》で魏が成立","黄初元年十月":"｜黄初《こうしょ》元年十月","魏が晋に禅譲":"魏が晋に｜禅譲《ぜんじょう》","咸熙二年十二月":"｜咸熙《かんき》二年十二月","臨晋（馮翊）":"｜臨晋《りんしん》（｜馮翊《ひょうよく》）","臨晋":"｜臨晋《りんしん》","長安の東の三輔の地で、董卓の朝廷の直轄":"｜長安《ちょうあん》の東の｜三輔《さんぽ》の地で、｜董《とう》卓の朝廷の直轄","李傕":"｜李《り》｜傕《かく》","献帝が長安を出た後、李傕が馮翊の池陽（黄白城）を根拠に関中に残る":"｜献帝《けんてい》が｜長安《ちょうあん》を出た後、｜李《り》｜傕《かく》が｜馮翊《ひょうよく》の池陽（黄白城）を根拠に｜関中《かんちゅう》に残る","興平二年":"｜興平《こうへい》二年","李傕の根拠地の黄白城は池陽県（馮翊）にあった。臨晋そのものを李傕が持った記事はない":"｜李《り》｜傕《かく》の根拠地の黄白城は池陽県（｜馮翊《ひょうよく》）にあった。｜臨晋《りんしん》そのものを｜李《り》｜傕《かく》が持った記事はない","朝廷の詔で段煨ら関中の諸将が李傕を滅ぼす":"朝廷の詔で段煨ら｜関中《かんちゅう》の諸将が｜李《り》｜傕《かく》を滅ぼす","建安三年四月":"｜建安《けんあん》三年四月","李傕を討ったのは関中の諸将で、曹操の直接の軍ではない。名目上の服属とした":"｜李《り》｜傕《かく》を討ったのは｜関中《かんちゅう》の諸将で、｜曹操《そうそう》の直接の軍ではない。名目上の服属とした","槐里（扶風）":"｜槐里《かいり》（｜扶風《ふふう》）","槐里":"｜槐里《かいり》","興平市":"｜興平《こうへい》市","左将軍皇甫嵩が扶風に兵を置いていたが、董卓の召還に応じて朝廷の直轄に入った":"｜左将軍《さしょうぐん》皇甫嵩が｜扶風《ふふう》に兵を置いていたが、｜董《とう》卓の召還に応じて朝廷の直轄に入った","郭汜":"郭｜汜《し》","献帝が長安を出た後、郭汜が右扶風の郿を根拠に残る":"｜献帝《けんてい》が｜長安《ちょうあん》を出た後、郭｜汜《し》が右｜扶風《ふふう》の郿を根拠に残る","194年に种邵らが槐里に逃れて李傕の軍に攻め殺されたが、城は朝廷側のまま。195年以後は郭汜が郿を根拠にした（郭汜は郿で部将に殺された）":"194年に种邵らが｜槐里《かいり》に逃れて｜李《り》｜傕《かく》の軍に攻め殺されたが、城は朝廷側のまま。195年以後は郭｜汜《し》が郿を根拠にした（郭｜汜《し》は郿で部将に殺された）","郭汜が部将の伍習に殺され、曹操の上表で鍾繇が関中の諸軍を督する":"郭｜汜《し》が部将の伍習に殺され、｜曹操《そうそう》の｜上表《じょうひょう》で鍾繇が｜関中《かんちゅう》の諸軍を督する","関中の諸将（馬騰・韓遂など）は子を入侍させて服したが、実際には各自が兵を持っていた。名目上の服属":"｜関中《かんちゅう》の諸将（馬騰・韓遂など）は子を入侍させて服したが、実際には各自が兵を持っていた。名目上の服属","右扶風の県で董卓の朝廷の直轄":"右｜扶風《ふふう》の県で｜董《とう》卓の朝廷の直轄","献帝が長安を出た後、関中西部は郭汜らの手に残る":"｜献帝《けんてい》が｜長安《ちょうあん》を出た後、｜関中《かんちゅう》西部は郭｜汜《し》らの手に残る","陳倉そのものの持ち主の記事はなく、郭汜が近くの郿を根拠にしたことからの割り当て":"陳倉そのものの持ち主の記事はなく、郭｜汜《し》が近くの郿を根拠にしたことからの割り当て","涼州の安定郡。董卓の朝廷に属したが、涼州の乱の中で実効支配は疑わしい":"｜涼州《りょうしゅう》の安定郡。｜董《とう》卓の朝廷に属したが、｜涼州《りょうしゅう》の乱の中で実効支配は疑わしい","献帝が許に移り、朝廷が曹操の手に入る":"｜献帝《けんてい》が許に移り、朝廷が｜曹操《そうそう》の手に入る","建安元年":"｜建安《けんあん》元年","朝廷が曹操に移ったことによる名目上の帰属の移動。関中・涼州の諸将の一人の楊秋がのちに安定を拠点にした":"朝廷が｜曹操《そうそう》に移ったことによる名目上の帰属の移動。｜関中《かんちゅう》・｜涼州《りょうしゅう》の諸将の一人の楊秋がのちに安定を拠点にした","安邑（河東）":"安邑（｜河東《かとう》）","董卓の朝廷の直轄。董卓は洛陽から退くとき（191年）牛輔を安邑に駐屯させた":"｜董《とう》卓の朝廷の直轄。｜董《とう》卓は｜洛陽《らくよう》から退くとき（191年）牛輔を安邑に駐屯させた","献帝が洛陽へ移り、さらに曹操に迎えられて許へ移る":"｜献帝《けんてい》が｜洛陽《らくよう》へ移り、さらに｜曹操《そうそう》に迎えられて許へ移る","河東太守王邑が引き続き治め、白波の胡才・李楽も河東に残った。曹操の朝廷への名目上の服属":"｜河東《かとう》｜太守《たいしゅ》｜王邑《おうゆう》が引き続き治め、白波の胡才・李楽も｜河東《かとう》に残った。｜曹操《そうそう》の朝廷への名目上の服属","霊宝市":"｜霊宝《れいほう》市","洛陽と長安の間で董卓の直轄。のちに段煨が同じ弘農郡の華陰に駐屯した":"｜洛陽《らくよう》と｜長安《ちょうあん》の間で｜董《とう》卓の直轄。のちに段煨が同じ弘農郡の華陰に駐屯した","張済・李傕・郭汜が献帝を追って弘農の東澗で破る":"張済・｜李《り》｜傕《かく》・郭｜汜《し》が｜献帝《けんてい》を追って弘農の東澗で破る","興平二年十二月":"｜興平《こうへい》二年十二月","張済は192年から弘農に屯していた。年末には献帝は河東へ逃れ、弘農は張済らの手に残った":"張済は192年から弘農に屯していた。年末には｜献帝《けんてい》は｜河東《かとう》へ逃れ、弘農は張済らの手に残った","張済が関中を出て荊州に入り、穣城で戦死する":"張済が｜関中《かんちゅう》を出て｜荊州《けいしゅう》に入り、｜穣城《じょうじょう》で戦死する","司隷校尉（鍾繇）が弘農に治所を置く":"｜司隷《しれい》｜校尉《こうい》（鍾繇）が弘農に治所を置く","建安四年":"｜建安《けんあん》四年","211年の馬超らの叛乱では弘農の県邑の多くが応じたが、同じ年のうちに平定された":"211年の馬超らの｜叛乱《はんらん》では弘農の｜県邑《けんゆう》の多くが応じたが、同じ年のうちに平定された","京兆尹の南部で董卓の朝廷の直轄":"｜京兆尹《けいちょういん》の南部で｜董《とう》卓の朝廷の直轄","朝廷が曹操に移ったことによる帰属の移動。196〜205年の上洛の記事はない":"朝廷が｜曹操《そうそう》に移ったことによる帰属の移動。196〜205年の上洛の記事はない","冀（漢陽・天水）":"冀（｜漢陽《かんよう》・天水）","涼州刺史の治所。187年に韓遂らが漢陽を囲み太守傅燮が戦死して以来、涼州は乱れており、朝廷の実効支配は疑わしい":"｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》の治所。187年に韓遂らが｜漢陽《かんよう》を囲み｜太守《たいしゅ》傅燮が戦死して以来、｜涼州《りょうしゅう》は乱れており、朝廷の実効支配は疑わしい","朝廷が曹操に移ったことによる名目上の帰属の移動。199年には涼州牧韋端が許へ使者（冀の人楊阜）を送っている":"朝廷が｜曹操《そうそう》に移ったことによる名目上の帰属の移動。199年には｜涼州《りょうしゅう》牧韋端が許へ使者（冀の人｜楊阜《ようふ》）を送っている","上邽":"｜上邽《じょうけい》","漢陽郡の県。涼州の乱の中で朝廷の実効支配は疑わしい":"｜漢陽《かんよう》郡の県。｜涼州《りょうしゅう》の乱の中で朝廷の実効支配は疑わしい","朝廷が曹操に移ったことによる名目上の帰属の移動":"朝廷が｜曹操《そうそう》に移ったことによる名目上の帰属の移動","馬超が羌・胡を率いて隴上の郡県を攻め、冀城を除く郡県がみな応じる":"馬超が羌・胡を率いて隴上の｜郡県《ぐんけん》を攻め、冀城を除く｜郡県《ぐんけん》がみな応じる","通鑑は213年の条に「初」として載せる。曹操が鄴へ帰った212年正月の後、冀城の包囲が始まる正月（213年）より前なので、212年の暮れには馬超の側":"通鑑は213年の条に「初」として載せる。｜曹操《そうそう》が鄴へ帰った212年正月の後、冀城の包囲が始まる正月（213年）より前なので、212年の暮れには馬超の側","夏侯淵が馬超・韓遂を破り、隴上の諸県が降る":"｜夏侯《かこう》｜淵《えん》が馬超・韓遂を破り、隴上の諸県が降る","建安十九年":"｜建安《けんあん》十九年","漢陽郡の内。涼州の乱の中で朝廷の実効支配は疑わしい":"｜漢陽《かんよう》郡の内。｜涼州《りょうしゅう》の乱の中で朝廷の実効支配は疑わしい","涼州の武都郡。氐が多く住み、朝廷の実効支配は疑わしい":"｜涼州《りょうしゅう》の武都郡。氐が多く住み、朝廷の実効支配は疑わしい","劉備が張飛・馬超・呉蘭らを下辨に屯させる":"｜劉備《りゅうび》が｜張飛《ちょうひ》・馬超・呉蘭らを下辨に屯させる","建安二十二年":"｜建安《けんあん》二十二年","曹洪が呉蘭を破り、張飛・馬超が退く":"｜曹洪《そうこう》が呉蘭を破り、｜張飛《ちょうひ》・馬超が退く","建安二十三年三月":"｜建安《けんあん》｜二十三《にじゅうさん》年三月","219年に曹操は漢中を失った後、張既に武都の氐五万余落を扶風・天水へ移させた":"219年に｜曹操《そうそう》は｜漢中《かんちゅう》を失った後、張既に武都の氐五万余落を｜扶風《ふふう》・天水へ移させた","諸葛亮が陳式に武都・陰平の二郡を攻めさせ、郭淮を退けて二郡を取る":"｜諸葛亮《しょかつりょう》が陳式に武都・陰平の二郡を攻めさせ、郭淮を退けて二郡を取る","建興七年春":"｜建興《けんこう》七年春","魏の諸葛緒が祁山から武街・橋頭へ進み、姜維の帰り道を断とうとする。冬に劉禅が鄧艾に降り、蜀が滅ぶ":"魏の諸葛緒が祁山から武街・橋頭へ進み、｜姜維《きょうい》の帰り道を断とうとする。冬に｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》が｜鄧艾《とうがい》に降り、蜀が滅ぶ","景元四年":"｜景元《けいげん》四年","襄武（隴西）":"襄武（｜隴西《ろうせい》）","隴西県":"｜隴西《ろうせい》県","187年に隴西太守李相如が叛いて韓遂と結んで以来、隴西は乱の中にあり、朝廷の実効支配は疑わしい":"187年に｜隴西《ろうせい》｜太守《たいしゅ》李相如が叛いて韓遂と結んで以来、｜隴西《ろうせい》は乱の中にあり、朝廷の実効支配は疑わしい","夏侯淵が韓遂・馬超を破り、隴右が平定される":"｜夏侯《かこう》｜淵《えん》が韓遂・馬超を破り、｜隴右《ろうゆう》が平定される","枹罕":"｜枹罕《ふかん》","宋建は涼州の乱に乗じて枹罕で河首平漢王を名乗り、元号を立て百官を置いて三十年余り続いた":"宋建は｜涼州《りょうしゅう》の乱に乗じて｜枹罕《ふかん》で河首平漢王を名乗り、元号を立て百官を置いて三十年余り続いた","夏侯淵が枹罕を囲んで落とし、宋建を斬る":"｜夏侯《かこう》｜淵《えん》が｜枹罕《ふかん》を囲んで落とし、宋建を斬る","建安十九年十月":"｜建安《けんあん》十九年十月","蘭州市":"｜蘭州《らんしゅう》市","韓遂は金城の人で、184年に辺章とともに金城太守を殺して叛いて以来、金城を根拠にした。192年に李傕から鎮西将軍を授けられて金城へ帰されている":"韓遂は金城の人で、184年に辺章とともに金城｜太守《たいしゅ》を殺して叛いて以来、金城を根拠にした。192年に｜李《り》｜傕《かく》から鎮西将軍を授けられて金城へ帰されている","西平・金城の諸将麹演・蒋石らが韓遂の首を斬って曹操に送る":"西平・金城の諸将麹演・蒋石らが韓遂の首を斬って｜曹操《そうそう》に送る","建安二十年五月":"｜建安《けんあん》二十年五月","韓遂は214年に夏侯淵に敗れて西平へ逃れていた":"韓遂は214年に｜夏侯《かこう》｜淵《えん》に敗れて西平へ逃れていた","西平・金城の諸将麹演・蒋石らが韓遂の首を送り曹操に帰す":"西平・金城の諸将麹演・蒋石らが韓遂の首を送り｜曹操《そうそう》に帰す","建安二十四年":"｜建安《けんあん》二十四年","麹演が近隣の郡と結んで叛くが、金城太守蘇則に誘い出されて斬られる":"麹演が近隣の郡と結んで叛くが、金城｜太守《たいしゅ》蘇則に誘い出されて斬られる","延康元年":"｜延康《えんこう》元年","姑臧（武威）":"｜姑臧《こぞう》（｜武威《ぶい》）","姑臧":"｜姑臧《こぞう》","武威市":"｜武威《ぶい》市","河西四郡の一つ。194年に河西四郡は涼州の治所から遠いとして朝廷に別の州を求め、雍州刺史邯鄲商が置かれた。朝廷への帰属は名目上":"｜河西《かせい》四郡の一つ。194年に｜河西《かせい》四郡は｜涼州《りょうしゅう》の治所から遠いとして朝廷に別の州を求め、｜雍州《ようしゅう》｜刺史《しし》｜邯鄲《かんたん》商が置かれた。朝廷への帰属は名目上","武威の顔俊らが各自の郡に拠って将軍を名乗る":"｜武威《ぶい》の顔俊らが各自の郡に拠って将軍を名乗る","一年余り後、張掖の和鸞が顔俊を殺し、さらに武威の王秘が和鸞を殺した":"一年余り後、張掖の和鸞が顔俊を殺し、さらに｜武威《ぶい》の王秘が和鸞を殺した","魏の武威太守毋丘興が郡にあり、蘇則の救援で叛いた胡を降す":"魏の｜武威《ぶい》｜太守《たいしゅ》毋丘興が郡にあり、蘇則の救援で叛いた胡を降す","河西四郡の一つ。朝廷への帰属は名目上":"｜河西《かせい》四郡の一つ。朝廷への帰属は名目上","張掖の張進が太守杜通を捕らえて叛くが、蘇則らが張掖を囲んで破り張進を斬る":"張掖の張進が｜太守《たいしゅ》杜通を捕らえて叛くが、蘇則らが張掖を囲んで破り張進を斬る","黄華が太守辛機を受け入れず叛くが、張進が敗れ敦煌の張恭に背後を突かれて降る":"黄華が｜太守《たいしゅ》辛機を受け入れず叛くが、張進が敗れ敦煌の張恭に背後を突かれて降る","朝廷が曹操に移ったことによる名目上の帰属の移動。太守馬艾が死んだ後は郡人が功曹張恭を推して長史の事を行わせた":"朝廷が｜曹操《そうそう》に移ったことによる名目上の帰属の移動。｜太守《たいしゅ》馬艾が死んだ後は郡人が｜功曹《こうそう》張恭を推して長史の事を行わせた","張恭が酒泉を攻めて黄華を降らせ、魏の太守尹奉を迎え入れる":"張恭が酒泉を攻めて黄華を降らせ、魏の｜太守《たいしゅ》尹奉を迎え入れる","太守尹璩の死後、功曹宋質が涼州刺史の立てた梁澄を廃して令狐豊を太守とし、刺史楊欣の兵を破る":"｜太守《たいしゅ》尹璩の死後、｜功曹《こうそう》宋質が｜涼州《りょうしゅう》｜刺史《しし》の立てた梁澄を廃して令狐豊を｜太守《たいしゅ》とし、｜刺史《しし》楊欣の兵を破る","泰始八年":"｜泰始《たいし》八年","咸寧二年春":"｜咸寧《かんねい》二年春","鄴（魏郡）":"鄴（｜魏郡《ぎぐん》）","冀州牧韓馥の州治。韓馥は鄴にとどまって挙兵の軍に兵糧を送った":"｜冀州《きしゅう》牧韓馥の｜州治《しゅうち》。韓馥は鄴にとどまって挙兵の軍に兵糧を送った","韓馥が冀州を袁紹に譲り、袁紹が冀州牧を領する":"韓馥が｜冀州《きしゅう》を｜袁紹《えんしょう》に譲り、｜袁紹《えんしょう》が｜冀州《きしゅう》牧を領する","初平二年七月":"｜初平《しょへい》二年七月","袁紹が死に、袁尚が後を継ぐ":"｜袁紹《えんしょう》が死に、袁尚が後を継ぐ","建安七年五月":"｜建安《けんあん》七年五月","袁紹の死後、審配らが袁尚を立て、袁尚が鄴で冀州を継ぐ":"｜袁紹《えんしょう》の死後、審配らが袁尚を立て、袁尚が鄴で｜冀州《きしゅう》を継ぐ","審配の兄の子審栄が東門を開き、曹操が鄴を陥とす":"審配の兄の子審栄が東門を開き、｜曹操《そうそう》が鄴を陥とす","建安九年八月":"｜建安《けんあん》九年八月","曹丕が漢の禅りを受けて魏を建てる":"｜曹丕《そうひ》が漢の禅りを受けて魏を建てる","泰始元年十二月":"｜泰始《たいし》元年十二月","邯鄲（趙国）":"｜邯鄲《かんたん》（趙国）","邯鄲":"｜邯鄲《かんたん》","邯鄲市":"｜邯鄲《かんたん》市","冀州牧韓馥の管下":"｜冀州《きしゅう》牧韓馥の管下","袁紹の死後、審配らが袁尚を立て、袁尚が鄴で冀州を継ぐ。袁譚は黎陽に出され冀州の郡を得ていない":"｜袁紹《えんしょう》の死後、審配らが袁尚を立て、袁尚が鄴で｜冀州《きしゅう》を継ぐ。｜袁《えん》｜譚《たん》は｜黎陽《れいよう》に出され｜冀州《きしゅう》の郡を得ていない","曹操が袁尚の将沮鵠の守る邯鄲を抜く":"｜曹操《そうそう》が袁尚の将沮鵠の守る｜邯鄲《かんたん》を抜く","建安九年四月":"｜建安《けんあん》九年四月","廮陶（鉅鹿）":"廮陶（｜鉅鹿《きょろく》）","鄴の陥落後、曹操が冀州牧を領する":"鄴の陥落後、｜曹操《そうそう》が｜冀州《きしゅう》牧を領する","建安九年九月":"｜建安《けんあん》九年九月","甘陵（清河）":"甘陵（｜清河《せいが》）","曹操が鄴を囲む間に袁譚が背き、甘陵・安平・勃海・河間を略取する":"｜曹操《そうそう》が鄴を囲む間に｜袁《えん》｜譚《たん》が背き、甘陵・｜安平《あんぺい》・勃海・｜河間《かかん》を略取する","建安九年":"｜建安《けんあん》九年","曹操が南皮を攻め、袁譚を斬って冀州が平らぐ":"｜曹操《そうそう》が南皮を攻め、｜袁《えん》｜譚《たん》を斬って｜冀州《きしゅう》が平らぐ","建安十年正月":"｜建安《けんあん》十年正月","盧奴（中山）":"盧奴（｜中山《ちゅうざん》）","鄴を失った袁尚が中山へ逃れ、袁譚がこれを攻めて袁尚は故安へ走り、袁譚がその衆を収める":"鄴を失った袁尚が｜中山《ちゅうざん》へ逃れ、｜袁《えん》｜譚《たん》がこれを攻めて袁尚は故安へ走り、｜袁《えん》｜譚《たん》がその衆を収める","袁譚が南皮で斬られ、冀州が平らぐ":"｜袁《えん》｜譚《たん》が南皮で斬られ、｜冀州《きしゅう》が平らぐ","信都（安平）":"｜信都《しんと》（｜安平《あんぺい》）","信都":"｜信都《しんと》","冀州区":"｜冀州《きしゅう》区","袁譚が甘陵・安平・勃海・河間を略取する":"｜袁《えん》｜譚《たん》が甘陵・｜安平《あんぺい》・勃海・｜河間《かかん》を略取する","楽成（河間）":"楽成（｜河間《かかん》）","元氏（常山）":"｜元氏《げんし》（常山）","元氏":"｜元氏《げんし》","元氏県":"｜元氏《げんし》県","南皮（渤海）":"南皮（｜渤海《ぼっかい》）","袁紹は勃海太守として挙兵の盟主に推され、191年に印綬を公孫範に授けるまで太守の印を持っていた。袁紹自身は河内に屯した":"｜袁紹《えんしょう》は｜勃海《ぼっかい》｜太守《たいしゅ》として挙兵の盟主に推され、191年に｜印綬《いんじゅ》を｜公孫《こうそん》範に授けるまで｜太守《たいしゅ》の印を持っていた。｜袁紹《えんしょう》自身は｜河内《かだい》に屯した","袁紹が勃海太守の印綬を公孫範に授けて郡へ遣ったが、公孫範は背いて勃海の兵を率いて公孫瓚を助ける":"｜袁紹《えんしょう》が｜勃海《ぼっかい》｜太守《たいしゅ》の｜印綬《いんじゅ》を｜公孫《こうそん》範に授けて郡へ遣ったが、｜公孫《こうそん》範は背いて勃海の兵を率いて｜公孫《こうそん》瓚を助ける","初平二年":"｜初平《しょへい》二年","界橋で敗れた公孫瓚が勃海へ走り、公孫範とともに薊へ還る":"界橋で敗れた｜公孫《こうそん》瓚が勃海へ走り、｜公孫《こうそん》範とともに薊へ還る","初平三年":"｜初平《しょへい》三年","袁紹の死後、袁尚が冀州を継ぐ。203年に袁譚が鄴の門外で袁尚に敗れていったん南皮へ退いたが、袁尚に大敗して平原へ逃れた":"｜袁紹《えんしょう》の死後、袁尚が｜冀州《きしゅう》を継ぐ。203年に｜袁《えん》｜譚《たん》が鄴の門外で袁尚に敗れていったん南皮へ退いたが、袁尚に大敗して平原へ逃れた","袁譚が甘陵・安平・勃海・河間を略取し、十二月に平原を棄てて南皮を保つ":"｜袁《えん》｜譚《たん》が甘陵・｜安平《あんぺい》・勃海・｜河間《かかん》を略取し、十二月に平原を棄てて南皮を保つ","曹操が南皮を攻め落とし、袁譚を追って斬る":"｜曹操《そうそう》が南皮を攻め落とし、｜袁《えん》｜譚《たん》を追って斬る","晋陽（太原）":"｜晋陽《しんよう》（｜太原《たいげん》）","晋陽":"｜晋陽《しんよう》","太原市":"｜太原《たいげん》市","并州刺史は189年の丁原の死後に置かれず、南匈奴の於夫羅が白波の賊と合して太原を破り諸郡を荒らしていた":"｜并州刺史《へいしゅうしし》は189年の丁原の死後に置かれず、南｜匈奴《きょうど》の於夫羅が白波の賊と合して｜太原《たいげん》を破り諸郡を荒らしていた","公孫瓚を滅ぼした袁紹が冀・青・幽・并の四州を併せ、甥の高幹を并州に置く":"｜公孫《こうそん》瓚を滅ぼした｜袁紹《えんしょう》が冀・青・幽・并の｜四州《ししゅう》を併せ、甥の高幹を｜并州《へいしゅう》に置く","袁紹の死後、并州刺史高幹は袁尚に付き、袁尚の命で郭援とともに河東を攻める":"｜袁紹《えんしょう》の死後、｜并州刺史《へいしゅうしし》高幹は袁尚に付き、袁尚の命で郭援とともに｜河東《かとう》を攻める","建安七年":"｜建安《けんあん》七年","鄴の陥落後、高幹が并州ごと曹操に降り、そのまま并州刺史とされる":"鄴の陥落後、高幹が｜并州《へいしゅう》ごと｜曹操《そうそう》に降り、そのまま｜并州刺史《へいしゅうしし》とされる","曹操が烏桓を討つと聞いた高幹が并州をあげて叛き、上党太守を捕らえて壺関口を守る":"｜曹操《そうそう》が烏桓を討つと聞いた高幹が｜并州《へいしゅう》をあげて叛き、｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》を捕らえて壺関口を守る","建安十年十月":"｜建安《けんあん》十年十月","曹操が壺関を降し、逃れた高幹は上洛で斬られて并州が平らぐ。梁習が并州刺史を領する":"｜曹操《そうそう》が壺関を降し、逃れた高幹は上洛で斬られて｜并州《へいしゅう》が平らぐ。梁習が｜并州刺史《へいしゅうしし》を領する","建安十一年三月":"｜建安《けんあん》十一年三月","長子（上党）":"長子（｜上党《じょうとう》）","上党太守":"｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》","上党太守（名は伝わらない）が壺関を守り、董卓の乱の後に上党にとどまった張楊が攻めても降せなかった。張楊はやがて河内の袁紹のもとへ去る":"｜上党《じょうとう》｜太守《たいしゅ》（名は伝わらない）が壺関を守り、｜董《とう》卓の乱の後に｜上党《じょうとう》にとどまった張楊が攻めても降せなかった。張楊はやがて｜河内《かだい》の｜袁紹《えんしょう》のもとへ去る","離石（西河）":"｜離石《りせき》（西河）","離石":"｜離石《りせき》","離石区":"｜離石《りせき》区","西河は白波の賊の起こった地で、南匈奴の於夫羅が白波と合して太原・河内を荒らした。郡を握る勢力は原文で確かめられない":"西河は白波の賊の起こった地で、南｜匈奴《きょうど》の於夫羅が白波と合して｜太原《たいげん》・｜河内《かだい》を荒らした。郡を握る勢力は原文で確かめられない","洛陽":"｜洛陽《らくよう》","洛陽市":"｜洛陽《らくよう》市","董卓が献帝を長安へ移し、宮殿を焼いた後も自らは洛陽の畢圭苑に留まって関東軍に備えた":"｜董《とう》卓が｜献帝《けんてい》を｜長安《ちょうあん》へ移し、宮殿を焼いた後も自らは｜洛陽《らくよう》の畢圭苑に留まって｜関東《かんとう》軍に備えた","董卓が長安へ退き、孫堅が洛陽に入るが魯陽へ戻る。朱儁も河南が荒れて中牟へ移る":"｜董《とう》卓が｜長安《ちょうあん》へ退き、｜孫堅《そんけん》が｜洛陽《らくよう》に入るが｜魯陽《ろよう》へ戻る。朱儁も｜河南《かなん》が荒れて中牟へ移る","焼かれた後の洛陽は、誰も守らない廃墟になった":"焼かれた後の｜洛陽《らくよう》は、誰も守らない廃墟になった","献帝が洛陽に帰り、曹操が洛陽に来て司隷校尉を領し、献帝を許へ移す":"｜献帝《けんてい》が｜洛陽《らくよう》に帰り、｜曹操《そうそう》が｜洛陽《らくよう》に来て｜司隷《しれい》｜校尉《こうい》を領し、｜献帝《けんてい》を許へ移す","建安元年七月・八月":"｜建安《けんあん》元年七月・八月","献帝が許へ移った後の洛陽に曹操の守将がいたことを直接示す記事は無い。司隷校尉として河南尹を管轄した曹操の勢力とした":"｜献帝《けんてい》が許へ移った後の｜洛陽《らくよう》に｜曹操《そうそう》の守将がいたことを直接示す記事は無い。｜司隷《しれい》｜校尉《こうい》として河南尹を管轄した｜曹操《そうそう》の勢力とした","曹丕の受禅で魏が建つ。十二月に洛陽宮を造営して都とする":"｜曹丕《そうひ》の｜受禅《じゅぜん》で魏が建つ。十二月に｜洛陽宮《らくようきゅう》を造営して都とする","魏から晋への禅譲":"魏から晋への｜禅譲《ぜんじょう》","懐（河内）":"懐（｜河内《かだい》）","王匡":"｜王匡《おうきょう》","河内太守王匡の郡。盟主袁紹もこの年は河内に駐屯した":"｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》｜王匡《おうきょう》の郡。盟主｜袁紹《えんしょう》もこの年は｜河内《かだい》に駐屯した","董卓が任じた河内太守張楊が河内を持つ":"｜董《とう》卓が任じた｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》張楊が｜河内《かだい》を持つ","張楊が部将楊醜に殺され、眭固が楊醜を殺して袁紹に付く":"張楊が部将楊醜に殺され、眭固が楊醜を殺して｜袁紹《えんしょう》に付く","建安三年十一月":"｜建安《けんあん》三年十一月","眭固は張楊の兵を率いて袁紹に属し、河内の射犬に駐屯した":"眭固は張楊の兵を率いて｜袁紹《えんしょう》に属し、｜河内《かだい》の射犬に駐屯した","曹操が眭固を斬り、射犬が降る。魏种を河内太守とする":"｜曹操《そうそう》が眭固を斬り、射犬が降る。魏种を｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》とする","建安四年四月":"｜建安《けんあん》四年四月","曹丕の受禅で魏が建つ":"｜曹丕《そうひ》の｜受禅《じゅぜん》で魏が建つ","野王":"｜野王《やおう》","河内太守王匡の郡":"｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》｜王匡《おうきょう》の郡","河内太守張楊が河内を持つ（のち野王を本拠とする）":"｜河内《かだい》｜太守《たいしゅ》張楊が｜河内《かだい》を持つ（のち｜野王《やおう》を本拠とする）","張楊が殺され、眭固が兵を率いて袁紹に付く":"張楊が殺され、眭固が兵を率いて｜袁紹《えんしょう》に付く","曹操が射犬を降し、河内を取る":"｜曹操《そうそう》が射犬を降し、｜河内《かだい》を取る","成皋（虎牢）":"成皋（｜虎牢《ころう》）","滎陽市":"｜滎陽《けいよう》市","曹操が成皋を押さえようと西進し、滎陽の汴水で董卓の将徐栄に敗れた。成皋は董卓側の守りの内":"｜曹操《そうそう》が成皋を押さえようと西進し、｜滎陽《けいよう》の汴水で｜董《とう》卓の将徐栄に敗れた。成皋は｜董《とう》卓側の守りの内","董卓が長安へ退き、河南尹の地は荒廃して持ち主が無くなる":"｜董《とう》卓が｜長安《ちょうあん》へ退き、河南尹の地は荒廃して持ち主が無くなる","曹操が洛陽に入り司隷校尉を領する":"｜曹操《そうそう》が｜洛陽《らくよう》に入り｜司隷《しれい》｜校尉《こうい》を領する","建安元年八月":"｜建安《けんあん》元年八月","兗州刺史劉岱が東郡太守橋瑁を殺し、王肱に東郡を領させた":"｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》劉岱が｜東郡《とうぐん》｜太守《たいしゅ》橋瑁を殺し、王肱に｜東郡《とうぐん》を領させた","黒山賊を破った曹操が袁紹の上表で東郡太守となる":"黒山賊を破った｜曹操《そうそう》が｜袁紹《えんしょう》の｜上表《じょうひょう》で｜東郡《とうぐん》｜太守《たいしゅ》となる","張邈・陳宮が呂布を迎え、兗州の郡県がみな呂布に応じる":"張邈・陳宮が呂布を迎え、｜兗州《えんしゅう》の｜郡県《ぐんけん》がみな呂布に応じる","興平元年":"｜興平《こうへい》元年","曹操が呂布を破り、兗州を平定する":"｜曹操《そうそう》が呂布を破り、｜兗州《えんしゅう》を平定する","中牟令楊原が任峻の献策で河南尹の事を行い、董卓に対して諸県を守らせた。任峻はのちに郡を挙げて曹操に帰したが、その年は記されていない":"中牟令楊原が任峻の献策で河南尹の事を行い、｜董《とう》卓に対して諸県を守らせた。任峻はのちに郡を挙げて｜曹操《そうそう》に帰したが、その年は記されていない","朱儁が洛陽から東へ移って中牟に屯し、董卓討伐を呼びかける":"朱儁が｜洛陽《らくよう》から東へ移って中牟に屯し、｜董《とう》卓討伐を呼びかける","董卓の将李傕・郭汜・張済が中牟で朱儁を破り、陳留・潁川を掠める":"｜董《とう》卓の将｜李《り》｜傕《かく》・郭｜汜《し》・張済が中牟で朱儁を破り、陳留・潁川を掠める","初平三年正月":"｜初平《しょへい》三年正月","曹操が司隷校尉を領し、河南尹を管轄する":"｜曹操《そうそう》が｜司隷《しれい》｜校尉《こうい》を領し、河南尹を管轄する","陳留太守張邈が挙兵し、酸棗に屯した":"陳留｜太守《たいしゅ》張邈が挙兵し、酸棗に屯した","兗州刺史劉岱が黄巾に殺され、曹操が兗州牧となる。張邈はその下に入る":"｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》劉岱が黄巾に殺され、｜曹操《そうそう》が｜兗州《えんしゅう》牧となる。張邈はその下に入る","張邈は曹操と親しく、曹操の州の内の郡守となった（陳宮が張邈に「反受制于人」と説いた）":"張邈は｜曹操《そうそう》と親しく、｜曹操《そうそう》の州の内の｜郡守《ぐんしゅ》となった（陳宮が張邈に「反受制于人」と説いた）","張邈が陳宮とともに曹操に叛き、呂布を迎えて兗州牧とする":"張邈が陳宮とともに｜曹操《そうそう》に叛き、呂布を迎えて｜兗州《えんしゅう》牧とする","曹操が雍丘を落とし、張超は自殺、張邈は部下に殺される":"｜曹操《そうそう》が雍丘を落とし、張超は自殺、張邈は部下に殺される","許昌市":"｜許昌《きょしょう》市","袁術の任じた豫州刺史孫堅が潁川の陽城を拠点とし、袁紹の任じた周昂を追う。孫堅の死後は孫賁が豫州刺史":"｜袁術《えんじゅつ》の任じた豫州刺史｜孫堅《そんけん》が潁川の｜陽城《ようじょう》を拠点とし、｜袁紹《えんしょう》の任じた周昂を追う。｜孫堅《そんけん》の死後は孫賁が豫州刺史","曹操が汝南・潁川の黄巾を破って許に入り、八月に献帝を許へ迎える":"｜曹操《そうそう》が汝南・潁川の黄巾を破って許に入り、八月に｜献帝《けんてい》を許へ迎える","袁術方の豫州刺史孫堅が潁川の陽城を拠点とする":"｜袁術《えんじゅつ》方の豫州刺史｜孫堅《そんけん》が潁川の｜陽城《ようじょう》を拠点とする","曹操が汝南・潁川の黄巾を破る":"｜曹操《そうそう》が汝南・潁川の黄巾を破る","建安元年二月":"｜建安《けんあん》元年二月","魯陽":"｜魯陽《ろよう》","後将軍袁術が魯陽に屯し、孫堅が南陽太守張咨を殺したことで南陽郡を得た":"｜後将軍《こうしょうぐん》｜袁術《えんじゅつ》が｜魯陽《ろよう》に屯し、｜孫堅《そんけん》が｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》張咨を殺したことで｜南陽《なんよう》郡を得た","袁術が劉表に糧道を断たれて南陽を去り、陳留の封丘へ移る":"｜袁術《えんじゅつ》が｜劉表《りゅうひょう》に｜糧道《りょうどう》を断たれて｜南陽《なんよう》を去り、陳留の封丘へ移る","初平四年正月":"｜初平《しょへい》四年正月","曹操が献帝を許に迎える":"｜曹操《そうそう》が｜献帝《けんてい》を許に迎える","魯陽が196年の暮れに曹操の城だったと名指す記事は無い（以前の根拠は「魯陽は許に近い」という董昭の言葉だった）。197年には曹洪が葉に屯している":"｜魯陽《ろよう》が196年の暮れに｜曹操《そうそう》の城だったと名指す記事は無い（以前の根拠は「｜魯陽《ろよう》は許に近い」という董昭の言葉だった）。197年には｜曹洪《そうこう》が葉に屯している","陳（陳国）":"陳（｜陳国《ちんこく》）","劉寵":"｜劉寵《りゅうちょう》","陳王劉寵が強弩で国を守り、義兵が起こると陽夏に屯して輔漢大将軍を称した":"｜陳王《ちんおう》｜劉寵《りゅうちょう》が強弩で国を守り、義兵が起こると｜陽夏《ようか》に屯して輔漢｜大将軍《だいしょうぐん》を称した","袁術が刺客で陳王劉寵と陳相駱俊を殺し、陳に侵入する。曹操が東征して袁術の将を破り、袁術は淮水を渡って退く":"｜袁術《えんじゅつ》が刺客で｜陳王《ちんおう》｜劉寵《りゅうちょう》と陳相駱俊を殺し、陳に侵入する。｜曹操《そうそう》が東征して｜袁術《えんじゅつ》の将を破り、｜袁術《えんじゅつ》は｜淮水《わいすい》を渡って退く","建安二年九月":"｜建安《けんあん》二年九月","袁術が孫堅を豫州刺史に上表した。汝南は袁術の郷里":"｜袁術《えんじゅつ》が｜孫堅《そんけん》を豫州刺史に｜上表《じょうひょう》した。汝南は｜袁術《えんじゅつ》の郷里","曹操が汝南・潁川の黄巾何儀らを破る":"｜曹操《そうそう》が汝南・潁川の黄巾何儀らを破る","宛（南陽）":"宛（｜南陽《なんよう》）","南陽市":"｜南陽《なんよう》市","孫堅が南陽太守張咨を殺し、袁術が南陽郡を得た":"｜孫堅《そんけん》が｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》張咨を殺し、｜袁術《えんじゅつ》が｜南陽《なんよう》郡を得た","袁術が劉表に追われて南陽を去る":"｜袁術《えんじゅつ》が｜劉表《りゅうひょう》に追われて｜南陽《なんよう》を去る","張済が穣を攻めて戦死し、族子張繍がその兵を継いで宛に屯し、劉表と結ぶ":"張済が穣を攻めて戦死し、｜族子《ぞくし》張繍がその兵を継いで宛に屯し、｜劉表《りゅうひょう》と結ぶ","正月に張繍が曹操に降ってすぐ背き、穣へ退く。十一月に曹操が再び宛に至り、湖陽・舞陰を下す":"正月に張繍が｜曹操《そうそう》に降ってすぐ背き、穣へ退く。十一月に｜曹操《そうそう》が再び宛に至り、湖陽・舞陰を下す","宛の守将侯音が叛き、南陽太守を捕らえて宛に拠る":"宛の守将侯音が叛き、｜南陽《なんよう》｜太守《たいしゅ》を捕らえて宛に拠る","建安二十三年十月":"｜建安《けんあん》｜二十三《にじゅうさん》年十月","建安二十四年正月":"｜建安《けんあん》二十四年正月","袁術が南陽郡を得た":"｜袁術《えんじゅつ》が｜南陽《なんよう》郡を得た","201年から劉備が劉表の下で新野に屯した":"201年から｜劉備《りゅうび》が｜劉表《りゅうひょう》の下で新野に屯した","曹操が新野に至り、劉表の子劉琮が荊州を挙げて降る":"｜曹操《そうそう》が新野に至り、｜劉表《りゅうひょう》の子劉琮が｜荊州《けいしゅう》を挙げて降る","建安十三年九月":"｜建安《けんあん》十三年九月","睢陽（梁国）":"｜睢陽《すいよう》（｜梁国《りょうこく》）","睢陽":"｜睢陽《すいよう》","袁術の任じた豫州刺史孫堅・孫賁が豫州を持つ":"｜袁術《えんじゅつ》の任じた豫州刺史｜孫堅《そんけん》・孫賁が豫州を持つ","曹操が献帝を許に迎え、豫州の東へ勢力を広げる":"｜曹操《そうそう》が｜献帝《けんてい》を許に迎え、豫州の東へ勢力を広げる","睢陽（梁国）が196年の暮れに曹操の城だったと名指す記事は無い（以前の根拠は陳国武平の記事だった）。197年に曹操が袁術を陳に討っている":"｜睢陽《すいよう》（｜梁国《りょうこく》）が196年の暮れに｜曹操《そうそう》の城だったと名指す記事は無い（以前の根拠は｜陳国《ちんこく》｜武平《ぶへい》の記事だった）。197年に｜曹操《そうそう》が｜袁術《えんじゅつ》を陳に討っている","亳州市":"｜亳州《はくしゅう》市","袁術が皇帝を名乗り、沛相陳珪が袁術の招きを拒んで曹操に付く":"｜袁術《えんじゅつ》が皇帝を名乗り、｜沛相《はいしょう》陳珪が｜袁術《えんじゅつ》の招きを拒んで｜曹操《そうそう》に付く","196年の根拠だった陳国武平の記事は沛国のことではないので、陳珪が曹操に付いた197年に移した":"196年の根拠だった｜陳国《ちんこく》｜武平《ぶへい》の記事は沛国のことではないので、陳珪が｜曹操《そうそう》に付いた197年に移した","安豊（廬江北部）":"｜安豊《あんぽう》（｜廬江《ろこう》北部）","安豊":"｜安豊《あんぽう》","廬江太守陸康が郡を守り、献帝の朝廷へ貢物を送った":"｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》陸康が郡を守り、｜献帝《けんてい》の朝廷へ貢物を送った","袁術が孫策に陸康を攻めさせて廬江を取り、劉勲を廬江太守とする":"｜袁術《えんじゅつ》が｜孫策《そんさく》に陸康を攻めさせて｜廬江《ろこう》を取り、劉勲を｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》とする","袁術が死に、孫策が廬江太守劉勲の留守を襲って皖城を取り、李術を廬江太守とする":"｜袁術《えんじゅつ》が死に、｜孫策《そんさく》が｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》劉勲の留守を襲って皖城を取り、李術を｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》とする","曹操の揚州刺史劉馥が合肥に州治を立て、江淮の梅乾・雷緒らを招いて貢納させる":"｜曹操《そうそう》の｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》劉馥が合肥に｜州治《しゅうち》を立て、｜江淮《こうわい》の梅乾・雷緒らを招いて貢納させる","同じ記事に「時に揚州は独り九江を有するのみ」とあり、廬江北部の安豊が曹操の側だったと名指す記事は無い。孫策の廬江太守李術は同じ年に孫権に滅ぼされている":"同じ記事に「時に｜揚州《ようしゅう》は独り｜九江《きゅうこう》を有するのみ」とあり、｜廬江《ろこう》北部の｜安豊《あんぽう》が｜曹操《そうそう》の側だったと名指す記事は無い。｜孫策《そんさく》の｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》李術は同じ年に｜孫権《そんけん》に滅ぼされている","建業（秣陵）":"｜建業《けんぎょう》（｜秣陵《まつりょう》）","建業":"｜建業《けんぎょう》","南京市":"｜南京《なんきん》市","揚州刺史陳温の州の内。江南の郡を陳温が実際に押さえていた記事は無く、名目上の所属として描く":"｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》陳温の州の内。｜江南《こうなん》の郡を陳温が実際に押さえていた記事は無く、名目上の所属として描く","陳温の死後、丹陽太守周昕が郡を保つ。袁術と通じなかった":"陳温の死後、｜丹陽《たんよう》｜太守《たいしゅ》周昕が郡を保つ。｜袁術《えんじゅつ》と通じなかった","揚州刺史劉繇が曲阿に入り、呉景・孫賁を江北へ追う。彭城相薛礼が秣陵城に拠り劉繇を盟主とした":"｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》劉繇が曲阿に入り、呉景・孫賁を｜江北《こうほく》へ追う。｜彭城《ほうじょう》相薛礼が｜秣陵《まつりょう》城に拠り劉繇を盟主とした","袁術の下の孫策が渡江し、秣陵の薛礼・笮融を破る":"｜袁術《えんじゅつ》の下の｜孫策《そんさく》が渡江し、｜秣陵《まつりょう》の薛礼・笮融を破る","孫策はまだ袁術の折衝校尉として動いた":"｜孫策《そんさく》はまだ｜袁術《えんじゅつ》の折衝校尉として動いた","孫策が袁術と絶つ":"｜孫策《そんさく》が｜袁術《えんじゅつ》と絶つ","孫策が死に、孫権が継ぐ":"｜孫策《そんさく》が死に、｜孫権《そんけん》が継ぐ","孫権が皇帝に即位する":"｜孫権《そんけん》が皇帝に即位する","王濬が石頭に入り、孫晧が降る":"王｜濬《しゅん》が石頭に入り、｜孫《そん》｜晧《こう》が降る","太康元年三月壬寅":"｜太康《たいこう》元年三月壬寅","京口（丹徒）":"｜京口《けいこう》（｜丹徒《たんと》）","京口":"｜京口《けいこう》","陳温の死後、呉郡は郡ごとに動く":"陳温の死後、｜呉郡《ごぐん》は郡ごとに動く","揚州刺史劉繇が曲阿に入る":"｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》劉繇が曲阿に入る","劉繇が孫策に敗れて丹徒へ逃れ、さらに豫章へ去る":"劉繇が｜孫策《そんさく》に敗れて｜丹徒《たんと》へ逃れ、さらに｜豫章《よしょう》へ去る","孫晧が王濬に降り、呉が滅ぶ":"｜孫《そん》｜晧《こう》が王｜濬《しゅん》に降り、呉が滅ぶ","太康元年三月":"｜太康《たいこう》元年三月","丹陽市":"｜丹陽《たんよう》市","揚州刺史劉繇が渡江して曲阿に入り、呉景・孫賁を追う":"｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》劉繇が渡江して曲阿に入り、呉景・孫賁を追う","袁術の下の孫策が劉繇を破り曲阿に入る":"｜袁術《えんじゅつ》の下の｜孫策《そんさく》が劉繇を破り曲阿に入る","呉（呉郡）":"呉（｜呉郡《ごぐん》）","蘇州市":"｜蘇州《そしゅう》市","陳温の死後、呉郡太守が郡を保つ":"陳温の死後、｜呉郡《ごぐん》｜太守《たいしゅ》が郡を保つ","許貢が盛憲に代わって呉郡を領する":"許貢が盛憲に代わって｜呉郡《ごぐん》を領する","孫策方の朱治が許貢を逐って呉郡を取る":"｜孫策《そんさく》方の朱治が許貢を逐って｜呉郡《ごぐん》を取る","朱治は孫策の将。孫策はまだ袁術の下にいた":"朱治は｜孫策《そんさく》の将。｜孫策《そんさく》はまだ｜袁術《えんじゅつ》の下にいた","孫策が袁術と絶つ。呉郡の厳白虎らを破るのは199年までかかった":"｜孫策《そんさく》が｜袁術《えんじゅつ》と絶つ。｜呉郡《ごぐん》の厳白虎らを破るのは199年までかかった","山陰（会稽）":"山陰（｜会稽《かいけい》）","紹興市":"｜紹興《しょうこう》市","王朗が会稽太守となる":"王朗が｜会稽《かいけい》｜太守《たいしゅ》となる","初平四年":"｜初平《しょへい》四年","孫策が王朗を破り、会稽太守を自ら領する":"｜孫策《そんさく》が王朗を破り、｜会稽《かいけい》｜太守《たいしゅ》を自ら領する","宛陵（丹陽）":"宛陵（｜丹陽《たんよう》）","袁術が呉景を丹陽太守とし、周昕を攻めて郡を奪う":"｜袁術《えんじゅつ》が呉景を｜丹陽《たんよう》｜太守《たいしゅ》とし、周昕を攻めて郡を奪う","孫策が袁術と絶ち、呉景を丹陽太守に戻す":"｜孫策《そんさく》が｜袁術《えんじゅつ》と絶ち、呉景を｜丹陽《たんよう》｜太守《たいしゅ》に戻す","建安":"｜建安《けんあん》","孫策が会稽を平らげる":"｜孫策《そんさく》が｜会稽《かいけい》を平らげる","山越・民の自立が強く、実効支配は疑わしい":"｜山越《さんえつ》・民の自立が強く、実効支配は疑わしい","福州市":"｜福州《ふくしゅう》市","王朗が東冶へ逃れて孫策に降り、侯官長商升が王朗のために兵を挙げる":"王朗が東冶へ逃れて｜孫策《そんさく》に降り、侯官長商升が王朗のために兵を挙げる","九江市":"｜九江《きゅうこう》市","袁術が諸葛玄を豫章太守に任じる":"｜袁術《えんじゅつ》が諸葛玄を豫章太守に任じる","劉繇が豫章で死に、豫章太守華歆が郡を保つ":"劉繇が｜豫章《よしょう》で死に、豫章太守華歆が郡を保つ","孫策が劉勲を破り、華歆が孫策を迎えて降る":"｜孫策《そんさく》が劉勲を破り、華歆が｜孫策《そんさく》を迎えて降る","南昌（豫章）":"｜南昌《なんしょう》（｜豫章《よしょう》）","南昌":"｜南昌《なんしょう》","南昌市":"｜南昌《なんしょう》市","華歆が孫策を迎えて降る":"華歆が｜孫策《そんさく》を迎えて降る","鄱陽":"｜鄱陽《はよう》","鄱陽県":"｜鄱陽《はよう》県","廬陵":"｜廬陵《ろりょう》","丹陽の僮芝が廬陵に自立する":"｜丹陽《たんよう》の僮芝が｜廬陵《ろりょう》に自立する","僮芝が病み、孫輔が廬陵に進む。孫策が廬陵郡を置く":"僮芝が病み、孫輔が｜廬陵《ろりょう》に進む。｜孫策《そんさく》が｜廬陵《ろりょう》郡を置く","贛州市":"｜贛州《かんしゅう》市","孫輔が廬陵に進む。孫策が廬陵郡を置く":"孫輔が｜廬陵《ろりょう》に進む。｜孫策《そんさく》が｜廬陵《ろりょう》郡を置く","武昌（鄂）":"｜武昌《ぶしょう》（鄂）","武昌":"｜武昌《ぶしょう》","鄂州市":"｜鄂州《がくしゅう》市","荊州刺史劉表の管内（江夏郡）":"｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》｜劉表《りゅうひょう》の管内（江夏郡）","孫権が黄祖を斬ったのち、劉表が劉琦を江夏太守とする。劉表の死後、劉琦は劉備と結ぶ":"｜孫権《そんけん》が黄祖を斬ったのち、｜劉表《りゅうひょう》が劉琦を江夏｜太守《たいしゅ》とする。｜劉表《りゅうひょう》の死後、劉琦は｜劉備《りゅうび》と結ぶ","建安十三年":"｜建安《けんあん》十三年","程普が江夏太守となり沙羡に治す":"程普が江夏｜太守《たいしゅ》となり沙羡に治す","建安十四年":"｜建安《けんあん》十四年","王濬・王戎の軍が武昌を攻め、江夏太守劉朗らが降る":"王｜濬《しゅん》・王戎の軍が｜武昌《ぶしょう》を攻め、江夏｜太守《たいしゅ》劉朗らが降る","太康元年二月":"｜太康《たいこう》元年二月","寿春（九江・淮南）":"｜寿春《じゅしゅん》（｜九江《きゅうこう》・｜淮南《わいなん》）","寿春":"｜寿春《じゅしゅん》","揚州刺史陳温の州の地（州治は寿春）。この年、曹操に兵を与えている":"｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》陳温の州の地（｜州治《しゅうち》は｜寿春《じゅしゅん》）。この年、｜曹操《そうそう》に兵を与えている","陳温が死に、袁術が袁紹の送った袁遺を破り、自分の任じた陳瑀を揚州刺史にする":"陳温が死に、｜袁術《えんじゅつ》が｜袁紹《えんしょう》の送った袁遺を破り、自分の任じた陳瑀を｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》にする","193年、封丘で敗れた袁術を陳瑀が拒んだが、袁術は寿春に進み陳瑀は下邳へ逃げた。歳末の持ち主は変わらない":"193年、封丘で敗れた｜袁術《えんじゅつ》を陳瑀が拒んだが、｜袁術《えんじゅつ》は｜寿春《じゅしゅん》に進み陳瑀は下邳へ逃げた。歳末の持ち主は変わらない","袁術が死に、袁胤らは寿春を捨てて廬江の劉勲のもとへ走る。曹操側の揚州刺史厳象が州を領する":"｜袁術《えんじゅつ》が死に、袁胤らは｜寿春《じゅしゅん》を捨てて｜廬江《ろこう》の劉勲のもとへ走る。｜曹操《そうそう》側の｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》厳象が州を領する","建安四年六月":"｜建安《けんあん》四年六月","曹丕の受禅で魏が立つ":"｜曹丕《そうひ》の｜受禅《じゅぜん》で魏が立つ","諸葛誕":"｜諸葛誕《しょかつたん》","征東大将軍諸葛誕が寿春で叛き、呉に臣従を申し出る。呉の全懌・文欽らが援軍として入城し、司馬昭が包囲したまま年を越す":"｜征東大将軍《せいとうだいしょうぐん》｜諸葛誕《しょかつたん》が｜寿春《じゅしゅん》で叛き、呉に臣従を申し出る。呉の全懌・｜文欽《ぶんきん》らが援軍として入城し、｜司馬昭《しばしょう》が包囲したまま年を越す","甘露二年五月":"｜甘露《かんろ》二年五月","諸葛誕は呉から官爵を受けたが、城は諸葛誕と呉の援軍が共に守った":"｜諸葛誕《しょかつたん》は呉から官爵を受けたが、城は｜諸葛誕《しょかつたん》と呉の援軍が共に守った","司馬昭が寿春を落とし、諸葛誕を斬る":"｜司馬昭《しばしょう》が｜寿春《じゅしゅん》を落とし、｜諸葛誕《しょかつたん》を斬る","甘露三年二月":"｜甘露《かんろ》三年二月","揚州刺史陳温の州の地":"｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》陳温の州の地","袁術が揚州を取る":"｜袁術《えんじゅつ》が｜揚州《ようしゅう》を取る","袁術が死に、曹操側の揚州刺史厳象が州を領する":"｜袁術《えんじゅつ》が死に、｜曹操《そうそう》側の｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》厳象が州を領する","翌200年に厳象が李術に殺され、曹操は劉馥を揚州刺史にした。劉馥は空城だった合肥に単身で入り州治を立てた":"翌200年に厳象が李術に殺され、｜曹操《そうそう》は劉馥を｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》にした。劉馥は空城だった合肥に単身で入り｜州治《しゅうち》を立てた","濡須":"｜濡須《じゅしゅ》","廬江太守陸康が郡を守り、献帝の朝廷へ直接貢物を送った。袁術が寿春に入ると門を閉ざして従わなかった（-10-05 点検で、同じ廬江郡の安豊と揃えた。濡須は居巣県で廬江郡）":"｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》陸康が郡を守り、｜献帝《けんてい》の朝廷へ直接貢物を送った。｜袁術《えんじゅつ》が｜寿春《じゅしゅん》に入ると門を閉ざして従わなかった（-10-05 点検で、同じ｜廬江《ろこう》郡の｜安豊《あんぽう》と揃えた。｜濡須《じゅしゅ》は居巣県で｜廬江《ろこう》郡）","袁術の命で孫策が廬江太守陸康を攻め落とし、袁術は劉勲を太守とする":"｜袁術《えんじゅつ》の命で｜孫策《そんさく》が｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》陸康を攻め落とし、｜袁術《えんじゅつ》は劉勲を｜太守《たいしゅ》とする","通鑑は194年。後漢書陸康伝は「受敵二年，城陷」とする":"通鑑は194年。｜後漢《ごかん》書陸康伝は「受敵二年，城陷」とする","孫策が皖城を取って廬江郡を得る":"｜孫策《そんさく》が皖城を取って｜廬江《ろこう》郡を得る","建安五年四月":"｜建安《けんあん》五年四月","黄龍元年四月":"｜黄龍《こうりゅう》元年四月","王渾が横江に出て呉の鎮・戍を破り、三月に孫晧が降る":"王｜渾《こん》が横江に出て呉の鎮・戍を破り、三月に｜孫《そん》｜晧《こう》が降る","太康元年":"｜太康《たいこう》元年","皖（廬江）":"皖（｜廬江《ろこう》）","袁術の命で孫策が陸康を攻め落とし、袁術は劉勲を廬江太守にする":"｜袁術《えんじゅつ》の命で｜孫策《そんさく》が陸康を攻め落とし、｜袁術《えんじゅつ》は劉勲を｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》にする","袁術の死後、袁胤らは皖城の劉勲を頼ったが、孫策が劉勲の留守を襲って皖城を取り、李術を廬江太守として守らせる":"｜袁術《えんじゅつ》の死後、袁胤らは皖城の劉勲を頼ったが、｜孫策《そんさく》が劉勲の留守を襲って皖城を取り、李術を｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》として守らせる","濡須から退いた曹操が廬江太守朱光を皖に屯させ、稲田を開く":"｜濡須《じゅしゅ》から退いた｜曹操《そうそう》が｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》朱光を皖に屯させ、稲田を開く","建安十八年":"｜建安《けんあん》十八年","孫権が皖城を攻め落とし朱光を捕らえる。呂蒙を廬江太守とする":"｜孫権《そんけん》が皖城を攻め落とし朱光を捕らえる。呂｜蒙《もう》を｜廬江《ろこう》｜太守《たいしゅ》とする","建安十九年閏五月":"｜建安《けんあん》十九年閏五月","司馬懿が舒まで進むと、皖に屯していた呉の諸葛恪は蓄えを焼いて城を捨て、柴桑へ移る":"｜司馬懿《しばい》が舒まで進むと、皖に屯していた呉の｜諸葛恪《しょかつかく》は蓄えを焼いて城を捨て、柴桑へ移る","正始四年九月":"｜正始《せいし》四年九月","呉が滅び、江北の地はすべて晋に帰する":"呉が滅び、｜江北《こうほく》の地はすべて晋に帰する","歴陽":"｜歴陽《れきよう》","194年に劉繇に追われた袁術方の呉景・孫賁が歴陽に退いて屯し、195年に孫策もここから長江を渡った":"194年に劉繇に追われた｜袁術《えんじゅつ》方の呉景・孫賁が｜歴陽《れきよう》に退いて屯し、195年に｜孫策《そんさく》もここから｜長江《ちょうこう》を渡った","袁術と絶った孫策が、弟の孫輔を歴陽に屯させて袁術を防ぐ":"｜袁術《えんじゅつ》と絶った｜孫策《そんさく》が、弟の孫輔を｜歴陽《れきよう》に屯させて｜袁術《えんじゅつ》を防ぐ","建安三年":"｜建安《けんあん》三年","丹楊の七県の平定・祖郎の討伐と同じ時期で、通鑑はこれを建安三年に置く":"丹楊の七県の平定・祖郎の討伐と同じ時期で、通鑑はこれを｜建安《けんあん》三年に置く","曹操の住民移しの令で江淮の民十余万戸が長江を東へ渡り、長江の西（北岸）は空になる。合肥より南には皖城しか残らなかった":"｜曹操《そうそう》の住民移しの令で｜江淮《こうわい》の民十余万戸が｜長江《ちょうこう》を東へ渡り、｜長江《ちょうこう》の西（北岸）は空になる。合肥より南には皖城しか残らなかった","呉の歴陽長が石印の瑞祥を上言する（呉に歴陽県が置かれていた最初の確かな記事）":"呉の｜歴陽《れきよう》長が石印の｜瑞祥《ずいしょう》を｜上言《じょうげん》する（呉に｜歴陽《れきよう》県が置かれていた最初の確かな記事）","天璽元年":"｜天璽《てんじ》元年","鍾離":"｜鍾離《しょうり》","鳳陽県":"｜鳳陽《ほうよう》県","揚州刺史陳温の州の地（九江郡）":"｜揚州《ようしゅう》｜刺史《しし》陳温の州の地（｜九江《きゅうこう》郡）","広陵":"｜広陵《こうりょう》","揚州市":"｜揚州《ようしゅう》市","広陵太守張超が兄の張邈とともに酸棗に兵を出した。徐州刺史陶謙は挙兵に加わっておらず、張超は州から離れて動いた":"｜広陵《こうりょう》｜太守《たいしゅ》張超が兄の張邈とともに酸棗に兵を出した。｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》陶謙は挙兵に加わっておらず、張超は州から離れて動いた","徐州牧陶謙が趙昱を広陵太守にする":"｜徐州《じょしゅう》牧陶謙が趙昱を｜広陵《こうりょう》｜太守《たいしゅ》にする","陶謙が死に、劉備が徐州を領する":"陶謙が死に、｜劉備《りゅうび》が｜徐州《じょしゅう》を領する","195年に笮融が広陵太守趙昱を殺して略奪し、長江を渡って去った":"195年に笮融が｜広陵《こうりょう》｜太守《たいしゅ》趙昱を殺して略奪し、｜長江《ちょうこう》を渡って去った","徐州を争う袁術が広陵を取り、呉景を広陵太守にする。下邳を呂布に奪われた劉備は広陵で袁術に敗れる":"｜徐州《じょしゅう》を争う｜袁術《えんじゅつ》が｜広陵《こうりょう》を取り、呉景を｜広陵《こうりょう》｜太守《たいしゅ》にする。下邳を呂布に奪われた｜劉備《りゅうび》は｜広陵《こうりょう》で｜袁術《えんじゅつ》に敗れる","袁術の称帝で呉景が郡を捨てて江東へ帰る。曹操が陳登を広陵太守にし、呂布をひそかに図らせる":"｜袁術《えんじゅつ》の｜称帝《しょうてい》で呉景が郡を捨てて｜江東《こうとう》へ帰る。｜曹操《そうそう》が陳登を｜広陵《こうりょう》｜太守《たいしゅ》にし、呂布をひそかに図らせる","陳登は名目上は徐州の呂布のもとにいたが、曹操の任じた太守として郡を治め、198年には郡兵を率いて曹操の先駆けとなった":"陳登は名目上は｜徐州《じょしゅう》の呂布のもとにいたが、｜曹操《そうそう》の任じた｜太守《たいしゅ》として郡を治め、198年には郡兵を率いて｜曹操《そうそう》の先駆けとなった","曹操の住民移しの令で広陵などの民が長江を東へ渡り、江北が空になる":"｜曹操《そうそう》の住民移しの令で｜広陵《こうりょう》などの民が｜長江《ちょうこう》を東へ渡り、｜江北《こうほく》が空になる","225年に魏の文帝は「広陵故城」に至って長江に臨み、兵を引いた。255年には呉の孫峻が馮朝に広陵に城を築かせたが、完成しなかった":"225年に魏の｜文帝《ぶんてい》は「｜広陵《こうりょう》故城」に至って｜長江《ちょうこう》に臨み、兵を引いた。255年には呉の｜孫峻《そんしゅん》が馮朝に｜広陵《こうりょう》に城を築かせたが、完成しなかった","呉が滅び、長江の両岸が晋に帰する":"呉が滅び、｜長江《ちょうこう》の両岸が晋に帰する","徐州刺史陶謙の州の地（下邳国）":"｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》陶謙の州の地（下邳国）","劉備が盱眙・淮陰で袁術と対峙する間に、呂布が下邳を奪い徐州牧を称する":"｜劉備《りゅうび》が盱眙・淮陰で｜袁術《えんじゅつ》と｜対峙《たいじ》する間に、呂布が下邳を奪い｜徐州《じょしゅう》牧を称する","曹操が下邳で呂布を滅ぼす":"｜曹操《そうそう》が下邳で呂布を滅ぼす","建安三年十二月":"｜建安《けんあん》三年十二月","劉備が徐州刺史車冑を殺して下邳を取る":"｜劉備《りゅうび》が｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》車冑を殺して下邳を取る","曹操が劉備を破り下邳を取る":"｜曹操《そうそう》が｜劉備《りゅうび》を破り下邳を取る","建安五年正月":"｜建安《けんあん》五年正月","交州刺史朱符の治所（建安八年までは刺史が龍編に置かれた）。交趾太守は士燮":"｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》朱符の治所（｜建安《けんあん》八年までは｜刺史《しし》が龍編に置かれた）。交趾｜太守《たいしゅ》は士燮","朱符が殺された後、交趾太守士燮が弟たちを諸郡の太守に立てて州を押さえる":"朱符が殺された後、交趾｜太守《たいしゅ》士燮が弟たちを諸郡の｜太守《たいしゅ》に立てて州を押さえる","士燮は交趾太守。張津は交州牧だったが士氏の郡には手が及ばなかったとみる":"士燮は交趾｜太守《たいしゅ》。張津は｜交州《こうしゅう》牧だったが士氏の郡には手が及ばなかったとみる","孫権が歩騭を交州刺史とし、士燮が兄弟とともに服属":"｜孫権《そんけん》が歩騭を｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》とし、士燮が兄弟とともに服属","建安十五年":"｜建安《けんあん》十五年","士燮は交趾太守のまま。服属は名目上":"士燮は交趾｜太守《たいしゅ》のまま。服属は名目上","士徽が呂岱に斬られ、士氏が滅ぶ。呉が交州を直接治める":"士徽が呂岱に斬られ、士氏が滅ぶ。呉が｜交州《こうしゅう》を直接治める","210年からは士燮が孫権に名目上従っていた":"210年からは士燮が｜孫権《そんけん》に名目上従っていた","孫権の即位で呉に":"｜孫権《そんけん》の即位で呉に","郡吏呂興が太守孫諝を殺し、魏に使いを送って太守と兵を請う":"郡吏呂興が｜太守《たいしゅ》孫諝を殺し、魏に使いを送って｜太守《たいしゅ》と兵を請う","景元四年五月":"｜景元《けいげん》四年五月","魏の交趾太守が郡に着く（呂興はその前に功曹の李統に殺される）":"魏の交趾｜太守《たいしゅ》が郡に着く（呂興はその前に｜功曹《こうそう》の李統に殺される）","魏から晋へ。268年には晋の交趾太守楊稷が呉の三度の攻撃を退けた":"魏から晋へ。268年には晋の交趾｜太守《たいしゅ》楊稷が呉の三度の攻撃を退けた","呉の薛珝・陶璜が交趾を落とし、晋の太守楊稷らを捕らえる":"呉の薛珝・陶璜が交趾を落とし、晋の｜太守《たいしゅ》楊稷らを捕らえる","泰始七年":"｜泰始《たいし》七年","呉が滅び、交州牧陶璜も印綬を送って晋に降る":"呉が滅び、｜交州《こうしゅう》牧陶璜も｜印綬《いんじゅ》を送って晋に降る","交州刺史朱符の管下":"｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》朱符の管下","朱符の死後、士燮が弟を九真太守に立てる":"朱符の死後、士燮が弟を九真｜太守《たいしゅ》に立てる","士燮の弟（名の字が底本で欠ける）が九真太守":"士燮の弟（名の字が底本で欠ける）が九真｜太守《たいしゅ》","士燮が兄弟とともに孫権に服属":"士燮が兄弟とともに｜孫権《そんけん》に服属","魏から晋へ。268年に晋の董元が九真太守":"魏から晋へ。268年に晋の董元が九真｜太守《たいしゅ》","陶璜が晋の九真太守董元を殺し、交趾が落ちると九真も呉に降る":"陶璜が晋の九真｜太守《たいしゅ》董元を殺し、交趾が落ちると九真も呉に降る","泰始七年四月":"｜泰始《たいし》七年四月","呉が滅び、交州牧陶璜が晋に降る":"呉が滅び、｜交州《こうしゅう》牧陶璜が晋に降る","朱符の死後、士燮が弟の士壹を合浦太守に立てる":"朱符の死後、士燮が弟の士壹を合浦｜太守《たいしゅ》に立てる","番禺（南海）":"｜番禺《ばんぐう》（南海）","番禺":"｜番禺《ばんぐう》","広州市":"｜広州《こうしゅう》市","朱符の死後、士燮が弟の士武を南海太守に立てる":"朱符の死後、士燮が弟の士武を南海｜太守《たいしゅ》に立てる","孫権の交州刺史歩騭が着任し、州の治所を番禺に移す":"｜孫権《そんけん》の｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》歩騭が着任し、州の治所を｜番禺《ばんぐう》に移す","部曲督郭馬が叛き、広州督虞授・南海太守劉略を殺し、広州刺史徐旗を逐う":"｜部曲《ぶきょく》督郭馬が叛き、｜広州《こうしゅう》督虞授・南海｜太守《たいしゅ》劉略を殺し、｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》徐旗を逐う","咸寧五年":"｜咸寧《かんねい》五年","呉が滅び、討伐中の滕修と広州刺史閭豊が晋に降る":"呉が滅び、討伐中の滕修と｜広州《こうしゅう》｜刺史《しし》閭豊が晋に降る","潮州市":"｜潮州《ちょうしゅう》市","交州刺史朱符の管下（南海郡）":"｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》朱符の管下（南海郡）","南海太守が士武となる":"南海｜太守《たいしゅ》が士武となる","孫権の交州刺史歩騭が番禺に入る":"｜孫権《そんけん》の｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》歩騭が｜番禺《ばんぐう》に入る","交州刺史朱符の管下。蒼梧太守は史璜":"｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》朱符の管下。蒼梧｜太守《たいしゅ》は史璜","交州牧張津（荊州の劉表と争った）":"｜交州《こうしゅう》牧張津（｜荊州《けいしゅう》の｜劉表《りゅうひょう》と争った）","建安八年から交州の治所は広信":"｜建安《けんあん》八年から｜交州《こうしゅう》の治所は広信","劉表が送った蒼梧太守呉巨が、刺史頼恭を逐って独り立ち。劉表は208年に死去":"｜劉表《りゅうひょう》が送った蒼梧｜太守《たいしゅ》呉巨が、｜刺史《しし》頼恭を逐って独り立ち。｜劉表《りゅうひょう》は208年に死去","孫権の交州刺史歩騭が呉巨を誘い出して斬る":"｜孫権《そんけん》の｜交州《こうしゅう》｜刺史《しし》歩騭が呉巨を誘い出して斬る","通鑑は210年の一条に入れる。三国志歩騭伝は呉巨を斬ったのを翌年とする":"通鑑は210年の一条に入れる。｜三国《さんごく》志歩騭伝は呉巨を斬ったのを翌年とする","呉が滅び、蒼梧太守王毅が晋に降る":"呉が滅び、蒼梧｜太守《たいしゅ》王毅が晋に降る","交州牧張津の管下とみる":"｜交州《こうしゅう》牧張津の管下とみる","士燮が孫権に服属":"士燮が｜孫権《そんけん》に服属","晋の交趾太守楊稷に鬱林が付き、楊稷は毛炅を鬱林太守に表す":"晋の交趾｜太守《たいしゅ》楊稷に鬱林が付き、楊稷は毛炅を鬱林｜太守《たいしゅ》に表す","泰始四年":"｜泰始《たいし》四年","劉表が荊州刺史となり、江南を平定":"｜劉表《りゅうひょう》が｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》となり、｜江南《こうなん》を平定","初平元年":"｜初平《しょへい》元年","長沙太守張羨が長沙・零陵・桂陽の三郡を挙げて劉表に叛く":"｜長沙《ちょうさ》｜太守《たいしゅ》張羨が｜長沙《ちょうさ》・零陵・｜桂陽《けいよう》の三郡を挙げて｜劉表《りゅうひょう》に叛く","張羨が病死し、劉表が子の張懌と零陵・桂陽を平定":"張羨が病死し、｜劉表《りゅうひょう》が子の張懌と零陵・｜桂陽《けいよう》を平定","建安五年":"｜建安《けんあん》五年","劉備が南の四郡を徇え、桂陽太守趙範が降る":"｜劉備《りゅうび》が南の四郡を徇え、｜桂陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》趙範が降る","湘水を境に荊州を分け、桂陽は孫権の側に":"湘水を境に｜荊州《けいしゅう》を分け、｜桂陽《けいよう》は｜孫権《そんけん》の側に","建安二十年":"｜建安《けんあん》二十年","桂林市":"｜桂林《けいりん》市","劉表が張懌と零陵・桂陽を平定":"｜劉表《りゅうひょう》が張懌と零陵・｜桂陽《けいよう》を平定","劉備が南の四郡を徇え、零陵太守劉度が降る":"｜劉備《りゅうび》が南の四郡を徇え、零陵｜太守《たいしゅ》劉度が降る","関羽が斬られ、孫権が荊州を平定":"｜関羽《かんう》が斬られ、｜孫権《そんけん》が｜荊州《けいしゅう》を平定","建安二十四年十二月":"｜建安《けんあん》二十四年十二月","215年に呂蒙が零陵太守郝普を降したが、湘水の分割で零陵は劉備に返された":"215年に呂｜蒙《もう》が零陵｜太守《たいしゅ》郝普を降したが、湘水の分割で零陵は｜劉備《りゅうび》に返された","襄陽（荊州）":"｜襄陽《じょうよう》（｜荊州《けいしゅう》）","襄陽":"｜襄陽《じょうよう》","襄陽市":"｜襄陽《じょうよう》市","荊州刺史劉表が宜城に入り、州治を襄陽に移す":"｜荊州《けいしゅう》｜刺史《しし》｜劉表《りゅうひょう》が宜城に入り、｜州治《しゅうち》を｜襄陽《じょうよう》に移す","劉琮が曹操に降る":"劉琮が｜曹操《そうそう》に降る","劉表の死後、劉琮が州を挙げて曹操に降る（191年に孫堅が、219年に関羽が囲んだが、いずれも落ちていない）":"｜劉表《りゅうひょう》の死後、劉琮が州を挙げて｜曹操《そうそう》に降る（191年に｜孫堅《そんけん》が、219年に｜関羽《かんう》が囲んだが、いずれも落ちていない）","曹丕の受禅（220年十月）で魏へ":"｜曹丕《そうひ》の｜受禅《じゅぜん》（220年十月）で魏へ","魏から晋への禅譲（265年十二月）":"魏から晋への｜禅譲《ぜんじょう》（265年十二月）","江陵（南郡）":"｜江陵《こうりょう》（南郡）","江陵":"｜江陵《こうりょう》","荊州市":"｜荊州《けいしゅう》市","劉表の荊州。蒯越の策に「南据江陵，北守襄阳」":"｜劉表《りゅうひょう》の｜荊州《けいしゅう》。蒯越の策に「南据｜江陵《こうりょう》，北守襄阳」","曹操が江陵に入る":"｜曹操《そうそう》が｜江陵《こうりょう》に入る","劉琮が降った後、曹操が江陵に進み、赤壁の後も曹仁が守る":"劉琮が降った後、｜曹操《そうそう》が｜江陵《こうりょう》に進み、｜赤壁《せきへき》の後も曹仁が守る","周瑜が江陵を取る":"周｜瑜《ゆ》が｜江陵《こうりょう》を取る","周瑜が一年余り攻めて曹仁が城を捨てて去り、周瑜が南郡太守として江陵に拠る":"周｜瑜《ゆ》が一年余り攻めて曹仁が城を捨てて去り、周｜瑜《ゆ》が南郡｜太守《たいしゅ》として｜江陵《こうりょう》に拠る","孫権が荊州を劉備に貸す":"｜孫権《そんけん》が｜荊州《けいしゅう》を｜劉備《りゅうび》に貸す","周瑜の死後、魯粛の勧めで孫権が荊州を劉備に貸す（いわゆる借荊州）。南郡太守程普は江夏に戻り、のち関羽が江陵を守る":"周｜瑜《ゆ》の死後、｜魯《ろ》粛の勧めで｜孫権《そんけん》が｜荊州《けいしゅう》を｜劉備《りゅうび》に貸す（いわゆる借｜荊州《けいしゅう》）。南郡｜太守《たいしゅ》程普は江夏に戻り、のち｜関羽《かんう》が｜江陵《こうりょう》を守る","呂蒙が江陵を奪う":"呂｜蒙《もう》が｜江陵《こうりょう》を奪う","建安二十四年閏十月":"｜建安《けんあん》二十四年閏十月","関羽が樊城を攻める間に呂蒙が南下し、南郡太守麋芳が城を開いて降る":"｜関羽《かんう》が｜樊城《はんじょう》を攻める間に呂｜蒙《もう》が南下し、南郡｜太守《たいしゅ》麋芳が城を開いて降る","孫権の即位（229年四月）で呉へ。222〜223年に魏の曹真・夏侯尚が約六か月囲んだが、朱然が守り切った":"｜孫権《そんけん》の即位（229年四月）で呉へ。222〜223年に魏の｜曹真《そうしん》・夏侯尚が約六か月囲んだが、朱然が守り切った","晋の杜預が江陵を取る":"晋の杜預が｜江陵《こうりょう》を取る","太康元年二月甲戌":"｜太康《たいこう》元年二月｜甲戌《こうじゅつ》","杜預が江陵を攻め落とし、江陵督伍延を斬る":"杜預が｜江陵《こうりょう》を攻め落とし、｜江陵《こうりょう》督伍延を斬る","劉表の荊州（南郡）の内":"｜劉表《りゅうひょう》の｜荊州《けいしゅう》（南郡）の内","建安十三年冬":"｜建安《けんあん》十三年冬","劉琮の降伏で曹操に属した後、赤壁の後に甘寧が進んで取り、守り抜く":"劉琮の降伏で｜曹操《そうそう》に属した後、｜赤壁《せきへき》の後に甘寧が進んで取り、守り抜く","借荊州で劉備に属する":"借｜荊州《けいしゅう》で｜劉備《りゅうび》に属する","孫権が荊州を劉備に貸し、南郡の西部（のちの宜都郡）は劉備に属する。219年に孟達が劉備の宜都太守として見える":"｜孫権《そんけん》が｜荊州《けいしゅう》を｜劉備《りゅうび》に貸し、南郡の西部（のちの宜都郡）は｜劉備《りゅうび》に属する。219年に｜孟達《もうたつ》が｜劉備《りゅうび》の宜都｜太守《たいしゅ》として見える","建安二十四年十一月":"｜建安《けんあん》二十四年十一月","関羽の敗北に際し、陸遜が宜都を取り、劉備の宜都太守樊友が郡を捨てて逃げる。陸遜は夷陵に屯して峡口を守る":"｜関羽《かんう》の敗北に際し、陸遜が宜都を取り、｜劉備《りゅうび》の宜都｜太守《たいしゅ》樊友が郡を捨てて逃げる。陸遜は夷陵に屯して峡口を守る","孫権の即位（229年四月）で呉へ。222年の夷陵の戦いで劉備は「至夷陵界」まで連営したが、閏六月に陸遜に敗れ、城は呉が守った":"｜孫権《そんけん》の即位（229年四月）で呉へ。222年の夷陵の戦いで｜劉備《りゅうび》は「至夷陵界」まで連営したが、閏六月に陸遜に敗れ、城は呉が守った","晋の王濬が西陵を取る":"晋の王｜濬《しゅん》が西陵を取る","太康元年二月庚申":"｜太康《たいこう》元年二月庚申","王濬の水軍が西陵（夷陵）を落とし、呉の都督留憲らを殺す":"王｜濬《しゅん》の水軍が西陵（夷陵）を落とし、呉の都督留憲らを殺す","西城（漢寧・魏興）":"｜西城《せいじょう》（漢寧・魏興）","西城":"｜西城《せいじょう》","漢中郡の東部。益州牧劉焉の管轄だが、191年に張魯が漢中太守蘇固を殺すまで劉焉の実効支配は及んでいない":"｜漢中《かんちゅう》郡の東部。｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の管轄だが、191年に張魯が｜漢中《かんちゅう》｜太守《たいしゅ》蘇固を殺すまで劉焉の実効支配は及んでいない","劉焉の死で劉璋が継ぐ":"劉焉の死で｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が継ぐ","張魯が漢中に拠って劉璋から離れる":"張魯が｜漢中《かんちゅう》に拠って｜劉《りゅう》｜璋《しょう》から離れる","張魯が劉璋に従わなくなり、漢中に拠って敵対する。西城・上庸の間では申耽が数千家を集めて張魯と通じていた":"張魯が｜劉《りゅう》｜璋《しょう》に従わなくなり、｜漢中《かんちゅう》に拠って敵対する。｜西城《せいじょう》・上庸の間では申耽が数千家を集めて張魯と通じていた","曹操が漢中を平定し西城郡を置く":"｜曹操《そうそう》が｜漢中《かんちゅう》を平定し｜西城《せいじょう》郡を置く","曹操が張魯を降し、漢中の安陽・西城を分けて西城郡を置き太守を置く":"｜曹操《そうそう》が張魯を降し、｜漢中《かんちゅう》の安陽・｜西城《せいじょう》を分けて｜西城《せいじょう》郡を置き｜太守《たいしゅ》を置く","申儀が劉備の西城太守となる":"申儀が｜劉備《りゅうび》の｜西城《せいじょう》｜太守《たいしゅ》となる","劉封・孟達が上庸を降し、劉備は申耽の弟申儀を西城太守とする":"｜劉封《りゅうほう》・｜孟達《もうたつ》が上庸を降し、｜劉備《りゅうび》は申耽の弟申儀を｜西城《せいじょう》｜太守《たいしゅ》とする","申儀が劉封に背き魏に付く":"申儀が｜劉封《りゅうほう》に背き魏に付く","孟達が魏に降り、魏が房陵・上庸・西城を合わせて新城郡とし、夏侯尚・徐晃が劉封を攻める。申儀が劉封に背いて魏に付く（のち魏興太守）":"｜孟達《もうたつ》が魏に降り、魏が｜房陵《ぼうりょう》・上庸・｜西城《せいじょう》を合わせて｜新城《しんじょう》郡とし、夏侯尚・徐晃が｜劉封《りゅうほう》を攻める。申儀が｜劉封《りゅうほう》に背いて魏に付く（のち魏興｜太守《たいしゅ》）","漢中郡の東部。益州牧劉焉の管轄だが実効支配は及んでいない":"｜漢中《かんちゅう》郡の東部。｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の管轄だが実効支配は及んでいない","張魯が漢中に拠る":"張魯が｜漢中《かんちゅう》に拠る","張魯が漢中に拠って劉璋から離れる。上庸の申耽は張魯と通じていた":"張魯が｜漢中《かんちゅう》に拠って｜劉《りゅう》｜璋《しょう》から離れる。上庸の申耽は張魯と通じていた","申耽が曹操に付く":"申耽が｜曹操《そうそう》に付く","曹操が漢中を平定して上庸郡に都尉を置き、申耽は曹操に使者を送って上庸都尉となる":"｜曹操《そうそう》が｜漢中《かんちゅう》を平定して上庸郡に｜都尉《とい》を置き、申耽は｜曹操《そうそう》に使者を送って上庸｜都尉《とい》となる","申耽が劉備に降る":"申耽が｜劉備《りゅうび》に降る","劉封と孟達が上庸を攻め、上庸太守申耽が郡を挙げて降る":"｜劉封《りゅうほう》と｜孟達《もうたつ》が上庸を攻め、上庸｜太守《たいしゅ》申耽が郡を挙げて降る","孟達・申耽が魏に付き劉封が敗走":"｜孟達《もうたつ》・申耽が魏に付き｜劉封《りゅうほう》が敗走","孟達が魏に降り、夏侯尚・徐晃と共に劉封を攻める。上庸太守申耽が劉封に背いて降り、劉封は成都へ逃げる":"｜孟達《もうたつ》が魏に降り、夏侯尚・徐晃と共に｜劉封《りゅうほう》を攻める。上庸｜太守《たいしゅ》申耽が｜劉封《りゅうほう》に背いて降り、｜劉封《りゅうほう》は｜成都《せいと》へ逃げる","孟達":"｜孟達《もうたつ》","孟達の叛乱":"｜孟達《もうたつ》の｜叛乱《はんらん》","太和元年十二月":"｜太和《たいわ》元年十二月","新城太守孟達が蜀と通じて叛き、上庸城に拠る":"｜新城《しんじょう》｜太守《たいしゅ》｜孟達《もうたつ》が蜀と通じて叛き、上庸城に拠る","司馬懿が孟達を斬る":"｜司馬懿《しばい》が｜孟達《もうたつ》を斬る","太和二年正月":"｜太和《たいわ》二年正月","司馬懿が新城を十六日攻めて落とし、孟達を斬る":"｜司馬懿《しばい》が｜新城《しんじょう》を十六日攻めて落とし、｜孟達《もうたつ》を斬る","房陵":"｜房陵《ぼうりょう》","房陵太守蒯祺の地（蒯祺の名は219年に初めて見える）。胡注は房陵郡を劉表が置いたものかと推測する":"｜房陵《ぼうりょう》｜太守《たいしゅ》蒯祺の地（蒯祺の名は219年に初めて見える）。胡注は｜房陵《ぼうりょう》郡を｜劉表《りゅうひょう》が置いたものかと推測する","劉琮の降伏で曹操が荊州のほぼ全域を得る。219年に房陵太守蒯祺が劉備の孟達に殺されているので、この間は曹操側にあったとみた":"劉琮の降伏で｜曹操《そうそう》が｜荊州《けいしゅう》のほぼ全域を得る。219年に｜房陵《ぼうりょう》｜太守《たいしゅ》蒯祺が｜劉備《りゅうび》の｜孟達《もうたつ》に殺されているので、この間は｜曹操《そうそう》側にあったとみた","孟達が房陵を取る":"｜孟達《もうたつ》が｜房陵《ぼうりょう》を取る","劉備の宜都太守孟達が秭帰から北上して房陵を攻め、房陵太守蒯祺を殺す":"｜劉備《りゅうび》の宜都｜太守《たいしゅ》｜孟達《もうたつ》が秭帰から北上して｜房陵《ぼうりょう》を攻め、｜房陵《ぼうりょう》｜太守《たいしゅ》蒯祺を殺す","孟達が房陵ごと魏に降る":"｜孟達《もうたつ》が｜房陵《ぼうりょう》ごと魏に降る","孟達が魏に降り、魏は房陵・上庸・西城を合わせて新城郡とし、孟達を新城太守とする":"｜孟達《もうたつ》が魏に降り、魏は｜房陵《ぼうりょう》・上庸・｜西城《せいじょう》を合わせて｜新城《しんじょう》郡とし、｜孟達《もうたつ》を｜新城《しんじょう》｜太守《たいしゅ》とする","劉表の荊州（江夏郡）の内":"｜劉表《りゅうひょう》の｜荊州《けいしゅう》（江夏郡）の内","劉琮の降伏で曹操が荊州を得る":"劉琮の降伏で｜曹操《そうそう》が｜荊州《けいしゅう》を得る","建安二十年以後":"｜建安《けんあん》二十年以後","孫権の即位（229年四月）で呉へ":"｜孫権《そんけん》の即位（229年四月）で呉へ","呉の江夏太守が晋に降る":"呉の江夏｜太守《たいしゅ》が晋に降る","晋の平呉で呉の江夏太守劉朗が降る":"晋の｜平呉《へいご》で呉の江夏｜太守《たいしゅ》劉朗が降る","劉表の荊州（江夏郡）の内。のち黄祖が江夏太守":"｜劉表《りゅうひょう》の｜荊州《けいしゅう》（江夏郡）の内。のち黄祖が江夏｜太守《たいしゅ》","劉琦が劉備と合流":"劉琦が｜劉備《りゅうび》と合流","黄祖の死後、劉表の長子劉琦が江夏太守となる。劉琮が曹操に降った後も劉琦は降らず、劉備と合流する":"黄祖の死後、｜劉表《りゅうひょう》の長子劉琦が江夏｜太守《たいしゅ》となる。劉琮が｜曹操《そうそう》に降った後も劉琦は降らず、｜劉備《りゅうび》と合流する","程普が江夏太守となる":"程普が江夏｜太守《たいしゅ》となる","劉琦が死に、孫権が程普を江夏太守とする":"劉琦が死に、｜孫権《そんけん》が程普を江夏｜太守《たいしゅ》とする","劉表の荊州（江夏郡）の内。のち黄祖が江夏太守として夏口に拠る":"｜劉表《りゅうひょう》の｜荊州《けいしゅう》（江夏郡）の内。のち黄祖が江夏｜太守《たいしゅ》として夏口に拠る","劉備が劉琦と夏口に入る":"｜劉備《りゅうび》が劉琦と夏口に入る","孫権が黄祖を斬って城を屠り、民を連れ去って引き揚げる。劉表は劉琦を江夏太守とし、劉琮の降伏後は劉備が劉琦と合流して夏口に入る":"｜孫権《そんけん》が黄祖を斬って城を屠り、民を連れ去って引き揚げる。｜劉表《りゅうひょう》は劉琦を江夏｜太守《たいしゅ》とし、劉琮の降伏後は｜劉備《りゅうび》が劉琦と合流して夏口に入る","劉琦が死に、孫権が程普を江夏太守として沙羨に治させる":"劉琦が死に、｜孫権《そんけん》が程普を江夏｜太守《たいしゅ》として沙羨に治させる","晋の王濬・胡奮・王戎が夏口・武昌を平らげる":"晋の王｜濬《しゅん》・胡奮・王戎が夏口・｜武昌《ぶしょう》を平らげる","巴丘（巴陵）":"巴丘（｜巴陵《はりょう》）","劉表の荊州（長沙郡北端）の内":"｜劉表《りゅうひょう》の｜荊州《けいしゅう》（｜長沙《ちょうさ》郡北端）の内","荊南四郡が劉備に降る":"｜荊南《けいなん》四郡が｜劉備《りゅうび》に降る","長沙太守韓玄らが劉備に降る":"｜長沙《ちょうさ》｜太守《たいしゅ》韓玄らが｜劉備《りゅうび》に降る","長沙郡北部が周瑜の奉邑となる":"｜長沙《ちょうさ》郡北部が周｜瑜《ゆ》の奉邑となる","周瑜が南郡太守となり、下雋・漢昌・瀏陽・州陵を奉邑とする。210年に周瑜は巴丘で死ぬ":"周｜瑜《ゆ》が南郡｜太守《たいしゅ》となり、下雋・｜漢昌《かんしょう》・瀏陽・州陵を奉邑とする。210年に周｜瑜《ゆ》は巴丘で死ぬ","王濬・唐彬が巴丘を平定する":"王｜濬《しゅん》・唐彬が巴丘を平定する","臨湘（長沙）":"臨湘（｜長沙《ちょうさ》）","長沙市":"｜長沙《ちょうさ》市","孫堅が北上した後の長沙。劉表が着任して江南の宗賊を平らげる":"｜孫堅《そんけん》が北上した後の｜長沙《ちょうさ》。｜劉表《りゅうひょう》が着任して｜江南《こうなん》の宗賊を平らげる","張羨の叛乱":"張羨の｜叛乱《はんらん》","長沙太守張羨が長沙・零陵・桂陽の三郡を挙げて劉表に背き、曹操に付く":"｜長沙《ちょうさ》｜太守《たいしゅ》張羨が｜長沙《ちょうさ》・零陵・｜桂陽《けいよう》の三郡を挙げて｜劉表《りゅうひょう》に背き、｜曹操《そうそう》に付く","劉表が長沙を平定":"｜劉表《りゅうひょう》が｜長沙《ちょうさ》を平定","張羨が病死し、子の張懌が立つが、劉表が攻めて平定する":"張羨が病死し、子の張懌が立つが、｜劉表《りゅうひょう》が攻めて平定する","長沙太守韓玄が劉備に降る":"｜長沙《ちょうさ》｜太守《たいしゅ》韓玄が｜劉備《りゅうび》に降る","劉琮の降伏の後、劉備が南の四郡を攻め、長沙太守韓玄が降る":"劉琮の降伏の後、｜劉備《りゅうび》が南の四郡を攻め、｜長沙《ちょうさ》｜太守《たいしゅ》韓玄が降る","湘水を境に荊州を分割":"湘水を境に｜荊州《けいしゅう》を分割","呂蒙が長沙・桂陽を降し、湘水を境とする分割で長沙・江夏・桂陽が孫権に属する":"呂｜蒙《もう》が｜長沙《ちょうさ》・｜桂陽《けいよう》を降し、湘水を境とする分割で｜長沙《ちょうさ》・江夏・｜桂陽《けいよう》が｜孫権《そんけん》に属する","杜預が江陵を落とすと、沅水・湘水以南の州郡は印綬を送って晋に降る":"杜預が｜江陵《こうりょう》を落とすと、沅水・湘水以南の州郡は｜印綬《いんじゅ》を送って晋に降る","劉表の荊州の内。190年に武陵太守曹寅の檄で孫堅が刺史王叡を殺している":"｜劉表《りゅうひょう》の｜荊州《けいしゅう》の内。190年に武陵｜太守《たいしゅ》曹寅の檄で｜孫堅《そんけん》が｜刺史《しし》王叡を殺している","武陵太守金旋が劉備に降る":"武陵｜太守《たいしゅ》金旋が｜劉備《りゅうび》に降る","孫権が荊州を定める":"｜孫権《そんけん》が｜荊州《けいしゅう》を定める","関羽の敗北で荊州の将吏が孫権に帰順する。武陵部従事樊伷が武陵を劉備に付けようとしたが、潘濬が討って斬る":"｜関羽《かんう》の敗北で｜荊州《けいしゅう》の｜将吏《しょうり》が｜孫権《そんけん》に帰順する。武陵部従事樊伷が武陵を｜劉備《りゅうび》に付けようとしたが、潘濬が討って斬る","孫権の即位（229年四月）で呉へ。222年に蜀の馬良が五谿の蛮夷を誘ったが、郡は呉のままだった":"｜孫権《そんけん》の即位（229年四月）で呉へ。222年に蜀の馬良が五谿の｜蛮夷《ばんい》を誘ったが、郡は呉のままだった","沅水・湘水以南の州郡が印綬を送って晋に降る":"沅水・湘水以南の州郡が｜印綬《いんじゅ》を送って晋に降る","劉表の荊州の内":"｜劉表《りゅうひょう》の｜荊州《けいしゅう》の内","長沙太守張羨が零陵・桂陽を合わせた三郡で劉表に背く":"｜長沙《ちょうさ》｜太守《たいしゅ》張羨が零陵・｜桂陽《けいよう》を合わせた三郡で｜劉表《りゅうひょう》に背く","劉表が零陵を平定":"｜劉表《りゅうひょう》が零陵を平定","劉表が張懌と零陵・桂陽を平定する":"｜劉表《りゅうひょう》が張懌と零陵・｜桂陽《けいよう》を平定する","零陵太守劉度が劉備に降る":"零陵｜太守《たいしゅ》劉度が｜劉備《りゅうび》に降る","関羽の敗北で荊州の将吏が孫権に帰順し、孫権が荊州を定める":"｜関羽《かんう》の敗北で｜荊州《けいしゅう》の｜将吏《しょうり》が｜孫権《そんけん》に帰順し、｜孫権《そんけん》が｜荊州《けいしゅう》を定める","郴（桂陽）":"郴（｜桂陽《けいよう》）","郴州市":"｜郴州《ちんしゅう》市","劉表が桂陽を平定":"｜劉表《りゅうひょう》が｜桂陽《けいよう》を平定","桂陽太守趙範が劉備に降る":"｜桂陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》趙範が｜劉備《りゅうび》に降る","桂陽太守趙範が劉備に降り、趙雲が桂陽太守を領する":"｜桂陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》趙範が｜劉備《りゅうび》に降り、｜趙雲《ちょううん》が｜桂陽《けいよう》｜太守《たいしゅ》を領する","呂蒙が長沙・桂陽を降し、湘水を境とする分割で桂陽が孫権に属する":"呂｜蒙《もう》が｜長沙《ちょうさ》・｜桂陽《けいよう》を降し、湘水を境とする分割で｜桂陽《けいよう》が｜孫権《そんけん》に属する","青州刺史焦和が病死し、袁紹が臧洪に青州を領させる（通鑑は初平元年条に置く）":"｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》焦和が病死し、｜袁紹《えんしょう》が臧洪に｜青州《せいしゅう》を領させる（通鑑は｜初平《しょへい》元年条に置く）","公孫瓚が田楷を青州刺史とし、劉備を平原相とする":"｜公孫《こうそん》瓚が田楷を｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》とし、｜劉備《りゅうび》を平原相とする","袁紹の子袁譚が平原を拠点に田楷を北へ退け、孔融を破る":"｜袁紹《えんしょう》の子｜袁《えん》｜譚《たん》が平原を拠点に田楷を北へ退け、孔融を破る","袁紹が死に、青州刺史袁譚が袁尚と分かれる":"｜袁紹《えんしょう》が死に、｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》｜袁《えん》｜譚《たん》が袁尚と分かれる","曹操が迫り、袁譚が平原を捨てて南皮へ逃れ、曹操が平原に入る":"｜曹操《そうそう》が迫り、｜袁《えん》｜譚《たん》が平原を捨てて南皮へ逃れ、｜曹操《そうそう》が平原に入る","建安九年十二月":"｜建安《けんあん》九年十二月","曹丕が受禅し魏が建つ":"｜曹丕《そうひ》が｜受禅《じゅぜん》し魏が建つ","魏が晋に禅譲する":"魏が晋に｜禅譲《ぜんじょう》する","東平陵（済南）":"東平陵（｜済南《さいなん》）","青州刺史焦和の病死後、袁紹が臧洪に青州を領させる":"｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》焦和の病死後、｜袁紹《えんしょう》が臧洪に｜青州《せいしゅう》を領させる","袁紹が死に、青州は袁譚に属する":"｜袁紹《えんしょう》が死に、｜青州《せいしゅう》は｜袁《えん》｜譚《たん》に属する","曹操が南皮で袁譚を斬り、青州が曹操に帰す":"｜曹操《そうそう》が南皮で｜袁《えん》｜譚《たん》を斬り、｜青州《せいしゅう》が｜曹操《そうそう》に帰す","臨淄（斉国・青州）":"臨淄（｜斉国《せいこく》・｜青州《せいしゅう》）","公孫瓚の青州刺史田楷と劉備が斉に屯し、袁譚と戦う":"｜公孫《こうそん》瓚の｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》田楷と｜劉備《りゅうび》が斉に屯し、｜袁《えん》｜譚《たん》と戦う","袁譚が田楷を北へ退け、孔融を破って青州を収める":"｜袁《えん》｜譚《たん》が田楷を北へ退け、孔融を破って｜青州《せいしゅう》を収める","寿光市":"｜寿光《じゅこう》市","青州刺史袁譚が孔融を攻め、城が夜に陥ちて孔融が逃れる":"｜青州《せいしゅう》｜刺史《しし》｜袁《えん》｜譚《たん》が孔融を攻め、城が夜に陥ちて孔融が逃れる","遼東の公孫度が海を越えて東萊の諸県を収め、営州刺史を置く（通鑑は初平元年条に置く）":"｜遼東《りょうとう》の｜公孫《こうそん》度が海を越えて東萊の諸県を収め、｜営州《えいしゅう》｜刺史《しし》を置く（通鑑は｜初平《しょへい》元年条に置く）","袁譚の東萊太守管統が袁譚のもとへ赴く（東萊が袁譚の郡であったことが分かる最初の記事）":"｜袁《えん》｜譚《たん》の東萊｜太守《たいしゅ》管統が｜袁《えん》｜譚《たん》のもとへ赴く（東萊が｜袁《えん》｜譚《たん》の郡であったことが分かる最初の記事）","建安八年":"｜建安《けんあん》八年","兗州刺史劉岱の州内":"｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》劉岱の州内","劉岱が黄巾に殺され、州の吏が曹操を迎えて兗州を領させる":"劉岱が黄巾に殺され、州の吏が｜曹操《そうそう》を迎えて｜兗州《えんしゅう》を領させる","曹操が呂布を破って兗州を平定する":"｜曹操《そうそう》が呂布を破って｜兗州《えんしゅう》を平定する","鄄城（済陰）":"鄄城（｜済陰《さいいん》）","濮陽（東郡）":"｜濮陽《ぼくよう》（｜東郡《とうぐん》）","濮陽":"｜濮陽《ぼくよう》","濮陽市":"｜濮陽《ぼくよう》市","兗州刺史劉岱が東郡太守橋瑁を殺し、王肱に東郡を領させる":"｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》劉岱が｜東郡《とうぐん》｜太守《たいしゅ》橋瑁を殺し、王肱に｜東郡《とうぐん》を領させる","曹操が東郡に入って濮陽で白繞を破り、袁紹の表で東郡太守となる":"｜曹操《そうそう》が｜東郡《とうぐん》に入って｜濮陽《ぼくよう》で白繞を破り、｜袁紹《えんしょう》の表で｜東郡《とうぐん》｜太守《たいしゅ》となる","兗州が呂布に応じ、呂布は鄄城を落とせず西の濮陽に屯する":"｜兗州《えんしゅう》が呂布に応じ、呂布は鄄城を落とせず西の｜濮陽《ぼくよう》に屯する","昌邑（山陽）":"｜昌邑《しょうゆう》（山陽）","昌邑":"｜昌邑《しょうゆう》","兗州刺史劉岱の州内（山陽太守袁遺も酸棗に出兵）":"｜兗州《えんしゅう》｜刺史《しし》劉岱の州内（｜山陽《さんよう》｜太守《たいしゅ》袁遺も酸棗に出兵）","興平元年九月":"｜興平《こうへい》元年九月","曹操が定陶・鉅野で呂布を破り、呂布は劉備のもとへ東走する":"｜曹操《そうそう》が定陶・鉅野で呂布を破り、呂布は｜劉備《りゅうび》のもとへ東走する","張遼伝に年が無いので、呂布が徐州牧を名乗った196年に置いた（年は推定）":"張遼伝に年が無いので、呂布が｜徐州《じょしゅう》牧を名乗った196年に置いた（年は推定）","呂布を滅ぼした曹操が畢諶を魯相とする":"呂布を滅ぼした｜曹操《そうそう》が畢諶を魯相とする","青州の黄巾が任城相鄭遂を殺す。劉岱が戦死し、州の吏が曹操を迎えて兗州を領させる":"｜青州《せいしゅう》の黄巾が任城相鄭遂を殺す。劉岱が戦死し、州の吏が｜曹操《そうそう》を迎えて｜兗州《えんしゅう》を領させる","開陽（琅邪）":"開陽（｜琅邪《ろうや》）","徐州牧陶謙の州内":"｜徐州《じょしゅう》牧陶謙の州内","陶謙が死に、劉備が迎えられて徐州を領する":"陶謙が死に、｜劉備《りゅうび》が迎えられて｜徐州《じょしゅう》を領する","呂布が下邳を襲って劉備を逐い、徐州牧を自称する":"呂布が下邳を襲って｜劉備《りゅうび》を逐い、｜徐州《じょしゅう》牧を自称する","泰山の臧覇が莒で琅邪相蕭建を破る。呂布が賄賂を求めて来ても城を固めて拒む":"泰山の臧覇が莒で｜琅邪《ろうや》相蕭建を破る。呂布が賄賂を求めて来ても城を固めて拒む","呂布が滅び、臧覇が曹操に降って琅邪相となり、青州・徐州の沿海を委ねられる":"呂布が滅び、臧覇が｜曹操《そうそう》に降って｜琅邪《ろうや》相となり、｜青州《せいしゅう》・｜徐州《じょしゅう》の沿海を委ねられる","郯（東海・徐州）":"郯（東海・｜徐州《じょしゅう》）","徐州牧陶謙の州治":"｜徐州《じょしゅう》牧陶謙の｜州治《しゅうち》","下邳が降って呂布が殺され、徐州が曹操に帰す":"下邳が降って呂布が殺され、｜徐州《じょしゅう》が｜曹操《そうそう》に帰す","劉備が徐州刺史車冑を殺して叛き、東海の昌豨と郡県の多くが劉備に付く":"｜劉備《りゅうび》が｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》車冑を殺して叛き、東海の昌豨と｜郡県《ぐんけん》の多くが｜劉備《りゅうび》に付く","曹操が東征して劉備を破り、昌豨も破る":"｜曹操《そうそう》が東征して｜劉備《りゅうび》を破り、昌豨も破る","彭城":"｜彭城《ほうじょう》","徐州市":"｜徐州《じょしゅう》市","曹操が彭城を屠り、呂布の彭城相侯諧を捕らえる。十二月に呂布が下邳で滅ぶ":"｜曹操《そうそう》が｜彭城《ほうじょう》を屠り、呂布の｜彭城《ほうじょう》相侯諧を捕らえる。十二月に呂布が下邳で滅ぶ","建安三年十月":"｜建安《けんあん》三年十月","陶謙が劉備を豫州刺史として小沛に屯させ、陶謙の死後に劉備が徐州を領する":"陶謙が｜劉備《りゅうび》を豫州刺史として小沛に屯させ、陶謙の死後に｜劉備《りゅうび》が｜徐州《じょしゅう》を領する","呂布に下邳を奪われた劉備は小沛に置かれたが、やがて呂布に攻められて曹操に帰し、曹操の兵を得て沛へ戻る":"呂布に下邳を奪われた｜劉備《りゅうび》は小沛に置かれたが、やがて呂布に攻められて｜曹操《そうそう》に帰し、｜曹操《そうそう》の兵を得て沛へ戻る","劉備が車冑を殺して叛き、関羽に下邳を守らせて自らは小沛に戻る":"｜劉備《りゅうび》が車冑を殺して叛き、｜関羽《かんう》に下邳を守らせて自らは小沛に戻る","曹操が東征して劉備を破り、劉備は袁紹のもとへ逃れる":"｜曹操《そうそう》が東征して｜劉備《りゅうび》を破り、｜劉備《りゅうび》は｜袁紹《えんしょう》のもとへ逃れる","劉備が袁術と戦う間に、呂布が下邳を襲って取り、徐州牧を自称する":"｜劉備《りゅうび》が｜袁術《えんじゅつ》と戦う間に、呂布が下邳を襲って取り、｜徐州《じょしゅう》牧を自称する","曹操が下邳を水攻めし、呂布の将が陳宮らを捕らえて城ごと降る":"｜曹操《そうそう》が下邳を水攻めし、呂布の将が陳宮らを捕らえて城ごと降る","劉備が下邳で徐州刺史車冑を殺して叛き、関羽に下邳を守らせる":"｜劉備《りゅうび》が下邳で｜徐州《じょしゅう》｜刺史《しし》車冑を殺して叛き、｜関羽《かんう》に下邳を守らせる","曹操が下邳を抜いて関羽を捕らえる":"｜曹操《そうそう》が下邳を抜いて｜関羽《かんう》を捕らえる","南鄭（漢中）":"南鄭（｜漢中《かんちゅう》）","漢中市":"｜漢中《かんちゅう》市","益州牧劉焉の州に属する漢中郡の治所。太守は朝廷が置いた蘇固":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州に属する｜漢中《かんちゅう》郡の治所。｜太守《たいしゅ》は朝廷が置いた蘇固","劉焉が死に、子の劉璋が益州を継ぐ":"劉焉が死に、子の｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が｜益州《えきしゅう》を継ぐ","張魯が劉璋に従わなくなり、劉璋が張魯の母と弟を殺して、張魯が漢中に拠って独立する":"張魯が｜劉《りゅう》｜璋《しょう》に従わなくなり、｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が張魯の母と弟を殺して、張魯が｜漢中《かんちゅう》に拠って独立する","曹操が陽平関を破って南鄭に入る。十一月に張魯が巴中から出て降る。夏侯淵らが漢中を守る":"｜曹操《そうそう》が陽平関を破って南鄭に入る。十一月に張魯が巴中から出て降る。｜夏侯《かこう》｜淵《えん》らが｜漢中《かんちゅう》を守る","建安二十年七月":"｜建安《けんあん》二十年七月","曹操が漢中の諸軍を引き揚げ、劉備が漢中を取る。七月に劉備が漢中王を名乗り、魏延が漢中を鎮める":"｜曹操《そうそう》が｜漢中《かんちゅう》の諸軍を引き揚げ、｜劉備《りゅうび》が｜漢中《かんちゅう》を取る。七月に｜劉備《りゅうび》が｜漢中王《かんちゅうおう》を名乗り、｜魏《ぎ》延が｜漢中《かんちゅう》を鎮める","建安二十四年五月":"｜建安《けんあん》二十四年五月","劉備が成都で皇帝に即位し、蜀（漢）となる":"｜劉備《りゅうび》が｜成都《せいと》で皇帝に即位し、蜀（漢）となる","章武元年四月":"｜章武《しょうぶ》元年四月","鍾会が漢中に入る。漢城・楽城は囲まれて守ったが、年内に劉禅の勅で降る":"｜鍾会《しょうかい》が｜漢中《かんちゅう》に入る。漢城・楽城は囲まれて守ったが、年内に｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》の勅で降る","魏の禅譲で西晋となる":"魏の｜禅譲《ぜんじょう》で｜西晋《せいしん》となる","広漢属国の陰平道として益州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない":"広漢属国の陰平道として｜益州《えきしゅう》に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない","劉璋が成都で降り、益州の郡県が劉備に帰する（陰平について個別の記事は無い）":"｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が｜成都《せいと》で降り、｜益州《えきしゅう》の｜郡県《ぐんけん》が｜劉備《りゅうび》に帰する（陰平について個別の記事は無い）","-10-05 目視確認で、劉璋が降った214年に陰平だけ劉璋の丸として残っていた。劉璋の降伏で益州は劉備に帰したので、南中の諸郡と同じく214年から劉備とし、215年に曹操が漢中を取るまでとする":"-10-05 目視確認で、｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が降った214年に陰平だけ｜劉《りゅう》｜璋《しょう》の丸として残っていた。｜劉《りゅう》｜璋《しょう》の降伏で｜益州《えきしゅう》は｜劉備《りゅうび》に帰したので、南中の諸郡と同じく214年から｜劉備《りゅうび》とし、215年に｜曹操《そうそう》が｜漢中《かんちゅう》を取るまでとする","曹操が漢中を取り、陰平もその側に入ったとみる（218年に陰平の氐の強端が曹操側として呉蘭を斬っている）":"｜曹操《そうそう》が｜漢中《かんちゅう》を取り、陰平もその側に入ったとみる（218年に陰平の氐の強端が｜曹操《そうそう》側として呉蘭を斬っている）","曹丕の受禅で魏となる":"｜曹丕《そうひ》の｜受禅《じゅぜん》で魏となる","諸葛亮が陳式（陳戒）を遣わして武都・陰平の二郡を取る":"｜諸葛亮《しょかつりょう》が陳式（陳戒）を遣わして武都・陰平の二郡を取る","鄧艾が陰平に至り、ここから江油へ抜ける":"｜鄧艾《とうがい》が陰平に至り、ここから江油へ抜ける","葭萌":"｜葭萌《かぼう》","益州牧劉焉の州（広漢郡）に属する":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州（広漢郡）に属する","劉備が劉璋と断ち、白水軍督の楊懐・高沛を斬って南へ向かう。葭萌は霍峻が守り、劉璋軍の包囲に1年近く耐える":"｜劉備《りゅうび》が｜劉《りゅう》｜璋《しょう》と断ち、白水軍督の楊懐・高沛を斬って南へ向かう。｜葭萌《かぼう》は霍峻が守り、｜劉《りゅう》｜璋《しょう》軍の包囲に1年近く耐える","建安十七年":"｜建安《けんあん》十七年","鍾会の軍が進み、劉禅の勅で諸城が降る":"｜鍾会《しょうかい》の軍が進み、｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》の勅で諸城が降る","益州牧劉焉の州（巴郡）に属する":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州（巴郡）に属する","張飛が巴西・徳陽を平定する。劉璋が成都で降る":"｜張飛《ちょうひ》が巴西・徳陽を平定する。｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が｜成都《せいと》で降る","劉禅の勅で諸郡県が降る":"｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》の勅で諸郡県が降る","劉備が白水関の兵を併せ、涪城に進んで拠る":"｜劉備《りゅうび》が白水関の兵を併せ、涪城に進んで拠る","鄧艾が諸葛瞻を涪から綿竹へ退け、鍾会も涪に進む":"｜鄧艾《とうがい》が｜諸葛《しょかつ》｜瞻《せん》を涪から｜綿竹《めんちく》へ退け、｜鍾会《しょうかい》も涪に進む","益州牧劉焉の州に属する。劉焉は州治を綿竹に移していた":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州に属する。劉焉は｜州治《しゅうち》を｜綿竹《めんちく》に移していた","劉璋の将の趙韙が叛き、蜀郡・広漢・犍為が応じる":"｜劉《りゅう》｜璋《しょう》の将の趙韙が叛き、｜蜀郡《しょくぐん》・広漢・犍為が応じる","趙韙が成都を囲むが東州兵に敗れ、江州まで追われて殺される":"趙韙が｜成都《せいと》を囲むが東州兵に敗れ、｜江州《こうしゅう》まで追われて殺される","建安六年":"｜建安《けんあん》六年","1年近く囲まれた雒城が潰え、劉備が成都へ進む（213年から包囲）":"1年近く囲まれた雒城が潰え、｜劉備《りゅうび》が｜成都《せいと》へ進む（213年から包囲）","建安十九年夏":"｜建安《けんあん》十九年夏","劉禅の使者が雒で鄧艾に降伏を申し入れる":"｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》の使者が雒で｜鄧艾《とうがい》に降伏を申し入れる","成都（蜀郡・益州）":"｜成都《せいと》（｜蜀郡《しょくぐん》・｜益州《えきしゅう》）","成都":"｜成都《せいと》","成都市":"｜成都《せいと》市","益州牧劉焉の州の蜀郡の治所。州治は綿竹で、194年に成都へ移る":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州の｜蜀郡《しょくぐん》の治所。｜州治《しゅうち》は｜綿竹《めんちく》で、194年に｜成都《せいと》へ移る","劉備が成都を数十日囲み、劉璋が城を開いて降る":"｜劉備《りゅうび》が｜成都《せいと》を数十日囲み、｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が城を開いて降る","鄧艾が綿竹で諸葛瞻を破り、劉禅が成都で降る。翌264年正月の鍾会の乱は数日で鎮まり、魏の手を離れない":"｜鄧艾《とうがい》が｜綿竹《めんちく》で｜諸葛《しょかつ》｜瞻《せん》を破り、｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》が｜成都《せいと》で降る。翌264年正月の｜鍾会《しょうかい》の乱は数日で鎮まり、魏の手を離れない","景元四年十一月":"｜景元《けいげん》四年十一月","江州（巴郡）":"｜江州《こうしゅう》（巴郡）","江州":"｜江州《こうしゅう》","重慶市":"｜重慶《じゅうけい》市","益州牧劉焉の州の巴郡の治所":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州の巴郡の治所","諸葛亮・張飛・趙雲が長江を遡り、江州で巴郡太守厳顔を破って捕らえる":"｜諸葛亮《しょかつりょう》・｜張飛《ちょうひ》・｜趙雲《ちょううん》が｜長江《ちょうこう》を遡り、｜江州《こうしゅう》で巴郡｜太守《たいしゅ》厳顔を破って捕らえる","武陽（犍為）":"｜武陽《ぶよう》（犍為）","武陽":"｜武陽《ぶよう》","益州牧劉焉の州の犍為郡":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州の犍為郡","趙韙の叛乱に犍為が応じる":"趙韙の｜叛乱《はんらん》に犍為が応じる","趙雲が外水から江陽・犍為を平定する。劉備は李厳を犍為太守とする":"｜趙雲《ちょううん》が外水から｜江陽《こうよう》・犍為を平定する。｜劉備《りゅうび》は｜李《り》厳を犍為｜太守《たいしゅ》とする","益州牧劉焉の州の巴郡の涪陵県":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州の巴郡の涪陵県","劉璋が降り、巴の諸県も劉備に帰する（涪陵について個別の記事は無い）":"｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が降り、巴の諸県も｜劉備《りゅうび》に帰する（涪陵について個別の記事は無い）","魚復（白帝・永安）":"｜魚復《ぎょふく》（｜白帝《はくてい》・｜永安《えいあん》）","魚復":"｜魚復《ぎょふく》","益州牧劉焉の州の巴郡の東端で、荊州の劉表と境を接する":"｜益州牧《えきしゅうぼく》劉焉の州の巴郡の東端で、｜荊州《けいしゅう》の｜劉表《りゅうひょう》と境を接する","劉焉が死に、子の劉璋が継ぐ。劉璋は趙韙を東へ出して劉表に備える":"劉焉が死に、子の｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が継ぐ。｜劉《りゅう》｜璋《しょう》は趙韙を東へ出して｜劉表《りゅうひょう》に備える","諸葛亮・張飛・趙雲が長江を遡って巴東（白帝）を攻め取る":"｜諸葛亮《しょかつりょう》・｜張飛《ちょうひ》・｜趙雲《ちょううん》が｜長江《ちょうこう》を遡って巴東（｜白帝《はくてい》）を攻め取る","蜀が滅ぶが、巴東太守羅憲は劉禅の勅を受けて喪に服しつつ永安を保ち、年内には魏へ帰していない":"蜀が滅ぶが、巴東｜太守《たいしゅ》羅憲は｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》の勅を受けて喪に服しつつ｜永安《えいあん》を保ち、年内には魏へ帰していない","呉の歩協・陸抗が永安を囲むが、羅憲が守り抜き、印綬と人質を晋公司馬昭へ送る。七月に呉軍が退く":"呉の歩協・陸抗が｜永安《えいあん》を囲むが、羅憲が守り抜き、｜印綬《いんじゅ》と人質を｜晋公《しんこう》｜司馬昭《しばしょう》へ送る。七月に呉軍が退く","咸熙元年":"｜咸熙《かんき》元年","邛都（越巂）":"邛都（｜越巂《えっすい》）","益州の越巂郡として劉焉の州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない":"｜益州《えきしゅう》の｜越巂《えっすい》郡として劉焉の州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない","劉璋が降り、南中の諸郡も劉備に帰する。劉備は鄧方を庲降都督として南中を束ねさせる":"｜劉《りゅう》｜璋《しょう》が降り、南中の諸郡も｜劉備《りゅうび》に帰する。｜劉備《りゅうび》は鄧方を庲降都督として南中を束ねさせる","劉備の死後、越巂の夷王高定が雍闓に応じて叛く":"｜劉備《りゅうび》の死後、｜越巂《えっすい》の夷王高定が雍闓に応じて叛く","建興元年":"｜建興《けんこう》元年","諸葛亮が越巂から南中に入り、高定を斬る":"｜諸葛亮《しょかつりょう》が｜越巂《えっすい》から南中に入り、高定を斬る","建興三年":"｜建興《けんこう》三年","叟夷がたびたび叛いて太守の龔禄・焦璜を殺し、以後の太守は郡に入れず安定県に寄治する":"叟夷がたびたび叛いて｜太守《たいしゅ》の龔禄・焦璜を殺し、以後の｜太守《たいしゅ》は郡に入れず安定県に寄治する","始まりの年は原文に無い。龔禄は建興三年（225年）に越巂太守となって南征の後に殺されたので、226年に置いた（年は推定）":"始まりの年は原文に無い。龔禄は｜建興《けんこう》三年（225年）に｜越巂《えっすい》｜太守《たいしゅ》となって南征の後に殺されたので、226年に置いた（年は推定）","張嶷が越巂太守となり、蛮夷を服させて郡の旧治に戻る":"張嶷が｜越巂《えっすい》｜太守《たいしゅ》となり、｜蛮夷《ばんい》を服させて郡の旧治に戻る","三国志張嶷伝は着任して3年の後に故郡へ移ったとする":"｜三国《さんごく》志張嶷伝は着任して3年の後に故郡へ移ったとする","蜀が滅ぶが、南中を督する建寧太守霍弋は劉禅の安否が分かるまで境を保って降らない":"蜀が滅ぶが、南中を督する｜建寧《けんねい》｜太守《たいしゅ》霍弋は｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》の安否が分かるまで境を保って降らない","劉禅の東遷を聞いた霍弋が南中の六郡を率いて降り、そのまま南中を任される":"｜劉《りゅう》｜禅《ぜん》の東遷を聞いた霍弋が南中の六郡を率いて降り、そのまま南中を任される","味（建寧・益州郡）":"味（｜建寧《けんねい》・｜益州《えきしゅう》郡）","益州郡として劉焉の州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない":"｜益州《えきしゅう》郡として劉焉の州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない","益州郡の豪族雍闓が太守正昂を殺し、後任の張裔を呉へ送り、士燮を通じて呉に付く。呉は雍闓を永昌太守に任じる":"｜益州《えきしゅう》郡の豪族雍闓が｜太守《たいしゅ》正昂を殺し、後任の張裔を呉へ送り、士燮を通じて呉に付く。呉は雍闓を｜永昌《えいしょう》｜太守《たいしゅ》に任じる","諸葛亮の南征。雍闓は高定の部下に殺され、孟獲も降る。四郡が平定され、益州郡を建寧郡と改める":"｜諸葛亮《しょかつりょう》の南征。雍闓は高定の部下に殺され、孟獲も降る。四郡が平定され、｜益州《えきしゅう》郡を｜建寧《けんねい》郡と改める","不韋（永昌）":"不韋（｜永昌《えいしょう》）","益州の永昌郡として劉焉の州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない":"｜益州《えきしゅう》の｜永昌《えいしょう》郡として劉焉の州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない","益州の牂柯郡として劉焉の州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない":"｜益州《えきしゅう》の牂柯郡として劉焉の州に属する。実際の支配を示す記事は見当たらない","牂柯太守朱襃が郡ごと叛いて雍闓に応じる":"牂柯｜太守《たいしゅ》朱襃が郡ごと叛いて雍闓に応じる","建興元年夏":"｜建興《けんこう》元年夏","諸葛亮の南征で馬忠が牂柯から入り、諸県を破る":"｜諸葛亮《しょかつりょう》の南征で馬忠が牂柯から入り、諸県を破る","易は河間国の県で冀州に属し、冀州牧韓馥の管下":"易は｜河間《かかん》国の県で｜冀州《きしゅう》に属し、｜冀州《きしゅう》牧韓馥の管下","韓馥が冀州を袁紹に譲る":"韓馥が｜冀州《きしゅう》を｜袁紹《えんしょう》に譲る","鮑丘で敗れた公孫瓚が易に移って易京を築き、ここに籠もる":"鮑丘で敗れた｜公孫《こうそん》瓚が易に移って易京を築き、ここに籠もる","袁紹が易京を落とし、公孫瓚が自焚して滅ぶ":"｜袁紹《えんしょう》が易京を落とし、｜公孫《こうそん》瓚が｜自焚《じふん》して滅ぶ","建安四年三月":"｜建安《けんあん》四年三月","袁紹が死に、鄴の袁尚が後を継ぐ（河間は冀州の内で袁尚の下）":"｜袁紹《えんしょう》が死に、鄴の袁尚が後を継ぐ（｜河間《かかん》は｜冀州《きしゅう》の内で袁尚の下）","曹操が鄴を囲む間に袁譚が河間などを奪う":"｜曹操《そうそう》が鄴を囲む間に｜袁《えん》｜譚《たん》が｜河間《かかん》などを奪う","曹操が南皮で袁譚を斬り、冀州を平定する":"｜曹操《そうそう》が南皮で｜袁《えん》｜譚《たん》を斬り、｜冀州《きしゅう》を平定する","曹丕の受禅（黄初元年十月）により魏の領域となる":"｜曹丕《そうひ》の｜受禅《じゅぜん》（｜黄初《こうしょ》元年十月）により魏の領域となる","魏から晋への禅譲（泰始元年十二月）により西晋の領域となる":"魏から晋への｜禅譲《ぜんじょう》（｜泰始《たいし》元年十二月）により｜西晋《せいしん》の領域となる","薊（幽州・広陽）":"薊（｜幽州《ゆうしゅう》・広陽）","幽州牧劉虞の州治":"｜幽州《ゆうしゅう》牧劉虞の｜州治《しゅうち》","公孫瓚が劉虞を破って捕らえ、薊の市で斬る":"｜公孫《こうそん》瓚が劉虞を破って捕らえ、薊の市で斬る","劉虞の旧部の鮮于輔らが烏桓・袁紹の麴義と結んで公孫瓚を破り、広陽などが瓚の置いた長吏を殺す。瓚は易京へ退く":"劉虞の旧部の鮮于輔らが烏桓・｜袁紹《えんしょう》の麴義と結んで｜公孫《こうそん》瓚を破り、広陽などが瓚の置いた長吏を殺す。瓚は易京へ退く","公孫瓚の滅亡後、袁紹が子の袁熙を幽州刺史とする":"｜公孫《こうそん》瓚の滅亡後、｜袁紹《えんしょう》が子の｜袁熙《えんき》を｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》とする","袁紹の死後、幽州の袁熙は弟の袁尚の側に立つ（204年に敗れた袁尚が袁熙のもとへ逃げる）":"｜袁紹《えんしょう》の死後、｜幽州《ゆうしゅう》の｜袁熙《えんき》は弟の袁尚の側に立つ（204年に敗れた袁尚が｜袁熙《えんき》のもとへ逃げる）","袁熙の部将焦触・張南が背き、袁熙・袁尚は遼西の烏桓へ逃げる。焦触が幽州の諸郡を率いて曹操に降る":"｜袁熙《えんき》の部将焦触・張南が背き、｜袁熙《えんき》・袁尚は｜遼西《りょうせい》の烏桓へ逃げる。焦触が｜幽州《ゆうしゅう》の諸郡を率いて｜曹操《そうそう》に降る","建安十年":"｜建安《けんあん》十年","涿（涿郡）":"涿（｜涿郡《たくぐん》）","幽州牧劉虞の管下":"｜幽州《ゆうしゅう》牧劉虞の管下","公孫瓚が劉虞を殺し、幽州を握る":"｜公孫《こうそん》瓚が劉虞を殺し、｜幽州《ゆうしゅう》を握る","公孫瓚が滅び、袁紹が袁熙を幽州刺史とする":"｜公孫《こうそん》瓚が滅び、｜袁紹《えんしょう》が｜袁熙《えんき》を｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》とする","袁熙が袁尚の側に立つ。204年に敗れた袁尚は涿郡の故安へ逃げて袁熙に合流する":"｜袁熙《えんき》が袁尚の側に立つ。204年に敗れた袁尚は｜涿郡《たくぐん》の故安へ逃げて｜袁熙《えんき》に合流する","涿郡に拠っていた漁陽の王松が劉放の勧めで曹操に帰し、幽州の諸郡も焦触とともに曹操に降る。同年、故安の趙犢らが涿郡太守を殺すが、八月に曹操が討って斬る":"｜涿郡《たくぐん》に拠っていた漁陽の王松が劉放の勧めで｜曹操《そうそう》に帰し、｜幽州《ゆうしゅう》の諸郡も焦触とともに｜曹操《そうそう》に降る。同年、故安の趙犢らが｜涿郡《たくぐん》｜太守《たいしゅ》を殺すが、八月に｜曹操《そうそう》が討って斬る","公孫瓚が劉虞を殺し、漁陽太守に鄒丹を置く":"｜公孫《こうそん》瓚が劉虞を殺し、漁陽｜太守《たいしゅ》に鄒丹を置く","劉虞の旧部の漁陽の鮮于輔らが烏桓司馬閻柔とともに潞北で公孫瓚の漁陽太守鄒丹を斬る":"劉虞の旧部の漁陽の鮮于輔らが烏桓｜司馬《しば》閻柔とともに潞北で｜公孫《こうそん》瓚の漁陽｜太守《たいしゅ》鄒丹を斬る","漁陽太守鮮于輔が田豫の勧めで朝廷（曹操）に従い、建忠将軍・都督幽州六郡とされる。袁氏の幽州に囲まれた飛び地で、曹操の実効支配は及ばない":"漁陽｜太守《たいしゅ》鮮于輔が田豫の勧めで朝廷（｜曹操《そうそう》）に従い、建忠将軍・都督｜幽州《ゆうしゅう》六郡とされる。袁氏の｜幽州《ゆうしゅう》に囲まれた飛び地で、｜曹操《そうそう》の実効支配は及ばない","土垠（右北平）":"土垠（右｜北平《ほくへい》）","幽州牧劉虞の管下。劉虞の下の公孫瓚が歩騎一万で右北平に屯していた":"｜幽州《ゆうしゅう》牧劉虞の管下。劉虞の下の｜公孫《こうそん》瓚が｜歩騎《ほき》一万で右｜北平《ほくへい》に屯していた","鮑丘の敗戦の後、右北平が公孫瓚の置いた長吏を殺し、鮮于輔・劉和の軍に合流する":"鮑丘の敗戦の後、右｜北平《ほくへい》が｜公孫《こうそん》瓚の置いた長吏を殺し、鮮于輔・｜劉和《りゅうか》の軍に合流する","公孫瓚が滅び、袁紹が袁熙を幽州刺史とし、右北平の烏桓大人烏延らにも単于の印綬を与える":"｜公孫《こうそん》瓚が滅び、｜袁紹《えんしょう》が｜袁熙《えんき》を｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》とし、右｜北平《ほくへい》の烏桓大人烏延らにも｜単于《ぜんう》の｜印綬《いんじゅ》を与える","幽州の袁熙が袁尚の側に立つ":"｜幽州《ゆうしゅう》の｜袁熙《えんき》が袁尚の側に立つ","焦触が幽州の諸郡の太守・令長を率いて曹操に降る":"焦触が｜幽州《ゆうしゅう》の諸郡の｜太守《たいしゅ》・令長を率いて｜曹操《そうそう》に降る","令支（遼西）":"令支（｜遼西《りょうせい》）","公孫瓚が滅び、袁紹が袁熙を幽州刺史とし、遼西の烏桓の蹋頓にも単于の印綬を与える":"｜公孫《こうそん》瓚が滅び、｜袁紹《えんしょう》が｜袁熙《えんき》を｜幽州《ゆうしゅう》｜刺史《しし》とし、｜遼西《りょうせい》の烏桓の蹋頓にも｜単于《ぜんう》の｜印綬《いんじゅ》を与える","遼西烏桓の大人丘力居（のち従子の蹋頓が継ぐ）の地。三郡烏桓の中心":"｜遼西《りょうせい》烏桓の大人丘力居（のち従子の蹋頓が継ぐ）の地。三郡烏桓の中心","曹操が白狼山で烏桓を破って蹋頓を斬り、柳城に入る。九月に柳城から引き揚げ、烏桓は中国の内へ移される。城を守る者が残らない":"｜曹操《そうそう》が白狼山で烏桓を破って蹋頓を斬り、柳城に入る。九月に柳城から引き揚げ、烏桓は｜中国《ちゅうごく》の内へ移される。城を守る者が残らない","建安十二年八月〜九月":"｜建安《けんあん》十二年八月〜九月","鮮卑":"｜鮮卑《せんぴ》","烏桓が衰えた後、遼西・右北平・漁陽の塞外は鮮卑の素利・弥加らの地となる":"烏桓が衰えた後、｜遼西《りょうせい》・右｜北平《ほくへい》・漁陽の塞外は｜鮮卑《せんぴ》の素利・弥加らの地となる","襄平（遼東）":"襄平（｜遼東《りょうとう》）","遼陽市":"｜遼陽《りょうよう》市","董卓に遼東太守とされた公孫度が、初平元年（190）に自立を図り、遼東侯・平州牧を名乗る（三国志は中平六年＝189年に遼東に拠ったとする）。204年に子の公孫康、221年頃に康の弟の公孫恭、228年に康の子の公孫淵が継ぎ、237年に淵は燕王を名乗る":"｜董《とう》卓に｜遼東《りょうとう》｜太守《たいしゅ》とされた｜公孫《こうそん》度が、｜初平《しょへい》元年（190）に自立を図り、｜遼東《りょうとう》侯・平州牧を名乗る（｜三国《さんごく》志は｜中平《ちゅうへい》六年＝189年に｜遼東《りょうとう》に拠ったとする）。204年に子の｜公孫《こうそん》康、221年頃に康の弟の｜公孫《こうそん》恭、228年に康の子の｜公孫淵《こうそんえん》が継ぎ、237年に淵は｜燕王《えんおう》を名乗る","司馬懿が襄平を囲み、城が潰えて公孫淵父子を梁水のほとりで斬る":"｜司馬懿《しばい》が襄平を囲み、城が潰えて｜公孫淵《こうそんえん》父子を梁水のほとりで斬る","景初二年八月":"｜景初《けいしょ》二年八月","高句麗県（玄菟）":"｜高句麗《こうくり》県（玄菟）","高句麗県":"｜高句麗《こうくり》県","公孫度が東の高句麗・西の烏桓を討って海東に威を張り、もと玄菟に属した夫余も遼東に属するようになる。233年には公孫淵の下の玄菟太守王賛が見える":"｜公孫《こうそん》度が東の｜高句麗《こうくり》・西の烏桓を討って海東に威を張り、もと玄菟に属した夫余も｜遼東《りょうとう》に属するようになる。233年には｜公孫淵《こうそんえん》の下の玄菟｜太守《たいしゅ》王賛が見える","司馬懿が公孫淵を滅ぼし、遼東・帯方・楽浪・玄菟の四郡が平定される":"｜司馬懿《しばい》が｜公孫淵《こうそんえん》を滅ぼし、｜遼東《りょうとう》・帯方・楽浪・玄菟の四郡が平定される","陰館（雁門）":"陰館（｜雁門《がんもん》）","霊帝の末に羌胡が大いに乱れ、并州の北辺の郡は散り散りになる。190年の并州には州の長官が見えず、雁門には烏桓・屠各がいた":"｜霊帝《れいてい》の末に｜羌胡《きょうこ》が大いに乱れ、｜并州《へいしゅう》の北辺の郡は散り散りになる。190年の｜并州《へいしゅう》には州の長官が見えず、｜雁門《がんもん》には烏桓・屠各がいた","公孫瓚を滅ぼした袁紹が甥の高幹を并州刺史とする":"｜公孫《こうそん》瓚を滅ぼした｜袁紹《えんしょう》が甥の高幹を｜并州刺史《へいしゅうしし》とする","建安四年頃":"｜建安《けんあん》四年頃","袁紹の死後、并州刺史高幹は袁尚と組み、袁尚の河東太守郭援とともに河東を攻める":"｜袁紹《えんしょう》の死後、｜并州刺史《へいしゅうしし》高幹は袁尚と組み、袁尚の｜河東《かとう》｜太守《たいしゅ》郭援とともに｜河東《かとう》を攻める","高幹が并州をもって曹操に降り、そのまま并州刺史とされる":"高幹が｜并州《へいしゅう》をもって｜曹操《そうそう》に降り、そのまま｜并州刺史《へいしゅうしし》とされる","曹操が烏桓を討つと聞いて高幹が并州をもって再び背く":"｜曹操《そうそう》が烏桓を討つと聞いて高幹が｜并州《へいしゅう》をもって再び背く","壺関が降り、高幹は逃げて斬られ、并州が平定される。梁習が并州刺史となる":"壺関が降り、高幹は逃げて斬られ、｜并州《へいしゅう》が平定される。梁習が｜并州刺史《へいしゅうしし》となる","并州を復置したとき、陘嶺（句注）より北をすべて棄て、雁門郡は句注の南の広武へ移る。陰館は塞外となり、鮮卑・匈奴が往来する地となる":"｜并州《へいしゅう》を復置したとき、陘嶺（句注）より北をすべて棄て、｜雁門《がんもん》郡は句注の南の広武へ移る。陰館は塞外となり、｜鮮卑《せんぴ》・｜匈奴《きょうど》が往来する地となる","黄初元年":"｜黄初《こうしょ》元年","代郡は幽州に属し、幽州牧劉虞の管下":"代郡は｜幽州《ゆうしゅう》に属し、｜幽州《ゆうしゅう》牧劉虞の管下","鮑丘の敗戦の後、代郡が公孫瓚の置いた長吏を殺し、鮮于輔・劉和の軍に合流する":"鮑丘の敗戦の後、代郡が｜公孫《こうそん》瓚の置いた長吏を殺し、鮮于輔・｜劉和《りゅうか》の軍に合流する","焦触が幽州の諸郡の太守・令長を率いて曹操に降る。別駕の代郡の韓珩だけが盟に加わらなかった":"焦触が｜幽州《ゆうしゅう》の諸郡の｜太守《たいしゅ》・令長を率いて｜曹操《そうそう》に降る。別駕の代郡の韓珩だけが盟に加わらなかった","霊帝の末に羌胡が大いに乱れ、雲中郡などの民は散り散りになっていた。215年に曹操は雲中・定襄・五原・朔方の郡を廃し、各一県としてまとめて新興郡を立てる":"｜霊帝《れいてい》の末に｜羌胡《きょうこ》が大いに乱れ、雲中郡などの民は散り散りになっていた。215年に｜曹操《そうそう》は雲中・｜定襄《ていじょう》・五原・｜朔方《さくほう》の郡を廃し、各一県としてまとめて新興郡を立てる","魏が陘嶺より北をすべて棄てる。軻比能らの鮮卑が匈奴の故地を収め、雲中・五原から東の遼水までが鮮卑の地となる":"魏が陘嶺より北をすべて棄てる。軻比能らの｜鮮卑《せんぴ》が｜匈奴《きょうど》の故地を収め、雲中・五原から東の遼水までが｜鮮卑《せんぴ》の地となる"}