英宗
北宋(宋・遼・西夏・金)|在位 1063–1067年

- 諱(本名)
- 趙曙
- 在位
- 1063–1067年
- 在位期間
- 3年270日365名中203位タイ
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 32歳(数え年)172名中・若い順119位タイ
- 没年齢
- 36歳(数え年)269名中・長寿順152位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
濮安懿王允譲第十三子(仁宗に実子なく養子として立てられた皇子)。仁宗崩御時、皇后が伝えた遺詔により即位。
出典: 宋史 本紀十三(英宗)
死因の経緯
治平3年11月「帝不豫」に始まり、翌年正月に崩御。
出典: 宋史 本紀十三(英宗)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
本紀十三を通読し「改元」の記述は治平改元の1回のみ確認。即位当年(嘉祐八年)は前代の元号を継続使用したためカウント対象外。
大赦回数
本紀十三を通読し「大赦」と明記された箇所を全て抽出。減罪一等・釋放等の部分的恩赦(己酉「減東西二京罪囚一等」、辛酉「降天下囚死罪一等,流以下釋之」、正月庚戌「降天下囚罪一等,徒以下釋之」)は「大赦」の明記がないため除外。
立后回数
在位中に立てられた皇后は高氏のみで、廃后の記事はない。
皇太子廃立回数
本紀十三通読の結果、治平三年十二月壬寅に潁王頊(後の神宗)を皇太子に立てた記事のみで、廃立の記事は見られない。在位期間全体を通じて皇太子は一貫して頊のままであった。
親征回数
宋史本紀十三(治平元年~四年)を通読したが、英宗自身が軍を率いて出征した記録は皆無。治平三年に西夏(諒祚)の侵犯に対し使者を派遣して譴責し、西夏側が謝罪献物した記事はあるが親征ではなく外交的対応。在位期間の大半は濮議(濮安懿王の尊称問題)と皇帝自身の病気(治平元年5月まで太后摂政、治平四年正月に崩御)に費やされ、軍事親征の余地がほぼなかった。
反乱鎮圧回数
英宗朝の原文に国内の農民反乱・盗賊蜂起・地方反乱の記載は皆無。方臘の乱・宋江の乱等は徽宗期のもので本人物の在位期間(治平年間)には該当しない。
被反乱回数
英宗朝(1063-1067)の原文に朝廷内クーデター・弑逆未遂・国内蜂起による皇帝への攻撃は一切記載なし。西夏との緊張関係は対等勢力間の対外関係でありルール上被反乱に計上しない。
遷都回数
宋史本紀を通読。開封(東京開封府)が建国から靖康の変(1127年)まで一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
宋史本紀十三に「明道元年正月三日生於宣平坊第」「帝崩于福寧殿,壽三十六」と明記。即位時年齢は原文に直接記載なし(生年逆算で満31歳・数え32歳と推定されるが原文非記載のため未記録)。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元治平元年正月丁酉朔「治平元年春正月丁酉朔,改元」。
「治平元年春正月丁酉朔,改元」。嘉祐八年四月即位後は仁宗代の元号「嘉祐」をそのまま年末まで継続使用し(越年改元)、翌年正月一日に治平と改元。以後崩御(治平四年)まで改元なし。
出典: 宋史 本紀十三(英宗)
大赦嘉祐八年四月癸酉仁宗崩御の翌日即位(四月壬申朔)に伴う恩赦。
仁宗崩御の翌日即位(四月壬申朔)に伴う恩赦。「癸酉,大赦,賜百官爵一等,優賞諸軍,如乾興故事」
出典: 宋史 本紀十三(英宗)
大赦治平二年十一月壬申南郊(大祀)に伴う大赦。
南郊(大祀)に伴う大赦。「壬申,有事南郊,大赦。上皇太后冊。冊皇后」
出典: 宋史 本紀十三(英宗)
大赦治平三年十二月癸卯潁王頊を皇太子に立てた翌日の大赦。
潁王頊を皇太子に立てた翌日の大赦。「壬寅,立潁王頊為皇太子。癸卯,大赦」
出典: 宋史 本紀十三(英宗)
立后嘉祐八年四月庚子「庚子,立京兆郡君高氏為皇后」。
「庚子,立京兆郡君高氏為皇后」。即位直後に高氏を皇后に立てた記事。同一人物(高氏=後の宣仁聖烈皇太后)について治平二年十一月壬申に「冊皇后」(正式な冊礼)の記事があるが、これは同一立后の完了儀礼であり廃后後の再冊立ではないため、別カウントとせず同一件として扱った。
出典: 宋史 本紀十三(英宗)