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英宗の肖像画

北宋第5代

英宗趙曙

在位 1063–1067年(3年269日)1063年5月1日 〜 1067年1月25日

日本は平安時代

仁宗の養子として位を継いだが、即位の直後から病に苦しみ、実父の濮王の称号をめぐる濮議で朝廷が二分した北宋の皇帝である。

英宗の人物データ

生年
1032年2月16日
在位
  • 1063年5月1日〜1067年1月25日
3年269日長い順205位/365人32歳で即位(数え年)
没年
1067年1月25日36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 仁宗北宋英宗は仁宗の養子
次代
  • 神宗北宋神宗は英宗の子
呼び名
姓趙諱曙呼び名の見方

出典

在位
宋史 本紀十三 英宗
死因
宋史 本紀十三(英宗)
即位経路
宋史 本紀十三(英宗)

生涯

即位まで

濮安懿王允譲の第十三子で、1032年に生まれた。4歳で仁宗の宮中に養われたが、仁宗に皇子が生まれると濮王の邸へ帰された。孝心が厚く読書を好み、衣服や調度は儒者のように質素で、教授にはいつも朝服で会った。1062年に皇子に立てられたが、病と称して固辞し、寝所から起こされて宮中に入った。1063年に仁宗が急死すると、皇后の曹氏に召されて即位を告げられたが、できませんと言って驚いて逃げ出し、捕まえられて御服を着せられた。

史料について

皇子を召した順を、宋史の后妃伝は皇后がまず召し入れたとし、続資治通鑑長編はが寝殿に入ってからとして、とは先に召したとは言わないと注する。

治世と最期

即位から数日で病に倒れ、皇太后に共に政を聴くよう請うた。仁宗の納棺の日には叫びながら走り回って礼を行えず、韓琦が抱きとめた。病で振る舞いが常を外れたので、讒言で皇太后との間に隙ができた。韓琦らが太后をなだめた。英宗も、太后は自分に恩がないと韓琦に漏らしたが、舜の孝を引いていさめられて大いに悟った。1064年に病が癒えると、皇太后は政を返した。

1065年には服御を減らして宮女180人を放った。大雨で多くの死者が出ると、詔の草案が執政大臣に天変を省みよと書いたのを、災いは自分の不徳への戒めだとして改めさせた。

実父の濮王の呼び方では、王珪らがと称すべきだとし、中書は実父をと称した前例を挙げた。1066年、皇太后の書によって濮王を親と称することに決まったが、英宗はは辞し、反対した呂誨らは朝廷を出た。同じ年に再び病に倒れた。1067年、皇太子を立てると涙を流し、まもなく没した。

史料について

韓琦が抱きとめたのを、続資治通鑑長編の注は国史に無いとする。を、長編は英宗が書を留めたのち韓琦が簾を撤させたとし、宋史の后妃伝は書を長く下さず秋に実行されたとする。呂誨らを、宋史の本紀は罷免されたとし、濮王伝は自ら台職を辞したとする。

英宗とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1063年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1063–1067年の地図に、英宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

皇后1・改元1・大赦3
  1. 1063年5月2日仁宗崩御の翌日即位(四月壬申朔)に伴う恩赦。
  2. 皇后1063年5月29日皇后を立てる
  3. 改元1064年元号を「治平」とする
  4. 1065年南郊(大祀)に伴う大赦。
  5. 1067年1月11日( 1066年12月23日)潁王頊を皇太子に立てた翌日の大赦。

北宋の歴代皇帝

歴代9人の一覧

年表

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北宋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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