北斉(南北朝)分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
高紹義
在位 577–580年(2年208日)578年1月 〜 580年7月27日 (旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 577年12月から)
日本は古墳時代
高紹義は北斉の文宣帝の子で、北斉が北周に滅ぼされると突厥に身を寄せて帝位に即き、のち北周へ引き渡されて蜀で死んだ皇帝である。
高紹義の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 578年1月〜580年7月27日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 577年12月から
- 没年
- 不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓高諱紹義呼び名の見方
出典
- 在位
- 北史 巻五十二 列傳第四十(齊宗室諸王下)/周書 帝紀第八(静帝紀)
- 死因
- 北史 巻52 范陽王紹義傳
- 即位経路
- 北史 巻52 范陽王紹義傳
生涯
即位まで
文宣帝の第三子で、母は馮世婦である。広陽王から范陽王に封じ替えられた。つまらない者たちと酒を飲むのを好み、勝手に宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男に博士の任方栄を打ち殺させ、叔父の武成帝に杖で二百回打たれ、嫡母父の正妻。実母でない子から見た呼び方の昭信后にも百回打たれた。後主が鄴へ逃れると尚書令国の政務を執り行う役所の長官・定州刺史州という地方の区画を治めた長官に任じられた。北周が并州を取ると、北朔州の趙穆らに迎えられ、肆州以北の城や砦二百八十余りが応じた。南へ出て并州を取り戻そうとしたが果たせず、迎え撃たせた杜明達の軍が宇文神挙に大敗すると、死あるのみ、人に降ることはできないと言って突厥へ逃れた。付き従っていた三千家も、大半は泣いて別れていった。突厥の他鉢可汗北方の遊牧民の君主の称号は、文宣帝に似ているとして彼を厚遇した。営州の高宝寧が尊号たたえて贈る呼び名や、皇帝など君主の位の称号を奉ると、皇帝に即位して武平元年と称した。
史料について
即位を、周書と北史の突厥伝は、亡命してきた彼を他鉢が斉帝に立てたと書く。
治世と最期
578年に北周の武帝が急死すると、高紹義は天が自分を助けたと考えた。范陽に拠った盧昌期に迎えられ、幽州に至って燕の昭王の塚に登り兵を配した。范陽が落ちたと聞くと、喪服で哀悼して突厥へ引き返した。
北周は他鉢に代価を示して彼の引き渡しを求め、賀若誼に説かせた。他鉢は見捨てるに忍びず、南境で狩りをすると装って誼に捕らえさせた。580年、突厥は高紹義を北周へ送った。蜀へ流され、突厥から逃げ帰った妃に、夷狄は信が無く私をここへ送ったと書き送って、蜀で死んだ。
史料について
幽州の件を、北史の高宝寧伝は、高宝寧が彼を伴って范陽の救援に向かい、潞河で落城を知って黄龍へ引き返したとする。捕らえ方を、隋書の賀若誼伝は、突厥へ逃れる彼を誼が追い、馬邑で戦って捕らえたとする。死を、資治通鑑は病死とするが、北史の伝は死んだ年も死因も書かない。
高紹義とつながる皇帝
在位中の出来事
親征1・改元1
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。578年幽州・
范陽(旧北斉領、対北周)奪回作戦 - 改元578年1月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 577年12月)元号を「武平」とする
北斉の歴代皇帝
歴代6人の一覧年表
南北朝の時代を年表で見る
北斉が