高紹義
北斉(南北朝)|在位 577–580年
- 諱(本名)
- 高紹義
- 在位
- 577–580年
- 在位期間
- 2年215日365名中240位タイ
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
北斉滅亡後、営州の高宝寧が皇帝の尊号を奉る上表を行い、紹義はこれを受けて突厥領内で即位した(突厥他鉢可汗の庇護下、年号「武平」を継続)。先行する北斉という国家組織が既に滅亡した後の即位であり、旧臣の推戴を受けてはいるが新規に政権を再興した実態を重視し建国に分類する(ユーザー判断)。
出典: 北史 巻52 范陽王紹義傳
死因の経緯
突厥と北周の和親交渉が進む中、突厥他鉢可汗に裏切られ北周の使者に捕らえられ蜀に流罪となった。妻への手紙で「夷狄無信、送吾於此」と嘆いた記述はあるが、その後の具体的な死因の記述はなく「竟死蜀中」(結局蜀で死んだ)とのみ記される。
出典: 北史 巻52 范陽王紹義傳
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
原文「高寶寧在營州、表上尊號、紹義遂即皇帝位、稱武平元年」に基づく。既存の武平年号(後主期570-576年)を踏襲する形だが、紹義自身の即位に際して改めて「武平元年」と称し直しており、即位に伴う建元として1回カウントした。emperors.json内の既存note(「旧年号『武平』を継続使用(武平九年)」)とは表現に差異があるが、『北史』原文は明確に「武平元年」と記す。その後の改元の記述はなし(在位は580年7月頃、蜀へ流されるまでで終了)。
大赦回数
范陽王紹義伝の全文(『北史』巻52・北斉滅亡後の突厥領内での即位から蜀への流罪・死去まで)を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の記述は見当たらない。北斉本紀・幼主紀に見える即位時大赦は先代(幼主恒)に帰属するものであり、紹義自身の即位(武平元年・577年)に伴う大赦の明記はない。
立后回数
「紹義妃、勃海封孝琬女、自突厥逃歸」とあり、紹義の配偶者は終始「妃」と記され「皇后」として冊立された記述はない。皇帝を称した期間も突厥領内での亡命政権であり、立后の記事は存在しない。
皇太子廃立回数
紹義伝に皇太子・立太子・廃太子に関する記述は一切なし。紹義自身は579年頃に突厥により捕らえられ蜀へ流されて在位を終えており、皇太子を立てた形跡もない。
親征回数
在位期間(577年12月即位〜580年7月拉致)中に確認できる紹義自身の親率による軍事行動はこの範陽・幽州奪回作戦1件のみ。なお即位前の577年春頃(後主奔鄴後・北斉滅亡直後)に、紹義が北朔州の斉遺臣らに擁立され灵州刺史袁洪猛と共に「引兵南出、欲取並州」を試みたが新興で敗れ馬邑に退き、さらに宇文神挙軍に大敗して突厥へ亡命した経緯があるが、これは在位(即位)開始前の出来事であり皇帝を称する前の一斉遺臣としての抵抗行動のため対象期間外として除外した。
反乱鎮圧回数
『北史』巻52・『北斉書』巻12范陽王紹義伝を通読したが、紹義の在位期間(577年12月〜580年7月)中に紹義の配下・支配民が紹義自身に対して離反・蜂起した記述は見当たらない。盧昌期の範陽挙兵はむしろ紹義を迎え入れようとする味方の挙兵であり紹義への反乱ではない。北周・突厥(他鉢可汗)との抗争・紹義拉致は対等な独立政権との対外戦争ないし庇護国の裏切りであり反乱鎮圧には該当しない。該当記事なし。
被反乱回数
紹義は580年、庇護者である突厥他鉢可汗が北周(隋公楊堅執政下)の要求に屈し、南境での狩猟と偽って紹義を捕らえ北周に引き渡した(『隋書』巻37梁士彦伝関連記事では賀若誼が馬邑で紹義を追撃・撃破し擒えたともある)。これは紹義の配下・服属民による武装蜂起(反乱)ではなく、服属関係のない外部勢力(突厥)による庇護放棄・引き渡し、および北周/隋という対等な独立政権による軍事的捕縛であるため、被反乱には該当しないと判断した。該当記事なし。
遷都回数
北斉書帝紀を通読。東魏から継承した鄴が577年の滅亡まで一貫した都(晋陽への行幸は複都制の陪都的行幸で主都変更ではない)。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reigns/verification/deathCause/accessionRoute等)および_corpus_cache/beiqi-gaoxie.txt(『北史』巻52范陽王紹義伝)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年に関する直接記載は見当たらなかった。文宣帝(高洋)の第三子であることは判明しているが、生年の記述はなく、蜀での死去時期・享年についても「竟死蜀中」とのみ記され年齢記載なし。調査済みだが不明。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元577年12月北斉滅亡後、営州の高宝寧の勧進(表上尊号)を受け、突厥領内で「紹義遂即皇帝位、稱武平元年」と即位を宣言し、元号「武平」を(後主期の武平の継続ではなく)自らの治世の元年として称した。
北斉滅亡後、営州の高宝寧の勧進(表上尊号)を受け、突厥領内で「紹義遂即皇帝位、稱武平元年」と即位を宣言し、元号「武平」を(後主期の武平の継続ではなく)自らの治世の元年として称した。即位に伴う最初の建元としてカウント。以後、580年7月に突厥により捕らえられ北周に引き渡されるまで元号変更の記述はない。
出典: 北史 巻52 范陽王紹義傳
親征578年幽州・范陽(旧北斉領、対北周)奪回作戦
対象: 幽州・范陽(旧北斉領、対北周)奪回作戦
結果: 失敗(範陽陥落・撤退)
『北史』巻52范陽王紹義伝・『北斉書』巻12(同伝、文字ほぼ同一)による。周武帝が578年6月(宣政元年)に急死したことを「天賛己」と喜んだ紹義は、旧臣・盧昌期が範陽で挙兵し紹義を迎えようとしたのに応じ、自ら突厥領から幽州へ進軍。「列天子旌旗、登燕昭王冢、乘高望遠、部分兵衆」と皇帝の旗を掲げ自ら兵を指揮して薊城奪取を図ったが、周将宇文神挙が先に範陽を陥落・盧昌期を滅ぼしたため、紹義は喪服を着て哭礼し突厥へ撤兵した。営州の高宝寧(丞相に任命)も夷夏の兵数万を率いて合流・救援に向かったが潞河で範陽陥落を知り引き返した(『北斉書』高保寧伝に同内容)。紹義自身が親ら軍を率い戦場(幽州)に至り指揮した明確な記述があるため親征1回として計上。北周・突厥との抗争自体は対等な独立政権との対外戦争だが、この軍事行動は紹義自身の帝位主張・北斉再興のための親征であるため計上対象とした。