幼主の人物データ
- 生年
- 570年6月
- 在位
- 577年2月4日〜577年2月24日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 内禅先の皇帝が生きているうちに、自ら位を譲った即位(生前の譲位)。
- 先代
- 後主北斉幼主は後主の子
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓高諱恒呼び名の見方
出典
- 在位
- 北齊書 巻八 幼主紀/資治通鑑 巻百七十三
- 死因
- 北史 巻十 周本紀下/北齊書 巻8・
巻11 - 即位経路
- 北齊書 巻8 幼主紀
生涯
どんな皇帝か
北斉書・北史・資治通鑑は彼自身の言葉や人柄を伝えず、記すのは誕生から捕縛、長安への護送までの出来事で、その死も一族の賜死に含まれる形でしか書かれない。
即位まで
後主高緯の長子で、570年に生まれ、同じ年に皇太子に立てられた。母の穆氏はもと斛律后の侍女で、陸令萱の計らいで斛律后が母として養った。572年に斛律光が誅され、斛律后も廃されて、穆氏は左皇后皇后を2人並べたときの一方の位を経て翌年に皇后となった。576年の暮れ、北周軍が晋陽を落とすと、後主は、望気者雲や空の気を見て吉凶を占う人が変革があると言ったこともあり、前例に倣って位を授けることにし、翌577年、高恒が即位して承光と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
治世と最期
即位すると広寧王孝珩が太宰朝廷で最も位の高い大臣の一つとなった。孝珩らは高阿那肱を斬ろうとして果たせず、孝珩が出陣を願うと、高阿那肱・韓長鸞は変を恐れて彼を滄州刺史州という地方の区画を治めた長官に出した。北周軍が迫ると高恒は鄴から東へ逃れ、任城王高湝に位を譲った。禅位皇帝が位をほかの人に譲ることの文と璽を託された斛律孝卿は、それを持って北周に降った。
父に連れられて青州へ走った。父は陳へ逃れようとしたが、高阿那肱に足止めされ、父とともに捕らえられた。長安へ送られ、のち父の高緯が謀反を誣いられて、一族とともに老若の別なく死を賜った。
史料について
資治通鑑は、莫多婁敬顕・尉相願が阿那肱を斬って孝珩を立てようと謀ったとする。禅位を、斛律孝卿伝は孝卿らが後主に勧めて詔を作らせたとし、周書は使者を送ったのを後主とし、孝卿は届ける前に捕らえられたとする。捕らえられた所を、資治通鑑は青州から南へ走った南鄧村、周書は青州とする。高恒を名指しした賜死の記事は、北斉書・北史・周書・資治通鑑のいずれにも無い。北斉書の列伝は、長安に移された諸王王に取り立てられた皇族たちのうち殺されなかった者は辺地へ移されて死んだと記す。
幼主とつながる皇帝
在位中の出来事
改元1・大赦1
- 改元577年2月4日元号を「承光」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。577年2月4日
北斉の歴代皇帝
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