中国皇帝統計

欽宗

北宋(宋・遼・西夏・金)|在位 1126–1127年

欽宗の肖像
諱(本名)
趙桓
在位
1126–1127年
在位期間
1年60日365名中287位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
26歳(数え年)172名中・若い順97位タイ
没年齢
57歳(数え年)269名中・長寿順48位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

徽宗長子。政和5年に立太子、金軍侵攻の軍事的危機下、徽宗が退位を強行し本人は固辞したが即位した。父子間の正規継承だが平時の自然な譲位ではなく軍事的緊急事態下での強制的内禅。

出典: 宋史 本紀二十三(欽宗)

死因の経緯

金史は「天水郡公趙桓薨」と記録し、暴力・処刑を示す語は使われていない。捕囚後も俸禄支給等の待遇が続いていた記録がある。「馬球で落馬させられ殺された」という俗説は一次史料に裏付けがなく、金の武将・許王宗傑の撃毬死の記事との混同の可能性がある。

出典: 金史 本紀五(海陵)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位期間(靖康元年〜二年)を通じて使用された元号は「靖康」のみで、他に改元の記載はない。

大赦回数

即位翌日(宣和七年十二月壬戌)の「赦大逆、反叛以下罪」は対象犯罪の範囲を限定した恩赦で「大赦」の明記がないため除外。同年五月の「曲赦河北路」は地域限定と明記されているため除外。即位前(皇太子冊立時、政和5年二月乙巳)の「大赦天下」は欽宗自身の治世の出来事ではないため対象外とした。

立后回数

在位中の皇后冊立はこの1回のみ確認。廃后・再冊立の記載はない。

皇太子廃立回数

靖康元年四月癸卯、子の趙諶を皇太子に立てた記載はあるが、廃立の記載はない。靖康2年、金軍に捕らえられ北送される際も皇太子のまま帝・皇后と共に同行しており、在位中に皇太子廃立は確認されない。

親征回数

靖康元年正月に金軍渡河を受け「詔親征」「帝欲親征,以李綱為留守,以李梲為副」と親征計画が立てられたが、給事中王〈宀禹〉の諫言により「罷之」で即座に中止され、実行されていない。以後は終始開封城内での籠城指揮(自ら甲冑を着て登城)や金軍陣営(青城)への出頭・降伏交渉に終始し、自ら軍を率いて出征した事実は確認できない。

反乱鎮圧回数

北宋欽宗の在位期間(1126-1127)の本紀記述はほぼ全て金軍侵攻(靖康の変=対外戦争)に占められており、対等勢力間の戦争として鎮圧回数には含めない方針。国内の独立した反乱として明確に「鎮圧」まで記述があるのは奇兵の乱1件のみ。平陽府将劉嗣初の金への投降(「以城叛」)は金軍侵攻に直接付随する事象と判断し除外。原文の記述量が乏しく、判断に一定の解釈幅があるためconfidence medium。

被反乱回数

金軍侵攻に付随する開封陥落時の混乱(「燕瑛…為亂兵所殺」「姚仲友死于亂兵」)は対外戦争(金の侵攻)に直接起因する混乱と判断し、独立した反乱としては計上しなかった。平陽府将の投降(「以城叛」)も同様に対外戦争文脈として除外。福州軍乱は情報量が乏しく解釈の幅があるためconfidence medium。

遷都回数

宋史本紀を通読。開封(東京開封府)が建国から靖康の変(1127年)まで一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年は『宋史』本紀二十三「元符三年四月己酉、生于坤寧殿」に基づく(元符三年=1100年。月日は干支のみの記載でグレゴリオ暦日への変換ツールがないため年精度に留めた)。没年月は『金史』本紀五(海陵)「六月庚辰、天水郡公趙桓薨」(正隆元年=1156年)に基づく。即位時・崩御時年齢は原文に「時年」等の直接記載はなく、元号年ラベルの差分(数え年=虚歳、宣和七年1125-元符三年1100+1=26、正隆元年1156-元符三年1100+1=57)から逆算した推定値のため確度medium。

在位中の出来事(6件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

被反乱1126年8月福州軍乱

首謀者: 不明

結果: unresolved(在位終了まで鎮圧記載なし)

靖康元年八月、福州で軍が乱を起こし知州事の柳庭俊を殺害。原文にはこの一文のみで鎮圧の記載がなく、その後北宋自体が靖康2年に滅亡したため未解決のまま在位終了したとみられる(例外パターン2に該当)。

反乱鎮圧1126年12月奇兵の乱(開封包囲戦中の禁軍反乱)

首謀者: 不明(統制不明の部隊「奇兵」)

結果: suppressed

靖康元年閏十一月、金軍による開封包囲戦の最中、禁軍の一部隊「奇兵」が反乱を起こし使者を殺害。殿帥王宗濋が数十人を斬って鎮圧した。金軍侵攻そのものとは別の、宋朝内部の軍事反乱として計上。

被反乱1126年12月奇兵の乱(開封包囲戦中の禁軍反乱)

首謀者: 不明(統制不明の部隊「奇兵」)

結果: suppressed

鎮圧回数と同一事象。禁軍内部の反乱として被反乱にも計上。

改元日付不詳「靖康」への建元。

「靖康」への建元。宣和七年十二月丙寅(即位数日後)、道君皇帝(徽宗)への尊号奉呈と同日に「詔改元」とあり、翌月(靖康元年正月)より新元号「靖康」が施行された。即位に伴う最初の建元としてカウント。

出典: 宋史 本紀二十三(欽宗)

大赦日付不詳靖康元年二月戊申、「赦天下」と明記される全国規模の恩赦。

出典: 宋史 本紀二十三(欽宗)

立后日付不詳即位翌日(宣和七年十二月壬戌)、既に妃であった朱氏を皇后に冊立(「立妃朱氏為皇后」)。

出典: 宋史 本紀二十三(欽宗)

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