欽宗の人物データ
- 生年
- 1100年
- 在位
- 1126年1月19日〜1127年3月20日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1125年12月24日から
- 没年
- 1156年6月57歳(数え年)長生き順同率48位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 内禅先の皇帝が生きているうちに、自ら位を譲った即位(生前の譲位)。
- 先代
- 徽宗北宋欽宗は徽宗の子
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓趙諱桓呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 巻二十三 欽宗紀/金史 巻三 太宗紀
- 死因
- 金史 本紀五(海陵)
- 即位経路
- 宋史 本紀二十三(欽宗)
生涯
即位まで
徽宗の長子で、1100年に生まれた。1126年の初め、金軍がすでに国境を侵すなかで徽宗が位を譲ると、皇太子は泣いて辞退し病にもなったが許されず、即位した。
治世と最期
宰相らが都を離れる案を守るなか、南へ行くと決めて車駕の支度まで整ったが、李綱に六軍天子が率いる軍の全体の家族は都にいると説かれてやめた。同じ年、金軍に開封を攻められ、太原・中山・河間の三鎮の割譲と宰相・親王皇帝の一族に与えられる王の位、またその位の人の人質を求められて、三鎮の割譲を許した。夜襲が失敗した翌日には金に謝するとして李綱を罷免したが、陳東らと都の民数万が宮門に伏すと李綱を戻し、金軍は引き揚げた。
金軍が再び都を囲むと、雨と雪の中で甲を着て城に登り、自分の食事を兵士に与えたので、人々は感泣した。1127年の初め、郭京が六甲神の兵を呼び出せるとされたまじないの法を用いるとして守兵を城から下ろし、打って出て大敗し、都は落ちた。欽宗は、种師道の言を用いなかったためにここに至ったと胸を打った。金が上皇の出頭を求めると、欽宗は、上皇は病んでいるとして自ら金の陣営に赴いた。再び出向くときには、諫める張叔夜に、民のために自ら行かざるを得ないと言った。金は張邦昌を楚の皇帝に立て、欽宗は皇后や皇太子とともに北へ連れ去られた。
1128年、父子は白い衣で金の太祖の廟に引き出され、欽宗は重昏侯とされた。1156年、北の地で没した。
史料について
死を、宋史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は1161年に知らせが届いたことだけを書き、金史は1156年とする。建炎以来繫年要録は、紹興三十年の冬に北の地で没したとし、金の使者が風疾手足のまひなどを起こす病で亡くなったと伝えた口上を載せる。撃毬馬に乗り、つえで球を打ち合う遊びの場で射殺されたという話は、大宋宣和遺事などの正史国が正式なものと認めた、王朝ごとの歴史書の外の書に出てくる。宋史の賛は、歌舞や音楽を好まなかったとしつつ、弱腰で義を知らない者だったかと評し、悼むべきだと結ぶ。
欽宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1125–1126年の地図に、欽宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・皇后1・改元1・大赦1
- 皇后1126年1月20日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1125年12月25日)皇后を立てる
- 改元1126年1月24日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1125年12月29日)元号を「靖康」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1126年3月7日
- 反乱1126年9月福州軍乱
- 反乱1126年12月奇兵の乱(開封包囲戦中の禁軍反乱)
北宋の歴代皇帝
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