中国皇帝統計

哲宗

北宋(宋・遼・西夏・金)|在位 1085–1100年

哲宗の肖像
諱(本名)
趙煦
在位
1085–1100年
在位期間
14年331日365名中87位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
10歳(数え年)172名中・若い順27位タイ
没年齢
25歳(数え年)269名中・長寿順211位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
9267名中47位タイ
立后
2204名中14位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

神宗第六子。神宗病重篤時に皇太子に立てられ、崩御時に正規に即位。

出典: 宋史 本紀十七(哲宗一)

死因の経緯

「帝有疾,不視朝」の後、崩御。

出典: 宋史 本紀十八(哲宗二)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

哲宗は元豐8年3月に即位したが即位年は元豐の元号をそのまま継続使用したため改元としては計上せず、翌年(元祐元年)正月の建元を最初の改元としてカウント。以降、紹聖元年・元符元年の各改元と合わせて計3回。哲宗は即位前に王等の別身分で在位した2段階即位パターンには該当しないため、【皇帝即位前】等の特記は付していない。

大赦回数

宋史本紀十七・十八全文を通読し「赦」字を含む全箇所を確認。全国規模と明記される「大赦天下」「赦天下」のみを計上し、「曲赦陝西、河東路」等の地域限定の恩赦(紹聖四年四月・元符二年五月の各1件)は除外した。

立后回数

本紀十七・十八全文より「立...為皇后」「冊皇后」等の記事を確認。孟皇后の廃后(紹聖三年)は立后回数には含めない(別途crownPrinceDepositionCountとは無関係の廃后事案)。哲宗在位中に孟氏の復位はなかったため再冊立は計上せず。

皇太子廃立回数

宋史本紀十七・十八を通読したが、哲宗自身の実子(紹聖四年/元符元年8月「皇子生」の記事あり=後の献愍太子茂とされる)が皇太子・皇太弟等の法定推定継承者として冊立された記事は見当たらず、廃立の記事も存在しない。哲宗自身が皇太子として冊立された経緯(元豊8年3月)はあるが、これは即位前の立太子であり廃立事例ではない。よってcount=0。

親征回数

宋史本紀十七・十八の全期間を通じ、哲宗自身が軍を率いて出征した記録は皆無。西夏・吐蕃唃厮囉政権(阿里骨)・渠陽蠻等との一連の軍事行動はすべて种誼・王贍・折克行・張存ら辺将主導であり、哲宗は一貫して都(汴京)に留まっていた。

反乱鎮圧回数

対等勢力との対外戦争(西夏との度重なる攻防、鬼章青宜結・阿里骨ら吐蕃唃厮囉政権との衝突、遼との関係)は本ブロックのルールにより鎮圧・被反乱の対象外とした(吐蕃唃厮囉政権は西夏同様、名目上宋の節度使号を受けつつ実質独立していた勢力であり、金に対する蒙古と同型の『対外戦争』として扱った)。国内反乱の候補として『渠陽蠻入寇』(元祐三年)・『渝州獠人寇小溪』(元祐三年)の記載があるが、いずれも一行のみの記述で首謀者名・規模・鎮圧結果の記載を欠き、渠陽軍自体も新設直後に度々放棄・再置を繰り返した未定着の辺境(羈縻州軍)であったため、独立した反乱事件として計上できる確度に達しないと判断し除外した。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同じ理由により、対等勢力との対外戦争は除外。渠陽蠻・渝州獠人の事案も首謀者・規模・帰結が不明で反乱単位として確定できないため計上を見送った。朝廷内部の兵力を伴う弑逆・クーデター(例外4パターン)に該当する事件も本紀中に見当たらない。

遷都回数

宋史本紀を通読。開封(東京開封府)が建国から靖康の変(1127年)まで一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

宋史本紀十七冒頭に「熙寧九年十二月七日己丑,生于宮中,赤光照室」とあり、生年月日が日単位まで明記されている(旧暦のまま、西暦換算は本調査では実施せず)。崩御は本紀十八に「己卯,帝崩」とあり干支日のみで、月日の絶対値は既存データ(元符3年1月12日=西暦1100-02-23)と一致する。即位時・崩御時の年齢について「時年◯◯」等の直接記載は本紀十七・十八のいずれにも見当たらなかったため、accessionAge・deathAgeはnullとした。

在位中の出来事(14件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元日付不詳元祐元年(1086年)春正月庚寅朔「改元」。

元祐元年(1086年)春正月庚寅朔「改元」。神宗崩御に伴う即位は元豐8年3月だが、その年は元豐の元号を継続使用(踰年改元)し、翌年正月朔日に改元して「元祐」を建元。

出典: 宋史 本紀十七(哲宗一)

改元日付不詳紹聖元年(1094年)夏四月癸丑「改元」。

紹聖元年(1094年)夏四月癸丑「改元」。元祐から紹聖への改元(親政開始・新法復活の紹述政策に伴う)。

出典: 宋史 本紀十八(哲宗二)

改元日付不詳元符元年(1098年)六月戊寅朔「改元」。

元符元年(1098年)六月戊寅朔「改元」。紹聖から元符への改元(玉璽発見を機とする改元)。

出典: 宋史 本紀十八(哲宗二)

大赦日付不詳元豐八年(1085年)三月己亥、神宗崩御・哲宗即位の翌日に「大赦天下常赦所不原者」。

元豐八年(1085年)三月己亥、神宗崩御・哲宗即位の翌日に「大赦天下常赦所不原者」。即位に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀十七(哲宗一)

大赦日付不詳元祐元年(1086年)九月辛酉、大享明堂・神宗配享に伴い「赦天下」。

出典: 宋史 本紀十七(哲宗一)

大赦日付不詳元祐四年(1089年)九月辛巳、大饗明堂に伴い「赦天下、百官加恩」。

出典: 宋史 本紀十七(哲宗一)

大赦日付不詳元祐七年(1092年)十一月癸巳、圜丘での祀天地(郊祀)に伴い「赦天下、羣臣中外加恩」。

出典: 宋史 本紀十七(哲宗一)

大赦日付不詳元祐八年(1093年)八月戊辰、太皇太后(宣仁聖烈皇后)病篤による祈祷の一環で「赦天下」。

出典: 宋史 本紀十七(哲宗一)

大赦日付不詳紹聖二年(1095年)九月辛亥、大饗明堂に伴い「赦天下」。

出典: 宋史 本紀十八(哲宗二)

大赦日付不詳紹聖四年(1097年)九月乙卯、星変による避殿減膳等の後「赦天下」。

紹聖四年(1097年)九月乙卯、星変による避殿減膳等の後「赦天下」。※同年四月丁未の「曲赦陝西、河東路」は地域限定のため不算入。

出典: 宋史 本紀十八(哲宗二)

大赦日付不詳元符元年(1098年)十一月甲子、圜丘での祀昊天上帝(郊祀)に伴い「赦天下」。

出典: 宋史 本紀十八(哲宗二)

大赦日付不詳元符三年(1100年)正月戊寅、帝崩の前日(発病中)に「大赦天下、蠲民租」。

出典: 宋史 本紀十八(哲宗二)

立后日付不詳元祐七年(1092年)夏四月己未「立皇后孟氏」。

元祐七年(1092年)夏四月己未「立皇后孟氏」。五月戊戌に文德殿で冊立の儀。孟皇后はのちの紹聖三年(1096年)九月乙卯に「廢皇后孟氏為華陽教主、玉清妙靜仙師」として廃后(哲宗在位中に復位した記事はない)。

出典: 宋史 本紀十七(哲宗一)

立后日付不詳元符二年(1099年)九月丁未「立賢妃劉氏為皇后」。

元符二年(1099年)九月丁未「立賢妃劉氏為皇后」。同年閏九月丙寅に文德殿で冊后の儀。

出典: 宋史 本紀十八(哲宗二)

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