
幼くして即位して祖母の宣仁太后が政治を執り、親政君主が自分で政治を執ることに入ると父の新法王安石が進めた政治の改革を復して旧法党を退けた北宋の皇帝である。
哲宗の人物データ
- 生年
- 1076年1077年1月4日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1076年12月7日)
- 在位
- 1085年4月1日〜1100年2月23日
- 没年
- 1100年2月23日25歳(数え年)長生き順同率208位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓趙諱煦呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 本紀十七・
十八 哲宗一・ 二(巻十七・ 十八) - 死因
- 宋史 本紀十八(哲宗二)
- 即位経路
- 宋史 本紀十七(哲宗一)
生涯
どんな皇帝か
宋史の賛は、宣仁太后がともに政治を執った元祐の政を称え、のち紹述先代の政治を受け継いで行うことの名で前の政治を覆して党籍罰すべき派閥の者として名を記した名簿の禍を招いたと嘆く。
即位まで
神宗の第六子である。1085年に神宗が病に伏すと、祖母の皇太后の垂簾皇帝の母などが簾の奥から政治を取りしきることのもとで皇太子に立てられた。祖母は、この子は神宗が薬を飲むようになってから側を離れず、仏経を写して福を祈ったと言って泣いた。数日後に神宗が没すると即位し、祖母が太皇太后皇帝の祖母の代の后に贈る称号としてともに政治を執った。
史料について
即位をめぐって、宋史の邢恕伝は、邢恕が蔡確と謀って太后が雍王に意を寄せていると言いふらしたとし、宣仁高皇后伝は、太后が子が父を継ぐのに何の異論があろうと述べたとする。
治世と最期
垂簾のもとで新法が改められ、青苗銭作物が実る前に国が農民へ貸し、利息をつけて返させたお金は廃された。講師の程頤に、手を洗うとき蟻をよけるのは本当かと問われ、傷つけるのが心配だからだと答えた。
1093年に祖母が没すると親政を始めた。翌年に紹聖と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることして章惇を宰相とし、元豊の免役法労役の代わりに銭を出させた王安石の法を復した。同じ年に元祐の旧臣の諡を奪い、1097年には呂大防・劉摯・蘇轍らを嶺南などへ、蘇軾を昌化軍へ移した。ただ、その墓を暴くことや、流した者を皆殺しにする議は許さなかった。1096年に孟皇后を廃したが、のちに悔いた。章惇らが祖母の位を追って廃するよう求めると、向太后と生母の朱太妃皇后でない皇帝の母や、先帝の妃の称号が諫め、哲宗は上奏を焼いた。翌日また請われると、朕を英宗の廟に入れぬつもりかと怒り、章惇らはやめた。1099年に劉氏を皇后に立てたとき、反対した鄒浩に顔色を変えたが怒らず、上奏文を手に考え込んだ。翌日、鄒浩は章惇にそしられて官を削られた。
1100年に病で朝政に出なくなり、数日後に没した。弟の端王が柩の前で即位した。
史料について
孟皇后の廃位を、宋史の孟皇后伝は章惇らの仕組んだ冤罪とする。悔いた言葉を、同伝は章惇が私を誤らせたとし、章惇伝は名節を損なったとする。追廃の件を、続資治通鑑長編の注は、朱太妃もともに諫めたことや上奏を焼いたこと、英宗の廟の言葉は新録にあって邵伯温の弁誣には無いと断る。宋史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は病名を書かず、長編の注に引く蔡惇の直筆は、若くして血を吐く病を隠し続けたと伝える。
哲宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1085–1100年の地図に、哲宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
皇后2・改元3・大赦9
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1085年4月2日
- 改元1086年元号を「元祐」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1086年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1089年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1092年
- 皇后1092年皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1093年
- 改元1094年元号を「紹聖」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1095年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1097年
- 改元1098年元号を「元符」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1098年
- 皇后1099年皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1100年2月22日
北宋の歴代皇帝
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