中国皇帝統計

沖帝

後漢|在位 144–145年

諱(本名)
劉炳
在位
144–145年
在位期間
148日365名中334位
即位経路
世襲
死因
不詳
即位時年齢
2歳(数え年)172名中・若い順3位タイ
没年齢
3歳(数え年)269名中・長寿順267位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
5289名中97位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:沖帝

即位の経緯

順帝の子。建康元年に皇太子となり、その年8月(順帝崩御当日)に即位(「孝沖皇帝諱炳、順帝之子也……即皇帝位」)。通常の父子継承だが2歳での幼年即位のため梁太后が臨朝。

出典: 後漢書・本紀第七章 孝順孝沖孝質帝紀

死因の経緯

『後漢書』巻六(順帝紀・沖帝紀)原文は「永憙元年春正月戊戌,帝崩於玉堂前殿,年三歲」とのみ記し、病状・死因の記述は一切ない。なお梁冀による「鴆弒」(毒殺)が原文に明記されているのは次代の質帝紀(「大將軍梁冀潛行鴆弒,帝崩於玉堂前殿」)であり、沖帝の項に弑逆を示唆する記述は見当たらない。満2〜3歳の幼児のため病死が自然な推測ではあるが、原典に積極的な死因の記述がないため不詳とする。

出典: 後漢書 順帝紀・沖帝紀補記: 原典検証(2026-07-15、『後漢書』巻六原文を直接確認)で、旧noteの「外戚梁冀による弑逆説」は次代の質帝(実際に原文で「鴆弒」と明記される)の記述との混同と判明。categoryを病死から不詳に修正。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

沖帝在位中(建康元年8月即位〜永嘉元年正月崩御)に「建康」から「永嘉」への改元が1回あった。ただし即位時(建康元年8月)は順帝が存命中に既に定めていた「建康」の元号をそのまま引き継いだものであり、沖帝自身による新規建元ではないため、即位時の建元はカウントに含めない(順帝紀に「辛巳,立皇子炳爲皇太子,改年建康,大赦天下」とあり、これは順帝が崩御前に自ら行った改元・立太子・大赦であって沖帝の事績ではない)。

大赦回数

『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀の沖帝紀部分(建康元年八月即位〜永嘉元年正月崩御)には「大赦天下」の記述は存在しない。同区間に見られる恩赦関連の記述は「己酉,令郡國中都官繫囚減死一等,徙邊;謀反大逆,不用此令」(郡国・中都官の囚人を減死一等とし辺地に徙す。謀反大逆はこの令を用いず)のみで、これは全国規模の大赦ではなく対象・適用除外を限定した部分的減刑であるため、大赦としてカウントしない。

立后回数

沖帝紀に立后(皇后冊立)の記述はない。即位時2歳・崩御時3歳の幼帝であり、婚姻・立后が行われる年齢に達していない。即位後は「尊皇后曰皇太后。太后臨朝」(順帝の皇后梁氏を皇太后と尊び、太后が臨朝)とあるのみで、これは新規の立后ではなく先帝皇后の皇太后昇格である。

皇太子廃立回数

沖帝紀(建康元年八月即位〜永嘉元年正月崩御)に皇太子廃立の記述はない。沖帝自身は順帝崩御前の建康元年に唯一の皇子として立太子され、その直後に即位しているため、在位中に別の皇太子を立てて廃するという事案は発生していない(3歳で崩御しており、自身の後継の皇太子を立てる間もなかった)。

親征回数

該当記事なし。沖帝(劉炳)は即位時2歳(数え年)、崩御時3歳(数え年)の幼帝で、在位約5ヶ月間は皇太后梁氏が臨朝し実権は大将軍梁冀が握っていた。『後漢書』孝順孝冲孝質帝紀の該当箇所(建康元年八月〜永憙元年正月)に「帝自将」等、皇帝本人が出陣したことを示す記述は一切ない。軍事行動はすべて州刺史・太守・護羌校尉等への派遣によるもの。

反乱鎮圧回数

沖帝の在位(144年9月20日〜145年2月15日、約5ヶ月)は極めて短く、朝政は梁太后・梁冀が実質的に主導した。原文中で明確に「討った」「破った」等、鎮圧が成功したと明記される事件は在位期間中に見当たらない(いずれも敗北・不詳で終わっている)。十一月の徐凤・馬勉の蜂起、十二月の黄虎の蜂起については、沖帝の崩御(永憙元年正月戊戌)までに討伐の記事が見られず、鎮圧の試み自体が記録されていないため本カウントには含めていない(rebellionSufferedCountには計上)。

被反乱回数

在位約5ヶ月という極めて短い期間のため、事件の起点が沖帝自身の即位前後(順帝崩御・沖帝即位と同月)にまたがるものが多く、順帝側の記録との重複・帰属の判断に幅がある点に留意(各eventのnote参照)。宮廷内クーデター・弑逆未遂等、皇帝本人を直接標的とした兵力行使の記事は原文中に見当たらない(沖帝は病没と伝えられ、暗殺・弑逆を示唆する記述はない)。【2026-07-16監査追記】原文冬十月の「日南蛮夷攻烧城邑、交阯刺史夏方招诱降之」が両カウントから漏れていたため、服属民の反乱として被反乱に追加した(count 4→5)。

遷都回数

後漢書本紀を通読。洛陽が建国から一貫した都で、在位中に追加の遷都記録はない(献帝期の洛陽→長安→許昌の遷都は献帝自身の代の出来事として計上済み)。

即位時年齢・没年齢

『後漢書』本紀第六(孝順孝沖孝質帝紀)原文に直接記載あり。即位時「建康元年立為皇太子、其年八月庚午、即皇帝位、年二歳」、崩御時「永憙元年春正月戊戌、帝崩於玉堂前殿、年三歳」。いずれも数え年での直接記載であり換算不要。両者は整合的(即位144年=数え年2歳→逆算生年143年、崩御145年=数え年3歳→逆算生年143年で一致)。生年月日の月日までは原文に記載がないためbirthDateは年精度(0143)のみとし、月日はnull。deathDateはreignsの最終endDate(永憙元年正月戊戌=145-02-15)と一致。

在位中の出来事(8件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧144年〜145年西羌の反乱(鹯陰河での衝突)

首謀者: 不詳(「叛羌」と総称され特定の首謀者名の記載なし)

結果: 鎮圧失敗(推定)。護羌校尉趙冲が鹯陰河で叛羌を追撃したが、原文は「战役」とあり、同紀他所での用例(代郡太守李超「战殁」、征西将軍馬賢「軍敗没」)から見て「战殁」(戦死)の誤字・誤植の可能性が高く、趙冲が敗死したと解釈した。

西羌(諸種の羌族)の反乱は順帝代から長期にわたり継続していた辺境紛争の一部であり、沖帝の在位期間中に新たに勃発したものではなく、既存の反乱が継続していた状態。「是岁」(建康元年)としか記されず月日は不詳。confidence medium(原文の字の誤りの可能性と、反乱そのものの新規性に疑義があるため)。

被反乱144年〜145年西羌の反乱(鹯陰河での衝突)

首謀者: 不詳(「叛羌」と総称)

結果: 護羌校尉趙冲が鹯陰河で叛羌と交戦し敗死(推定、rebellionSuppressionCount参照)。反乱自体はその後も継続し、質帝代の145年二月に至って一部の叛羌が左馮翊梁並に投降した記事がある。

rebellionSuppressionCountと同一事件。順帝代から続く長期の西羌反乱の一部が沖帝の在位期間中も継続していたもの。

反乱鎮圧144年9月楊・徐の盗賊(范容等)の乱・歴陽での鎮圧戦

首謀者: 范容・周生

結果: 鎮圧失敗。楊州刺史尹耀・九江太守鄧顕が歴陽で范容らを討とうとしたが敗れ、両名とも賊に殺害された(「軍敗、耀・顕為賊所殁」)。

この蜂起自体は順帝の崩御と同月(建康元年八月、沖帝即位と同月)に発生し、当初は御史中丞馮赦が討伐に遣わされている(順帝紀に記載)。沖帝紀に記された尹耀・鄧顕による討伐とその敗北は、沖帝の即位(八月庚午)後、順帝の宪陵埋葬(九月丙午)以降の記事として置かれており、実際の軍事行動(鎮圧の試みと敗北)は沖帝の在位期間中に生じたと判断しこちらに計上した。順帝側の記録(馮赦への派遣)と重複しうる点に注意(王朝内・同一王朝の治世境界をまたぐ継続事件のため、どちらの治世に帰属させるべきか判断が分かれ得る)。confidence medium。

被反乱144年9月楊・徐の盗賊(范容等)の乱

首謀者: 范容・周生

結果: 沖帝側(政府軍)の敗北。楊州刺史尹耀・九江太守鄧顕が歴陽で討伐に失敗し戦死。反乱自体は沖帝崩御後、質帝代の本初元年(146年)三月に九江都尉滕撫が馬勉・范容・周生を合わせて討伐し「大破斬之」して終息。

rebellionSuppressionCountと同一事件。順帝崩御と同月(建康元年八月)に発生した蜂起が沖帝の在位期間中も継続した。

被反乱144年10月日南蛮夷の乱(城邑攻焼)

首謀者: 不詳(「日南蛮夷」と総称され特定の首謀者名の記載なし)

結果: 交阯刺史夏方の招諭により投降。武力による鎮圧ではなく懐柔によって沈静化した。

新規追加。沖帝の在位期間中(順帝の宪陵埋葬・九月丙午の後、十一月の徐凤・馬勉蜂起の前)に発生。日南郡は交阯刺史部下にあり皇帝の統治機構下にある郡県であるため、服属民(蛮夷)による武装蜂起(「攻烧城邑」=実際の兵力行使)として被反乱に計上した。rebellionSuppressionCountには計上していない(鎮圧の主体が皇帝軍とは言い難く、確定済みのrebellionSuppressionCountは本監査の対象外のため変更していない)。

被反乱144年11月九江盗賊・徐凤等の乱(「無上将軍」を自称)

首謀者: 徐凤・馬勉

結果: 沖帝の在位期間中には鎮圧されず(崩御時点で未鎮圧)。翌145年(質帝代)五月に下邳の謝安が徐凤を討ち斬り、馬勉は後に「黄帝」を自称し146年三月に九江都尉滕撫により范容・周生とともに討たれた。

十一月、九江の盗賊徐凤・馬勉らが「無上将軍」を自称し城邑を攻焼したとの記事。沖帝在位中の鎮圧記事なし(rebellionSuppressionCountには未鎮圧のまま在位終了のため不計上、正当な差異理由2に該当)。

被反乱144年12月九江盗賊・黄虎等の乱(合肥攻撃)

首謀者: 黄虎

結果: 不詳。原文には「九江賊黄虎等攻合肥」とのみ記され、以後の討伐・帰趨に関する記事が見当たらない。

范容・徐凤らと同じ九江郡を拠点とする別系統の盗賊集団として個別に記述されているため、独立の事件として計上した。rebellionSuppressionCountには未鎮圧のまま在位終了のため不計上(正当な差異理由2に該当)。confidence medium。

改元145年2月建康2年正月朔日、「永嘉」に改元。

建康2年正月朔日、「永嘉」に改元。范曄『後漢書』・司馬彪『続漢志』・皇甫謐『帝王世紀』等は「永嘉」とするが、劉珍『東観漢記』は「永熹」、袁宏『後漢紀』は「元嘉」と誤記する等異同がある(清代考証では「永憙」が正しいとする説もあり、中華書局点校本はこれを採る)。沖帝紀原文自体には改元を明記した詔文は見られず、建康元年の記事の直後に「永嘉元年春正月戊戌,帝崩於玉堂前殿,年三歲」と紀年が切り替わる形で記されているのみ。改元の事実自体は複数の史料・現代の整理(維基百科『永嘉(東漢)』等)で確認できるため1回として計上するが、原典本紀に改元の詔記事がなく紀年の切り替わりのみで確認される点でconfidenceはmediumとする。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。