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後漢第9代

沖帝劉炳

在位 144–145年(148日)144年9月20日 〜 145年2月15日

日本は弥生時代

順帝の子で、2歳で即位し、翌年に没した後漢の皇帝である。

沖帝の人物データ

生年
143年
在位
  • 144年9月20日〜145年2月15日
148日長い順327位/365人2歳で即位(数え年)
没年
145年2月15日3歳(数え年)長生き順同率264位/266人
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
先代
  • 順帝後漢沖帝は順帝の子
次代
  • 質帝後漢質帝は沖帝の同族(遠縁)
呼び名
姓劉諱炳呼び名の見方

出典

在位
後漢書 巻六 孝順孝沖孝質帝紀
死因
後漢書 順帝紀・沖帝紀
即位経路
後漢書・本紀第七章 孝順孝沖孝質帝紀

生涯

どんな皇帝か

後漢書の賛は、幼くして死に、まだ物事を知らなかったと一句で評する。

即位まで

母の虞美人は良家の子として後宮に選ばれたが、順帝は爵号を加えないままだった。144年に皇太子に立てられた。の高梵が詔の証拠も無く迎えに来たとき、太子の監護を任された種暠が車を遮り、太子は詔の返答が来てから出られた。同じ年に順帝が没すると、その日のうちに即位し、子の無い梁皇后が皇太后として朝に臨んだ。

治世と最期

帝はまだの中にあり、太后は兄の梁冀を趙峻・李固とともにの事に参録させた。揚州や徐州では盗賊が盛んで、九江の徐鳳・馬勉らが城邑を攻め焼いた。同じ年、群盗が父順帝の憲陵を暴いた。梁太后は昼夜勤めて李固らに任せ、節倹に努めた。

145年に玉堂前殿で没した。帝が病に伏したころ、梁冀はのちの質帝となる劉纘を都亭に呼び寄せていた。梁太后は、揚州・徐州の盗賊が強いなかで騒ぎになるのを恐れ、召した諸王侯が着くまで喪を伏せようとした。李固は、帝は幼くても天下の父だと反対し、その日の暮れに喪が発せられた。李固の献策で陵の費用は減らされ、懐陵に葬られた。生母の虞美人は、沖帝が早く死に、梁冀が政を握って他の一族を嫌ったため、称号が上がらず大家と呼ばれるだけで、175年に霊帝がようやくとした。

史料について

梁冀を参録させた話は梁冀の伝によるもので、李固の伝も李固が梁冀とともに参録したと書く。梁冀の伝は梁冀が辞退したとも書き、沖帝紀は梁冀の名を出さない。梁太后の働きぶりを書く皇后紀は、のちに太后がに溺れて天下を失望させたとも書く。李固の言葉を、後漢紀は天下の君と書く。死因を書いた記事は見当たらず、質帝紀が病に伏したと書くだけである。

沖帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱5・改元1
  1. 反乱144–145年西羌の反乱(鸇陰河での衝突)
  2. 反乱144年9月〜144年10月楊・徐の盗賊(范容等)の乱
  3. 反乱144年11月日南蛮夷の乱(城邑攻焼)
  4. 反乱144年12月九江盗賊・徐鳳等の乱(「無上将軍」を自称)
  5. 改元145年元号を「永憙」とする
  6. 反乱145年1月( 144年12月)九江盗賊・黄虎等の乱(合肥攻撃)

後漢の歴代皇帝

歴代14人の一覧

年表

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