質帝
後漢|在位 145–146年
- 諱(本名)
- 劉纘
- 在位
- 145–146年
- 在位期間
- 1年142日365名中280位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 8歳(数え年)172名中・若い順16位タイ
- 没年齢
- 9歳(数え年)269名中・長寿順263位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 7回225名中58位タイ
- 被反乱
- 7回289名中71位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:質帝
即位の経緯
章帝の玄孫。沖帝が病篤のとき大将軍梁冀が帝(纘)を洛陽都亭に召し出し、沖帝崩御後、皇太后と梁冀が宮中で擁立を定策した(「皇太后與冀定策禁中……即皇帝位」)。外戚梁冀主導の擁立。
出典: 後漢書・本紀第七章 孝順孝沖孝質帝紀
死因の経緯
外戚の大将軍梁冀の専横を朝会で「跋扈将軍」と評したことに梁冀が激怒し、湯餅(麺料理)に毒を盛らせて弑逆。太尉李固が呼ばれた際、質帝はまだ話すことができ「水を飲めれば助かる」と訴えたが、梁冀が「吐くといけない」と水を与えさせず崩御(9歳)。『後漢書』に生々しい記述があり同一政権内(外戚)による毒殺のため暗殺に分類。
出典: 後漢書 巻六 孝順孝沖孝質帝紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位期間中の改元は本初への1回のみ(本初元年閏六月甲申に崩御しており、在位中に本初からさらに別の年号へ改元した事実はない)。「即位に伴う最初の元号制定」を1回として数える方針に従い、本初建元をevents[0]としてcount:1とした。
大赦回数
『後漢書』卷六・孝順孝沖孝質帝紀(原典)を確認。同紀には永嘉元年(沖帝期)・建康元年(順帝期)等にも大赦記事があるが、それらは質帝の治世に属さないため除外した。質帝在位期間(永嘉元年正月〜本初元年閏六月)のうち、改元後の本初元年に1回の大赦天下が確認できる。
立后回数
『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀および皇后紀(卷十上下)を確認したところ、質帝の治世に「立...為皇后」に相当する記事は見当たらない。質帝は8歳で即位し9歳(本初元年閏六月甲申)で梁冀に毒殺されており、立后に至る前に崩御した。次代桓帝期になって初めて梁女瑩が皇后に立てられている(皇后紀の記述)。0回として確定できる。
皇太子廃立回数
『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀を確認したところ、「立皇太子」の語は順帝期(永建元年・建康元年)に2回出現するが、質帝の治世(永嘉元年正月即位〜本初元年閏六月崩御)には「立皇太子」「廢太子」等の語は一度も出現しない。質帝自身は8歳で外戚梁氏により擁立され、在位約1年半で梁冀に毒殺されており、在位中に皇太子を立てた記録・廃した記録のいずれも本紀にない。0回として確定できる。
親征回数
『後漢書』本紀第七(孝順孝沖孝質帝紀)の質帝在位期間(永憙元年正月〜本初元年閏六月)を通読したが、「帝自将」等、質帝本人が軍を率いて出陣した記述は皆無。即位時8歳・崩御時9歳の幼帝であり親征の実態もない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
質帝在位(永憙元年正月〜本初元年閏六月、145〜146年)はわずか1年半だが、揚州・徐州・九江方面で盗賊・反乱の頻発期にあたり本紀に多数の鎮圧記事がある。日付は原典に月までは記載があるが西暦月への変換精度に確証が持てないため datePrecision は年精度で統一した。徐鳳の乱(沖帝代からの継続)と叛羌の投降(順帝・沖帝代からの継続の可能性)は、他の皇帝記録との重複計上を避けるため要相互照合。判断に迷う複数の境界事例を含むため全体confidenceはmediumとした。
被反乱回数
2026-07-16の被反乱算入基準訂正に基づき再検討。旧版count:0は誤りで、rebellionSuppressionCount.eventsの7件はいずれも政権への武装反抗であり鎮圧対象とされたため、例外規定(1〜4)のいずれにも該当せず1:1でrebellionSufferedCountにも計上した。質帝崩御(梁冀による『潜行鴆弑』=兵力を伴わない秘密の毒殺)は例外4の要件(兵力を伴う弑逆)を満たさないため引き続き算入しない。
遷都回数
後漢書本紀を通読。洛陽が建国から一貫した都で、在位中に追加の遷都記録はない(献帝期の洛陽→長安→許昌の遷都は献帝自身の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀の原文に直接記載あり。即位記事「丁巳,封為建平侯,其日即皇帝位,年八歳」より即位時年齢8歳(数え年)。崩御記事「閏月甲申,大将軍梁冀潜行鴆弑,帝崩於玉堂前殿,年九歳」より没年齢9歳(数え年)。中国正史の年齢記載は数え年が通例であり、他フィールドと換算不要。生年月日の直接記載は原文になく、没年齢からの逆算も生月日まで特定できないためbirthDateはnullとした(没年月日は既存reigns[0].endDate=0146-07-26と一致、干支「甲申」は本初元年閏六月に対応)。
在位中の出来事(16件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧145年広陵賊張嬰の再蜂起
首謀者: 張嬰
結果: 鎮圧成功
質帝即位直後(永憙元年正月)「広陵賊張嬰等復反、堂邑・江都の長を攻殺」。張嬰は汉安元年に一度太守張綱に投降していたが再蜂起。冬十一月丙午、中郎将滕撫がこれを撃破した(「中郎将滕撫撃広陵賊張嬰、破之」)。
反乱鎮圧145年九江賊徐鳳(無上将軍)の乱
首謀者: 徐鳳
結果: 鎮圧成功
沖帝建康元年十一月に「無上将軍」を自称して蜂起した徐鳳の残党が、質帝即位直後(正月)にも「曲陽・東城の長を攻殺」と活動継続。五月、下邳人謝安が義勇兵を募って徐鳳を斬殺した。沖帝代からの継続案件だが、最終的な鎮圧(斬殺)が質帝代に行われたため質帝側の鎮圧として計上。沖帝の記録と重複計上とならないよう要照合(medium confidence要因)。
反乱鎮圧145年九江賊馬免(自称黄帝)の乱
首謀者: 馬免(范容・周生と連合)
結果: 鎮圧成功
永憙元年三月、「九江賊馬免称黄帝」。范容・周生(順帝末期からの残党賊)と合流していたとみられ、九江都尉滕撫が「馬免・范容・周生を討ち、大破斬之」。
反乱鎮圧145年丹陽賊陸宮の乱
首謀者: 陸宮
結果: 鎮圧成功
夏四月頃、「丹陽賊陸宮等囲城、焼亭寺」。丹陽太守江漢がこれを撃破した。首謀者の政治的意図等の詳細は原文に記載なし。
反乱鎮圧145年廬江盗賊の尋陽・盱台攻撃
首謀者: 不詳(廬江盗賊)
結果: 鎮圧成功
秋七月頃、「廬江盗賊攻尋陽、又攻盱台」。滕撫が司馬王章を派遣し撃破した。首謀者名は原文に記載なし。
反乱鎮圧145年歴陽賊華孟(自称黒帝)の乱
首謀者: 華孟
結果: 鎮圧成功(ただし九江太守楊岑は殺害された)
冬十一〜十二月頃、「歴陽賊華孟自称黒帝、攻殺九江太守楊岑」。滕撫が諸将を率いて撃破・斬殺した。
被反乱145年広陵賊張嬰の再蜂起
首謀者: 張嬰
結果: 鎮圧された(中郎将滕撫が撃破)
質帝即位直後、広陵賊張嬰が再蜂起し堂邑・江都の長を攻殺。rebellionSuppressionCountの同名事件と対応。
被反乱145年九江賊徐鳳(無上将軍)の乱
首謀者: 徐鳳
結果: 鎮圧された(下邳人謝安が斬殺)
沖帝代からの継続反乱だが質帝正月にも曲陽・東城の長を攻殺し武装反抗継続。沖帝代記録との重複計上に注意。
被反乱145年九江賊馬免(自称黄帝)の乱
首謀者: 馬免(范容・周生と連合)
結果: 鎮圧された(滕撫が大破・斬首)
永憙元年三月挙兵、滕撫が撃破。
被反乱145年丹陽賊陸宮の乱
首謀者: 陸宮
結果: 鎮圧された(丹陽太守江漢が撃破)
夏四月頃、城を囲み亭舎を焼く武装蜂起。
被反乱145年廬江盗賊の尋陽・盱台攻撃
首謀者: 不詳(廬江盗賊)
結果: 鎮圧された(司馬王章が撃破)
秋七月頃、廬江盗賊が尋陽・盱台を攻撃。
被反乱145年歴陽賊華孟(自称黒帝)の乱
首謀者: 華孟
結果: 鎮圧された(滕撫が大破・斬首、九江太守楊岑は殺害)
冬十一〜十二月頃、九江太守楊岑を攻殺。
改元146年1月『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀、本初元年春正月丙申の詔により「本初」に改元。
『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀、本初元年春正月丙申の詔により「本初」に改元。質帝は永嘉元年(145年)正月丁巳に即位したが、即位当年は前代(沖帝期)の「永嘉」年号のまま推移し、翌年(146年)正月に「本初元年」として新元号を建てた。これを即位後最初の建元として1回に数える。丙申の正確な日付は月内の日付までは特定できたが、資治通鑑等での相互参照によるユリウス日換算は行っていないため月精度とした。
大赦146年6月『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀、本初元年六月丁巳「大赦天下,賜民爵及粟帛各有差」。
『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀、本初元年六月丁巳「大赦天下,賜民爵及粟帛各有差」。本紀中で質帝の治世(本初元年)に該当する大赦天下の記述はこの1回のみ。日単位の干支は判明しているが、本初元年六月の朔日からの正確な日付換算は行っていないため月精度とした。
反乱鎮圧日付不詳叛羌の左馮翊梁並への投降
首謀者: 不詳(叛羌)
結果: 投降(戦闘の記述なし)
永憙元年二月頃、「叛羌詣左馮翊梁並降」とのみ記述。開始時期・首謀者名の記載がなく、順帝・沖帝紀に見える一連の西羌反乱(焼当羌・焼何羌等、護羌校尉馬賢・趙冲らが転戦)の残党が質帝代に投降したものと推測される。新たな戦闘は記述されておらず、既存反乱の帰結を記録したのみの可能性が高いため低確度扱い。他の在位者(順帝・沖帝)の記録との重複計上に注意。
被反乱日付不詳叛羌の左馮翊梁並への投降
首謀者: 不詳(叛羌)
結果: 投降(左馮翊梁並に帰順、戦闘の記述なし)
順帝・沖帝代から続く西羌反乱の残党が質帝二月に投降。質帝即位当初も武装反抗状態継続とみて計上、他皇帝記録との重複に注意。