質帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 145年3月6日〜146年7月26日
- 没年
- 146年7月26日9歳(数え年)長生き順同率260位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 沖帝後漢質帝は沖帝の同族(遠縁)
- 次代
- 桓帝後漢桓帝は質帝の同族(遠縁)
- 呼び名
- 姓劉諱纘呼び名の見方
出典
- 在位
- 後漢書 巻六 孝順孝沖孝質帝紀
- 死因
- 後漢書 巻六 孝順孝沖孝質帝紀
- 即位経路
- 後漢書・
本紀第七章 孝順孝沖孝質帝紀
生涯
どんな皇帝か
後漢書の賛は、聡明であったがゆえに弑されたと総括する。
即位まで
父は勃海孝王鴻で、母の陳夫人は魏郡の出であり、若くして歌舞の芸人として孝王の宮に入り、寵愛を受けて劉纘を生んだ。沖帝が病むと、大将軍将軍の中でも特に高い位梁冀は劉纘を洛陽の都亭に召した。李固が年長で徳のある清河王蒜を立てるよう求めても、梁冀は従わなかった。劉纘は建平侯に封じられたその日に8歳で即位し、梁太后がなお朝政を執った。
史料について
五行志は、145年夏の旱を、幼い者を立てて徳を用いなかったしるしと解する。
治世と最期
在位中、広陵や九江で賊が反し、歴陽の華孟は黒帝を称した。146年には、大将軍から六百石までの官に子を太学都に置かれた国の最高の学校で学ばせる令が出された。
幼くして聡明だった質帝は梁冀の驕りを知り、朝会で梁冀を見て、これは跋扈将軍だと言い、梁冀は深く憎んだ。146年、梁冀は左右に命じて毒を入れた餅を進めさせ、質帝はその日のうちに玉堂前殿で没した。苦しむ質帝は李固を召して、餅を食べて腹が苦しい、水をもらえばまだ助かると言ったが、傍らの梁冀が、吐くおそれがあるので水を飲ませてはならないと言い、その言葉が終わらぬうちに息絶えた。李固は遺骸に伏して号泣した。質帝の死後も李固は清河王蒜を推したが、梁冀は太后に説いて李固を罷免させ、蠡吾侯を立てた。159年に梁冀が妻とともに自殺すると、桓帝の詔は、質帝が聡敏であったので梁冀が忌み恐れて毒殺したと述べた。生母の陳夫人は称号を与えられず、175年に霊帝がようやく渤海孝王妃とした。
史料について
本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は鴆毒鴆という鳥の羽からとるとされた猛毒で弑したとだけ書く。跋扈将軍の言は梁冀の伝に、餅の話は梁冀の伝と李固の伝に見え、資治通鑑は両方を取る。袁宏の後漢紀は跋扈将軍の語を本文に載せず、帝が梁冀の専権をたびたび口にしたためとする。
質帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱7・改元1・大赦2
- 反乱145年広陵賊張嬰の再蜂起
- 反乱145年九江賊徐鳳(無上将軍)の乱
- 反乱145年九江賊馬免(自称黄帝)の乱
- 反乱145年丹陽賊陸宮の乱
- 反乱145年廬江盗賊の尋陽・
盱台攻撃 - 反乱145年歴陽賊華孟(自称黒帝)の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。145年4月3日永憙元年二月乙酉の大赦。
- 改元146年元号を「本初」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。146年7月
- 反乱日付不詳叛羌の左馮翊梁並への投降
後漢の歴代皇帝
歴代14人の一覧年表
後漢の時代を年表で見る
後漢が