閻太后と兄の閻顕が立てた幼い皇族で、125年に即位し、その年のうちに没した後漢の皇帝である。皇后紀は、太后が長く国政を握るため幼い者を選んだとする。
少帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 125年5月18日〜125年12月10日
- 没年
- 125年12月10日年齢不詳
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱懿別名少帝懿呼び名の見方
出典
- 在位
- 後漢書 巻五 孝安帝紀(即位)/巻十下 皇后紀下(在位日数)
- 死因
- 後漢書・
巻十下 皇后紀下(閻皇后傳) - 即位経路
- 後漢書・
巻五 孝安帝紀(末尾)/巻六 孝順孝沖孝質帝紀
生涯
どんな皇帝か
在位は1年に満たず、改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることもしなかった。
即位まで
治世と最期
即位してまもなく、閻顕は耿宝の権勢を妬んで役人に上奏させ、耿宝を亭侯に落として国へ帰らせて自殺に至らせ、樊豊らを獄死させ、乳母の王聖を雁門へ移した。以後は閻氏の兄弟が要職を占めた。閻顕の府にいた崔瑗は、この擁立は正しくないとみて、少帝を廃して済陰王を立てるよう説こうとしたが、閻顕は毎日酒に酔っていて会えなかった。馬融は少帝が立つと病と称して朝廷を去った。
即位して二百余日で病が重くなった。宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の孫程は、少帝が起き上がれなければ江京と閻顕を斬ろうと謀り、司徒朝廷で最も位の高い大臣の一つの李郃も順帝を立てる謀をめぐらせた。125年に没すると、閻顕と江京らは喪を伏せ、諸国の王子を召して宮門を閉ざした。孫程ら十九人が江京らを斬って済陰王を迎え立て、閻顕兄弟は誅された。
少帝は諸王王に取り立てられた皇族たちの礼で葬られた。136年、災異天の戒めとされた天災や怪しい出来事が続くので順帝の詔が尊い諡を加えるべきだと諮り、群臣の多くも賛成したが、周挙はただ一人、奸臣が立てた者で正統ではないとして反対し、司徒の黄尚ら70人がこれに同調して、順帝はこれに従った。
史料について
崔瑗は、少帝は即位して廟の中で発病したと述べている。生年も病名も、後漢書の安帝紀・順帝紀・皇后紀と資治通鑑には書かれていない。
少帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・大赦1
- 反乱120年4月〜125年8月車師後部の叛乱(車師後王の叛乱)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。125年8月6日延光四年六月乙巳の大赦。
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