中国皇帝統計

安帝

後漢|在位 106–125年

諱(本名)
劉祜
廟号
恭宗
在位
106–125年
在位期間
18年224日365名中60位
即位経路
擁立
死因
病死
即位時年齢
13歳(数え年)172名中・若い順40位タイ
没年齢
32歳(数え年)269名中・長寿順180位タイ
改元
5332名中18位タイ
大赦
10267名中38位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
0
反乱鎮圧
14225名中28位タイ
被反乱
14289名中33位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:安帝

即位の経緯

殤帝崩御後、鄧太后が兄鄧騭と禁中で選定を決め、長安侯であった劉祜(清河孝王劉慶の子、章帝の孫)を和帝の後嗣として迎立した(「太后與兄車騎將軍鄧騭定策禁中……迎帝」)。血縁上は章帝の孫で直系ではなく太后主導の擁立。

出典: 後漢書・巻五 孝安帝紀/巻十下 皇后紀下(和熹鄧皇后)

死因の経緯

地方巡幸(南陽方面)の途中、宛で体調不良を発症し、葉を通過中に乗輿の上で崩御(32歳)。具体的病名の記載はないが不審死を示す記述もない。

出典: 後漢書・巻五 孝安帝紀補記: 崩御の基本情報のみで死因の詳細記述が乏しいためconfidence: medium。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

『後漢書』孝安帝紀原文(HTML本文を直接取得し精査)に基づく。安帝は永初・元初・永寧・建光・延光の5元号を使用(即位年の延平は殤帝からの継続で安帝自身の建元ではないため、翌年正月の永初改元を即位後最初の改元としてevents[0]に計上)。5回いずれも本紀に明記された改元記事あり。

大赦回数

『後漢書』孝安帝紀原文(HTML本文を直接取得・精査)に基づく。本紀全体で『大赦天下』は計11回出現するが、うち末尾の『六月乙巳,大赦天下』は安帝崩御・北郷侯(少帝懿)即位後の記事(『乙酉,北鄉侯即皇帝位。夏四月丁酉…己酉,葬孝安皇帝于恭陵…六月乙巳,大赦天下』)であり安帝在位中の事績ではないため除外し、安帝在位中の10回のみを計上した。日付は干支のみで西暦月日への厳密変換(ユリウス通日等)は本タスクでは行っておらず、月精度に留めた。

立后回数

『後漢書』孝安帝紀原文で『立貴人閻氏為皇后』を直接確認。元初元年(114)の記事群の直後、『二年春正月』で始まる元初二年(115)の記事中に位置する(本紀は『二年』のように前年の元号を省略する慣例表記のため元初二年と特定)。在位中に他の立后記事はなく1回のみ。

皇太子廃立回数

『後漢書』孝安帝紀原文で『九月丁酉,廢皇太子保為濟陰王』を直接確認。立太子は永寧元年(120)4月丙寅で、廃立は延光三年(124)9月丁酉の1回のみ。他に皇太子が廃された記事はない。

親征回数

『後漢書』孝安帝紀を通読したが「帝自将」「上自将兵」等、皇帝本人が軍を率いて出陣したことを示す記述は見当たらない。延光三年二月の東巡狩(岱宗・明堂での封禅・祭祀)、延光四年二月の南巡狩(章陵祠廟参拝中に崩御)はいずれも祭祀・視察目的の巡幸であり、軍を率いた親征ではないため対象外とした。西羌・南匈奴・南方蛮夷等の反乱鎮圧はすべて車騎将軍・度辽将軍・護羌校尉・州郡兵など将帥への派遣によるもので、皇帝本人の出陣は確認できない。

反乱鎮圧回数

西羌(先零羌・沈氐羌・焼当羌・虔人羌)・南匈奴・西南夷(越巂夷・武陵蛮・蒼梧鬱林合浦蛮夷・旄牛夷)・漢陽の漢人蜂起(杜琦・王信)・海賊(張伯路)・西域諸国・雁門烏桓等、いずれも郡県または校尉・都護支配下にあった服属集団の蜂起として計上した。永寧元年三月の「車師後王叛,杀部司马」は西域都護が永初元年六月に既に廃止されており、当時の車師が漢の直接支配下・服属下にあったか判断が難しいため反乱に含めなかった(除外)。鮮卑単独の寇掠(複数回登場)や夫餘・秽貊等の異民族の侵寇は非服属の外部勢力による侵攻とみなし反乱に含めていない。長期にわたる先零羌の乱は指導者の親子継承をまたぐため一体化の判断にやや幅があり、また複数年にまたがる西南夷の反乱の区切り方にも解釈の余地があるため、全体としてconfidenceをmediumとした。

被反乱回数

2026-07-16基準訂正により再算定。rebellionSuppressionCountの14件(西域諸国・先零羌等西羌諸種・南匈奴単于/左日逐王・海賊張伯路・漢陽の漢人杜琦王信・武陵蛮・蒼梧鬱林合浦蛮夷・越巂夷等西南夷・沈氐羌・焼当羌・虔人羌・雁門烏桓)はいずれも郡県・校尉・都護支配下にあった服属集団による武装蜂起で、朝廷側がこれを鎮圧の対象とした事例であり、鎮圧側と同一の反乱群を両面から集計する原則に従い全14件を被反乱側にも計上した(粒度差・在位終了時未鎮圧・皇帝側先制攻撃・宮廷内クーデターのいずれの例外事由にも該当しないため1:1対応)。一方、永初元年十一月の司空周章「密谋废立」は発覚前に策免・自殺に追い込まれ実際の兵力行使に至っていない未遂の謀反計画のため対象外を維持。安帝末期の閻皇后一派による鄧騭・鄧遵の自殺強要等は兵力を用いた弑逆・廃位のクーデターではなく宮廷内の讒言・粛清のため対象外を維持。北郷侯懿の擁立とそれに続く政変は延光四年(125年)三月・四月の安帝崩御後の出来事であり在位期間外のため対象外を維持。

遷都回数

後漢書本紀を通読。洛陽が建国から一貫した都で、在位中に追加の遷都記録はない(献帝期の洛陽→長安→許昌の遷都は献帝自身の代の出来事として計上済み)。

即位時年齢・没年齢

『後漢書』孝安帝紀「丁卯,帝崩于乘舆,年三十二」(延光四年〔125年〕、数え年)と直接記載。生年は125-32+1=94年と逆算(数え年基準、原文に生年月日の直接記載はないためbirthDatePrecisionはyear)。即位(延平元年〔106年〕)時点の年齢は106-94+1=13歳(数え年)で逆算。deathDateはreigns配列の最終endDate(0125-04-30)と一致(原文の崩御記事は月日を干支のみで記載、既存reignsのdate精度に準拠)。deathCause.noteの「32歳で崩御」とも整合。

在位中の出来事(45件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧106年9月西域諸国の叛乱(対都護任尚)

首謀者: 西域諸国(都護支配下の諸国)

結果: 副校尉梁慬の救援により撃破・鎮圧成功

延平元年秋、安帝即位直後。当時まだ西域都護は健在(廃止は永初元年六月)で西域諸国は都護の管轄下にあったため服属勢力の蜂起として計上。

被反乱106年9月西域諸国の叛乱(対都護任尚)

首謀者: 西域諸国(都護支配下の諸国)

結果: 副校尉梁慬の救援により撃破・鎮圧成功

延平元年秋、安帝即位直後。当時まだ西域都護は健在(廃止は永初元年六月)で西域諸国は都護の管轄下にあったため服属勢力の蜂起として計上。

改元107年永初元年正月癸酉朔、即位翌年の建元(延平から永初への改元)。

永初元年正月癸酉朔、即位翌年の建元(延平から永初への改元)。原文:『永初元年春正月癸酉朔,大赦天下。』(『改元』の語は明記されないが、和帝崩御後の殤帝の元号『延平』を経て、安帝即位翌年正月から新元号『永初』を用いる本紀の記事構成上、これを即位後最初の建元とした)

大赦107年永初元年春正月癸酉朔,大赦天下(改元と同時、即位後初の大赦)。

永初元年春正月癸酉朔,大赦天下(改元と同時、即位後初の大赦)。原文:『永初元年春正月癸酉朔,大赦天下。』

反乱鎮圧107年6月〜117年12月永初西羌の大乱(先零羌の乱)

首謀者: 先零羌(初期指導者不詳→滇零→子の零昌)

結果: 永初元年に断陇道・寇掠で開始し、滇零が北地で自立して天子を称し三輔・益州にまで拡大。滇零死後は子の零昌が継承したが、元初四年に護羌校尉任尚が刺客で零昌を暗殺、同年十二月に富平上河で大破し虔人羌も投降、陇右平定に至った(鎮圧成功)。

同一部族(先零種羌)による11年にわたる継続的な反乱で、指導者は親子継承(先零羌→滇零→零昌)のため史料の一体的記述に従い1件として計上した(判断に幅がありうるためconfidence mediumの一因)。途中、車騎将軍鄧騭・征西校尉任尚らがたびたび敗北しているが、最終的に鎮圧に成功している。

被反乱107年6月〜117年12月永初西羌の大乱(先零羌の乱)

首謀者: 先零羌(初期指導者不詳→滇零→子の零昌)

結果: 永初元年に断陇道・寇掠で開始し、滇零が北地で自立して天子を称し三輔・益州にまで拡大。滇零死後は子の零昌が継承したが、元初四年に護羌校尉任尚が刺客で零昌を暗殺、同年十二月に富平上河で大破し虔人羌も投降、陇右平定に至った(鎮圧成功)。

同一部族(先零種羌)による11年にわたる継続的な反乱で、指導者は親子継承(先零羌→滇零→零昌)のため史料の一体的記述に従い1件として計上した(判断に幅がありうるためconfidence mediumの一因)。途中、車騎将軍鄧騭・征西校尉任尚らがたびたび敗北しているが、最終的に鎮圧に成功している。

大赦109年永初三年正月庚子,皇帝加元服し大赦天下。

永初三年正月庚子,皇帝加元服し大赦天下。原文:『三年春正月庚子,皇帝加元服。大赦天下。』

反乱鎮圧109年7月〜110年1月海賊張伯路の乱

首謀者: 張伯路

結果: 永初三年七月に一旦撃破されたが、翌年正月頃に渤海・平原の刘文河・周文光らと再挙し厌次を攻撃、御史中丞王宗・青州刺史法雄により討破され鎮圧成功。

沿海九郡を荒らした海賊で、同一首謀者張伯路による継続的反乱として1件に統合。

被反乱109年7月〜110年1月海賊張伯路の乱

首謀者: 張伯路

結果: 永初三年七月に一旦撃破されたが、翌年正月頃に渤海・平原の刘文河・周文光らと再挙し厌次を攻撃、御史中丞王宗・青州刺史法雄により討破され鎮圧成功。

沿海九郡を荒らした海賊で、同一首謀者張伯路による継続的反乱として1件に統合。

反乱鎮圧109年9月雁門烏桓・鮮卑の反乱

首謀者: 雁門烏桓(鮮卑と連合)

結果: 五原郡兵が高渠谷で敗れたと記されるのみで、その後の鎮圧結果は本紀に明記されていない。

護烏桓校尉の管轄下にあった烏桓(服属集団)が非服属の鮮卑と連合して蜂起した記述。鮮卑単独の寇掠は服属集団でないため反乱に含めていないが、本件は烏桓(服属)が主体として明記されているため計上した。confidence medium。

被反乱109年9月雁門烏桓・鮮卑の反乱

首謀者: 雁門烏桓(鮮卑と連合)

結果: 五原郡兵が高渠谷で敗れたと記されるのみで、その後の鎮圧結果は本紀に明記されていない。

護烏桓校尉の管轄下にあった烏桓(服属集団)が非服属の鮮卑と連合して蜂起した記述。鮮卑単独の寇掠は服属集団でないため反乱に含めていないが、本件は烏桓(服属)が主体として明記されているため計上した。confidence medium。

反乱鎮圧109年10月〜110年3月南匈奴単于の反乱

首謀者: 南単于

結果: 中郎将耿種を美稷で包囲したが、車騎将軍何熙・度遼将軍梁慬らの討伐を受け、永初四年三月に南単于が投降し鎮圧成功。

服属下の南匈奴単于による蜂起。

被反乱109年10月〜110年3月南匈奴単于の反乱

首謀者: 南単于

結果: 中郎将耿種を美稷で包囲したが、車騎将軍何熙・度遼将軍梁慬らの討伐を受け、永初四年三月に南単于が投降し鎮圧成功。

服属下の南匈奴単于による蜂起。

大赦110年永初四年四月丁丑,大赦天下。

永初四年四月丁丑,大赦天下。原文:『夏四月,六州蝗。丁丑,大赦天下』

反乱鎮圧111年9月〜112年6月漢陽の杜琦・王信の乱

首謀者: 杜琦・王信

結果: 漢陽太守趙博が刺客を送り杜琦を暗殺、翌年侍御史唐喜が王信を討ち斬り鎮圧成功。

漢陽の漢人住民による蜂起で、先零諸種羌と連携して上邽城を陥落させたが、指導者が明確に漢人の杜琦・王信と記されるため先零羌の乱とは別件として計上。

被反乱111年9月〜112年6月漢陽の杜琦・王信の乱

首謀者: 杜琦・王信

結果: 漢陽太守趙博が刺客を送り杜琦を暗殺、翌年侍御史唐喜が王信を討ち斬り鎮圧成功。

漢陽の漢人住民による蜂起で、先零諸種羌と連携して上邽城を陥落させたが、指導者が明確に漢人の杜琦・王信と記されるため先零羌の乱とは別件として計上。

大赦112年永初六年六月辛巳,大赦天下。

永初六年六月辛巳,大赦天下。原文:『六月壬辰,豫章、員谿、原山崩。辛巳,大赦天下。』

改元114年元初元年正月甲子,改元元初。

元初元年正月甲子,改元元初。原文:『元初元年春正月甲子,改元元初。』

大赦114年元初元年四月丁酉,大赦天下。

元初元年四月丁酉,大赦天下。原文:『夏四月丁酉,大赦天下。』

立后115年元初二年四月丙午,貴人閻氏を皇后に立てた。

元初二年四月丙午,貴人閻氏を皇后に立てた。原文:『夏四月丙午,立貴人閻氏為皇后。』(閻皇后。後の延光三年の皇太子保廃立にも関与したとされる)

反乱鎮圧115年12月〜116年7月武陵蛮の反乱

首謀者: 武陵澧中蛮(首魁不詳)

結果: 元初二年十二月に叛き州郡が撃破、その後元初三年五月・七月に再叛したがいずれも州郡により討平され鎮圧成功。

同一地域・同一集団の断続的な蜂起として1件に統合。

被反乱115年12月〜116年7月武陵蛮の反乱

首謀者: 武陵澧中蛮(首魁不詳)

結果: 元初二年十二月に叛き州郡が撃破、その後元初三年五月・七月に再叛したがいずれも州郡により討平され鎮圧成功。

同一地域・同一集団の断続的な蜂起として1件に統合。

反乱鎮圧116年2月〜116年11月蒼梧・鬱林・合浦蛮夷の反乱

首謀者: 蒼梧・鬱林・合浦蛮夷(首魁不詳)

結果: 侍御史任逴が州郡兵を率いて討伐、同年十一月に投降し鎮圧成功。

被反乱116年2月〜116年11月蒼梧・鬱林・合浦蛮夷の反乱

首謀者: 蒼梧・鬱林・合浦蛮夷(首魁不詳)

結果: 侍御史任逴が州郡兵を率いて討伐、同年十一月に投降し鎮圧成功。

大赦117年元初四年二月乙卯,大赦天下。

元初四年二月乙卯,大赦天下。原文:『四年春二月乙巳朔,日有食之。乙卯,大赦天下。』

反乱鎮圧118年1月〜119年越巂夷等西南夷の反乱

首謀者: 越巂夷・旄牛豪(後に永昌・益州蜀郡夷も合流)

結果: 元初五年正月に越巂夷が叛き、七月には旄牛豪も合流して長吏を殺害。元初六年(是歳条)に永昌・益州蜀郡夷も叛いて越巂夷と共に長吏殺害・城邑焼却したが、益州刺史張喬が討破し投降させ鎮圧成功。

複数年・複数記事にまたがるが、越巂夷を中心とする一連の西南夷蜂起として1件に統合した(confidence medium)。

被反乱118年1月〜119年越巂夷等西南夷の反乱

首謀者: 越巂夷・旄牛豪(後に永昌・益州蜀郡夷も合流)

結果: 元初五年正月に越巂夷が叛き、七月には旄牛豪も合流して長吏を殺害。元初六年(是歳条)に永昌・益州蜀郡夷も叛いて越巂夷と共に長吏殺害・城邑焼却したが、益州刺史張喬が討破し投降させ鎮圧成功。

複数年・複数記事にまたがるが、越巂夷を中心とする一連の西南夷蜂起として1件に統合した(confidence medium)。

改元120年永寧元年四月丙寅,皇子保を皇太子に立てると同時に改元永寧。

永寧元年四月丙寅,皇子保を皇太子に立てると同時に改元永寧。原文:『夏四月丙寅,立皇子保為皇太子,改元永寧,大赦天下。』

大赦120年永寧元年四月丙寅,皇子保を皇太子に立て、永寧に改元すると同時に大赦天下。

永寧元年四月丙寅,皇子保を皇太子に立て、永寧に改元すると同時に大赦天下。原文:『夏四月丙寅,立皇子保為皇太子,改元永寧,大赦天下。』

反乱鎮圧120年〜122年焼当羌の反乱

首謀者: 焼当羌

結果: 永寧元年末に叛き、建光元年八月の護羌校尉馬賢による討伐は失敗(不利)。延光元年十二月に「焼光羌」(焼当羌と同一集団とみられる)が投降し終結。

「焼当羌」と「焼光羌」の表記揺れがあるが同一集団の継続的反乱とみなし1件に統合(confidence medium)。

被反乱120年〜122年焼当羌の反乱

首謀者: 焼当羌

結果: 永寧元年末に叛き、建光元年八月の護羌校尉馬賢による討伐は失敗(不利)。延光元年十二月に「焼光羌」(焼当羌と同一集団とみられる)が投降し終結。

「焼当羌」と「焼光羌」の表記揺れがあるが同一集団の継続的反乱とみなし1件に統合(confidence medium)。

反乱鎮圧120年3月〜120年6月沈氐羌の反乱

首謀者: 沈氐種羌

結果: 永寧元年三月に張掖に侵寇、六月に護羌校尉馬賢が討破し鎮圧成功。

被反乱120年3月〜120年6月沈氐羌の反乱

首謀者: 沈氐種羌

結果: 永寧元年三月に張掖に侵寇、六月に護羌校尉馬賢が討破し鎮圧成功。

改元121年建光元年七月己卯,改元建光。

建光元年七月己卯,改元建光。原文:『秋七月己卯,改元建光,大赦天下。』

大赦121年建光元年二月癸亥、大赦天下。

建光元年二月癸亥、大赦天下。原文:『二月癸亥,大赦天下。』

大赦121年建光元年七月己卯、建光に改元すると同時に大赦天下。

建光元年七月己卯、建光に改元すると同時に大赦天下。原文:『秋七月己卯,改元建光,大赦天下。』

改元122年延光元年三月丙午,改元延光。

延光元年三月丙午,改元延光。原文:『三月丙午,改元延光。大赦天下。』延光は安帝が最後に用いた元号で、延光四年(125)3月に安帝は崩御した。

大赦122年延光元年三月丙午、延光に改元すると同時に大赦天下。

延光元年三月丙午、延光に改元すると同時に大赦天下。原文:『三月丙午,改元延光。大赦天下。』

反乱鎮圧122年7月虔人羌の反乱

首謀者: 虔人羌

結果: 谷羅城を攻撃したが度遼将軍耿夔が討破し鎮圧成功。

元初四年(117年)に投降した虔人羌とは別の再度の蜂起。

被反乱122年7月虔人羌の反乱

首謀者: 虔人羌

結果: 谷羅城を攻撃したが度遼将軍耿夔が討破し鎮圧成功。

元初四年(117年)に投降した虔人羌とは別の再度の蜂起。

反乱鎮圧123年1月旄牛夷の反乱

首謀者: 旄牛夷

結果: 霊関に侵寇し県令を殺害、益州刺史・蜀郡西部都尉が討伐したが結果は本紀に明記されていない。

永初五年(118年)の旄牛豪の蜂起とは数年の間隔があり別件として計上。confidence medium。

被反乱123年1月旄牛夷の反乱

首謀者: 旄牛夷

結果: 霊関に侵寇し県令を殺害、益州刺史・蜀郡西部都尉が討伐したが結果は本紀に明記されていない。

永初五年(118年)の旄牛豪の蜂起とは数年の間隔があり別件として計上。confidence medium。

皇太子廃立124年延光三年九月丁酉,皇太子保(後の順帝)を廃して済陰王とした。

延光三年九月丁酉,皇太子保(後の順帝)を廃して済陰王とした。原文:『九月丁酉,廢皇太子保為濟陰王。』背景として、安帝の乳母王聖・中常侍樊豐・江京らが皇太子を讒言したとされる(『後漢書』杜樂劉李劉謝列傳等に『延光中中常侍樊豐帝乳母王聖共譖皇太子廢爲濟陰王』の記述あり)。延光四年(125)安帝崩御後、済陰王保は順帝として擁立され復位した。

反乱鎮圧124年5月南匈奴左日逐王の反乱

首謀者: 南匈奴左日逐王

結果: 匈奴中郎将馬翼が討破し鎮圧成功。

永初年間の南単于の反乱とは別の指導者による反乱として計上。

被反乱124年5月南匈奴左日逐王の反乱

首謀者: 南匈奴左日逐王

結果: 匈奴中郎将馬翼が討破し鎮圧成功。

永初年間の南単于の反乱とは別の指導者による反乱として計上。

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