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金第10代

末帝完顔承麟

在位 1234年(1日未満)1234年2月9日 〜 1234年2月9日

日本は鎌倉時代

金の最後の皇帝で、蔡州の籠城のさなかに哀宗から位を譲られ、即位したその日に城が落ち、乱戦の中で兵に殺された皇帝である。

末帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1234年2月9日〜1234年2月9日
1日未満長い順365位/365人即位の年齢は不詳
没年
1234年2月9日年齢不詳
死因
同じ死因8人/365人
即位経路
先代
  • 哀宗金末帝は哀宗の同族(遠縁)
次代
—
呼び名
姓完顔諱承麟呼び名の見方

出典

在位
金史 本紀十八 哀宗紀下(末帝承麟附録)
死因
金史 巻十八(哀宗本紀下)
即位経路
金史 巻十八(哀宗本紀下)

生涯

即位まで

金の世祖の諸孫の系統に出て、兄に白撒がいた。白撒が罪を問われて囚われ七日で餓死すると、承麟は白撒の子とともに徐州へ移された。1233年、蔡州で城の守りを分けたとき、東面を守る孛術魯婁室の副となった。四面から攻められて独りで救援に苦しんだ完顔仲徳が、婁室に代えて承麟を東面に推し、1234年の初め、から東面元帥・権総帥に任じられた。城が落ちる前の夜、哀宗はを集めて承麟に位を伝えようとし、承麟は固く辞退した。哀宗は、自分は体が肥えて馬で駆け抜けられないが、承麟は敏捷で将略があり、万一逃れれば皇統が絶えないと詔して、位を託した。

史料について

大金国志はの日時を別に記し、地に伏して泣く承麟に哀宗が自ら符璽を授けたとする。

治世と最期

翌日に即位し、祝賀の礼が終わるとすぐに一同が出て敵を防いだが、南面にはすでに敵の旗が立っていた。忠孝軍元帥の蔡八児は新帝に拝さず、もう一人の君に仕えることはできないと言って戦死した。

南面の守兵が門を棄てて大軍が城に入り、哀宗は幽蘭軒で自ら首をくくった。末帝は子城に退いて守り、哀宗の死を聞くと群臣を率いて哭し、哀と諡した。哭奠が終わらないうちに城が潰え、末帝は乱兵に殺されて、金は滅んだ。

史料について

大金国志は、拝さなかったのは蔡八児一人だったとする。続資治通鑑と大金国志は、先帝が勤倹寛仁で旧業の回復を志しながら果たせなかったという諡の理由を、末帝の言葉として載せる。宋史・続資治通鑑・大金国志・新元史も乱兵に殺されたとするが、元史の太宗紀は捕らえてから殺したと記す。金史の列伝に末帝の伝は無く、も生年や年齢を記さない。

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