末帝
金|在位 1234年
- 諱(本名)
- 完顔承麟
- 在位
- 1234年
- 在位期間
- 1日未満365名中365位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 戦死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
哀宗が蔡州陥落必至と判断し、正式な譲位の詔をもって承麟に伝位。辞退→詔→即位→百官祝賀という正式な禅譲の手続きを踏んでいる。
出典: 金史 巻十八(哀宗本紀下)
死因の経緯
即位式直後、蔡州城壁陥落による乱軍との市街戦の中で死亡。「末帝为乱兵所害,金亡」。
出典: 金史 巻十八(哀宗本紀下)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
金史巻十八(哀宗本紀下)によれば、天興三年正月戊申の夜、哀宗が東面元帥完顔承麟に譲位(「伝位於東面元帥承麟」)、承麟は固辞したが翌己酉の日に即皇帝位。百官の祝賀の礼が終わるや否や城外に出て防戦し、程なく哀宗自縊、蔡州城陥落という経過で、末帝の在位中に新元号への改元(建元)を行った記録は一切ない。元号は哀宗期の「天興」(三年)がそのまま継続使用されており、改元は行われなかったためカウントしない。
大赦回数
末帝(完顔承麟)の在位は天興三年正月戊申夜~己酉の即位からその日のうちの蔡州陥落・戦死までの極めて短期間(数時間~半日程度)で、金史巻十八にはこの間に大赦(大赦天下)が行われた記載は一切ない。なお在位前、哀宗期に「赦河朔」「曲赦蔡州管内」等の恩赦記事はあるが、いずれも哀宗が発した詔であり範囲も限定的(河朔・蔡州管内のみ)で、全国規模の「大赦天下」ではなく、また末帝自身の治世下の出来事でもないため対象外とした。
立后回数
在位が数時間程度と極めて短く、金史巻十八・后妃伝等に末帝が皇后を冊立したとする記載はない。承麟は即位直後に蔡州陥落・戦死しており、そもそも皇后を立てる時間的余裕がなかったと考えられる。
皇太子廃立回数
在位が数時間程度と極めて短く、金史巻十八・関連列伝のいずれにも末帝の治世下で皇太子(または皇太弟等)を立てた、あるいは廃した記録は存在しない。
親征回数
原文キャッシュ(戊申夜の哀宗譲位〜己酉即位〜城陥落による戦死までの短文)には承麟自身が軍を率いて出征した記述はない。即位式終了直後に「亦出捍敌」(出て防戦にあたった)とあるが、これは既に包囲されていた蔡州城内での防衛戦闘であり、外征・親征ではない。在位数時間のため親征の機会自体がなかった。
反乱鎮圧回数
原文に承麟が反乱を鎮圧した記述なし。城内での「乱軍」との市街戦は、モンゴル・南宋連合軍による蔡州城陥落に伴う攻城戦であり対外戦争(本ブロックのルールにより鎮圧・被反乱の対象外)。
被反乱回数
承麟は乱軍(城壁を突破したモンゴル・南宋連合軍)に殺害された(「末帝为乱兵为害,金亡」)が、これは対等勢力(モンゴル・南宋)による対外戦争・攻城戦の帰結であり、本ブロックのルールにより国内反乱には該当しないため計上しない。朝廷内部の権力者によるクーデター・弑逆でもない。
遷都回数
金史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(上京→中都は海陵王期、中都→南京は宣宗期の出来事として各々計上済み。哀宗期の帰徳・蔡州への移動は滅亡直前の戦時避難で恒久的遷都と認められず対象外)。
即位時年齢・没年齢
既存ノート(ages: null)・原文キャッシュいずれにも承麟の生年・年齢に関する記載なし(「時年」「年◯◯」等の表現は本文中に登場しない)。原文キャッシュ自体が哀宗崩御〜承麟即位・戦死までの短い一節のみで、これが原文の全情報量。調査済みだが生年・即位時年齢・没年齢とも不明として確定する。