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金第9代

哀宗完顔守緒

在位 1223–1234年(10年25日)1224年1月15日 〜 1234年2月9日 ( 1223年12月23日から)

日本は鎌倉時代

モンゴルに追われて汴京から帰徳、蔡州へと移り、落城の直前に位を譲って自ら命を絶った金の皇帝である。

哀宗の人物データ

生年
1198年9月25日
在位
  • 1224年1月15日〜1234年2月9日 1223年12月23日から
10年25日長い順133位/365人26歳で即位(数え年)
没年
1234年2月9日37歳(数え年)長生き順同率148位/266人
死因
同じ死因15人/365人
即位経路
先代
  • 宣宗金哀宗は宣宗の子
次代
  • 末帝金末帝は哀宗の同族(遠縁)
呼び名
女真名寧甲速呼び名の見方

出典

在位
金史 巻十七 哀宗紀上/巻十八 哀宗紀下
死因
金史 巻十八(哀宗本紀下)
即位経路
金史 巻九十九(撒合輦伝)/巻十七(哀宗本紀上)

生涯

即位まで

宣宗の第三子で、生母は明恵皇后王氏だが、子の無い仁聖皇后に我が子として育てられた。1216年に皇太子となった。1224年の初めに宣宗が没すると、先に宮中に入っていた異母兄の守純を見張らせて、柩の前で即位した。

史料について

即位を、金史の哀宗紀は宣宗が没した翌日とし、宣宗紀は守純を監禁してから柩の前で即位したと続けて書く。

治世と最期

謀反を告げられて獄に下った兄の守純を、生母の皇太后に、章宗をまねるのかと叱られて赦した。皇族が主簿を殺して権貴が助命を求めると、一族の子が許されるならわが民に主はいないと言って斬らせた。

1232年、三峰山で金軍がモンゴル軍に大敗し、以後金の兵は立ち直らなかった。汴京が攻められると、城に出て将士を慰め、自ら戦傷者に薬を塗った。1233年の初めに汴京を発ち、白撒に衛州を攻めさせたが果たせず、白撒の謀に従って夜のうちに軍を捨て、帰徳へ逃れた。白撒は獄に下されて罪を布告され、獄中で死んだ。太后と皇后を連れ帰れず、自分の身内だけを連れて来た徒単四喜らは斬った。蔡州に入ると亭の修理を命じたが、完顔仲徳に諫められてすぐ止め、民の娘を後宮に選ばせた件も仲徳に諫められて、一人を残して帰した。宋に食糧を借りようとしたが、宋はかえってモンゴルの蔡州攻めを助けた。

1234年の初め、西の城壁が崩されると、亡国の君として辱めは受けないと言った。まもなく、体が肥えて馬で駆けられないとして承麟に位を伝えた。承麟が即位した直後に城が破られ、哀宗は幽蘭軒で首をくくった。承麟もまもなく乱兵に殺され、金は滅んだ。

史料について

金史の白撒伝は、衛州攻めはもともと蒲察官奴の発案で、白撒のせいにするのは行き過ぎだとの議論も記す。金史は承麟が群臣と哭して哀宗と諡したとだけ書き、大金国志と続資治通鑑は、承麟が、勤倹で寛仁だった先帝を哀と諡そうと言ったとする。息州の諸帥は昭宗と諡した。金史の賛は、哀宗の代にはもはや為し得ることが無かったとし、国君はに死すという礼に照らして恥じるところは無いと評する。

哀宗とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1223年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1223–1233年の地図に、哀宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱13・皇后1・改元3・大赦4
  1. 1224年1月16日( 1223年12月24日)
  2. 改元1224年1月22日元号を「正大」とする
  3. 1224年4月26日
  4. 皇后1224年7月13日皇后を立てる
  5. 改元1232年元号を「開興」とする
  6. 改元1232年元号を「天興」とする
  7. 1232年
  8. 1232年
  9. 反乱日付不詳田瑞の乱
  10. 反乱日付不詳扶溝・銭大亨・李鈞の乱
  11. 反乱日付不詳許州軍変
  12. 反乱日付不詳陝州・趙偉の叛乱
  13. 反乱日付不詳崔立の乱(開封クーデター)
  14. 反乱日付不詳宿州・高臘哥・李宣の乱
  15. 反乱日付不詳徐州・封仙/国安用(用安)の乱
  16. 反乱日付不詳蒲察官奴の乱(帰徳クーデター)
  17. 反乱日付不詳陳州・李順児の乱
  18. 反乱日付不詳王義深の乱(霊璧望口寨)
  19. 反乱日付不詳亳州・崔復哥の乱
  20. 反乱日付不詳徐州・郭恩の乱
  21. 反乱日付不詳張瓛の乱(魚山)

金の歴代皇帝

歴代10人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

金が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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