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嘉靖帝の肖像画

明第12代

嘉靖帝朱厚熜

在位 1521–1566年(45年241日)1521年5月27日 〜 1567年1月23日 ( 1566年12月14日まで)

日本は室町時代

正徳帝の跡を傍系から継ぎ、実の父を皇帝として祀るの議で群臣と争い、晩年は道教に傾いた明の皇帝である。

嘉靖帝の人物データ

生年
1507年
在位
  • 1521年5月27日〜1567年1月23日 1566年12月14日まで
45年241日長い順9位/365人15歳で即位(数え年)
没年
1567年1月23日( 1566年12月14日)60歳(数え年)長生き順同率39位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 正徳帝明嘉靖帝は正徳帝の従兄弟
次代
呼び名
姓朱諱厚熜廟号世宗諡号粛皇帝元号嘉靖呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇后を立てた 3回多い順同率5位

出典

在位
明史 本紀第十七・十八 世宗一・二
死因
明史 本紀十八(世宗二)/巻307(佞幸・王金伝)
即位経路
明史 本紀十七(世宗一)

生涯

即位まで

成化帝の孫で、父は安陸に封じられた興献王である。1521年に正徳帝が子の無いまま没すると、慈寿皇太后との楊廷和が策を定め、で迎えられた。皇太子として即位する礼を求められると、遺詔は皇子ではなく皇帝として継がせたと拒み、奉天殿で即位した。

治世と最期

迎えた母は、弘治帝を父とする廷臣の案を聞いて怒って進まず、嘉靖帝が泣いて退位を願うと、群臣は称号を改めて母を都に入れた。楊廷和はを4度突き返して1524年に辞職し、同じ年、宮門に伏して争った廷臣134人が獄に下されてで16人が死んだ。帝は弘治帝を、実の父をと定めた。1528年、二人の妃が茶を進めると帝がその手を見回し、陳皇后が怒って杯を投げ、帝の激怒に驚いた皇后は流産して亡くなった。

1542年、宮女の楊金英らが寝ている帝の首を紐で絞めたが、結び目が固まって死なず、方皇后が救った。帝は西苑に移り、日々長生を求めて朝見に出なくなった。

1566年に海瑞が帝の過ちを極言すると、帝は疏を地に投げて怒ったが、日に何度も読み返して嘆息し、海瑞を獄に下しても死罪の判決を最後まで裁可しなかった。1567年の初め、西苑から乾清宮へ戻ったその日に没した。遺詔は、多病のため長生を求めすぎて奸人にだまされたと述べ、の王金らに罪を帰した。

史料について

宮女の変を、陶仲文伝と許紳伝は前年とし、許紳伝は許紳の薬で帝が蘇ったとする。海瑞の件を、徐階伝は帝がすぐ殺そうとしたのを徐階が救ったと書く。は死因を書かず、佞幸伝は王金らが献じた金石の薬で熱が出たとする。次の代には、王金が薬をみだりに進めた事実は無いとして辺境送りを議した。明史の賛は、初めは弊政を除いたが、大礼でを起こし、道教を崇めて国庫を窮乏させたと評し、の総評は明断で大略が多かったとたたえる。

嘉靖帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱19・皇后3・改元1・大赦9
  1. 改元1521年5月元号を「嘉靖」とする
  2. 1521年5月
  3. 反乱1521年11月山東・河南流賊(寧津起義)
  4. 皇后1522年皇后を立てる
  5. 反乱1522年甘州兵変
  6. 1524年
  7. 反乱1524年大同兵変(第一次)
  8. 反乱1527年広西田州・瑶壮諸族反乱
  9. 皇后1528年皇后を立てる
  10. 反乱1528年雲南叛蛮
  11. 1530年
  12. 1533年
  13. 反乱1533年大同兵乱(第二次)
  14. 反乱1533年広東巣賊乱
  15. 皇后1534年皇后を立てる
  16. 反乱1535年遼東軍乱
  17. 反乱1535年広寧兵乱
  18. 1536年
  19. 1538年
  20. 1539年
  21. 1539年
  22. 反乱1546年四川白草番乱
  23. 反乱1546年代府朱充灼謀反
  24. 反乱1549–1564年嘉靖大倭寇(海寇之乱)
  25. 反乱1553年河南師尚詔の乱
  26. 反乱1560年南京振武営兵変
  27. 反乱1564年南韶賊起
  28. 反乱1564年漳平占拠
  29. 反乱1566年広東山賊
  30. 反乱1566年浙江・江西鉱賊陥婺源
  31. 日付不詳
  32. 反乱日付不詳瓊州黎乱

明の歴代皇帝

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年表

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