世宗・嘉靖帝
明|在位 1521–1567年

- 諱(本名)
- 朱厚熜
- 在位
- 1521–1567年
- 在位期間
- 45年252日365名中9位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 15歳(数え年)172名中・若い順48位タイ
- 没年齢
- 60歳(数え年)269名中・長寿順39位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 9回267名中47位タイ
- 立后
- 3回204名中5位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 16回225名中20位タイ
- 被反乱
- 19回289名中20位
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
武宗が嗣子なく崩御したため、慈壽皇太后と大学士楊廷和が「定策」し、安陸の興邸から迎えて遺詔の形式で即位させた。皇太子として冊立されていたわけではなく皇太后・首輔が主導して人選・擁立した経緯が本紀に明記される(血縁上の継承権に基づく世襲的性格も併存する境界事例)。
出典: 明史 本紀十七(世宗一)
死因の経緯
本紀は病死の体裁で記すが、列伝(佞幸・王金伝)に方士王金らが自製の金石薬(丹薬)を進上し帝が服用したところ「火發」(中毒症状)を来し大漸・崩御したこと、崩御直後の遺詔が王金らの罪を問い処刑を命じたことが明記されている。丹薬(金石薬)中毒が実際の死因であったことを正史内部で裏付けており、唐憲宗・唐穆宗等の丹薬中毒例と同じく広義の病死に分類(壬寅宮変〔宮女による絞殺未遂〕は未遂に終わり直接の死因ではない)。
出典: 明史 本紀十八(世宗二)/巻307(佞幸・王金伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『明史』本紀十七・十八(世宗紀)を通読した限り、世宗(嘉靖帝)は即位に伴う建元(嘉靖)を1回行ったのみで、在位45年間を通じて改元(年号の切り替え)は他に見られない。「改元」の語自体も本紀中に登場しない。
大赦回数
『明史』本紀十七・十八より「大赦天下」「大赦」「诏赦天下」等、全国規模の大赦と明記された記事を数えた。卷十八・嘉靖二十四年秋七月壬戌「有事于太庙,赦徒罪以下」は罪状限定(徒罪以下のみ)の部分的恩赦のため、定義に従い除外した。嘉靖十五年閏月の大赦は、原文で「十二月辛卯...闰月癸亥」の順に記されており閏月(嘉靖十五年の十二月の後に置かれた閏月)に当たるため、日付はグレゴリオ暦換算をせず暦月の特定を月精度に留めている。
立后回数
『明史』本紀十七より、世宗自身の皇后として冊立された記事は3件(陳氏・張氏・方氏)。方皇后の崩御(嘉靖二十六年)後は本紀十八の範囲(隆慶元年の崩御まで)で新たな皇后冊立の記事は見られず、以後皇后不在のまま推移したとみられる。「武宗皇后曰庄肃皇后」(先帝武宗の皇后への尊号加上)、「献皇后」(世宗の生母、追尊)、「敬皇后」(孝宗の皇后、改葬)等はいずれも世宗自身の皇后冊立ではないため除外した。
皇太子廃立回数
『明史』本紀十七・十八の範囲では、世宗が皇太子を立てた記事は嘉靖十八年(1539年)二月庚子朔「立皇子载壑为皇太子」の1件のみで、以後皇太子の廃立(廃嫡)を明記する記事は見当たらない。皇太子載壑は嘉靖二十八年(1549年)三月丁亥に「皇太子薨」(薨去=病死)とあり、廃されたのではなく死去したため、本カウントの対象(廃止のみ)には該当しない。よってcount:0とする。
親征回数
『明史』本紀十七・十八・十九・二十(世宗紀全体)を通読したが、「帝親征」「帝自将」「上親征」等、世宗自身が軍を率いて出征したことを示す記述は一切見当たらない。庚戌の変(1550年、俺答が北京を包囲)でも「始御奉天殿,戒敕群臣」とあるのみで宮城内の対応にとどまり親征はしていない。安南(莫登庸簒奪)への討伐も「咸宁侯仇鸾為征夷副将軍…討安南莫登庸」「復命仇鸾、毛伯温征安南」等、いずれも将軍の代理出征であり、最終的に安南側の「納款」(服属申請)で罷兵している(帝自身は出征せず、かつ相手は明の藩属国ベトナムの内紛でありpersonalCampaign・反乱いずれの対象にも該当しない)。よってcount:0とする。
反乱鎮圧回数
『明史』本紀十七〜二十を通読し、明朝直接統治下(衛所守備兵・地方少数民族・宗室・流賊等)で発生した反乱・兵変のうち、在位中に鎮圧・沈静化が本紀上または補助史料上で確認できたものを計上した(16件)。北方モンゴル系勢力(小王子・吉囊・俺答・把都児・辛爱・土蛮・土魯番等)との交戦は対等な独立勢力との対外戦争として全件除外(ルール4)。安南(莫登庸簒奪)内乱は明の藩属国内部の政変であり、討伐も罷兵・納款で決着しているため除外(朝鮮出兵と同様の扱い)。壬寅宮変(1542年、宮女による世宗暗殺未遂)は兵力を伴わない私的な弑逆未遂のためルール4の対象外とし計上せず(deathCause参照)。最大の判断点は「嘉靖大倭寇(海寇之乱、1549〜1564年)」の扱いである:史料上「倭」の語を用いるが、汪直・徐海ら首謀者の大半は中国人密貿易商人で日本人浪人を雇用した混成集団であり、モンゴルのような独立国家の正規軍ではなく、海禁政策により明の被統治民が武装海賊化した内乱と判断し、服属民の反乱として1件(複数年にわたる一連の鎮圧戦役を「集計粒度差」により1件として集約)計上した(本紀「福建倭平」=嘉靖43年=1564年2月をもって鎮圧完了とした)。この分類は北方モンゴルの除外方針と一見矛盾するように見えるため、今後の明代他帝ブロック調査時に再検証・統一が必要な論点として明記する。単発の「盗入広東博楽県,殺知県」「閩広賊犯江西」等、組織化された蜂起を示す語(起/乱/変/叛/謀反/拠)を伴わない一過性の強盗事件は計上対象外とした。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の16件の反乱群(対応関係・除外方針・判断根拠は同note参照)に加え、在位終了(嘉靖45年12月=1566年、世宗崩御)まで本紀上で鎮圧記事が確認できなかった3件(南韶賊・矿賊陥婺源・漳平占拠)をルール例外(2)「未鎮圧のまま在位終了」として追加計上した。壬寅宮変(1542年)は兵力を伴わない暗殺未遂であり本カウントの対象外(ルール4は兵力を伴うクーデターに限定、deathCause参照)。
遷都回数
明史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(南京→北京の遷都は永楽帝の代の出来事として計上済み。洪武帝期の鳳陽「中都」構想は未完成のまま放棄され実行されず)。
即位時年齢・没年齢
『明史』本紀二十(世宗二末尾)「是日崩,年六十」(数え年、嘉靖四十五年十二月庚子=グレゴリオ暦1567-01-23)。即位時年齢は逆算値:崩御時「年六十」(嘉靖45年=1566年、旧暦年基準)と即位年(正徳16年=嘉靖元年の起算年、1521年)の年号差45年から数え年で15歳と算出。本紀冒頭「父興献王祐杬…正徳十四年薨。帝年十有三」(1519年に13歳)から逆算した生年(1519-13+1=1507年)でも1521-1507+1=15歳となり相互検証済み。生年月日そのものの原文直接記載は本紀範囲内になし(年精度のみ)。
在位中の出来事(48件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1521年4月正徳十六年(1521年)夏四月癸卯、武宗崩御・嗣子無きため遺詔により迎立され、大明門より入り奉天殿にて即皇帝位。
正徳十六年(1521年)夏四月癸卯、武宗崩御・嗣子無きため遺詔により迎立され、大明門より入り奉天殿にて即皇帝位。「以明年为嘉靖元年,大赦天下」(翌年を嘉靖元年とし、大赦天下を行うとの詔)。踰年改元の慣例により、実際の嘉靖の紀年開始は翌年(1522年)正月から。
反乱鎮圧1521年11月〜1523年2月山東・河南流賊(寧津起義)
首謀者: 山東寧津の流賊(氏名不詳)
結果: 総督俞諫・総兵魯綱が「討平河南、山東賊」
被反乱1521年11月山東・河南流賊(寧津起義)
首謀者: 山東寧津の流賊(氏名不詳)
結果: 蜂起し徳平知県龔諒を殺害(後に討平)
反乱鎮圧1522年1月〜1522年甘州兵変
首謀者: 甘州衛所哗変兵士(煽動の責任者として甘粛総兵李隆を事後処刑)
結果: 首謀者と断定された甘粛総兵李隆を逮捕・処刑して収拾。本紀には討伐記事なく、明世宗実録に基づく補助史料で解決を確認
被反乱1522年1月〜1522年甘州兵変
首謀者: 甘州衛所哗変兵士
結果: 哗変し巡撫都御史許銘を殺害(のち総兵李隆の煽動と判明、事後処刑で収拾)
立后1522年9月嘉靖元年(1522年)九月辛未、「立皇后陈氏」。
嘉靖元年(1522年)九月辛未、「立皇后陈氏」。世宗最初の皇后・陳氏の冊立。
反乱鎮圧1524年8月〜1525年大同兵変(第一次)
首謀者: 大同守備哗変兵士(郭鑑ら)
結果: 戸部侍郎胡瓚・都督魯綱を派遣し「討大同叛卒」、首悪を擒斬し脇従を赦す方針で鎮定
被反乱1524年8月大同兵変(第一次)
首謀者: 大同守備哗変兵士
結果: 哗変し巡撫都御史張文錦を殺害
反乱鎮圧1527年5月〜1528年9月広西田州・瑶壮諸族反乱
首謀者: 広西田州土司一族・瑶壮諸族(岑猛残党ら)
結果: 王守仁が両広等の軍務を統べ、田州を招撫のうえ広西蛮を「悉平之」
被反乱1527年5月広西田州・瑶壮諸族反乱
首謀者: 広西田州土司一族・瑶壮諸族
結果: 離反(田州叛蛮、後に招撫・平定)
反乱鎮圧1528年3月〜1528年7月雲南叛蛮
首謀者: 雲南地方少数民族酋長(氏名不詳)
結果: 伍文定・梁材が討伐し「雲南蛮平」
被反乱1528年3月雲南叛蛮
首謀者: 雲南地方少数民族酋長
結果: 離反(雲南叛蛮、後に平定)
立后1528年11月嘉靖七年(1528年)十一月丙寅、「立顺妃张氏为皇后」。
嘉靖七年(1528年)十一月丙寅、「立顺妃张氏为皇后」。同年十月丁未に陳皇后が崩じた(「皇后崩」)ことを受け、順妃張氏を皇后に冊立。
反乱鎮圧1533年9月広東巣賊乱
首謀者: 広東の山地反乱勢力「巣賊」(氏名不詳)
結果: 提督侍郎陶謐が「討平之」
被反乱1533年9月広東巣賊乱
首謀者: 広東「巣賊」
結果: 蜂起(後に討平)
反乱鎮圧1533年10月〜1534年2月大同兵乱(第二次)
首謀者: 大同守備哗変兵士
結果: 総督宣大侍郎張瓚が「抚定大同乱卒」(懐柔により鎮定)
被反乱1533年10月大同兵乱(第二次)
首謀者: 大同守備哗変兵士
結果: 哗変し総兵官李瑾を殺害、代王は宣府へ避難
立后1534年1月嘉靖十三年(1534年)正月壬子、「立德妃方氏为皇后」。
嘉靖十三年(1534年)正月壬子、「立德妃方氏为皇后」。同月癸卯に張皇后を廃した(「废皇后张氏」)直後、德妃方氏を皇后に冊立。
反乱鎮圧1535年3月〜1535年遼東軍乱
首謀者: 遼東守備哗変兵士
結果: 巡撫呂経を更迭し新政を撤回する懐柔策で鎮定(軍事討伐は行わず、補助史料に基づく)
反乱鎮圧1535年3月〜1535年7月広寧兵乱
首謀者: 広寧守備哗変兵士
結果: 「広宁乱卒平」(本紀明記)
被反乱1535年3月遼東軍乱
首謀者: 遼東守備哗変兵士
結果: 哗変し巡撫都御史呂経を捕縛・虐待(本紀「執都御史呂経」)
被反乱1535年3月広寧兵乱
首謀者: 広寧守備哗変兵士
結果: 哗変(本紀「広宁兵乱」、後に鎮定)
大赦1538年11月嘉靖十七年(1538年)冬十一月辛卯、「礼天于南郊。
嘉靖十七年(1538年)冬十一月辛卯、「礼天于南郊。诏赦天下」(南郊にて天を祀った礼に伴う大赦)。
反乱鎮圧1546年3月〜1547年4月四川白草番乱
首謀者: 四川白草の羌族系「番」(氏名不詳)
結果: 張時彻・何卿が「討平白草叛番」
被反乱1546年3月四川白草番乱
首謀者: 四川白草の羌族系「番」
結果: 蜂起(後に討平)
反乱鎮圧1546年10月代府朱充灼謀反
首謀者: 代府奉国将軍朱充灼(明宗室)
結果: 発覚後直ちに「伏誅」
被反乱1546年10月代府朱充灼謀反
首謀者: 代府奉国将軍朱充灼(明宗室)
結果: 兵を挙げ謀反(即日伏誅)
反乱鎮圧1549年7月〜1564年2月嘉靖大倭寇(海寇之乱)
首謀者: 汪直・徐海ら(中国人密貿易商人主導、日本人浪人も加わる混成海賊集団)
結果: 胡宗憲・兪大猷・戚継光ら官軍が各地の倭寇を撃破し、嘉靖43年(1564年)2月「福建倭平」をもって主要な鎮圧完了
被反乱1549年7月〜1564年2月嘉靖大倭寇(海寇之乱)
首謀者: 汪直・徐海ら(中国人密貿易商人主導、日本人浪人も加わる混成海賊集団)
結果: 浙江・福建・広東沿岸を長期にわたり侵掠(1564年2月に福建方面が鎮圧完了)
反乱鎮圧1553年7月〜1553年10月河南師尚詔の乱
首謀者: 師尚詔(河南流賊首領)
結果: 官軍が捕らえ「伏誅,賊平」
被反乱1553年7月河南師尚詔の乱
首謀者: 師尚詔
結果: 帰徳府・柘城・鹿邑を陥落させ蜂起(後に伏誅・鎮圧)
反乱鎮圧1560年2月〜1560年南京振武営兵変
首謀者: 南京振武営哗変兵士
結果: 既に死亡していた首謀者3名を名目上処罰し収拾(補助史料によれば処罰は形式的で軍紀は却って弛緩)
被反乱1560年2月南京振武営兵変
首謀者: 南京振武営哗変兵士
結果: 哗変し総督粮儲侍郎黄懋官を殺害
被反乱1564年6月漳平占拠
首謀者: 盗賊(氏名不詳)
結果: 漳平県を占拠し知県魏文瑞を殺害。世宗崩御まで本紀上に鎮圧記事なく未鎮圧のまま在位終了
被反乱1564年12月南韶賊起
首謀者: 広東南韶(南雄・韶州)の盗賊(氏名不詳)
結果: 蜂起し守備賀鐸・指揮蔡胤元を殺害。世宗崩御(1566年12月)まで本紀上に鎮圧記事なく未鎮圧のまま在位終了
反乱鎮圧1566年2月広東山賊
首謀者: 広東の山賊(氏名不詳)
結果: 兪大猷が「討広東山賊,大破之」
被反乱1566年2月広東山賊
首謀者: 広東の山賊
結果: 跳梁(1566年2月に兪大猷が撃破)
被反乱1566年2月浙江・江西矿賊陥婺源
首謀者: 浙江・江西の鉱山労働者「矿賊」(氏名不詳)
結果: 蜂起し婺源県を陥落させた。同年内(1566年12月)に世宗崩御のため未鎮圧のまま在位終了
大赦日付不詳嘉靖十五年(1536年)十二月の後の閏月癸亥、「以定庙制,加上两宫皇太后徽号,诏赦天下」(廟制確定・両宮皇太后への徽号加上を機とする大赦)。
嘉靖十五年(1536年)十二月の後の閏月癸亥、「以定庙制,加上两宫皇太后徽号,诏赦天下」(廟制確定・両宮皇太后への徽号加上を機とする大赦)。閏月のため正確な暦月番号は特定していない。
反乱鎮圧日付不詳瓊州黎乱
首謀者: 海南島瓊州の黎族(氏名不詳)
結果: 「黎賊平」(本紀明記、蜂起開始時期は本紀範囲内で特定不可)
被反乱日付不詳瓊州黎乱
首謀者: 海南島瓊州の黎族
結果: 反乱状態にあり(1550年に鎮圧、蜂起開始時期不明)