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隆慶帝の肖像画

明第13代

隆慶帝朱載坖

在位 1566–1572年(5年152日)1567年2月4日 〜 1572年7月5日 ( 1566年12月26日から)

日本は室町時代

俺答を順義王に封じて北辺を静めたが、政務を自ら裁かず、諫めた臣を杖で打たせた明の皇帝である。

隆慶帝の人物データ

生年
1537年
在位
  • 1567年2月4日〜1572年7月5日 1566年12月26日から
5年152日長い順180位/365人30歳で即位(数え年)
没年
1572年7月5日36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
次代
呼び名
姓朱諱載坖廟号穆宗諡号荘皇帝元号隆慶呼び名の見方

出典

在位
明史 本紀第十九 穆宗
死因
明史 本紀十九(穆宗)
即位経路
明史 本紀十九(穆宗)

生涯

即位まで

嘉靖帝の第三子で、母は杜康妃である。1539年に裕王に封ぜられたが、兄の荘敬太子が没した後も父はを遅らせ、晩年はの言で裕王とも景王とも会わなかった。1567年の初めに父が没して即位し、によって先朝の不便な政令を改め、獄中の海瑞を釈放した。

史料について

の巻首は、邸に出てから裕王は季節ごとに参内し、会えないことが多くても小心に子の道を守ったと称える。

治世と最期

の過激な言葉に耐えかねて処分を命じても、徐階に請われると罪にせず、その諫めは十のうち八九が行われた。1568年、近ごろの怠りと遊びを戒めたの石星を、のうえ民に落とした。陳皇后は子が無く病が多く、別宮に移った。1569年、皇后を戻すよう求めた詹仰庇に、帝は子が無く病のためと答えて罰しなかったが、同じ年に浪費を劾した詹仰庇を廷杖のうえ除名した。

1570年に俺答の孫の把漢那吉が来降すると、廷臣が反対するなか帝は手厚く慰撫するよう命じ、翌年には俺答を順義王に封じて三鎮のが成った。

1572年に発病し、高拱・張居正・高儀に後事を託して没した。このとき帝は口がきけず、諸臣を見つめてうなずいた。

史料について

皇后を別宮に出した理由を、詹仰庇伝の地の文は声色に耽った帝が諫めた皇后を出したとし、后妃伝と実録の帝の答えは子が無く病のためとする。衆議を排してを推したのは高拱と張居正だったと高拱伝はする。高拱伝は、帝の意はだけに託すことにあったとし、馮保伝は帝の病中に馮保が張居正に遺詔を起草させたとする。実録の総評は、好物のロバの腸を供えれば毎日ロバを一頭殺すことになると退けたと書く。明史の賛は、封貢を許し減賦で民を休ませたと称えつつ、寛恕は余りあるが剛明が足りなかったと評する。

隆慶帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱4・皇后1・改元1・大赦2
  1. 改元1567年2月4日( 1566年12月26日)元号を「隆慶」とする
  2. 1567年2月4日( 1566年12月26日)
  3. 皇后1567年3月19日皇后を立てる
  4. 日付不詳
  5. 反乱日付不詳広東賊(曾一本)の乱
  6. 反乱日付不詳陝西賊の乱
  7. 反乱日付不詳古田僮(壮族)の乱
  8. 反乱日付不詳山寇の再蜂起

明の歴代皇帝

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年表

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