度宗
南宋(宋・遼・西夏・金)|在位 1264–1274年

- 諱(本名)
- 趙禥
- 在位
- 1264–1274年
- 在位期間
- 9年271日365名中136位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 25歳(数え年)172名中・若い順95位タイ
- 没年齢
- 35歳(数え年)269名中・長寿順164位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
景定元年、理宗(伯父)の皇太子に立てられ、理宗崩御に伴い遺詔により即位。理宗に実子なく度宗は理宗の甥(養子格)として立太子されており通常の立太子・即位手続きを経た世襲。
出典: 宋史 本紀 巻四十六(度宗)
死因の経緯
咸淳10年7月、福寧殿にて崩御。享年35。正史には発病の予兆記述がなく突然の崩御として記されるが暗殺・処刑を示す記述もない。
出典: 宋史 本紀 巻四十六(度宗)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
度宗は皇帝即位前に別の身分(王等)で在位した期間はなく、2段階即位パターンには該当しない。在位中の改元は即位に伴う咸淳建元の1回のみ。
大赦回数
本紀本文中「大赦」の語が明記された箇所は上記3件。なお咸淳八年九月辛未の明堂禮成の条に「肆赦」(大雨に遇い逍遙輦に改乗して和寧門に入り肆赦)とあるが、「大赦」の明記ではなく別語であるため今回はカウントに含めなかった(低確度の追加候補として付記)。
立后回数
本紀中で皇后冊立の記事は全氏の1回のみ確認。楊氏は咸淳四年六月に淑妃(妃嬪位)に進んだのみで皇后冊立の記事はない。
皇太子廃立回数
度宗の在位中(咸淳元年~十年)、諸皇子(憲・鍠・昰・〈濕〉・昺)が生まれ、子憲が益國公に封じられた記事等はあるが、本紀中に度宗自身の治世下で「立皇太子」及びその廃立が行われた記事は見当たらない(子憲は咸淳6年6月に薨去のみ)。度宗自身が理宗の皇太子として景定元年に立てられ廃されずに即位した経緯はあるが、これは廃立ではない。よって0回。
親征回数
在位中(1264-1274)、元(モンゴル)による襄陽・樊城包囲戦(咸淳4-9年/1268-1273)など対元防衛戦が続いたが、本紀を通読しても度宗自身が出征した記述は一切なく、終始臨安宮中に留まり呂文徳・李庭芝・夏貴・張世傑ら将帥に軍事を委任していた(賈似道への「請為總護山陵使」等はあるが親征要請ではない)。よって親征は0件。
反乱鎮圧回数
本紀を通読したが、国内の農民反乱・地方蜂起・盗賊蜂起に該当する記事は見当たらない。在位中の主要軍事事項は元(モンゴル)との襄陽・樊城の戦いなど対等勢力間の対外戦争のみであり、ルールにより鎮圧・被反乱の集計対象外。国内での謀反・兵変の記述もない。
被反乱回数
本紀を通読したが、国内勢力による反乱・兵変・弑逆未遂等の記述は見当たらない。度宗は咸淳十年に福寧殿で崩御しており、遺詔により子(後の恭帝)が即位しているため廃位・弑逆の記録もない。元との襄陽・樊城の戦い等は対外戦争でありルール上除外。
遷都回数
宋史本紀を通読。高宗期の臨安遷都(1138年)を継承、以後南宋滅亡(1279年)まで臨安が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
本紀冒頭に「嘉熙四年四月九日生于紹興府榮邸」と生年月日が明記され、末尾に「咸淳十年……帝崩于福寧殿」と崩御記事があるが、「時年◯◯」等の直接的な享年表記は本紀中に見当たらなかった(該当文字列を検索したが該当なし)。享年は生没年から逆算すれば数え35歳程度と推測されるが、原文に直接記載がないためaccessionAge/deathAgeはnullとした。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元景定五年十二月辛丑度宗即位(景定五年十月丁卯、理宗崩御を受け太子即位)に伴う建元。
度宗即位(景定五年十月丁卯、理宗崩御を受け太子即位)に伴う建元。即位当初は理宗の景定年号を継続使用し、景定五年十二月辛丑「詔改明年為咸淳元年」との詔により翌年から咸淳と改元。以後、咸淳十年の崩御まで咸淳の元号を継続使用し、再度の改元は本紀中に見当たらない。【皇帝即位(改元同時)】
出典: 宋史 本紀四十六(度宗)
大赦景定五年十月辛未度宗即位直後(理宗崩御の4日後)の大赦。
度宗即位直後(理宗崩御の4日後)の大赦。「辛未,大赦」と明記。
出典: 宋史 本紀四十六(度宗)
大赦咸淳三年正月己丑朔南郊祭祀に伴う大赦。
南郊祭祀に伴う大赦。「郊,大赦」と明記。
出典: 宋史 本紀四十六(度宗)
大赦咸淳五年九月辛酉明堂親祀に伴う大赦。
明堂親祀に伴う大赦。「祀明堂,大赦」と明記。
出典: 宋史 本紀四十六(度宗)
立后咸淳三年正月癸卯「冊命妃全氏為皇后」と明記。
「冊命妃全氏為皇后」と明記。全氏は景定元年(皇太子時代)に皇太子妃に冊立されていたが、皇后としての正式冊立はこの咸淳三年が該当。
出典: 宋史 本紀四十六(度宗)