度宗の人物データ
- 生年
- 1240年5月2日
- 在位
- 1264年11月16日〜1274年8月12日
- 没年
- 1274年8月12日35歳(数え年)長生き順同率162位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓趙諱禥呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 本紀四十六 度宗
- 死因
- 宋史 本紀 巻四十六(度宗)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻四十六(度宗)
生涯
即位まで
太祖の十一世孫で、父は理宗の同母弟の與芮であり、1240年に紹興で生まれた。子の無い理宗は彼に位を託すことを決め、1253年に皇子とし、1260年に皇太子に立てた。理宗の家教は厳しく、講じた経を毎日問われ、通じなければ翌日に講義をやり直させられた。1264年に理宗が没すると、遺詔皇帝が死に際に残した命令を受けて即位した。
治世と最期
即位して間もなく、辞任をちらつかせる賈似道を師相師とあおぐ大臣への呼び名と呼んで泣いて拝し、江萬里に支え起こされた。自分を擁立した似道には、朝ごとに答拝して師臣と称した。1267年、似道を太師君主の師とされる、最高位の位の一つ・平章軍国重事宋で、重臣に国の大事だけを決めさせた特別の位とし、月に三度経筵皇帝のために学者が古典や歴史を講じる場に、三日に一度朝に出て、都堂宰相たちが集まって政務を執る役所で政務を執らせた。のちには入朝しても拝礼させず、退出のときは席を立って見送った。
1268年に元軍が白河城を築き、襄陽・樊城の包囲が始まった。1273年に樊城が落ち、呂文煥が襄陽を挙げて元に降った。似道の奏上は遅れ、似道は出陣を請うたが、詔で引き留められた。度宗は、六年守った襄陽が一朝にして失われたことを痛恨とする詔を出した。
1274年に福寧殿で没した。翌日、内医の蔡幼習が弾劾されて遠くの州に移された。
史料について
襄陽の包囲を尋ねられた似道が、北兵はもう退いたと答え、告げた女嬪を別の罪に陥れて死を賜らせた話は、宋季三朝政要と続資治通鑑にあり、宋史には無い。出陣を請うたのを、宋史の賈似道伝と続資治通鑑は、似道が請うたびにひそかに台諫官吏の不正を見張り、皇帝をいさめる役の官たちに引き留めさせていたとし、続資治通鑑は、度宗が師相はそばを離れてはならないと言ったとする。宋史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は死因を書かず、宋季三朝政要は、即位後に酒色に耽り、病で殿試皇帝が自ら行う官吏登用の最終試験に臨めないまま没したとする。宋史の賛は、大きな失徳君主にふさわしくない行いや過ちは無いが権奸に政を任せて国勢が衰えたと評する。
度宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1264–1274年の地図に、度宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
皇后1・改元1・大赦3
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1264年11月20日度宗即位直後(理宗崩御の4日後)の大赦。
- 改元1264年12月20日元号を「咸淳」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1267年南郊祭祀に伴う大赦。
- 皇后1267年皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1269年明堂親祀に伴う大赦。
南宋の歴代皇帝
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