恭帝
南宋(宋・遼・西夏・金)|在位 1274–1276年
- 諱(本名)
- 趙㬎
- 在位
- 1274–1276年
- 在位期間
- 1年176日365名中276位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 4歳(数え年)172名中・若い順8位
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
度宗崩御後「奉遺詔即皇帝位於柩前」。度宗の子(母は全皇后=嫡出)で太后謝氏・賈似道が嫡子優先の原則で選定した通常の皇位継承手続き。
出典: 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
死因の経緯
元へ降伏、瀛国公に降封後、至治3年4月、元朝(英宗)により河西の地で死を賜った(賜死)。元代の仏教史書『佛祖歴代通載』至治三年条に「賜瀛國公合尊死於河西」とある。政権交代後、征服者側の元朝皇帝の命による処断のため処刑と判定(形式は自尽を命じる賜死)。
出典: 佛祖歴代通載(元代仏教史書、至治三年条)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
china-history版・daizhigev20版の両方で「甲子、詔以明年為德祐元年」の記述が一致することを確認。恭帝在位中(咸淳10年7月~徳祐2年正月)に他の改元記事は見当たらなかった。
大赦回数
『宋史』本紀巻四十七(恭帝在位:咸淳10年7月即位~徳祐2年正月降伏まで)を通読したが、「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦は見当たらなかった。関連する記述として、徳祐元年正月戊戌「赦京畿罪」(京畿地域限定)、同年三月戊戌「赦邊城降將罪」(降伏した辺境守将等の特定対象限定)、同年九月辛巳「有事于明堂、赦」(明堂親祭に伴う恩赦だが「大赦」等の明記なし、対象範囲不明瞭)の3件があるが、いずれも地域・対象限定または「大赦」表記を欠くため、判定基準に基づき0件とした。china-history版とdaizhigev20版の両方で同一の記述を確認済み。
立后回数
本紀本文中に恭帝自身の皇后冊立の記述は見当たらなかった。文中に見える「皇后」はすべて先代(度宗)の后妃に関するもの(実母・全皇后=即位後に皇太后へ、祖母・謝太皇太后の尊号加上など)であり、幼帝であった恭帝自身が婚姻・立后した記録はない。
皇太子廃立回数
本紀本文中に「太子」「皇太子」「皇太弟」等の立太子・廃太子に関する記述は一切見当たらなかった。恭帝自身は即位時数え4歳、退位時数え6歳の幼帝であり、在位期間も約1年半と短く、皇太子を立てる余地がなかったことと整合する。
親征回数
恭帝は即位時数え4歳・退位(元への降伏)時数え6歳の幼帝であり、在位期間(咸淳10年7月~徳祐2年1月、1274-1276)を通じて実権は謝太后・賈似道・陳宜中ら重臣が握っていた。原文キャッシュ(宋史巻四十七)には元軍侵攻に対する迎撃・防衛戦の記事が多数あるが(賈似道の督師・張世傑らの防戦等)、いずれも臣下が指揮したものであり、恭帝自身が軍を率いて出征した記述は皆無。
反乱鎮圧回数
同上。対元朝との対外戦争(防衛戦の連続)はルールにより一切除外。国内反乱2件のみを計上。
被反乱回数
対元朝との戦争(元軍による南宋侵攻・臨安陥落・恭帝の降伏)は、五代十国ブロックで確立した『対等勢力・外国との対外戦争』ルールに従い、rebellionSuppression/Sufferedの対象外として一切計上していない(deathCause/accessionRouteの評価とは別軸)。国内の反乱として原文に明記されているのは上記2件のみ。潮州・漳州の蜂起は記述が一行と簡略なため確信度はmedium。
遷都回数
宋史本紀を通読。高宗期の臨安遷都(1138年)を継承、以後南宋滅亡(1279年)まで臨安が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
『宋史』本紀巻四十七に「咸淳七年九月己丑、生於臨安府之大内」「十年七月癸未、度宗崩、奉遺詔即皇帝位於柩前、年四歳」とあり、生年月日(陰暦)と即位時年齢(数え4歳)が直接記載されている。没日は『佛祖歴代通載』至治三年条「是年四月、賜瀛国公合尊死於河西」により至治三年(1323年)四月と判明するが、没時の年齢(時年◯◯)の記載は同条には見当たらなかった。生年の陰暦→西暦換算はsxtwlライブラリによる機械換算のため、宋代当時の実際の頒暦との間に若干のずれが生じている可能性がある(即位日の換算値1274-08-12は課題文の「咸淳10年7月9日」と整合することを確認済み)。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1274年11月21日咸淳10年10月甲子(換算1274-11-21)、「詔以明年為德祐元年」(翌年〈1275年〉を徳祐元年とする改元の詔)。
咸淳10年10月甲子(換算1274-11-21)、「詔以明年為德祐元年」(翌年〈1275年〉を徳祐元年とする改元の詔)。恭帝は咸淳10年7月の即位時には先代度宗の元号「咸淳」をそのまま継続使用しており、これは改元とみなさない(2段階即位パターンには該当しない通常の世襲即位)。この徳祐への改元が恭帝在位中唯一の改元であり、退位(徳祐2年正月)まで徳祐が継続使用された。
出典: 宋史 本紀四十七(瀛国公二王附)
反乱鎮圧日付不詳潮州・漳州の盗賊蜂起
首謀者: 首謀者名不詳
結果: 鎮圧(邢友龍が撃破し、丁巳の条で友龍以下諸将に恩賞)
『宋史』本紀「廣西經略司權參議官邢友龍擊潮州、漳州寇,破之」。国内の盗賊蜂起の鎮圧としてカウント。
反乱鎮圧日付不詳殿前指揮使韓震配下の兵変
首謀者: 韓震配下の兵士
結果: 鎮圧(発兵して捕縛を図り、反乱軍は四散)
『宋史』本紀「震所部兵叛,攻嘉會門,射火箭至大內,急發兵捕之,皆散走」。朝廷側が武力で鎮圧に成功したためsuppressionにも計上。
被反乱日付不詳潮州・漳州の盗賊蜂起
首謀者: 首謀者名不詳
結果: 鎮圧(広西経略司権参議官・邢友龍が撃破)
『宋史』本紀「冬十月丙午…廣西經略司權參議官邢友龍擊潮州、漳州寇,破之」。国内の盗賊蜂起としてルールに従いsuffered/suppression双方に計上。
被反乱日付不詳殿前指揮使韓震配下の兵変
首謀者: 韓震配下の兵士(韓震本人は事前に陳宜中に誅殺されている)
結果: 鎮圧(朝廷が発兵して捕縛を図り、反乱軍は四散)
『宋史』本紀「三月壬申朔…殿前指揮使韓震請遷都,陳宜中殺之。震所部兵叛,攻嘉會門,射火箭至大內,急發兵捕之,皆散走」。韓震自身の誅殺は朝廷側の処断だが、その配下の兵が武力蜂起し皇居(大内)に火矢を放つ実力行使に及んだため、朝廷内部の権力争いに起因する兵変としてsufferedに計上。最終的に鎮圧されているためsuppressionにも計上(例外4の『成功したクーデター』とは異なり、この兵変は鎮圧に成功しているため通常の反乱と同様に両方に計上する扱いとした)。