
南宋第8代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
恭帝趙㬎
在位 1274–1276年(1年176日)1274年8月12日 〜 1276年2月4日
日本は鎌倉時代
幼くして即位し、元軍が臨安に迫ると降り、のちに吐蕃で仏法を学んで僧となった南宋の皇帝である。
恭帝の人物データ
- 生年
- 1271年11月2日
- 在位
- 1274年8月12日〜1276年2月4日
- 没年
- 1323年5月年齢不詳
- 死因
- 諸説あり死因について史書の記述が食い違い、一つに絞れない。同じ死因17人/365人
- 呼び名
- 姓趙諱㬎呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 本紀四十七 瀛國公二王附(巻47)
- 死因
- 佛祖歴代通載(元代仏教史書、至治三年条)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
生涯
即位まで
度宗の子で、母は全皇后であり、1271年に臨安の宮中で生まれた。1274年に度宗が没すると、遺詔皇帝が死に際に残した命令によって柩の前で即位した。年老いた太皇太后皇帝の祖母の代の后に贈る称号の謝氏は、大臣に強いられてようやく垂簾皇帝の母などが簾の奥から政治を取りしきることして政を聴いた。
治世と最期
明堂天子が天や祖先を祭り、礼を行う殿堂の祭祀を代行させる議があったとき、楊文仲は、幼くても喪中の拝跪に耐えて礼を誤らないのだから自ら祭るべきだと論じた。1275年、孫虎臣が丁家洲で元軍に大敗して賈似道とともに小舟で揚州へ逃れ、諸軍は潰えた。陳宜中は賈似道の誅殺を求めたが、太皇太后は三朝に勤労した大臣だとして官を罷めさせるにとどめ、似道は貶所へ送られる途中、漳州で護送役の鄭虎臣に殺された。講和の使者に、元の伯顔は、宋は小児の手から天下を得て小児の手で失うと答えた。
1276年、和を求めた申し入れがいずれも拒まれると、太皇太后は泣いて、社稷国家のこと(もとは土地と穀物の神)が保てるなら臣と称するのは構わないと言い、臣下の礼を用いるよう命じた。元軍が皋亭山に至ると、宋は伝国璽秦から代々の皇帝に伝えられたとされる印を奉じて降った。恭帝の名の降表降伏を申し出る文書は、幼くして家の多難に遭い、賈似道が国を誤ったと述べた。その夜、丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職の陳宜中は逃げ、張世傑らも兵を率いて去った。宮を出るとき、母の全太后は泣いて恭帝に、天子の慈悲がお前を生かしたのだから拝して謝せよと言った。同じ年に上都で朝して瀛国公とされ、福州では陳宜中らが兄の端宗を立てた。
1288年には吐蕃で仏法を学ぶことになり、1291年には母とともにすでに僧と尼になっていた。
史料について
死を、宋史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分も元史も書かず、元史は1330年の条で故人として扱うだけである。仏教史書の仏祖歴代通載は、1323年に河西で死を賜ったと記す。
恭帝とつながる皇帝

勢力図
宋・
1274–1276年の地図に、恭帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・改元1
- 反乱1274年11月3日潮州・
漳州の盗賊蜂起 - 改元1274年11月21日元号を「徳祐」とする
- 反乱1275年殿前指揮使韓震配下の兵変
南宋の歴代皇帝
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