中国皇帝統計

寧宗

南宋(宋・遼・西夏・金)|在位 1194–1224年

寧宗の肖像
諱(本名)
趙拡
在位
1194–1224年
在位期間
30年63日365名中25位
即位経路
擁立
死因
諸説あり
即位時年齢
不詳
没年齢
57歳(数え年)269名中・長寿順48位タイ
改元
4332名中29位タイ
大赦
13267名中22位タイ
立后
2204名中14位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
14225名中28位タイ
被反乱
16289名中26位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

孝宗崩御後、光宗が病で喪を執れないことを理由に、知枢密院事趙汝愚が韓侂冑を介して太皇太后呉氏を動かし嘉王(寧宗)を擁立。正史は「内禅」の語を用いるが実質は大臣主導のクーデター的擁立。

出典: 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

死因の経緯

宋史は発病後の自然死として記す。元代の筆記『東南紀聞』は史彌遠が金丹百粒を進めた直後に崩御したとし毒殺を示唆するが、正史には見えない。史彌遠が済王竑を廃し理宗を擁立した経緯(矯詔)と併せて後世の疑惑として語られる。確定的な暗殺の証拠はないため諸説あり。

出典: 宋史 本紀 巻四十(寧宗四)/東南紀聞(元代筆記)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

紹熙五年七月の即位時は前代(光宗)の元号「紹熙」をそのまま踏襲し、その年内は改元しなかった(建元は行わず)。年内の慶元への改元詔から寧宗代の元号は紹熙→慶元→嘉泰→開禧→嘉定と推移し、崩御(嘉定十七年)までこの4回の改元が全て。

大赦回数

「大赦」と明記された全国規模の恩赦のみ計上。「曲赦泗州」「赦西和・階・成・鳳四州」「赦兩淮・湖北・京西被兵諸州」等の地域限定恩赦、および「以太皇太后(太上皇/太上皇后)違豫,赦」等の単なる「赦」(大赦の明記なし)は除外した。

立后回数

皇后は在位中に韓氏・楊氏の二人。いずれも先に「立…為皇后」の詔があり、後日改めて「冊皇后」の正式儀式が行われている(同一人物につき立后決定と冊立儀式の二段階)。ここでは正式冊立儀式の日付を採用し、note内に立后決定日も付記した。廃后の記録はなし。

皇太子廃立回数

在位中に正式冊立された皇太子は嘉定二年冊立の詢(旧名曮)のみで、詢は嘉定十三年八月に薨去(廃立ではなく病没)。嘉定十四年に姪の貴和(改名して竑)が「皇子」として国本に擬せられたが、原文(巻四十)では終始「皇子」と記され「皇太子」には冊立されていない。竑は寧宗崩御(嘉定十七年閏八月丁酉)の当夜、丞相史彌遠が偽の遺詔により貴誠(後の理宗昀)を皇子に立て、竑を済陽郡王に格下げした(列伝「皇子竑」等に詳しい)。この処分は寧宗の生前の意思・行為ではなく崩御直後の政変であり、かつ竑の正式称号も「皇太子」ではなく「皇子」であったため、本項目(皇太子廃立)には計上しなかった。境界事例として要再検討。

親征回数

宋史本紀卷三十七〜四十(紹熙5年〜嘉定17年、全在位期間)を確認したが、寧宗自身が軍を率いて出征した記録は見当たらない。開禧北伐(対金、開禧二年)も韓侂冑主導の親征命令(「下詔伐金」)であり、寧宗自身は禁中に留まり出征していない。呉曦の乱・郴州黒風洞の乱等の国内反乱も官軍・地方将帥が鎮圧しており皇帝親征の記述なし。

反乱鎮圧回数

宋史本紀の在位28年分(1194〜1224)を精査。金(対等勢力)との開禧北伐・嘉定年間の大規模侵攻戦争は対外戦争として本カウントから除外。密告・摘発のみで実際の兵力行使に至らなかった謀反計画(沔州統制張林の謀反〈事覚、貸死除名〉、訓武郎羅日愿〈謀為変、伏誅〉、沔州将劉世雄〈謀拠仙人原作乱、伏誅〉、殿前司同正将華岳〈謀為変、殺之〉)は鎮圧・被反乱いずれにも含めていない。雅州蛮・黎州蛮・龍州蕃部・敘州蛮等の辺境部族による散発的侵寇は、原文の記述単位(名前が付く首領・地域ごとの一連の侵寇〜投降/鎮圧サイクル)でまとめて1件と数えたため、区切り方に解釈の幅がある(confidence medium)。

被反乱回数

国内の権力者による兵力を伴うクーデター(呉曦の僭位)を含め、原則suppressionCountと同じ反乱群を計上。石珪・虛恨蠻の2件のみ、原文に明確な鎮圧記載が見当たらず「未鎮圧のまま在位終了」パターンとしてsuppressionCountから除外しsufferedCountのみに計上した。金(対等勢力)との戦争は本カウントから除外している。

遷都回数

宋史本紀を通読。高宗期の臨安遷都(1138年)を継承、以後南宋滅亡(1279年)まで臨安が一貫した都。

即位時年齢・没年齢

宋史本紀卷四十(寧宗四)に「皇帝崩于福寧殿,年五十七」と明記。生年は卷三十七(寧宗一)冒頭に「乾道四年十月丙午,生于王邸」と明記。即位時年齢(数え27歳相当)は原文に直接の記載なし(計算値のため記録せず)。

在位中の出来事(49件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧1197年大奚山島民の乱

首謀者: 不明(大奚山島民)

結果: 鎮圧(全滅)

広東提挙茶塩徐安国が私塩取締りを行ったことに端を発し島民が蜂起、知広州銭之望が出兵し島民を皆殺しにして鎮圧(慶元三年)。

被反乱1197年大奚山島民の乱

首謀者: 不明(大奚山島民)

結果: 鎮圧(全滅)

服属民(島民)の反乱として被反乱にも計上。

反乱鎮圧1201年〜1203年龍州蕃部の反乱

首謀者: 不明(龍州蕃部)

結果: 鎮圧(投降)

嘉泰元年・三年と侵寇を繰り返したが官軍が討伐し嘉泰三年十月に投降。

反乱鎮圧1201年〜1215年黎州蠻(畜卜)の反乱

首謀者: 畜卜

結果: 鎮圧(投降)

黎州蛮の首領畜卜が長年にわたり断続的に侵寇(一時は官軍が敗績)を繰り返したが、嘉定八年に至り投降した。

被反乱1201年〜1203年龍州蕃部の反乱

首謀者: 不明(龍州蕃部)

結果: 鎮圧(投降)

被反乱1201年〜1215年黎州蠻(畜卜)の反乱

首謀者: 畜卜

結果: 鎮圧(投降)

反乱鎮圧1202年〜1206年雅州蠻(高吟師)の反乱

首謀者: 高吟師

結果: 鎮圧(投降後誅殺)

開禧二年に碉門砦焼き討ち等で官軍が一時敗北、御前大軍を投入し討伐、高吟師は投降後に殺害された。

被反乱1202年〜1206年雅州蠻(高吟師)の反乱

首謀者: 高吟師

結果: 鎮圧(投降後誅殺)

反乱鎮圧1204年瓊州西浮洞逃軍の乱

首謀者: 不明(逃亡兵)

結果: 鎮圧

逃亡兵が瓊州西浮洞で蜂起し文昌県を掠奪、官軍が討伐平定(嘉泰四年)。

被反乱1204年瓊州西浮洞逃軍の乱

首謀者: 不明(逃亡兵)

結果: 鎮圧

反乱鎮圧1206年〜1207年呉曦の反乱(僭位蜀王)

首謀者: 呉曦

結果: 鎮圧(誅殺・四川平定)

四川宣撫副使呉曦が金に投降し関外四州を献じ蜀王を自称して興州で僭位、安丙・李好義らが共謀して誅殺し四川を平定した。

被反乱1206年〜1207年呉曦の反乱(僭位蜀王)

首謀者: 呉曦

結果: 鎮圧(誅殺・四川平定)

四川方面軍を統率する重臣による反乱・僭位のため被反乱に計上。

反乱鎮圧1208年〜1211年郴州黒風峒寇(羅世傳・李元礪)の反乱

首謀者: 羅世傳、李元礪

結果: 鎮圧

湖南郴州黒風峒の土賊羅世傳・李元礪らが数度にわたり反乱、討伐と招降を繰り返した末、嘉定三年末に羅世傳が李元礪を捕えて投降させ、李元礪は嘉定四年二月伏誅。羅世傳はその後再叛したが同年九月に配下に殺され鎮圧完了。

被反乱1208年〜1211年郴州黒風峒寇(羅世傳・李元礪)の反乱

首謀者: 羅世傳、李元礪

結果: 鎮圧

反乱鎮圧1211年〜1212年敘州蠻(酋米在)の反乱

首謀者: 米在(酋)

結果: 鎮圧(投降)

敘州蠻が嘉定府利店砦を陥落させるなど侵寇したが、四川制置司の討伐によりその酋長米在が投降。

被反乱1211年〜1212年敘州蠻(酋米在)の反乱

首謀者: 米在(酋)

結果: 鎮圧(投降)

反乱鎮圧1213年知思州田宗範の反乱

首謀者: 田宗範

結果: 鎮圧

思州の知州田宗範が反乱を企て、夔州路安撫司が兵を遣わして討ち平定した(嘉定六年八月)。

被反乱1213年知思州田宗範の反乱

首謀者: 田宗範

結果: 鎮圧

被反乱1213年虛恨蠻の侵寇

首謀者: 不明

結果: 鎮圧記載なし

嘉定六年十一月に嘉定府中鎮砦へ侵寇した記事のみで、その後の鎮圧・投降等の記載が原文に見当たらないため、suppressionCountには含めず被反乱のみ計上。

反乱鎮圧1217年〜1220年雅州蠻の反乱(第二次)

首謀者: 不明

結果: 鎮圧(投降)

嘉定十年以降雅州蠻が再び碉門砦焼き討ち等の侵寇を繰り返したが、嘉定十三年五月に投降した。

被反乱1217年〜1220年雅州蠻の反乱(第二次)

首謀者: 不明

結果: 鎮圧(投降)

反乱鎮圧1219年興元軍士権興の乱

首謀者: 権興

結果: 鎮圧(投降)

興元の軍士権興らが叛いて巴州を攻め守臣が棄城したが、まもなく投降した(嘉定十二年三月)。

反乱鎮圧1219年張福・莫簡の紅巾軍の乱

首謀者: 張福、莫簡

結果: 鎮圧(誅殺)

興元軍士張福・莫簡らが紅巾を掲げて蜂起し閬州・果州・遂寧府・普州等を席巻したが、張威が討伐し張福を捕えて誅殺、紅巾賊は平定された(嘉定十二年閏三月〜七月)。

被反乱1219年興元軍士権興の乱

首謀者: 権興

結果: 鎮圧(投降)

被反乱1219年張福・莫簡の紅巾軍の乱

首謀者: 張福、莫簡

結果: 鎮圧(誅殺)

被反乱1220年漣水忠義軍統轄石珪の反乱

首謀者: 石珪

結果: 鎮圧記載なし(未解決のまま原文終了)

嘉定十三年八月に一度帰順して漣水忠義軍統轄に任じられたが同年十二月に再び叛いた。その後の鎮圧・帰順等の記載が原文(嘉定十七年の崩御まで)に見当たらないため、suppressionCountには含めず被反乱のみ計上(未鎮圧のまま在位終了パターン)。

反乱鎮圧1221年〜1223年京東安撫張林の反乱

首謀者: 張林

結果: 鎮圧(敗走・部将投降)

京東安撫張林が反乱を起こし、知済南府种贇らに青州で攻められ敗走、嘉定十六年にその部将邢徳が投降し事実上鎮圧された。

被反乱1221年〜1223年京東安撫張林の反乱

首謀者: 張林

結果: 鎮圧(敗走・部将投降)

改元紹熙五年(1194年)閏十月壬午「詔改明年為慶元元年」。

「詔改明年為慶元元年」。即位後最初の改元(建元)。翌年正月より慶元元年。

出典: 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

改元慶元六年(1200年)十二月(癸卯前後)「詔改明年為嘉泰元年」。

「詔改明年為嘉泰元年」。翌年正月より嘉泰元年。

出典: 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

改元嘉泰四年(1204年)十二月己亥「詔改明年為開禧元年」。

「詔改明年為開禧元年」。翌年正月より開禧元年。

出典: 宋史 本紀 巻三十八(寧宗二)

改元開禧三年(1207年)十二月丁卯「詔改明年為嘉定元年」。

「詔改明年為嘉定元年」。翌年正月より嘉定元年。韓侂冑誅殺直後の改元。

出典: 宋史 本紀 巻三十八(寧宗二)

大赦紹熙五年(1194年)七月丙寅光宗禅位・寧宗即位に伴う大赦。

光宗禅位・寧宗即位に伴う大赦。皇后韓氏冊立と同日連続記事。

出典: 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

大赦紹熙五年(1194年)九月辛未合祭天地于明堂に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

大赦慶元三年(1197年)十一月甲辰祀天地于圜丘に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

大赦慶元六年(1200年)九月辛未合祭天地于明堂に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

大赦嘉泰三年(1203年)十一月乙亥祀天地于圜丘に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十八(寧宗二)

大赦開禧二年(1206年)九月辛卯合祭天地于明堂に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十八(寧宗二)

大赦開禧三年(1207年)十一月己亥皇子曮(懤)を皇太子に立てたことに伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十八(寧宗二)

大赦嘉定二年(1209年)九月辛丑合祭天地于明堂に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十九(寧宗三)

大赦嘉定五年(1212年)十一月壬戌祀天地于圜丘に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十九(寧宗三)

大赦嘉定八年(1215年)九月辛未合祭天地于明堂に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻三十九(寧宗三)

大赦嘉定十一年(1218年)九月辛巳合祭天地于明堂に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻四十(寧宗四)

大赦嘉定十四年(1221年)九月辛卯合祭天地于明堂に伴う大赦。

出典: 宋史 本紀 巻四十(寧宗四)

大赦嘉定十五年(1222年)正月己未「恭膺天命之寶」受寶を機とする大赦。

「恭膺天命之寶」受寶を機とする大赦。文武官進秩一級、諸軍犒賞。

出典: 宋史 本紀 巻四十(寧宗四)

立后慶元二年(1196年)十月辛亥皇后韓氏の冊立儀式。

皇后韓氏の冊立儀式。なお立后の決定自体は即位直後の紹熙五年七月乙丑「太皇太后命立崇國夫人韓氏為皇后」。韓氏は慶元六年(1200年)十一月己未に崩御。

出典: 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

立后嘉泰三年(1203年)二月乙巳皇后楊氏の冊立儀式(御文德殿冊皇后)。

皇后楊氏の冊立儀式(御文德殿冊皇后)。なお立后の決定自体は嘉泰二年(1202年)十二月甲申「立貴妃楊氏為皇后」。

出典: 宋史 本紀 巻三十八(寧宗二)

反乱鎮圧日付不詳楚州渠賊胡海の乱

首謀者: 胡海

結果: 鎮圧(誅殺)

楚州の土賊の頭目胡海が嘉定三年三月に誅殺され鎮圧(「賞楚州平賊功」の記事とも符合)。

被反乱日付不詳楚州渠賊胡海の乱

首謀者: 胡海

結果: 鎮圧(誅殺)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。