光宗の人物データ
- 生年
- 1147年9月30日
- 在位
- 1189年2月18日〜1194年7月24日
- 没年
- 1200年9月17日54歳(数え年)長生き順同率62位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓趙諱惇呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 本紀三十六 光宗
- 死因
- 宋史 本紀 巻三十六(光宗)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)
生涯
即位まで
孝宗の第三子で、1147年に生まれた。兄の荘文太子が死ぬと、孝宗は英武が自分に似ているとして跡継ぎにしようとしたが、長幼の順でないため遅らせた。1171年に兄の慶王を越えて皇太子とされ、1189年に孝宗から位を譲られて即位した。妃の李氏が皇后となった。
治世と最期
李皇后は嫉妬深く、光宗が宮人宮中に仕え暮らした女性たちの手の白さを喜ぶと、その両手を食盒に入れて送った。
1191年、皇后が黄貴妃皇帝の妃の中でも高い位の一つを殺し、続く郊祀都の郊外で天地をまつる皇帝の祭りが大風雨に遭うと、光宗は震え恐れて病を得、朝政を見なくなった。近習が離間を謀り、光宗は重華宮の孝宗のもとへ行かなくなった。諫めを聞くと外では悟るが、内に入るとまた疑った。1193年の殿試皇帝が自ら行う官吏登用の最終試験では、三位の答案を自ら首席に引き上げ、陳亮のものと知ると、抜擢は誤らなかったと喜んだ。同じ年、重華宮へ向かう光宗を皇后が止め、陳傅良が裾を引いて諫めたが聞かなかった。
1194年に孝宗が危篤になると、彭亀年は額を打ちつけて諫め、光宗は行くと答えたが、行かないまま孝宗は没した。光宗は病で喪を執らず、宰臣君主を助けて政治を取りしきる大臣が嘉王の立太子跡継ぎの皇子を正式に皇太子と定めることを請うといったん許したが、長く位にあって退きたいという御筆が返った。同じ年、趙汝愚らが太皇太后皇帝の祖母の代の后に贈る称号に請い、その命で嘉王が即位して、光宗は太上皇帝位を子に譲った前の皇帝の称号とされた。1200年に病み、寿康宮で没した。
史料について
黄貴妃の死を、宋史の趙汝愚伝は殺した者を書かず、風雨の後に急死したとする。李皇后伝は病をこれより前に置き、宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男が孝宗の薬を毒だと皇后に吹き込み、立太子を拒まれた皇后が孝宗に廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることの意があると訴えたとする。引き返させたのを、李皇后伝は皇后が酒を勧めたためとし、陳傅良を叱ったとする。本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分の賛は、即位の初めは寵臣を退け賦を軽くするなど取るべき所があるようだったが、宮中の嫉妬を制せずに病を得たと評する。
光宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1189–1194年の地図に、光宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・皇后1・改元1・大赦1
- 皇后1189年2月18日即位当日(淳熙16年2月2日・
壬戌)、孝宗(壽皇聖帝)の詔により元妃李氏(李鳳娘)を皇后に立てる。 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1189年2月20日即位直後、淳熙16年2月4日(甲子)に大赦。
- 改元1189年12月23日元号を「紹熙」とする
- 反乱1190年浦城盜張海の乱
- 反乱1192年宜州蠻の辺境侵犯
- 反乱1192年瀘州騎射卒張信の乱
- 反乱1193年叙州夷賊の辺境侵犯
- 反乱1194年辰州徭賊の辺境侵犯
南宋の歴代皇帝
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