始皇帝
秦|在位 前221–前210年

- 諱(本名)
- 嬴政
- 在位
- 前221–前210年
- 在位期間
- 10年265日365名中126位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 39歳(数え年)172名中・若い順133位タイ
- 没年齢
- 50歳(数え年)269名中・長寿順84位タイ
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
関連動画
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
父・荘襄王の崩御により、13歳で秦王を継承(「年十三歳、荘襄王死、政代立為秦王」)。前221年の天下統一後、既に秦王として在位していた政が自ら「王」から「皇帝」へ称号を変更した(丞相らの上奏「王為泰皇」に対し「去泰、著皇、采上古帝位号、号曰皇帝」と自裁)。皇帝号採用は先行する皇帝政権からの継承・簒奪・建国ではなく、世襲で得た秦王位を保持したまま称号を改めたものであるため、世襲と判定。
出典: 史記・秦始皇本紀
死因の経緯
第5回巡遊の途上で発病し、河北の沙丘平台宮にて崩御(49歳、数え年50歳)。急死とされるが病状悪化による自然死で他殺の記録はない。
出典: 史記・秦始皇本紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
年号制度なし。『史記』秦始皇本紀は「秦王政○年」「始皇○年」の紀年のみで、改元の記述はない。
大赦回数
『史記』秦始皇本紀に「大赦」の語は見当たらない。二十五年条に「天下大酺」(祝宴)の記述はあるが大赦ではないため含めない。
立后回数
『史記』秦始皇本紀に立后の記述なし。始皇帝の皇后についての記載自体が本紀に存在しない。
皇太子廃立回数
『史記』秦始皇本紀に長男扶蘇を正式に皇太子(太子)と冊立した記述は見当たらない(三十七年条で「少子胡亥」との対比はあるが「太子」の語は扶蘇に付されていない)。廃立の対象となる立太子の事実自体が確認できないため0回とする。
親征回数
『史記』秦始皇本紀を通読。皇帝在位期間(二十六年=前221年統一〜三十七年=前210年崩御)に該当する記述には、始皇帝本人が軍を率いて出征した記録は見当たらない。二十六年の斉平定(王賁が指揮)で天下統一を達成した後は、対匈奴(三十二年、蒙恬に三十万を率いさせ北撃)、嶺南平定(三十三年、逋亡人・贅婿・賈人を発して陸梁地を略取、蒙恬が高闕・陽山・北仮中を攻略)、長城建設(三十四年)等いずれも将軍・将吏への派遣で、始皇帝自身が戦陣に赴いた記述はない。統一前の六国征服戦(王翦・桓齮・王賁・蒙武ら将軍が主導)も皇帝在位期間外(前221年より前)のため対象外。二十七〜二十九年・三十七年等の陇西北地巡狩、東方巡狩(琅邪・之罘・会稽等)、封禅は軍を率いた軍事行動ではなく巡遊・封禅のため親征に含めない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
皇帝在位期間(前221〜前210年)中に秦王朝側が鎮圧主体となった反乱の記述は本紀中に見当たらない。統一前の反乱(例:二十一年=前226年の新郑反、二十三年=前224年の項燕・昌平君の反秦)は即位前(秦王政時代)の出来事であり対象外。陳勝・呉広の蜂起(張楚、二世皇帝元年七月=前209年)は始皇帝崩御(前210年七月)後、二世皇帝の治世に起きた事件であり本人の在位期間外のため含めない。該当記事なし。
被反乱回数
皇帝在位期間中に始皇帝自身に対して起こされた反乱(軍事的蜂起)の記述はない。二十九年(前218年)の陽武博浪沙での狙撃未遂(後世の伝承で張良による企図とされる)や三十一年(前216年)の咸陽微行中の蘭池での「盗」との遭遇は、いずれも刺客・盗賊による襲撃であり、軍を率いた蜂起・反乱とは性質が異なるため反乱としては数えない(同様に即位前の前227年の荊軻刺殺未遂も既に別カウントで扱われるべき事案であり対象外)。三十六年の隕石に刻まれた「始皇帝死而地分」やこれに続く占い等も反乱ではなく凶兆・流言の記述。該当記事なし。
遷都回数
史記・秦始皇本紀を通読。孝公以来の国都咸陽が始皇帝・二世皇帝の代を通じて一貫した国都であり、在位中の遷都の記録はない(阿房宮等の宮殿増築はあるが都自体の移転ではない)。
即位時年齢・没年齢
『史記』秦始皇本紀冒頭「以秦昭王四十八年正月生於邯鄲」(生年月の直接記載、日不詳のためbirthDatePrecisionはmonth)。同箇所「年十三歳、荘襄王死、政代立為秦王」(数え年13歳で秦王に即位、前247年)とあるが、これは王位即位時の年齢であり、本データセットの収録基準である皇帝号採用(前221年、天下統一時)時点の年齢ではない。皇帝即位時(reigns[0].startDateRaw=始皇帝26年)の年齢は、王位即位(前247年・数え13歳)から皇帝号採用(前221年)までの年号差26年により逆算し数え39歳とした(生年前259年正月からの直接計算259-221+1=39とも一致し相互検証済み)。没年齢は本紀に「時年◯」の直接記載はないが、生年(前259年)と既存deathCause.note・reigns[0].endDate(-0209-09-10=前210年、七月丙寅・沙丘平台にて崩御)から算出すると数え50歳となり、deathCause.noteに既に記載の「49歳、数え年50歳」とも整合する(王位即位13歳からの逆算13+(210-247)... 検算は259-210+1=50で一致)。