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始皇帝の肖像画

秦第1代

始皇帝嬴政

在位 前221–前210年(10年265日)前221年 〜 前210年9月10日

日本は弥生時代

六国を降して天下を統一し、王の号を改めて皇帝と名乗った最初の人物である。

始皇帝の人物データ

生年
前259年
在位
  • 秦王前247年〜前221年
  • 皇帝前221年〜前210年9月10日
10年265日長い順125位/365人13歳で秦王・39歳で皇帝(数え年)
没年
前210年9月10日50歳(数え年)長生き順同率83位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
(経緯記載なし)
先代
  • 荘襄王始皇帝は荘襄王の子
次代
呼び名
姓嬴諱政別名秦始皇・趙政呼び名の見方

出典

在位
史記 巻六 秦始皇本紀
死因
史記・秦始皇本紀
即位経路
史記・秦始皇本紀

生涯

どんな皇帝か

天下をに分け、度量衡・・文字をそろえた。史記が引く賈誼の論は、功臣を信じず人に問わず過ちを改めなかったと評し、秦が滅んだのは、天下を取るときと守るときとで形勢が違うのに仁義を施さなかったからだとまとめる。

即位まで

史記のは、始皇帝を秦の荘襄王の子とし、荘襄王が趙で人質だったときに呂不韋の姫を娶って始皇帝が生まれたと記す。同じ史記の呂不韋列伝は、呂不韋が身ごもったと知っている姫を子楚(のちの荘襄王)に献じ、姫はそれを隠して子を産んだという話を載せる。三家注はこの出産の時期を常より二か月長い十二か月と注し、資治通鑑は姫が一年身ごもって子を産んだと書く。この話のとおりなら姫は呂不韋の子を一年ほど身ごもっていたことになり、このサイトの続柄は本紀に従って荘襄王を父としている。荘襄王が没すると、秦王に立った。

治世と最期

嫪毐の乱の翌年、母の太后を遠ざけたままでは諸侯が背くと茅焦に説かれ、咸陽へ迎え戻した。尉繚を対等の礼で迎えたが、尉繚は、困ったときは人にへりくだるが志を得れば人を食うことも軽く考える人だと言って逃げ出し、秦王は引き止めて国尉に任じた。趙を降すと邯鄲へ行き、幼いころ母の家と恨みのあった者たちを皆生き埋めにした。荊軻に襲われたときは長い剣が抜けず柱をめぐって逃げ、そばの者に剣を背に回せと言われて抜き、荊軻の左の股を斬った。楚攻めに六十万人が要るという王翦を老いて臆病だと退け、李信を用いて大敗すると、自ら王翦に謝りに行って六十万人を任せた。

李斯の進言で秦の記録以外の史書と民間の詩書を焼かせ、が逃げたことに怒って、禁を犯した四百六十余人を咸陽で生き埋めにし、諫めた長子の扶蘇を北辺の蒙恬のもとへ出した。逃げた方士たちは、獄吏ばかりを任じて刑罰で威を示し、決めた量の書類を読むまで休まない人だと語り合っていた。

最後の巡遊の途中で病み、扶蘇に、喪に加わり咸陽で葬儀をせよという書を作ったが、使者に渡る前に沙丘で没した。李斯は死を伏せて喪を発せず、趙高は胡亥・李斯とはかってこの書を破り、李斯がを受けたと偽って胡亥を太子に立て、扶蘇と蒙恬には死を命じる書を送った。本紀も李斯列伝も地の文ではこの書を後継の指名とはっきり書かず、李斯列伝では趙高が李斯に、咸陽で喪を迎えて跡継ぎに立てよという書だと語っている。

始皇帝とつながる皇帝

戦国の勢力図(前247年)

勢力図

戦国の勢力図で見る

前247–前221年の地図に、始皇帝が治めた国が描かれています。

秦の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

秦・前漢の時代を年表で見る

秦が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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