中国皇帝統計

二世皇帝

秦|在位 前210–前207年

諱(本名)
嬴胡亥
在位
前210–前207年
在位期間
2年360日365名中225位
即位経路
擁立
死因
自尽
即位時年齢
21歳(数え年)172名中・若い順80位タイ
没年齢
23歳(数え年)269名中・長寿順219位タイ
改元
0
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
4225名中101位タイ
被反乱
8289名中59位タイ
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

始皇帝が沙丘で崩御した際、丞相李斯・中車府令趙高が正式な遺詔(長子扶蘇宛て「與喪會咸陽而葬」の書)を秘匿・破棄し、始皇帝の遺詔と偽って胡亥を太子に立てた(「更詐爲丞相斯受始皇遺詔沙丘、立子胡亥爲太子」)。『李斯列伝』によれば胡亥は当初「廢兄而立弟、是不義也」と拒否したが趙高の説得に折れて同意し、三者共謀で偽詔を作成、扶蘇・蒙恬に自死を命じた(沙丘の変)。計画の主導は趙高・李斯にあり、正当な遺詔に基づく世襲ではないため擁立と判定。

出典: 史記・秦始皇本紀/史記・李斯列傳

死因の経緯

趙高の専横に対し謀反を企てた趙高の娘婿・閻楽が兵を率いて望夷宮を襲撃し、胡亥に自裁を強要(望夷宮の変)。胡亥は郡王・万戸侯・平民としての助命を求めたが認められず、自ら命を絶った。形式は自殺だが実質は趙高一派による弑逆である。

出典: 史記・秦始皇本紀/史記・李斯列傳補記: 『史記』始皇本紀に本筋(閻楽が直接自裁を迫った)、『史記』李斯列伝に異説(趙高が3日後に喪服の兵で脅し自殺させた)の2系統あり。いずれも趙高一派による強要という点は一致。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

年号制度なし。「二世皇帝元年」の紀年のみで改元の記述はない。

大赦回数

『史記』秦始皇本紀の二世皇帝在位期間の記事に「大赦」の語は見当たらない。

立后回数

『史記』秦始皇本紀に二世皇帝の立后の記述なし。

皇太子廃立回数

在位中に皇太子を立てた記述自体がなく、廃立の記述もない。(自身の即位経緯は趙高らによる偽詔「立子胡亥為太子」だが、これは即位経路の論点でありcrownPrinceDepositionCountの対象外)

親征回数

『史記』秦始皇本紀のうち二世皇帝元年(前209年)~三年(前207年8月崩御)の記事を確認したが、二世自身が軍を率いて出征した記録は見当たらない。元年春に『東行郡県』して碣石・会稽等の始皇帝刻石を巡覧しているが、これは始皇帝の巡遊を模した示威目的の巡行であり、軍事行動を伴う親征ではない。陳勝・呉広の乱以降の全ての軍事行動(陳勝討伐、項梁討伐、魏咎討伐、鉅鹿の戦い等)は少府章邯・長史司馬欣・董翳ら将軍に委任されており、二世本人は終始咸陽・望夷宮に留まっている。よって該当記事なしと判断し0件とする。

反乱鎮圧回数

本紀では『山東郡県少年苦秦吏、皆殺其守尉令丞反、以応陳渉、相立為侯王…不可勝数也』とあり、無数の小規模蜂起が同時多発したことが示唆されるが、個別の首謀者名・鎮圧経緯は記されないため集計対象外とした。また田儋(斉)・沛公劉邦(後の武関突破)に対しては、本紀内に政権側(二世・章邯ら)が具体的に鎮圧行動を取った記事が見当たらないため、鎮圧回数には含めていない(被反乱回数には計上)。鉅鹿の戦いを趙歇・項羽で2件に分割せず1件としたため、被反乱回数(8件)より少ない4件となっている。

被反乱回数

本紀原文には『山東郡県少年苦秦吏、皆殺其守尉令丞反、以応陳渉、相立為侯王、合従西郷、名為伐秦、不可勝数也』とあり、名前が記されない無数の小規模蜂起が同時多発的に起きたことが示唆される。これらは個別の首謀者名が本紀に記されないため件数には含めていない。したがって本カウント(8件)は本紀に名前が明記された主要な首謀者・勢力に限った最小値であり、実際の反乱件数はこれを大きく上回っていた可能性が高い。武臣→趙歇の首謀者交代、項梁→項羽の指揮官交代、望夷宮の変の性質判断など複数の解釈の余地がある点でconfidenceをmediumとした。

遷都回数

史記・秦始皇本紀を通読。孝公以来の国都咸陽が始皇帝・二世皇帝の代を通じて一貫した国都であり、在位中の遷都の記録はない(阿房宮等の宮殿増築はあるが都自体の移転ではない)。

即位時年齢・没年齢

『史記』秦始皇本紀に「二世皇帝元年、年二十一」と直接記載があり、これを即位年(二世元年=前209年、始皇帝崩御の翌年)時点の年齢=21歳(数え年)として採用した。没年齢は、同紀末尾の秦記(年表形式の付記)にある「二世皇帝享国三年」の記述と、崩御が「二世三年八月」であることから、元年(21歳)から三年まで2年分を加算する年号年ラベル差分の逆算により23歳とした(元年→三年で+2年、21+2=23)。ただし同じ秦記付記中に「二世生十二年而立(二世は12歳で即位した)」という、本紀本文の「年二十一」と直接矛盾する記載も存在する(始皇帝の「生十三年而立」等、他の秦王には整合的な記載があるのに対し、二世の「十二」は本文の「二十一」と食い違う)。この「十二」は古来テキストの誤写(「二十一」の転倒等)が疑われている箇所として知られており、本調査では本紀本文の直接記載「年二十一」をより信頼できる一次情報として採用したが、確定的な解消ができないためconfidenceはmediumとした。生年月日そのものの直接記載は原典に見当たらず、逆算による推定生年(前229年頃)も上記の年齢記載の矛盾を反映して確度が低いため、birthDateはnullのままとした。没日は既存reignsのendDate(前207年10月1日、旧暦二世3年8月16日)と一致するため、これをdeathDateとして採用した。

在位中の出来事(12件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

被反乱前209年〜前207年武臣の趙地自立(のち趙王歇に交代)

首謀者: 武臣(のち趙王歇)

結果: 秦軍(章邯・王離)の鉅鹿包囲を項羽の救援により撃退し、趙は存続

元年、武臣が趙で自立し趙王となったことのみ本紀に記されるが、その後いつの間にか『趙王歇』に交代しており、本紀内には武臣個人の結末(他書によれば部将李良に殺害され、張耳・陳余が趙歇を擁立)の記載がない。同一の趙地反乱の継続とみなし1件としたが、首謀者の交代を伴う点で判断が難しく、武臣期と趙歇期を分けて2件とする見方もありうる。

被反乱前209年〜前208年魏咎の魏地自立

首謀者: 魏咎

結果: 鎮圧され魏咎は死亡(臨済陥落、魏滅亡)

本紀には簡潔に『魏咎为魏王』『灭魏咎临济』とのみ記され、詳細な経緯は語られない。

被反乱前209年田儋の斉地自立

首謀者: 田儋

結果: 不詳(本紀内に結末の記述なし)

二世元年、田儋が斉で自立して斉王となったことのみ記され、その後の顛末(他書によれば後に章邯に敗死したとされる)は本紀(秦始皇本紀)には一切言及がないため、本記事を主典拠とする本調査では確認できず、終了日は不明とした。

被反乱前209年〜前208年項梁の会稽挙兵(楚)

首謀者: 項梁

結果: 項梁は定陶の戦いで章邯に敗れ戦死

元年に会稽郡で挙兵。二年、章邯に定陶で撃破され戦死。指揮は甥の項羽に引き継がれる(別項参照)。

被反乱前209年〜前207年劉邦の沛での挙兵、武関突破

首謀者: 劉邦(沛公)

結果: 未鎮圧のまま進撃を継続し武関を突破、関中に迫る

元年秋『沛公起沛』と挙兵、三年に『沛公将数万人已屠武関』と武関を突破したことが記される。この軍事的圧迫が趙高による二世弑逆(望夷宮の変)の直接的引き金となった。劉邦の関中侵入・秦の滅亡自体は二世死後(子嬰期)だが、武関突破という軍事行動自体は二世在位中の出来事である。

被反乱前209年7月〜前208年12月陳勝・呉広の乱(張楚)

首謀者: 陳勝(呉広)

結果: 反乱側敗北(陳勝は城父で死亡、部将周章も曹陽で自殺に追い込まれた)

二世元年七月、戍卒であった陳勝・呉広が蕲県で挙兵し『張楚』を称して自立した。山東の諸郡県はこれに呼応して秦の守尉令丞を殺し次々と自立、その後の項梁・項羽・劉邦らの挙兵の口火となった、秦崩壊の起点となる反乱。

反乱鎮圧前208年張楚(陳勝・呉広の乱)に対する鎮圧

首謀者: 陳勝(陳渉)

結果: 鎮圧成功

元年七月に蕲県で挙兵した陳勝が「張楚」を称し西進、その部将周章が戯(咸陽近郊)まで迫ったため、二世は驪山の刑徒を赦免して章邯に授兵、周章軍を撃破して曹陽で誅殺した。さらに長史司馬欣・董翳を増派し、陳勝を城父で討った(史書によれば実際に陳勝を殺したのはその御者荘賈だが、本紀では章邯方の軍事的圧力による帰結として記述されている)。すべて『二年』内の出来事として記される。

反乱鎮圧前208年項梁の会稽挙兵(楚)に対する鎮圧

首謀者: 項梁

結果: 鎮圧成功(項梁戦死)

章邯が楚将項梁の軍を定陶で撃破し、項梁は戦死した。本紀の記述は簡潔で具体的な月日は示されないため、二年内の出来事としてyear精度とした。項梁の死後、指揮は甥の項羽に引き継がれ、鉅鹿の戦いにつながる。

反乱鎮圧前208年魏咎の魏自立に対する鎮圧(臨済陥落)

首謀者: 魏咎

結果: 鎮圧成功(魏滅亡)

本紀には「灭魏咎临济」とのみ簡潔に記され、詳細な経緯(魏咎自殺等)の記載はない。二年内の出来事とした。

反乱鎮圧前208年〜前207年鉅鹿の戦い(趙地反乱の鎮圧試み)

首謀者: 趙王歇(武臣の後継)・項羽

結果: 鎮圧失敗(章邯が諸侯に降伏)

章邯は北に渡河して趙を攻め、王離とともに鉅鹿で趙王歇らを包囲した(三年)。しかし楚上将軍項羽が救援に駆けつけて秦軍を急撃、王離を捕虜とし、章邯らはついに諸侯(項羽)に降伏した。同一の包囲戦・戦闘であるため、趙歇(被包囲側の名目上の反乱主体)と項羽(実際に秦軍を撃破した勢力)への対応を1件の政権側鎮圧キャンペーンとして統合した。この敗北・章邯の投降が秦崩壊の直接的な軍事的転機となった。

被反乱前208年〜前207年項羽による楚軍指揮・鉅鹿救援

首謀者: 項羽

結果: 項羽が秦軍主力(章邯・王離)を撃破し、王離を捕虜、章邯を諸侯に降伏させた

叔父項梁の戦死後、楚軍上将軍として指揮を執り、鉅鹿で秦軍を包囲されていた趙軍を救援。この勝利で秦の主力軍事力が事実上崩壊し、秦滅亡の決定的転機となった。項梁と首謀者(指揮官)が交代しているため、独立した反乱として別項に計上した。

被反乱前207年8月16日望夷宮の変

首謀者: 趙高(実行者は女婿の咸陽令閻楽)

結果: 閻楽に迫られ二世は自殺に追い込まれた

判断が難しいケース。丞相趙高が女婿の咸陽令閻楽・弟の趙成と共謀し、偽の大賊出現を口実に閻楽に吏卒千余人を発させ望夷宮を包囲・突入、二世に自裁を迫った事件。外部の独立した武装反乱勢力による蜂起ではなく、朝廷内部の権力者(丞相)が親族の官職・武力を利用して起こした宮廷クーデターという性格が強く、陳勝・項梁・劉邦らの反乱とは性質が異なる。他方で、閻楽が武装した兵卒を率いて実力で宮殿に侵入し皇帝を自殺に追い込んだという点では、武力による皇帝への反抗という広義の『反乱』の定義に合致するとも解釈できる。deathCauseと内容が重複してよいとの指示に従い、本調査ではこれを被反乱回数に含めることとしたが、confidenceはmediumとする。含めない立場を取る場合は、これを体制内クーデター(政変)として反乱カウントから除外し、死因(deathCause)側でのみ扱うのが妥当という考え方もある。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。