中国皇帝統計

宣宗

唐|在位 846–859年

宣宗の肖像
諱(本名)
李忱
在位
846–859年
在位期間
13年144日365名中99位
即位経路
擁立
死因
病死
即位時年齢
37歳(数え年)172名中・若い順127位タイ
没年齢
50歳(数え年)269名中・長寿順84位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
6267名中67位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
3289名中146位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

武宗に実子があったにもかかわらず、左神策軍中尉馬元贄が武宗の叔父にあたる光王怡(宣宗)を擁立し皇太叔とした。

出典: 新唐書 本紀第八(武宗)

死因の経緯

本紀自体に丹薬記述はないが、資治通鑑に医官・道士の薬を服用し背中に疽(腫れ物)が生じ悪化して崩御した経過が記される。即位後、服薬を勧めた3名が処刑されており薬に死の責が帰されたことがうかがえる。丹薬中毒による病死と判定。

出典: 旧唐書 本紀第十八下(宣宗)/資治通鑑 巻249(唐紀65・大中十三年)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

宣宗の在位13年間(846-859)を通じて年号は「大中」のみが用いられ、これ以外の改元は本紀・資治通鑑ともに一切記載されていない。即位に伴う建元は1回として計上。

大赦回数

全国規模の「大赦」「赦天下」のみを計上。大中五年の「赦南山党項」「赦平夏党項」(資治通鑑・新唐書)は反乱鎮圧に伴う地域限定の恩赦であるため除外した。また大中十三年冬十月辛卯の「赦天下」(資治通鑑)は宣宗崩御(同年8月)後、懿宗即位後の出来事であるため宣宗の治世には計上していない。旧唐書の本紀は簡略なため一部の大赦記事を欠くが、新唐書・資治通鑑の相互照合により6回全てを高確信度で確認した。

立后回数

旧唐書・新唐書の宣宗本紀、資治通鑑いずれにも宣宗自身による皇后冊立の記事は見当たらない。皇太后として言及される「貞獻皇后」(文宗の母・積慶太后蕭氏)「懿安皇后」(憲宗妃・穆宗の母・郭氏)はいずれも宣宗の后ではなく先代の皇太后。宣宗の子(後の懿宗)の生母である晁昭容は、宣宗崩御後に懿宗によって初めて「元昭皇太后」に追尊されたものであり(大中十三年九月「追尊上母晁昭容為元昭皇太后」)、宣宗の治世中に皇后として冊立された事実はない。

皇太子廃立回数

宣宗は在位13年間、意図的に皇太子を立てなかった(資治通鑑:「時上春秋已高,未立太子,群臣莫敢言」「上曰:『若建太子,則朕遂為閑人。』」)。崩御直前の大中十三年八月壬辰に至って初めて郓王温を皇太子に立て(「下詔立郓王為皇太子,權句當軍國政事」)、その翌日(癸巳)に崩御し、そのまま懿宗として即位した。廃立された皇太子は存在しない。

親征回数

旧唐書本紀第十八下(宣宗)を通読。在位13年間、宣宗自身が軍を率いて出征した記事は皆無。秦・原・威・維州等の吐蕃からの故地回復(大中三年〜五年)も康季荣・郑涯・李玭・杜忭ら将軍・節度使による軍事行動であり、宣宗本人は終始長安宮中に留まり親征していない。

反乱鎮圧回数

原典(旧唐書宣宗紀)は極めて簡略な記述のため、他の反乱鎮圧事例(例:秦・原・威・維州の吐蕃からの回復)は宣宗自身の政権に服属していなかった外国勢力(吐蕃)相手の対外戦争であり除外。大中三年十一月の「幽州軍乱,逐其留后张直方,军人推其衙将周綝为留后」は、朝廷側が武力鎮圧を行わずそのまま周綝の留后就任を追認しただけで鎮圧行動が確認できないため、本カウントには含めていない(rebellionSufferedCountには計上)。

被反乱回数

幽州軍乱の扱いは解釈の余地がある(朝廷が鎮圧行動を取らず追認した事例のため、鎮圧・被反乱の非対称カウントとした)。南蛮の安南侵攻(大中十二年六月「南蛮攻安南府」)は服属していない外国勢力(南詔)との対外戦争のため除外。吐蕃からの秦・原・威・維州等回復関連の記事も、対象が服属民ではなく吐蕃という外国勢力であるため除外。

遷都回数

旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。

即位時年齢・没年齢

既存レコードのages(confidence:high)をそのまま再利用。旧唐書本紀第十八下(宣宗)に「元和五年六月二十二日,生于大明宫」「翌日,柩前即帝位,改今名,時年三十七」「八月七日……是日,崩于大明宮,聖壽五十」と明記されている(本調査でも同じ原典箇所を再確認し内容一致を確認済み)。

在位中の出来事(12件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

被反乱849年11月幽州軍乱(留後張直方追放事件)

首謀者: 幽州軍(衙将周綝を推戴した将兵)

結果: 留後張直方は軍によって武力で追放され、朝廷は追討を行わず衙将周綝の留後就任をそのまま追認した(後年、張直方は邠州員外司馬等に左遷)。

旧唐書本紀第十八下(宣宗)大中三年十一月条「幽州軍乱,逐其留后张直方,军人推其衙将周綝为留后」。武力行使(挙兵)を伴う政権機構内(幽州=盧龍鎮、唐の統治機構下)への反抗行為であり被反乱に該当するが、朝廷側は鎮圧を行わず結果を追認したためrebellionSuppressionCountには計上していない(非対称の理由:鎮圧が一切試みられないまま事態が収束したケース)。

反乱鎮圧858年8月洪州賊毛合の乱

首謀者: 毛合

結果: 詔により両浙の兵を派遣し討平(鎮圧成功)。

旧唐書本紀第十八下(宣宗)大中十二年八月条「洪州贼毛合、宣州贼康全大攻掠郡县,诏两浙兵讨平之」。洪州(江南西道)の賊首毛合が郡県を攻略・略奪し、両浙の兵により鎮圧された。

反乱鎮圧858年8月宣州賊康全大の乱

首謀者: 康全大

結果: 詔により両浙の兵を派遣し討平(鎮圧成功)。

旧唐書本紀第十八下(宣宗)大中十二年八月条、上記毛合の乱と同時期・同一詔で言及される別の賊首(宣州=宣歙管内)。首謀者・蜂起地点が毛合とは別であるため別件として計上。

被反乱858年8月洪州賊毛合の乱

首謀者: 毛合

結果: 両浙の兵により討平された。

rebellionSuppressionCountと同一の反乱(毛合)。

被反乱858年8月宣州賊康全大の乱

首謀者: 康全大

結果: 両浙の兵により討平された。

rebellionSuppressionCountと同一の反乱(康全大)。

改元大中元年正月甲寅(戊申)(847年)会昌六年三月即位後も年末までは武宗の「会昌」年号を継続使用し、翌年(大中元年)正月の郊祀(圜丘祭祀)の日に「大中」へ改元。

会昌六年三月即位後も年末までは武宗の「会昌」年号を継続使用し、翌年(大中元年)正月の郊祀(圜丘祭祀)の日に「大中」へ改元。旧唐書・新唐書・資治通鑑いずれも「大赦,改元」等と同日の記事として一致。

出典: 旧唐書本紀第十八下(宣宗)/新唐書本紀第八(宣宗)/資治通鑑巻248(唐紀64)

大赦会昌六年五月乙巳(846年)即位直後の大赦。

即位直後の大赦。この時点ではまだ武宗の会昌年号を継続使用中(改元前)。旧唐書は「(五月)今月五日赦書節文」として間接的に言及、新唐書・資治通鑑は「赦天下」と明記。

出典: 資治通鑑巻248(唐紀64)/新唐書本紀第八(宣宗)

大赦大中元年正月甲寅(戊申)(847年)郊祀(圜丘祭祀)に伴う大赦。

郊祀(圜丘祭祀)に伴う大赦。改元(会昌→大中)と同日に実施。

出典: 旧唐書本紀第十八下(宣宗)/新唐書本紀第八(宣宗)/資治通鑑巻248

大赦大中二年正月甲子(848年)群臣による尊号奉呈(聖敬文思和武光孝皇帝)に伴う大赦。

群臣による尊号奉呈(聖敬文思和武光孝皇帝)に伴う大赦。旧唐書は「御宣政殿受冊訖,宣徳音」とのみ記し「大赦」の語を明記しないが、新唐書・資治通鑑は「大赦」「赦天下」と明記。

出典: 新唐書本紀第八(宣宗)/資治通鑑巻248

大赦大中四年正月庚辰(850年)順宗・憲宗への追尊(二聖追尊)に伴う大赦天下。

順宗・憲宗への追尊(二聖追尊)に伴う大赦天下。三史(旧唐書・新唐書・資治通鑑)すべてが明記し一致。

出典: 旧唐書本紀第十八下(宣宗)/新唐書本紀第八(宣宗)/資治通鑑巻249(唐紀65)

大赦大中七年正月戊申(853年)郊祀(南郊)に伴う大赦。

郊祀(南郊)に伴う大赦。旧唐書の本紀では明記が見当たらないが、新唐書・資治通鑑は「有事于南郊,大赦」と明記。

出典: 新唐書本紀第八(宣宗)/資治通鑑巻249(唐紀65)

大赦大中十三年正月戊午(859年)宣宗最後の年の年始大赦。

宣宗最後の年の年始大赦。旧唐書の本紀では明記が見当たらないが、新唐書・資治通鑑は「大赦」「赦天下」と明記。宣宗はこの年の8月に崩御。

出典: 新唐書本紀第八(宣宗)/資治通鑑巻249(唐紀65・大中十三年)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。