宣宗の人物データ
- 生年
- 810年7月27日
- 在位
- 846年4月22日〜859年9月7日
- 没年
- 859年9月7日50歳(数え年)長生き順同率83位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓李諱忱呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 本紀第十八下 宣宗(校合:本紀第十八上 武宗、新唐書 本紀第八 穆宗敬宗文宗武宗宣宗、唐会要 巻一 帝号、資治通鑑 巻二百四十九 唐紀六十五)
- 死因
- 旧唐書 本紀第十八下(宣宗)/資治通鑑 巻249(唐紀65・
大中十三年) - 即位経路
- 新唐書 本紀第八(武宗)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は大中の十余年を称え、資治通鑑は小太宗と呼ばれたと書くが、新唐書の賛は、裁きに精しかったが察を明として仁恩が無く、これ以後唐は衰えたと評する。
即位まで
治世と最期
即位の直後に李徳裕を荊南へ出した。848年、憲宗の皇后で太皇太后皇帝の祖母の代の后に贈る称号の郭氏が没した。
849年、李徳裕を崖州へ貶して、恩赦があっても移さないとした。同じ年、吐蕃の論恐熱が秦・原・安楽の三州と七関の兵民をもって帰順し、制は百年近く失われていた河・湟の地の回復を称えた。851年には沙州の張義潮が十一州をもって唐に帰した。
859年に病んで朝に出られなくなり、没した。宣宗は寵愛する夔王を王帰長らに託していたが、宦官の王宗実らが鄆王を迎えて立て、王帰長らは殺された。
史料について
郭氏の死を、新唐書の后妃伝は、宣宗の礼が薄いのを悲しんで楼から身を投げようとし、宣宗が喜ばなかったその夜に急死したとし、資治通鑑は宣宗が大いに怒ったその夕とする。旧唐書の后妃伝は宣宗の恩礼は厚かったとし、資治通鑑の考異は病死だったかもしれないと推す。資治通鑑と新唐書の畢諴伝は、医官の李玄伯らの薬を服して背に腫れ物ができたとし、両唐書の本紀は書かない。後継を、旧唐書の本紀は遺詔で立てたとし、新唐書の懿宗紀は王宗実らが詔を偽ったとし、資治通鑑と杜悰伝は王宗実が王帰長らの詔を偽りと責めたとする。
宣宗とつながる皇帝

勢力図
唐の勢力図で見る
846–859年の地図に、宣宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱3・改元1・大赦6
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。846年6月2日即位直後の大赦。
- 改元847年元号を「大中」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。847年郊祀(圜丘祭祀)に伴う大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。848年群臣による尊号奉呈(聖敬文思和武光孝皇帝)に伴う大赦。
- 反乱849年幽州軍乱(留後張直方追放事件)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。850年順宗・
憲宗への追尊(二聖追尊)に伴う大赦。 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。853年郊祀(南郊)に伴う大赦。
- 反乱858年洪州賊毛合の乱
- 反乱858年宣州賊康全大の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。859年2月7日宣宗最後の年の年始大赦。
唐の歴代皇帝
歴代21人の一覧- 第1代高祖李淵618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗683–684年705–710年(復位)暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年710–712年(復位)病死
- 周武則天690–705年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–826年暗殺
- 第17代文宗826–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年901–904年(復位)暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 歴代外李裕900–901年暗殺
- 歴代外李承宏763年不詳
- 歴代外襄王李熅886年処刑
年表
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