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懿宗の肖像画

唐第20代

懿宗李漼

在位 859–873年(13年336日)859年9月13日 〜 873年8月15日

日本は平安時代

音楽と宴遊にふけって楽工を寵愛し、愛娘の死に医官らを罰した唐の皇帝である。

懿宗の人物データ

生年
833年12月28日
在位
  • 859年9月13日〜873年8月15日
13年336日長い順94位/365人27歳で即位(数え年)
没年
873年8月15日41歳(数え年)長生き順同率126位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 宣宗唐懿宗は宣宗の子
次代
  • 僖宗唐僖宗は懿宗の子
呼び名
姓李諱漼呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 本紀第十九上 懿宗
死因
旧唐書 本紀第十九上(懿宗)/資治通鑑 巻252(唐紀68・咸通十四年)
即位経路
資治通鑑 巻250(唐紀66・大中十三年)

生涯

どんな皇帝か

旧唐書のは、即位当初は政務に励み正しい意見を受け入れたが、器量は凡庸で側近に流されたと評する。

即位まで

宣宗の長子で、母は晁氏である。鄆王に封じられた。で重い病にかかったとき、看病していた郭氏が黄龍を見た。病が癒えてからそれを告げると、決して二度と言うなと答えた。太子を立てる話を嫌う宣宗のもとで、ながら外宮に住んで憂えていた彼を、郭氏がそばで守り慰めた。859年に宣宗が没すると、柩の前で即位した。

史料について

旧唐書のは宣宗のによるとだけ記し、新唐書と資治通鑑はの王宗実が立てたとする。詔を偽ったのを、新唐書は王宗実の側、資治通鑑は相手の王帰長らの側とする。

治世と最期

音楽と宴遊を好み、行幸に付き従う者は十万余人に上った。867年、新しい曲を作るのが上手な楽工の李可及を将軍にし、宰相の曹確の諫めに従わなかった。868年、桂林を守っていた徐州の兵が龐勛を立てて帰還し、徐州を陥れた。869年に徐州は取り戻され、龐勛は死んだ。

870年、郭淑妃の生んだ愛娘の同昌が没すると、医官らを殺させ、その親族三百人あまりを獄につないだ。諫めた宰相の劉瞻との温璋を叱りつけて退け、劉瞻は貶され、温璋も貶されて毒を仰いで死んだ。872年には、郭淑妃の弟の悪事を訴えた韋殷裕を、その日のうちに打ち殺させた。

873年、鳳翔の法門寺からを迎えさせ、群臣の諫めに、生きて見られれば死んでも恨みはないと答えた。同じ年に病が重くなり、普王が皇太子に立てられて、懿宗は咸寧殿で没した。

史料について

龐勛の最期を、旧唐書の本紀は渙河で溺死したとし、資治通鑑は蘄県の乱戦の中で死んだとする。両唐書の劉瞻伝は医官を獄に下したと書き、殺したとは書かない。温璋の死を、旧唐書の温璋伝だけは首をくくったとする。群臣の諫めと懿宗の答えは資治通鑑にあり、旧唐書の本紀には無い。普王を立てたのを、旧唐書の本紀は制によるとだけ書き、新唐書と資治通鑑はの劉行深・韓文約とする。

懿宗とつながる皇帝

唐の勢力図(859年)

勢力図

唐の勢力図で見る

859–873年の地図に、懿宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱4・改元1・大赦6
  1. 859年11月
  2. 改元860年元号を「咸通」とする
  3. 860年
  4. 862年
  5. 反乱862年徐州銀刀軍の乱
  6. 863年円丘祭祀ののちの大赦。
  7. 866年安南(交趾)平定を理由に宣政殿にて大赦。
  8. 反乱868–869年龐勲の乱(徐州・桂林戍卒の乱)
  9. 870年
  10. 反乱873年1月( 872年12月)雲州(大同軍)の乱
  11. 反乱日付不詳裘甫(仇甫)の乱(浙東)

唐の歴代皇帝

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年表

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