中国皇帝統計

懿宗

唐|在位 859–873年

懿宗の肖像
諱(本名)
李漼
在位
859–873年
在位期間
13年340日365名中95位
即位経路
擁立
死因
病死
即位時年齢
27歳(数え年)172名中・若い順102位タイ
没年齢
41歳(数え年)269名中・長寿順128位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
6267名中67位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
3225名中129位タイ
被反乱
4289名中127位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

旧唐書は平穏な即位のように記すが、資治通鑑は宣宗が末子の夔王滋への譲位を密かに枢密使らに託していたところ、左軍中尉王宗実がこれを見破り長子・鄆王温(懿宗)を迎立し謀反者を誅殺したと記す。長子という正統性はあったが実際の即位決定は宦官勢力間の主導権争いの結果のため擁立と判定。

出典: 資治通鑑 巻250(唐紀66・大中十三年)

死因の経緯

単純な発病から重篤化・崩御の経過で、丹薬等への言及はない。

出典: 旧唐書 本紀第十九上(懿宗)/資治通鑑 巻252(唐紀68・咸通十四年)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

懿宗の在位期間(859-873)を通じて使用された年号は「咸通」のみ。旧唐書・新唐書・資治通鑑いずれにも咸通元年から咸通十四年(崩御)まで別の年号への変更は見られない。よって在位中の改元は即位に伴う最初の建元1回のみ。

大赦回数

旧唐書・新唐書・資治通鑑を突き合わせ、在位中に計6回の全国規模「大赦」を確認した。咸通十四年四月(法門寺迎仏骨の際)についても新唐書は簡略に「大赦」と記すが、旧唐書に引く詔勅本文は「十恶忤逆・故意杀人・官典犯赃等を除き余罪は节级递减一等」という限定的な减刑であり、無条件の大赦天下ではないため計上から除外した(資治通鑑も同事象を「下德音,降中外系囚」と表現し「大赦」の語を用いない)。また資治通鑑にみえる咸通十四年十月癸卯の「赦天下」は懿宗崩御(同年七月)後、まだ改元前で「咸通十四年」表記のまま続く僖宗治世下の出来事であるため、懿宗自身の在位中の大赦としては計上していない。咸通十一年(または十二年)の尊号奉呈時の大赦は史料間で紀年に不一致があるが、事象自体の存在は三史料とも一致している。

立后回数

新唐書 后妃伝により、懿宗の在位中に皇后が一度も正式冊立されていないことを確認した。最も寵愛した王氏(普王=僖宗の母)は「咸通中,册号贵妃」とあり貴妃止まりで、皇太后として追尊・懿宗廟へ祔られたのは咸通十四年に子の僖宗が即位した後のことであり、懿宗自身による立后ではない。同じく寵愛の厚かった郭淑妃(同昌公主の母)も終始「淑妃」であり皇后になっていない。よって懿宗自身の治世中の立后は0回。

皇太子廃立回数

懿宗の在位中(859-873)に皇太子が立てられたのは、崩御直前の咸通十四年七月(資治通鑑:庚辰。旧唐書コーパスは同日を「庚午」と記すが日付の前後関係から庚辰の誤記と推定される)に普王俨(後の僖宗)を皇太子としたただ一度のみで、それ以前に皇太子を立てた記録がない。したがって廃立(既に立てられていた皇太子を廃する行為)も発生していない。立太子そのものは0回のカウント対象外である。

親征回数

旧唐書本紀第十九(懿宗)を通読したが、懿宗自身が軍を率いて出陣した記録は見当たらない。浙東(裘甫/仇甫の乱)・徐州(銀刀軍の乱、庞勋の乱)・安南/邕管/西川(南詔の侵攻)・雲州(李克用の反乱)いずれも神策将軍・節度使・招討使等(王式、康承训、马举、高骈、崔彦昭等)への勅命派遣によって対処されており、皇帝本人の親征は0回。

反乱鎮圧回数

雲州(大同軍)の乱(李国昌・李克用父子、咸通十三年十二月〜)は討伐命令は出されたが(诏太原节度使崔彦昭・幽州节度使张公素帅师讨之)、懿宗在位終了(咸通十四年七月崩御)までに鎮圧が完了しなかったため、本カウントには含めずrebellionSufferedCountにのみ計上した。南詔(南蛮)による対外侵攻は服属しない外国勢力との戦争として鎮圧回数から除外した。

被反乱回数

南詔(南蛮)による安南・邕管・西川・巂州への侵攻は、南詔が唐に服属しない独立勢力であるため対外戦争として除外した(服属民の反乱ではなく、獠民の一部離反はあったものの本紀の記述は一貫して南詔軍を主体とする対外的侵攻として描かれる)。魏博節度使何全皞が衙軍に殺害された事件は、藩鎮内部の指揮官交代であり朝廷への武装反抗・鎮圧命令の記載がないため除外した。

遷都回数

旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。

即位時年齢・没年齢

既存レコードのagesをそのまま転記。旧唐書本紀冒頭「大和七年十一月十四日,生于籓邸」に生年月日が明記。即位時年齢は同「十三日,柩前即帝位,年二十七」。崩御時年齢は同「是日,崩于咸宁殿,圣寿四十一」。新唐書も「七月辛巳,皇帝崩于咸宁殿,年四十一」と一致。

在位中の出来事(14件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦859年10月即位直後、大中十三年十月辛卯の「赦天下」。

即位直後、大中十三年十月辛卯の「赦天下」。文武官への加階・勲爵、耆老への粟帛下賜も併記。旧唐書本紀(本コーパス収録範囲)にはこの赦の明記が無いが、新唐書・資治通鑑の双方に「大赦」「赦天下」と明記されており採用した。

出典: 新唐書 本紀第九(懿宗・僖宗)/資治通鑑 巻249(唐紀65・大中十三年)

改元860年11月即位に伴う最初の建元。

即位に伴う最初の建元。旧唐書本紀は即位経緯を語る文中で先取り的に「帝果以郓王即大位,以咸通为年号」と記すが、実際に正式な改元の儀式が行われたのは咸通元年(860)十一月、南郊(圆丘)祭祀ののちの「大赦,改元」の記事(旧唐書:丁未/新唐書・資治通鑑:丁丑、と日付に若干の差異あり)。即位した大中十三年(859)八月〜十二月は先帝宣宗の年号「大中」のまま据え置かれ、翌年(咸通元年)の郊祀を機に正式に「咸通」へ改元された。

出典: 旧唐書 本紀第十九(懿宗)/新唐書 本紀第九(懿宗・僖宗)/資治通鑑 巻250(唐紀66・咸通元年)

大赦860年11月咸通元年十一月、南郊(圆丘)祭祀ののち「大赦、改元」。

咸通元年十一月、南郊(圆丘)祭祀ののち「大赦、改元」。建元(咸通)と同時に行われた大赦。日付は史料間でわずかに異なる(旧唐書:丁未/新唐書・資治通鑑:丁丑)。

出典: 旧唐書 本紀第十九(懿宗)/新唐書 本紀第九/資治通鑑 巻250(唐紀66・咸通元年)

大赦862年1月咸通三年正月庚寅朔、群臣が尊号「睿文明圣孝德皇帝」を上呈した際の大赦。

咸通三年正月庚寅朔、群臣が尊号「睿文明圣孝德皇帝」を上呈した際の大赦。旧唐書本紀は尊号奉呈のみ記し「大赦」の語を欠くが、新唐書・資治通鑑双方に「大赦」「赦天下」と明記される。

出典: 新唐書 本紀第九(懿宗・僖宗)/資治通鑑 巻250(唐紀66・咸通三年)

反乱鎮圧862年7月徐州銀刀軍の乱

首謀者: 徐州牙軍(銀刀軍等、指導者個人名の記載なし)

結果: 王式が驕卒三千余人を誅殺し鎮定

咸通三年七月の徐州軍乱。

被反乱862年7月徐州銀刀軍の乱

首謀者: 徐州牙軍(銀刀・雕旗・門槍・挟馬等軍、指導者個人名の記載なし)

結果: 浙東観察使王式が武寧軍節度使として派遣され、驕卒(銀刀軍)三千余人を一日で誅殺し鎮定

咸通三年七月「徐州军乱」。王智兴以来徐州牙軍が驕慢で歴代節度使を逐ってきた経緯を本紀が詳述し、王式着任後に環囲して誅殺したとある。

大赦863年1月咸通四年正月庚午、圆丘祭祀ののちの大赦。

出典: 旧唐書 本紀第十九(懿宗)/新唐書 本紀第九/資治通鑑 巻250(唐紀66・咸通四年)

大赦866年11月咸通七年十一月壬子、安南(交趾)平定を理由に宣政殿にて大赦。

出典: 旧唐書 本紀第十九(懿宗)/新唐書 本紀第九/資治通鑑 巻250(唐紀66・咸通七年)

反乱鎮圧868年7月〜870年9月庞勋の乱(徐州・桂林戍卒の乱)

首謀者: 庞勋

結果: 康承训・马举・张玄稔等の官軍により鎮圧、庞勋は敗走中に溺死、徐州回復

咸通九年七月蜂起、咸通十年九月鎮定。18将・7万3千余の兵を動員する大規模討伐となった。

被反乱868年7月〜870年9月庞勋の乱(徐州・桂林戍卒の乱)

首謀者: 庞勋

結果: 康承训・马举・张玄稔等の官軍により鎮圧。庞勋は敗走中に涣河で溺死、徐州は回復された

咸通九年七月、桂林戍卒の許佶・赵可立が将を殺し庞勋を推戴して蜂起、徐州・宿州を陥落させ勢力は数万〜二十万に拡大。淮南・江南諸州にも波及した大規模反乱。咸通十年九月に鎮定。

大赦870年1月群臣が尊号「睿文英武明德至仁大圣广孝皇帝」を上呈した際の大赦。

群臣が尊号「睿文英武明德至仁大圣广孝皇帝」を上呈した際の大赦。新唐書・資治通鑑は咸通十一年正月甲寅朔と記すが、旧唐書(本コーパス収録テキスト)は同一の尊号儀式(同一尊号文言・同文脈)を「十二年正月戊申」として記しており、1年のずれがある(いずれかの紀年誤りの可能性)。二対一で一致する新唐書・資治通鑑の咸通十一年(870)を採用した。

出典: 新唐書 本紀第九(懿宗・僖宗)/資治通鑑 巻252(唐紀68・咸通十一年)

被反乱872年12月雲州(大同軍)の乱

首謀者: 李国昌・李克用父子(大同軍・沙陀)

結果: 懿宗は太原節度使崔彦昭・幽州節度使張公素に討伐を命じ、卢简方を派遣して国昌を諭させたが、国昌は勅命に従わず(「国昌不奉诏」)、咸通十四年七月の懿宗崩御まで解決に至らず、僖宗朝に持ち越された(後年、李克用は河東節度使として朝廷に帰順)

咸通十三年十二月、李国昌の子・李克用が雲中防御使段文楚を殺害し雲州を占拠、防御留後を自称。懿宗在位終了までに鎮圧が完了しなかったため、rebellionSuppressionCountには含めずrebellionSufferedCountにのみ計上した(未鎮圧のまま在位終了パターン)。

反乱鎮圧日付不詳裘甫(仇甫)の乱(浙東)

首謀者: 仇甫(裘甫)

結果: 浙東観察使王式により討伐・斬首、浙東平定

咸通元年二月「浙东观察使王式斩草贼仇甫,浙东郡邑皆平」。

被反乱日付不詳裘甫(仇甫)の乱(浙東)

首謀者: 仇甫(裘甫)

結果: 浙東観察使王式により討伐・斬首され、浙東郡邑は平定された

旧唐書本紀は咸通元年二月条に「浙东观察使王式斩草贼仇甫,浙东郡邑皆平」とのみ記す。蜂起の開始時期・経緯についての記載は本コーパス収録部分にはない。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。