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呉・三国第3代

景帝孫休

在位 258–264年(5年278日)258年11月30日 〜 264年9月3日

日本は古墳時代

孫権の第六子で、の孫綝が弟の孫亮を廃したのちに迎えられた三国呉の皇帝である。

景帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 258年11月30日〜264年9月3日
5年278日長い順169位/365人24歳で即位(数え年)
没年
264年9月3日30歳(数え年)長生き順同率186位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 孫亮呉・三国景帝は孫亮の兄
次代
  • 末帝呉・三国末帝は景帝の甥
呼び名
姓孫諱休字子烈呼び名の見方

出典

在位
三國志 呉書三 三嗣主傳
死因
三國志 魏書四 三少帝紀・呉書三 三嗣主傳 裴松之注引江表傳
即位経路
三国志・呉書・三嗣主伝

生涯

どんな皇帝か

陳寿は濮陽興と張布を任じて良才を登用できず、廃された孫亮を全うに死なせなかったと評し、裴注に引かれる陸機の弁亡論は守成の良主と評した。

即位まで

252年に琅邪王に封ぜられ、孫亮が継ぐと丹陽郡、ついで会稽へ移された。258年、孫亮が孫綝の誅殺を謀って会稽王に落とされると、孫綝は施正の勧めで孫休を立てることにした。孫休ははじめ疑ったが、使者に説かれて出発し、三たび辞退したのちに即位した。

治世と最期

孫綝の一門の五侯はみなを握り、孫休は変を恐れてたびたび賞賜を加えた。孫綝が張布の前で、帝は自分がいなければ立たなかったと恨み言を吐くと、孫休はこれを根に持ち、のちに謀反の動きを聞くと張布とひそかに図り、258年の暮れので孫綝を縛らせて誅した。260年、廃された孫亮は天子に戻るとの噂が立ち、に呪詛を告げられて候官侯に落とされ、任地へ向かう途中で自殺した。

262年からは旧恩のあるの濮陽興と張布に政を委ねた。孫休は典籍を好んで百家の書を読み尽くそうとし、キジ狩りに出る春夏の日だけは書を手放した。同じ年には博士祭酒の韋曜らと講論しようとしたが、自分の非を言われるのを恐れた張布に阻まれ、不快に思いながらも張布の疑いを案じて取りやめた。4人の男子には、世に使われない字を作って名と字を付けた。

264年に没して景皇帝と諡された。病で口がきけなくなると、濮陽興の臂を取って子を託した。死後、年長の君主が望まれるなか、濮陽興と張布は万彧の推薦を受け朱太后の同意を得て、孫休の嫡子を退けて孫晧を迎え立てた。孫晧はのちに景皇后に落としていた朱氏を死に追いやり、孫休の子のうち年長の2人を殺した。

史料について

孫亮の死を、裴注の引く呉録は孫休が毒殺したとの説として伝える。子の名と字の話は裴注の引く呉録により、裴松之はこれを典拠の無い字と音だと批判した。病の様子は裴注の引く江表伝にあり、呉書の本文は死因を記さない。魏の詔は孫休の病死を伝える。

景帝とつながる皇帝

三国の勢力図(258年)

勢力図

三国の勢力図で見る

258–264年の地図に、景帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・皇后1・改元1・大赦4
  1. 改元258年11月30日元号を「永安」とする
  2. 258年11月30日即位当日、正殿に御し大赦・改元を行った。
  3. 262年乙酉に立皇后、戊子に立太子とともに大赦。
  4. 皇后262年妃であった朱氏(朱据の女、孫休の姉公主が生んだ人物)を皇后に冊立。
  5. 反乱263年交阯郡吏呂興の乱
  6. 264年2月永安七年正月の大赦。
  7. 反乱264年8月豫章の民・張節らの乱
  8. 264年9月2日崩御前日の大赦。

呉・三国の歴代皇帝

歴代4人の一覧

年表

三国の時代を年表で見る

呉・三国が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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