孫亮
呉・三国|在位 252–258年

- 諱(本名)
- 孫亮
- 在位
- 252–258年
- 在位期間
- 6年171日365名中165位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 諸説あり
- 即位時年齢
- 10歳(数え年)172名中・若い順27位タイ
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 6回267名中67位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 3回225名中129位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
「赤烏十三年、和廃、権遂立亮為太子」で兄・皇太子孫和の廃位を経て孫権末子の孫亮が皇太子に立てられ、「権薨、太子即尊号」と父の死去により正規の皇太子として即位。廃立を経た太子選定だが即位そのものは通常の父子継承のため世襲と判定。
出典: 三国志・呉書・三嗣主伝
死因の経緯
権臣孫綝打倒の計画が露見し廃位され会稽王に降格(16歳)。後に会稽で復位の噂・巫蠱を用いた悪言の告発があり、侯官侯へさらに降格され赴任の途上で死去(18歳)。正史本文は「道中で自殺し、護送者は罪に伏した」とするが、裴松之注引『呉録』に「或云休鴆殺之」(あるいは孫休が毒殺したとも言われる)という異説が併記され、本文と注で説が対立するため諸説ありとする。
出典: 三國志 呉書三 三嗣主傳 裴松之注引呉録
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元(建興)を含め、在位中に3回の改元があった:建興(252)→五鳳(254)→太平(256)。太平3年9月の廃位まで新たな改元は見られない。
大赦回数
在位中(建興元年4月即位~太平3年9月廃位)に本紀が「大赦」と明記する記事は6件。うち2件(即位時、太平元年10月)は改元と同時、1件(太平2年4月)は立后と別の親政開始時の恩赦、1件(建興2年正月)は立后と同時。なお太平2年の「乃赦宮中」(孫基赦免の逸話、吴主五子伝所載)は宮中限定の恩赦であり「大赦天下」ではないため対象外とした。
立后回数
在位中に立后されたのは全氏(全尚の娘)一人のみ。廃后や再冊立の記録はない。
皇太子廃立回数
孫亮の在位期間(252年5月~258年11月)中に皇太子が立てられ、それが廃された記事は三嗣主伝・呉主五子伝のいずれにも見られない。孫亮は即位時わずか10歳前後、廃位時16歳と若く、在位中に自身の後継者たる皇太子を立てた記録もない(先代孫権期に起きた孫和の廃太子〔赤烏十三年=250年〕は孫亮自身の在位開始前の出来事であり対象外)。
親征回数
『三国志』呉書・三嗣主伝の孫亮部分(太元二年四月即位~太平三年九月廃位)を通読したが、孫亮自身が「自将」「親征」した記述は皆無。東興の役(建興元年)・新城への遠征(建興二年)はいずれも太傅諸葛恪が率いた軍事行動、寿春救援(太平二年)は孫綝が率いた軍事行動であり、孫亮本人が出陣した記録はない。即位時9-10歳、廃位時16歳と若年で終始実権を諸葛恪・孫峻・孫綝ら権臣が握っており、皇帝自身の親征は該当記事なし。
反乱鎮圧回数
諸葛恪による東興の役(252年)・新城遠征(253年)、孫綝による寿春救援(257年)、毌丘倹・文欽の乱(255年、魏の内乱)への呉軍の介入は、いずれも魏という対等な独立勢力との対外戦争・統一戦争に該当するため反乱鎮圧に含めない。孫峻による諸葛恪暗殺(253年10月、宴席での伏兵による謀殺)は、諸葛恪が武装蜂起したわけではなく朝廷内の権力者同士の粛清・暗殺事件であり「反乱」の定義に合致しないため除外。吴侯孫英の孫峻暗殺未遂(254年)、孫儀・張怡・林恂らの孫峻暗殺未遂(255年)、孫憲・王惇の孫綝暗殺未遂(256年)はいずれも「謀殺」が発覚した段階で終わり実際の武装蜂起(挙兵)に至っていないため、謀反計画として鎮圧・被反乱いずれからも除外。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと基本的に同一の3件(呂拠・滕胤の兵変、会稽南部の反乱、鄱陽・新都の民乱)に加え、孫綝による孫亮廃位クーデター(基準4に該当、鎮圧回数には非計上)を追加した。諸葛恪暗殺(253年)や複数回の孫峻・孫綝暗殺未遂(254・255・256年)は上記の理由により除外。
遷都回数
三国志呉書を通読。孫亮・孫休期は先代からの建業が都のまま、追加の遷都記録なし。
即位時年齢・没年齢
即位時年齢は逆算値:廃位時「時年十六」(太平3年=258年)と即位年(建興元年=252年)の年号差6年から数え年で10歳と算出。
在位中の出来事(17件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元252年4月太元二年四月、孫権が崩じ太子孫亮が即位(即尊号)し、大赦を行うとともに建興と改元した(在位初の建元)。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
大赦252年4月孫権が太元二年四月に崩じ、太子孫亮が即位(即尊号)すると同時に「大赦」を行い、建興と改元した。
孫権が太元二年四月に崩じ、太子孫亮が即位(即尊号)すると同時に「大赦」を行い、建興と改元した。先代の崩御と即位が同時に起きた出来事のため、帰属ルールにより後継者である孫亮の在位に帰属させた。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
大赦253年1月建興二年春正月丙寅、皇后全氏を立てるのと同時に大赦を行った。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
立后253年1月建興二年春正月丙寅、全尚の娘である全夫人を皇后に立てた。
建興二年春正月丙寅、全尚の娘である全夫人を皇后に立てた。妃嬪伝に「孫亮全夫人、全尚女也。(中略)夫人立為皇后」とあり対応する。全夫人は太守孫綝が孫亮を会稽王に廃した後、さらに候官侯に落とされた際にも同行したと妃嬪伝に記される。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝/呉書五 妃嬪伝
大赦253年10月建興二年冬十月、武衛将軍孫峻が殿堂で諸葛恪を伏兵により殺害した直後に大赦を行った。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
改元253年11月建興二年十一月、春申に大鳥五羽が現れたことを瑞祥として「改明年元」(翌年の年号を改める)と布告した。
建興二年十一月、春申に大鳥五羽が現れたことを瑞祥として「改明年元」(翌年の年号を改める)と布告した。実際に新年号「五鳳」が用いられるのは翌年(254年)からであり、原文でも次の段落は「五鳳元年」から始まる。布告日を改元イベントの日付として採用したが、実施は翌年年始である点に留意。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
反乱鎮圧256年9月〜256年10月呂拠・滕胤の兵変
首謀者: 呂拠(骠騎将軍)、滕胤(大司馬)
結果: 鎮圧成功(呂拠は新州で捕縛(自殺とも)、滕胤は劉丞の攻撃を受け一族皆殺し)
太平元年九月、孫峻の死去に伴い従弟の孫綝が権力を継承したことに呂拠が激怒し、軍を引き返して孫綝討伐を図った。孫綝は(当時13歳の)孫亮の名による詔書を用いて文欽・唐咨らに呂拠捕縛を命じ、孫憲・丁奉・施寛らの水軍で江都にて呂拠を迎撃、劉丞に滕胤の軍を攻撃させ滕胤軍は敗れ一族皆殺しとなった。実質的な権力は孫綝が握っていたが、政権(朝廷)側が反乱鎮圧の主体であるため算入。呂拠・滕胤は共に呉の将軍・大臣であり呉の政権に服属する者の離反であって、対等な独立勢力との抗争ではない。滕胤自身が積極的に武装蜂起したかは原文からやや不明瞭(呂拠一派とみなされ攻撃された可能性)だが、実際に武力行使(挙兵・交戦)が発生し政権側が武力で鎮圧した点は明確なので1件として算入。confidence medium。
被反乱256年9月〜256年10月呂拠・滕胤の兵変
首謀者: 呂拠(骠騎将軍)、滕胤(大司馬)
結果: 鎮圧され、呂拠は捕縛(または自殺)、滕胤は一族皆殺し
rebellionSuppressionCountと同一事件。呉の政権内部の将軍・大臣による離反・武力抗争。confidence medium。
改元256年10月太平元年(本文の年次表記は春二月から「太平元年」を用いているが、実際の改元手続きは)冬十月己酉、滕胤討伐直後に大赦を行うと同時に「改年」(太平と改元)した。
太平元年(本文の年次表記は春二月から「太平元年」を用いているが、実際の改元手続きは)冬十月己酉、滕胤討伐直後に大赦を行うと同時に「改年」(太平と改元)した。年次見出しが遡って太平元年と付されているのは編年体の慣例で、実際の改元詔は10月に発せられたとみられる。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
大赦256年10月太平元年冬十月己酉、滕胤の軍が敗れ族滅された直後に大赦を行い、同時に改年(太平と改元)した。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
大赦257年4月太平二年夏四月、孫亮が正殿に臨み、大赦を行って親政を始めた。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
反乱鎮圧257年8月会稽郡南部の反乱
首謀者: 不詳(首謀者名の記載なし)
結果: 廷尉丁密・歩兵校尉鄭冑・将軍鍾離牧が軍を率いて討伐に赴いたが、原文に討伐完了の明記なし
太平二年八月、「会稽南部反、殺都尉」(会稽郡南部が反乱を起こし都尉を殺害)。魏の諸葛誕支援のための寿春出兵で軍事的緊張・徴発が続く中での発生とみられる。鄱陽・新都の民乱と同時に同じ将軍団により討伐されたと記されるが、蜂起地点が異なるため別件として計上。confidence medium(首謀者不明、鎮圧の完了・結果が原文に明記されないため)。
反乱鎮圧257年8月鄱陽・新都の民乱
首謀者: 不詳(首謀者名の記載なし、「鄱陽、新都民為乱」)
結果: 廷尉丁密・歩兵校尉鄭冑・将軍鍾離牧が軍を率いて討伐に赴いたが、原文に討伐完了の明記なし
会稽南部の反乱と同時期(太平二年八月)に発生し同じ将軍団が討伐に向かった民衆蜂起。蜂起地点(鄱陽郡・新都郡)が会稽郡南部と異なるため別件として計上したが、同一の軍事行動でまとめて鎮圧された可能性もあり、集計単位の粒度としては1件に統合すべきとの見方もあり得る。confidence medium。
被反乱257年8月会稽郡南部の反乱
首謀者: 不詳
結果: 都尉殺害後、朝廷軍が討伐に向かう(結果は原文に明記なし)
rebellionSuppressionCountと同一事件。confidence medium。
被反乱257年8月鄱陽・新都の民乱
首謀者: 不詳
結果: 朝廷軍が討伐に向かう(結果は原文に明記なし)
rebellionSuppressionCountと同一事件。confidence medium。
大赦257年9月太平二年九月甲申、孫綝が鑊里で朱異を殺害し建業に戻った直後に大赦を行った。
出典: 三国志 呉書三 三嗣主伝
被反乱258年9月孫綝による孫亮廃位クーデター
首謀者: 孫綝(大将軍)
結果: 孫亮は会稽王に廃黜され、共謀者の全尚は捕縛、劉丞は殺害された
太平三年、孫亮(16歳)は権臣孫綝の専横に不満を持ち、太常全尚・将軍劉丞と共に孫綝誅殺を謀ったが(=皇帝側が先制的に攻撃の主体だった側面もある)、計画は事前に孫綝側に察知され、孫綝が兵を用いて全尚を捕らえ、弟の孫恩に命じて劉丞を蒼龍門外で攻め殺し、その上で大臣を宮門に召集して孫亮を会稽王に廃した。皇帝が先制的に権臣打倒を図った点では『反乱不成立で両方から除外』の基準(基準3)に近いが、実際に兵力を行使し皇帝を武力で廃位に追い込んだ主体は孫綝側であったため、基準4(朝廷内部の権力者による兵力を伴うクーデターで皇帝が廃位に追い込まれた事例)に該当すると判断し、被反乱には算入するが鎮圧の主体が皇帝側ではないため反乱鎮圧回数には計上しない。deathCause/退位経緯データと内容が重複するが、別軸の集計のため意図的に重複計上。confidence medium(皇帝側が先に武力行使に着手する計画だったか、孫綝側が完全に先制したかは原文の記述だけでは断定しがたいため)。