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孫亮の肖像画

呉・三国第2代

孫亮

在位 252–258年(6年170日)252年5月23日 〜 258年11月9日

日本は古墳時代

孫権の末子として10歳で位を継ぎ、の孫綝を除こうとして逆に廃された呉の皇帝である。

孫亮の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 252年5月23日〜258年11月9日
6年170日長い順164位/365人10歳で即位(数え年)258年に在位を終え、2年後の260年に没
没年
260年年齢不詳
死因
同じ死因17人/365人
即位経路
先代
  • 大帝孫権呉・三国孫亮は大帝の子
次代
  • 景帝呉・三国景帝は孫亮の兄
呼び名
姓孫諱亮字子明呼び名の見方

出典

在位
三國志 呉書十九 諸葛滕二孫濮陽傳(諸葛恪傳)
死因
三國志 呉書三 三嗣主傳 裴松之注引呉録
即位経路
三国志・呉書・三嗣主伝

生涯

どんな皇帝か

陳寿の評は、幼くして賢い補佐が無く位を失ったのは必然とし、廃された孫亮をまともに死なせなかった孫休も責める。

即位まで

250年に孫和が廃されると孫亮が太子に立てられ、全が孫権に勧めていた全尚の娘が妃となった。孫権が病に伏すと、母の潘皇后は看病に疲れて寝込んだところをたちに絞殺された。252年に孫権が没して孫亮が即位した。

治世と最期

252年に諸葛恪が東興で魏軍を大破したが、翌年の新城攻めで兵の大半を失って孫峻に殺された。孫峻の死後、従弟の孫綝が軍を握り、怒った呂拠が滕胤をに推して兵を還すと、孫綝は滕胤を攻め滅ぼし、呂拠を捕らえた。

257年に孫亮は自ら政務を執り始め、孫綝の上奏をしばしば問い詰めた。が事を問うて自分には書かせるだけでよいのかと、側近に問うたこともある。蔵から取らせた蜜に異物が入っていたときは、それを割らせて中が乾いているのを見て、の仕業と見抜いた。孫綝が朝見しなくなると、孫亮は魯育が殺された件を調べ直して朱熊・朱損を殺させ、孫綝はいっそう孫亮を忌んだ。

258年、孫亮は全尚・劉丞と孫綝を誅しようと謀ったが、漏れた。孫綝が先に兵を動かして孫亮を会稽王に落とし、孫休を迎えて立てた。孫亮は2日食事をとらず、妻を、お前の父はぼんやり者で私の大事をしくじったと罵った。260年、孫亮が天子に戻るとの噂が立ち、巫祷を告発されて候官侯に落とされ、任地へ向かう途中で自殺した。

史料について

側近に問うた話と蜜の話は、裴注の引く呉歴による。江表伝は似た話を甘蔗の器で伝え、裴松之は江表伝を実に近いとする。朱熊・朱損を殺したわけを、妃嬪伝は、全公主が罪を二人に押し付けたためとする。謀を漏らしたのを、孫綝伝は孫亮の妃、注に引く江表伝は全尚の妻とし、孫盛は江表伝の説を詳しいとする。妻を罵った話は江表伝による。最期を、裴注の引く呉録は孫休による毒殺の説も載せ、建康実録は毒殺と書き、資治通鑑は自殺だけを記す。

孫亮とつながる皇帝

三国の勢力図(252年)

勢力図

三国の勢力図で見る

252–258年の地図に、孫亮が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱4・皇后1・改元3・大赦6
  1. 改元252年5月元号を「建興」とする
  2. 252年5月
  3. 改元253年元号を「五鳳」とする
  4. 253年皇后全氏を立てるのと同時に大赦を行った。
  5. 253年武衛将軍孫峻が殿堂で諸葛恪を伏兵により殺害した直後に大赦を行った。
  6. 皇后253年全尚の娘である全夫人を皇后に立てた。
  7. 改元256年元号を「太平」とする
  8. 256年滕胤の軍が敗れ族滅された直後に大赦を行い、同時に改年(太平と改元)した。
  9. 反乱256年呂拠・滕胤の兵変
  10. 257年孫亮が正殿に臨み、大赦を行って親政を始めた。
  11. 257年孫綝が鑊里で朱異を殺害し建業に戻った直後に大赦を行った。
  12. 反乱257年会稽郡南部の反乱
  13. 反乱257年鄱陽・新都の民乱
  14. 反乱258年11月孫綝による孫亮廃位クーデター

呉・三国の歴代皇帝

歴代4人の一覧

年表

三国の時代を年表で見る

呉・三国が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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