廃帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 551年3月28日〜554年3月
- 没年
- 554年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓元諱欽呼び名の見方
出典
- 在位
- 北史 巻五(魏本紀第五・
西魏廃帝)/資治通鑑 巻一六四(梁紀二十) - 死因
- 資治通鑑 巻165
- 即位経路
- 北史 巻五 魏本紀(西魏廢帝)
生涯
どんな皇帝か
北史の后妃伝によれば、宇文泰の娘の皇后を深く重んじ、ほかに嬪御皇帝の妃や、そばに仕える女性たちを置かなかった。
即位まで
文帝の長子で、母の乙弗后が生んだ12人の子のうち、生き残ったのは元欽と弟の元戊だけだった。535年に皇太子に立てられた。538年、関中の民の間に散っていた東魏の捕虜が乱を謀ると、李虎らが王盟・周恵達とともに太子を補佐して渭北へ出た。540年、柔然が大挙して黄河を渡り、悼后のためだという声が上がると、文帝は元欽の母の乙弗后に自尽自分で命を絶つことを命じた。母は元欽に悲痛な言葉を遺した。548年、宇文泰は太子を奉じて西の辺境を巡り、隴山で石に事を刻んだ。551年に文帝が没すると即位し、宇文泰の娘の妃宇文氏を皇后に立てた。
治世と最期
母の乙弗后は、元欽の代に文帝の永陵へ合葬された。即位後は宇文泰との溝が深まり、宇文泰は娘婿の李基らに禁兵宮中や都を守る兵を掌らせ、元欽はこれを深く憚った。
553年、尚書天子のもとで政治の実務を扱う役所や役人、また儒教の古典の名の元烈が宇文泰に殺された。元烈の死後、元欽は怨みを口にし、淮安王らが泣いて諫めても聴かなかった。
554年、宇文泰は元欽を廃し、弟の元廓を立てた。その後の宴で柳虯が廃位の咎は宇文泰にあると述べると、宇文泰は誥を作らせ、託された嗣子家や位を継ぐ子を導けなかったのは自分の咎だと公卿朝廷の位の高い大臣たちに告げた。同じ年、宇文泰に毒殺された。
史料について
元烈が殺されたわけを、北史の廃帝紀は書かず、北史の周本紀と周書の文帝紀は乱を謀ったため、資治通鑑は宇文泰の殺害を謀ったためとする。資治通鑑は元欽も宇文泰の誅殺をひそかに謀ったとし、周書の李基伝もその密謀が漏れたと書く。毒殺は資治通鑑の書き方で、北史の廃帝紀・恭帝紀と周書の文帝紀は死を記さず、北史の后妃伝は廃されて崩じたとだけ書く。
廃帝とつながる皇帝

勢力図
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551–554年の地図に、廃帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1
- 反乱554年3月〜554年5月宇文泰による廃帝欽の廃位・
鴆殺
西魏の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代文帝535–551年病死
- 第2代廃帝551–554年暗殺
- 第3代恭帝554–556年暗殺
年表
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