廃帝
西魏(南北朝)|在位 551–554年
- 諱(本名)
- 元欽
- 在位
- 551–554年
- 在位期間
- 2年335日365名中227位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
文帝の長子。大統元年(535年)正月に皇太子に立てられ、大統17年(551年)3月、父・文帝崩御を受け正式な手続きで即位した。実権は宇文泰にあったが即位経路自体は嫡長子としての通常の世襲継承。
出典: 北史 巻五 魏本紀(西魏廢帝)
死因の経緯
宇文泰暗殺を謀った尚書元烈の事件(553年)後、元欽自身も李基・李暉・於翼ら宿衛の武衛将軍を語らい宇文泰暗殺を計画したが密告され発覚、恭帝3年(554年)正月、宇文泰により廃位・幽閉。同年4月庚戌、宇文泰が毒酒(鴆)で毒殺した(『資治通鑑』巻165「庚戌、魏太師泰鴆殺廢帝」)。同一政権内部者(宇文泰)による謀殺のため暗殺に分類。
出典: 資治通鑑 巻165
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
廢帝は即位記事(「十七年三月、即皇帝位」)において「改元」「建元」の語が用いられておらず、以後の記事も「元年」「二年」「三年」という即位起算の紀年のみで独自の年号を建てていない(史実として廢帝は無年号で知られる)。後継の恭帝の即位記事には「廢帝三年正月、即皇帝位、改元」と明記されるのと対照的であり、廢帝自身に改元の記載がないことは確度が高い。
大赦回数
北史卷五の西魏廢帝(元欽)在位期間の記事(大統十七年三月即位~廢帝三年正月廢位まで)を通読したが、「大赦」の語は一度も現れない。文帝紀(父帝の代)には大赦記事が複数あるが、廢帝自身の治世には見られない。
立后回数
廢帝の治世中に皇后を立てた記事は見られない。母の乙皇后は父・文帝の皇后であり、廢帝自身による立后記事ではない。
皇太子廃立回数
廢帝自身が大統元年正月乙卯に父・文帝によって皇太子に立てられた記事はあるが、これは廢帝自身の治世下の出来事ではなく即位前の立太子である(カウント対象外)。廢帝の治世中に皇太子を立てた記事、および廃立した記事は見られない。
親征回数
在位中(551年3月即位~554年正月廃位)の記録(北史巻五、資治通鑑巻165)に帝自身が軍を率いて出征した旨の記述(「帝自将」「親征」等)は見当たらない。梁の侵攻撃退(551年3月、大将軍楊忠が梁の邵陵王蕭綸を安陸で撃破)、剣南平定(553年8月、大将軍尉遅迥が成都を攻略)はいずれも将軍による軍事行動であり皇帝本人の出陣ではないため該当なし。
反乱鎮圧回数
該当記事なし。在位中の軍事行動は(1)551年3月、梁の邵陵王蕭綸の安陸侵攻を大将軍楊忠が撃退、(2)553年8月、大将軍尉遅迥が成都(剣南)を攻略・平定、のいずれも南朝梁(対等な独立政権)との対外戦争であり、西魏に服属する臣下の反乱ではないため反乱鎮圧に該当しない。また553年11月、尚書元烈が宇文泰暗殺を謀るも計画が露見し宇文泰に誅殺された事件(北史巻五「安定公宇文泰殺尚書元烈」、資治通鑑巻165「魏尚書元烈謀殺宇文泰、事泄、泰殺之」、周書「元烈謀作乱、事発、伏誅」)は実際の挙兵に至らず密告・摘発のみで終わった謀反計画であり、鎮圧・被反乱いずれにも含めないルールに従い除外した。
被反乱回数
上記1件を計上。なお元烈自身の宇文泰暗殺未遂(553年11月、事発・伏誅のみで挙兵に至らず)は謀反計画が密告・摘発のみで終わった案件のため被反乱には含めない(そもそも標的も皇帝ではなく宇文泰個人)。
遷都回数
北史魏本紀を通読。文帝の長安即位(建国時の定都)から恭帝の隋への禅譲まで長安が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reigns/deathCause/accessionRoute等の各note)および_corpus_cache/xiwei-feidi-yuanqin.txt(北史巻五・西魏廃帝紀)を確認したが、生年月日・即位時年齢・没年齢について「時年」「年◯◯」「享年」等の直接記載が見当たらなかった。史料は即位(大統17年3月)・立太子(大統元年正月)・廃位(恭帝三年正月)・鴆殺(恭帝元年4月庚戌)の経緯のみを記し、年齢情報を含まない。年号年ラベルの差分による逆算も、比較対象となる年齢直接記載が別途存在しないため不可能。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱554年1月〜554年4月宇文泰による廃帝欽の廃位・鴆殺
首謀者: 宇文泰(安定公・太師)
結果: 廃位され雍州に幽閉、同年4月(資治通鑑:夏四月庚戌)宇文泰により鴆殺された
北史巻五「三年春正月、安定公宇文泰廃帝而立齊王廓。帝自元烈之誅、有怨言。淮安王育、広平王賛等並垂泣諫、帝不聴、故及於辱」、資治通鑑巻165(承聖三年)「魏主自元烈之死、有怨言、密謀誅太師泰…由是魏主謀泄、泰廃魏主、置之雍州、立其弟齊王廓」「庚戌、魏太師泰鴆殺廃帝」、周書「自元烈誅、魏帝有怨言…太祖與公卿定議、廃帝、尊立齊王廓」に基づく。経緯としては先に元烈(宇文泰暗殺を謀った尚書、553年11月誅殺)の死を恨んだ皇帝側が宇文泰誅殺を密謀したが、実行前に計画が露見し(原文は「謀泄」であり実際の武力行使には至っていない)、これを受けて権臣宇文泰が皇帝を廃位・幽閉し、後に毒殺した。皇帝本人が実際に武力行使に及んだ形跡がないため『例外3(皇帝が先制して武力打倒)』には該当せず、一方で史料上『兵力を伴うクーデター』と明記する記述も乏しい(『太祖與公卿定議、廃帝』と政治的合意による廃位のように書かれる)ため、事実上は権臣宇文泰が既に掌握していた軍事的実権を背景に皇帝を強制的に廃位・弑逆した『例外4』型の事件と判断し被反乱に1件計上した(鎮圧回数には含めない=鎮圧主体が皇帝側ではないため)。confidence mediumとし、判断の分かれ目(例外3か例外4か)を明記する。