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西魏(南北朝)第3代

恭帝拓跋廓

在位 554–556年(2年351日)554年3月 〜 557年2月14日 ( 556年12月30日まで)

日本は古墳時代

元廓は西魏の最後の皇帝で、554年に兄の廃帝に代わって立てられ、556年に北周に位を譲って、まもなく死んだ。

恭帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 554年3月〜557年2月14日 556年12月30日まで
2年351日長い順226位/365人即位の年齢は不詳556年に在位を終え、1年後の557年に没
没年
557年年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 廃帝西魏恭帝は廃帝の弟
次代
—
呼び名
姓拓跋諱廓呼び名の見方

出典

在位
北史 巻五(魏本紀第五・西魏恭帝)
死因
資治通鑑 巻167(陳紀一)/周書 巻三 孝閔帝紀
即位経路
周書 巻二 文帝紀下

生涯

どんな皇帝か

北史の論は、東魏の孝静帝とともに、の尽きる運に当たって堯・舜に倣い位を退いたのは時を得たものだと評する。

即位まで

文帝の第4子で、548年に斉王に封ぜられ、西魏の十二の一人に数えられた。550年に宇文泰が北斉を討とうとしたとき、隴右の守りを任された。554年、宇文泰は兄の廃帝を廃して元廓を立てた。年号を立てずに単に元年と称し、皇室の姓を拓跋氏に戻した。

史料について

兄が廃されたわけを、北史と周書は怨言を漏らし諫めも聞かなかったためとし、資治通鑑は宇文泰の誅殺をひそかに謀って漏れたためとする。年号と復姓は資治通鑑にあり、北史の恭帝紀はとだけ書く。

治世と最期

同じ年、廃された兄が宇文泰に毒殺された。の柳虯は、兄が廃されたのはの宇文泰の咎だと朝廷で述べ、宇文泰は誥を作らせて、その咎は避けられないとに認めた。

同じ年の冬、西魏軍が梁を滅ぼし、梁の元帝を殺した。556年には周礼のが施行され、宇文泰が・となった。

同じ年に宇文泰が没すると、年の暮れ、宇文泰の子の宇文覚が幼いので早く位につけようとした宇文護によって、恭帝の詔の形で位を譲らされた。詔は、天は我が魏を厭ったと言う。恭帝は府へ退いた。宋公に封ぜられ、まもなく殺された。皇后の若干氏は、のちに出家して尼となり、寺で没した。

史料について

兄の死を、北史の后妃伝は廃されて崩じたとだけ書く。恭帝の死を、資治通鑑は周の人が殺したとし、北史と周書のは殺害を書かない。

恭帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(554年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

554–556年の地図に、恭帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1
  1. 改元日付不詳

西魏の歴代皇帝

歴代3人の一覧

年表

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西魏が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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