恭帝
西魏(南北朝)|在位 554–556年
- 諱(本名)
- 拓跋廓
- 在位
- 554–556年
- 在位期間
- 2年300日365名中230位タイ
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
文帝の第4子。大統14年(548年)に斉王に封じられていたが、兄・廃帝(元欽)が宇文泰暗殺を謀って発覚・廃位された後、恭帝3年(554年)正月、宇文泰と公卿の合議により擁立され即位した(改元、独自年号は建てず「元年」と称した)。
出典: 周書 巻二 文帝紀下
死因の経緯
恭帝3年(556年)12月、宇文覚(宇文泰の子)に禅譲し大司馬府に退居。北周孝閔帝元年正月辛丑(557年2月17日ごろ)、宋公に封じられたが、約2ヶ月後の同年二月末(旧暦、ユリウス暦557年4月中旬ごろ)、周人に殺害された(『資治通鑑』巻167「周人殺魏恭帝」)。当時の実権者は晋公宇文護であり通説では宇文護の指示による殺害とされるが、原文は実行者名を明示しない。『北史』は「尋殂」とのみ記し殺害と明言しない点で記述に差がある。禅譲を受けた新政権(宇文氏)の実権者による前政権最後の皇帝への内部的な謀殺という構図(東晋恭帝の例と同型)のため暗殺に分類。
出典: 資治通鑑 巻167(陳紀一)/周書 巻三 孝閔帝紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元(改元)1回のみ確認。在位中の追加の改元は確認できなかった。
大赦回数
北史卷五(西魏恭帝紀、廃帝三年正月~恭帝三年十二月)を通読したが「大赦」「大赦天下」の記事は見当たらない。周書(太祖紀下)の該当期間(魏恭帝元年~三年)の記述にも大赦の記事はない。恭帝逊位後の北周孝閔帝即位に伴う大赦(周書卷三)は恭帝自身の治世の事績ではないため計上しない。
立后回数
北史卷五・周書いずれにも恭帝在位中の立后の記事は見当たらない。在位期間が短く禅譲で終わったため、皇后冊立はなかったとみられる。
皇太子廃立回数
北史卷五・周書いずれにも恭帝在位中の皇太子冊立・廃立の記事は見当たらない。恭帝は在位わずか3年弱(554-556年)で北周へ禅譲しており、皇太子を立てた形跡もない。
親征回数
北史巻五恭帝紀に、在位期間中(554年正月即位〜556年12月禅譲)の軍事行動の記述は「柱国李弼追撃之(蠕蠕来寇広武を撃退)」「魏師滅梁、戕梁元帝」の2件のみで、いずれも将軍(李弼)や政権軍による行動であり「帝自将」「親征」等、皇帝本人の出陣を示す記述は無い。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
在位期間中に西魏政権内部(服属する官・将軍・宗室・属国等)による離反・蜂起の記録は北史巻五・周書巻三のいずれにも見当たらない。記載のある軍事事象は(1)蠕蠕(柔然、独立の遊牧勢力で西魏に服属していない)の広武侵寇、(2)西魏軍による梁(南朝、対等な独立政権)討滅・梁元帝殺害、の2件のみで、いずれも対外戦争・独立勢力との抗争に該当し、ルール上の反乱には含めない。該当記事なし。
被反乱回数
556年12月、安定公宇文泰の死(同年10月)後まもなく恭帝は北周(宇文覚)へ禅譲した。周書巻三孝閔帝紀の記述では「魏帝詔ヲ以テ...周公ニ封ジ、庚子、禅位于帝」「魏帝臨朝、遣民部中大夫...致皇帝璽紱。固辞。公卿百辟勧進、太史陳祥瑞、乃従之。是日、魏帝逊于大司馬府」と、儀礼的な禅譲の形式で記録されており、恭帝本人に対する武力行使(挙兵・弑逆・幽閉等)を示す記述は在位期間中には見当たらない。既存データセットの先例(漢献帝:禅譲そのものは被反乱にカウントしない方針、group3-count-progress.md参照)に倣い、形式上の禅譲は被反乱に算入しない。該当記事なし。
遷都回数
北史魏本紀を通読。文帝の長安即位(建国時の定都)から恭帝の隋への禅譲まで長安が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reigns/deathCause/accessionRoute等)および_corpus_cache/xiwei-gongdi.txt(北史卷五恭帝紀原文)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年(時年○○/享年○○等)の直接記載は見当たらなかった。恭帝紀は『恭皇帝讳廓,文皇之第四子也。大统十四年,封为齐王。废帝三年正月,即皇帝位,改元』で始まり、末尾も『周閔帝元年正月,封帝為宋公,尋殂』と没時年齢の記載なく終わる。文帝(西魏)の第4子であることのみ判明。調査済みだが年齢情報は不明として確定する。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳『廃帝三年正月、(齊王拓跋廓)即皇帝位、改元』。
『廃帝三年正月、(齊王拓跋廓)即皇帝位、改元』。齊王拓跋廓が即位して恭帝となり、即位に伴い改元した(西魏最後の皇帝)。恭帝期は独自の元号を新たに立てず「元年」「二年」「三年」の形で紀年されている(周書側でも『魏恭帝元年』『魏恭帝二年』『魏恭帝三年』と表記)。在位中(元年~三年十二月の北周への禅譲まで)にこれ以外の改元記事は北史・周書いずれにも見当たらない。
出典: 北史卷五 魏本紀第五(西魏恭帝)