恭帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 554年3月〜557年2月14日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 556年12月30日まで
- 没年
- 557年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 廃帝西魏恭帝は廃帝の弟
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓拓跋諱廓呼び名の見方
出典
- 在位
- 北史 巻五(魏本紀第五・
西魏恭帝) - 死因
- 資治通鑑 巻167(陳紀一)/周書 巻三 孝閔帝紀
- 即位経路
- 周書 巻二 文帝紀下
生涯
どんな皇帝か
北史の論は、東魏の孝静帝とともに、天禄天から授かる、君主としての位と運の尽きる運に当たって堯・舜に倣い位を退いたのは時を得たものだと評する。
即位まで
文帝の第4子で、548年に斉王に封ぜられ、西魏の十二大将軍将軍の中でも特に高い位の一人に数えられた。550年に宇文泰が北斉を討とうとしたとき、隴右の守りを任された。554年、宇文泰は兄の廃帝を廃して元廓を立てた。年号を立てずに単に元年と称し、皇室の姓を拓跋氏に戻した。
史料について
兄が廃されたわけを、北史と周書は怨言を漏らし諫めも聞かなかったためとし、資治通鑑は宇文泰の誅殺をひそかに謀って漏れたためとする。年号と復姓は資治通鑑にあり、北史の恭帝紀は改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることとだけ書く。
治世と最期
同じ年、廃された兄が宇文泰に毒殺された。史官朝廷の出来事を記録し歴史を書く役人の柳虯は、兄が廃されたのは輔政君主を助けて代わりに政治を執ることの宇文泰の咎だと朝廷で述べ、宇文泰は誥を作らせて、その咎は避けられないと公卿朝廷の位の高い大臣たちに認めた。
同じ年の冬、西魏軍が梁を滅ぼし、梁の元帝を殺した。556年には周礼の六官古い周の制度にならった六つの役所が施行され、宇文泰が太師君主の師とされる、最高位の位の一つ・冢宰周の制度にならった、政治を総べる大臣の長となった。
同じ年に宇文泰が没すると、年の暮れ、宇文泰の子の宇文覚が幼いので早く位につけようとした宇文護によって、恭帝の詔の形で位を譲らされた。詔は、天は我が魏を厭ったと言う。恭帝は大司馬軍事をつかさどる、最高位の大臣の一つ府へ退いた。宋公に封ぜられ、まもなく殺された。皇后の若干氏は、のちに出家して尼となり、寺で没した。
史料について
兄の死を、北史の后妃伝は廃されて崩じたとだけ書く。恭帝の死を、資治通鑑は周の人が殺したとし、北史と周書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は殺害を書かない。
恭帝とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
554–556年の地図に、恭帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
改元1
- 改元日付不詳
西魏の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代文帝535–551年病死
- 第2代廃帝551–554年暗殺
- 第3代恭帝554–556年暗殺
年表
南北朝の時代を年表で見る
西魏が