袁術
仲家(後漢)|在位 197–199年

- 諱(本名)
- 袁術
- 在位
- 197–199年
- 在位期間
- 2年151日365名中249位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 43歳(数え年)172名中・若い順144位タイ
- 没年齢
- 45歳(数え年)269名中・長寿順105位タイ
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
後漢末、河内の張炯による符命を口実に、先行政権からの継承なく自ら皇帝を僭称し国号を「仲家」とした。原文:「建安二年,因河内张炯符命,遂果僭号,自称『仲家』。以九江太守为淮南尹,置公卿百官,郊祀天地」(後漢書・劉焉袁術呂布列傳)。四世三公の袁氏の家格や「代汉者当涂高」の讖言・五徳終始説(黄代赤)を正統性の根拠として掲げたが、後漢皇帝からの譲位や群臣による推戴を受けたわけではなく、自ら新国家「仲家」を樹立して即位しているため建国に分類。
出典: 後漢書 劉焉袁術呂布列傳
死因の経緯
呂布・曹操に相次いで敗れ、部下の雷薄・陳蘭を頼るも拒絶され、寿春近郊の江亭で食糧も尽き窮乏。帝号を袁紹に譲ろうと青州へ向かう途中で発病し、道半ばで死去(「發病道死」、建安4年6月、享年45)。裴松之注引『呉書』には、蜂蜜入りの飲み物を欲したが得られず、寝台で嘆息の末に一斗余りを吐血して死んだという最期の様子が詳述される(「蜂蜜が欲しいと言い残した」という俗説は誇張)。
出典: 三國志 魏書六 董二袁劉傳 裴松之注引呉書
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
建安2年(197年)正月頃、袁術は河内の張炯が奉じた符命により「仲家」を僭称し、九江太守を淮南尹と改称し公卿百官を置いて南北郊を祀った(後漢書「因河内張炯符命、遂果僭号、自称仲家。以九江太守為淮南尹、置公卿百官、郊祀天地」/三国志「用河内張炯之符命、遂僣号以九江太守為淮南尹。置公卿、祠南北郊」)。しかし独自の年号(建元)を制定したという記述はどちらの史書にも見られず、記事は一貫して後漢の「建安」年号で紀年されている。国家儀礼(郊祀・置官)の記事はあるため僭号の事実自体は明確だが、改元(年号制定)を行った証拠がないため、指示に従い即位に伴う建元もカウントせずcount:0とする。
大赦回数
後漢書・三国志いずれの袁術伝にも「大赦天下」等、全国規模の大赦を実施した記事は見当たらない。袁術政権(仲家)は建号直後から呂布・曹操との戦いに終始し、江淮間では「人民相食」(民が互いに食い合う)という飢饉状態が続いたと記され、恩赦を出す余裕があったとは考えにくい。
立后回数
後漢書・三国志いずれにも袁術が皇后を正式に冊立したという記事はない。後漢書には「媵御数百」(後宮の女性数百人)とあるのみで、特定の皇后名や冊立儀礼への言及はない。
皇太子廃立回数
後漢書・三国志いずれにも袁術が皇太子(または法定推定継承者)を立てたという記述自体がなく、したがって廃立の記事も存在しない。子の袁耀は袁術死後に孫呉に仕えたとのみ記され、仲家政権下で皇太子に冊立された形跡はない。
親征回数
在位期間(197年僭称〜199年病死)中に袁術自身が軍を率いて出陣したと明記されるのは建安2年秋の陳国侵攻の1回のみ。呂布攻撃(張勲・橋蕤らを派遣)は将軍派遣のみで親征には該当しない。
反乱鎮圧回数
『三国志』董二袁劉伝(袁術の項)・武帝紀・『後漢書』劉焉袁術呂布列傳のいずれにも、袁術の在位期間(197〜199年)中に自身の支配下の服属者による反乱を鎮圧した記事は見当たらない。呂布・曹操・孫策・劉表ら対等勢力との抗争は統一戦争として反乱に含めない。舒仲応(沛相)が軍糧を独断で飢民に分配した一件(『後漢書』)は命令違反であり武装蜂起ではないため該当しない。該当記事なし。
被反乱回数
在位末期の建安4年(199年)夏、旧配下の雷薄・陳蘭(陳簡)に拒絶された一件のみを反乱相当として計上。呂布・曹操・孫策ら対等勢力との抗争、および孫策の袁術からの独立(江東割拠)は対等勢力との関係変化であり配下の武装蜂起という証拠が乏しいため計上していない。
遷都回数
魏書袁術伝を通読。建安2年の寿春僭号(建国時の定都)以降、恒久的な遷都の記録なし。晩年の霍山・青州方面への逃走は敗走中の死去。
即位時年齢・没年齢
既存deathCause.noteに記載の「享年45」(『三国志』魏書六 董二袁劉伝 裴松之注引呉書、建安4年=199年6月、寿春近郊で発病し道半ばで死去)を没年齢の直接記載として採用(原文の「時年」「享年」は数え年のため換算不要)。即位時年齢は直接記載がないため、年号年ラベルの差分による逆算値を採用:即位(建安2年=197年正月、仲家建国、後漢書劉焉袁術呂布列伝)と没(建安4年=199年6月)の年号年差2年を没年齢45から差し引き、45-2=43。生年月日そのものの直接記載は原典(後漢書・三国志いずれの袁術伝)に見当たらず、没年齢からの逆算のみで確定日付を導くのは避けるためbirthDateはnullのまま保留。死去日は『日不詳、死去日を月央と仮定』(reigns[0].endDateRaw)とある通り実際には月までしか判明していないため、deathDateは日を含めず月精度(0199-06)で記録する。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征197年9月陳国(陳王劉寵・陳相駱俊、その後駆けつけた曹操自身の軍)
対象: 陳国(陳王劉寵・陳相駱俊、その後駆けつけた曹操自身の軍)
結果: 袁術自ら兵を率いて陳国に侵攻し(『三国志』武帝紀「術侵陳」、『後漢書』袁術伝「術又率兵撃陳國」)、陳王劉寵・陳相駱俊を誘殺したが、曹操が自ら東征してきたと聞くと軍を捨てて敗走(「弃軍走」)、淮水を渡って退いた。留め置いた部将橋蕤・李豊・梁綱・楽就(『後漢書』では張勲・橋蕤を蘄陽に残留)は曹操に撃破され橋蕤は斬られた。
建安2年(197年)秋九月の出来事。『三国志』魏書・武帝紀「秋九月、術侵陳、公東征之。術聞公自來、弃軍走」、および同・董二袁劉伝「術前為呂布所破、後為太祖所敗」、『後漢書』劉焉袁術呂布列伝「術又率兵擊陳國…曹操乃自征之。術聞大駭、即走度淮」に基づく。呂布への攻撃(張勲・橋蕤らを派遣)は袁術自身の出陣ではなく将軍派遣のみのため親征に含めない。
被反乱199年灊山の旧部曲(雷薄・陳蘭)による拒絶・離反
首謀者: 雷薄・陳蘭(『後漢書』表記では陳簡・雷薄)
結果: 陳国侵攻失敗後に困窮した袁術は建安4年(199年)夏、宮室を焼いて自らの部曲(配下軍)であった雷薄・陳蘭(陳簡)を頼って灊山に逃げ込もうとしたが、彼らに拒まれて(『三国志』「復為所拒」、『後漢書』「復為簡等所拒」)入ることができず、袁術は窮乏し士卒も離散した。反乱鎮圧行動が取られる間もなく、まもなく袁術は青州へ向かう途上で発病し死去した(在位終了まで未鎮圧)。
雷薄・陳蘭(陳簡)は袁術自身の部曲(配下軍)であったが、主君である袁術の受け入れを実力で拒否しており、服属者による離反・拒絶とみなしrebellionSufferedCountに算入した(未鎮圧のまま在位終了のケースに該当)。ただし原文の「拒」が実際の交戦を伴ったか、単なる入城拒否・道義的離反に留まったかは明記されておらず、武装衝突の有無が確定できないためconfidenceはmediumとする。対称性の観点からrebellionSuppressionCountには計上していない(袁術側が鎮圧を試みた形跡がなく、そのまま逃亡・死去したため)。