
後漢の末に帝号皇帝という称号を名乗り、仲家と称した群雄である。
袁術の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 197年2月〜199年7月
- 没年
- 199年7月年齢不詳
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓袁諱術字公路呼び名の見方
出典
- 在位
- 後漢書 巻九 孝獻帝紀/後漢書 劉焉袁術呂布列傳/資治通鑑 巻六十二 漢紀五十四
- 死因
- 三國志 魏書六 董二袁劉傳 裴松之注引呉書
- 即位経路
- 後漢書 劉焉袁術呂布列傳
生涯
どんな皇帝か
後漢書は、驕って勝手気ままで自分を尊び他を侮ったと評し、三国志の評は、栄華が続かなかったのは自ら招いたものだとする。
即位まで
司空朝廷で最も位の高い大臣の一つ袁逢の子で、袁紹の従弟である。若いころは侠気で知られ、鷹や犬で遊んだが、のちに行いを改めた。董卓に後将軍前・後・左・右と並ぶ将軍の位の一つに任じられたが、禍を恐れて南陽に逃れた。南陽では法度を整えず略奪を財源として民を苦しめた。孫堅が伝国璽秦から代々の皇帝に伝えられたとされる印を得たと聞くと、孫堅の妻を捕らえて璽を奪った。匡亭で曹操に大敗すると九江へ逃れ、揚州刺史州という地方の区画を治めた長官の陳温を殺して州を自ら治めた。孫策を高く評価しながら、九江や廬江の太守郡を治める長官にすると約束しては別人を用いた。漢に代わるのは当塗高だという予言に自分が当たると考え、臣下に帝位を諮ったが、閻象に諫められて黙った。197年、河内の張炯が示した符命天が人に位を授けるしるしとされたものを根拠に帝号を名乗り、公卿朝廷の位の高い大臣たち百官朝廷のすべての役人を置いて天地を祭った。
史料について
伝国璽の話を、裴注の引く江表伝は偽りとする。陳温の死を、裴松之は英雄記を引いて病死とし、袁術に殺されたのではないと注する。
治世と最期
帝号を名乗ると一層贅沢になり、後宮の女性は数百人に及んだが、配下が飢えても顧みなかった。兵は弱く衆心も離れ、旱魃と凶作も重なって、江淮の地では人が人を食べた。軍糧の米十万斛を飢民に配った沛相の舒仲応を斬ろうとしたが、一人の命で民を救えるならと言われると、馬を下りて、天下の名声を独り占めするのかと言った。
199年、宮室を焼いて部下を頼ったが拒まれ、帝号を袁紹に譲ろうとした。袁譚のもとへ向かおうとして劉備に道を遮られ、寿春へ戻ったのち、江亭で、袁術がこんな有様になったかと嘆き、病んで血を吐いて死んだ。
史料について
帝号を袁紹に帰したと書くのは後漢書で、三国志は帰そうとしたとする。最期の場面は後漢書による。三国志の袁術伝は袁譚のもとへ向かう途中で病んで死んだとだけ書き、武帝紀は、曹操が劉備らに迎え撃たせたところ病死したと書く。裴注の引く呉書は、台所には麦くずしか無く、暑い盛りに蜜水も得られず、血を一斗余り吐いたと記す。

勢力図
三国の勢力図で見る
197–198年の地図に、袁術が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征1
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。197年10月陳国(陳王劉寵・
陳相駱俊、その後駆けつけた曹操自身の軍) - 反乱199年灊山の旧部曲(雷薄・
陳蘭)による拒絶・ 離反
年表
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仲家が