武帝
西晋|在位 266–290年

- 諱(本名)
- 司馬炎
- 廟号
- 世祖
- 在位
- 266–290年
- 在位期間
- 24年107日365名中41位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 55歳(数え年)269名中・長寿順57位タイ
- 改元
- 4回332名中29位タイ
- 大赦
- 9回267名中47位タイ
- 立后
- 2回204名中14位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 8回225名中50位タイ
- 被反乱
- 8回289名中59位タイ
- 遷都
- 0回
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武帝
即位の経緯
咸熙2年(265年)、魏の元帝曹奐から禅譲を受け即位、西晋を建国。形式は禅譲だが実質は司馬氏(祖父司馬懿・伯父司馬師・父司馬昭の代からの権力集中)による簒奪の完成であり、曹丕の魏建国と同型の禅譲劇。
出典: 晉書 帝紀第三 世祖武帝
死因の経緯
太熙元年(290年)四月己酉、含章殿で崩御(享年55)。他殺を示す記述はない。
出典: 晉書 帝紀第三 世祖武帝
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元(咸熙→泰始)を含め、在位中の改元は泰始→咸寧→太康→太熙の計4回。各改元とも本紀に「改元」と明記されている。
大赦回数
「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみを計上(9回)。「今大赦其家(鄧艾の家のみを対象とした特赦)」「曲赦交阯・九真・日南五歳刑」「赦五歳刑已下」「曲赦四郡殊死已下」「雍涼秦三州、赦其境内殊死以下」等、対象が限定された部分的・地域限定の赦は対象外とした。
立后回数
在位中に楊氏(楊艷)・楊氏(楊芷)の2名が順次「立皇后」と明記されている(廃后の記事はなく、前皇后の崩御による代替わり)。
皇太子廃立回数
泰始三年丁卯に皇子衷(後の恵帝)を皇太子に立てたのち、在位中に皇太子を廃した記事は本紀に見られない。むしろ本紀末尾の史臣評に「知惠帝弗克負荷,然恃皇孫聰睿,故無廢立之心」「惠帝可廢而不廢」と、恵帝の資質に不安がありながらも結局は廃立しなかった旨が明記されている。よって廃立回数は0回。
親征回数
『晋書』帝紀第三(武帝紀)の在位期間(泰始元年~太熙元年、265~290年)を通読したが、「帝自将」「帝親征」等、武帝本人が軍を率いて出陣したことを示す記述は見当たらない。最大の軍事行動である太康元年(280年)の呉討伐は「大挙伐呉」として琅邪王伷・王渾・王戎・胡奮・杜預・王濬・唐彬の七将を派遣し、太尉賈充を大都督として統率させたのみで、賈充自身も「移屯項」(後方の項県に駐屯)と記され前線に出ておらず、武帝は洛陽に留まったまま。同様に樹機能ら秦涼の反乱鎮圧も馬隆・文淑・汝陰王駿ら諸将の派遣によるもの。紀末尾の「制曰」評でも「馬隆西伐、王濬南征」と将軍の功として明記され、皇帝自身の親征は記されていない。以上より親征回数は0件と判断した。
反乱鎮圧回数
武帝紀(泰始元年~太熙元年)を通読し、「叛」「反」等の語で明記された服属民(属郡官吏・帰附異民族・帰降した旧敵将等)の武力蜂起を対象に抽出した。呉・鮮卑慕容廆等、独立勢力・対等な敵国との抗争(呉討伐、鮮卑寇辺等、「寇」と表現されるもの)は統一戦争・対外戦争として除外した。樹機能の乱は約10年に及ぶ複数酋長の断続的な蜂起であり集計単位の判断に幅があるため、また莞恭・帛奉の一件は地名の同定にやや不確実性が残るため、全体としてconfidenceをmediumとした。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと対称。武帝本人が廃位・弑逆された事件や、鎮圧未着手のまま在位終了した反乱は存在しないため、両者は同一の8件・同一件数となった。confidenceは鎮圧回数側と同じ理由(樹機能の乱の集計単位・莞恭帛奉の地名同定)でmediumとした。
遷都回数
晋書帝紀を通読。西晋建国(洛陽定都、建国時の定都)から永嘉の乱(311年)まで洛陽が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢55歳は本紀に「時年五十五」と直接記載(太熙元年四月己酉)。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。
在位中の出来事(31件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元266年2月8日泰始元年十二月丙寅(十二月十七日)、南郊で受禅、洛陽宮太極前殿にて即位の詔を発した際に「於是大赦,改元」とあり、咸熙(魏)から泰始(晋)への建国改元。
泰始元年十二月丙寅(十二月十七日)、南郊で受禅、洛陽宮太極前殿にて即位の詔を発した際に「於是大赦,改元」とあり、咸熙(魏)から泰始(晋)への建国改元。西晋建国に伴う最初の建元としてカウント(固有の注意事項に従う)。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
大赦266年2月8日泰始元年十二月丙寅(十二月十七日)、南郊で受禅の儀の後、太極前殿にて詔して「於是大赦,改元」。
泰始元年十二月丙寅(十二月十七日)、南郊で受禅の儀の後、太極前殿にて詔して「於是大赦,改元」。建国に伴う大赦。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
立后266年3月20日泰始二年正月丙午、「立皇后楊氏」(楊艷/元皇后。
泰始二年正月丙午、「立皇后楊氏」(楊艷/元皇后。泰始十年七月丙寅に崩御)。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
大赦268年2月20日泰始四年正月戊子、律令完成・藉田親耕に際しての詔に「其大赦天下」と明記。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
反乱鎮圧270年6月〜279年12月樹機能(河西鮮卑・秦涼諸胡)の乱
首謀者: 樹機能(および若羅拔能・乞文泥ら秦涼の胡帥)
結果: 泰始六年六月に秦州刺史胡烈が万斛堆で叛虜(樹機能ら)に敗死したのを端緒に、翌年凉州刺史牽弘も青山で「群虜内叛」により戦死、咸寧元年に樹機能は一時送質請降するも咸寧三年に再び文淑に討たれ、咸寧四年には凉州刺史楊欣が若羅拔能に敗死するなど断続的に約10年続いた。咸寧五年(279年)末、討虜護軍馬隆が樹機能を撃破・斬殺し「凉州平」に至り鎮圧成功。
泰始六年(270)に秦州で始まり咸寧五年(279)まで断続的に続いた秦涼地域の鮮卑・羌胡諸部族の蜂起。原文では「叛虜」「群虜内叛」等の語が使われ、既に晋の秦州・凉州統治下にあった帰属異民族の離反と解される。首謀者は一貫して樹機能とされ(咸寧元年の「叛虜樹機能送質請降」、咸寧三年の「討叛虜樹機能等」、咸寧五年の「撃叛虜樹機能、大破、斬之」)、途中で名前の挙がる若羅拔能・乞文泥らは同じ秦涼諸胡連合の中の別部酋長とみられるため、一連の反乱として1件に合算した(集計単位の粒度差に相当)。confidence medium。
被反乱270年6月〜279年12月樹機能(河西鮮卑・秦涼諸胡)の乱
首謀者: 樹機能(および若羅拔能・乞文泥ら秦涼の胡帥)
結果: 泰始六年に秦州刺史胡烈、泰始七年に凉州刺史牽弘、咸寧四年に凉州刺史楊欣が相次いで討伐中に敗死するなど晋側に大きな損害を与えたが、咸寧五年末に馬隆が樹機能を斬り「凉州平」となり最終的に鎮圧された。
鎮圧回数と同一の反乱。既に服属していた秦涼の異民族による離反のため被反乱としても計上。
反乱鎮圧271年1月〜272年1月匈奴帥劉猛の離反
首謀者: 劉猛(匈奴帥)
結果: 泰始八年正月、監軍何楨が繰り返しこれを撃破し、劉猛配下の左部帥李恪が劉猛を殺害して降伏、鎮圧完了。
泰始七年正月「匈奴帥劉猛叛出塞」と明記。既に晋に服属していた匈奴部帥の離反であり服属民の反乱に該当。
被反乱271年1月〜272年1月匈奴帥劉猛の離反
首謀者: 劉猛(匈奴帥)
結果: 配下の李恪に殺害され、李恪は降伏。鎮圧完了。
鎮圧回数と同一の反乱。
反乱鎮圧272年6月益州牙門張弘の刺史殺害・謀反
首謀者: 張弘(益州牙門)
結果: 張弘は逮捕され「伏誅、夷三族」となり鎮圧された。
泰始八年六月、「益州牙門張弘誣其刺史皇甫晏反、殺之、傳首京師。弘坐伏誅、夷三族」と明記。張弘自身が上官である刺史を殺害し実権を奪った行為が武力による反乱・簒奪とみなされ、朝廷により誅殺された事件として計上した。
被反乱272年6月益州牙門張弘の刺史殺害・謀反
首謀者: 張弘(益州牙門)
結果: 伏誅、夷三族。
鎮圧回数と同一の反乱。
大赦272年8月1日泰始八年(六月)壬辰、益州牙門張弘の皇甫晏誣殺事件で張弘一族が誅殺された後に「壬辰,大赦」と明記。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
反乱鎮圧275年西域叛鮮卑の反乱
首謀者: 不詳(西域の叛鮮卑の渠帥、名は原文に記載なし)
結果: 西域戊己校尉馬循がこれを撃破し、その渠帥を斬った。
咸寧元年(275年)、「西域戊己校尉馬循討叛鮮卑、破之、斬其渠帥」と明記。西域戊己校尉の統轄下にある部族の離反とみて服属民の反乱に含めた。同年内の出来事だが正確な月は不明のため年精度とした。翌咸寧二年の「鮮卑阿羅多等寇邊」は「叛」ではなく「寇」と表現され、最終的に来降した記述もあることから別件・別集団の可能性が高く、境界が曖昧なため今回は含めていない(confidence medium)。
被反乱275年西域叛鮮卑の反乱
首謀者: 不詳(西域の叛鮮卑の渠帥)
結果: 馬循に撃破され渠帥を斬られた。
鎮圧回数と同一の反乱。
改元275年2月13日咸寧元年正月戊午朔、「大赦,改元」。
咸寧元年正月戊午朔、「大赦,改元」。泰始→咸寧への改元。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
大赦275年2月13日咸寧元年正月戊午朔、「大赦,改元」(泰始→咸寧への改元に伴う大赦)。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
大赦276年12月13日咸寧二年十月丁卯、「立皇后楊氏,大赦,賜王公以下及於鰥寡各有差」。
咸寧二年十月丁卯、「立皇后楊氏,大赦,賜王公以下及於鰥寡各有差」。第二次立后(楊芷)に伴う大赦。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
立后276年12月13日咸寧二年十月丁卯、「立皇后楊氏,大赦」(楊芷。
咸寧二年十月丁卯、「立皇后楊氏,大赦」(楊芷。前皇后楊艷の従妹)。第一皇后崩御後の再立后であり、廃后後の復位ではなく新たな皇后冊立として1回とカウント。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
反乱鎮圧277年9月呉故将莞恭・帛奉の挙兵
首謀者: 莞恭・帛奉(もと呉将、晋に降っていた者)
結果: 徐州刺史嵇喜がこれを討ち平定した。
咸寧三年九月、「呉故将莞恭、帛奉舉兵反、攻害建鄴令、遂圍揚州、徐州刺史嵇喜討平之」と明記。「呉故将」=既に晋に降っていた元呉将の離反であり服属民の反乱に該当。ただし攻撃対象の地名「建鄴」が呉の旧都と同名であり、この時点(咸寧三年=277年)は呉がまだ独立国として存在していた時期でもあるため、地名の同定にはやや不確実性が残る(confidence medium)。晋の徐州刺史が鎮圧の主体であることから晋領内の反乱として計上した。
被反乱277年9月呉故将莞恭・帛奉の挙兵
首謀者: 莞恭・帛奉(もと呉将、晋に降っていた者)
結果: 徐州刺史嵇喜に討平された。
鎮圧回数と同一の反乱。
改元280年6月13日太康元年、呉平定を承けて「乙酉,大赦,改元」。
太康元年、呉平定を承けて「乙酉,大赦,改元」。咸寧→太康への改元。原文の月表記は当該箇所直前で「三月」となっているが、乙酉の干支日を暦算すると「夏四月」に相当し、中文維基の年号一覧(咸寧は280年四月まで、太康は280年四月から)とも整合する。原文の月表記に欠落・誤りがある可能性を考慮し確度はmediumとする。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
大赦280年6月13日太康元年、呉平定を承けて「乙酉,大赦,改元,大酺五日,恤孤老困窮」。
太康元年、呉平定を承けて「乙酉,大赦,改元,大酺五日,恤孤老困窮」。原文は当該乙酉の直前の月表記が「三月」となっているが、乙酉の干支日は暦算上「三月」には該当せず「夏四月」(原文でこの直後に「夏四月,河東・高平雨雹」とある)の廿九日に相当する(中文維基の年号表でも咸寧は280年四月まで、太康は280年四月からとされ整合的)。原文の月表記の誤字・脱字(「三月」表記のまま「夏四月」の見出しが欠落した可能性)を考慮し確度はmediumとする。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
大赦285年1月3日太康五年十二月庚午、「大赦」と明記(干支換算では西暦285年1月3日、グレゴリオ暦年をまたぐ)。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
反乱鎮圧287年10月〜287年12月南康の李豊の反乱
首謀者: 李豊(南康平固県の県吏)
結果: 州郡により捕討され伏誅した。
太康八年冬十月、「南康平固縣吏李豐反、聚眾攻郡縣、自號將軍」。同年十二月の記事末尾に「州郡捕討、皆伏誅」とまとめて記されるため、鎮圧完了時期を十二月とみなした。
被反乱287年10月〜287年12月南康の李豊の反乱
首謀者: 李豊(南康平固県の県吏)
結果: 州郡に捕討され伏誅。
鎮圧回数と同一の反乱。
反乱鎮圧287年11月〜287年12月海安の蕭輔の反乱
首謀者: 蕭輔(海安令)
結果: 州郡により捕討され伏誅した。
太康八年十一月、「海安令蕭輔聚眾反」。李豐・蔣迪と併せて「州郡捕討、皆伏誅」と記され、同年内に鎮圧された。首謀者・蜂起地点が李豐・蔣迪とは別であるため個別に1件として計上した。
被反乱287年11月〜287年12月海安の蕭輔の反乱
首謀者: 蕭輔(海安令)
結果: 州郡に捕討され伏誅。
鎮圧回数と同一の反乱。
反乱鎮圧287年12月呉興の蔣迪の反乱
首謀者: 蔣迪(呉興人)
結果: 州郡により捕討され伏誅した。
太康八年十二月、「呉興人蔣迪聚黨反、圍陽羨縣、州郡捕討、皆伏誅」と明記。李豐・蕭輔とは別の首謀者・蜂起地点として個別に計上した。
被反乱287年12月呉興の蔣迪の反乱
首謀者: 蔣迪(呉興人)
結果: 州郡に捕討され伏誅。
鎮圧回数と同一の反乱。
大赦289年5月17日太康十年(夏四月)乙巳、太廟落成・神主遷座の祫祭に際し「大赦,文武増位一等,作廟者二等」。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
改元290年1月28日太熙元年正月辛酉朔、「改元」。
太熙元年正月辛酉朔、「改元」。太康→太熙への改元(同年四月に武帝は崩御)。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」
大赦日付不詳咸寧五年夏四月、「大赦,降除部曲督以下質任」と明記。
咸寧五年夏四月、「大赦,降除部曲督以下質任」と明記。日付(干支日)の記載なし。同月内(暦上ではおおむね西暦279年4-5月頃)の出来事。
出典: Wikipedia中国語版記事「晋书帝纪第三」