
中華帝国(清)第1代反乱・自称政権統一が保たれていた時代に、反乱や自立によって皇帝を名乗った政権。
洪憲帝袁世凱
在位 1915–1916年(101日)1915年12月12日 〜 1916年3月22日
日本は大正時代
洪憲帝は袁世凱のことで、清を退位に導いて中華民国の大総統となったのち、自ら帝位に就いて数か月で取り消した。
洪憲帝の人物データ
- 生年
- 1859年9月16日
- 在位
- 1915年12月12日〜1916年3月22日
- 没年
- 1916年6月6日58歳(数え年)長生き順同率45位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓袁諱世凱呼び名の見方
出典
- 在位
- 近現代の学術的に信頼できる複数情報源(正史範囲外)
- 死因
- 近現代の学術的に信頼できる複数情報源(正史範囲外)
- 即位経路
- 近現代の学術的に信頼できる複数情報源
生涯
どんな皇帝か
清史稿は他の臣下の伝で、練兵と財源づくりに努めて北洋大臣が内外の注目を集めたと記す一方、権謀にたけ私党を要職に置いていると袁世凱を弾劾した上奏も載せる(上奏した側が叱責された)。
即位まで
若いころは軍に従って朝鮮に残り、通商と交渉を担い、朝鮮の執政たちとも親しかった。日清戦争のあと新建陸軍の訓練を任され、李鴻章の死後は直隷総督清で、一つまたは複数の省の軍と政治をまとめた長官と北洋大臣を務めた。1898年、光緒帝に抜擢されて召し出されたころ、譚嗣同が夜に訪ねてきて何事かを話し合い、翌日袁世凱が天津へ戻ると、その翌朝に西太后が政権を取り戻した。袁世凱が変法派の計画を密告したという話を、清史稿は書いていない。義和団が広がると山東巡撫清で、一つの省の軍と政治を治めた長官として兵を出して厳しく討ち、義和団は山東を避けて直隷へ流れた。軍機大臣清で、皇帝のそばで国の大事を扱った重臣と外務部尚書を兼ねたが、宣統帝が即位すると職を解かれた。軍機大臣として権勢を振るったときは、御史役人の不正を調べて皇帝に訴える役人の江春霖が袁世凱と慶親王父子を弾劾する上奏を8通も出したが、どれにも返答が無かった。1911年に武昌で革命天命が改まり、君主や王朝が入れ替わること軍が蜂起すると湖広総督に呼び戻され、まもなく内閣総理大臣となった。清史稿の瑞澂伝は、馮国璋が武昌を落とす寸前だったのに、総理大臣になった袁世凱がにわかに攻撃を止めさせたと記すが、同じ清史稿の宣統帝本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分では、総理就任の後に前線の軍に進軍を止めさせる命令が出て、漢陽を取り返した功はさらに後に叙されている。南方の代表との協議を経て共和制を受け入れ、清帝の退位詔で臨時共和政府を組織するよう命じられ、孫文に代わって臨時大総統に就いた。1915年、国民代表大会が国体を帝制と決めると帝位を受け、翌年を洪憲元年とした。
治世と最期
同じ頃、蔡鍔が雲南で独立を宣言した。1916年に帝制を取り消したが大総統には留まり、新世説によれば、蔡鍔が電報で退くよう迫った。取り消したその年のうちに没した。
民国期の書は、近百年湖南学風が護国軍の挙兵に動揺して、新世説が蔡鍔の電報から1か月足らずで、いずれも憤りのうちに死んだと書く。清史稿は帝制に張勲伝で一言触れ、死も卒とだけ書く。このサイトが死因を病死としているのは近現代の研究によるもので、ここで当たった清史稿と民国期の書は病名を記していない。近代名人軼事録には、死後に机の上から自筆の二句が見つかったという話が残る。
洪憲帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・改元1
- 反乱1915年12月25日〜1916年3月22日護国戦争
- 改元1915年12月31日元号を「洪憲」とする
年表
清・
中華帝国が