中国皇帝統計

洪憲帝・袁世凱

中華帝国(清)|在位 1915–1916年

洪憲帝・袁世凱の肖像
諱(本名)
袁世凱
在位
1915–1916年
在位期間
101日365名中339位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
56歳(数え年)172名中・若い順165位
没年齢
56歳(数え年)269名中・長寿順51位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

関連動画

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

中華民国大総統の地位から1915年12月12日に皇帝即位を宣言し、国号「中華帝国」・元号「洪憲」を制定して自ら皇帝を称した。清朝からの禅譲や皇族としての継承ではなく既存の共和政体制の中で新たに帝制・国家を樹立した建国。

出典: Wikipedia中国語版記事「近現代の学術的に信頼できる複数情報源」

死因の経緯

1916年3月頃から体調不良が報じられ、5月以降悪化、6月3日「病篤,飲食即吐,小便癃閉」(排尿困難)を経て6月6日死去(享年56)。主治医の見立てでは膀胱結石に起因する尿毒症(腎不全)で晩年は糖尿病も併発していたとされる。帝政失敗による憂憤が悪化の一因との見方もあるが、直接の医学的死因は尿毒症(病死)。俗説「羞憤自殺」は史実と異なる。

出典: 近現代の学術的に信頼できる複数情報源(正史範囲外)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

洪憲は1915-12-31宣布・1916-01-01発効・1916-03-23廃止の一元号のみで、在位83日間を通じて改元は1回。

大赦回数

中文資料(洪憲帝制関連)を複数検索したが、洪憲期間中に全国規模の大赦が布告されたとする記録は見つからなかった。この期間に確認できた勅令は主に爵位授与に関するものであり、大赦令ではない。なお1912年3月10日の臨時大総統就任時の大赦令は別事件(本件の対象期間外)のため計上しない。史料が完全に網羅されているとは限らないため確信度はmediumとする。

立后回数

正式な登極大典(1916年1月1日予定)は雲南での護国軍蜂起・護国戦争の勃発により延期が重なり、最終的に帝制取消(1916-03-22)により一度も挙行されなかった。登極大典が行われなかったため、それに付随する皇后冊立の儀礼も行われた記録はない。

皇太子廃立回数

長男・袁克定は自ら「皇太子」を私称し印章まで作らせるなど事実上の後継者を自任していたが、正式な冊立の儀礼・詔書は存在しない。従って廃立(既に立てられていた皇太子を廃する)に該当する事実もない(そもそも冊立自体がないため対象外)。

親征回数

護国戦争(1915年12月〜1916年3月)に際し、袁世凱は「征滇臨時軍務処」を設置し討伐計画を自ら指揮したが、北京に留まり北洋軍を将軍に指揮させて三方向から雲南へ進攻させただけで、皇帝自身が軍を率いて戦場に赴いた事実は確認できない。判定基準1(皇帝自身が軍を率いて戦場に赴いた場合のみ計上)に該当せず0回とした。

反乱鎮圧回数

護国戦争は北洋軍が四川方面で護国軍に敗北するなど鎮圧に失敗し、袁世凱は軍事的劣勢と内外の圧力の中1916年3月22日に帝政取消・退位を宣言した(未鎮圧のまま在位終了、判定基準2の(2)に該当)ため、鎮圧実績としては計上しない。他に在位83日間(1915-12-12〜1916-03-22)中に鎮圧した反乱は確認されない。

被反乱回数

護国戦争(第三革命とも呼ばれる)が在位期間中唯一の被反乱事例。旧部下・地方軍閥による挙兵であり服属民の反乱として通常通り計上した。未鎮圧のまま帝政取消・退位に至ったため判定基準2-(2)によりrebellionSuppressionCountには計上せず、rebellionSufferedCountにのみ計上した。

遷都回数

北京をそのまま首都として踏襲、1916年の帝政取消(退位)まで遷都の記録は一切ない。

即位時年齢・没年齢

生年月日は1859年9月16日(咸豊9年8月20日)、没日は1916年6月6日で複数の信頼できる情報源(中文維基百科・日本語維基百科等)が一致。deathCause.noteに既存記載の「享年56」(中文維基百科の記載)をそのまま採用。この「享年56」は伝統的な数え年(虚歳、通常なら1916-1859+1=58)ではなく満年齢(周歳)に基づく計算(1859年9月生まれ・1916年6月没のため1916年の誕生日未到達、満56歳)とみられる。本ブロック指示で明示的に転記を指定されている値のため、accessionAge(1915年12月12日の皇帝即位時点)についても同じ満年齢方式で算出し56歳とした(1915年9月に56歳の誕生日を迎えた後の即位のため)。他ブロックの数え年統一方針とは計算方式が異なる点に留意。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

被反乱1915年12月25日〜1916年3月22日護国戦争

首謀者: 蔡鍔(唐継尭・李烈鈞と共に護国軍を組織)

結果: 雲南独立宣言(1915-12-25)を皮切りに護国軍が挙兵、1916年1月27日貴州・3月15日広西も独立を表明し反乱が拡大。北洋軍は四川で護国軍に敗北し、軍事的劣勢の中1916年3月22日に袁世凱は帝政取消・退位を宣言(未鎮圧のまま終了)。袁世凱自身は同年6月6日に病死。

旧部下(元雲南都督蔡鍔ら)・地方軍閥(雲南・貴州・広西等)による反乱で、本ブロック判定基準8に基づき服属民の反乱として計上。清朝との対等勢力間の戦争ではなく、袁世凱の統治下にあった地方勢力・旧部下による蜂起である点で除外規定(判定基準5)には該当しない。

改元1915年12月31日袁世凱は1915年12月31日、翌年(民国5年=1916年)を「洪憲元年」とする旨を宣布し、1916年1月1日より紀年として使用開始(即位に伴う最初の建元)。

袁世凱は1915年12月31日、翌年(民国5年=1916年)を「洪憲元年」とする旨を宣布し、1916年1月1日より紀年として使用開始(即位に伴う最初の建元)。1916年3月22日に帝制取消を宣言し、翌23日に洪憲年号を廃止して民国年号に復帰したが、これは新元号への切替ではなく帝政自体の撤回であり改元とはカウントしない。他に洪憲期間中の改元記録は確認できなかった。

出典: 近現代の学術的に信頼できる複数情報源(正史範囲外)

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