洪化帝・呉世璠
呉周(清)|在位 1678–1681年
- 諱(本名)
- 呉世璠
- 在位
- 1678–1681年
- 在位期間
- 3年330日365名中201位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 自尽
- 即位時年齢
- 13歳(数え年)172名中・若い順40位タイ
- 没年齢
- 16歳(数え年)269名中・長寿順253位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 2回45名中3位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
呉三桂の死去に伴い、雲南に残っていた庶孫・世璠が喪に赴き貴陽に至ったところ、「其下擁称帝,改号洪化」(呉三桂の旧部下が擁立し帝と称させた)という経緯で即位した。血縁者ではあるが正式な皇太子冊立を経た継承ではなく擁立の主導者は部下側であるため擁立に分類。
出典: 清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝)
死因の経緯
康熙20年10月、清軍による昆明包囲が長期化する中、配下の線緎らが世璠と腹心・郭壮図を捕らえて清に降伏しようと謀ったため、「世璠與壯圖皆自殺」(世璠は壮図とともに自殺)。
出典: 清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
呉世璠の在位中(1678-1681)に確認できる改元は「洪化」への1回のみ。祖父呉三桂が称帝時に建てた「昭武」は呉三桂自身の元号であり呉世璠には引き継がれず、世璠即位時に新たに洪化へ改元されているため呉三桂の昭武はカウント対象外。
大赦回数
呉世璠(呉周・洪化帝)自身が大赦天下を発したとする記述は原文中に見当たらない。唯一の「赦天下」記事は巻末(康熙二十年昆明陥落後)の「上令宣捷詔,赦天下」であり、これは清朝側(康熙帝)が呉周平定を祝って発した大赦であって、呉世璠政権によるものではないため計上しない。
立后回数
原文中に呉世璠の皇后・后妃の冊立に関する記述は一切ない。即位時わずか13歳であり、在位期間を通じて劣勢での防戦に終始しており、立后の史実・記録は確認できない。
皇太子廃立回数
原文中に呉世璠による立太子・皇太子廃立に関する記述は一切ない。呉世璠自身が13歳で即位し、康熙二十年(1681年)に昆明陥落時に自殺するまでのわずか3年余りの在位で、後継者を巡る記事は見られない。
親征回数
清史稿列伝二百六十一の記述では、対清防衛戦(貴陽防衛・雲南防衛・昆明籠城戦等)はすべて配下の総兵・大将軍(応麒・国柱・啓隆・国相・線緎・馬宝・胡国柱等)が指揮しており、世璠自身が軍を率いて戦場に赴いた記述は確認できない。即位時わずか13歳前後の若年であり、貴陽・昆明に留まって防衛の中心に位置したのみ(原文「世璠年幼」等の背景とも整合)。なお、清朝との一連の戦争自体(三藩の乱後半戦)は判定基準5により対等勢力間の独立戦争としてそもそも本カウント対象外。
反乱鎮圧回数
在位中(1678年-1681年)、世璠側が自ら鎮圧した内部反乱の記録は清史稿列伝二百六十一に見当たらない。対清防衛戦は判定基準5により独立勢力間の戦争として鎮圧・被反乱いずれの対象外。
被反乱回数
対清の一連の防衛戦(貴陽陥落・雲南撤退・昆明籠城戦等、清史稿列伝二百六十一に記載)は判定基準5により独立勢力(呉周)対清朝という対等な国家間戦争として本カウントの対象外。世璠配下の将(張国柱・胡国柱・夏国相・馬宝ら)が清軍に降伏した事例は多数あるが、いずれも兵力を伴う世璠への反乱・クーデターではなく単なる降伏であり計上しない。内部の反乱としては線緎らの昆明籠城末期のクーデター1件のみ確認。
遷都回数
在位中に遷都2回(1678年 衡州(定天府)→貴陽、1680年 貴陽→雲南(昆明))。
即位時年齢・没年齢
生年は史料上「1666年?」と留保付きで伝わる推定値(複数の近代文献: 百度百科・中文維基百科・趣歴史等が「享年十六歳」で一致するため逆算)。数え年で死亡時16歳(1681年・清史稿記載の昆明陥落・自刎時点)、即位時(1678年)は13歳と逆算されるが、一部の近代文献では即位時「12歳」とする説もあり月日未詳による誤差の範囲内。原典(清史稿列伝二百六十一)には世璠自身の生年・享年の直接記載はなく、deathCauseフィールドの記載(康熙20年10月、自尽)と整合。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1678年呉三桂の死(康熙十七年八月乙酉)後、孫の呉世璠が雲南から貴陽に至り、部下に擁立されて即位、元号を「洪化」と改めた。
呉三桂の死(康熙十七年八月乙酉)後、孫の呉世璠が雲南から貴陽に至り、部下に擁立されて即位、元号を「洪化」と改めた。原文:「世璠,应熊庶子,留雲南,奔三桂之喪,至貴陽,其下擁称帝,改号洪化,倚方光琛、郭壮図為腹心。」即位に伴う最初(かつ唯一)の建元。
出典: 清史稿 列传二百六十一
遷都1678年11月衡州(定天府) → 貴陽
康熙17年8月17日呉三桂死去。清史稿列伝二百六十一「宝、國柱攻永興方急,聞喪,自焚其壘,引軍還衡州。世璠…奔三桂之喪,至貴陽,其下擁稱帝,改號洪化」(呉世璠は雲南から呉三桂の喪に赴く途中、貴陽で部下に擁立され皇帝に即位)。清史稿本文には明確な「遷都」の語はないが、維基百科「吳周」条目(清史稿の記述と整合的な二次資料)に「大将軍馬宝留守衡州,吳世璠迎至貴陽,並即帝位。這標誌著大周政權都城由衡州遷往貴陽」と明記され、以後約2年間貴陽が政権の実質的な首都となった。衡州(1678年3月、呉三桂が建国時に「定天府」と定めた最初の都)は建国時の最初の定都のため本カウント対象外。月日は二次資料の「十一月」に基づく推定で精度はmonth止まり。(出典: 清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝、daizhigev20所収)/維基百科「吳周」条目)
遷都1680年貴陽 → 雲南(昆明)
康熙19年(1680年)春、清軍の攻勢により貴陽が陥落。清史稿列伝二百六十一「(康熙)十九年春…(清軍が)薄貴陽。世璠與應麒等奔還雲南。貴陽與安順、石阡、都勻諸府並下」。以後、雲南会城(昆明)が政権最後の拠点となり、康熙20年10月(1681年)に清軍に包囲され陥落、呉世璠は自殺し政権は滅亡(清史稿「線緎等謀執世璠及郭壯圖以降,世璠與壯圖皆自殺。十月戊申,緎等以城降」)。二次資料(維基百科「吳周」条目)は「洪化二年(1680年)十月,吳世璠退守昆明」とするが、清史稿の記述(十九年春の貴陽陥落・撤退)と月に若干の差異があるため、日付精度は年(1680年)に留める。約1年間昆明が政権の首都として機能した後に陥落しているため一時的避難ではなく正式な遷都と判断。(出典: 清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝、daizhigev20所収)/維基百科「吳周」条目)
被反乱日付不詳線緎らによる世璠捕縛未遂事件(昆明開城クーデター)
首謀者: 線緎(世璠配下の総兵)
結果: 世璠は捕縛・清への引き渡しを逃れるため郭壮図とともに自殺。翌日(十月戊申)、線緎らは昆明城を挙げて清軍に降伏した。
清史稿列伝二百六十一「線緎等謀執世璠及郭壯圖以降,世璠與壯圖皆自殺。十月戊申,緎等以城降」。線緎は元来世璠配下の総兵であり兵力を有する朝廷内部の権力者にあたるため、本ブロック判定基準2-(4)(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当し、rebellionSuppressionCountには計上せずrebellionSufferedCountのみに計上する(世璠は鎮圧できないまま自尽しており未鎮圧のまま在位終了に相当)。