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呉周(清)第2代

洪化帝呉世璠

在位 1678–1681年(3年330日)1678年 〜 1681年12月7日

日本は江戸時代

祖父の呉三桂の死後に擁立され、の乱の末に昆明で清軍に囲まれて自ら命を絶った呉周の皇帝である。

洪化帝の人物データ

生年
1666年
在位
  • 1678年〜1681年12月7日
3年330日長い順201位/365人13歳で即位(数え年)
没年
1681年12月7日16歳(数え年)長生き順同率250位/266人
死因
同じ死因15人/365人
即位経路
先代
  • 昭武帝呉三桂呉周洪化帝は昭武帝の孫
次代
—
呼び名
姓呉諱世璠呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 2回多い順同率2位

出典

在位
清史稿 列传二百六十一(呉三桂伝末尾・呉世璠部分)/清史稿 本紀六(聖祖本紀一)
死因
清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝)
即位経路
清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝)

生涯

即位まで

呉三桂の子の応熊ので、雲南に留まっていた。1674年、父の応熊は子の世霖とともに康熙帝に処刑された。1678年に呉三桂が帝を称すると、太孫とされた。同じ年、病んだ三桂に呼ばれたが、着く前に三桂は衡州で没した。世璠は配下に擁立されて洪化とした。

史料について

雲南に来た経緯を、平滇始末は北京生まれでひそかに運ばれたとし、平呉録は1671年から残ったとする。太孫とされたことは呉逆取亡録と平滇始末に載る。即位の場を、清史稿の呉三桂伝は喪に赴いた貴陽とし、呉逆取亡録と平滇始末は雲南とする。

治世と最期

方光琛と郭壮図を腹心とし、郭壮図の娘を皇后に立てた。

1680年、清軍が貴陽に迫ると、呉応麒らと雲南へ逃げ帰った。曹申吉らの内応が露見すると、胡国柱が世璠に報せて申吉らは誅された。1681年に昆明を囲まれると、呼び戻した馬宝と夏国相は降り、胡国柱は首をくくった。

同じ年、線緎らが世璠と郭壮図を捕えて降ろうと謀ると、世璠は自ら命を絶ち、線緎らは城を挙げて降った。翌年、首は市に懸けられ、祖父の遺骸は砕かれて天下に示された。

史料について

郭壮図の娘を皇后としたことは呉逆取亡録に、内応の露見は内応に加わった平呉録の作者が書く。平呉録は、夏国相が大婚を口実に世璠を連れて退いたとし、胡国柱らの最期を平呉録と平滇始末は違えて書く。死に方を、清史稿は多く自殺とだけ書き、彰泰伝は首をくくったとし、刃で自害したとする書もあり、平呉録は毒を飲んだとする。平呉録は容貌が美しく聡明だったと書くが、清史稿などは人柄を書かない。

洪化帝とつながる皇帝

明清交替の勢力図(1678年)

勢力図

明清交替の勢力図で見る

1678–1680年の地図に、洪化帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・遷都2・改元1
  1. 改元1678年元号を「洪化」とする
  2. 遷都1678年衡州(定天府) → 貴陽
  3. 遷都1680年貴陽 → 雲南(昆明)
  4. 反乱日付不詳線緎らによる世璠捕縛未遂事件(昆明開城クーデター)

呉周の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

清・中華帝国の時代を年表で見る

呉周が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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