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北斉(南北朝)

安徳王高延宗

在位 576年(3日)577年1月18日 〜 577年1月21日 ( 576年12月14日〜576年12月17日)

日本は古墳時代

高延宗は北斉の文襄帝の第五子で、後主の去った晋陽で将帥に推されて帝位に即き、北周軍と戦って捕らえられた人物である。

安徳王高延宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 577年1月18日〜577年1月21日 576年12月14日〜576年12月17日
3日長い順364位/365人即位の年齢は不詳576年に在位を終え、1年後の577年に没
没年
577年11月年齢不詳
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
  • 後主北斉安徳王高延宗は後主の従兄弟
次代
—
呼び名
姓高諱延宗呼び名の見方

出典

在位
北齊書 巻十一 文襄六王(安徳王延宗)/周書 巻六 武帝紀下/資治通鑑 巻百七十二
死因
北齊書 巻11 文襄六王(安德王延宗傳)
即位経路
北齊書 巻8 後主紀(附延宗紀)

生涯

どんな皇帝か

北斉書の補巻の論は、時世が難しく主君が暗愚なので才を隠していたが、平陽の陣で忠勇を奮ったのは家と国への義が深かったからだとし、徳昌の挙兵は人々に迫られたもので、滅亡に至ったとも述べる。

即位まで

文襄帝の第五子で、幼いころ叔父の文宣帝に養われ、文宣帝は彼を抱いて、かわいいのはこの一人だけだと言った。定州のときは人糞を混ぜた肉を側近に食べさせるなどし、孝昭帝の使者に杖で打たれ、のち武成帝にも罰されて深く悔い改めた。兄の河間王が死ぬとひどく泣き、武成帝をかたどった藁人形を鞭打って、なぜ我が兄を殺したと問い詰め、告げ口されて鞭で打たれ死にかけた。576年、平陽の戦いで後主が晋陽へ逃げようとすると、兵馬を自分に預けるよう願ったが聞き入れられなかった。後主は彼に并州を任せて鄴へ逃げた。高延宗は、天子にならなければ死力を尽くせないと将帥たちに請われ、やむを得ず即位した。

治世と最期

肥えた体を人に笑われていたが、即位すると奮い立って馬で陣を駆け、府庫と後宮の美女を将士に与えた。士卒の手を取って涙ながらに励まし、子供や女まで屋根から瓦石を投げた。莫多婁敬顕とともに、晋陽の東門から入った北周軍を挟み撃ちにし、北周の武帝は辛うじて脱した。勝った斉兵は坊に入って酔いつぶれ、高延宗は軍を立て直せなかった。翌朝東門を落とされ、城北の民家で捕らえられた。

北周の武帝に手を取られると、死人の手で至尊に迫るなどとんでもないと辞したが、武帝は両国の天子に怨みはないと言って礼遇した。長安で武帝が後主に舞わせると悲しみをこらえられず、毒を仰ごうとして止められた。のち謀反を誣いられて死を賜り、泣いて何も言わずに死んだ。

史料について

捕らえた所を、周書の宇文憲伝は逃走したところを追って捕らえたとし、民家とは書かない。死を賜った年を、資治通鑑は577年とし、北史の斉と北斉書の補巻は578年とする。

安徳王高延宗とつながる皇帝

在位中の出来事

親征1・改元1・大赦1
  1. 577年1月( 576年12月)北周軍(晋陽包囲戦)
  2. 改元577年1月18日( 576年12月14日)元号を「徳昌」とする
  3. 577年1月18日( 576年12月14日)

北斉の歴代皇帝

歴代6人の一覧

年表

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