中国皇帝統計

安徳王高延宗

北斉(南北朝)|在位 576年

諱(本名)
高延宗
在位
576年
在位期間
1年365名中298位タイ
即位経路
擁立
死因
処刑
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

晋陽陥落の危機下、後主逃亡後に将兵の推挙を受け「不得已」(やむを得ず)皇帝位に即いた。

出典: 北齊書 巻8 後主紀(附延宗紀)

死因の経緯

即位3日後、北周軍との晋陽の戦いに敗れ捕虜となる。長安送致後、建徳6年(577年)10月、後主・幼主らと共に穆提婆との共謀を誣告され「賜死」を命じられ、他者に椒で口を塞がれ窒息死させられた(『北齊書』巻11「周武誣後主及延宗等、云遙應穆提婆反、使並賜死。皆自陳無之、延宗攘袂、泣而不言。皆以椒塞口而死」)。実行形式が自裁ではなく他者による直接執行であること、征服者北周による公的処断であることから処刑に分類する(従来の「自尽」とする記録を訂正)。

出典: 北齊書 巻11 文襄六王(安德王延宗傳)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位が即位当日から数日(列伝に『年号徳昌、好事者言其得二日云』とあり実質2日程度)で終わっており、この即位に伴う建元1回のみで改元は他に見当たらない。

大赦回数

在位期間が即位から数日(『好事者言其得二日云』)と極めて短く、この1回の即位詔以外に大赦の記載は見当たらない。

立后回数

延宗が即位前に趙郡李祖収の娘を妃として娶った記載(魏収伝、巻三十七関連記事)はあるが、これは皇帝即位前の一介の王としての婚姻であり、在位中(数日間)に皇后として正式冊立した記載は見当たらない。在位が極めて短く、皇后不在のまま北周軍に包囲・敗北・捕虜となった。

皇太子廃立回数

延宗の在位は即位から陥落までわずか数日(即位翌日には周軍に包囲され、一夜を経て翌朝敗北)であり、皇太子を立てた記載も廃した記載も見当たらない。

親征回数

在位期間が2〜3日と極めて短く、かつ史料上「德昌元年」の元号のみで西暦月日の正確なグレゴリオ暦換算は確定できないためdatePrecisionはyearとした。皇帝本人が城北で直接北周軍と交戦した記述は明確だが、この戦いが北斉と北周という対等な独立政権同士の対外戦争であるため、後述のrebellionSuppression/rebellionSufferedには含めず、personalCampaignCountのみに計上した。

反乱鎮圧回数

該当記事なし。延宗の在位中に生じた唯一の大規模軍事衝突は北周軍による晋陽包囲戦であり、北斉と北周は互いに服属関係のない対等な独立政権(東魏・西魏の後継国家)であるため、RULESの南北朝間・東西魏間戦争除外規定に準じて対外戦争として反乱鎮圧には含めない。なお包囲戦中に麾下の将軍和阿于子・段畅が千騎を率いて北周へ投降した記述(北斉書巻11「阿于子、段畅以千骑投周」「延宗叛将段畅」)があるが、これは対外戦争継続中の戦場での投降であり、独立した首謀者による蜂起・反乱とは性質が異なると判断し、別件としてはカウントしなかった(confidence medium、異説の余地あり)。

被反乱回数

該当記事なし。延宗は北周(対等な独立政権)に晋陽包囲戦で敗れ捕虜となったが、これは対外戦争・統一戦争の結果であり、自身に服属する者による反乱ではないため被反乱には該当しないと判断した(RULES該当箇所:南北朝間・東西魏間の対等勢力同士の戦争は鎮圧・被反乱いずれにも含めない、という規定を北斉・北周間の戦争にも準用)。麾下将軍段畅らの北周への投降も、独立した蜂起というより対外戦争の敗勢下での離反であり反乱には計上しなかった。判断が分かれ得る点のためconfidence medium。

遷都回数

北斉書帝紀を通読。東魏から継承した鄴が577年の滅亡まで一貫した都(晋陽への行幸は複都制の陪都的行幸で主都変更ではない)。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(deathCause.note/accessionRoute.note/reignData/reigns[].note)および_corpus_cache/beiqi-andewang-gaoyanzong.txt(北齊書巻11 文襄六王・安徳王延宗伝)を通読したが、高延宗自身の生年月日・即位時年齢・没時年齢を示す「時年」「年◯◯」「享年」等の直接記載は見当たらなかった。同伝には即位経緯('十二月十三日晡時受敕守并州、明日建号')や在位日数('不間日而被囲、経宿、至食時而敗'、'好事者言其得二日云')の詳細記載はあるが年齢情報は皆無。死亡時期は既存deathCauseの記載(建徳6年〔577年〕10月、後主・幼主らと共に椒で口を塞がれ処刑)を月精度で転記した(reigns[0]のendDateは即位期間のみを示すもので実際の死去は退位・捕縛後のため4番の指示に従いdeathCauseの日付を優先)。生年については兄弟(後主高緯・幼主高恒)には年齢記載があるのに対し延宗本人にはなく、逆算可能な年号年ラベルの対応も確認できなかったため調査済みだが不明として確定する。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

親征576年北周軍(晋陽包囲戦)

対象: 北周軍(晋陽包囲戦)

結果: 緒戦は延宗軍が優勢で周武帝を敗走寸前まで追い詰めたが、翌朝反撃を受けて陥落、延宗は城北で捕らえられた

北斉書巻11列伝(安徳王延宗伝):後主が鄴へ逃走した後、晋陽で群臣に推されやむなく即位(改元徳昌元年)。周軍の晋陽包囲に対し「延宗命莫多娄敬显、韩骨胡拒城南、和阿于子、段畅拒城东。延宗亲当周齐王于城北,奋大槊,往来督战,所向无前」と皇帝自身が城北で北周・斉王宇文宪の軍と直接対峙し大槊を振るって指揮したと明記されており、personalCampaignCountの条件(皇帝本人の出陣)を満たす。同一の目的地(晋陽防衛)・同一の相手(北周軍)に対する一連の攻防戦のため1回とカウント。北斉書巻11「以十二月十三日晡时受敕守并州,明日建瘭号,不间日而被围,经宿,至食时而败」(延宗伝)とあり、即位からわずか2〜3日で敗北・捕縛された極めて短い在位。なお即位前、後主の命で右軍を率いた平陽の役(北斉書巻11:及平阳之役,后主自御之,命延宗率右军先战)は延宗自身がまだ皇帝でなく後主の指揮下にあった戦役のためカウント対象外とした。

改元576年12月14日晋陽で群臣に推され即位すると同時に「改武平七年為徳昌元年」と建元(元号制定)。

晋陽で群臣に推され即位すると同時に「改武平七年為徳昌元年」と建元(元号制定)。後主紀附載部分にも「戊午、延宗従衆議即皇帝位於晋陽、改隆化為徳昌元年」と同一事実が記される(後主が直前に武平七年→隆化元年へ改元していたため、延宗の即位でさらに徳昌元年へ改元)。原文の日付は農暦十二月十四日(戊午日)。

出典: 北斉書 巻十一 文襄六王〈安徳王延宗伝〉

大赦576年12月14日晋陽で群臣に推され即位した際の詔で「可大赦天下、改武平七年為徳昌元年」と、改元と同一の詔書内で全国規模の大赦を実施。

晋陽で群臣に推され即位した際の詔で「可大赦天下、改武平七年為徳昌元年」と、改元と同一の詔書内で全国規模の大赦を実施。原文の日付は農暦十二月十四日(戊午日、列伝に「以十二月十三日晡時受敕守並州、明日建号」とあり十三日の翌日=十四日に即位・大赦・改元)。

出典: 北斉書 巻十一 文襄六王〈安徳王延宗伝〉

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