後主
北斉(南北朝)|在位 565–577年
- 諱(本名)
- 高緯
- 在位
- 565–577年
- 在位期間
- 11年244日365名中117位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 10歳(数え年)172名中・若い順27位タイ
- 没年齢
- 22歳(数え年)269名中・長寿順226位タイ
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 10回267名中38位タイ
- 立后
- 3回204名中5位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
父武成帝より生前譲位を受けて即位した(実父からの内禅)。
出典: 北齊書 巻8 後主紀
死因の経緯
北斉滅亡後、青州で北周軍に捕らえられ長安に送られ温国公に封じられたが、建徳6年(577年)10月、宜州刺史穆提婆との共謀を誣告され「賜死」を命じられ、実際には椒(コショウ)で口を塞がれ窒息死させられた(幼主・安徳王延宗と同一事件)。『周書』巻六「是月、誅溫國公高緯」、『北史』巻十も同文で建徳6年冬十月と明記(北周自身の正史二系統が一致)。北周の公式紀年に「建徳七年」は存在しない(578年は年始から宣政元年)ため、『北齊書』巻8・巻11の「建德七年」表記は誤記と判断。征服者北周による公的処断のため処刑に分類。
出典: 周書 巻六 武帝紀下/北史 巻十 周本紀下
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
後主紀に明記された「改元」記事に基づき、即位建元(天統)・武平改元・隆化改元の3回を計上。禅位後、幼主自身が隆化2年正月に行った「承光」への改元は幼主(beiqi-youzhu-gaoheng)側の在位に帰属させ、本レコードには含めない。
大赦回数
後主紀本文に明記された「大赦」記事10件を計上。「詔降罪人各有差」「降禁囚」「曲降並州(界內)死罪已下囚」等、地域限定・部分的な減刑記事(天統三年正月・天統五年七月・武平元年正月・武平二年九月・武平四年十月など)は全国規模の「大赦」ではないため対象外とした。禅位後の幼主自身の即位に伴う大赦(隆化2年正月乙亥)は幼主(beiqi-youzhu-gaoheng)側に帰属させ、本レコードには含めない。
立后回数
後主紀(卷八)に明記された立后記事は上記3件。ただし武平三年八月庚寅に廃された「皇后斛律氏」(斛律光の娘)については、その冊立記事自体が卷八中に見当たらず、冊立時期・経緯は本紀の対象外(列伝等)とみられる。彼女が在位中に皇后であった事実(廃后記事)自体は本紀に明記されているため、実際の立后回数は本紀確認分の3件を上回る(少なくとも1件、斛律氏の分が加わる)可能性が高い点をnoteとして残す。また「左皇后」は後主期特有の変則的な称号であり、通常の単独「皇后」冊立と同列に扱えるか判断が分かれ得るため、confidenceはmediumとした。
皇太子廃立回数
後主紀中、皇太子恒(武平元年九月乙巳に立太子。原文「立皇子恆爲皇太子」)についての廃立(廃太子)記事は見当たらない。恒はそのまま隆化2年正月乙亥に禅位を受けて即位(幼主、beiqi-youzhu-gaoheng)しており、皇太子期間中に廃された事実はない。
親征回数
『北齊書』卷八 後主紀に「帝」自身の出陣・布陣・敗走が明記される軍事行動はこの武平七年冬の晋州救援戦のみ。他の軍事行動(唐邕による高思好討伐、高阿那肱による周軍撃退等)は将軍への派遣であり後主本人の出陣を示す記述がないため親征に含めない。
反乱鎮圧回数
後主紀(卷八)本文および関連列伝(daizhigev20経由)に明記される、後主政権に服属する臣下・宗室・地方賊による武装蜂起で、政権側が鎮圧に成功した事例4件を計上。斛律光の粛清(武平三年)は後主が先制的に武将を誅殺した事例であり斛律光自身は挙兵していないため反乱には該当しない(ルール上の例外3に相当)として除外。566〜576年の周斉間の戦争(対等な独立政権間の対外戦争)はすべて除外した。
被反乱回数
後主紀(卷八)に明記される、後主政権に服属する臣下・宗室・地方賊による反乱4件に加え、北周侵攻末期に晋陽で安徳王延宗が皇帝を僭称した事件を、後主から見た「服属する宗室による離反」として被反乱に計上した(この1件のみconfidence medium、他4件はhigh)。周斉間の戦争そのもの(対等な独立政権間の対外戦争)は被反乱に含めていない。
遷都回数
北斉書帝紀を通読。東魏から継承した鄴が577年の滅亡まで一貫した都(晋陽への行幸は複都制の陪都的行幸で主都変更ではない)。
即位時年齢・没年齢
『北齊書』卷八 後主紀冒頭に「天保七年五月五日,生帝於并州邸」と生年月日が直接記載。天保七年(556年)五月五日をsxtwlで新暦換算すると556年5月29日(同スクリプトで既存reigns[0].startDateの河清四年四月二十四日→565年6月8日を再計算し一致することを確認済みの手法)。即位(reigns[0].startDate=0565-06-08、河清四年四月二十四日)時点の年齢は数え年で565-556+1=10歳(逆算値)。崩御は『周書』巻六・『北史』巻十に明記される建徳六年(577年)冬十月(deathCause.note参照、『北齊書』の「建德七年」表記は北周に存在しない紀年のため誤記と判断済み)で、数え年577-556+1=22歳(逆算値)。旧暦十月はグレゴリオ暦577年10月27日~11月25日にまたがるため、既存のeraChangeCount/amnestyCountでの換算慣行(月初日基準採用)に倣いdeathDateは月精度で0577-10とした。処刑の正確な日にちは史料により幅があり日精度までは特定できない。
在位中の出来事(26件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元565年4月天統元年(565年)夏四月丙子、晋陽宮にて即位。
天統元年(565年)夏四月丙子、晋陽宮にて即位。同日「大赦」を行い、父武成帝の治世末年である河清四年を天統元年に改元(即位に伴う最初の建元)。原文「天統元年夏四月丙子,皇帝卽位於晉陽宮,大赦,改河清四年爲天統」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦565年4月天統元年四月丙子、晋陽宮での即位に伴う大赦。
天統元年四月丙子、晋陽宮での即位に伴う大赦。原文「天統元年夏四月丙子,皇帝卽位於晉陽宮,大赦,改河清四年爲天統」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦567年2月天統三年二月壬寅朔、帝の元服の礼に伴う大赦。
天統三年二月壬寅朔、帝の元服の礼に伴う大赦。原文「帝加元服,大赦,九州職人各進四級,內外百官普進二級」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦567年11月天統三年十一月丙午、晋陽の大明殿完成を機とする大赦。
天統三年十一月丙午、晋陽の大明殿完成を機とする大赦。原文「以晉陽大明殿成故,大赦,文武百官進二級,免並州居城、太原一郡來年租賦」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦569年1月天統四年十二月丙子(辛未の武成帝崩御から5日後)の大赦。
天統四年十二月丙子(辛未の武成帝崩御から5日後)の大赦。原文「十二月辛未,太上皇帝崩。丙子,大赦,九州職人普加四級,內外百官並加兩級」。既存データ(beiqi-wuchengdi)で天統四年十二月十日(辛未)の崩御が西暦569年1月13日と換算されていることから、本件(丙子)もグレゴリオ暦569年1月頃と推定。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
改元570年1月武平元年(570年)正月乙酉朔、天統から武平に改元。
武平元年(570年)正月乙酉朔、天統から武平に改元。原文「武平元年春正月乙酉朔,改元」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦570年6月武平元年六月甲辰、皇子恒(後の幼主)誕生を理由とする大赦。
武平元年六月甲辰、皇子恒(後の幼主)誕生を理由とする大赦。原文「以皇子恒生故,大赦,內外百官普進二級,九州職人普進四級」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
反乱鎮圧571年8月〜571年10月琅邪王高俨の矯詔クーデター
首謀者: 高俨(琅邪王、後主の同母弟)
結果: 鎮圧成功。後主が高俨を誅殺した
武平二年(571年)秋七月庚午、「太保、琅邪王俨矫诏杀录尚书事和士开于南台。即日诛领军大将军厍狄伏连、书侍御史王子宣等」と、俨が偽造した詔勅を用い軍事力(領軍大将軍厍狄伏連らを誅殺)を行使して権臣一派を粛清するクーデターを起こした(卷八末尾の評でも「琅邪王举兵」と明記)。同年九月庚午、「杀太保、琅邪王俨」とあり、後主自身が俨を誅殺して鎮圧した。皇族による兵力を伴う政変であり、後主が主体となって鎮圧に成功したため反乱鎮圧に計上。
被反乱571年8月〜571年10月琅邪王高俨の矯詔クーデター
首謀者: 高俨(琅邪王、後主の同母弟)
結果: 後主により誅殺され鎮圧された
rebellionSuppressionCountと同一事件。皇族が偽詔+兵力を用いて権臣を殺害するクーデターを起こしたため被反乱にも計上(最終的に後主自身が誅殺し鎮圧側にも回った)。
立后572年8月武平三年八月戊子、右昭儀胡氏を皇后に冊立。
武平三年八月戊子、右昭儀胡氏を皇后に冊立。原文「拜右昭儀胡氏爲皇后」。同月庚寅(戊子に先立つ日)、先代の皇后斛律氏が庶人に廃されている(廃后であり本項目には含めない)。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦572年10月武平三年十月甲午、弘德夫人穆氏を左皇后に立てた際の大赦。
武平三年十月甲午、弘德夫人穆氏を左皇后に立てた際の大赦。原文「拜弘德夫人穆氏爲左皇后,大赦」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
立后572年10月武平三年十月甲午、弘德夫人穆氏を「左皇后」に冊立(胡皇后と並立する変則的な複数皇后制)。
武平三年十月甲午、弘德夫人穆氏を「左皇后」に冊立(胡皇后と並立する変則的な複数皇后制)。原文「拜弘德夫人穆氏爲左皇后,大赦」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
立后573年2月武平四年二月乙巳、左皇后穆氏を(単独の正式な)皇后に昇格・冊立。
武平四年二月乙巳、左皇后穆氏を(単独の正式な)皇后に昇格・冊立。原文「拜左皇后穆氏爲皇后」。前年十二月辛丑に胡皇后が廃されており、穆氏が単独の皇后となった。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
反乱鎮圧573年4月信州の賊徒蜂起
首謀者: 不明(信州の賊。鮮于世栄伝に「信州賊」と記載)
結果: 南兗州刺史・鮮于世栄が討平
武平四年(573年)三月辛未、「盗入信州,杀刺史和士休,南兗州刺史鲜于世荣讨平之」。卷八本紀では「盗」とのみ記されるが、daizhigev20収録の『北齊書』鮮于世栄伝に「武平中、以平信州贼、除领军将军」とあり、信州刺史殺害を伴う武装蜂起(信州賊)であったことが確認できる。北斉領内の州刺史が殺害される規模の反乱であり、鎮圧成功。
被反乱573年4月信州の賊徒蜂起
首謀者: 不明(信州の賊)
結果: 刺史和士休が殺害された後、鮮于世栄が討平
rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧574年3月高思好(南安王)の朔州反乱
首謀者: 高思好(南安王、朔州行台)
結果: 尚書令・唐邕らが大破し、思好は投水自殺(死体は焼却)
武平五年(574年)二月乙未「朔州行台、南安王思好反」、辛丑「行幸晋阳」、「尚书令唐邕等大破思好,思好投水死,焚其尸,并其妻李氏」。朔州行台(辺境軍政官)かつ宗室(南安王)による武装反乱で、後主本人ではなく尚書令唐邕が鎮圧の主体。卷八末尾でも「斛律光死后,诸武官举高思好堪大将军,帝曰:思好喜反」と、思好の反乱性が予見・追認されている。
被反乱574年3月高思好(南安王)の朔州反乱
首謀者: 高思好(南安王、朔州行台)
結果: 唐邕らに大破され、思好は投水自殺
rebellionSuppressionCountと同一事件。
大赦574年5月武平五年五月庚午、大旱に伴う大赦。
武平五年五月庚午、大旱に伴う大赦。原文「夏五月,大旱……庚午,大赦」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦576年2月武平七年正月甲寅、大赦。
武平七年正月甲寅、大赦。原文「七年春正月壬辰,詔去秋已來,水潦人饑不自立者……甲寅,大赦」。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
親征576年11月〜577年1月北周軍(晋州救援・周武帝との会戦)
対象: 北周軍(晋州救援・周武帝との会戦)
結果: 大敗。晋州城南の戦いで斉軍大敗し、帝は軍を捨てて晋陽に逃げ帰った(晋州陥落・晋陽危機の直接の原因となった)
武平七年(576年)冬十月丙辰以降、周師が晋州を攻め、甲子「出兵、大集晋祠」、庚午「帝発晋陽」、癸酉「帝列陣而行、上鶏栖原、与周斉王憲相対」と、後主自身が出陣・布陣したことが明記される。十一月に高阿那肱等が晋州城を囲み、戊寅「帝至囲所」と後主も現地に至る。十二月、周武帝が救援に来て城南で戦い(庚戌)「我軍大敗。帝棄軍先還」。以上、目的地(晋州)・相手(北周軍)が一貫した一連の軍事行動として1回に計上。旧暦十月〜十二月のためグレゴリオ暦では概ね576年11月〜577年1月頃に相当すると推定(既存beiqi-houzhuデータのeraChangeCount/amnestyCountで武平七年十二月=0577-01と換算されている前例に準拠)。なお本戦役は独立政権である北周との対外戦争(東魏vs西魏と同様の対等勢力間の戦争)であり、反乱鎮圧・被反乱のいずれにも計上しない。
被反乱576年12月安徳王高延宗の晋陽における皇帝僭称
首謀者: 高延宗(安徳王、後主の従兄弟。文襄帝高澄の子)
結果: 即位(改元「徳昌」)から約3日後、北周軍との晋陽の戦いに敗れ捕虜となり自然消滅。後主自身は延宗の即位に対し軍事的な鎮圧行動を取っていない
confidence medium。武平七年十二月丁巳(後主が武平七年→隆化元年に改元した当日)に後主は晋陽を放棄して鄴へ向けて出発し、延宗を「相国」に任じ晋陽防衛を委ねた。翌戊午、延宗は「衆議」(守備兵・将士の推挙)に押される形で「不得已」(やむを得ず)皇帝位に即き、隆化を徳昌元年に改元した(『北齊書』卷八「延宗従衆議即皇帝位於晋阳、改隆化为德昌元年」、延宗自身の列伝にも「延宗不得已、即皇帝位」と明記)。これは後主がなお在位中(正式な譲位は0577-02-04の幼主への禅譲)に、宗室の延宗が独自に帝位・元号を称した事実であり、形式上は後主の権威に対する簒奪・離反(同一政権内部の帝位僭称)に該当すると判断し被反乱に計上した。他方で、延宗の即位は後主への敵対や打倒を意図したものではなく、後主が晋陽を放棄して逃亡した後の権力の空白を埋め、北周侵攻に対する防衛拠点としての性格が強く、後主自身も延宗の即位を事後的に問題視して討伐しようとした形跡はない(延宗は北周軍によって短期間で撃破・捕縛されており、後主側の軍事行動による鎮圧ではない)。したがって鎮圧回数には計上せず(鎮圧主体が後主ではなく外敵の北周であるため)、被反乱回数のみに計上する処理とした。この一件を除けば残り4件はsuppression/sufferedとも同数で一致する。
改元577年1月武平七年(576年)十二月丁巳、北周軍の侵攻により晋陽が危機に陥る中、武平七年を隆化元年に改元。
武平七年(576年)十二月丁巳、北周軍の侵攻により晋陽が危機に陥る中、武平七年を隆化元年に改元。原文「丁巳,大赦,改武平七年爲隆化元年」。旧暦十二月の記事のため、グレゴリオ暦では577年1月頃に相当するとみられる(既存データbeiqi-wuchengdiでの天統四年十二月→西暦翌年1月への換算例を参考に推定)。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦577年1月武平七年十二月甲寅、晋州の戦いで大敗し晋陽に逃げ帰った直後の大赦。
武平七年十二月甲寅、晋州の戦いで大敗し晋陽に逃げ帰った直後の大赦。原文「癸丑,入晉陽,憂懼不知所之。甲寅,大赦」。旧暦十二月のためグレゴリオ暦では577年1月頃と推定。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
大赦577年1月武平七年十二月丁巳、武平七年を隆化元年に改元した同日の大赦。
武平七年十二月丁巳、武平七年を隆化元年に改元した同日の大赦。原文「丁巳,大赦,改武平七年爲隆化元年」。eraChangeCountの3件目と同一記事。旧暦十二月のためグレゴリオ暦では577年1月頃と推定。
出典: 北齊書 卷八 後主紀
反乱鎮圧日付不詳鄭子饒の乱(自称「長楽王」)
首謀者: 鄭子饒
結果: 討伐され生け捕られ、都で烹殺(処刑)
卷八本紀は武平六年(576年)三月丁丑「烹妖贼郑子饶于都市」とのみ記すが、daizhigev20収録『北齊書』(尉景和伝と見られる箇所)に詳細があり、「阳平人郑子饶,诈依佛道,设斋会……将为逆乱,谋泄,掩讨漏逸。乃潜渡河,聚□数千,自号长乐王,已破乘氏县,又欲袭西兖州城。景和自南兖州遣骑数百击破之,斩首二千余级,生擒子饶,送京师烹之」とあり、宗教結社を母体に自ら「長楽王」を称して挙兵し県城を攻略する明確な反乱であったことが確認できる。挙兵開始時期は不明のためstartDateはnull、卷八に明記される処刑(烹殺)日をendDateとした。
被反乱日付不詳鄭子饒の乱(自称「長楽王」)
首謀者: 鄭子饒
結果: 討伐され生け捕られ、都で烹殺(処刑)
rebellionSuppressionCountと同一事件。