中国皇帝統計

廃帝

北斉(南北朝)|在位 559–560年

諱(本名)
高殷
在位
559–560年
在位期間
279日365名中306位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
17歳(数え年)269名中・長寿順249位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

文宣帝の嫡長子(母は李皇后)。天保元年に皇太子に立てられ、天保10年10月、文宣帝崩御に伴い即位した。

出典: 北齊書 巻5 廢帝紀

死因の経緯

乾明元年(560年)8月、太皇太后の令により済南王に降格・廃位された後、叔父の孝昭帝(高演)の命を受けた平秦王高歸彦により、皇建2年(561年)秋、晋陽宮で殺害された(享年17)。同一政権内部者(叔父)による謀殺のため暗殺に分類。

出典: 北齊書 巻5 廢帝紀(北史からの補)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位期間中(乾明元年八月に済南王へ廃されるまで)で確認できる改元は乾明への改元1回のみ。

大赦回数

本紀中で「大赦」と明記されるのはこの即位時の1回のみ。乾明元年正月甲辰の「亲录囚徒,死罪以下降免各有差」は個別恩赦であり全国規模の「大赦」明記ではないため含めない。

立后回数

廃帝殷在位中に皇后を立てたとの記載なし。文中「尊皇太后为太皇太后,皇后为皇太后」は先帝文宣帝の皇后(李氏)を皇太后に尊号したものであり、廃帝自身の立后ではない。

皇太子廃立回数

廃帝殷の在位期間(天保十年十月~乾明元年八月)中、皇太子・皇太弟等の冊立・廃立に関する記載は本紀中に見られない。

親征回数

北齊書巻五・廢帝紀(北史よりの補)を確認したが、高殷自身が親征したとの記述は皆無。廢帝は文宣帝崩御時わずか16歳前後で即位した傀儡的存在であり、軍事行動はすべて叔父の常山王演・長広王湛ら宗室重臣が主導した。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

在位期間(559年10月~560年8月)中に高殷政権側が主体となって鎮圧した反乱は確認できない。唯一の大きな軍事事件は常山王演による宮廷クーデターだが、これは高殷が鎮圧する側ではなく被害を受ける側であるため、鎮圧回数には計上しない(被反乱回数のみに計上)。該当記事なし。

被反乱回数

反乱鎮圧回数と食い違う理由は例外4(権臣・宗室による兵力を伴うクーデター)に該当するため。高殷政権下で服属者による他の蜂起は確認できなかった。

遷都回数

北斉書帝紀を通読。東魏から継承した鄴が577年の滅亡まで一貫した都(晋陽への行幸は複都制の陪都的行幸で主都変更ではない)。

即位時年齢・没年齢

没年齢17歳は本紀に「年十七」と直接記載(皇建二年九月、廃位後に済南王として殺害)。生年・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

被反乱560年2月〜560年8月常山王演の宮廷クーデター(南宮の変)

首謀者: 常山王高演(叔父、後の孝昭帝)

結果: 高殷は済南王に降格され廃位。北史巻七(孝昭帝紀)によれば、演は戎服を着し段韶・高帰彦・劉洪徽ら武将と共に宮中に武装兵を率いて突入し、宴席で尚書令楊愔・右僕射燕子献・領軍可朱渾天和・侍中宋欽道を捕縛して斬殺、さらに散騎常侍鄭子默も同様に処刑した。宮中には被甲の衛士二千余人が待機し、都督成休寧が抵抗する場面もあったが、高帰彦が京畿軍を掌握して鎮圧、武衛娥永楽も斬殺された。太皇太后(婁太后)の圧力もあり高殷は抗弁できず、演はそのまま大丞相・都督中外諸軍・録尚書事に就任して実権を掌握し、同年八月には太皇太后の命により高殷は済南王に降格、演が皇帝として即位した(孝昭帝)。高殷はその後、廃位から在位終了後の皇建二年(561年)九月、平秦王高帰彦の密告を受けた孝昭帝の命により晋陽宮で殺害されたが、これは高殷の在位終了後の出来事のため被反乱イベントの主要期間には含めず、結末として付記する。

兵力を伴う権臣(宗室)による弑逆・廃位クーデターであり、RULES記載の例外4(丞相・権臣・宗室等が兵力を用いて皇帝を弑逆・廃位・幽閉に追い込んだ場合)に明確に該当する典型例。鎮圧の主体は高殷側ではなく演側であるため、rebellionSuppressionCountには計上しない。日付は北齊書廢帝紀の記述(乾明元年二月乙巳)に基づくが、北史孝昭帝紀(巻七)は同事件を「三月甲戌」とやや異なる月で記しており、両者に若干の月次の食い違いがある(旧暦月の記載揺れの可能性、または準備段階と決行日の違いの可能性)。念のためmedium要素を含むが、事件の性質・帰結については両史料が一致しており高確度。

改元日付不詳乾明元年春正月癸丑朔、改元して「乾明」とする。

乾明元年春正月癸丑朔、改元して「乾明」とする。文宣帝崩御後の天保十年十月に即位した時点では旧年号「天保」をそのまま用い、翌年正月朔日に新元号「乾明」を建元した。これが廃帝殷の在位中唯一の改元(即位後最初の建元)。

出典: 北齐书 卷五 废帝纪

大赦日付不詳天保十年十月癸卯、太子(殷)が晋陽宣徳殿にて即位、「大赦」を行い、内外百官に普く加級、亡官失爵の者は資品の回復を許した。

天保十年十月癸卯、太子(殷)が晋陽宣徳殿にて即位、「大赦」を行い、内外百官に普く加級、亡官失爵の者は資品の回復を許した。即位に伴う大赦。

出典: 北齐书 卷五 废帝纪

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。