中国皇帝統計

文宣帝

北斉(南北朝)|在位 550–559年

文宣帝の肖像
諱(本名)
高洋
廟号
顕祖
在位
550–559年
在位期間
9年171日365名中138位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
31歳(数え年)269名中・長寿順183位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
8112名中5位
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

東魏孝静帝から禅譲を受け、天保元年(550年)5月に即位して北斉を建国した。

出典: 北齊書 巻4 文宣帝紀

死因の経緯

晩年、大量飲酒による心身異常が進行し(「沉酗既久、彌以狂惑」「暨于末年、不能進食、唯數飲酒、麴蘖成災、因而致斃」)、天保10年(559年)10月甲午、晋陽宮徳陽堂で急逝(享年31)。史臣も「饗國弗永、實由斯疾」と評しており、長年の暴飲による病死と判定。

出典: 北齊書 巻4 文宣帝紀

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位に伴う建国改元(天保)の1回のみで、在位中に他の改元は行われていない(固有の注意事項どおり、建国改元をeraChangeCountに含めた)。

大赦回数

「大赦天下」「大赦」と明記された全国規模の恩赦のみを計上。天保元年六月己亥「以皇太子初入東宮、赦畿内及并州死罪已下、余州死降、徒流已下一皆原免」(畿内・并州限定)、天保元年冬十月辛巳「曲赦并州太原郡晋陽県及相国府四獄囚」(「曲赦」=地域限定の恩赦)、天保五年秋七月壬辰・天保九年春二月丁亥の「降罪人」(減刑の記述のみで大赦の語なし)は、全国規模の大赦に該当しないため除外した。

立后回数

文宣帝紀中に皇后李氏の廃后・再冊立、他の皇后冊立に関する記述はなく、本紀の範囲(天保元年〜十年)では1回のみ。

皇太子廃立回数

『北齊書』巻四(文宣帝紀)には皇太子(高殷、天保元年六月丁亥冊立)の廃立に関する記述はない。高殷が皇太子・皇帝の地位を失うのは文宣帝崩御後(廃帝紀・孝昭帝紀の記事)であり、文宣帝本人の在位中の出来事ではないため対象外。

親征回数

『北齊書』巻四・文宣紀(daizhigev20収録の同内容テキストおよび『北史』巻七で相互確認)を全文精査。「帝亲戎」「帝亲讨」「帝自晋阳讨之」「帝亲逾山岭」「帝躬当矢石」「帝率轻骑」等、皇帝本人の出陣を示す記述がある事例のみを親征として計上した。将軍・行台のみが派遣された外征(清河王岳らの南朝方面出兵、萧轨の建康方面出兵等)は皇帝本人が出陣していないため含めていない。狩猟(校猎、大狩)や巡幸のみの記事も軍事行動と区別し除外した。同一相手への遠征は年をまたいでも一連の軍事行動なら1回、年を空けて再度出征した場合は別カウントとする基準に従った(山胡・茹茹への複数年にわたる遠征は年ごとに分割)。

反乱鎮圧回数

服属民(稽胡=山胡、および北斉が擁立した傀儡茹茹可汗庵羅辰)による蜂起の2件を反乱鎮圧として計上した。彭楽・元世宝ら宗室粛清・冀州民劉向の事件は密告により発覚し挙兵に至らなかった謀反計画(または詳細不明な短い記事)のため除外。北豫州刺史司馬消難の北周投降(天保9年)は実際の武力衝突の記録がなく平穏な離反であり、鎮圧行動も文宣帝崩御までに着手されていないため鎮圧回数には含めなかった(被反乱側でも除外、researchNote参照)。梁の反乱者李山花が魯山城を攻めた事件(天保6年)は李山花が斉の服属者であった証拠がなく、梁からの離反者が斉領へ越境侵入した事例と見て除外した。

被反乱回数

反乱鎮圧回数と対称的に、山胡(稽胡)の反乱・庵羅辰(茹茹可汗)の反乱の2件を計上した(集計単位はいずれも鎮圧側と同一の首謀者/蜂起単位)。太尉彭楽の謀反(天保2年)は『北史』列伝により前行襄州事の劉章らの告発によって発覚し、挙兵に至らず誅殺されたことが確認できたため、密告・摘発のみで終わった謀反計画として除外した。前黄門侍郎元世宝・通直散騎侍郎彭貴平の謀逆(天保2年、免死配辺)も同様に挙兵の記述がなく除外。冀州民劉向の謀逆(天保8年)は原典の記述が『谋逆,党与皆伏诛』と簡略で武装蜂起の証拠が確認できず除外(低~中程度の確度で除外と判断)。北豫州刺史司馬消難の北周投降(天保9年)は、周書列伝により『密令所亲裴藻间行入关,请举州来附』(讒言を恐れての自発的・平穏な投降依頼)であったことが判明し、斉軍との交戦記録がないため『実際に武装し政権への反抗行動(挙兵)を取った』とは認め難く、被反乱にも含めなかった(郡県官の離反ではあるが武力衝突を伴わない政治的離反であり、境界事例として除外)。梁の反乱者李山花の魯山城攻撃(天保6年)も、李山花が斉の服属者であった証拠がなく除外。

遷都回数

北斉書帝紀を通読。東魏から継承した鄴が577年の滅亡まで一貫した都(晋陽への行幸は複都制の陪都的行幸で主都変更ではない)。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢31歳は本紀に「時年三十一」と直接記載(天保十年十月甲午)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(18件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

立后550年6月天保元年六月丁亥、「詔立王子殷為皇太子、王后李氏為皇后」とあり、王后李氏(李祖娥)を皇后に冊立。

天保元年六月丁亥、「詔立王子殷為皇太子、王后李氏為皇后」とあり、王后李氏(李祖娥)を皇后に冊立。正確な日付(丁亥)はグレゴリオ暦換算未実施のため月単位で記録。

出典: 北齊書 巻四 文宣帝紀

改元550年6月9日武定八年五月戊午、東魏から禅譲を受け皇帝に即位すると同時に「改武定八年為天保元年」と改元(建国改元)。

武定八年五月戊午、東魏から禅譲を受け皇帝に即位すると同時に「改武定八年為天保元年」と改元(建国改元)。以後、天保十年(559年)崩御まで改元の記述はない。

出典: 北齊書 巻四 文宣帝紀

大赦550年6月9日武定八年(天保元年)五月戊午、東魏孝静帝からの禅譲を受け皇帝に即位した当日の詔に「思与億兆、同始茲日、其大赦天下。

武定八年(天保元年)五月戊午、東魏孝静帝からの禅譲を受け皇帝に即位した当日の詔に「思与億兆、同始茲日、其大赦天下。改武定八年為天保元年」とあり、建国に伴う全国規模の大赦。

出典: 北齊書 巻四 文宣帝紀

親征550年11月西魏(丞相宇文泰、史書は『周文帝』と追記)

対象: 西魏(丞相宇文泰、史書は『周文帝』と追記)

結果: 戦闘なし。西魏軍は帝の軍容の盛んなるを見て退兵した

天保元年(550年)十一月、宇文泰が衆を率いて陝城に至り建州まで進んだため、文宣帝は『帝亲戎出次城东』(自ら軍を率い城の東に出陣)した。宇文泰は『高欢は死せず』と嘆じて退兵した(北斉書巻四)。示威行軍で直接交戦はなし。

親征552年1月庫莫奚(東北方の遊牧異民族、非服属の外敵)

対象: 庫莫奚(東北方の遊牧異民族、非服属の外敵)

結果: 大破し、雑畜十余万頭を獲得

天保3年正月丙申「帝亲讨库莫奚于代郡,大破之」(北斉書巻四)。

親征553年1月山胡(稽胡、離石周辺)

対象: 山胡(稽胡、離石周辺)

結果: 交戦に至らず。山胡は帝の到着前に逃走したため、三堆戍を巡視し大狩をして帰還した

天保4年正月丙子「山胡围离石。戊寅,帝讨之,未至,胡已逃窜」(北斉書巻四)。同年の山胡蜂起(離石包囲)に対する第一次親征。反乱鎮圧回数の『山胡(稽胡)の反乱』の前半に対応。

反乱鎮圧553年1月〜554年1月山胡(稽胡)の反乱(離石・石楼)

首謀者: 不明(山胡諸部、首謀者個人名は史書に記載なし)

結果: 鎮圧成功。天保5年正月に石楼を平定し、遠近の山胡はことごとく畏服した

天保4年正月に離石を包囲した山胡(稽胡)は帝の親征を受けて逃走し、翌天保5年正月に帝が再度討伐して石楼を平定した。稽胡(山胡)は北斉の石州・汾州等の管轄下に居住する服属異民族で、北史列伝には『定稽胡』『征山胡』の語が頻出し服属民として扱われている(北斉書巻四、北史巻六・列伝各所)。同一の蜂起の鎮圧完了までを1件として計上。

被反乱553年1月〜554年1月山胡(稽胡)の反乱(離石・石楼)

首謀者: 不明(山胡諸部、首謀者個人名は史書に記載なし)

結果: 鎮圧成功。天保5年正月に石楼を平定し、遠近の山胡はことごとく畏服した

反乱鎮圧回数の同名事件と同一。天保4年正月に山胡が斉の離石を包囲したことに始まる。

親征553年9月〜553年11月契丹

対象: 契丹

結果: 大破し、十万余口・雑畜数十万頭を虜獲。碣石山に登り滄海に臨んで帰還

天保4年9月「契丹犯塞」、帝は冀・定・幽・安を北巡し契丹を北討。10月「帝亲逾山岭,为士卒先,指麾奋击,大破之」(北斉書巻四)。潘相楽も別働隊で契丹別部を破った。

親征553年12月〜554年1月突厥

対象: 突厥

結果: 突厥は降を請い、帝はこれを許して帰還。あわせて茹茹(柔然)の残党を迎納し庵羅辰を新たな可汗に擁立した

天保4年12月己未「突厥复攻茹茹,茹茹举国南奔」、癸亥「帝自晋阳北讨突厥,迎纳茹茹...立阿那瑰子庵罗辰为主...亲追突厥于朔州,突厥请降,许之而还」(北斉書巻四)。

親征554年1月山胡(稽胡、石楼)

対象: 山胡(稽胡、石楼)

結果: 斛律金・常山王演と挟撃し斬首数万、雑畜十余万頭を獲得。魏代以来攻略不能とされた石楼を平定し、遠近の山胡は畏服した

天保5年正月癸巳「帝讨山胡,从离石道...遂平石楼」(北斉書巻四)。前年からの山胡蜂起への第二次親征であり、反乱鎮圧が完了した回。

親征554年3月〜554年6月茹茹(庵羅辰)

対象: 茹茹(庵羅辰)

結果: 度々大破し、庵羅辰の妻子・生口三万余人を捕獲。庵羅辰父子は北方に逃走し、茹茹は遠く逃げ去った

天保5年3月「茹茹庵罗辰叛,帝亲讨,大破之」、4月「茹茹寇肆州,帝自晋阳讨之」で包囲されるも自ら指揮して突囲・反撃し庵羅辰の妻子を捕獲、5月「北讨茹茹,大破之」、6月「帝率轻骑于金山下邀击之,茹茹闻而远遁」と、3~6月にかけて同一の反乱(庵羅辰の乱)に対する一連の親征(北斉書巻四)。

反乱鎮圧554年3月〜555年7月庵羅辰(茹茹可汗)の反乱

首謀者: 庵羅辰(阿那瑰の子、天保4年末に北斉が擁立した茹茹=柔然の可汗)

結果: 度々撃破され、天保6年7月の追討を最後に再叛の記録が途絶える(事実上の鎮圧完了)

庵羅辰は天保4年末に北斉が突厥から保護し馬邑川に封じて禀餼・繒帛を給し朝貢させた、北斉に服属する傀儡可汗であった(『于是贡献相继』と北斉書に明記)。天保5年3月に叛き、帝が繰り返し親征してこれを破った。対等な独立政権との抗争(茹茹本国全体との戦争)ではなく、斉が擁立した服属者の離反と判断し反乱として計上した。ただし茹茹の服属関係の実態(完全な冊封関係か一時的な庇護関係か)については異説の余地があり、confidenceをmediumとした。

被反乱554年3月〜555年7月庵羅辰(茹茹可汗)の反乱

首謀者: 庵羅辰(阿那瑰の子、天保4年末に北斉が擁立した茹茹=柔然の可汗)

結果: 度々撃破され、天保6年7月の追討を最後に再叛の記録が途絶える(事実上の鎮圧完了)

反乱鎮圧回数の同名事件と同一。北斉が擁立し馬邑川に封じた服属可汗庵羅辰が天保5年3月に離反した事件。

親征555年6月〜555年7月茹茹

対象: 茹茹

結果: 白道・沃野まで追撃して大破し、俟利らを捕獲。茹茹の一部は投降した

天保6年6月「亲讨茹茹...出塞,至厍狄谷」、7月「帝顿白道...亲率轻骑五千追茹茹...遂至沃野,获其俟利...茹茹俟利郁久闾李家提率部人数百降」(北斉書巻四)。前年の庵羅辰討伐と同一勢力への継続的な追討だが、間に帰還を挟み年を越えているため別の親征として計上。

大赦556年7月天保七年秋七月己亥、「大赦天下」。

出典: 北齊書 巻四 文宣帝紀

大赦558年4月天保九年夏四月辛巳、「大赦」(地域限定の記載なし、全国規模と判断)。

出典: 北齊書 巻四 文宣帝紀

大赦558年11月天保九年冬十一月丁酉、新宮(三台)完成を機に「大赦、内外文武並進一大階」。

出典: 北齊書 巻四 文宣帝紀

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。