孝昭帝
北斉(南北朝)|在位 560–561年
- 諱(本名)
- 高演
- 廟号
- 粛宗
- 在位
- 560–561年
- 在位期間
- 1年77日365名中286位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 事故死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 27歳(数え年)269名中・長寿順202位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
文宣帝の実弟。輔政大臣(楊愔ら)を排除し実権を掌握、太皇太后の令で甥の廃帝を済南王に降格させたうえで自ら即位した。形式は太皇太后の令だが実態はクーデターによる奪権のため簒奪に分類。
出典: 北齊書 巻6 孝昭帝紀
死因の経緯
狩猟中に兎に驚いた馬から落馬し肋骨を折る重傷を負い、その後危篤となり皇建2年(561年)11月、晋陽宮で崩御(享年27)。廃帝殺害を悔い祟りに怯えたとの逸話も併記されるが、直接死因は落馬事故。
出典: 北齊書 巻6 孝昭帝紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元(乾明→皇建)1回のみ。
大赦回数
本紀中で「大赦」と明記されるのは即位時の1回のみ。
立后回数
在位中の立后は1回のみ確認。
皇太子廃立回数
皇建元年十一月辛亥に世子百年が皇太子に立てられた記載はあるが、孝昭帝在位中(皇建元年8月~二年11月)に皇太子を廃立したとの記載は本紀に見当たらない(高百年が廃后・処刑されるのは次代・武成帝期の出来事)。
親征回数
在位期間(皇建元年8月3日即位~皇建二年11月2日崩御)中に本紀で確認できる親征は庫莫奚討伐の1回のみ。それ以外の軍事行動(将軍派遣等)の記載は見当たらない。
反乱鎮圧回数
在位期間(皇建元年8月3日~二年11月2日)中に反乱を鎮圧したとの記載は本紀に見当たらない。なお甥の廃帝(高殷)を廃位させた政変(乾明元年三月甲戌、楊愔・燕子献・可朱渾天和・宋欽道・鄭子默らを誅殺したクーデター)は孝昭帝がまだ太師・録尚書事の身分であった即位前の出来事であり、指示に従い前代(廃帝=高殷)側の記録として扱うべき事案のため本項目には含めない。また皇建2年頃に幽閉中の済南王(廃帝高殷)を鴆毒・絞殺した件は、済南王側が武装蜂起した記録がなく(『济南不从,乃扼而杀之』とあるのみで反乱行動は見られない)反乱鎮圧には該当しない。
被反乱回数
在位期間中に孝昭帝自身が反乱・クーデターの標的となった記載は本紀に見当たらない。巻末の史臣論で「于时周氏朝政移于宰臣,主将相猜,不无危殆」とあるのは北周(宇文護と主上)側の内情への言及であり、北斉・孝昭帝自身が被害を受けた事案ではないため計上しない。該当記事なし。
遷都回数
北斉書帝紀を通読。東魏から継承した鄴が577年の滅亡まで一貫した都(晋陽への行幸は複都制の陪都的行幸で主都変更ではない)。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢27歳は本紀に「時年二十七」と直接記載(皇建二年十一月)。具体的な崩御日の干支は本紀に明記されないためdeathDateは保留。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元560年9月8日即位に伴い乾明元年を皇建元年に改元。
即位に伴い乾明元年を皇建元年に改元。「皇建元年八月壬午,皇帝即位於晉陽宣德殿,大赦,改乾明元年為皇建。」在位中(皇建二年十一月崩御まで)に他の改元は確認できない。
出典: 北齊書 巻六 孝昭帝紀
大赦560年9月8日皇建元年八月壬午、晋陽宣徳殿にて即位した当日に大赦。
皇建元年八月壬午、晋陽宣徳殿にて即位した当日に大赦。「皇建元年八月壬午,皇帝即位於晉陽宣德殿,大赦,改乾明元年為皇建。」なお皇建二年正月癸丑「詔降罪人各有差」は罪人の刑罰軽減の詔であり「大赦」の語を用いていないため、全国規模の大赦としてはカウントしない。
出典: 北齊書 巻六 孝昭帝紀
立后日付不詳「冬十一月辛亥,立妃元氏為皇后,世子百年為皇太子。
「冬十一月辛亥,立妃元氏為皇后,世子百年為皇太子。」妃・元氏を皇后に冊立。廃后・再冊立の記載はなし。
出典: 北齊書 巻六 孝昭帝紀
親征日付不詳库莫奚(庫莫奚、長城以北の遊牧民族)
対象: 库莫奚(庫莫奚、長城以北の遊牧民族)
結果: 成功。帝自ら軍を率いて北討し、長城を出て庫莫奚を撃破、敵は敗走。分兵してさらに討伐し牛馬を多数鹵獲、晋陽宮に収めた。
原文:「是月,帝亲戎北讨库莫奚,出长城,虏奔遁,分兵致讨,大获牛马,括总入晋阳宫。十二月丙午,车驾至晋阳。」『帝亲戎』の記述があり皇帝本人の出陣が明記されている。対象は北方の異民族(庫莫奚)であり南北朝間の内乱・服属民の反乱ではなく対外親征として計上。