武成帝
北斉(南北朝)|在位 561–565年
- 諱(本名)
- 高湛
- 廟号
- 世祖
- 在位
- 561–565年
- 在位期間
- 3年188日365名中212位タイ
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 32歳(数え年)269名中・長寿順180位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
兄・孝昭帝の遺詔により指名され、皇太后の令と群臣(斛律金ら)三度の勧進を経て即位した。
出典: 北齊書 巻7 武成帝紀
死因の経緯
子の後主に譲位後、太上皇帝として旧疾が再発(「上皇疾作、驛追徐之才、未至…疾亟」)、和士開に後事を託し天統4年12月辛未(569年1月)、鄴宮乾寿堂で崩御(享年32)。酒色による不摂生(「帷薄之間、淫侈過度」)が背景として指摘される。
出典: 北齊書 巻7 武成帝紀/和士開傳
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
河清四年四月丙子の「改元為天統元年」は、武成帝が皇太子(後主高緯)に伝位した際の改元であり、新帝である後主自身の建元として後主の治世に帰属させ、譲位した武成帝本人の改元回数には含めない。日付は干支をsxtwlライブラリで照合の上、既存データの即位日(0561-12-03)・譲位日(0565-06-08)と完全一致することを確認して換算した。
大赦回数
原文中「大赦」と明記される箇所は本紀中に4回あるが、うち河清四年四月丙子の大赦(「大赦、改元為天統元年」)は太宰段韶が皇帝璽綬を奉じて皇太子(後主高緯)に伝位した際のもので、譲位・即位儀礼の一部として新帝(後主)自身が主体となる行為であるため、譲位した武成帝本人の在位区分には含めず、上記3回のみを計上した。なお『帝臨都亭錄見囚、降在京罪人各有差』(河清二年正月)、『免洛州経周軍処一年租賦、赦州城内死罪已下囚』(三年十二月)、『所經減降罪人』(三年十二月)、『以河、済清、改大寧二年為河清、降罪人各有差』(河清元年四月)は「大赦」の明記がなく京師・特定地域・特定範囲の減刑にとどまるため、全国規模の大赦としては含めていない。日付は干支をsxtwlライブラリで照合し西暦換算(アンカーとして即位日0561-12-03・譲位日0565-06-08が既存データと一致することを確認済み)。
立后回数
河清四年四月、譲位に際して「又詔皇太子妃斛律氏為皇后」とあるのは新帝(後主高緯)による立后であり、譲位した武成帝本人の立后回数には含めない。武明皇后(婁氏、武成帝の母)への言及(祔葬・配祭)は既冊立の先帝后への追祭であり新規の立后ではない。
皇太子廃立回数
百年は武成帝自身が立てた皇太子ではなく、先代孝昭帝が法定推定継承者として立てていた皇太子であるが、孝昭帝の遺詔により皇位は百年ではなく叔父の武成帝に渡り、武成帝が即位直後に自ら詔して百年の皇太子号を剥奪し郡王に降封した。王朝・在位境界を跨ぐ出来事のため、実際にこの措置を行った武成帝の治世に帰属させた。なお河清三年六月の「殺樂陵王百年」は、この時点で百年は既に皇太子ではなく郡王であり処刑であって皇太子廃立には該当しないため別途カウントしていない。この解釈にはやや幅がありうるためconfidenceはmediumとした。
親征回数
北齊書巻七武成帝紀(河清三年十二月条)に基づく。なお河清三年正月「周軍至城下而阵、战于城西」で周軍・突厥を撃退した記事もあるが、こちらは「诏平原王段韶追出塞而还」と将軍名のみが明記され、帝自身が出陣したことを示す語(帝自将・帝率衆等)がないため親征には含めなかった。
反乱鎮圧回数
同時期に河間王孝琬の粛清(河清後・天統二年、太上皇期)もあるが、蓄積された武器(镇库槊幡)を口実にした一方的な処刑で実際の挙兵に至った記録がなく、謀反疑惑の摘発のみで終わっているため反乱には含めなかった(原則: 実際の兵力行使に至らない謀反計画は不算入)。彭城王浟暗殺(河清三年三月「盗杀」)も暴徒・刺客による暗殺と見られ組織的な反乱蜂起の記述がないため除外。
被反乱回数
太上皇期間(565年四月譲位〜568年十二月崩御)を含め、卷七・卷八の記事を確認したが、この期間中に武装蜂起・弑逆クーデターに相当する事件の記載は見当たらなかった(河間王孝琬の粛清は挙兵に至らない一方的処刑のため不算入)。565年の譲位は自発的措置であり被反乱には該当しないことも確認した。
遷都回数
北斉書帝紀を通読。東魏から継承した鄴が577年の滅亡まで一貫した都(晋陽への行幸は複都制の陪都的行幸で主都変更ではない)。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢32歳は本紀に「時年三十二」と直接記載(天統四年十二月辛未)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(10件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元561年12月3日即位に伴う建元。
即位に伴う建元。孝昭帝の皇建二年を改めて大寧元年とした。原文:「大寧元年冬十一月癸丑、皇帝即位於南宮、大赦、改皇建二年為大寧」。
出典: 北齊書 巻七 武成帝紀
大赦561年12月3日即位に伴う大赦。
即位に伴う大赦。原文:「大寧元年冬十一月癸丑、皇帝即位於南宮、大赦、改皇建二年為大寧」。
出典: 北齊書 巻七 武成帝紀
皇太子廃立561年12月5日即位直後、先代孝昭帝の皇太子であった百年(高百年)を皇太子の地位から廃し、楽陵郡王に降封した。
即位直後、先代孝昭帝の皇太子であった百年(高百年)を皇太子の地位から廃し、楽陵郡王に降封した。原文:「(大寧元年十一月)乙卯……封孝昭皇帝太子百年為樂陵郡王」。
出典: 北齊書 巻七 武成帝紀
大赦562年3月6日皇后胡氏の冊立・皇太子緯の立太子に伴う大赦。
皇后胡氏の冊立・皇太子緯の立太子に伴う大赦。原文:「丙戌、立妃胡氏為皇后、子緯為皇太子。大赦、内外百官普加泛級、諸為父後者賜爵一級」。
出典: 北齊書 巻七 武成帝紀
立后562年3月6日妃胡氏を皇后に冊立。
妃胡氏を皇后に冊立。原文:「河清元年春正月……丙戌、立妃胡氏為皇后、子緯為皇太子」。
出典: 北齊書 巻七 武成帝紀
改元562年5月24日黄河・済水が清んだという瑞祥を機に大寧二年を改めて河清元年とした。
黄河・済水が清んだという瑞祥を機に大寧二年を改めて河清元年とした。原文:「乙巳、青州刺史上言、今月庚寅河、済清。以河、済清、改大寧二年為河清、降罪人各有差」。本紀の紀年表記自体は当該年を遡って「河清元年」と記すが、改元の詔勅・出来事としてはこの四月に発せられている。
出典: 北齊書 巻七 武成帝紀
反乱鎮圧562年7月高帰彦(平秦王・太宰・冀州刺史)冀州拠城反
首謀者: 高歸彦
結果: 大司馬段韶・司空婁睿の討伐により擒獲・鎮圧成功。乙未、都市にて高帰彦とその子3人及び党与20人を斬首
北齊書巻七武成帝紀・河清元年秋七月条「太宰、冀州刺史、平秦王归彦据州反,诏大司马段韶、司空娄睿讨擒之」に基づく。高帰彦は北斉宗室・既に太宰まで昇った既服属の重臣であり、対等政権間の抗争ではなく政権内部の反乱にあたる。鎮圧の主体は段韶・娄睿ら将軍で帝本人の親征ではないが、鎮圧回数には皇帝親征は不要のため計上。
被反乱562年7月高帰彦(平秦王)冀州の乱
首謀者: 高歸彦
結果: 鎮圧され高帰彦及びその子3人・党与20人処刑。政権への実質的損害はなく皇帝武成帝自身への危害には至らなかった
rebellionSuppressionCountと同一事件を対称計上(対称基準)。高帰彦は太宰・冀州刺史として服属していた宗室重臣であり、政権支配下の者による離反にあたる。
大赦564年3月30日律令頒布に伴う大赦。
律令頒布に伴う大赦。原文:「三月辛酉、以律令班下、大赦」。
出典: 北齊書 巻七 武成帝紀
親征564年12月北周軍(尉迟迥等、洛陽包囲軍)
対象: 北周軍(尉迟迥等、洛陽包囲軍)
結果: 帝自ら晋陽より南討し、洛陽・武牢・滑台・黎陽を巡り北周軍の洛陽包囲を解かせ勝利、晋陽へ帰還
河清三年十二月丁巳「帝自晋阳南讨」と明記。実際の交戦(洛陽解囲)は太師段韶が担ったが、帝本人が晋陽から南征し洛陽まで親臨した記録があるため親征に計上。相手は独立政権である北周軍だが、personalCampaignCountには対等政権除外規定がないためカウントする。