太宗
北宋(宋・遼・西夏・金)|在位 976–997年

- 諱(本名)
- 趙炅
- 在位
- 976–997年
- 在位期間
- 20年179日365名中55位
- 即位経路
- 諸説あり
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 38歳(数え年)172名中・若い順129位タイ
- 没年齢
- 59歳(数え年)269名中・長寿順43位タイ
- 改元
- 5回332名中18位タイ
- 大赦
- 11回267名中27位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 3回112名中24位タイ
- 反乱鎮圧
- 7回225名中58位タイ
- 被反乱
- 7回289名中71位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
正史の建前は遺詔(後の「金匱之盟」説)による兄弟継承。しかし『続資治通鑑長編』所引『涑水記聞』は、太祖崩御の夜、宋皇后が徳芳を呼びに行かせたにもかかわらず内侍王継恩が独断で晋王(太宗)を迎え入れたと記す。「金匱之盟」も太宗即位後に事後的に「発見」された経緯があり、太祖の子・徳昭の自殺、徳芳の急死、弟・廷美の配流死など潜在的な皇位継承者が次々と排除された点も学術的に指摘される。宋史自身が「後世不能無議」と認めるため諸説ありとする。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)/続資治通鑑長編 巻十七
死因の経緯
至道3年2月「帝不豫」に始まり、約1ヶ月の病臥を経ての崩御。暴力的死因の記述はない。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
太宗は兄太祖からの世襲継承(禅譲ではなく直系兄弟継承)で単一の即位のみを経ており、身分が藩王から皇帝へ二段階で変化する即位パターン(【皇帝即位前】【皇帝即位(改元同時)】等のタグ付けが必要なケース)には該当しないため、通常の建元・改元として一律にカウントした。太平興國(976)→雍熙(984)→端拱(988)→淳化(990)→至道(995)の計5回の元号設定・改元を本紀四・五から確認。国号変更は本紀中に確認されず、改元との混同はない。
大赦回数
宋史本紀四・五全文から「大赦」の語を含む記事を悉皆確認し、明確に全国規模と読める11件を計上した。除外した恩赦:①太平興國元年建元と同時の恩典は既にA2として計上済み、②淳化元年正月の改元時の恩典は「減京畿繫囚流罪以下一等」で京畿(首都圏)限定かつ「大赦」の語を用いていないため除外、③至道元年正月の改元時の恩典も「赦京畿繫囚,流罪以下遞降一等,杖罪釋之」で京畿限定のため除外、④淳化五年四月戊戌の「赦諸州,除十惡、故劫殺、官吏犯正贓外,降死罪以下囚」は王小波・李順の乱鎮圧に伴う限定的恩赦で文言も「大赦」ではないため除外、⑤淳化五年六月辛卯「詔赦李順脅從詿誤」は反乱協力者に限定した特赦で全国規模の大赦ではないため除外。
立后回数
本紀四・五全文を確認した限り、存命中の皇后として正式に冊立された記録は雍熙元年十二月の德妃李氏(明德皇后)1件のみ。廃后・再冊立の記述はない。
皇太子廃立回数
至道元年八月壬辰に壽王元侃(後の真宗)が皇太子に立てられ(原文「詔立壽王元侃為皇太子,改名恒,兼判開封府」)、太宗崩御(至道三年三月癸巳)に至るまで一貫して皇太子の地位にあり、廃立の記述は本紀四・五に見当たらない。なお太宗の長男・楚王元佐(初名は衞王德崇)が発狂して宮中で放火し「辛亥,廢楚王元佐為庶人,均州安置」(淳化年間頃)と庶人に落とされた事例があるが、元佐が正式に皇太子に立てられたとする記述は本紀に見当たらず(あくまで諸王の一人という扱い)、王爵剥奪であって皇太子廃立には該当しないため0回とする。
親征回数
宋史本紀四・五を精査。明確に帝自身が「親征」「自將」「伐」の主体として軍を率いた事例を3件計上。うち980年の関南・莫州方面出征は帝が大名府に駐蹕したのみで実戦は「諸軍」が担っており親征としての性格がやや弱いため、この1件を含めて全体の確度をmediumとした。交州(黎桓討伐)・李継遷討伐等はいずれも将軍任せで帝自身の出征ではないため計上せず。
反乱鎮圧回数
王小波・李順の乱(993-995)は大規模かつ経過が詳細に記載され高確度。他6件は本紀特有の一行程度の簡略な記述(結果のみ)にとどまり、規模・経過の詳細は不明なため個別確度は低いが、原文に「賊」「亂」等の語で明記される国内蜂起・兵士反乱として計上した。対外戦争(契丹・交州・李継遷/西夏方面等の対等勢力との戦争)は本ルールに従い一切含めていない。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の7件(国内の農民反乱・妖賊蜂起・兵士反乱)。すべて服属民・臣下による武力蜂起であり、宋朝側が鎮圧する立場のため、鎮圧側=被害側の対象反乱群が完全一致する(例外パターンには該当しない)。対外戦争(契丹・交州・李継遷等)は含めていない。
遷都回数
宋史本紀を通読。開封(東京開封府)が建国から靖康の変(1127年)まで一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
生年は宋史本紀四冒頭に「初,后夢神人捧日以授,已而有娠,遂生帝於浚儀官舍…時晉天福四年十月十七日甲辰也」と直接記載(後晋天福四年=西暦939年。日付は原文記載の旧暦の年月日をそのまま採用し、グレゴリオ暦換算は行っていない)。没年齢は本紀五末尾「三月…癸巳…是日崩,年五十九,在位二十二年」に直接記載(享年59、数え年)。即位時年齢は生年の年号ラベル(天福四年=939)と即位年の年号ラベル(開寶九年=976)の差分から算出(976-939+1=38、数え年)。この方法による没年齢の逆算値(997-939+1=59)が原文直接記載の「年五十九」と完全一致し、整合性を確認済み。deathDateは既存レコードのreigns[].endDate(至道3年3月29日=0997-05-08、既に確立済みのグレゴリオ暦換算値)を採用。
在位中の出来事(34件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦976年10月開寶九年十月乙卯(即位の2日後)、大赦。
開寶九年十月乙卯(即位の2日後)、大赦。「常赦所不原者咸除之」とあり通常の恩赦対象外の重罪者まで含む破格の大赦。即位に伴う大赦。原文「乙卯,大赦,常赦所不原者咸除之」。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)
改元976年12月即位に伴う最初の建元。
即位に伴う最初の建元。開寶九年十月癸丑に即位した後もしばらく太祖の元号「開寶」をそのまま継続使用し(十月・十一月の記事はいずれも「開寶九年」表記)、十二月甲寅に至って初めて改元を宣言した。原文「甲寅,御乾元殿受朝,樂縣而不作。大赦,改是歲為太平興國元年」(この年全体を遡って「太平興國元年」と改称する形式)。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)
大赦976年12月開寶九年十二月甲寅、大赦の上、太平興國に改元(eraChangeCountの1回目と同一事象)。
開寶九年十二月甲寅、大赦の上、太平興國に改元(eraChangeCountの1回目と同一事象)。原文「甲寅,御乾元殿受朝,樂縣而不作。大赦,改是歲為太平興國元年」。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)
反乱鎮圧977年梅山洞賊
首謀者: 不明
結果: 潭州兵を発して討伐(結果の記載なし)
太平興国2年閏7月「詔發潭州兵擊梅山洞賊」。湖南梅山地方の洞蛮系武装集団に対する討伐命令のみで、以後の経過・結果の記述は原文中に見当たらない。
被反乱977年梅山洞賊
首謀者: 不明
結果: 潭州兵を発して討伐(結果の記載なし)
太平興国2年閏7月「詔發潭州兵擊梅山洞賊」。詳細な経過・結果の記述は原文中に見当たらない。
大赦978年11月太平興國三年十一月丙申、天地を圜丘に祀り大赦。
太平興國三年十一月丙申、天地を圜丘に祀り大赦。原文「十一月丙申,祀天地于圜丘,大赦。御乾元殿受尊號」。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)
親征979年北漢(太原)
対象: 北漢(太原)
結果: 北漢主劉継元が降伏し北漢滅亡、宋の統一完成
太平興国4年4月「帝發鎮州」以降、太原に進軍し親征。「帝幸城西,督諸將發機石攻城」「帝乘輦督攻城」など自ら攻城を督戦し、5月に劉継元投降・北漢平定。
親征979年契丹(幽州・高梁河の戦い)
対象: 契丹(幽州・高梁河の戦い)
結果: 高梁河の戦いで大敗、班師
北漢平定直後の6月「帝復自將伐契丹」で幽州へ進軍。「帝率衆擊走之」「帝乘輦督攻城」と親征継続するも、7月「帝督諸軍及契丹大戰于高梁河,敗績」で大敗し撤退。
親征980年契丹(関南・莫州方面)
対象: 契丹(関南・莫州方面)
結果: 関南では勝利、莫州では敗北。大名府より帰還
太平興国5年11月「己酉,帝伐契丹。壬子,發京師」で再度出征を宣言、大名府に駐蹕。「關南與契丹戰,大破之」(勝利)「諸軍及契丹大戰于莫州,敗績」(敗北)はいずれも主語が「諸軍」であり帝自身の直接指揮の記述はなく、前2件に比べ親征としての確度は低い。12月に大名府より帰還。
反乱鎮圧980年徐州妖賊李緒の乱
首謀者: 李緒
結果: 李緒ら7名処刑
太平興国5年2月「斬徐州妖賊李緒等七人」。詳細な経過記述はなく結果のみ。
被反乱980年徐州妖賊李緒の乱
首謀者: 李緒
結果: 李緒ら7名処刑
太平興国5年2月「斬徐州妖賊李緒等七人」。
反乱鎮圧981年緜州妖賊王禧の乱
首謀者: 王禧
結果: 王禧ら10名処刑
太平興国6年9月「斬緜州妖賊王禧等十人」。詳細記述なし。
被反乱981年緜州妖賊王禧の乱
首謀者: 王禧
結果: 王禧ら10名処刑
太平興国6年9月「斬緜州妖賊王禧等十人」。
大赦981年11月太平興國六年十一月辛亥、天地を圜丘に祀り大赦。
太平興國六年十一月辛亥、天地を圜丘に祀り大赦。原文「辛亥,祀天地于圜丘,大赦。御乾元殿受尊號,內外文武加恩」。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)
改元984年11月太平興國九年(となるはずの年)十一月丁巳、天地を圜丘に祀り大赦の上、雍熙に改元。
太平興國九年(となるはずの年)十一月丁巳、天地を圜丘に祀り大赦の上、雍熙に改元。原文「丁巳,祀天地于圜丘,大赦,改元,中外文武官進秩有差」。太平興國元年の建元と同様、本紀の紀年は当該年の正月から遡って「雍熙元年」と表記されている。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)
大赦984年11月雍熙元年十一月丁巳、大赦の上、改元(eraChangeCountの2回目と同一事象)。
雍熙元年十一月丁巳、大赦の上、改元(eraChangeCountの2回目と同一事象)。原文「丁巳,祀天地于圜丘,大赦,改元,中外文武官進秩有差」。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)
立后984年12月雍熙元年十二月壬辰、德妃李氏を皇后に冊立(後の明德皇后)。
雍熙元年十二月壬辰、德妃李氏を皇后に冊立(後の明德皇后)。原文「壬辰,立德妃李氏為皇后」。なお即位直後の開寶九年十一月甲子には太祖時代からの故妃「尹氏」(淑德皇后)・「符氏」(懿德皇后)がそれぞれ追冊されているが、いずれも既に故人となった妃への追贈(追封)であり存命中の正式な皇后冊立ではないため、本カウントには含めない。
出典: 宋史 本紀四(太宗一)
改元988年1月端拱元年正月乙亥、藉田親耕の後、丹鳳樓にて大赦の上、端拱に改元。
端拱元年正月乙亥、藉田親耕の後、丹鳳樓にて大赦の上、端拱に改元。原文「端拱元年春正月己未朔…乙亥,親耕籍田。還御丹鳳樓,大赦,改元」。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
大赦988年1月端拱元年正月乙亥、藉田親耕の後、丹鳳樓にて大赦の上、改元(eraChangeCountの3回目と同一事象)。
端拱元年正月乙亥、藉田親耕の後、丹鳳樓にて大赦の上、改元(eraChangeCountの3回目と同一事象)。原文「乙亥,親耕籍田。還御丹鳳樓,大赦,改元」。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
大赦989年8月端拱二年八月丙辰、大赦(同夜、彗星が見えなくなったと付記)。
端拱二年八月丙辰、大赦(同夜、彗星が見えなくなったと付記)。原文「八月丙辰,大赦,是夕彗不見」。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
改元990年1月淳化元年正月戊寅朔、淳化に改元。
淳化元年正月戊寅朔、淳化に改元。原文「淳化元年春正月戊寅朔,減京畿繫囚流罪以下一等。改元,內外文武官並加勳階爵邑…」。この際の恩典は京畿限定の減刑であり「大赦」の語を伴わないため、amnestyCountには算入していない。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
反乱鎮圧991年夔州亂卒謝榮の乱(兵士反乱)
首謀者: 謝榮
結果: 謝榮ら100余名処刑
淳化2年2月「斬夔州亂卒謝榮等百餘人於市」。夔州の兵士反乱が鎮圧され100名超が処刑。
被反乱991年夔州亂卒謝榮の乱(兵士反乱)
首謀者: 謝榮
結果: 謝榮ら100余名処刑
淳化2年2月「斬夔州亂卒謝榮等百餘人於市」。
大赦993年1月淳化四年正月辛卯、天地を圜丘に祀り宣祖・太祖を配祀した上で大赦。
淳化四年正月辛卯、天地を圜丘に祀り宣祖・太祖を配祀した上で大赦。原文「辛卯,祀天地于圜丘,以宣祖、太祖配,大赦」。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
反乱鎮圧993年2月〜995年2月王小波・李順の乱
首謀者: 王小波→李順→張餘
結果: 王小波戦死、李順捕殺、残党張餘も討伐され蜀地方全域平定
淳化4年2月、永康軍青城県の王小波が蜂起し眉州彭山県令齊元振を殺害。同年12月に王小波戦死、李順が後継。淳化5年正月、李順が漢州・彭州・成都を陥落させ蜀地方に拡大。同年5月、西川行営が成都を奪回し李順を捕獲・処刑。残党張餘が嘉・戎・瀘・渝・涪・忠・萬・開の8州を攻略するも各地で撃破され、至道元年2月「嘉州函賊帥張餘首送西川行營,餘黨悉平」で完全鎮圧。太宗期最大の農民反乱。
被反乱993年2月〜995年2月王小波・李順の乱
首謀者: 王小波→李順→張餘
結果: 王小波戦死、李順捕殺、残党張餘も討伐され蜀地方全域平定
淳化4年2月に王小波が永康軍青城県で蜂起、蜀地方全域に拡大した太宗期最大の農民反乱。至道元年2月に完全鎮圧。詳細は鎮圧回数側の同名イベントに同じ。
反乱鎮圧994年貝州驍捷卒の乱(兵士反乱)
首謀者: 趙咸雍
結果: 転運使王嗣宗が鎮圧、趙咸雍処刑
淳化5年8月「貝州言驍捷卒劫庫兵為亂,推都虞候趙咸雍為帥,轉運使王嗣宗率屯兵擊敗之,擒咸雍,磔于市」。武庫を奪った兵士反乱を鎮圧。
被反乱994年貝州驍捷卒の乱(兵士反乱)
首謀者: 趙咸雍
結果: 転運使王嗣宗が鎮圧、趙咸雍処刑
淳化5年8月、武庫を奪った兵士反乱。
大赦994年9月淳化五年九月壬申、襄王元侃を開封尹とし壽王に改封したのに伴い大赦。
淳化五年九月壬申、襄王元侃を開封尹とし壽王に改封したのに伴い大赦。原文「壬申,以襄王元侃為開封尹,改封壽王。大赦,除十惡、故謀劫鬬殺、官吏犯正贓外,諸官先犯贓罪配隸禁錮者放還」。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
改元995年1月至道元年正月戊申朔、至道に改元。
至道元年正月戊申朔、至道に改元。原文「至道元年正月戊申朔,改元,赦京畿繫囚,流罪以下遞降一等,杖罪釋之」。この際の恩典も京畿限定であり全国規模の「大赦」ではないため、amnestyCountには算入していない。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
大赦995年8月至道元年八月壬辰、壽王元侃を皇太子に立てる(改名恒)のに伴い大赦。
至道元年八月壬辰、壽王元侃を皇太子に立てる(改名恒)のに伴い大赦。原文「壬辰,詔立壽王元侃為皇太子,改名恒,兼判開封府。大赦,文武常參官子為父後見任官者,賜勳一轉」。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)
反乱鎮圧996年許州羣盜の乱
首謀者: 宋斌
結果: 巡検李昌習は戦死するも都巡検使王正が撃破、賊首宋斌ら処刑
至道2年11月「許州羣盜劫郾城縣居民,巡檢李昌習鬬死,都巡檢使王正襲擊之,獲賊首宋斌及餘黨,皆斬于市」。
被反乱996年許州羣盜の乱
首謀者: 宋斌
結果: 巡検李昌習は戦死するも都巡検使王正が撃破、賊首宋斌ら処刑
至道2年11月、許州の群盗が郾城県の住民を襲撃した事件。
大赦996年1月至道二年正月辛亥、天地を圜丘に祀り大赦。
至道二年正月辛亥、天地を圜丘に祀り大赦。原文「二年春正月辛亥,祀天地于圜丘,大赦,中外文武加恩」。
出典: 宋史 本紀五(太宗二)