
後周の禁軍宮中や都を守る、皇帝直属の軍の長から陳橋で推されて宋を建て、南方の諸国を次々に下した皇帝である。
太祖の人物データ
- 生年
- 927年
- 在位
- 960年2月4日〜976年11月14日
- 没年
- 976年11月14日50歳(数え年)長生き順同率83位/266人
- 死因
- 諸説あり死因について史書の記述が食い違い、一つに絞れない。同じ死因17人/365人
- 呼び名
- 姓趙諱匡胤呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 本紀一 太祖一
- 死因
- 宋史 本紀三(太祖三)/続資治通鑑長編 巻十七(湘山野録所引)
- 即位経路
- 宋史 本紀一(太祖一)/涑水記聞
生涯
どんな皇帝か
宋史の賛は、藩鎮地方で兵や財を握った軍の長官とその勢力から兵権軍隊を指揮する権限を解いたことを治績に挙げる。
即位まで
927年、洛陽の夾馬営で趙弘殷の次男として生まれた。成長すると騎射に抜きんで、荒馬を手綱もくつわも付けずに試して門の梁に額を打って落ちたが、また馬を追って飛び乗り、少しも傷が無かった。後漢の初めに放浪し、郭威の募兵に応じてその帳下将軍の陣のもとで直接仕える兵や部下に入った。956年、淮南遠征で南唐の皇甫暉を自ら斬りつけて捕らえた。夜半に城下へ来た父にも、門の開閉は王事だとして朝まで門を開けなかった。世宗は病んで都に戻ると、張永徳に代えて趙匡胤を殿前都点検皇帝直属の近衛軍の総司令官とした。960年、出陣して陳橋駅に宿ると、明け方に諸将が刃を抜いて庭に並び、ある者が黄衣を着せかけると、万歳を唱えた。趙匡胤は、太后と主上を驚かすな、府庫や民家を略奪するなと命じて都に入った。都で范質らの前でむせび泣いたが、列校軍の将校たちが剣に手をかけると范質らは拝し、崇元殿で即位した。
治世と最期
宴で石守信らに、配下がお前たちに黄袍皇帝が着る黄色の上着を着せれば断れまいと説くと、翌日、石守信らは病を理由に兵権を返上した。963年に荊南と湖南、965年に後蜀、971年に南漢を下した。975年、南唐攻めの最中に徐鉉が猶予を乞うと、寝台のそばで他人がいびきをかくのを許せようかと、剣に手をかけて退けた。まもなく南唐も下した。
普段着は洗って着、孟昶の宝石で飾った便器を砕いて、これで滅びずにいられようかと言った。晩年は読書を好み、人命は至って重いとして、諸州の死刑を刑部裁判や刑罰を受け持つ役所に再審査させた。
976年、夜に万歳殿で崩じた。位は弟の太宗が継いだ。
史料について
宋史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は死の前に病を書かず、死因も記さない。続資治通鑑長編は、その前に病んでいたとし、夜に弟の晋王を召して後事を託したとする。長編は、燭の影の中で晋王が時に席を離れ、太祖が柱斧手に持つ、柄のついた飾りの小さな斧で地を突いたと書き、出どころの湘山野録の話は正史国が正式なものと認めた、王朝ごとの歴史書・実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録には無いが、でたらめではないはずだとして手を入れて載せたと注記する。継いだわけを、宋史は杜太后の遺命亡くなる人が生前に残した言いつけとし、長編は皇后が皇子徳芳を呼ばせたが宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男は晋王を呼んだとする。宋史の太宗本紀の賛は、即位の年のうちの改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることなどを挙げ、後世の議論は免れないとする。
太祖とつながる皇帝

勢力図
宋・
960–976年の地図に、太祖が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱6・親征3・皇后2・改元3・大赦8
- 改元960年2月4日元号を「建隆」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。960年2月4日
- 反乱960年4月〜960年6月李筠の乱
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。960年5月〜960年7月李筠(昭義軍節度使、潞州・
澤州) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。960年7月19日昭義軍節度使李筠の叛乱を潞州で平定した後、大赦(減死罪、附潞三十里の今年租免除、陣歿将校子孫の録用、丁夫の給復三年)を布告。
- 皇后960年9月10日琅琊郡夫人王氏(後の孝明皇后)を皇后に冊立。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。960年10月〜960年12月李重進(淮南節度使、揚州)
- 反乱960年10月〜960年11月李重進の乱
- 改元963年元号を「乾徳」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。963年
- 反乱964年汪端の乱
- 反乱964年呂翰の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。965年後蜀平定・
孟昶入朝を受けて大赦(減死罪一等)を布告。 - 反乱965年両川群盗の蜂起
- 改元968年元号を「開宝」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。968年
- 皇后968年左衛上将軍宋偓の娘・
宋氏(後の孝章皇后、当時17歳)を宮中に納れて皇后に冊立。 - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。969年北漢(太原)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。971年南郊祭祀にあわせ大赦を布告(十悪・
故劫殺・ 官吏受贓の罪は原さず)。 - 反乱972年邕・容州獠人の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。976年2月7日明徳門にて南唐後主李煜の降伏を受けた後に大赦(減死罪一等)を布告。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。976年5月5日西京洛陽での圜丘祭祀の後、五鳳樓に還御して大赦を布告(十悪・
故殺の罪は原さず、流配・ 逋欠は放免)。
北宋の歴代皇帝
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