
遼と澶淵の盟を結んだのち、天書天から降ったとされた文書が降ったとして泰山で封禅山の上で天と地をまつり、功を告げる儀式を行った北宋の皇帝である。
真宗の人物データ
- 生年
- 968年12月23日
- 在位
- 997年5月8日〜1022年3月23日
- 没年
- 1022年3月23日55歳(数え年)長生き順同率56位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓趙諱恒呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 太宗本紀二(巻五)・
本紀六 真宗一(巻六)/本紀八 真宗三(巻八) - 死因
- 宋史 本紀八(真宗三)
- 即位経路
- 宋史 本紀六(真宗一)
生涯
即位まで
治世と最期
1004年に遼軍が南下すると、金陵や成都への行幸を勧める声を退けた寇準に従って親征君主が自ら軍を率いて戦いに出ることし、1005年の初めに澶州に至った。北へ向かうひどく寒い日、貂の帽子と毛皮を差し出されると、臣下が寒さに苦しんでいるのにと言って退けた。戦いを嫌う真宗は和議を望み、使者の曹利用に、毎年贈る額は百万までなら許すと言ったが、寇準は三十万を超えれば斬ると告げ、三十万で盟約が成った。
のちに王欽若が、澶淵の盟は城下の盟敵に城の下まで攻め込まれて結ぶ、屈辱的な講和で、真宗は寇準の博打の賭け金にされたと説き、真宗の寇準への信頼は衰えた。封禅には天瑞が要るが人の手で作ってもよいという王欽若の説に、真宗は同意した。なお宰相の王旦の異議を気にかけて酒樽を与えると、中は真珠で、以後王旦は異議を唱えなかった。1008年、左承天門に掛かった黄帛を群臣と開いて天書と称し、大中祥符と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることして、泰山で天を祀った。
晩年は病で言葉が不自由になり、政事の多くは皇后が決めた。寇準は罷免されて遠くへ降格され、のちに真宗は、なぜずっと寇準が見えないのかと左右に問うた。1022年に病が重くなり、皇后を皇太后として当面は軍国の事を処分させる遺詔皇帝が死に際に残した命令を残して没した。
史料について
親征を請うたのを、宋史の畢士安伝は畢士安と寇準の合議とする。毎年贈る額を、宋史の本紀は書かず、遼史は銀10万両・絹20万匹とする。賭け金の言葉を、続資治通鑑長編は名を挙げない讒言者のものとする。寇準の降格を、寇準伝は真宗が初め知らなかったとし、長編は本意ではなかったとし、丁謂伝は真宗の考えた行き先を丁謂が道州に変えたとする。本紀の賛は、澶淵の盟ののちの封禅や天書を、君臣が狂を病んだようだと評する。
真宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
997–1022年の地図に、真宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱4・親征2・皇后2・改元5・大赦15
- 皇后997年6月『立秦國夫人郭氏為皇后』。
- 反乱997年10月2日劉旴の乱(西川広武軍卒の反乱)
- 改元998年元号を「咸平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。999年
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1000年契丹(遼)
- 反乱1000年王均の乱(益州軍変)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1001年圜丘にて天地を祀り『大赦』。
- 改元1004年元号を「景徳」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1004年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1005年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1005年圜丘にて天地を祀り『大赦』。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1005年契丹(遼)
- 反乱1007年陳進の乱(宜州兵変)
- 改元1008年元号を「大中祥符」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1008年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1008年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1011年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1012年
- 皇后1013年『立德妃劉氏為皇后』。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1014年亳州太清宮への謁詣(恭謝天地)に伴い『大赦』。
- 改元1017年元号を「天禧」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1017年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1018年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1019年『大赦』(普度道釋童行等を伴う)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1019年圜丘にて天地を祀り『大赦』。
- 反乱1020年朱能の乱(永興軍の反乱)
- 改元1022年2月元号を「乾興」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1022年3月
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