劉豫の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 1130年10月12日〜1138年1月1日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1137年11月18日まで
- 没年
- 1146年年齢不詳
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓劉諱豫字彦游呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 宋史 列傳二百三十四 叛臣上(巻475、張邦昌劉豫合傳)/金史 列傳(巻77、劉豫伝)
- 死因
- 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・
劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)・ 熙宗本紀 - 即位経路
- 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・
劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)
生涯
即位まで
治世と最期
1132年に汴へ都を移して宋の太廟皇帝が祖先をまつるみたまやに自分の祖先を祀り、大赦を乱発せず宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男を用いないと民に約束した。遷都後は淘沙官墓をあばいて財宝を探させた役人が置かれて両京の墓がほとんど掘り尽くされ、税も厳しかった。
1134年には天下を一つにすると掲げて劉麟に南宋を攻めさせ、金の軍も誘った。1136年には民兵30万で三方から攻めたが敗れて人心を失い、金は廃位を考え始めた。劉麟を太子にと金に請うたが、許されなかった。
1138年の初め、金は先に劉麟を誘い出して捕らえ、兀朮が三騎で東華門に突入して劉豫の手を取り、金明池に閉じ込めた。劉豫は廃されて蜀王とされた。撻辣は、宋の少帝が都を出たときは民が泣いたが、お前が廃されても憐れむ者は一人もいないと言った。のちに臨潢に移されて曹王に封じられ、その地で没した。
史料について
太子の願いに、建炎以来繫年要録と宋史は、金が河南の民に問うて決めると答えたとし、金史の劉麟伝は、宋を討って功があれば立てると答えたとする。廃位の理由を、宋史の劉豫伝は統治の失敗と兵の多さへの金の恐れとし、金史の王倫伝は金が無能を嫌ったとし、宋史の岳飛伝と張浚伝は蝋書蝋で固めて隠した秘密の手紙による離間とする。没年を宋史は1143年とし、金史と続資治通鑑は1146年とする。金史の賛は、劉豫が時に乗じて利をむさぼったとする。
劉豫とつながる皇帝

勢力図
宋・
1130–1136年の地図に、劉豫が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・遷都1・皇后1・改元1・大赦1
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1130年10月12日
- 皇后1130年11月即位の翌月(十月)、母の翟氏を皇太后に、妾の銭氏を皇后に冊立。
- 改元1130年12月元号を「阜昌」とする
- 遷都1132年大名府 → 汴(開封/汴京)
- 反乱1138年1月1日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1137年11月18日)金軍による劉豫拘束・
廃位クーデター
年表
遼・
斉・