劉豫
斉・宋金代(宋・遼・西夏・金)|在位 1130–1138年
- 諱(本名)
- 劉豫
- 在位
- 1130–1138年
- 在位期間
- 7年83日365名中157位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
劉豫自ら子の劉麟に重宝を持たせ金の左監軍撻辣に僭号を求め賄賂を贈り、金がこれを許可し正式な冊命を経て即位した。本人が積極的に働きかけた点が張邦昌と異なるが、正当性の根拠はあくまで金による冊封にあり金の従属国的な「子皇帝」と位置づけられているため擁立と判定。
出典: 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)
死因の経緯
金により廃位後、蜀王・曹王に封じられ軟禁的に余生を送った。宋史は1143年没、金史熙宗本紀は1146年没とし没年に齟齬があるが、両書とも「卒」「薨」という通常の死亡表現を用いており異常死を示す記述はない。
出典: 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)・熙宗本紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位から建元まで約2ヶ月のタイムラグがあるが、皇帝を称した本人による最初かつ唯一の建元として1回のみ計上。国号「大斉」の制定は改元ではないため含めていない。
大赦回数
「赦境内」の一件のみを全国規模の恩赦として計上。「大赦」「大赦天下」の定型句ではないため中程度の確信度とした。「曲赦汴人」は地域限定と明記されているため除外。
立后回数
劉豫の在位中、皇后冊立は銭氏の1回のみ確認。
皇太子廃立回数
劉豫は子の劉麟を皇太子に立てようと二度金朝廷に願い出た(金史劉豫伝「豫請立麟為太子、朝廷不許」/宋史「豫覚、請立麟為太子、以覘其意」)が、いずれも宗主国たる金の許可が下りず、劉麟が正式に法定の皇太子として冊立された記録は確認できない。立太子自体が成立していないため、廃立(廃太子)の事実も存在しない。
親征回数
原文(宋史巻475叛臣伝・金史巻77劉豫伝)を通読したが、劉豫自身が軍を率いて出征したことを示す記述は一切ない。対南宋への軍事行動(紹興元年の入寇、四年の三道入寇、六年の淮陽攻防等)はいずれも子の劉麟・李成・孔彦舟・酈瓊・郭振ら将軍に委任されており、「豫遣子麟出戰」「豫遣李成、孔彦舟、關師古為將」のように必ず「遣」(派遣)の形で記される。紹興四年の金軍南征の際に「遂決意親征」とあるのは南宋高宗(帝)の親征であり劉豫本人のことではない。祭祀行事として「親巡郊社」(郊社を親しく巡る)の記述はあるが、これは即位儀礼であり軍事親征ではないため計上しない。
反乱鎮圧回数
劉豫在位中(1130-1138)の軍事衝突は、南宋(対等な独立政権として扱う)による斉領土への反攻・逆に斉軍による南宋領への侵攻(紹興元年入寇・四年三道入寇等)が中心であり、これらは対外戦争として本ルールにより鎮圧・被反乱いずれにも計上しない(親征回数の判定のみ対象、結果は0件)。原文中には斉の統治領域内での農民蜂起・地方反乱を劉豫自身または将軍が独自に鎮圧したという記事は見当たらない(洪皓・尹惇・王寵・李喆・姚邦基・趙俊・劉長孺・閻琦・邢希載らの記事はいずれも個人の非協力・処罰であり、兵力を伴う蜂起ではないため対象外)。
被反乱回数
金は本ブロックの独立政権リスト(宋・遼・西夏・金・西遼)に含まれるが、斉(劉豫政権)自体はこのリストに含まれない金の完全な傀儡・従属国であり、対等勢力間の戦争ルールをそのまま適用すべきか解釈の余地がある。廃位の実態が使者派遣による正式な冊命剥奪ではなく武力による急襲・拘束であったことを重視し、朝廷内部の実権者による兵力を伴うクーデターの例外パターンとして被反乱1件を計上した。この判断は境界事例であり、後続ブロックまたはユーザー確認で再検討の余地があることをnoteに明記する。
遷都回数
在位中に遷都1回(1132年 大名府→汴(開封/汴京))。
即位時年齢・没年齢
即位時・崩御時の年齢は原文に明記なし。ただし宋史列伝に「豫僭号凡八年、廃時年六十五」とあり、金による廃位時(阜昌8年11月丙午=1138年)の年齢が65歳と明記されている(このデータはaccessionAge/deathAgeのいずれにも該当しないためnullのまま、noteに記録)。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦1130年9月9日皇帝即位(大斉皇帝、天会八年九月戊申)と同日に「赦境内」(国内全域への恩赦)を布告。
皇帝即位(大斉皇帝、天会八年九月戊申)と同日に「赦境内」(国内全域への恩赦)を布告。「大赦」の語そのものではないが、地域限定を示す語(曲赦等)を伴わず領域全体を対象とする恩赦であるため計上。なお建炎四年(1134年)四月、遷都汴京の際には「曲赦汴人」(開封の民に限定した部分恩赦)を行い、以後「自今不肆赦」(今後は恩赦を濫発しない)と宣言しており、これは地域限定のため計上せず。
出典: 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)
立后1130年10月即位の翌月(十月)、母の翟氏を皇太后に、妾の銭氏を皇后に冊立。
即位の翌月(十月)、母の翟氏を皇太后に、妾の銭氏を皇后に冊立。銭氏は北宋宣和年間の宮中出身者で宮中の礼儀作法に通じていたため、それに倣うべく皇后とした。在位中の廃后・再冊立の記録は確認できず。
出典: 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)
改元1130年11月皇帝即位(1130年9月9日)当初は独自の年号を建てず金の「天会」年号をそのまま奉じていたが、即位の約2ヶ月後の十一月、翌年(1131年)を「阜昌」元年とすることを布告(実質的な建元)。
皇帝即位(1130年9月9日)当初は独自の年号を建てず金の「天会」年号をそのまま奉じていたが、即位の約2ヶ月後の十一月、翌年(1131年)を「阜昌」元年とすることを布告(実質的な建元)。これが劉豫の在位期間中で唯一確認できる改元(建元)であり、以後阜昌年号は廃位(1138年)まで継続使用され、他の改元の記録はない。
出典: 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)
遷都1132年4月大名府 → 汴(開封/汴京)
『宋史』巻二百三十四 列伝第二百三十四 叛臣上(劉豫伝): 建炎四年七月丁卯、金が劉豫を皇帝に冊立し「都大名府」(大名府を都とする)とあり、これが大斉建国当初の定都(建国時の最初の定都のため対象外)。その後、紹興二年(阜昌三年)四月丙寅に『豫遷都汴(劉豫、都を汴=開封に遷す)。因奉祖考于宋太廟…』と明記されており、大名府から汴(旧北宋首都・開封)への正式な遷都が確認できる。以後、紹興七年(1137)十一月に金により廃位されるまで汴が首都のまま。(出典: 宋史 巻234 列伝234 叛臣上(張邦昌 劉豫伝))
被反乱1138年1月1日金軍による劉豫拘束・廃位クーデター
首謀者: 完顔宗弼(兀朮)・撻懶(撻辣)
結果: 劉豫は宮中で兀朮ら騎兵に急襲・拘束され金明池に幽閉、翌日百官の前で罪状を宣告され蜀王に降封(後に曹王へ)。子の劉麟も事前に城外へ誘い出され捕縛された。斉国は消滅し行台尚書省が置かれた。
斉は金が冊立した完全な傀儡("子皇帝")政権であり独自の軍事的自立性を持たず、廃位も金の一方的な軍事行動(兀朮が僅か3騎で東華門に突入し豫を拘束、鉄騎数千で宮門を包囲)で強行された。対等勢力間の対外戦争ではなく、事実上斉の実権を握る金による内部的な武力クーデター・弑逆廃立パターン(例外4:朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当すると判断し、被反乱に計上した(鎮圧側には計上しない)。西遼屈出律の纂奪と同様の"名目上は外部だが実質的に体制内権力者"という境界事例。