
クビライ(忽必烈)はトルイの四男で、1260年に即位し、1271年に国号を大元と定め、のちに宋を降した皇帝である。
日本とのつながり
1274年
元寇(文永の役)
元と高麗の兵1万5千人が900艘で日本へ攻め込んだ。日本の軍を破ったが、軍が乱れ矢も尽き、周りを掠めて引き揚げた。
原文
- 十一年三月,命凤州经略使忻都、高丽军民总管洪茶丘,以千料舟、拔都鲁轻疾舟、汲水小舟各三百,共九百艘,载士卒一万五千,期以七月征日本。冬十月,入其国,败之。而官军不整,又矢尽,惟虏掠四境而归。― 元史(列伝第九十五 外夷一(日本の条))
1281年
元寇(弘安の役)
10万人で再び日本へ攻めたが、8月1日に風で船が壊れた。元史は、10万の兵のうち帰れたのは3人だけだったと書く。
原文
- 十八年正月,命日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十万人征日本。― 元史(列伝第九十五 外夷一(日本の条))
- 八月一日,风破舟。― 元史(列伝第九十五 外夷一(日本の条))
- 十万之众,得还者三人耳。― 元史(列伝第九十五 外夷一(日本の条))
世祖の人物データ
- 生年
- 1215年9月23日
- 在位
- 1260年5月5日〜1294年2月18日
- 没年
- 1294年2月18日80歳(数え年)長生き順6位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- モンケ(蒙哥)世祖はモンケ(蒙哥)の弟
- 次代
- 成宗元成宗は世祖の孫
- 呼び名
- 漢字音写忽必烈呼び名の見方
出典
- 在位
- 元史 世祖紀一/元史 世祖紀十四
- 死因
- 元史 巻十七(世祖十四)
- 即位経路
- 元史 巻四(世祖一)
生涯
どんな皇帝か
元史は、度量が広く、人をよく見抜いて適所に用い、儒学を信じて用いて一代の制度を大きく整えたと評する。新元史は治世の盛んさを唐の貞観に近いとしながら、日本で十万の兵を失ってもなお再び攻めようとし、阿合馬が失脚したあとも桑哥を用いたことを挙げ、過ちを改めるのを惜しんだと嘆く。
即位まで
母は荘聖太后である。1251年に兄の憲宗(モンケ)が即位すると、同じ母から生まれた弟の中で最も年長で賢かったクビライに、漠南の漢地の政治と軍事を任せた。1259年、軍を率いて長江の北岸に着いたクビライのもとに憲宗の死が伝えられ、その冬、先代の臣たちは弟のアリクブケを立てようと謀った。1260年、開平に集まった王族と大臣に即位を勧められ、三度辞退したのち位に就いた。即位の詔では、太祖の嫡孫本家を継ぐ立場にある孫で憲宗の同母弟のうち、賢さと年長の両方を備えるのは自分一人だと述べた。
治世と最期
即位するとすぐ、弟のアリクブケと位を争った。アリクブケ側の将は1260年に姑臧で破られて斬られ、1261年にはクビライが自ら諸軍を率いてアリクブケを北へ追った。1264年、アリクブケは王族や謀臣とともにクビライのもとへやって来た。兄弟のどちらが位を継ぐべきかと問われたアリクブケは、昔は私が正しく、今日はハーンが正しいと答えた。クビライは王族の罪は問わず、謀臣の不魯花らを処刑し、年号を至元と改めた。
南では宋を降し、日本へは2度出兵した。1274年、忻都らの一万五千人と戦船九百艘に日本を攻めさせた。1276年に宋の皇太后と幼い皇帝、大臣たちが降り、1279年には崖山で宋の広王昺が海に身を投げて死んだ。1281年に送った軍は船が風と波に襲われて大敗し、高麗に戻れたのは十のうち一、二だった。
晩年まで、叛いた乃顔や辺境を犯した海都を討つため、自ら出陣した。1287年には叛いた乃顔を討つため自ら出陣し、乃顔は捕らえられて誅された。1289年にも、海都の兵が辺境を犯すと自ら出陣した。1294年に病が重くなり、紫檀殿で亡くなった。
史料について
アリクブケとの問答は新元史のアリクブケ伝にあり、元史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分には無い。1274年の日本への出兵について、元史の本紀は出兵の命令だけを書き、戦いの様子を書かない。乃顔を捕らえた経緯を元史の本紀は書かず、玉昔帖木児の伝は、玉昔帖木児が三戦三勝して捕らえて献じたとする。乃顔が誅された時を、新元史は1287年のうちとし、元史の本紀は1288年の条に記す。
世祖とつながる皇帝

勢力図
宋・
1260–1279年の地図に、世祖が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱20・親征3・皇后2・改元2・大赦7
- 反乱1260年5月〜1264年8月阿里不哥の反乱
- 改元1260年6月29日元号を「中統」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1260年7月7日
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1260年8月〜1261年12月29日阿里不哥(アリクブケ、実弟・
対立可汗) - 反乱1262年李璮の反乱
- 改元1264年元号を「至元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1264年
- 反乱1271–1273年高麗三別抄の乱
- 皇后1273年皇后弘吉剌氏(察必)の正式冊立。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1276年
- 反乱1277–1282年昔里吉の反乱
- 反乱1278年張鎮孫の反乱(広州)
- 反乱1280年杜可用の反乱(南康)
- 反乱1280–1283年陳吊眼・
陳桂龍の反乱(福建畲族) - 反乱1282–1283年向世雄の反乱(亦奚不薛北部)
- 反乱1282–1285年雲南烏蒙の反乱
- 皇后1283年皇后を立てる
- 反乱1283–1284年黄華の反乱(建寧・
頭陀軍) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1284年
- 反乱1284年黄大成の反乱(邕州・
賓州) - 反乱1284年華帖等土老蛮の反乱(雲南)
- 反乱1286–1288年董賢挙の反乱(江西)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1287年乃顔(ナヤン、東方三王家の一・
諸王) - 反乱1287–1290年乃顔・
哈丹の反乱(東方三王家) - 反乱1287–1289年西北諸王の相次ぐ離反(海都方への同調)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1288年
- 反乱1288年黄徳清・
蔡猛の反乱(柳州・ 潮州) - 反乱1288–1290年掌吉の反乱
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1289年海都(カイドゥ、オゴデイ家当主)
- 反乱1289–1291年鍾明亮の反乱(広東)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1290年
- 反乱1290年呂重二・楊元六の反乱(婺州・処州)
- 反乱1290年陳七師の反乱(泉州南安)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1293年
元の歴代皇帝
歴代15人の一覧- 第1代チンギス・カン皇帝を名乗っていない1206–1227年
- 第2代オゴデイ皇帝を名乗っていない1229–1241年
- 第3代グユク皇帝を名乗っていない1246–1248年
- 第4代モンケ皇帝を名乗っていない1251–1259年
- 第5代世祖クビライ1260–1294年病死
- 第6代成宗1294–1307年病死
- 第7代武宗1307–1311年病死
- 第8代仁宗1311–1320年病死
- 第9代英宗1320–1323年暗殺
- 第10代泰定帝1323–1328年病死
- 第11代天順帝1328年不詳
- 第12・14代文宗1328–1329年1329–1332年(復位)病死
- 第13代明宗1329年暗殺
- 第15代寧宗1332年病死
- 第16代恵宗1333–1370年病死
年表
元・
元が