張邦昌
楚・宋金代(宋・遼・西夏・金)|在位 1127年
- 諱(本名)
- 張邦昌
- 在位
- 1127年
- 在位期間
- 33日365名中355位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 自尽
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
金軍占領下、留守孫傅らが趙氏擁立を拒否したため金の強要により百官が推挙。本人は「始欲引決」(当初は自殺しようとした)ほど消極的で、金軍が冊宝を届けてようやく即位した。金の主導による擁立。
出典: 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・張邦昌伝)
死因の経緯
南宋高宗が僭位中の罪状に加え、宮中の華国靖恭夫人李氏との密通発覚を理由に「詔數邦昌罪,賜死潭州」と命じた。「賜死」は本人による自裁の形式を取る強制死であり、臣下が自裁を強要された場合は実行形式を優先し自尽に分類する既定方針に従う。
出典: 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・張邦昌伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
張邦昌は靖康2年3月7日に金の擁立により「大楚」皇帝として即位(僭号)したが、原文(宋史巻475・叛臣上・張邦昌伝)には改元・建元を示す記述が一切なく、「見百官称『予』、手詔曰『手書』」など、皇帝としての権能行使や正式な即位儀礼を意図的に避けた記述がある。同じ巻に併記される劉豫(大斉皇帝)については「十一月、改明年元阜昌」と明確に改元記事があるのに対し、張邦昌にはこれに相当する記事が全く存在しないことから、張邦昌は在位約33日間、独自の元号を建てなかった(改元0回)と判断した。国号の「大楚」への変更は改元ではないため、eraChangeCountには含めていない。
大赦回数
張邦昌在位中(1127年3月7日〜4月11日、約33日間)に2件の恩赦関連記事があるが、うち1件(即位当初の「先赦京城」)は道路不通のため京城に限定した地域限定の恩赦であり、収録基準(全国規模の大赦のみ)から除外した。金軍撤退後の「赦天下」は「大赦天下」の語そのものではないが「天下」全体を対象とする恩赦である旨が明記されており、全国規模の恩赦として1件カウントした。日付は原文に明記されておらず、金軍撤退(靖康2年3月末頃)後、退位(靖康2年4月11日)以前の間と推定される。
立后回数
張邦昌自身が皇后を正式冊立した記録はない。在位中に「元祐皇后」を「宋太后」に冊立した記事はあるが、これは張邦昌自身の皇后ではなく、旧哲宗廃后(孟氏)を太后として立てたものであり、立后(皇后冊立)には該当しない。
皇太子廃立回数
張邦昌の在位期間(約33日間)中、皇太子等の法定推定継承者が立てられた事実・廃された事実は原文に見当たらない。該当なし。
親征回数
在位約33日で終始消極的姿勢(「始欲引決」「不御正殿、不受常朝」等)。原文に自ら軍を率いて出征した記述なし。
反乱鎮圧回数
実行主体は范瓊(武将)だが張邦昌の政権下で行われた鎮圧のため計上。張邦昌自身が指揮した記述はない。
被反乱回数
在位約33日の短期間に発生した唯一の武力蜂起。他に反乱の記述は原文キャッシュ内に見当たらない。
遷都回数
宋史張邦昌伝を通読。金陵遷都を計画したが実行されず、在位約33日を通じて開封に留まった。
即位時年齢・没年齢
既存ノート・原文キャッシュ(宋史巻四百七十五・叛臣伝)いずれにも生年・即位時年齢・没年齢の直接記載なし。調査済みだが不明。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧1127年4月呉革の挙兵(異姓に屈するを恥じた蜂起)
首謀者: 吳革
結果: suppressed
外統制官宣贊舍人の呉革が「恥屈節異姓」を掲げ内親事官数百人を率い金水門外で挙兵を計画。范瓊が偽って合謀を装い、兵仗を捨てさせた後に襲撃し百余人を殺害、呉革とその子を含む捕らえた者らも誅殺。楚政権(張邦昌)側の武力による鎮圧。
被反乱1127年4月呉革の挙兵(異姓に屈するを恥じた蜂起)
首謀者: 吳革
結果: suppressed
張邦昌の傀儡政権(大楚)の正統性を否定する国内蜂起であり、政権側(范瓊)により武力鎮圧された。金軍との対外戦争ではなく国内の反乱として計上。
大赦日付不詳「金師既還、邦昌降手書赦天下」。
「金師既還、邦昌降手書赦天下」。金軍が汴京から撤退した後、張邦昌が手書(皇帝の詔勅に相当する語を避けた文書)を降して天下に恩赦を布告した。国号は「大楚」(僭号)だが、退位直前の政治的配慮(呂好問らの進言を容れ、後に康王への政権返還・元祐皇后の垂簾聴政へと繋がる一連の動きの中での措置)とみられる。なお即位当初にも「以道阻先赦京城」とあるが、これは道路不通のため京城のみに限定した恩赦であり、全国規模ではないため本カウントには含めていない。
出典: 宋史 巻475 列伝234(叛臣上・張邦昌伝)