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楚・宋金代(遼・西夏・金)第1代

張邦昌

在位 1127年(33日)1127年4月20日 〜 1127年5月23日

日本は平安時代

靖康の変のさなかに金に立てられて大楚の皇帝となり、金軍が去ると位を返したが、のちに高宗に死を賜った人物である。

張邦昌の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 1127年4月20日〜1127年5月23日
33日長い順同率353位/365人47歳で即位(数え年)
没年
1127年11月1日47歳(数え年)長生き順同率92位/266人
死因
同じ死因15人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓張諱邦昌字子能呼び名の見方

出典

在位
宋史 卷475 列傳234 叛臣上(張邦昌傳)
死因
宋史 巻475 列伝234(叛臣上・張邦昌伝)
即位経路
宋史 巻475 列伝234(叛臣上・張邦昌伝)

生涯

即位まで

金軍が開封に迫ると、康王とともに金の陣へ人質に出され、のちに進んだ。1127年、金が異姓で君主に堪える者を推すよう命じると、金の意向を問われた宋斉愈が張邦昌の名を挙げ、議が定まった。の秦檜は署名せず、国を蝕んだのは張邦昌だと述べて趙氏のを立てるよう求め、金に捕らえられた。張邦昌は初め自決しようとしたが、いま一城を塗炭に陥れるのかと言われ、金の冊宝を受けて即位し、国号を大楚とした。

史料について

金の陣で責められたとき、宋史の高宗紀は恐れて泣いたと書き、張邦昌伝は朝廷の意ではないと答えたとする。

治世と最期

に拝礼しないよう伝えさせ、王時雍らがかまわず拝礼しても自らは東向きに立ったままで、百官に予と称した。

金軍が引き揚げると、呂好問と馬伸の勧めに従って康王を迎えることにした。康王への書では、金人の推戴にしぶしぶ従ったのは国難を緩める一時の方便だったと述べた。大宋受命宝を康王に献じ、元祐皇后にを請うて、自らは太宰として退いた。南京に着くと地に伏して慟哭し、死を請うたが、康王は慰めた。即位した高宗は初め張邦昌を・同安とし、機を知り変に通じたと称える詔を出して、に進めた。

その後は李綱の激しい弾劾を受け、死を免じられて潭州に置かれた。宮中で赭色の衣を着せられ、養女を進められた件が発覚すると、1127年のうちに潭州で死を賜り、平楚楼で首をくくった。

史料について

死を賜った経緯に、建炎以来繫年要録と続資治通鑑は、金が廃位を口実に再び侵入したことも挙げ、詔を読んだ張邦昌はためらったが迫られて首をくくったと記す。金史の張邦昌伝は、高宗が隠事を罪として殺したとだけ書き、これを聞いた金の太宗が怒って宋を伐たせたと記す。金史の賛は、本心ではなかったにせよ死をもって辞退していれば誰も非難しなかったと評する。

張邦昌とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱1・大赦1
  1. 1127年
  2. 反乱1127年4月呉革の挙兵(異姓に屈するを恥じた蜂起)

年表

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楚・宋金代が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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